江川家のこと ~旧韮山町(伊豆の国市)

先日の月曜日のことです。仕事もあまり気分が乗らず、お天気も良いからということで、これまで行ったことがなかった、伊豆韮山ある「江川邸」へタエさんと行くことにしました。

江戸時代を通じて、伊豆を中心とする諸国の「代官」を務めた「江川家」の邸宅のことで、正式名称「江川家住宅」として、1958年(昭和33年)に主屋が、1993年(平成5年)には書院、仏間、蔵、門、塀、敷地内にある神社などが、国の重要文化財に指定されました。

現在は、この江川家の御子孫が中心になって設立された、財団法人江川文庫(1967年)の所有物だそうですが、我々が訪れたとき、現在のご当主らしい方がおられ、ご近所の方と歓談されていました。

どうやら、一般公開されている重要文化財部分以外にも、文化財指定されていない居住空間をお持ちのようで、その裏木戸のようなところからお出でになり、我々に会釈されたあと、どこかへ出て行かれました。

私はちら、としか拝見しなかったのですが、館内に掲示されていた江川邸の持ち主?らしい方のお写真とお顔が同じであることにタエさんが気づき、私に教えてくれてわかりました。しっかりとお顔を拝見しなかったので、ご年齢とかはっきりはわかりませんが、おそらくは70代から80代にかけての御年と拝察されます。

とすると、韮山県令などを務め、1933年(昭和8年)に亡くなった、江川家第38代当主で最後の韮山代官、「江川英武」氏のお孫さんかではなかろうかと思われます。

江川英武氏の息子さんは、元東京大学教授名誉教授で法律学者の江川英文さん。前述の財団法人江川文庫を設立された方です。こちらは1966年(昭和41年)に亡くなっていますから、我々がおみかけした方は、年齢からしてもおそらくその息子さんに違いないでしょう。従妹などの御親戚という可能性もなくはないですが。

これらの方々よりもさらに前の江川家の第36代の当主、江川英毅(ひでたけ)は、江戸中期~後期にかけて韮山代官を務めた方ですが、民治に大変力を尽くした人で、商品作物の栽培技術を改良し、貧しかった周辺の村々の農作物の増産を実現した人物として知られます。

そしてその息子の第37代当主、江川英龍(ひでたつ)は、おそらくは江川家代々の当主の中でも最も有名な人物。我が国への洋学の導入に貢献し、激動の幕末において「お台場」の整備や洋式大砲の製造・設置といった、「海防」の整備で実績を挙げるとともに、「パン」を日本で初めて焼いた人物として著名で、知る人ぞ知る、幕末の偉人の一人です。

ここ地元韮山でも二宮尊徳を招聘して農地の改良などを行うとともに、「種痘」の技術が日本に伝わると、領民への接種を積極的に推進するなど、自領の統治にも善政で臨みました。このため領民も彼を大いに慕ったといい、「世直し江川大明神」とまで呼んで敬愛したといいます。

現在に至っても地元・韮山では絶大なる人気があるそうで、江川家へ強い愛着を持っている周辺住民は多いというふうに聞いています。

我々が訪れたこの江川家の邸宅のすぐ北側には、観光客用の広い駐車場(無料)があるのですが、どうやらここに、その昔韮山代官所があったらしく、確認はしませんでしたが、その碑なども置かれているようです。

今はこのお役所は解体されてありませんが、江戸時代の管轄は、伊豆国を中心とし、駿河国・相模国・武蔵国に及び、幕末には甲斐国も管轄していたといいます。また、伊豆諸島を管轄下においたこともあるそうです。

その所領の石高は、管轄領域がしばしば変動したため、一定しませんが、およそ5~10万石余で、小さな大名に匹敵するほど。

前述したようにその代官は、代々江川家が勤めてきましたが、江川家自体は、江戸時代よりもさらに前の平安時代末期以後、この伊豆国江川荘付近を領有していた豪族でした。

その祖は、藤原道長の部下であった「源頼親」という人物で、もともとは畿内の「大和国」を領地としていましたが、政変に敗れて土佐へ流れ、その子孫は各地へ散らばっていき、この系統の子孫は「大和源氏」と呼ばれています。

