トンネルのお話

昨日の台風は、結構大きかったようですが、その割には際立った被害は少なかったようでやれやれです。とはいえ、被害に遭われた方がいなかったわけではなく、その方々にはお見舞いを申し上げたいと思います。

ところで、昨日の夜はせっかくの中秋の名月が見えるはずだったのに、残念なことをしました。新月や満月の夜には良しにつけ悪しにつけ、いろんなことがある、と前にこのブログでも書きましたが、昨日の満月の夜のそれは台風だったのでしょうか。

しかし、今朝目覚めて庭に出たところ、西の空にはなんと、夕べの満月がまだ沈まずに残っているではありませんか。これはラッキー♪と思い、パシャリと撮ってみましたので、皆さまにもお披露目します。

秋の名月を見ると、幸せになるという言い伝えもあるようですので、今日このブログでこの写真をご覧になったみなさんにも、きっとラッキーなことが起こるに違いありません。

さて、今日の話題です。先日、青函連絡船の洞爺丸の事故について取り上げましたが、この青函連絡船には、廃止になる1988年に先立つ2~3年前に一度乗ったことがあり、これが最初で最後になりました。

そのときには、青函連絡船が廃止になるということも知らずに乗船したため、船内の様子をとりたてて気にもとめていませんでしたが、もうすぐ廃止になるのならば、もう少しじっくり内部の様子を見ておけばよかった、と少し後悔しています。

退役した青函連絡船の多くは、老朽化のため退役後すぐに解体されたものも多いようですが、一部は中国や中近東の国などに売却されて別の用途に使われたものが何隻かあります。
しかし、これらもまたその後に老朽化が進んだため解体されたものがほとんどのようです。

もしかしたら、海外で残っているかもしれないものは、1965年に就航した「大雪丸」です。2008年に中国の船舶会社が買収し、福建省に回航されたまではわかっていますが、その後の行方は詳細不詳とか。昨今の日中の不穏な空気の中にあって、果たして生き残っているでしょうか。

国内に現存するのはおそらく二隻で、これは、1964年就航の「八甲田丸」と1965年に就航した「摩周丸」です。

八甲田丸は現在、青森駅北側の旧桟橋に係留され、「メモリアルシップ八甲田丸」として見学可能ですが、エンジンは取り外されていて、自力航行は不可能なため、法律上は「船舶」ではありません。

摩周丸のほうも、函館駅近くの岸壁に「函館市青函連絡船記念館・摩周丸」として係留されていますが、こちらも機関のない博物館として展示されています。

もう一隻、摩周丸と同じ年に就航した「羊蹄丸」という船がありましたが、こちらは終航後、お台場にある、船の科学館」の一展示施設として敷地内の岸壁に係留され、長年親しまれてきました。

しかし、昨年の11月以降、船の科学館自体が無期延期の休館となり、羊諦丸も、2012年3月に愛媛県新居浜市の企業に売却され、その市制施行75周年記念行事に出店されるため、新居浜東港へ回航。記念事業が終わった現在は、既に解体が始まっているか、あるいは解体予定という状況です。

ちなみに船の科学館の休館は、こちらも施設自体がかなり老朽化したためと聞いています。お台場の一等地にあり、結構広大な敷地にある施設なので、これからどういう施設になっていくのか注目が集まっています。

ところで、青函連絡船はなぜ廃止になったのでしょうか。

言うまでもなくそれは、1988年の3月に津軽海峡の下を通る「青函トンネル」が開通したためです。それまでは、青森(函館)から対岸のJR路線へ電車を運行するためには、それぞれの港で鉄道車両を連絡船の中にそのまま積み込んで運搬し、到着地でまた車両を地上におろして運行を続けていました。

青函連絡船には列車のほかに、一般の乗用車やトラック、そして旅客も載せて青森~函館間を運ぶことができたため、これが「連絡船」と呼ばれたゆえんですが、青函連絡船がなくなってしまった現在、そういうめんどうくさいことをしていたという事実さえ人々の脳裏から消え去ろうとしています。

