人身御供と人柱

青空に映える
暑い日が続きます。もう少し雨が欲しいなと思うのですが、先日書いたとおり、やはり空梅雨のようで、少量降ったとしても長続きせず、庭への木々への水道水からの水遣りは欠かせません。

少々雨乞いしたくらいでは雨も降りそうもありませんが、かといって大昔の日本や中国のように人身御供を天に捧げるわけにもいきません。

大昔の中国では、さかんに生贄が捧げられたそうで、ただ、これは必ずしも雨乞いだけのためではなく、地震や洪水などの大規模な災害が起こることに備えての災害発生予防のためでもあったようです。

もっとも自分のテリトリーの身近な人間を人身御供に捧げるのはやはりためらわれたようで、この際には、捕らえた異民族のほうを優先していたようです。

しかし、やはり古代中国の人間にも憐憫の心はあったとみえ、こうした捕虜たちの処遇をどうするかについては占いで決めていたようで、その占い結果を表したと見られる甲骨文字がいくつか出土しています。

これらの出土品から、紀元前の1000年から1700年の殷代にはさかんに人身御供が実施されていたことが実証されています。ある墓からは45人分の殉葬者の人骨が出土した例もあり、また、殷墟の宮殿の基壇の跡からは850人分の武装した軍隊の人骨が戦車(馬車)ごと出土したといいます。

ただ、捕虜ばかりではなく、殷の国民自身も時には人身御供の対象にされていたと推測されているそうで、これらの中に身分の高い人が含まれていたことがその証拠だとか。

が、いずれにせよ、気紛れな自然に対する畏怖のための風習とはいえ、古代社会では自国、他国を問わず人命といえどもかなり軽く扱われていたという印象はぬぐえません。

もっとも、このころには現代のような発達した科学技術があるわけではなく、災害対策といっても人間が具体的にできることは限られていました。災害や飢饉によって人の命は簡単に失われる物であり、それならばいっそのこと、自然が飢えて生贄を求め猛威を振る前に、人身を捧げる事で災害の発生防止を祈願しようとしたのでしょう。

しかし、さらに時代が進んで、紀元前200~400年の戦国時代になると、中国各地に割拠していた国々の中の、例えば「魏」では、人身御供の儀式をやめさせ国を発展させようという機運が出てきました。

この魏には、西門豹(せいもんひょう)という優れた政治家がいました。孔子の弟子に、子夏(しか、別名「卜商」)という高弟がおり、孔門十哲の一人とされていましたが、この子夏の門下生でした。

そして同じく弟子であった李克という人の紹介で彼が使えていた魏の王様、文侯に仕えるようになり、現在の河北省の鄴(ぎょう)という土地の知事に起用されました。

実は、この鄴という土地は、非常に荒れ果てた土地であり、彼の地の人々達は、毎年のように水不足に苦しみ、ときには飢饉にも見舞われていて人心も非常に荒廃していました。そこで文侯は、初めて採用した西門豹をここに使わし、その実力のほどを試そうとしたのです。

そんなことは全く知らされていない西門豹は、鄴に赴任してきてまず、地元の農民達を集め、どんな苦難があるか聞きました。

当時鄴ではこの地に伝わる迷信のため、毎年に河に住む神(河伯)に若い女性を人身御供のために河に沈め、また巫女や三老と言われる長老や儀式を管理していた役人にも多大な財産を差し出すということがしきたりとなっており、農民たちは口々にその惨状を訴えはじめました。

それによれば、巫女や役人に供せられる金銭は膨大なもので、民衆の生活が困窮するほどでしたが、実際には儀式に使われるのはそのほんの一部で、残りは巫女や三老、役人達が山分けしていたのでした。

また、人身御供に年頃の娘を差し出すことを強要されていたため、娘がいる家では鄴を捨てて国外へ逃亡し、こうした農家が管理していた田畑は荒れ放題となっていました。

これを聞いた西門豹は「横取りされているのが解っているならば、止めればよいではないかと」農民たちに言いましたが、彼らは「そんなことをしたら河の神のお怒りを買ってしまいます」と答えました。

実は、自分ことを西門豹に話したことが分かれば役人たちからまたどんなひどい目に合うかがわからないため住民たちはそう答えたのですが、これを聞いた西門豹は「なるほど、わかった」とだけ答え、農民達を帰しました。

