ウンカとキリギリス

blog170523-9226富士山の雪が遠目にもかなり融けてきて、夏山になりつつあるのは明らかです。

暑さ厳しい季節に入りつつある証そのものであり、夏が嫌いな私にとっては、今年の夏もいつも通り暑いぞ~、と脅しをかけられているような気分になってきます。

とはいえ、富士山そのものに悪気があるわけでなし、日々変化する凛々しいその姿でどれだけ心が洗われていることか。がしかし、富士の守り神、木花咲耶姫もまた暑い夏がお嫌いだからこそ、その高嶺の涼しい場所に鎮座しておられるに違いありません。

そろそろ厚く着込んだ十二単を脱ぎ捨てて衣替えをされているに違いなく、もしかしたら、今日あたりは残雪を使ってかき氷など、召し上がっているかもしれません。

それにしても今日も暑くなりそうです。朝から気温がどんどん上がり、9時の時点でもう既に25度。まだ、5月だというのに…です。

ここは山の上ゆえに、やや気温は低いものの、午後には30℃まではいかないまでも、おそらくそれに近い暑気になるのではないでしょうか。

こうした暑さに誘われてか、虫が多くなってきました。先日、庭の水やりをやっている間に、今年初めて蚊に食われ、仕舞ってあったキンカンはどこかと探し回る、という一幕があったばかり。そろそろ虫よけスプレーを買い、蚊取りも求めて、これからのムシムシする季節に備える必要がありそうです。

ところで、虫といえば、その昔は、虫送り(むしおくり)という行事があったそうな。

虫追い(むしおい)ともいい、農作物の害虫を駆逐し、その年の豊作を祈願する目的で行われるこれは、今はかなり廃れてしまった日本の伝統行事のひとつです。

ちょうど春から夏にかけての今の時期、すなわち初夏のころ行われていた行事で、夜間たいまつを焚いて行います。一般的には藁人形をつくって悪霊にかたどり、作物を食い尽くす害虫をくくりつけて、鉦や太鼓をたたきながら行列して村境にいき、川などに流しました。地域によっては七夕の行事などと一緒にやることもあったようです。

しかし、明治時代以後、虫送りは各地で廃れていきました。農薬が普及するようになったことと、火事の危険などから行われなくなったことが原因のようです。

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とはいえ、長い歴史を持つす風習だけに、現在も続いているところもあちこちにあり、私の郷里の山口でも、長門市から下関市にかけての日本海沿いの北浦地方で「サバー送り」という虫送りの風習が残っています。萩藩やその支藩では、虫の害によって米の凶作が起こることも多く、その度に飢饉が生じたため、各地で虫送りが行われました。

北浦地方の場合、「サバーサマ」「サネモリサマ」という2体の騎馬武者姿の藁人形を作ります。それを自分たちの地域から隣の地域へ、さらに隣の地域へと、かつての村の境を幾つも越え、延々と送り出していく、リレー形式であるのが特徴です。どこまで行くかについては、その年によって異なりますが、最長では60km近くになるようです。

確認されたものでは最長約53kmあったそうで、そのときは約1ヵ月にわたって送り出されています。こういった形の虫送りは、全国的にもまれで、2009(平成21年)には、県の無形民俗文化財に指定されました。

この北浦地方の「サバー送り」「サバーサマ」のサバーとは、稲の害虫であるウンカなどを指します。時に、大発生して米の収穫に大打撃を与える、体長2~3cmほどのバッタとセミのあいの子のような虫で、ウンカは「浮塵子」と書きます。「「雲霞のごとく」、という表現がありますが、こちらは「雲」や「霞」のように人が集まっている、という場合に使い、虫のウンカとは関係ありません。

「サネモリサマ」のほうですが、こちらは、源平合戦で亡くなった老武士・斉藤実盛(さいとう さねもり)のことです。その死にざまから、無念の死を遂げた怨霊が稲を荒らすようになったという伝説があります。その怨霊を鎮めるために「サネモリサマ」として崇めるようになり、害虫であるウンカの化身であるサバーサマをよそへ連れて行っていただくよう祈る行事として「サバー送り」が定着したようです。

この北浦地方のサバー送りは、6月末から7月上旬にかけて長門市の飯山八幡宮で、地域の人々が藁人形を作ることから始まります。長門市中心部から南の山の手のほうに行ったところにある、東深川藤中(ふんじゅう)にある古社です。奈良時代に湊の浜にまつられ、平安時代初期に現在地に移されたと伝えられています

この神社で、宮司さんたち主導で、街の有志が藁の馬に人が乗った形の「サバーサマ」「サネモリサマ」を作ります。騎馬武者姿のこの2体の藁人形が出来上がると、顔には、白い半紙を貼り付け、目・鼻・口を描き、頭には紙で作った兜をかぶせ、背には羽織代わりに貼った紙に「一○」と書き、腰には木の枝で作った刀を差します。

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ネットで見つけた写真で見ると意外に大きく、中学生の背丈ほどもあります。2日間の神事の後、地域の人たちがこの藁人形を担ぎ、幟(のぼり)を持ち、鉦(かね)や太鼓をたたきながら八幡宮を出発し、長いリレーが始まります。その後は、車に乗せ換え、初日は旧長門市域と長門市街の西にある日置(へき)との境に藁人形を置いて立ち去ります。そこからは、子ども会などが徒歩や車で中継点まで運び、そっと置いて立ち去ると、また送り出されます。