しかし、青函トンネルができあがって、青函連絡船で列車を運ぶ必要がなくなり、これが廃止になったにも関わらず、現在も青森と函館を結ぶ津軽海峡には、「青函フェリー」が運行しています。乗用車やトラックで北海道に渡るためには、このフェリー以外には手段がないためです。

この事実は、案外と知らない人が多いようで、今も北海道へ渡ったことのない人の中には、北海道へは青函トンネルを通ってクルマで行けると思っている人がいるようです。

かくゆう私も、実は青函トンネルを車で通れると勘違いしていた一人で、10年ほど前に新潟から小樽までフェリーを使って車で北海道へ行ったとき、帰りは津軽トンネルを通って帰ろう♪と楽しみにしていたところ、函館港まで来て、エッ!? 青函トンネルってクルマは通れないの?と初めてその事実を知ったのでした。

現在は、昨年新幹線が青森まで延伸したばかりであり、2015年には函館まで新幹線で行けるというような情報もメディアを通じてかなり流れていますから、実は青函トンネルはクルマは通れない、という現状を認知している人も多くなっていることでしょう。しかし、私のようなおっちょこちょいも中にはいらっしゃるのではないでしょうか。

じゃあ、それにしても何で青函トンネルではクルマが通れないの? という話なのですが、これは青函トンネルが53.85kmという長大なトンネルであるためです。そのおよそ半分が海底を通っているため、ここに自動車を通すということになると、その大量に走る車から排出される排気ガスを排気するための適当な方法がないためです。

トンネルの中央部は最大で140mの水深がある海の底で、ここに仮に排気塔を設けるとなると莫大な費用がかかります。しかも、その排気口の海上部分は津軽海峡のど真ん中にできるわけで、ここを航行する船舶の妨げになることは間違いありません。

このため、設計の当初から青函トンネルは「鉄道専用トンネル」と位置付けられて計画がスタートしました。当初は在来線規格での設計でしたが、その後、整備新幹線計画に合わせて新幹線規格に変更されることになり、現在のJRの在来線のほとんどが採用している狭軌鉄道ではなく、世界標準の広軌鉄道用のトンネルとして建設されることになりました。

このため、トンネル内施設の保安装置の設置基準などはすべて新幹線規格を踏襲しており、開通後、現在に至るまで在来線としてしか営業はしていないものの、来るべき将来に新幹線が開通する際には、現状における軌間の狭さや架線電圧の違いなどは問題なく解消できるといいます。

しかし、自動車の運行は上記のような理由のほかに、後述するようにトンネル内での災害にそなえて、現在では考えられていません。

こうして、鉄道専用トンネルとして計画がスタートした青函トンネルは、1961年の工事開始以来、24年かけて掘削が行われ、1985年に本坑が開通、1988年にJR東日本の車両がはじめてここを通過し、営業が始まりました。

トンネル本体の建設費は計画段階で5384億円だったそうですが、最終的には7455億円を要し、取り付け線を含めた完成形の海峡線としての建設費は実際9000億円に上る大国家プロジェクトになりました。

ところが、青函トンネルが完成したときには、国の財政悪化から、北海道新幹線の建設は凍結になっていました。関東以西と北海道が鉄道と青函航路で結ばれていた着工当時と打って変わり、このころは関東から北海道への旅客輸送は既に航空機が9割を占めるようになっており、北海道新幹線の必要性が薄らいでしまっていました。

さらにトンネルが完成後も、トンネル内に大量にあふれる湧水の汲み上げや、トンネル壁面の老朽化の補修にかかる維持コストも大きいことから、トンネルは完成したものの、これを埋め戻してしまって放棄した方が経済的であるまで言われました。

よく、「昭和の三大馬鹿」ということが言われますが、青函トンネルはそのひとつとと言われ、「無用の長物」、「泥沼トンネル」などと揶揄されたこともありました。

ちなみに他の「馬鹿」は「戦艦大和」と「伊勢湾干拓」です。伊勢湾では広大な面積を埋め立てて農地にすることが計画され、1959年(昭和34年)に完成して営農が始まりましたが、この最初の年に伊勢湾台風がこの地を襲い、干拓地のほとんどは海水に没してしまいます。