青空をのぞむ

しかし、西門豹はこの迷信による長年の風習により、巫女・三老・役人らがこれに付け込んで村人の富を搾取して肥え太り、農民達が困窮したので土地が枯れたとことをちゃんと見ぬいていました。

更には、この土地を豊かにするためには、灌漑などの工事も必要だと考えましたが、この迷信を人々が信じている限り、なかなか河にも手を付けられないと判断しました。

そこで、まずは、人身御供の儀式が行われる日、西門豹これを見学したいと言って、護衛の兵士を伴って河岸へ行きました。河辺には既に巫女や役人、三老達とともに多数の見物人が居ましたが、そのそばには生贄にされる予定の女性も引き連れられて来ていました。

これを見た西門豹は、「これでは器量が悪すぎる。もっと良い娘を連れてくるのでしばらく待ってくださいと、河の神に伝えることにしよう」と周囲の者たちに言いました。

そして、「ただし、待ってもらう間にお怒りを買わぬためにも、このことを伝えるためには最も河の神と親しい者を遣わす必要がある」と、すぐそばにいた老巫女のほうを向き直り、彼女を指さしました。

役人たちはお互い顔を見合わせましたが、西門豹がうなずくと、その視線の先にある老婆を羽交い絞めにし、抗う彼女を河に投げ込みました。

西門豹は、巫女が沈んだ川面をしばらく見つめていましたが、やがて「神のもとに巫女を遣わしたが帰ってこない。様子を見てこられよ」と言い、この巫女の弟子の女官たちをも河に沈めるよう、兵士たちに命じました。こうして女官たちもすべて河に投げ込まれました。

しかしそれでも女官たちが帰ってこなかったことから、「巫女の弟子達も帰ってこないようだ。おそらく女ばかりを遣わしたので、河の神への願いが難航しているに違いない。続けてこれまでも河の神に貢献している三老に手助けをお願いしよう」と言い、そばにいた三老達も河に沈めるように兵士たちに命じました。

ここまでのことを見ていた農民たちは、あまりのことに誰もが唖然としていましたが、一人毅然と川岸に立つ西門豹は何か神々しく、まるで河の神がそこにいるかのようでした。

西門豹は更にしばらく川面をみつめていましたが、やがて「おかしいぞ。三老も帰ってこない。だとすると、次に遣わすべきは、これまで河の神のために多額の金銭を集めてきた役人であろうか」と役人達のほうを向いて静かに言いました。

役人達はたちまち真っ青になり、「どうかその任だけは何卒お許しください」と平伏して詫びました。役人たちの顔色はどれも血の気が引いて土のような色になっていたといい、わなわなとふるえながら頭を地面に押し付けすぎたため、額からは血がにじむほどであったそうです。

西門豹は静かに彼らの様子を見ていましたが、やがて川面のほうに視線を戻し、まるでひとりごとのように、「どうやら今日の河の神は客人をもてなしただけで、帰さないようだ。いつ帰ってくるかもわからぬから、今日はもう皆も帰るがよい。ただ、もし誰かがまたこの儀式をやりたいならば、私のところにそう言いに来るがよい」と言いました。

役人も民衆もこのことばに恐れおののき、以後、こうした生贄の儀式は二度と行われなくなったといいます。この結果、この後は農民たちは貢物を搾り取られなくなるとともに、娘を差し出す必要もなくなり、以後村からの脱出者はいなくなっていきました。

迷信と権力者達は一掃され、役人も民衆も西門豹の言うことに従うようになっていったのです。



こうして悪しき風習を見事に配した西門豹は、次に鄴付近の村の長老を呼び集め、大規模な灌漑事業を起こすことを伝えました。遠くは黄河や漳河などの近隣の川から鄴の田畑へ水を引き、この地を豊にしようというのです。

ところが、この大事業に対して長老や鄴の人々たちは「今のままでも暮らしてはいける。何故これほどのことをやらねばならぬのか」と不平不満を漏らしました。これに対して、西門豹は「いつの世も民とは結果だけは共に喜べるが、その始まりを共に考えることは出来ない」と嘆息したといいます。

そして、周囲にいた部下たちに向かって「父兄が不満を言っているのは分かっている。しかし、最初は彼らすべてが理解する必要はない。結果が彼らの子や孫のためになればよいのだ。100年後かも知れないが、必ず評価されるだろう」と述べ、工事の遂行を強行させたといいます。