このリレーは日置のさらに西にある、油谷(ゆや)に入っても同様に行われます。その後も、西へ西へと進み、各自治会や子供会などにより、数週間をかけ、最終的には下関市豊北町の粟野のあたりに達します。このあたりは、美しい海岸線が続く場所で、大きな海水浴場こそはありませんが、碧い海と岩礁帯、そして青い空との組み合わせが魅力です。

このころになると、藁人形はかなり傷んでいますが、見つけた人によってさらに運ばれ、置く場所も一定せず、どこまで行くかはその年次第です。豊北町には、このさらに西に、粟野以上に美しい海岸線のある角島という景勝地があり、このあたりまで行ったこともあるのではないか、と想像します。

豊北町では、この藁人形を運べば不幸にならないとされてきたため、その昔から誰がしかが見つけると、こっそりと別の村へと運び出す、ということが繰り返されてきたようです。ただ、近年では伝承を知らない人が増え、道端に放置された藁人形は、雨風に打たれるまま、そのうち朽ちていく、といったこともあったようです。

しかし、有形文化財に指定されてからは逆に有名になり、新聞なども取り上げるようになりました。今では、藁人形を見つけた子どもたちが、そのいわれを寺社や地域の古老に聞いて地域の伝承や歴史を学ぶ、ということもあり、古くからあるこうした風習を、社会教育的な意味合いを込めて紹介されることも多くなっているようです。

豊北へ来たあとの藁人形の行方は不定ですが、最終的には海に流されることが多いようです。誰がどういう基準で最後を決めるのかはよくわかりませんが、不幸の源とされるものはいつかは始末しなければなりません。その行先が海のかなたというのは、そこに冥土があると信じられてきたからでしょう。

こうした虫送りは、昔から全国的に見られる行事でした。しかし、現在では広域にわたり送り継がれる例は全国的にも稀となり、この山口県の例のようにヒトガタを用いて行われるものはかなり少なくなりました。山口県内でも数少なく、貴重なものであり、今後こうしたかつての農耕文化を象徴するような行事は長く伝えていってほしいものです。

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ところで、このサバー送りの「サネモリサマ」の語源となった、斉藤実盛ですが、なぜ害虫のシンボルになったかといえば、それは「平家物語」に書いてあった逸話から来ているといいます。

斎藤実盛が討たれる際、乗っていた馬が稲の切り株につまずいたところを討ち取られたといい、その後実盛は民間伝承の中に取り込まれ、稲を食い荒らす害虫(稲虫)ということで定着していきました。馬が切り株につまづいた、というのはちょっと想像しにくいシチュエーションですが、それがきっかけとなったとしたら、稲の切り株さえなければ~、と実盛が死後の世界で強く思ったとしてもおかしくはありません。

実盛にすれば、稲憎しだったわけですが、これが高じて稲を食い荒らす稲虫(ウンカ)に例えられ、あげくは実盛虫とまで呼ばれるようになりました。そして、虫送りのことを実盛送りまたは実盛祭とも呼ぶようになっていきました。

それにしても、この実盛とは実際にはどんな人物だったのでしょう。

調べてみると、平安時代末期に生きた武将のようです。時代背景を見てみると、ちょうどこのころが武士が台頭し始めた時期であり、武力を背景にさかんに朝廷の政治に口出しをするようになったころです。その結果として保元・平治の乱が勃発し、それを契機に朝廷の権威がゆらぐようになり、やがては平清盛の率いる平氏が台頭し始めた、という時代です。

実盛は、越前国の出で、武蔵国幡羅郡長井庄(現、埼玉県熊谷市)を本拠とする、長井別当と呼ばれる斉藤家の一子として、天永2年(1111年)に生まれました。このころの武蔵国は、相模国を本拠とする源義朝と、上野国に進出してきたその弟・義賢という両勢力の緩衝地帯でした。

源義朝といえば、あの有名な源頼朝・源義経らの父です。そのさらに父の源義家はもともとは畿内・河内の人でした。その死後、河内源氏は内紛によって都での地位を凋落させていましたが、都から東国へ下向した義朝は、在地豪族を組織して勢力を伸ばし、再び都へ戻って下野守に任じられました。その後勃発した保元の乱では、東国武士団を率いて戦功を挙げ、さらに勢力を伸ばしました。

実盛の本拠地は、現在の東京・埼玉にあたる武蔵国ですが、その南にある、現在の神奈川県にあたる相模国を支配していたのが、源義朝でした。逆に北側にある、上野国、現在の群馬県にあたる地域に進出し、支配をしていたのが、義朝の弟の義賢になります。

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実盛は初め、この兄のほうの義朝に従っていましたが、相模よりも大きな武蔵国と上野国を併せた地域で勢力を伸ばしていくほうが、今後関東地方に君臨していく上では有利と考えたのでしょう。義朝を見限って、やがて義賢の幕下に伺候するようになっていきます。

対する、義朝には、義平という長男がいました。通称は鎌倉悪源太といい、母は京都郊外の橋本の遊女とも言われ、源頼朝・義経らの異母兄にあたる人物です。勇猛果敢な武将として恐れられていました。

武蔵衆と上野衆の連合という、こうした動きを見ていたこの義朝の子、鎌倉悪源太・義平は、これを危険視し、ついに行動に出ます。そして、久寿2年(1155年)、義賢を急襲してこれを討ち取ってしまいます。「大蔵合戦」といい、ともに源氏であるこの両家の身内争いは、その後それぞれの後ろ盾である宮中の勢力の争いにつながっていったため、保元の乱の前哨戦とも言われています。

