今日は、「林檎忌」だそうで、これは歌手の美空ひばりさんの忌日です。
ヒット曲「リンゴ追分」から来ており、また、「ひばり」という名前にちなみ、麦畑が鳥のヒバリの住処となることから「麦の日」とも呼ぶそうです。
美空ひばりさんは、1937年(昭和12年)の横浜市生まれ。昭和の歌謡界を代表する歌手・女優の1人であり、女性として初の国民栄誉賞を受賞しました。しかし、1989年、3月、「アレルギー性気管支炎の悪化」「難治性の咳」であると発表し、療養専念を理由に芸能活動の年内休止を発表しました。
このとき51歳でしたが、5月末には、「私自身の命ですから、私の中に一つでも悩みを引きずって歩んでいく訳には参りませんので、後悔のないように完璧に人生のこの道を歩みたいと願っているこの頃です」などと録音した肉声テープを披露。結果的にこれが、ファンに向けての最後のメッセージとなりました。
5月29日は病室で52歳の誕生日を迎えましたが、6月半ばには呼吸困難の重体に陥り、人工呼吸器がつけられました。最後の言葉は、順天堂病院の医師団に対して「よろしくお願いします。頑張ります。」だったそうです。そして1989年6月24日未明、肺炎の症状悪化による呼吸不全の併発により逝去されました。
実はこの6月24日という日にはもう一人の歌手が亡くなっており、このためひばりさんの林檎忌とは別に、「五月雨忌」という呼称があります。歌手でシンガーソングライターでもあった、「村下孝蔵」さんの命日です。ヒット曲「初恋」の歌詞に五月雨が出てくるのと、梅雨の別称でもあるこの雨の季節の中、亡くなったことにちなんでいます。
「初恋」「踊り子」「ゆうこ」「陽だまり」などのヒット曲がありますが、とくに「す・き・だ・よと言えずに、はぁつーこいわぁ~」というおなじみの「初恋」は今も多くの人が口ずさむ名曲であり、私も大好きな曲のひとつです。
1953年2月28日、熊本県の水俣市で生まれました。子供のころから水泳が得意だったため、水泳部の特待生として熊本市内の鎮西高等学校に入学。卒業後、得意の水泳で実業団・新日本製鐵八幡製鐵所入りました。
しかし、その後父親が広島の東洋工業に転職した関係もあって、彼も広島市に転居しました。好きだった音楽中心の生活を目指したためでもあり、日本デザイナー学院広島校インテリアデザイン科に入学し、ここを卒業すると、ヤマハ広島店に就職しました。
二年間ここで営業に励み、ピアノ購入契約などで実績を挙げ、1975年からはピアノ調律師として勤務する傍ら、ホテル法華クラブ広島のラウンジで弾き語りのアルバイト等の活動も行いつつ、地道に音楽活動を継続しました。
26歳のころ、知人のライブハウス店主から勧められ、当時のCBSソニー(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)の全国オーディションに応募し、グランプリを獲得。これがきっかけで、遅咲きながら27歳にしてプロ歌手としてデビューすることになりました。
シングル「月あかり」でプロデビューしましたが、同期にはHOUND DOG、堀江淳らがいます。1981年発売の「春雨」は約3か月半、1982年発売の「ゆうこ」は約7か月半にわたってチャートインするなど歌手としてはまあまあの出発でした。
ちなみに、この「ゆうこ」のタイトルになっている女性は広島出身の前衛日本画家・船田玉樹(ぎょくじゅ)の娘さん優子で、村下さんの最初の妻です。彼女自身も芸術家(アコーディオニスト)であって、現在も活躍されています。村下さんとの間には一子(娘さん)があり、こちらも音楽関係の道に進まれたようです。
その最初の優子夫人や娘とまだ生活をともにしていた1983年、30歳にして発表した5枚目のシングル「初恋」は、オリコンチャートで最高3位を記録する大ヒットとなりました。
しかし、「初恋」発売の前後に、肝炎を患ってしまい、「初恋」がヒットしてもテレビ番組にはほとんど出演できませんでした。またこの曲がヒットしたことで多額の印税が入るようになったことに由来して、実の父母と奥さんとの間がぎくしゃくするようになったようです。
こうした事情から生活の拠点を東京に移しましたが、1985年に正式に離婚、その後別の女性と再婚しました。が、奇しくもこの再婚相手も名前は違えど「裕子」さんです。
