10月も下旬になり、涼しいを通り越して寒さを感じる日も多くなってきました。
このころになるとさすがに咲く花も少なくなり、庭で目立つのは山茶花(サザンカ)やツバキぐらいのものです。ただ、紅葉が進み、なにかと華やかさのないこの季節の穴を埋めてくれています。
修善寺には「修善寺自然公園」というモミジの紅葉がきれいな公園があり、毎年この時期になると多くの観光客で賑わいます。出店(でみせ)も何軒かあって、ふだんはガランとしている駐車場もクルマで一杯になります。
公園に入り、正面にあるゆるやかな坂道を色づいたモミジを鑑賞しながら上がっていくと、登り切ったところの右側道沿いに「夏目漱石詩碑」と書かれた案内板が立っています。そのすぐ裏側に高さ3mほどもある石板が据えられており、そこには漱石が修禅寺に滞在していた折に詠んだ自筆の漢詩が彫られています。
1910(明治43)年、小説「門」を書き終えた漱石は、悩まされていた胃潰瘍の治療で麹町の長与胃腸病院に入院しました。退院後、知人に修善寺温泉での療養を勧められ、8月6日から10月11日までの2ヶ月間、修善寺温泉にある菊屋旅館に滞在しました。
ところが、8月24日に急に病状が悪化し、一時危篤に陥ってしまいます。命はとりとめ、快方に向かう9月29日、菊屋旅館の病床で書いたのがこの石板にある詩です。以下がそれになります。
仰臥人如唖 黙然看大空(ぎょうがひとあのごとく もくぜんとたいくうをみる)
大空雲不動 終日杳相同(たいくうくもうごかず しゅうじつはるかにあいおなじ)
病床にあって、私は唖(おし)のように黙って窓辺に望める大空を眺めている。大空に浮かぶ白い雲の様子は終日変わらない、という意味で、終日空と向かい合っているうちに、大自然の中に融け込んだような気分になったことを作詩したものと考えられます。
彼我が一体化することを「主客融合」といいます。本来は死んで空に還っているところを生き延びたことに感慨を覚えてこの詩を創ったのでしょう。この「修善寺の大患」で、漱石は生命の尊さを自覚すると共に、生きるということの意味を改めて考えさせられたに違いありません。
漱石はこのときのことを、のちに「思い出すことなど」の中で書いています。修善寺の大患を自ら描いた随想であり、同じ年の10月から翌年の2月まで間欠的に綴ったものが当初は「病院の春」と題して、朝日新聞に掲載されていました。
この中に登場する人物は、妻である夏目鏡子のほかに、門人である松根東洋城や坂元雪鳥、このころ勤めていた朝日新聞の渋川玄耳(げんじ)や同社主筆の池辺三山(さんざん)などがいます。ほかに、東京で漱石がかかっていた長与胃腸病院から派遣されてきた医師たちや、修善寺の町医などが出てきます。
「吾輩は猫である」や「坊ちゃん」などのヒット作によってこのころ既に高い名声を得ていた漱石は、それまで勤めていた大学の講師を辞め、本格的に職業作家としての道を歩み始めていました。朝日新聞に入社したのはこの大患の3年前で、日本のジャーナリストの先駆けといわれる池辺三山に乞われてのことでした。
三山は、陸羯南、徳富蘇峰とともに明治の三大記者とも称された人で、漱石以外にも二葉亭四迷を入社させ、今日文豪と言われる作家の長編小説の新聞連載に尽力した人物です。「思い出すことなど」には、修善寺から帰ったあと長与病院に入院ししながら原稿を書いていた漱石に対し、三山が「余計な事だ」と叱ったといったことが書かれています。
また、同じ朝日新聞の社会部長だった渋川玄耳は、漱石の吐血の連絡を受け、部下の坂元雪鳥に指示し、漱石が治療を受けていた東京の病院から修善寺まで医師を派遣させました。8月20日には自らが漱石を見舞うために修善寺にやってきて一泊しています。
渋川は漱石が熊本の第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師だったころからの知己で、彼を社員として東京朝日新聞へ招くことに尽力しました。
東京で漱石の胃潰瘍を治療していたのは長与胃腸病院といい、当時は麹町区内幸町にありましたが、現在は四谷に移転しており、経営者も長与一族から変わって別な人になっているようです。当時の病院を開設したのは長与称吉という人で、漱石の主治医でもありました。