その後堤防をかさ上げするなどして干拓地を守り、農業開発が進められましたが、昨今の「離農」により新たな利用は低迷し、地価が下がったため、ごみ処理場やごみ焼却施設、下水処理場などの「迷惑施設」ばかりが乱立するようになり、国が当初もくろんだような有効な土地利用には至っていません。

戦艦大和のほうはご存知のとおりです。世界最大の戦艦として建造されたにも関わらず、戦中の石油不足のために逼迫する戦況への投入もままならず、沖縄へ「特攻船」として赴く途中で米軍航空機の攻撃にあい、あえなく沈没しました。

戦艦大和にせよ、伊勢湾干拓にせよ、昭和を代表する「無駄使い」として酷評されてきましたが、青函トンネルも苦労して完成させてはみたものの、同様に厳しい批判の目にさらされました。

トンネルの有効活用として「道路用に転用すべきだ」という声もあがったものの、前述のように技術的に実現が困難であり、このため、いっそのこと「石油の貯蔵庫にすべきだ」等のアイデアも出され、このほかのアイデアの中には「キノコの栽培場にすればいい」というものまであったようです。

しかし結局は、在来線を走らせ、将来的に「もしかしたら」新幹線が通すことができるかもしれない、と期待して「暫定的」に使おうということになりました。なおこの時、列車で車を運搬する「カートレイン」の運行を行うことも決定され、「青函カートレイン構想」と呼ばれましたが実現には至っていません。

こうして、在来線とはいえ、そこを列車が通ることがようやく認められた青函トンネルですが、それが実現するためにはまだハードルがありました。

それは1972年(昭和47年)に国鉄北陸本線の北陸トンネル内で発生した列車火災事故のような災害をおこさないよう、その対策を立てることでした。

このトンネル火災では、火災対策の不備により乗客乗員に多数の死傷者が出て大惨事となりましたが、その原因は、トンネル天井に設置されていた漏水誘導用樋が溶け落ち、架線に触れてショートを起こし停電したため、列車がトンネル内で身動きが取れなくなったというものでした。

深夜帯に発生した事故であり、列車編成前部に連結されていた寝台車では多くの乗客が就寝中であり、煙がひどかったことなども影響し、避難救助は難航を極めました。

すぐさまトンネル両側より救援列車が運転されるなどの対策がとられましたが、火災車両から発生した猛烈な煙と有毒ガスが排煙装置のないトンネル内に充満し、結果として30人(内1人は指導機関士)が死亡し、714人にものぼる負傷者を出す事態となりました。死者は全員が一酸化炭素中毒死でした。

この事故を教訓とし、青函トンネルでも列車火災事故などに対処するため、長大なトンネル内の安全設備として、トンネルの途中に消防用設備や脱出路を設けた「定点施設」と呼ばれる施設が2箇所設けられました(青森側、函館側それぞれ海岸直下から僅かに海底寄り)。

この「定点」は、現在青函トンネル内の施設を見学するための拠点としても使われており、吉岡海底駅(地図)と竜飛海底駅(地図)と命名されています。

見学を行う一部の列車の乗客に限り乗降できる特殊な駅であり、これをみるには予約が必要なようです。ちなみに、トンネルの最深地点には青色と緑色の蛍光灯によって彩られた「駅の看板」があるそうで、気を付けていれば車窓からみえるようです。

このほかにも、トンネル内は終日禁煙・火気使用厳禁となっており、トンネル内には一般建物用より高感度の煙・熱感知器が多数設置されているので、微量なタバコの煙を感知しただけでも列車の運行が止まってしまうといいます。

青函トンネルを走行する車両にも制約があり、列車保安装置としてATC-L型と呼ばれる最新型の自動列車制御装置を搭載することが求められています。また、トンネル内は海底を通ることから非常に湿度が高く(常に100%)、このためこれに耐えうる車両構造であることも求められています。

さらに、火災事故防止のため、トンネルを通行する営業用列車は、電車または電気機関車牽引の客車・貨車のみに制限されており、内燃機関を用いる車両(気動車・ディーゼル機関車)は救援目的のディーゼル機関車を除いてトンネル内では自走・牽引は出来ない決まりになっています。