同年秋から全国ツアーを開始しますが、翌1985年に再び体調が悪化し、入退院を繰り返しました。その後数々の楽曲を生み出し、三田寛子や高田みづえ、伍代夏子といった歌手にも提供するなど活躍しましたが、自身はあまり大きなヒット曲に恵まれませんでした。
そして、1999年6月20日、駒込のスタジオでコンサートのリハーサル中に突然「気分が悪い」と体調不良を訴えます。当初は救急車も呼ばずスタッフ付添のもと自力で病院を訪ねたといい、その病院での診察で「高血圧性脳内出血」と判明。しかし時すでに遅く、その直後、意識不明の昏睡状態に陥り、僅か4日後の6月24日に亡くなりました。
46歳没。葬儀は2日後に東京で営まれましたが、再婚した裕子夫人(こちらものちに逝去)の希望により、出棺の際には彼が生前最も気に入っていた楽曲「ロマンスカー」がかけられました。7月には東京の渋谷公会堂でお別れ会が、8月には広島市内の寺院において音楽葬が営まれました。
村下さんは、かつて広島在住していたということで、まだ売れないころから広島のテレビ局・RCC中国放送に出演しており、このため現在でも6月の命日前後に「村下孝蔵を偲ぶ」といったタイトルで特別番組が毎年のように放送されているようです。
ちなみに、「初恋」がヒットしたとき、広島市の中心部・並木通りに「小さな屋根の下」という喫茶店を開いていました。この通りは私が通った高校にほど近く、その昔はさびれた問屋街でしたが、現在は多くのブティックが並ぶ、おされな若者の町に変身しています。
その通りの一角にあったこの店は、村下さん自身が1984年4月に、ファンたちが集まる店になれば、と夢見て作ったものでしたが、その後ヒット作にも恵まれ、東京に拠点を移すことを決めたため、その年の末に閉店したそうです。
1984年といえば、私は東京で働くようになっていましたが、ヨメのタエさんはも広島でコピーライターの仕事に精を出しており、職場も近かったのであるいは知っているかも知れないと思い、聞いてみました。が、覚えていないとのことでした。
が、その話の関連から、実は彼女は村下さんの前妻の優子さんの弟さんと中学で同級生であるという事実が発覚しました。さらにこの弟さんの奥さんとタエさんの親友の一人が同級生だそうで、何やら不思議なご縁があるようです。
私自身も広島育ちであり、広島ゆかり、ということで、この村下さんには親近感を覚えるわけです。が、ただそうしたことだけでなく、今日村下さんとひばりさんのことを取り上げたのは、二人ともミュージシャンであり、若くして亡くなり、しかも命日が同じということで、何か魂のつながりがあるのかな、とも思ったためです。
が、調べてみても、生前のプロフィールをみても共通点はないし、二人がどこかで接触があったという話はなさそうです。が、あえて共通点を見出だすならば、美空ひばりさんの死の原因になったのは、肝炎であり、村下さんもまた肝臓に問題を抱えていました。
ひばりさんのほうは、その死の4年前から原因不明の腰痛を訴えていました。2年後の1987年(昭和62年)の全国ツアーのころには、足腰の激痛はついに耐えられない状態に陥っており、そして同年4月に公演先の福岡市で緊急入院。重度の慢性肝炎と診断されました。
彼女は、1980年代に入り、1981年には実母・喜美枝を68歳で亡くしました。さらには、父親として慕っていた暴力団・三代目山口組組長の田岡一雄も相次いで亡くしましたが、この田岡氏との関係から、生前の彼女には何かと「黒い噂」絶えませんでした。
その出会いのきっかけは、デビュー直後に神戸松竹劇場への出演に際して、この町に影響力を持っていた田岡と知り合ったことです。その後彼女のほうから父親のように慕うようになり、事実、その後は父親のいない彼女の親代わりになっていたと伝えられています。
その関係もあってか、実弟で歌手・俳優の「かとう哲也」は、その後、悪の道に入りました。賭博や拳銃不法所持、暴行などで逮捕されること数回、刑務所に入っていたこともあります。出獄後は任侠界と絶縁したとされていますが、三代目山口組系益田組の舎弟頭であることが発覚しています。しかし、この実弟も、1983年に亡くなりました。
その前年には大の親友だった江利チエミが45歳で急死しており、1984年には、これも親交のあった大川橋蔵も55歳で死去しています。さらには、ひばりさんのもう一人の弟、香山武彦も1986年に亡くなるなど、次々と知人や肉親を亡くすという悲運が続きました。
