波濤をこえて 

昨夜は(も)オリンピック観戦中に、すっかり寝込んでしまって、女子レスリングの途中経過を見損ねましたが、さあ決勝戦!というところでタエさんに起こしてもらい、なんとか金メダルをとった二人の乙女の雄姿をみることができました。

決勝戦だというのに、意外と落ち着いて見ていることができたのは、二人ともベテランだからでしょうか。ハラハラする場面もないではありませんでしたが、やはりその道で経験を積んでいる人というものは、周囲に安心感を与えるもの。それにしても、今回の日本人選手団というのは、こうしたベテランもあり、若手の伸び盛りもありで、その層の厚さを感じさせます。

強いていえば、彗星のごとく現れたといえるような、新進気鋭の新人さんというのがあまりいないかな。前回の北京のほうがそういう人がむしろ多かったような気がします。今回のオリンピックは、その新芽が育って、ようやく収穫できるようになった大会といえるのかもしれません。

これで、金メダルも4つになって、ぐっと形になってきました。あとは、女子サッカーとバレーボール、そしてレスリングでビシッと決めてもらいたいもの。その試合はいつ……? 今夜と明日の朝方ですか。また寝れんわい……

さて、オリンピックが終わるまでは、このブログもイギリス特集ということで頑張りたいと思います。

今日の話題は何にしようかな~と考えていましたが、やはりイギリスといえば、前から取り上げようと思っていた、伊豆とも縁の深い、三浦按針のことでしょうか。

ジリンガム

三浦按針こと、ウィリアム・アダムスは、江戸時代の初期に日本にやってきて、徳川家康の外交顧問にまでなった、元イギリス人の航海士です。歴史の教科書にはたいてい出てくるので、その名前を聞いたことのある人も多いと思います。しかし、扱いが小さいので、実際にはどんな人だったのか知らないということも多いことでしょう。

その日本での活躍と、伊豆との縁については、おいおい書いていこうと思いますが、まずはその生い立ちと日本へ来るまでの背景について語っていきましょう。

ウィリアム・アダムスは、イングランド南東部のケント州のジリンガム(Gillingham:現メドウェイ(Medway)市)というところで、1556年に生まれました。グレートブリテン島の東南、テムズ川の河口付近にある港町で、ロンドン市街からもほど近い(東南東に60kmほど)ところにあります。

1980年代までは造船業の都市だったということで、おそらくは、ウィリアム少年が幼かったころにも造船業や漁業がさかんな町だったと思われます。1984年にここにあった英国の海軍基地が撤退したことから、市の経済が一時衰退したため、現在は企業立地を図り、活性化を図っている最中だとか。その昔は軍港だったのですね。

余談ですが、ウィリアム・アダムスと縁の強かった横須賀市とメドウェイ市は姉妹都市を提携しており、伊東市もメドウェイ市を友好都市にしています。議員同士の交流や留学生交換などを行っているとのことで、伊東市では、日本初の洋式帆船が建造されてから400周年になることを記念して、平成16年にメドウェイ市長たちを招待し、記念式典(モニュメントの除幕など)を開催したそうです。

さて、1556年というと上杉謙信と武田信玄が川中島で戦った年で、このころはまだ戦国時代。やがて、アダムスが日本に来るころまでには徳川家康が日本を平定していますが、このころはまだ、血なまぐさい戦乱が続く世でした。

一方のイギリスはというと、アダムスが生まれた二年後の1558年には、エリザベス一世が即位しており、その統治により比較的安定した国情でした。しかし、やがてネーデルランド(オランダ)の所有や制海権をめぐって、スペインと争う情勢が生まれつつあり、それはやがて1588年からおこる英西戦争の前触れでもありました。

つい最近まで海軍の基地があったというギリンガムでも、このころはおそらくは、スペインと戦うための軍艦がつぎつぎと出航していったと思われますが、そんな港町で育ったウィリアム少年の父親も船員だったといいます。