父は、初代の内務省衛生局長だった長与専斎で、「衛生」という言葉をドイツ語から翻訳して採用したのはこの人です。コレラなど伝染病の流行に対して衛生設備の充実を唱え、また衛生思想の普及に尽力したことで知られています。長崎の医学伝習所で、オランダ人医師ポンペから西洋医学を学んでおり、日本における西洋医学発展の先駆けでもあります。
息子の長与称吉もそうした医者血を引いており、東京帝国大学医科(現在の東京大学医学部)を経て、7年間ドイツのミュンヘン大学医学部に留学していました。このころ、現地の女性に子供を産ませ、手切れ金を渡して解決したという逸話が残っていますが、その面倒を見たのが、衛生局で父の專齋の部下であり、ドイツ留学中の後藤新平だったといいます。
また妻・延子は後藤象二郎の娘であり、妹・保子は総理大臣を務めた松方正義の長男・松方巌と結婚するなど、何かと政治家と関わりのある人でした。ちなみに、次女・仲子は同じく総理大臣を務めた犬養毅の息子と結婚しており、その長男の異母妹がエッセイストの安藤和津で、その夫は俳優で映画監督の奥田瑛二です。
漱石は「三四郎」「それから」に続く前期三部作の3作目にあたる「門」の執筆途中に胃潰瘍になり、この長与称吉が院長を務める長与胃腸病院に入院しました。
胃潰瘍になった原因はいろいろ取沙汰されていますが、ひとつには妻の鏡子が起こすヒステリー症状が漱石を悩ませ、神経症に追い込んだことが一因とされます。また第一高等学校と東京帝大の英語講師を勤めていたころ、一高での受け持ちの生徒のひとり、藤村操が華厳滝に入水自殺してしまったことが遠因だとする説もあります。
北海道出身の藤村が自殺現場に残した遺書「巌頭之感」は新聞各紙で報道され、大きな反響を呼びました。厭世観によるエリート学生の死は「立身出世」を美徳としてきた当時の社会に大きな影響を与え、後を追う者が続出しました。
彼の死に伴い、一高の生徒や同僚の教師達だけでなく、事件に衝撃を受けた知識人達の間で「漱石が藤村を死に追いやった」といった噂が囁かれるようになりました。こうした風評被害に苛まれて苦悩した結果、漱石は神経衰弱を患ってしまい、授業中や家庭で頻繁に癇癪を起こしては暴れまわるようになり、欠席・代講が増え、妻とも約2か月別居しています。
さらには、職業作家としての初めての作品「虞美人草」の執筆途中に、門下の森田草平が1に平塚明子(平塚らいてう)と栃木県塩原で心中未遂事件を起こしており、その後始末に奔走したことも神経衰弱や胃病を悪化させた原因と言われています。
塩原事件とのちに呼ばれるこの事件では、雪山で二人が彷徨ううち、森田のほうが意気地を失い、「人を殺すことはできない」と言って心中に使うつもりだった明子の懐刀を谷に投げ捨ててしまったことなどから、心中未遂に終わりました。
警察に保護された森田はマスコミを避けるために漱石の家に身を隠しますが、事件の後始末を任された漱石は解決策として平塚家に弟子の結婚を申し出ました。しかし、結婚など考えていなかった明子に呆れられ、断られています。
事件の翌年、森田はこの事件を自ら綴った「煤煙」の連載により有名作家となり、明子は「青鞜」を創刊して、有名女性運動家、平塚らいてうとなりました。
漱石は1910年6月18日から7月31日まで長与胃腸病院に入院していました。修善寺で療養することになったきっかけは、その退院後、門下の松根東洋城が皇族の北白川宮の避暑に随行して修善寺に行くことになったことです。漱石は良い空気を吸えば症状も改善するだろうとこれに同行することを決めたようです。
住み慣れた土地を離れて別な環境に身を置き療養することを「転地療養」といいます。このころは富裕層の間でよく行われていました。現代でもストレス性の症候(無自覚性のものも含めて)などに対して、転地療養の効果は認められているようです。堀辰雄の小説 「風立ちぬ」で有名になった結核等の治療施設、サナトリウムも転地療養をするためのものです。
漱石に修善寺行きを勧めた松根東洋城は、本名は豊次郎で、俳号の東洋城(とうようじょう)はこれをもじったものです。漱石に紹介されて正岡子規の知遇を受けるようになり、子規らが創刊した「ホトトギス」に加わるようになりました。