また、青函トンネル内を通る「冷凍コンテナ」のコンプレッサーは、その動力にディーゼルエンジンを用いている車両がありますが、トンネル内の熱感知機の反応で列車が足止めされないよう、このディーゼルエンジンを切るための専用回路が設けられており、機関車の運転席からの遠隔操作によりエンジンを切ることができる車両のみ、走行が許されているそうです

こうしたコンテナだけでなく、本州と北海道間で「車両」を輸送する際にも、内燃機関を停止することが厳しく定められており、しかもこれを運搬する車両も基本的には電気機関車のみに限定されているということです。

なお、1988年(昭和63年)にはJR東日本がヨーロッパから輸入した、「オリエント急行」の客車が青函トンネルを通行していますが、この食堂車では石炭レンジを使用していたため、火災対策上通行が認められない車両でした。

しかし、この時には各車両に車内放送装置と火災報知器を設置した上、防火専任の保安要員を乗務させるという条件で特別に通行が認められました。しかも、一回こっきりで、このあとには一度も通っていません。

ここまで厳しい防火対策をほどこし、ようやく1988年(昭和63年)の3月23日に青函トンネルをJRの初列車が通過しましたが、開業初日には3か所の火災検知器が誤作動を起こし、快速海峡などが最大39分遅れるトラブルも発生しました。

このトラブルによりその後の運行の継続が危ぶまれましたが、さらに十分な対策がとられたためか、現在に至るまで大きなトラブルは発生していないようです。しかし開業当初は、それでもおそるおそるの運行だったのか、主たる輸送は快速「海峡」のみでしか行われず、特急や急行電車の運行は限られた時間帯のみでした。

しかし、2002年(平成14年)12月に東北新幹線八戸開業により列車体系が大幅に変更されたことから、特急・急行列車が走れるようになり、現在は一日に10~11往復の特急・急行列車が青森~函館間を行き来しています。

このほかにも青函トンネルは、北海道~本州間の「貨物輸送」のために重要な役割を果たしており、一日に上下50本もの貨物列車が設定されているそうです。天候に影響されない安定した安全輸送が可能となったことの効果は大きく、特に北海道の基幹産業である農産物の輸送量が飛躍的に増加したといわれます。

どうりで最近、スーパーなどで北海道産のじゃがいもやサケほかの道産物が安く手に入るようになったと思っていたら、青函トンネルのおかげだったんですね。また首都圏で印刷された雑誌類も、即日北海道に輸送されるようになったため、発売日のタイムラグがずいぶんと短縮されたそうです。

しかし、この青森~函館間での電車の運行はJR北海道にとってはまだ赤字事業なのだそうで、しかも飛行機の価格破壊も進む中、今後は北海道新幹線の一日も早い開通による輸送量増加が期待されるところです。

その開業は函館駅までが2015年、札幌駅までが2035年だそうです。札幌まで新幹線で行ける日がくるころには私も70歳代になっていますが、たぶん生きているのではないでしょうか。

ま、札幌までいけなくても、あと3年もすれば函館まで新幹線で行けるというので、なんだかワクワクしてきました。

ちなみに、今日10月1日は、1964年(昭和39年)に日本で初めて東海道新幹線が営業を始めた日です。この間、何度新幹線に乗ったことでしょう。お世話になっております。

この間、車両の故障などの事故はあったものの、JR(国鉄)側が責を負うような大きな人身事故は一度も発生していないというのは驚異的なことです。どこかの国の国鉄のように多くの犠牲者を出した高速列車を地面に埋めて、事故原因の証拠を隠すなんてのとは雲泥の差があります。

今後も事故を起こさず、安全に運行を続けてください。そして、青函トンネルを通って、新幹線で私を北海道へ連れて行って~。

洞爺丸

今日9月26日は、54年前の1958年に「狩野川台風」が伊豆地方に豪雨をもたらした日です。狩野川流域だけで死者・不明者853名、静岡県全体での死者・行方不明者は1046人、他県も含めた全体では、死者・行方不明者数1269名を出す大災害になりました。

