少しずつ春めいてきた。
梅がいい香りを放ちながら咲いているのを見ると、一層そう感じる。
ただ、河津桜を見ると、何かすっぱいものが胸に上がってくる。
勤務先に向かう際、川辺に咲き誇るそれを横目に見ながら、ああ、今日も仕事か、とよく溜息をついたものである。
もう過ぎ去ったことではあるし、そうした思いは手放すべきだとは思うのだが、頭と心は別物らしい。
意識していなくても、もやもやしたものが湧いてくる。
桜といえば、八重桜もそうだ。
亡き妻を見送る際に、咲き誇っていたことが思い出され、楽しめない。
そうした、本来明るいイメージのものを、ネガティブに感じてしまう、ということが時々ある。
遊園地で、ころんで怪我をしたとか、おいしいものを食べたのに、当たってしまったとか、といったことが思い出される。
それをきっかけに、楽しいはずの場所や出来事が嫌なものになったり、敬遠したりするようになる。よくあることだ。
ほかの人もきっとそうだと思う。
だから、美しい、愛らしい、素敵だ、と自分が思うものを誰しもがそうだと考えるのは禁物だ。
犬猫がいい例だ。犬をかわいいと思う人がいる一方で、なめられるのが嫌だという人もいる。
猫はきらいじゃないという人は多いが、ネズミを捕る不潔な動物だと思う人がいる。
その人にはその人の歴史があり、そこから生み出された価値観がある。
自分が持っている価値観を人と共有したい、と考えるのはもっともだが、相手にとっては嫌なものである場合もある、ということも知っておいたほうがいい。
と書きながら、自分もまた人に価値観を押し付けてきたのではなかろうか、と反省したりする。
もしかしたら、あのときそうだったかもしれない、と思えることは多々ある。
笑ってもらえると思ったのに、案に反して暗い顔をされた、意に反して無反応だった、といった経験が思い返される。
あのとき、あの人はどんな気持ちでいたのだろうか、何が嫌だったのだろうか、と考えてみる。
あとで、思い当たることもあったりして、そんなときは自分を責めたくなる。
とはいえ、価値観が人それぞれ違うのはあたりまえだ。
最大公約数にしたとき、合わない部分も当然ある。
それをいちいち気にしていたら明るく生きていけない。
相手の反応がイマイチだったら、ああそうなんだ、と悟って、それ以上ごり押ししなければいいのである。
大事なのは、考え方はひとそれぞれ、すれ違いは当然ある、ということを知り、理解しておくことだと思う。
そうすれば、相手を憎まないで済むし、自分も傷つかない。
そういうおおらかな気持ちでいつもいたい。
と、そんなことを考えるような年齢になったのかな、と思う今日この頃である。