漱石とは、愛媛の尋常中学校(現松山東高等学校)時代、同校に教員として赴任していた彼から英語を学んだときからの付き合いです。卒業後も交流を持ち続け俳句の教えを受けて終生の師と仰いでいました。
京都帝国大学仏法科卒業後、宮内省に入り宮中の祭典・儀式および接待に当たる「式部官」をやっていましたが、たまたま公務で修善寺に長期逗留することになり、ちょうど漱石が退院していたことから誘いをかけたようです。
東洋城は、子規没後「ホトトギス」を継承した高浜虚子と決別し、虚子らが掲げる「客観写生」の理念とは一線を画した作風を確立しました。実践を重視した芭蕉の俳諧精神を尊み、俳諧の道は「生命を打ち込んで真剣に取り組むべきものである」としたその理念に同調する者は多く、後世に名を残す多くの俳人を輩出し、彼らは渋柿一門と称されました。
「渋柿」の呼称は、宮内省式部官であったこのころ、大正天皇から俳句について聞かれ「渋柿のごときものにては候へど」と答えたことが有名となったためで、のちに創刊主宰した俳誌「渋柿」の名もそこからきています。
東洋城は、子供のころから眉目秀麗でも知られていましたが、定まった住居をほとんど持たず、生涯独身であり、数々の女性問題がそうした生き方をとらせたといわれています。宮内省に入省したとき、伯母・初子の婚家である柳原家に寄寓しましたが、このとき、離婚して柳原家に出戻っていた柳原白蓮と親しくなりました。
柳原家は鎌倉時代からの名家で、皇室に近い一族です。東洋城の父も宇和島藩城代家老の長男、母も宇和島藩主伊達宗城の三女であって、叔母の初子が名家である柳原家に嫁いだのもその名家としてのつり合いからでしょう。白蓮とはつまり従妹同士ということになります。
「花子とアン」で有名になった柳原白蓮のことを知っている人は多いでしょう。のちに、福岡の炭鉱王・伊藤伝右衛門と再婚しますが、その後、社会運動家で法学士の宮崎龍介と駆け落ちしたことで、当時のマスコミにセンセーショナルに報道されました。
柳原白蓮と同じ屋敷に住むことになった東洋城と白蓮はすぐに仲良くなり、恋人同士になりました。結婚まで誓いあいましたが、彼の母親の反対で結婚を許されず、その後は嫡男であったにもかかわらず独身を貫きました。
「花子とアン」でこのエピソードが語られることはありませんでしたが、白蓮が炭鉱王の妻になったのは、この東洋城との仲が認められなかったことも関係しているようです。社会運動家と駆け落ちし再婚した白蓮は、その後の戦争の時代と戦後を波瀾万丈で送りますが、二男・一女を得て81歳で大往生しています。
東洋城のほうは、その後も各地で渋柿一門を集めて盛んに俳諧道場を開き、人間修業としての「俳諧道」を説いて子弟の育成に努め、86歳で亡くなりました。墓は宇和島市の金剛山大隆寺にあります。
東洋城が修善寺に行くことになったのは、式部官というこのころの彼の職務上の理由からだと上で述べました。北白川宮成久王(きたしらかわのみや なるひさおう)という皇族の避暑に随行するというのがその任務でした。
成久王は陸軍士官学校卒業後、27期生として陸軍大学校を卒業しており、この修善寺行きはその卒業間近のころでしたから、おそらく卒業旅行の意味があったのかと思われます。1895(明治28)年生まれですから、このとき15歳だったはずです。
のちの1921年(大正10年)には、軍事・社交の勉強のため、「キタ伯爵」の仮名でフランスのサン・シール陸軍士官学校に留学。翌年には自動車免許も取得し、機械好きな彼は自家用車(ヴォワザン社製)を購入しました。既に結婚しており、妻房子も同伴でした。「ごく平民的」と謳われた夫妻は社交界でも評判が高かったといいます。
この滞仏中に運転を覚えた成久王は、「一度、腕前を見てほしい」と、当時同じく留学中であり、自動車運転に習熟していた東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう)をドライブに誘いました。しかし、成久王の運転の腕前を怪しんだ稔彦王は「あなたの運転はまだ未熟だから気を付けたほうがいい」と忠告した上で同行を断りました。