この弟の哲也が亡くなったあと、その実子である和也を1977年に養子として迎えていましたが、彼によれば、その後彼女は悲しみ・寂しさを癒やすために嗜んでいた酒とタバコの量は日に日に増していったといい、徐々に体を蝕んでいきました。
病気が発覚したあとは、約3か月半にわたり療養を余儀なくされました。が、実際の病名は発表されず、病状は深刻でしたが「肝硬変」であるという事実は隠し通していました。
一方の村下さんのほうは、毎日散歩が趣味で、酒もたばこもやらなかったそうで、発病の原因はそうしたものではなかったようです。肝炎と一口にいいますが、いろんな種類のものがあり、ウイルス性肝炎もあれば、アルコール性肝炎、非アルコール性脂肪性肝炎、薬剤性肝炎、自己免疫性肝炎、原発性胆汁性肝硬変など、さまざまです。
彼の肝炎がどの肝炎だったのかは公表されていませんが、親しかった方のブログなどによれば、どうやらウィルス性のB型肝炎だったようです。突然の発症だったようですが、親由来のものなのか輸血等による水平感染かどうかはわかりません。一方、ひばりさんのものはやはりストレスによるアルコールやタバコの過剰摂取が原因ではなかったでしょうか。
従って、二人とも肝炎だったからといってその死の原因は同じとはいえません。しかし、癌にかかる人は一般に頑固だ、といわれるように、同じ部位に病巣を抱える人というのは何か性格的な共通点があるものなのかもしれず、スピリチュアル的な観点からは体の異変は何等かの霊的なものだとする考え方があります。
こうしたことについて多数の著書がある、リズ・ブルボーさんは、その一冊、「体の声を聞きなさい」の中で、「~炎症、~炎」とつく病気はすべて、怒りの感情に関係しており、肝臓は、怒りを抑制することでもっとも影響を受ける器官である、と書いています。
これをそのまま解釈すると、二人とも怒りを抑制することがあまり得意でないタイプの人だったのかもしれません。テレビ等で見た限りでは、確かにひばりさんは怒りを飲み込むタイプのような感じがします。次々と亡くなる身近な人たちへの絶望が怒りに変わったかもしれませんし、悪行に走った弟のことを常に苦々しく思っていたかもしれません。
村下さんのほうも温厚そうに見えますが、最初の奥さんと離婚していることなどから、そうした面があったのやもしれません。調べてみると実はこの離婚については、かなりのトラブルがあったようで、優子さんと村下さんの家族との間でいろいろ難しい問題があり、その問題が肝炎を悪化させたということはあったかもしれません。
かなりプライベートに立ち入る話しなので、詳しくは書きませんが、彼女がご自身のブログでカミングアウトされているのでそちらをご覧ください。「アコーディオニスト・ゆうこ」でヒットすると思います。が、ウィルス対策ソフトに敏感なサイトらしく、私がアクセスしたところ問題ありませんでしたが、ご自分の責任においてのアクセスをお願いします。
村下さんに関してさらに言えば、1992年発売のシングル「ロマンスカー」は「これが売れなきゃおかしい」という思いで制作、完成時に「やっと納得する作品が出来た!」と語っていたそうですが、渾身の作品であったにも関わらず全く売れませんでした。世間にはこれがわからないのか、という怒りに似た感情があったのでないでしょうか。
リズ・ブルボーさんは、相手に対して怒りが沸いてきたときは自分の態度に問題があるのではないかと考えてみよ、とも書いています。相手の反応に対し自動的に怒るのではなく、ひと呼吸おき、もしかすると自分に責任があるのではないだろうか、と考えてみるのです。
そして、自分のその感情の正体を見きわめ、それがどんな感情なのかを自覚することによって、原因は他人にあるのではない、ということを知ることができます。自覚した感情が憎しみに由来している場合でも、実はそれは自分自身の問題であることがわかってきます。
つまり、自分の感情の責任は100%自分にあります。そして、ブルボーさんはこれを「自己責任の法則」と呼んでいます。そうした法則があることを理解せず、抑圧された感情がからだの中で暴走し始めると、憎しみはどんどんとつのってきます。
やがては怒りに変わり、それが表現されずに抑圧された場合は、やがてそれは自身の内部を徹底的に痛めつけるようになり、細胞まで爆発させてしまいます。そして、その結果一番影響を受けるのが肝臓である、というわけです。