ところが、これを上回る規模の犠牲者を出したのが、この翌年に来襲した伊勢湾台風で、1959年(昭和34年)の同じ日、9月26日に、和歌山県南端の潮岬に上陸し、死者4697人・行方不明者401人、合計5098人の犠牲者を出しており、犠牲者の数を基準とするならば、史上最悪の台風ということになります。

伊勢湾台風は、同じく大きな被害を出した、室戸台風(昭和9年、高知県室戸岬上陸、死者2702人、不明334人、計3036人)、枕崎台風(昭和20年、鹿児島県枕崎上陸、死者2473人、行方不明者1283人、計3756人)と合わせて「昭和の三大台風」と呼ばれています。

それぞれ、9月21日、9月17日に発生しており、改めて9月はやっぱ台風が多いわーと唸ってしまいます。

しかし、気象庁の統計データによると、1951年以降、昨年2011年までの合計では、8月の台風発生回数は8月がもっとも多くて340回、9月はこれに次いで301回となっています(7月は232回、10月、228回)。

上陸数についても、9月は56回なのに対して、8月は62回(7月28回、10月14回)なので、統計データだけみると9月が一番台風が多い、というのは間違いで、8月のほうが多いということになります。

しかし、昭和に死者・行方不明者数が1000人を超えたものと、平成になってから死者・行方不明者数が40人を超えた11個の台風は、ひとつを除いてすべて9月に来襲しており、これにより9月に訪れた台風は大きな被害をもたらす傾向があるということがわかります。

気象庁によれば、9月のこの頃には日本列島付近に秋雨前線があり、台風の東側を廻って前線に流れ込む湿った空気が前線の活動を活発化させて大雨を降らせる場合があることが多いためではないか、ということです。

2012年の9月26日の今日現在も、日本の南海には二つの台風が発生していて、日本への上陸をうかがっているようにもみえます。9月ももうすぐ終わりですが、台風とそれに伴う大雨にはくれぐれも注意しましょう。

洞爺丸事故

ところで、今日9月26日は、狩野川台風、伊勢湾台風とふたつの台風による大災害がもたらされた日であるとともに、1954年の同日にも、大きな事故が発生しています。「洞爺丸事故」というのがそれで、こちらは多分に人為ミスの可能姓が高いものの、同じく台風が原因となった海難事故なので、ある意味「災害」といってもよいかもしれません。

死者・行方不明者あわせて1155人の命が奪われており、日本海難史上最大の惨事といわれています。

洞爺丸(とうやまる)は、青森と函館を結ぶいわゆる「青函連絡船」です。戦後、国鉄がGHQの許可を受けて建造した車載客船4隻のうちの1隻で、空襲による造船施設の破壊や戦後の資材不足といった非常に困難な状況のもとで、当時としては異例の速いペースで建造された船であり、日本造船界の戦後復興期を象徴する船舶ともいえます。

総トン数は旧型の青函連絡船、翔鳳丸型3400トン級から3800トン級へと大型化され、厳しい建造事情が想起されないほどの充実した設備(特に1等・2等部分)を誇り、旅客定員も1128人と翔鳳丸型の895人から大幅に増えました。

1947年に竣工したときの試運転最大速力は17.46ノットと、翔鳳丸の16.95ノットを若干上回ってはいたものの、函館-青森間の所要時間は翔鳳丸型とあまり変わらず、4時間30分でした。

戦時中は、迷彩塗装を施されていた青函連絡船ですが、洞爺丸型は船体上部を真っ白に塗装された優美な船でした。この当時としては快適な船旅ができるということで利用客からも非常に好評で、鈍足で激しく混雑する列車を降り、真新しい連絡船に乗り換えてきた乗客たちは、給湯設備の整った洗面台で顔を洗い、整備された船内でくつろぐことができたといいます。

竣工後3年経った1950年には、姉妹船として建造された渡島丸と共に、日本の商船で初めてレーダーを装備し、また、1954年8月の北海道国体に際して行われた昭和天皇北海道行幸ではお召し船となるなど、「海峡の女王」と呼ばれ、青函航路のフラッグ・シップとして親しまれました。