この実盛という人は、もともと旧恩には篤い性格だったらしく、義朝の元を離れて義賢の元に伺候するようになってからも、義朝への義理を忘れていなかったようです。そのためもあり、義賢が討たれるとみるや、今後の関東の勢力地図は義朝中心になっていくとみて、再び義朝・義平父子とよりを戻し、再びその麾下に入りました。

ただ、旧知の恩に報いるタイプ、というよりも、時勢のバランスを見ながら世を渡っていく、八方美人的な人物だったというのが正しい見方かもしれません。

この義朝・義平父子の配下には、もう一人畠山 重能(はたけやま しげよし)という人物がいました。大蔵合戦では、源義賢を討った立役者で、義平はこの重能に、義賢の子で2歳になっていた「駒王丸」を探し出して必ず殺すよう命じました。

しかし、見つけたその幼子に刃を立てる事を躊躇した重能は、その子をそのころ義朝・義平父子の部下に戻っていた斎藤実盛に託します。義賢に対する旧恩を忘れていなかった実盛はこれを了諾し、重能から密かに預かった駒王丸を信濃国へ逃しました。

信濃国には、木曾地方に本拠を置く豪族、中原兼遠という武将がおり、実はこの兼遠の奥さんが、駒王丸の乳母でした。そういった縁もあり、兼遠は斎藤実盛から、駒王丸が源義賢の遺児であることを聞かされると、ひそかに匿って養育することを約束します。

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こうして、駒王丸は兼遠一族の庇護のもとで成長し、長じてからは、育った土地にちなんで、「木曾」姓を名乗るようになります。義朝を叔父に持ち、つまり源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたるこの人物こそが、後に「旭将軍」と呼ばれ、頼朝・義経の最大のライバルとなる「木曾義仲」です。

保元の乱、平治の乱において実盛は、平家打倒を旗印に上洛する義朝の旗下、忠実な部将として奮戦します。しかし、やがて清盛率いる平家の逆襲に遭い、徐々に義朝は追い詰められていきます。東国で勢力挽回を図るべく東海道を下りますが、その途上度重なる落武者狩りの襲撃を受け、配下の重鎮たちは深手を負い命を落としていきました。

そんな中、義朝の三男の頼朝も一行からはぐれて捕らえられ、兄の義平は別行動で北陸道を目指して一旦離脱します。そして再び京に戻って潜伏し、生き残っていた義朝の郎党と共に清盛暗殺を試みますが、失敗してしまいます。

その後も、義平は近江国に潜伏して清盛を付け狙いますが、結局は平家の郎党に生け捕られ、六波羅へ連行され、清盛の尋問を受けます。義平は「生きながら捕えられたのも運の尽きだ。俺ほどの敵を生かしておくと何が起こるかわからんぞ、早よう斬れ」と言ったきり、押し黙ってしまったといいます。

やがて義平は六条河原へ引き立てられますが、その斬首の太刀取りに向かい、「貴様は俺ほどの者を斬る程の男か?名誉なことだぞ、上手く斬れ。まずく斬ったら喰らいついてやる」と言ったそうです。太刀取りが「首を斬られた者がどうして喰らいつけるのか」と言い返すと、「すぐに喰らいつくのではない。雷になって蹴り殺してやるのだ。さあ、斬れ」と答え、義平は斬首されました。このときの義平の享年はわずか20でした。

この話には後日談があります。それから8年後、この太刀取りだった、難波経房という人物は、清盛のお伴をして摂津国布引の滝を見物に行きました。すると、にわかに雷雨となり、激しい雨の中、突然稲光が光ったと思うと、あっという間に雷に打たれて死んでしまったといいます。はたしてこの雷を落としたのは義平だったのでしょうか。

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一方、父の義朝も平家軍との緒戦での連敗を重ねます。やがては馬も失い、裸足で尾張国野間(現愛知県知多郡美浜町)にたどり着き、年来の家人であった長田忠致とその子・景致のもとに身を寄せました。しかし、恩賞目当ての長田父子に裏切られ、入浴中に襲撃を受け、ついには殺害されました。

伝承によれば、義朝は入浴中に襲撃を受けた際、最期に「我れに木太刀の一本なりともあれば」と無念を叫んだとされます。義朝の墓はその終焉の地である野間大坊と呼ばれる真言宗の寺院の境内に存在し、上記の故事にちなんで多数の木刀が供えられています。また、境内には義朝の首を洗ったとされる池があるそうです。

こうして義朝そその傘下の武将たちが次々と平家に捕えられ、命を落としていく中、義朝たちと行動を共にしていた実盛だけは、関東に無事に落ち延びました。

通常ならば、ここで命運が尽きてもよさそうなものですが、しかし、ここでも実盛はその八方美人的な才能?を発揮して生き延びます。

その後平氏隆盛の世の中になることに気付くと、今度は逆に平家に仕え、東国における歴戦の有力武将として重用されようになっていきました。そのため、治承4年(1180年)に義朝の子・源頼朝が挙兵しても平氏方にとどまり、平清盛の嫡孫、平維盛の後見役として頼朝追討に出陣しています。

その後、平氏軍は富士川の戦いにおいて、伊豆で蜂起した頼朝に大敗を喫します。

富士川の戦いとは、駿河国富士川で源頼朝らと平維盛が戦った合戦です。石橋山の戦いで敗れた源頼朝が安房国で再挙し、集めた東国武士による大軍と、都から派遣された平維盛率いる追討軍とが戦ったもので、この戦いに勝利した頼朝はその後、鎌倉幕府の基礎を東国で築いていくようになります。