ちなみに、この稔彦王はのちの第二次世界大戦中は海軍の高松宮と共に大戦終結のために奔走し、大戦後は終戦処理内閣として内閣総理大臣に就任したことで知られる人物です(在職1945年8月17日-1945年10月9日)。これは初の皇族内閣でもありました。
稔彦王に断わられた成久王は、そこでドライブの相手を同じく留学中の朝香宮鳩彦王(あさかのみや やすひこおう のち陸軍大将)に変え、同日の朝に妃の房子内親王やフランス人の運転手等と共にドライブに出発しました。
出発先は、ノルマンディー海岸の避暑地ドーヴィルで、そこに泊りがけのドライブをする予定でした。途中で鳩彦王を拾い、エヴルーで昼食をとったあと、成久王がハンドルを握り、その後ペリエ・ラ・カンパーニュという村に近づこうとするころ、前方にのろのろと走っている車をみつけました。
成久王はその前の車を追い抜こうとしましたが、その際にスピードを出し過ぎ、車は大きく横に滑って道路を飛び出し、路傍にあったアカシアの大木に激突。この事故で、運転していた成久王と助手席にいたフランス人運転手は即死し、同乗していた房子妃と鳩彦王も重傷を負いました。成久王は35歳でした。
東洋城がこの成久王に随行して修善寺に来たのはこれより20年前であり、まだ顔には幼さが残っていたはずです。無論、この国民から愛された王子がその後悲惨な死を迎えることになろうとは想像だにしていなかったでしょう。
ちなみに、成久王と房子妃の間には永久王という男子がいましたが、のちに陸軍砲兵大尉として蒙疆(モンゴル及び中国北部)へ出征し、演習中に航空事故に巻き込まれ殉職しています(享年30)。その子の北白川道久王は81歳まで生き、長寿を全うしましたが、男子に恵まれなかったため、北白川家はその後男系としては断絶しました。
漱石が修善寺で初めて喀血をしたのは8月17日で、当初その治療に当たったのは野田洪哉という修善寺の町医者です。
修善寺には野田姓が多く、確認はしていませんが、おそらくそのルーツは庄屋などの大家だったでしょう。現在でも名家として地域の尊敬を受けています。野田洪哉が院長をしていた大和堂医院は、現在も修禅寺のすぐ前を流れる桂川を隔てたすぐその先にあり、内科医として開業されています。
野田医師は、漱石が吐いたものが血であることを指摘し、帰京を勧めました。24日の危篤時には長与胃腸病院から派遣されてきた副院長の杉本東造の指示で食塩水輸液を準備し、漱石の救命に貢献しました。
一方、8月17日の漱石吐血の報を受け、長与胃腸病院が最初に送った医者は、森成麟造といい、当時まだ26歳の若い医師でした。のちに漱石が長与胃腸病院を退院したあとは、新潟県高田市(現上越市)に帰郷して開業。漱石はこのとき自宅に彼を呼んで送別会を開き、修善寺での大患時の対応を謝しています。
このとき森成医師と一緒にやってきた坂元雪鳥は、第五高等学校で夏目漱石に師事し、以後漱石の弟子格となった人で、このころ東京朝日新聞社に入社しており、漱石の容態を本社に伝える臨時記者としての役割も担っていました。8月24日の危篤時には30通以上の電報を東京に送っています。
長与胃腸病院副院長の杉本東造が修善寺にやってきたのは、漱石が危篤になった8月24日夕方でした。菊屋に着き、漱石を診察したあと「さほど悪くない」と見立てましたが、そのわずか2時間後、漱石は吐血して意識を失い、危篤となりました。
「思い出すことなど」にはこのとき30分ほど意識を失っていたと書かれており、その間にカンフル剤が16本以上打たれました。
その後一時意識はもどりましたが、再び意識を失いかけました。遠ざかる意識の中で杉本医師と森成医師がドイツ語で「駄目だろう」「ええ」などと会話していことを覚えており、そのことも書いています。漱石は大学予備門や大学のときにドイツ語を第二外国語として学んでいました。専門の英語ほどではないにせよ、その程度の会話は理解できたのでしょう。
漱石はそうした会話をうつらうつらと聞きつつ、森成と雪鳥の二人に両手を握られたまま朝を迎え、その後回復に向かいました。