この結果、大規模な灌漑事業により、その後の鄴の農業は大きく発展し、魏は強国となっていきました。このころの魏は晋の属国であり、文侯もまた晋の陪臣でしたが、こうして国が強固になっていく過程でその発言力も強まり、やがてそれまでの地位を脱して周の諸侯に列するようになり、やがては戦国七雄に数えられるまでになりました。

このころまでに鄴の人々は、自分達が食べる分には困らなくなり、そればかりか他国へ分け与えられるほどの十分な穀物を得ることができるようになっていたといいます。

倒木

こうして西門豹はよく鄴を治め、その富を増やすことで魏の立国にも大きく貢献しましたが、そうした成功にも奢ることはなく、僅かでも私利を貪ることはなかったといいます。

ところが、文侯の取り巻きには厳しく、彼らが賄賂を要求しても拒んだため、中央での評価は良くありませんでした。やがて取り巻き達は文侯に対して、西門豹の中傷を吹き込むようになり、やがて文侯もこれに動かされ、西門豹が業績の報告に来た際に、鄴の知事を解任する、と告げました。

すると西門豹はすぐに文侯の下に平伏し「私は間違っておりました。心を入れ替えますので、今一度機会を下さい」と懇願したといいます。文侯は哀れに思い、再度鄴の知事に任じました。

そして、鄴へ帰った西門豹はこともあろうか民衆に重税をかけるようになり、絞りとったものを文侯の取り巻きにせっせと贈るようになったといいます。

そして、その報告のために再度文侯のもとを訪れたとき、文侯は彼を労うために、自ら宮殿の入り口まで出迎えました。

そして、城へ入る前の門前で西門豹は文侯にこう言いました。

「私は全力で民と文侯様のためになるように鄴を治めてまいりましたが、文侯様は一度私を解任しようとされました。そして今度は文侯様の取り巻きのために治めましたところ、文侯様は私を労われました。かつて私は文侯様から鄴の国の民のために働くように言われ、長年勤めてきましたが、今回のことで誰のために鄴を治めてきたのか判らなくなりました。」

文侯は黙って西門豹を見つめていましたが、やがて目を伏せて悲しそうな様子を見せました。そんな文侯に向かって西門豹は、ひとこと「役目は返上させて頂きます」と言い残して去っていきました。

城へ戻った文侯は、しばし黙考していましたが、やがて自らの不明に気づき、慌てて西門豹を追いかけさせましが、その後、彼の行方をつかむことはできなかったといいます……

……何分にも紀元前のお話ですから、このはなしのどこまでを信じていいのかはわかりません。

が、鄴の人々はのちのちまでこの西門豹の業績を称えたといいます。その後、紀元前に魏に代わってこの地を征服した漢王朝が、この西門豹が作った水路を改修し、自分たちの都合の良いように流路を変える命令を出した際、西門豹が統治していたころのことを知る土地の古老達はこれに強行に反対し、命令を却下させたという言い伝えが残っています。

地元の人に、後世にまで大いにその業績が評価されていたということの表れでしょう。このためか、彼の祠だとされる「西門豹祠」が、漳河河畔の鄴の故地である安陽市付近には多数残っているといいます。

また、のちの三国時代の曹操がその死に瀕したとき、「西門豹祠近くの西に私の墓を作れ」と遺言しており、相当な敬意を持っていたことがわかります。現在の中国でも西門豹のことは教科書などに載っていて、日本ではあまり知られていませんが、有名な人のようです。

こうした西門豹の活躍もあり、その後中国各地では人身御供の習慣は廃れていったようです。秦の始皇帝陵の副葬品である陶製の兵馬俑は、かつての人身御供がそれまでとは形を変えたものと推定されており、これ以後の時代の発掘墓からは大量の人骨が出るといったことは少ないそうです。

逆光の中で

ところが一方の日本では、舎人親王らが養老4年(720年)ころに完成させた、「日本書紀」』に登場する大阪府の「茨田堤」の建設に関する記事の中に人柱に関する記載があるそうで、このほか、同時代の長野県の諏訪大社や奈良県の倭文神社などでも人身御供にまつわる話が残っているといいます。

日本では、人身御供のために犠牲となった人間のことをよく「人柱」といい、「白羽の矢が立つ」ということばは、この人柱を差し出す家に白い羽がついた矢が刺さったことに由来しています。

無論この矢は人為的に立てられたものではあるわけであり、匿名の誰かによる指名行為であった訳なのですが、この匿名者とはいうまでもなく時の権力者たちだったことでしょう。