この富士川の戦いでは、平氏軍が突如撤退し、大規模な戦闘が行なわれないまま戦闘が終結しました。この件に関しては以下のような逸話が有名です。

両軍が富士川を挟んで対峙していたその夜、頼朝方の武将、武田信義の部隊が平家の後背を衝かんと富士川の浅瀬に馬を乗り入れました。それに富士沼の水鳥が反応し、大群が一斉に飛び立ち、これに驚いた平家方は大混乱に陥りました。兵たちは弓矢、甲冑、諸道具を忘れて逃げまどい、他人の馬にまたがる者、杭につないだままの馬に乗ってぐるぐる回る者までおり、集められていた遊女たちは哀れにも馬に踏み潰されたといいます。

平家方は恐慌状態に陥った自軍の混乱を収拾できず、総崩れになって逃げ出し、遠江国まで退却しますが、軍勢を立て直すことができず、全軍散り散りになり、維盛が京へ逃げ戻った時にはわずか10騎になっていたそうです。

この話にはもうひとつ逸話があり、実はその敗因の原因のひとつには、実盛の存在が大きかったのでは、といわれています。このころ69歳になっていた実盛は、事あるごとに頼朝ら東国武士の勇猛さを日ごろから説いていたといい、このため、維盛以下味方の武将の多くはついには過剰な恐怖心を抱くようになったといいます。

その結果水鳥の羽音を夜襲と勘違いしてしまった、という説ですが、事実がどうかはわかりません。が、それだけ平家は武士というよりも公家化しており、維盛軍は烏合の衆だったわけです。戦わずして負ける、とよく言いますが、源氏側にすれば勝つべくして勝ったと言っていいでしょう。

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その後、実盛は72歳まで生き延びます。寿永2年(1183年)には、再び維盛らと、今度は木曾義仲追討のため北陸に出陣しました。

このころの義仲はというと、これに遡ること3年前の治承4年(1180年)、以仁王が全国に平氏打倒を命じる令旨を発したのち、これに賛同して行動をともにすることを誓います。兵を率いて北信で平家と戦う源氏方の救援に向かい、さらには頼朝勢力が浸透していない北陸に進出して、ここで勢力を広めていました。

実はこのころから、義仲と頼朝との関係は急速に悪化しており、同じ平家打倒を掲げていながら、両者は反目するようになっていきます。そのきっかけは、頼朝と敵対し敗れた、父義賢の弟、源義広(志田義広)と、同じく頼朝から追い払われた叔父の源行家が義仲を頼って身を寄せたことにあるといわれています。

この2人の叔父を庇護した事で頼朝と義仲の関係は悪化し、ついには直接戦うに至ります。そして、このわずか一年後の、宇治川や瀬田での戦いで、義仲は源範頼・義経率いる鎌倉軍に敗れ、その後近江国粟津(現在の滋賀県大津市)であっけなく討ち死にしています(享年31)。

木曾義仲は、頼朝や義経ほどではないにせよ、多くの武勇伝がある武将です。が、本項では主人公ではないため、ここではこれ以上詳しくは述べません。

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とまれ、このころはまだ義仲も頼朝の部下として北陸方面で元気に奮戦していた時期であり、破竹の勢いで、各地の平家軍を蹴散らしていました。無論、平家方に付いていた実盛とは敵味方同士です。

こうした中、勢力を強める義仲を討伐しようと、平維盛らは実盛らの旗下の兵を率いて、義仲が牛耳る北陸へと出陣してきました。しかし、加賀国の「篠原の戦い」では、緒戦の倶利伽羅峠の戦いで敗れたところへ、義仲らの源氏軍からの追走を受け、平氏軍はほとんど交戦能力を失い惨憺たる体で壊走しました。

平氏側は甲冑を付けた武士はわずか4,5騎でその他は過半数が死傷、残った者は物具を捨てては山林に逃亡しましたが、ことごとく討ち取られました。平家一門の平知度が討ち死にし、平家第一の勇士であった侍大将の平盛俊、藤原景家、忠経らは一人の供もなく逃げ去ったといいます。

味方が総崩れとなる中、覚悟を決めた実盛は老齢の身を押して一歩も引かず奮戦し、ついに義仲の部将・手塚光盛によって討ち取られました。このとき、その死の原因となったのが、最初に述べた、稲の切り株に馬がつまづいたことだったとされるわけですが、なにぶん900年以上も昔の話であり、本当かどうかを証明するものは何もありません。

ただ、この際、出陣前からここを最期の地と覚悟しており、「最後こそ若々しく戦いたい」という思いから白髪の頭を黒く染めていた、という話が残っているようです。このため首実検の際にもすぐには実盛本人と分かりませんでしたが、そのことを義仲は、側近の樋口兼光の口から聞きます。

この樋口兼光とは、義仲を実盛から預かった、あの中原兼遠の息子であり、義仲が駒王丸と呼ばれていたころのあの乳母の息子でもあります。乳母子として義仲と共に育ち、長じてからは忠臣として義仲に従って各地を転戦し、上の倶利伽羅峠の戦いなどでも重要な役割を果たしています。おそらくは、母である乳母伝いに、武蔵国にいたころの知人から実盛の近況を聞き及んでいたのでしょう。

義仲は、これを聞き、その首を付近の池にて洗わせたところ、みるみる白髪に変わったといい、これで実盛の死が確認されました。

このとき、かつての命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は、人目もはばからず涙にむせんだといいます。