しかし、昭和天皇のお召し船となってから僅か一か月余り後の1954年(昭和29年)9月26日、上り4便として遅れること約4時間で函館を出航した洞爺丸は、函館港出港直後から台風15号によって引き起こされた強風と高波を受けます。このため船長は前途の航行が困難と判断し、函館港外に錨泊し、これをやりすごそうとしました。

ところが、車輌甲板からの浸水により発電機および主機関が停止したことによって操船不能となって流され、七重浜沖で転覆・沈没。多くの犠牲者を出すことになるのです。

台風15号

1954年9月26日未明、九州南部に上陸していた台風第15号(1958年に洞爺丸台風と命名)は、15時時点で青森県西方約100キロメートルにあって、中心気圧968ミリバールの中型台風でした。しかし、時速110kmと早い速度で北東に進んでおり、その後17時ころ渡島半島を通過して津軽海峡にもっとも接近すると予想されていました。

しかし、台風は予想と異なり、渡島半島を通過せず日本海側を進んで北海道北西岸に接近。しかも速度を大きく落とします。このため、南西に向けて開口した函館湾は、台風の危険半円内にすっぽり入ったまま長時間を過ごすことになり、暴風と巨大な波が長い時間をかけて繰り返し来襲することになりました。

ところが、この台風が北海道地方に襲来する前、函館地方にはしばしの晴れ間が訪れ、これはまるで台風の目が訪れたときのようでした。台風のど真ん中、すなわち台風の目に入ったときは、風や雨もやみ、晴れ間が出るというのはご存知だと思います。

晴れ間と思われたこの天気の好転は、実は台風の東側にあった閉塞前線の通過によるものでした。通常、閉塞前線が通過したあとには高気圧が入り、晴れ間が長く続きます。

しかしこの場合、閉塞前線のあとには台風が控えており、晴れ間が生じたのは閉塞前線が通過した直後のほんのひとときの間のことでした。洞爺丸の船長は、これを天候の回復のきざしと勘違いし、船を出航させてしまいますが、この判断ミスがそのあとの大参事を起こすことになろうとは、このとき予想だにしませんでした、。

この時代にはまだ気象衛星はなく、洞爺丸が搭載していたレーダーは気象用ではなく、気象レーダーはようやく一部で運用に達した段階でした。気象レーダーの不足を補うために飛ばされる気象観測機の運営も米軍任せであり、このような複雑な気象現象を正しく観測し、予想することは困難なことでした。

出航

その日の11時過ぎ、午前中に青森からの下り3便として運航を終えていた洞爺丸は、函館の鉄道桟橋第1岸に到着し、折り返し14時40分出航の上り4便となる予定でした。洞爺丸の船長の「近藤平市」船長は、このように晴れ間も見える気象条件だったことから、当初は台風接近前に陸奥湾に入り、青森に到着することができると見通しを立てていました。

しかし、12時40分頃に、青森へ向かっていた渡島丸という貨物船から、海峡中央では、風速25メートルの風が吹き、波、うねりとも高く、船の傾斜の激しく、その航行はかなり「難航中」という通報が入ります。

このとき、洞爺丸よりも先に出航していた、別の青函連絡船の第六青函丸と第十一青函丸も、この通報を聞いて津軽海峡にさしかかったところで運航を中止して引き返してきました。

このため、第十一青函丸に乗船していた米軍軍人・軍属などの乗客と車両は、後続の洞爺丸へ移乗させようということになりましたが、波が高かったため着岸に時間がかかり、その後の移乗作業にも手間取ってしまいます。また悪いことに、この日函館市内で断続的に発生していた停電のために船尾の可動橋を動かすことができず、このため洞爺丸も15時10分には、台風接近を恐れて運航を中止することに決定しました。

この停電はわずか2分間のことだったそうで、もし、停電がなく可動橋が上がっていたら、洞爺丸は移乗作業が終わりしだい出航し、その後無事に青森に到着していたであろうといわれています。