しかし、その父を幼いころになくしたため、ウィリアムは、わずか12歳でロンドンのテムズ川北岸にあるライムハウスに移り、船大工の棟梁ニコラス・ディギンズに弟子入りすることになります。ディケンズは船大工としては腕がよく、高名だったそうですが、ウィリアム少年はこの工房で12年間大工仕事を学ぶ間、造船術のイロハを徹底的に彼から教わります。のちに日本に来たときも、一から西洋帆船を作り上げていることから、かなり高度で熟練された技術を習得していたのでしょう。

アルマダの海戦

しかし、造船術よりも航海術のほうにより興味を持っていたといい、1588年、奉公の年限を終えて24才になったときに、イギリス海軍に志願して入隊しています。入隊してすぐに、イギリス海軍公認のかの有名な海賊、フランシス・ドレークの指揮下にあった貨物補給船リチャード・ダフィールド号の船長としてアルマダの海戦に参加します。入隊してすぐに船長ですから、ディギンズの工房にいたときから既に高い航海術の知識や操船能力を身に着けていたと思われます。

アルマダの海戦とは、その当時世界最強といわれたスペインの「無敵艦隊」とイングランドの艦隊が、1588年、両国の制海権をめぐって英仏海峡で戦った海戦です。一発勝負の海戦ではなく、大小3~4回の海戦が行われましたが、出撃したスペイン艦隊の総数約130隻を、毎回の海戦でイギリス艦隊は撃破し、スペイン艦隊のうち本国に帰れたのは、そのおよそ半数にすぎず、惨敗に終わりました。この敗退を機に、スペインの国力は急激に衰えていったといいます。

イギリスもスペインも、艦船の数はほぼ互角でしたが、いずれも戦艦と呼ばれるものは30隻程度で、残りはすべて武装商船でした。武装商船は、備え付けの大砲を持っていないものも多く、地上で使う大砲を艦上で固定して、敵と戦いました。

ウィリアム・アダムスが乗った貨物補給船は、おそらくそれ以下の最低限の兵器しか積んでおらず、戦隊の後部にいて、食糧などを届けるために本土と艦隊を往復するような役割だったのでしょう。アルマダの海戦では、とくに大きな功績をあげたというような記録はないようです。

東洋へ

やがて海戦が終わり、無事に任務を終えたアダムスですが、翌1589年に帰国すると、メアリー・ハインという女性と結婚。娘と息子のふたりをもうけます。

しかし、その後、軍隊の任務が性に合わなかったのか、軍を離れ、今度はバーバリー商会という商社のロンドン支店付き航海士、兼船長として貿易業に携わるようになります。このため、せっかく持った所帯ですが、ほとんど家に居つかなかったそうで、もっぱら、北方航路やアフリカへの航海へ出かけ、一年中を海の上で過ごすという日々が続いていました。

子供のころから大好きだった海の上で毎日をすごし、ときには北欧やアフリカの各地に上陸して珍しい風物を見聞きする生活は、アダムスにとってはこの上もないものでしたが、同じような船旅を何年も続けているうちに、だんだんともっと別の国へも行ってみたいという欲求がでてきます。

そんな中、航海で共に仕事をし、交流を深めるようになっていたオランダ人船員から、オランダの船会社が、ロッテルダムから極東を目指す航海のためにベテランの航海士を探しているという噂を聞きつけます。

早速、弟のトマスや友人のティモシー・ショッテンらとともに、ロッテルダムにあるその船会社を訪れ、共にその航海に参加したいと申し出ます。航海は5隻からなる船団で行われることになっており、この申し出に喜んだ司令官のヤックス・マフはアダムスを、このうちの「ホープ号」という船の航海士として採用します。