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こうして実盛の死から長い年月が経ちました。それから約230年後の室町時代前期の応永21年(1414年)3月のこと、加賀国江沼郡の潮津(うしおづ)道場(現在の石川県加賀市潮津町に所在)というところで、浄土宗の僧たちが庶民とともに七日七夜の念仏勤行を行っていました。

そうしたところ、突然、白髪の老人が現れ、居合わせた「太空」という高僧から十念(「南無阿弥陀仏」を十回称える作法)を受けるやいなや、諸人群集のなかに立ち入り、そのまま忽然と姿を消してしまったといいます。

このことは噂として広まり、この老人こそが、源平合戦時に当地で討たれた斉藤別当実盛の亡霊との風聞がたちました。太空はその供養を決め、卒塔婆を立てて、その霊魂をなぐさめたといいます。のちにこの話は、観阿弥とともに謡曲の祖といわれる猿楽師、世阿弥のもとにもたらされ、謡曲「実盛」としても作品化されました。

以来、浄土宗の盛んな地域を中心に、実盛の供養が慣例化するようになるとともに、謡曲として実盛が演じられる機会も増えることになりました。やがては、それらが虫送りの風習とつながり、住民の間では夏を迎える行事として定着するようになっていったのでしょう。

実盛が最後を迎えた「篠原の戦い」の古戦場は、現在の加賀市の片山津温泉から2kmほど北西に行ったところの、海岸に近い場所にあります。現在ここには「篠原古戦場跡実盛塚」がという碑とその説明文の立札が建てられています。また、ここから東へ1.4kmほど離れたところには、実盛の首を洗ったとされる池も残っています。

さらに、この実盛がかぶっていたとされる兜が、ここから10kmほど東の小松市内の多太神社に残されています。実盛が討たれたあと、木曽義仲が実盛の供養と戦勝を祈願して当社へ兜を奉献したものとされ、現在、国の重要文化財となっているようです。同神社では、現在でも回向が行われているといいます。

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実は、江戸時代の元禄二年(1689)に、かの有名な俳人、松尾芭蕉もこの地を訪れています。

奥の細道の途次、旧暦の七月二十四日(現8月27日)に北陸路を金沢から小松へ入り
ここに宿泊して、句会を開催。多太神社にも詣でて、実盛の兜や袖を拝観しました。このとき、木曽義仲と斉藤実盛の数奇な巡りあわせに思いをはせ、詠んだといわれるのが、有名な次の句です。

「むざんやな 甲の下のきりぎりす」

句中の「きりぎりす」は、秋の季語であって、実際のキリギリスのことではありません。この場合、全国あちこちでよくみられる、ツヅレサセコオロギのことだと言われています。2~3cmの小型で黒い色をしており、農耕地、庭、草地に生息します。成虫は夏から秋に出現し、家屋内に入ってくることも多く、見たことがある人も多いでしょう。

中国では、このツヅレサセコオロギを喧嘩させて楽しむ闘蟋(とうしつ)という遊びがあり、この国の伝統的昆虫相撲競技です。子供の楽しむ純娯楽的なものではなく、闘犬、闘鶏、闘牛に近く、あるいはタイ王国の国技「ムエタイ」のような国技だといいます。

奇妙な名前ですが、漢字では「綴れ刺せ蟋蟀」と書くそうです。これは、かつてコオロギの鳴き声を「肩刺せ、綴れ刺せ」と聞きなし、冬に向かって衣類の手入れをせよとの意にとったことに由来するそうです。

で、芭蕉の句に戻って、「むざん」とは、いたわしい、ふびんなこと。「いまは秋、コオロギが一匹、兜の下で鳴いている。このコオロギは実盛の霊かもしれない。おいたわしいことである。」という鎮魂の感情を表した句です。

謡曲の「実盛」にも、「むざんやな」という表現があり、芭蕉の句はそれを引用したと言われています。

それにしても、コオロギが鳴き終わる秋は当分来そうもありません。ウンカやコオロギが死に絶え、私の大嫌いな夏の終わりが一日でも早く来ることを祈りつつ、今日の項を終えたいと思います。

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カメリア

2015 (1 - 1)

行楽の秋だというのに、ここのところ天候不順で、今日の伊豆も一日曇りがちです。

そろそろ、あちこちに紅葉の撮影に出たいと思っているのですが、こう天気が悪いと出鼻をはじかれたような気分になります。

「さざんか梅雨」というのだそうで、11月下旬から12月上旬にかけての、サザンカが咲くころに降るためこの名前がつけられたようです。

ただ、10月ごろまでに続く「秋雨」とはまた違うようで、毎年あるというわけでもないようです。確かに去年の今頃は天候に恵まれ、毎日晴れていたように思います。

気象庁は何の関連性もアナウンスもしていませんが、これは現在南米で発生しているエルニーニョと関係があるのではないかと私は思っています。

南米の太平洋沖での海水温が異常に高い状況が長く続く現象であり、その影響を受けてか、ここのところ暖かい日が続いています。冬になり、北から入ってくる冷たい空気と暖かい海水のせめぎ合いが、この不安定な天気を造りだしているのでしょう。

ところで、サザンカとツバキは何が違うのでしょうか。調べてみると、いずれもツバキ科ツバキ属に属する近縁種です。しかし、サザンカは秋の終わりから、冬にかけての時期に花を咲かせますが、ツバキの花期は冬から春にかけてです。ツバキの中にも早咲きのものは冬さなかに咲くものがあるようですが、一般には早春に咲く花とされているようです。