しかし何も知らないこの当時の人々はこれが「神意」によるものだと信じ、この矢が家屋に刺さった家では、所定の年齢にある家族を人身御供に差し出さなければならないという風習になっていきました。

なぜ白い羽なのかはよくわかりませんが、「白」は古来から神聖な色であり、白羽の矢は何等かの霊的な存在が目印として矢を送ったのだ、と考えられたわけです。

近江国伊香郡(現滋賀県長浜付近)には、水神に対して美しい娘の生贄を奉るという風習がかつてあり、当地では生贄となる娘は必ず片目が選ばれたそうです。柳田國男の「日本の伝説」によれば、神が二つ目を待った者より一つ目を好んだからだそうで、一つ目の方が神と一段親しくなれたのだそうです。




生贄としては、人ではなく、動物が捧げられることもあったようですが、例えば神の贄として魚が選ばれたときには、これをわざと片目にするということなども行われていました。

実は静岡には、人身御供や人柱の伝説が多いのだそうです。その例としては、富士吉原市の三股淵、浮島沼の人身御供や磐田市の見附天神の人身御供などがあって、これらの生贄伝説は学者たちの間でも結構有名なのだとか。

1967年に発行された富士吉原市の広報誌には、この三股淵の人身御供について触れられており、それによると、この三股淵の付近では毎年6月28日に祭りを行いますが、かつては12年に一度、通常の祭りとは別に人身御供を伴うお祭りをやっていたそうで。これは大蛇の怒りを鎮め大難を防ぐための祭りだったといいます。

この三股淵の例もそうですが、人身御供となる者の条件、人身御供の儀式についてその詳細が書かれていることはそれほど多くないようです。が、各地に残っている伝承などを総合すると、生贄となる者の条件は、だいたい15~16の少女で処女、ときには「美女」でなければならないという条件が付加されている場合もあったようです。

人身御供の方法としては、生贄に選ばれた少女が生きたまま淵に投げ込まれることもあったようですが、これではあまりにも無残なので、生贄自らが入水(じゅすい)の形を取ることが多かったといいます。

人身御供を捧げる相手は、大蛇や竜神などの特定の神である場合も多いようですが、生贄を捧げる相手はただ単に「神」であるとされる場合も多く、無論、日本における神々の多くは自然に存在する万物の「例え」であり、これらの怒りを鎮め、災害や厄災いが人々に降りかからないようにするための儀式にほかなりません。

このため、一般の女性だけではなく、神にその意思を伝える能力のある人物ということで、巫女が人身御供となったことも多かったと伝えられています。

こうした人身御供は、公共の面前で堂々と行われるというよりも、「秘事」としてこっそりと実施されることも多かったようです。

このため、ある日を境に村のある娘がいなくなるなどということはよくあり、これが人柱のためであるとうことを薄々知っている人もいたでしょうが、たいがいはこれを神隠しであるとか、神がかりであるとか言って済ませていました。

ところが、長い間には、どうやらこうした人身御供が「神事」として密かに行われているらしいことを土地の者が知るようになり、こうした神事は、祭日に行われることも多いことから、これを免がれんがために、祭日には娘を外出させないようにする、ということも行われたようです。

しかも、自分の土地の人間を生贄にはしたくないので、旅人を捕えて人柱にするということもやっていたようで、こうした噂が広まると、他国人の往来がなくなってしまう可能性もあることから、尾張藩などでは藩命をもってこうしたしきたりをやめさせようとした、という記録なども残っているようです。

ヤドリギ

ただ、ここまで書いてきたような人身御供、もしくは人柱は、あくまで「伝説」の域を出ないものも多いのは確かです。まがりなりにも人の命を軽々しく神に供するというのは、昔の人にとっても「禁忌」であり、実際に行われていたとしても、公の記録に残っているものは少ないわけです。

ただ、建築の時に人柱が埋められたという伝説が伝わる城郭はかなりあるようで、一方では「人柱のような迷信を禁じ、別の手段で代行して建築を成功させた」という名君の伝説が残っている場合などもあります。

これらの伝説の最近の実証研究の結果では、そうした専門家の一人は「城郭建築時の人柱伝説が立証されたケースは全くない。人柱に変えてなんらかの物を埋めたものが発見されることは存在する」と述べています。