こうして、船団はロッテルダム港を出航します。船団は以下の5隻で構成されていました。

ホープ号(旗艦)
リーフデ号(アダムスらを乗せて日本に漂着)
ヘローフ号(ロッテルダムに唯一帰還)
トラウ号
フライデ・ボートスハップ号

香辛料貿易

アダムス達のその後の航海について触れるまえに、そもそもこの航海が何を目的としていたのかについて書いておこうと思います。

ヤックス・マフが所属していた船会社がどういう性格の企業であったかについては、詳しい史料がありませんが、この時代はすでに大航海時代といわれる時代になっており、ヨーロッパの各国は、積極的に母国を出て、ヨーロッパ以西、あるいは以東へと遠洋航海に挑む時代になっていました。やがてその航海は、インド・アジア大陸・アメリカ大陸へと広がっていくことになります。

これにより、それまでは海域ごとに孤立していた地球上のすべての海洋がひとつに結び付くようになったことから、この時代を「大」航海時代と称するようになります。後年の列強によるインドやアジア・アメリカ諸国での植民地主義的な海外進出につながっていく嵐の前の時代です。

1498年にヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰経由によるヨーロッパ-インド洋航路を発見し、新しい通商航路を開拓すると、ヨーロッパ人が直接インド洋をはじめ、東洋に乗り込んでいきました。特にポルトガルは、いわゆるポルトガル海上帝国を築き、当時の交易体制を主導します。

この大航海時代の貿易は、とくに東洋におけるヨーロッパ優位の時代を作り、各国とも貿易の支配を目指し、とくに「香辛料」を得るために、その交易路を巡って激しく戦うようになります。

いわゆる、「香辛料貿易」で取り扱われた商品は、香辛料、香、ハーブ、薬物及びアヘンなどでしたが、古くはギリシャやローマも、ローマ・インドルートや「香の道」という陸路の交易ルートを持ち、アジア諸国と香辛料貿易の取引をしていました。防腐作用や臭み消しのほか、衣料品としての需要があり、銀よりも高価といわれるほどであった香辛料は、ヨーロッパでは大変貴重なものでした。特にコショウは、大航海時代を通してヨーロッパの貿易商たちのもっとも重要な商品であり、主要な貿易品でもありました。

しかし、古くから香辛料貿易をおこなっていたポルトガルは、自国の影響下にあった古代のルートや港湾、支配の難しい国を通る交易路を他国の船が通る際、その通行に制限をかけ、自国の利益のみを守ろうとしていました。

これに対抗して、オランダは、ポルトガルの支配する海域を避け、新たな遠洋航路を開拓して、独自にアジア諸国と貿易し、利益を得ようと画策します。

後年、オランダは、インドネシアのスンダ海峡と喜望峰を直接結ぶ東回りのルートを開拓し、これによってオランダは、世界初の株式会社といわれる「東インド会社」を設立します(1602年)。会社といっても商業活動のみでなく、条約の締結権・軍隊の交戦権・植民地経営権など喜望峰以東における諸種の特権を与えられ、アジアでの交易や植民に従事し、一大海上帝国を築いたのです。

しかし、アダムス達が出航した1598年当時は、まだこのルートは開拓されていませんでした。アメリカ大陸を南下して、マゼラン海峡を越え、太平洋を渡る「西回りルート」では、ポルトガルによる妨害があることは必至でしたが、それでもあえて航海を敢行したのは、アジアや東洋諸国にたどり着けば、その帰路、高価な香辛料を持ち帰り、高い利益を得ることができるためにほかなりません。

今考えれば無謀な航海といえますが、それでもそれにチャレンジしたのは、出航した5隻のうちの一隻でも帰ってくれば、それなりの利益があがる、と踏んだに違いありません。長旅に備え、大量の水と食料を満載した5隻は、1598年6月24日、ロッテルダム港を発ち、大西洋を南下していきました。

しかし、その航海は惨憺たるものでした。結果としては、アダムス一行の何人かが日本にたどり着きますが、日本に来れたこと自体が奇蹟のような船旅でした。

今日は(も)、長くなってしまいましたので、その続きはまた明日綴りたいとおもいます。

今夜は、女子バレーと女子サッカーの両方を応援しなくてはなりません。アップが遅くなったら、そのせいだと思ってください。あしからず。