また、ツバキは日本が原産のようですが、サザンカは日本以外にも中国や台湾、インドネシアまで幅広くみられ、これらの国で園芸品種として改良されて日本に入ってきたものも多いようです。

このほかのツバキとサザンカの違いとしては、サザンカはめしべや葉柄(葉と茎を繋いでいる柄)に毛がありますが、ツバキにはありません。

さらに、ツバキは花弁が個々に散るのではなく、花ごとボトッと落ちます。一方のサザンカは、個々に花びら散ります。花が丸ごと落ちることから、その昔の武士は首が落ちる様子に似ているというのを理由にツバキを嫌った、という話があります。

その一方で、ツバキの木質は固く緻密、かつ均質で、木目は余り目立たないことから工芸品、細工物などに使われ、摩耗に強くて摩り減らない等の特徴から印材や将棋の駒として使われます。

また、ツバキの木炭は品質が高く、椿油は、高級食用油、整髪料として使われてきました。日本が原産でこのように古来から日本人には愛されてきた、という意味でもサザンカよりもツバキのほうがより日本的な花といえるかもしれません。

いずれも多数の園芸品種があり、どちらが好きかは好みによります。が、サザンカのほうは、明治時代以後のごく最近になって流行するようになった花のようです。ツバキよりもよりあでやかな品種が多いことから、近年ではサザンカを好む人のほうが多いのではないでしょうか。

一方のツバキのほうはとくに江戸時代には江戸の将軍や肥後、加賀などの大名、京都の公家などが園芸を好んだことから、庶民の間でも大いに流行しました。

1600年代初頭までには多数の園芸品種が生み出され、1681年には,世界で初めて椿園芸品種を解説した書物が当時の江戸で出版されています。

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江戸時代には逆にこの日本原産のツバキが海外へ輸出され、人気を博しました。17世紀にオランダ商館員のエンゲルベルト・ケンペルがその著書で初めてこの花を欧州に紹介したのがきっかけであり、後に、18世紀にイエズス会の助修士で植物学に造詣の深かったゲオルク・ヨーゼフ・カメルはフィリピンでこの花の種を入手してヨーロッパに紹介しました。

その後スウェーデンの博物学者、植物学者であり、「分類学の父」として高名なカール・フォン・リンネがこのカメルにちなんで、椿に「カメル」という名前をつけましたが、これが今日、英語でツバキのことをキャメリア(日本語ではもしくはカメリア、Camellia)とする語源になっています。

19世紀には園芸植物として流行し、今日、オペラとしても上演されることの多い「椿姫」にも主人公の好きな花として登場します。フランスの劇作家、アレクサンドル・デュマ・フィスが小説として描いたものを、イタリアのロマン派音楽の作曲家、ジュゼッペ・ヴェルディが、1853年にオペラとして完成させたのがはじまりです。

ヴェルディの作品は、この椿姫だけでなく多数のものがその後世界中のオペラハウスで演じられるようになり、またジャンルを超えた展開を見せつつ大衆文化に広く根付いています。イタリア・オペラに変革をもたらしたとされ、現代に至るまでもオペラ界では最も有名な作曲家です。

彼が創作した「椿姫」もまた、オペラ史上、最も有名な作品と言っても過言ではないでしょう。

しかし、この作品の初演は大失敗に終わったそうです。これはパリ社交界の高級娼婦が主人公という設定がイタリアの聴衆には馴染めず、さらに、ヒロインであるヴィオレッタ役の歌手があまりに太っていたというのが失敗の原因だったそうです。しかし、初演から2か月後に行われた再演では主役を変え、今度は大喝采を浴びました。

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この椿姫のストーリーですが、私もタモリさんと同じでオペラやミュージカルの類が苦手なので、見に行ったことがありません。が、あえて調べてみると、時は19世紀半ば、舞台はパリです。

夜の世界、これをフランス語では「ドゥミ・モンド」といい、裏社交界のことです。その世界に生き、月の25日間は白い椿を身に付け、残り5日の生理期間には赤い椿を身に付けたために人々から「椿姫」と呼ばれた高級娼婦ヴィオレッタ・ヴァレリーは贅沢三昧の生活に心身共に疲れ果てていました。

そこに現れたのが友人に紹介された青年、アルフレード・ジェルモンでした。青年の正直な感情に最初は戸惑いを覚えていたヴィオレッタでしたが、今まで感じ取ったこともない誠実な愛に気づき、二人は相思相愛の仲となります。

ヴィオレッタは享楽に溺れる生活を捨て、パリ近郊にあるアルフレードの別荘で彼ととともに幸福の時を過ごすようになります。

しかし、その生活は長くは続きませんでした。息子のよからぬ噂を聞いて駆けつけたアルフレードの父親が、アルフレードの妹の縁談に差し障りとなるので、息子と別れるよう彼女に迫ったのです。ヴィオレッタは自分の真実の愛を必死で訴えますが、受け入れられず、悲しみの中で別れを決意。家を出ていきます。

彼女が残した置き手紙には別れの理由は何も書かれておらず、手紙を読んだ何も知らないアルフレードは、彼女の裏切りに激怒します。

その夜、ヴィオレッタはパリの社交界に戻り、かつてパトロンだった男爵に手を引かれて現れます。彼女を追ってきたアルフレードは、ヴィオレッタが男爵を愛していると苦しまぎれに言うのを聞いて逆上し、社交界の大勢の人前で彼女をひどくののしりました。

侮辱され、ヴィオレッタは悲しみますが、しかし彼を心底愛していたため、その場で反論もできません。数カ月後、ヴィオレッタは自宅のベッドで横になっています。実は難病におかされていて、死期が近づいていたのです。