長与胃腸病院としては、VIPである漱石の治療にあたっては本来、主治医である院長の長与称吉を派遣したいところでした。ところが、このころ長与称吉は腹膜炎を発症しており、それどころではありませんでした。最初に若い医師、森成麟造が送られたのも、この院長の急病に対して副院長の杉本が対応していたからだと考えられます。
杉本医師はその後、25日ごろまで修善寺に滞在していたようですが、漱石の回復を見てとると帰京し、かわりに看護婦を2人派遣しました。長与称吉院長は、そのすぐあとの9月5日に亡くなりました。
漱石はこのことを知らされておらず、9月になって森成医師から粥食を許可されて退院し、東京に戻って長与胃腸病院に挨拶に行ったとき、はじめてその事実を知らされて唖然としたようです。冒頭で紹介した詩にあったように、自分は生き残り、主治医だった長与称吉が死んでしまっていたこと対し改めて無常の意味を思ったに違いありません。
漱石の妻鏡子は、漱石が喀血した8月17日には子供の避暑先の茅ヶ崎にいて、漱石吐血のことは翌日18日に電報で知りました。電報を送ったのはおそらく東洋城でしょう。あわてて東京に子供を返してから修善寺に向かい、到着したのは19日の午後でした。
その翌日の20日には小康を得たことから、森成医師が「私は東京に帰ります」と言ったところ、鏡子は森成に強い口調で詰め寄り翻意を迫りました。今回の漱石の修善寺療養にあたっては前もって胃腸病院へわざわざ出かけていき、旅行に行かせてもいいかどうかを伺って快諾を得ていたこともあり、誤診とでも言いたい気分があったのでしょう。
森成医師に対し、「私から言えば、お医者の診察違いとでも言いたいところだのに、病人をうっちゃって帰るなどとはもってのほか」と言い放ったと伝えられています。
この鏡子夫人は広島は福山の人です。元医師で、貴族院書記官長の中根重一の長女で、漱石とは見合い結婚で結ばれ、2男5女を設けました。このうち長男の夏目純一はのちにバイオリニストとなり、その息子が漫画家でエッセイストの夏目房之介であることをご存知の人も多いでしょう。
漱石との見合いの席では、鏡子は口を覆うことをせず、歯並びの悪さを隠さずに笑ていたそうで、そうした裏表のない彼女に漱石は好感を抱いたようです。また、鏡子も漱石の穏やかな様子に魅かれたようで、父の重一が漱石のことをベタ褒めしたこともあって早々に結婚を決めました。
しかし、お嬢様育ちの鏡子は家事が不得意であり、寝坊することや、漱石に朝食を出さぬままに出勤させることもしばしばで、二人の間には口論が絶えませんでした。慣れぬ結婚生活からヒステリー症状を起こすこともままあり、これが漱石を悩ませ、神経症に追い込んだ一因とされています。
漱石が第五高等学校教授になり、二人で熊本に引っ越したころ、鏡子は初子の出産で流産しました。このとき慣れない環境もあいまってヒステリー症が激しくなり、熊本中央を流れる白川沿いにある藤崎八幡宮のすぐ裏の淵に投身自殺を図ったといいます。その後漱石はしばらくの間、就寝の際に彼女と手首に糸をつないで寝ていたそうです。
裏表がなく、ずけずけとものを言う鏡子の性格は、鏡子を含めた中根家に共通したものだったようで、そうした言動から神経症を悪化させた漱石もまた、鏡子や子供たちに対して頻繁に暴力を振るうようになりました。
周囲から漱石との離婚を暗に勧められたこともあり、このとき鏡子は、「私の事が嫌で暴力を振るって離婚するというのなら離婚しますけど、今のあの人は病気だから私達に暴力を振るうのです。病気なら治る甲斐もあるのですから、別れるつもりはありません」と、言って頑として受け入れなかったといいます。
こうした言動からもわかるように、夫婦仲はそれほど悪くはなかったようです。漱石の死後、鏡子が子供たちの前で失言し、それを子供たちにからかわれると「お前達はそう言って、私のことを馬鹿にするけれど、お父様が生きておられた時は、優しく私の間違いを直してくれたものだ」と、亡夫・漱石を懐かしむことがしばしばだったといいます。
漱石が専業の小説家となったのち、彼を慕う若手の文学者やかつての教え子たちが毎週木曜に夏目家に集うようになりました。これがいわゆる「木曜会」で、会が開かれるようになると、鏡子はしばしば彼らの母親代わりとして物心両面から面倒を見たといいます。