このうち伊豆へ流れてきた大和源氏の一派は、当初「宇野」姓を名乗っていたようですが、平安末期に伊豆へ移住したとき、その一族の一人「宇野治長」が源頼朝の挙兵を助けた功で、現在の「江川荘」を安堵され、この地の領域支配が確定しました。その後は、鎌倉幕府に仕え、さらにその後も北条早雲を始祖とする後北条氏を主とするなど、その時代時代の支配者に仕えてきました。

宇野姓を現在の「江川」に改めたのは、かなり力をつけてきた後北条氏に仕えていた室町時代のことのようです。後北条氏は、その後関東一円の諸豪族を配下に治めるようになっていきますが、その後も江川家は後北条一門に忠実に仕え続けます。

しかしやがて戦国の世となり、1590年(天正18年)には、豊臣秀吉がその乱世を終了させるべく後北条氏が本拠とする小田原に攻め入ります。このいわゆる「小田原征伐」において、江川家28代の江川英長は、それまで仕えてきた後北条氏を見限ることを決断します。

そして、その当時秀吉の配下にあった徳川家康について後北条氏側と戦い、そのことで功を認められ、江川家始まって以来初めて中央政権の「代官」に任ぜられます。

江戸時代に入っても、江川家は引き続き代官職を踏襲しますが、1723年(享保8年)からは享保の改革の関係からか職を免ぜられ、以後35年間だけは韮山代官職を退いています。

しかし、1758年(宝暦8年)からは再度韮山代官に復職し、以後明治維新まで相模・伊豆・駿河・甲斐・武蔵の代官として、民政に当たりました。その石高は最盛時には26万石にも膨れ上がったといい、これは地方の大大名にも匹敵する石高です。

江川家の当主は代々、「江川太郎左衛門」を名乗ったため、歴代の当主の中で最も有名な江川英龍のことも、一般的には「江川太郎左衛門」と称することが多いようです。伊豆のあちこちの観光地に出ている看板の名前も「英龍」ではなく、ほとんどが「太郎左衛門」と表示されています。




この江川家が管理していた韮山代官所は、韮山の江川邸に隣接して建てられていたもの以外に、江戸の「本所南割下水」にもあり、これは現在のJR両国駅(墨田区)の東側あたりの場所のようです。隅田川から引き込んだ運河が縦横に流れる場所で、その両側には大名屋敷がずらりと並ぶ一等地でした。

江川家では、この代官所とは別に同じ本所深川に自分の屋敷を持っており、このほかにも幕府から下賜された土地を持っていたようです。「江戸切絵図」という江戸時代の地図集では、その「芝口西久保愛宕下之図」の版に「鉄砲調練所」とされる建物の位置が示されており、これがそれです。現代の港区浜松町駅のすぐ東側がその場所で、この当時は海に面していました。

37代当主の英龍は幕末において幕府の軍事顧問のような役職を担っており、兵士として調練する他藩の武士がたくさんの兵士が出入りしていましたが、これらの兵士を訓練する場所がなかったため、英龍の死後、その息子の英敏の代になって、この場所が幕府から提供されたのです。

この「芝口西久保愛宕下」には、増上寺がありその敷地内には現在、東京タワーが立っています。調練所のあったのは、これと浜松町駅を挟んだ東側あたりで、ここはこの当時「芝新銭座」という地名でした。

慶応大学関連の史料の中には、「明治3年(1870年)、芝新銭座屋敷の長屋三十間ほどの総二階を慶應義塾に貸し出した」という記述が残っており、これは、この調練所の建物の一部分を、その当時江川家と親交のあった福沢諭吉が創設した「慶応義塾」として貸し出したときの関連記事のようです。

この慶応義塾は、翌年の明治4年には現在の慶應義塾大学のある三田の島原藩中屋敷に移転しました。しかしこれよりかなり以前から江川英龍は福澤諭吉と懇意だったようで、これは福沢諭吉の奥さんの実弟で「土岐謙之助」という人が英龍の門弟であったことなどに由来するようです。

こうした福沢諭吉との関係から、幕府瓦解後、このときの最後の韮山代官であった江川英武の手代(部下)だった柏木忠俊戸という人が、江戸江川家の屋敷を福沢諭吉に払い下げました。そしてその本館部分は三田に移築され、現慶應義塾大学の前身の慶應義塾舎として使われ、その一部であった正門だけが、伊豆の韮山に移築され、現在の江川邸の表門となっているということです。