今日、この二人のことを取り上げたのは、そのことが書きたかったからでもあります。が、この話についてはここまでとしましょう。
ところで、怒り・肝臓といえば、ギリシア神話で人間に火を与えたプロメーテウスは、全能の神、ゼウスの怒りを買い、カウカーソス山に磔にされ、毎日ハゲタカに肝臓をむさぼられるという罰を受けました。しかし、プロメーテウスも神であるため不死身であり、肝臓は翌日には再生してまた喰われることが永遠に続いたといいます。
もう少し詳しく書くと、ゼウスはあるとき下界を俯瞰して、そのころますます傲慢になってきていた人間を大洪水で滅ぼすために、まず人間と神を分けようと考えはじめました。プロメーテウスはこのとき、その役割を自分に任せて欲しいと懇願し了承を得ました。
そして、大きな牛を殺して二つに分け、一方は肉と内臓を食べられない皮に隠して胃袋に入れ、もう一方は骨の周りに脂身を巻きつけて美味しそうに見せました。そして彼はまずゼウスで試そうと、彼を呼ぶと、どちらかを選ぶよう求めました。
実はプロメーテウスはかねてから人間に好意的であり、人間を滅ぼそうとするゼウスの試みを頓挫させようと考えていました。このため、神々が美味しそうに見える脂身に巻かれた骨を選び、一方では胃袋を選んだ人間は強靭な肉や内臓を持った丈夫な体になるように計画していました。
しかしゼウスはこのプロメーテウスの計略を見抜いており、不死の神々にふさわしい腐る事のない骨を選びました。そして、胃袋のほうには魔法をかけ、こちらを選んだ人間の体を、死ねばすぐに腐ってなくなってしまうようにし向けました。
こうして胃袋を選んだ人間は、このときから死ぬと、肉や内臓のように腐りゆく運命を持つようになったといいます。ゼウスはさらに、ついでだからこの際もっと人類を懲らしめてやろうと、彼等から「火」をも取り上げようとしました。
一方のプロメーテウスはこの後に及んでも人間を憐み、たとえ死にゆく運命になったとしても、火さえあれば、暖をとることもでき調理も出来るだろう、と考え、ヘーパイストスという雷と火の神から貰った火を人類に手渡しました。こうして火を使えるようになった人類はそれを使って鉄を作る技を身に着け、そこから生まれる文明をも手に入れました。
しかし、このプロメーテウスの行いにゼウスは怒り心頭!そして権力の神クラトスと暴力の神ビアーに命じてプロメーテウスをカウカーソス山の山頂に張り付けにさせ、生きながらにして毎日肝臓をハゲタカについばまれる責め苦を強いた、というわけです。
それにしても、プロメーテウスはなぜ死なず永遠に肝臓を再生し続けられたかといえば、それは彼もまた上述の骨と肉の二者択一において、ゼウスが永遠の命の象徴であるとした骨のほうを選択したためでもありました。
こういうふうに、死や短命にまつわる起源神話において、二者択一を迫られる話のことを、「バナナ型神話」といいます。
ギリシャ神話以外の東南アジアやニューギニアを中心に各地に見られる神話においては、重要なアイテムとして、共通してバナナが登場することから、これを研究していたスコットランドの社会人類学者ジェームズ・フレイザーが命名したものです。
これらの話では、だいたい神が人間に対して石とバナナを示し、どちらかを一つを選ぶように命じます。人間は食べられない石よりも、食べることのできるバナナを選びます。
硬く変質しない石は不老不死の象徴であり、ここで石を選んでいれば人間は不死になることができますが、バナナを選んでしまったためにバナナのように脆く腐りやすい体になって、人間は死ぬようになったとされます。
日本神話にも似たような話があり、天孫降臨(神が地上におりて人間界を創る)の段において、降臨した天孫(天の神)ニニギに対し、国津神(地上の神)であるオオヤマツミは娘のイワナガヒメとその妹のコノハナノサクヤビメの二人の姉妹を嫁がせます。
しかしニニギは醜いイワナガヒメを帰してしまい、美しいコノハナノサクヤビメとのみ結婚してしまいます。しかし、実はイワナガヒメは「長寿の象徴」でした。彼女だけが送り帰されたために、その後地上に降りた天孫、すなわち「天皇」はその後不老不死ではなくなり、普通の人間と同じくいつかは死ぬことになりました。