一旦出航を見合わせた洞爺丸ですが、17時頃、函館港では土砂降りの雨がひとしきり降ったあと、急に風が収まり晴れ間ものぞいてきました。

函館海洋気象台の観測では、台風の気圧は983.3ミリバールと中央気象台が発表した気圧よりも小さくなっており、また、風速も、15時に19.4メートルだったものが、17時には17.3メートル、18時にはさらに13.7メートルに弱まっているとのことでした。

これらのことから、近藤平市船長は台風の速度から見て天候の回復は早いだろうと考え、晴れ間が見えているなどの現在の気象状況を検討した結果、海峡は台風の目に入っていると判断。これまでの経験から、気象判断に絶対の自信を持っていた船長は出航を決断し、17時40分頃、出航時刻を18時30分とすると発表します。

18時25分頃、洞爺丸は可動橋をあげ、ちょうど青森から来た石狩丸が着岸、係留し終わるのを見届けて離岸。18時39分、青森に向けて4時間遅れで出航します。乗員乗客は合わせて1337人でした。

沈没

ところが、出航して間もなく、南南西からの風が急に著しく強くなったため、船長は危険を感じはじめます。18時55分頃には、函館港の防波堤の西側の出入口を通過して、風下に船が流されはじめたため、投錨し仮泊することを決意。そして、西向きに針路をとったのち、19時01分、天候が収まるのを待つために函館港防波堤灯台付近の海上に投錨し、仮泊を開始しました。

ところが、このころには函館気象台の観測結果を上回る、平均40メートル、瞬間50メートルを超える南西方向からの暴風が吹きはじめ、合わせて猛烈な波浪のために、船は錨を引きずったまま、流され始めます。

激しい波浪のため、船尾の車両搭載口からは、海水が浸入するようになり、この海水が車輌甲板に溜りはじめます。この車輌甲板とその下にある船の機関部との間にある隔壁は水密が不完全な構造だったため、やがて車輌甲板からボイラー室、機関室への浸水がおこりはじめます。すぐに蒸気ボイラーへの石炭投入が困難になるほど海水があふれかえる事態になり、洞爺丸はその心臓部の機能を徐々に失い始めます。

出航後、2時間になろうとする20時30分頃までには、開口部から機関室や缶室などへの浸水はさらに進み、発電機は次々に運転不能となるとともに、船底に溜まった海水の排水ポンプも停止し、21時50分頃にはついに左側の機関が停止。さらにその五分後には、右側の機関も停止して、洞爺丸は完全に運行不能に陥りました。

すべての機関の停止によって操船の自由を失ったため、近藤船長は洞爺丸の沈没を避けるため、函館港の北側にある遠浅の砂浜、七重浜へ船を座礁させることに決め、22時12分ころ、「機関故障により航行不能となったため七重浜に座礁する」と乗客に報じます。

22時15分、船長は旅客に救命胴衣を着用するよう指示。その直後の同26分頃、洞爺丸は風にあおられて、函館港の北側にある第三防波堤の灯柱付近に、3回ほど接触し、これが原因で船体を右舷に45度傾斜させます。

この接触の衝撃によって、乗組員は船は座礁したと勘違いし、転覆の危険は回避されたと考え、青函局に座礁の報告を無線で連絡。乗客にもその旨アナウンスしましたが、実際には船は波浪に翻弄されていただけで、その後もさらに右傾斜を増していきます。

座礁の報告を受けた青函局は救難本部の設置を決定し、150トンほどの船を4隻現場に向わせようとしますが、波浪が激しく断念。

そのころ、洞爺丸では浸水が激しく、そのことを無線連絡する余裕もなく、22時39分に通信士はやむなくSOSだけを発信。ところが、青函局の関係者は、このSOSも座礁したことを知らせるものであると理解し、このとき、洞爺丸が沈没の危機に瀕しているとは考えてもいませんでした。

22時43分頃、海岸まであと数百メートルの地点で、洞爺丸が引きづっていた左舷の碇鎖が破断。波と風に翻弄されていた洞爺丸のアンカーの役割をしていた唯一の生命線が切断されることで、洞爺丸は完全に復原力を失います。そしてこの直後に大波を受けて横倒しとなり、満載した客貨車や車両は轟音とともに横転。