ところが、城郭以外では、物証のあるものがいくつか発見されており、以下のような事例があります。ここに示した広島の吉田郡山城のように、人柱の代わりに石を埋めたという事例もありますが、これは逆にそれまでは人柱が立てられていたことを証明するものであると言われています。

○猿供養寺村の人柱(現・新潟県上越市板倉区猿供養寺)
鎌倉時代にここを訪れた遊行僧が、地すべり被害の絶えなかった土地の人々のため、自ら人柱となって災禍を止めたそうで、長らく伝説とされていたものの、1937年(昭和12年)にこの村の「正浄寺」というお寺の裏から大甕に入った推定年齢40歳前後の男性人骨が発見。

脚が太く腕は細いことから肉体労働者ではなかったと考えられ、座禅の姿勢で発見されたことから、史実であることが確認された。

○吉田郡山城の人柱代用の百万一心碑(広島県広島市、山口県山口市)
毛利元就が築城した時、石垣が度々崩れる為、巡礼の娘を人柱にする話が持ち上がった。しかし、元就が人命を尊重して人柱を止めさせ、「百万一心」の文字を石に書いて埋め、築城を成功させた。この石碑は幕末に発見され、明治時代に拓本が写しとられ、山口市内の豊栄神社に奉納されている。

○江戸城伏見櫓の人柱(東京都千代田区)
江戸城伏見櫓(現在の皇居伏見櫓)は、徳川家康が伏見城の櫓を解体して移築したものと伝えられているが、1923年(大正12年)に発生した関東大震災で倒壊し、その改修工事の最中、頭の上に古銭が一枚ずつ載せられた16体の人骨が発見された。

1603年~1614年の慶長期築城の時、伏見城の櫓を移築した後で人柱を埋めたものではないかといわれたが、人柱とするには余りにも粗末に扱われていることから江戸城研究家たちの間では、人柱説に対して否定的な意見がある。

○常紋トンネルの人柱(北海道北見市と遠軽町を結ぶ常紋峠直下)
難工事の末、1914年(大正3年)に開通した常紋トンネルは、1968年(昭和43年)の十勝沖地震で壁面が損傷したが、1970年(昭和45年)に改修工事が行われた際、立ったままの姿勢の人骨が壁から発見され、出入口付近からも大量の人骨が発見された。

それまでもタコ部屋労働者(略称:タコ)が生き埋めにされたことについて、当時のタコやその他関係者たちの証言もあったが噂にすぎないとされていたが、この遺骨群の発見によって、かねてより流布されてきた噂のうち人柱の件は事実であったことが証明された。

上記のうち、常紋トンネルの例はもっとも信憑性の高いものと言えます。この常紋トンネルの建設というのは、この当時かなりの難工事だったそうで、標高約300m、全長507mのトンネルを掘るのに3年を要したといいます。

この当時はまだ、日本政府による開拓・道路整備等が十分でなかったためであり、このため工事にあたっては凄惨過酷な「タコ部屋労働」が行われ、多くの工夫たちの犠牲をもって建設されたことでも有名です。

施工当時は、重労働と栄養不足による脚気から労働者は次々と倒れ、倒れた労働者は治療されることもなく現場近くに生き埋めにされたといいます。

このため、この当時から「常紋トンネルには人柱が埋まっており、彼らの亡霊がトンネルや信号場に出る」とい噂が鉄道員たちの間で絶えなかったといわれており、地震のおかげでこれが事実であることが確認されました。

このため、1980年(昭和55年)には、当時の留辺蘂町(現在は広域合併により北見市に編入)によって近くの金華駅西方の高台の小学校跡地に「常紋トンネル工事殉難者追悼碑」が建てられたそうです。

大正3年、1914年といえば、およそ100年前のことになり、かなり古い話とはいえ、日本が西洋文明を取り入れ、近代化の道を歩むようになって以降の話であり、結構ショッキングな出来事ではあります……

ひとり

さて、今日は、雨乞いの話に始まってとんでもない方向にまで来てしまいましたが、そろそろ終わりにしたいと思います。

今日の伊豆は曇りの予報でしたが、さきほどからまぶしい日差しが照りつけ始めており、セミの合唱も増えてきました。

みなさんの町はいかがでしょうか。暑さの中、脱水症、熱中症には気を付けましょう。かくいう私もこれから庭の雑草の処理にあたりたいと思いますが、ぶっ倒れないように気を付けたいと思います。

夏の伊豆に来られる方、ぜひとも雨乞いをお願いいたします……