その江川邸の入口脇には、50~60m四方のかなり広い広場があり、ここは江川英龍が地元の農民たちを集めて「民兵」として調練するために用いられたということです。この一帯はその昔、「金谷村」と呼ばれていたそうで、英龍は屋敷近隣の村人を集め、日本で初めての西洋式軍隊を組織した人物とされています。

今でも日本中で使われる「気を付け~」や「右向け右」、「前へ進め」「回れ右」「右へならえ」などの掛け声は、その時に英龍が一般の者が使いやすいようにと、英龍の甥で蘭学者だった石井修三(のち江戸築地軍艦操練所教授方)に頼んで西洋の文献から日本語に訳させたものです。英龍はこの新訳語を使って農民たちの訓練を行いました。

ちなみに、石井修三は、その後軍艦操練所でも、「ヨーソロー」等の船舶号令を翻訳しています。以前このブログの「ヘダ」の項で紹介した、ロシア軍艦ディアナ号が駿河湾沖で沈没したときにも、戸田にできた仮奉行所に出仕し、ディアナ号の代替船として日本で初めて建造された洋式帆船「ヘダ号」の建造に関わっています。

江川英龍が亡くなったとき、その臨終に立ち会い、「江川坦庵公臨終の記」を残していますがそのわずか二年後、艦操練所の教授方に任官6か月後の1855年(安政4年)、前述の芝新銭座の江川家の屋敷前において、攘夷派により暗殺されて亡くなりました。享年28才ということですが、残念ながら肖像画や写真などは一切残っていないようです。

英龍が造り、石井修三が農民を調練するための掛け声が響き渡ったというこの広場ですが、我々が訪れたときには、秋まっさかりということで、曼珠沙華が一面に咲き誇り、調練所というよりはまるでお花畑のような風情でした。

屋敷の前には農業用の用水路が流れているのですが、この用水路の周りの土手も曼珠沙華で満開で、江川邸のどっしりとし佇まいとあいまって、ちょっと江戸時代にタイムスリップしたような気分になりました。




実際、NHKの大河ドラマ「江」や、TBSのドラマ「仁」のロケ地としても何度も使われたそうで、入口の受付前にはそのロケ当時の写真などが掲載されていました。

建物の中に入ると、なるほどロケに使われるわけだけあって江戸時代そのままの姿がきれいに保存されており、高い屋根とその下に広がるおよそ2~300坪はあろうかと思われる広い空間には、英龍らが開発した大砲やパン焼き器などの展示品のほか、江戸時代以降、長い間代官を務めてきた江川家の関連資料が展示されており、歴史好きな私としても興味深く拝見させていただきました。

今日はもう、ページがかなり進んでしまいましたので、そうした詳しい内容などはまた後日ご紹介したいと思います。

また、本日書きはじめる予定だった、江川英龍の生涯についてもまた後日のペンに譲りたいと思います。今日は、最後にひとつだけ、江川英龍も懇意にしていたという「勝海舟」が晩年に記した「氷川清話」の中での英龍評について触れたいと思います。

勝海舟も英龍のことを高く評価をしていたようで、この氷川清話の中では、「江川太郎左衛門も、またかなりの人物であった。その嘉永安政の頃に、海防のために尽力したことは誰も知って居るだろう……」と書いています。

しかしそれだけでなく、海舟は彼が武芸のみならず幅広い教養を身に着けた風流人であったことなども評しており、江川英龍がどういう人物だったが偲ばれて面白いと思います。最後に読んでみてください。

「この男は、山の中で成長して、常に狩猟などをして筋骨を練り、明け暮れ武芸に余念がなかった。が、しかし、人の知らないうちに嗜んで(たしなんで)居たと見えて、ある時水戸の屋敷に召されて、烈公から琴を一曲と所望せられたのを、再三辞したけれども、お許しがないから止むを得ず一曲奏でたが、その音悠揚として迫らず、平生武骨なのにも似ないで、いかにも巧妙であったから、列座そのものが手を拍って感嘆したということだ……」