漱石は、経済的に苦しい立場にあった門人たちに金銭面での援助をすることも多かったようで、このとき鏡子は漱石に言われたとおりにポンと、当時としてはかなりの額の金銭を渡していました。漱石夫妻が門下生に貸した金は相当の額だったようですが、そのほとんどが貸し倒れになっていたといいます。
孫の夏目房之介は、鏡子の性格には多少問題はあったものの裏表がなく、弱いものに対する慈しみの気持ちの強い、子供や孫に慕われる良き母であり良き祖母であったとその手記に記しています。
とかく、悪妻、猛妻という名で呼ばれることが多い鏡子ですが、このころはまだ男尊女卑の風潮が強く、おとなしい良妻賢母が良いとされた時代です。失言が多くおおざっぱな行動が目立つ鏡子がそのように見られてしまうというのはやむを得ない面があったと思われます。
漱石の修善寺大患の際、最初に見舞いに駆けつけた安倍能成(あべよししげ、のちの貴族院勅選議員、文部大臣、第一高等学校時代の漱石の教え子)を見て、鏡子は「あんばいよくなる」さんが来てくれたからもう大丈夫、とユーモアたっぷりに語って周囲を笑わせたといい、おおらかな一面もあったことをうかがわせます。
漱石の死後、鏡子はその後半世紀近く生き、1963(昭和38)年に85歳で没しました。死因は心臓の疾患でした。
漱石は、「明暗」執筆途中の執筆中だった1915(大正4)年12月9日、体内出血を起こし自宅で死去しました(49歳10か月)。最期の言葉は、寝間着の胸をはだけながら叫んだ「ここに水をかけてくれ、死ぬと困るから」であったといいます。
漱石が亡くなった翌日、その遺体は東京帝国大学医学部の解剖室において解剖されましたが、それを行ったのは長与胃腸病院の院長、長与称吉の弟の又郎(またお・長与専斎の三男)でした。長与又郎は、癌研究所や日本癌学会を設立し、癌の解明に努力したことで知られ、癌研究の先駆者です。
衛生に力を入れていた父の専斎の遺志を継いで、公衆衛生院や結核予防会をも設立しましたが、自ら予言していた通りに癌となり、1941(昭和16)年に63歳で亡くなりました。死の前日に、医学への貢献により男爵の爵位が贈られています。
母校である東京帝国大学の伝染病研究所長や医学部長を経て、総長に就任したこともあり、若いころには野球部長も務めていました。
部の寮である「一誠寮」にある同寮の名を綴った書は又郎の揮毫によるもので、これを書く時、「誠」の字の右側の「ノ」の画を入れ損なった又郎は、これを指摘した選手たちに対し「最後のノは君たちが優勝したときに入れよう」と語ったといいます。
東大の六大学野球最高位は、現在でも1946年春季の2位でのままであるため、今も残されているこの書の「ノ」の部分は未だ欠けたままとなっています。
この長与又郎解剖を依頼したのは、未亡人である鏡子であったといい、生前の漱石はそれを承認していたようです。漱石の亡くなる5年前には末娘の雛子が突然死しており、解剖などの措置をとらなかったため、死因が不明のままに終わっていました。
そのことが夫妻の心にはひっかかっていたようで、日ごろから科学的思考を重んじるタイプだった漱石もまた、解剖を行うことで死因や病気の痕跡をつきとめることが重要だと考えていたようです。夫の遺体の解剖が医学の将来に役立ててもうということが本人の意思にかなうと、鏡子も判断したのでしょう。
その際に摘出された脳と胃は寄贈された脳は、現在もエタノールに漬けられた状態で東京大学医学部に保管されています。重さは1,425グラムであり、成人男性の脳は一般に1350~1500グラムだそうですから、特段重いというわけではありません。遺体は東京都豊島区南池袋の雑司ヶ谷霊園に葬られました。
漱石が修善寺で宿泊した菊屋本館は戦後解体され、当時の別館が現在の本館になりました。温泉街にある筥湯(はこゆ)という共同浴場の横にはこの本館跡の掲示があります。菊屋本館2階の漱石が吐血した部屋は、修善寺自然公園の隣にある「修善寺虹の郷」へ移築され、現在「夏目漱石記念館」として公開されています。
修善寺に来ることがあったら、ぜひ訪れてみてください。