この説話にはバナナは登場しませんが、二者択一において不死が選ばれなかったという点は似ており、バナナ型神話の変形と考えられています。また、同じような話しは沖縄にもあり、それは太古の昔、宮古島でのおはなしです。
ここにはじめて人間が住むようになった時のこと、月と太陽が人間に長命を与えようとしました。そして、節祭の新夜にアカリヤザガマという者使いにやり、変若水(シジミズ)と死水(シニミズ)を入れた桶を天秤に担いで下界に行かせました。そして、月と太陽の命は、「人間には変若水を、蛇には死水を与えよ」というものでした。
しかしアカリヤザガマは、下界に降りた際に尿意を催したため、我慢しきれなくなり、途中でその桶を下ろし、路端で小用を足しました。そこへたまたま運悪く蛇が現れてしまい、あろうことか桶をひっくり返して変若水を浴びてしまいました。このため、彼は仕方なく、命令とは逆に死水を人間に浴びせることにしました。
それ以来、蛇は脱皮して生まれかわる不死の体を得ましたが、その一方で人間は短命のうちに死ななければならない運命を背負うようになったということです。
さらには、旧約聖書の創世記にもこのバナナ型神話が出てきます。この話は多くの人が知っているでしょう。エデンの園の中央には神によって2本のリンゴの樹が植えられており、これはすなわち、その実を食すと永遠の命を得ることができる「生命の樹」と、知恵(善悪の知識)を得ることができる「知恵の樹」です。
アダムとイヴはエデンの園にあるこの果樹のうち、生命の樹のリンゴを食べることは許されていましたが、知恵の樹のリンゴを食べることを禁じられていました。ところが、イヴはヘビにそそのかされてこの実を食べ、あまりのおいしさに、アダムにも分け与えます。
こうして、人間は、善悪の知識を得る代わりに永遠の命を得る機会を失い、神によってエデンの園を追放されました。ヘビに二者択一を迫られたわけではありませんが、自ら二つある選択肢のうちの一つを選んだことで、永遠の不死を得る機会を失ってしまいました。
こういうバナナ型神話が世界中で見られるというのは、それはやはりそれだけ人間が永遠の不死を願ってきたからでしょう。中国では、伝統的な生命観の一つとされており、始皇帝は実際に不老不死の薬を求め、かえって死期を早めました。
この世で強大な権力を手に入れた始皇帝ですが、あるときから死期が近いことを悟り、死を恐れて、不老不死を手に入れようと部下達に不老不死の薬を作れと命じました。
そしてこの無謀な命令を受けて部下たちが作ったのが「辰砂(しんしゃ)」であり、これはすなわち水銀などを原料とした丸薬でした。これを飲んだ始皇帝はその猛毒によって熱い砂漠を移動する中死に、その死骸は猛烈な腐臭を放ったと伝えられています。
その他にも不老不死を求める話は後述の通り世界各地にあり、その最古のものは、紀元前2000年頃メソポタミアの「ギルガメシュ叙事詩」です。この中で大洪水から箱舟を作って逃げることに成功したノアが不死の薬草のありかを知っていたとされる記述が出てきます。
このほか、ギリシア神話に登場するティーターンは不老不死の象徴とされ、腐食もせず永遠の強靭さを保つ物質、「チタン」はここから来ています。また北欧神話のアース神族もそうであるほか、インドにも、不死の飲み物「アムリタ」を巡って神と悪魔が争う、という話があります。
日本でも「竹取物語」で不老不死の秘薬が登場し、昔話でおなじみの「浦島太郎」にも、太郎が玉手箱を開けたあと、乙姫と再会を果たし、不死の命を得て神になり、共に永遠に生きた、というバージョンがあります。
無論、生物学的な観点からは、不老不死などはナンセンスです。我々多細胞生物は一定期間で子孫となる個体を作るという方式で生命を繋いでおり、再生能力の限界に伴い必然的に老化し、死に至ります。
ただ、ベニクラゲ、という世界中の暖かい海に生息するクラゲのように、いったん個体が老化したのちに若返りができる動物も極めて少ないものの存在しています。また、多細胞動物の一部の細胞を取り出して培養した場合はこの細胞が不死化する場合があります。人間においても癌化した細胞が「不死株」として培養され続けている例があります。
現代の医学においても老化の防止は重要な課題であり、「抗老化医学」という分野もあります。とはいえ、現状の医学のレベルにおいては、長年にわたって老化を押しとどめるすべはなく、人間において不老不死を成し遂げた者は誰もいません。