そこへ駆け込んでくるアルフレード。いまや全ての事情を父から聞いた彼は、彼女に許しを請います。二人はまたいっしょに暮らすことを誓いますが、時はすでに遅く、ヴィオレッタは過ぎ去った幸せな日々を思い出しながら、アルフレードに抱かれて静かに息を引き取ったのでした……。

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この椿姫は、その後世界中で上演され、現在でも数あるオペラ作品の中でも最も人気のあるひとつのようです。その後2008年にイギリスで「マルグリット(Marguerite)」の名前で翻案したミュージカルとなり、日本でも赤坂ACTシアター、梅田芸術劇場、日生劇場で2009年に初演、2011年に再演されました。

この赤坂での初演では、その直前に東日本大震災が発生し、開始が延期された、ということもあったようです。初演の際にマルグリットを演じたのは、宝塚歌劇団退団後初めての舞台出演であった、春野寿美礼さん、再演の主演は、今なにかと結婚話で話題になっている、藤原紀香さんでした。

一方、この椿姫を創作したヴェルディは、イタリア、パルマの町のフィルハーモニー楽団の音楽監督をやっていた22歳のとき、17歳のときから付き合っていたマルゲリータ・バレッツィと結婚しました。

結婚後、一男一女を設けましたが、ところがこの二人は幼くして亡くなってしまいます。また、彼が27歳のとき、妻のマルゲリータは脳炎に罹って亡くなってしまいました。妻子を全て失ったヴェルディの気力は萎え、そのころ仕上げた「一日だけの王様」というオペラもスカラ座の初演で散々な評価を下され、公演は中断される始末でした。

ヴェルディは打ちひしがれて閉じこもり、もう音楽から身を引こうと考えましたが、その年も押し迫ったある日の夕方、街中で、スカラ座の支配人、メレッリと偶然会いました。メレッリは彼を強引に事務所に連れ、旧約聖書のナブコドノゾール王を題材にした台本を押し付けましたが、やる気のないヴェルディは帰宅し台本を放り出しました。

ところが、開いたページにたまたまあった台詞「行け、わが思いよ、黄金の翼に乗って」が眼に入り、再び音楽への意欲を取り戻したといわれています。構想に構想を重ね、翌年秋に完成させた「ナブッコ」は、謝肉祭の時期に公演される事になり、様々な準備を経て1842年3月9日にスカラ座で初演を迎えました。

この演目は、旧約聖書の時代に題材をとり、バビロニア国王ナブッコと、勇猛なその王女アビガイッレに率いられたバビロニアの軍勢がエルサレムを総攻撃している、という設定で始まります。その後、王女アビガイッレと敵エルサレムの王子との恋愛などが展開され、王ナブッコとエホバの神との交わりなども壮大なスケールで描かれた一大叙事詩でした。

その上演の結果といえば、観客は第1幕だけで惜しみない賞賛を贈り、挿入歌、「行け、わが思いよ、黄金の翼」の合唱では、この当時禁止されていたアンコールを要求するまで熱狂しました。

これは、この歌がかつてミラノが支配されていた時代を歌ったものだからです。観客はこの中で追放されるミラノの奴隷の悲嘆に触れて国家主義的熱狂にかられました。現在のイタリアでも大変人気があり、「行け、我が想いよ」は第2のイタリア国歌とまで言われているようです。

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こうして「ナブッコ」の上演は大成功に終わり、1日にしてヴェルディの名声を高めました。

その後ヴェルディは再婚しています。かねてより知り合いだった2歳年下のソプラノ歌手のジュゼッピーナ・ストレッポーニがそのお相手です。フランスとイタリアの境にある古都、サヴォアの町で45歳の新郎と43歳の新婦は、馬車の御者と教会の鐘楼守だけしか参列しない簡単で質素な式を挙げました。

その後、80歳を越えるまでも精力的に活動し、多くの名作を作り上げましたが、晩年には若いころにイタリア北部郊外のサンターガタ(ヴィッラノーヴァ・スッラルダ)に購入していた農場に戻り、音楽ではない仕事に熱心に取り組みました。

構想を暖めていた音楽家のためのカーザ・ディ・リポーゾ・ペル・ムジチスティ(音楽家のための憩いの家)の建設がそれであり、この事業にオペラ制作同様に情熱をかけました。ヴェルディは、かねてから引退した音楽家らが貧困に陥ったまま生涯を終えるさまを気に病んでおり、彼らのために終の棲家となる養老院建設としてこれを計画したようです。

最晩年には公のことは嫌って、イタリア政府の勲章もドイツ出版社の伝記も断り、とくにその中でもミラノの音楽院が校名を「ジュゼッペ・ヴェルディ音楽院」に変えようとする事には我慢がならず声を荒げたといいます。同校の改名はヴェルディの死後に行われました。

1898年秋、ヴェルディは伴侶ジュゼッピーナを肺炎で失いました。いまわの際、彼女は彼が手に持つ好きなスミレを目にしながら息を引き取ったといいます。ヴェルディは目に見えて落胆しますが、そんな彼を娘マリアや親しくしていた脚本家、ソプラノ歌手などが付き添いました。

ヴェルディとジュゼッピーナの間には子供はなく、このマリアは、父が亡くなった際に引き取り、娘として育てた歳の離れた従妹だったようです。

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この年齢になっても講演をみるためにヴェネツィアへなどにもよく出かけていましたが、彼自身は既に自らの老いを感じ取っており、1900年4月頃には遺書を用意しました。