ただ、「不症老」とされるものでは症例があり、例えば、アメリカのメリーランド州で、1993年に生まれた人は、2013年に20歳で亡くなるまで、ほとんど成長しなかったとされます。
名前は「ブルック・ミーガン・グリーンバーグ」といい、女性でした。年齢の増加にもかかわらず、身長は約30インチ(76センチメートル)、体重は約16ポンド(7.3キロ)を持続し、推定された精神年齢は1年9ヶ月でした。生まれた当初から体が弱く、原因不明の病気で緊急手術を繰り返し、5歳のときには昏睡状態になりました。
その後回復しましたが成長が止まったままで、成長ホルモン異常、遺伝子異常など色々言われた結果、原因がわからないまま「Xシンドローム」という新たな病名がつけられました。
話すことはできませんでしたが、ジェスチャーである程度のコミュニケーションはとれたようです。ただ、知能が低いため会話にならず、音を認識することもできなかったようです。骨は10歳の少女のもののようだったといい、8歳児に相当する乳歯を持っていました。
また、体の各部位がそれぞれ別の速度で成長しているような兆候が観察されたといいますが、それらが例えば、異なる速度で変化する遺伝子によるものなのかといった、医学的な確定には至らなかったそうです。不老不死の数少ない症例になるかもしれないとその後も様々な検査が行われたようですが、2013年10月24日に気管支炎で亡くなりました。
現時点において、ブルックと同じようにXシンドロームではないかとされ、研究対象になっている子供が世界中に少なくとも7人いることが、カリフォルニア大学ロサンゼルス校の研究者から明らかにされています。が、その成果については明らかになっていません。
このように、不老と呼ばれた人達でもそれを永遠に続けることはできません。しかし不可能だ、難しい、といわれつつも人々は不老不死を求めようとします。不死が無理なら、せめて不老を成し遂げたいと、何度も整形を繰り返し、薬物に頼る女性も少なくありません。
また男性であっても、敵を排除し、独裁を続ける権力者などの中には、自分の力を永遠に保つために不老不死を求める者がおり、上述の始皇帝は良い例です。
古来からの人間の悲しい性といえますが、不老不死が不可能と解っていつつ、少しでもその生命を薄く長く引き伸ばそうとするだけで、一日一日をいい加減に扱おうとするこうした人間の生き様を、東西の賢人達は批判的な目で見ています。
兼好法師は「徒然草」の中で、「人間はただ長寿を願い、利を求めてやむときがないが、老と死はすぐにやってくる」と書いており、名利におぼれて、死という人生の終点が近いことを考えようとしないことを批判しています。また、古代ローマの思索家セネカは「人生は短いのではない、人間がそれを短くしてしまっているのだ」と述べています。
一日一日を大切に生きていない、一日一日を活かしきっていない、という意味であり、毎日を「人生最後の一日」のように思いつつ、明日を頼りにして今日を失わないこと、そして「心の多忙から解放されること」をセネカは薦めています。
心が忙しすぎると、たとえ引退後に趣味三昧で多忙な生活を送っていても、心は感じるべきことを感じない、とも述べており、セネカはこれを「怠惰な多忙」と呼びました。また、「人間は考える葦である」という言葉で有名なパスカルは、この怠惰な多忙のことを、ディベルティスマン(divertissment)と呼びました。
本来は、楽しい、面白い、気持ちにしてくれる明るく軽妙で楽しい音楽でのことで、深刻さや暗い雰囲気は避けた曲風のことですが、パスカルの言うところの意味は、心を肝心でない事柄に向けて忙しくしてしまうことであり、日本語では一般的にこれは「気晴らし」と訳されるようです。
また、「人間は考える葦である」は、「葦のように人間はひ弱なものであるが、思考を行う点で他の動物とは異なっている」という意味のようです。ただの動物とは違うんだから、ちゃんと考えるべきことを考えろ、ということをパスカルは言いたかったのでしょう。
人の一生は考え続けることでもありますが、心を多忙にしすぎないこと、考えすぎないこと、そして、本当に必要なことだけに集中して考えながら毎日を大切に生きることが大事なようです。
自分のまわりに巻き起こった出来事にかまけて本当に自分に必要なことが考えられず、毎日怒りの連続であったことが、ひばりさんと村下さんの命を縮めたのかもしれません。