同年末、マリアと一緒にミラノでクリスマスを過ごし、定宿となっていたグランドホテル・エ・デ・ミランで年を越していましたが、1月20日の朝、起きぬけの際、脳血管障害を起こして倒れ、意識を失います。

多くの知人に連絡が届き、友人たちが駆け付けました。また王族や政治家や彼のファンなどから見舞いの手紙が届き、ホテル前の通りには騒音防止に藁が敷き詰められましたが、1901年1月27日未明、偉大な作曲家は息を引き取りました。享年87。

同日朝、棺がホテルを出発して「憩いの家」に運ばれ、妻のジュゼッピーナが先に眠る礼拝堂に葬られました。出棺時にはスカラ座やメトロポリタン等の音楽監督を歴任し、20世紀前半を代表する指揮者とされる指揮者、アルトゥーロ・トスカニーニが指揮し、820人の歌手が「行け、わが思いよ、黄金の翼」を歌いました。

遺言では簡素な式を望んでいましたが、意に反して1ヶ月後には壮大な国葬が行われました。また、後年、ヴェルディは「国民の父」と呼ばれるようになりました。しかしこれは、彼のオペラが国威を発揚させたためではなく、キリスト教の倫理や理性では説明できないイタリア人の情をうまく表現したためといわれています。

ヴェルディの残した「憩いの家」は、現在も老齢音楽家のための活動を続けています。ミラノ市のブォナローティ広場の一角に建つこの建物は、その二階にはヴェルディの遺志通りパイプオルガン付きの小ホールがあり、中心には礼拝堂、レストラン、病院なども完備されています。

運営資金はヴェルディの作品の印税が切れたのちは、全世界からの寄付と援助、さらにヴェルディの残した「ヴェルディ基金」から捻出されているそうです。彼は今、自身の建てた「憩いの家」の中庭に妻ジュゼッピーナと共に眠っています。その墓所では、ときに若い音楽家の卵と老齢の音楽家が仲良く集う姿が見ることができるそうです。

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「カメリアコンプレックス」という言葉があります。その語源は、彼が創作した「椿姫」の主人公、ヴィオレッタ・ヴァレリーとアルフレード・ジェルモン、もしくは、原題の小説の主人公たちにちなんでいます。

不幸な女性を見るとつい救ってしまいたくなる男性の心理を言います。ヴィオレッタは高級娼婦であり、このため西洋では「カメリア」といえば、罪を犯し贅沢なことを行う商売女の意味合いを持っています。

こうしたことから、カメリアコンプレックスとは、相手の女性が不幸だと感じたら、どんな女であってもどんなことがあっても、救い出そうとする男性の心理全般のことをさすようになりました。

女性にとってはありがたい極みなのかもしれませんが、そうしたコンプレックスを持つ男性というのはともすれば破滅型であり、場合によっては身上を潰したり、ヒモに成り下がって、人生を壊してしまう可能性もあります。

オペラ、椿姫では、相手の女性が死んでしまったために、悲劇の幕が閉じられましたが、もしヒロインが生きていたら、青年は一生彼女にかしずいて生きて行かなくてはならなかったかもしれません。

一方では、同じコンプレックスでも「ユディットコンプレックス」というのもあります。これは、自ら進んで強い男に身を任せたい強い願望と、それにもかかわらず支配はされたくはないという精神状態を表す概念で、こちらは女性に用いられる用語です。

女性には強い男に進んで身をまかせたい心理があるとされますが、その一方で自分の操を汚した男を殺したい憎しみとが無意識に混在する、といわれます。この状態がいきすぎてしまうと男性にどんどん汚される事で逆転的に男性を傷つけようとすることもあるそうです。

このため、このコンプレックスを持っている女性は、男性から見ると男の心を弄んでいるように見られることもしばしばです。

「ユディット」の語源は、旧約聖書の外典のひとつ「ユディト記」に出てくるユダヤ女性です。その原典では、このユディトが男性に乱暴されるとか、そういう話は出てきません。むしろ英雄として扱われています。

夫を日射病で失って寡婦となっていた彼女は、美しく魅力的な女性で多くの財産をもっていましたが、一方では唯一の神に対して強い信仰をもっていたため、人々から尊敬されていました。そんな中、アッシリアの王は自分に協力しなかったユダヤなどの諸民族を攻撃するため、軍隊を派遣して攻撃しようとします。

このとき、ユディットは、ユダヤを攻撃するためにやってきた司令官を姦計によって、おびき出します。その酒宴の席で、司令官は泥酔し、やがて天幕のうちにユディトは眠る司令官と二人だけで残されます。

このときユディトは眠っていた司令官の短剣をとって彼の首を切り落としました。その後、ユダヤ人はたちはこの機会を逃さず出撃し、敗走する敵を打ち破ったとされます。

ユディトはその後、105歳で亡くなるまで、静かにユダヤのベトリアという町で暮らした、といわれます。しかし、この話は後年、未亡人ユディトは、自分の町に侵略してきた敵の将軍を魅惑し、抱こうとした将軍の首を斬り町を救った、というふうに変わっていきました。

一部では「処女を与え首を切った」という話に飛躍してしまっており、これが自分の操を汚した男を殺したいほど憎むという、ユディトコンプレックスに変わっていったというわけです。この心理はカマキリの雌が交尾した雄を殺して食ってしまう事にもよく例えられるようです。

さて、あなたがたカップルは、カメリア派でしょうかユディト派でしょうか。三連休となるこの週末に、じっくりと話あってみてはいかがでしょうか。

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