しかし、機関停止していたボイラーは最後まで焚火(ふんか)を続けており、船内は沈没5分前まで点燈していたといいます。

22時45分頃、ついに洞爺丸は、函館港の防波堤灯台付近の地点で、右舷側に約135度傾斜した状態で沈没していき、最後には船体がほぼ180度裏返った状態となり、海底に煙突が刺さった状態になります。

そして、この沈没により、乗員乗客あわせて1155人が死亡または行方不明となりました。ほとんどが溺死であったと考えられています。犠牲者の中には、北海道遊説の帰途に遭難した冨吉榮二元逓信大臣と菊川忠雄衆議院議員や元宝塚女優の佐保美代子などの著名人が含まれていました。船長の近藤平市もこのとき殉職しています。

乗客の多くは沈没の際に溺死し、その多くが七重浜に打ち上げられましたが、そのうちの、数十人は自力で浜に泳ぎ着いたり、波に運ばれて奇跡的に生きて七重浜に打ち上げられました。しかし、9月下旬の北海道といえば海水温は零度に近く、浜に打ちあげられていた時点では生きていた人も、すぐに力尽きて亡くなったといいます。当局の勘違いにより、救助の初動体制をとるのが遅れたことも災いとなりました。

生存者はわずか159名で、この多くは救難船によって救助された人たちでした。

事故に巻き込まれた当事者以外にも「娘一家が乗船し遭難」との一報を受けた父親がショック死したということです。ところが、この娘たちは洞爺丸に乗っておらず、その娘の夫から乗船せず無事であるという旨の電報が、そのあとに父親に届いたという悲しいお話も残っています。

洞爺丸以外の被害

この洞爺丸の事故が起こったときには、洞爺丸以外の船も大きな被害を受けています。当時の函館港内には8隻の船舶が在港しており、その多くが係留索切断・錨鎖切断・走錨などの事態となりましたが、なんとか沈没は免れました。

しかし、台風襲来時に出航しようか港へ帰ろうかと躊躇していた船や、港外に停泊していた船が被害にあい、これらの船9隻のうち、無事であったのは2隻のみで、2隻が座礁、5隻が沈没しました。しかもその5隻は、洞爺丸を含めてすべて青函連絡船でした。

そのうちの一隻は洞爺丸に船客や車両を移乗させた、あの第十一青函丸(2851トン)でした。洞爺丸に客を移乗させたあと、港外で停泊していたところ、高波によって翻弄され大きく船体を破損。浸水が始まったころの19時57分に「停電に付き、後で交信を受ける」との通信をしたあと、波浪による船体破断のため沈没。乗員90名が全員亡くなりました。

また、北見丸(2928トン)も函館港外で22時35分ころ転覆沈没。沈没地点が8キロも沖合だった事から乗員70名が殉職しましたが、6名が生還しました。

このほかにも、日高丸(2932トン)が23時40分ころ転覆沈没、乗員56名殉職、生存者20名。十勝丸(2912トン)、23時43分、転覆沈没、乗員59名殉職、生存者17名など、洞爺丸を含め、一夜にして遭難した5隻をあわせた犠牲者は最終的に1430人にも上りました。

戦争による沈没を除けば、こうした海難事故による犠牲者数は1912年のタイタニック号沈没、1865年のサルタナ号火災に次ぐ世界第3の規模の海難事故でした。

審判と反省

この事故が、「人災」であるかどうかについては、1954年に「海難審判」として審議が始まり、1955年9月には、洞爺丸について函館地方海難審判庁から裁決が言い渡されました。

主文は「船長の運航に関する職務上の過失に起因して発生したものであるが、船体構造及び連絡船の運航管理が適当でなかった事も一因である」とし、その当時、国鉄総裁だった十河信二(そごうしんじ)にその旨が「勧告」されるにとどまりました。気象台と青函鉄道管理局長については勧告が見送られました。

ちなみに、十河信二はその後、「新幹線の父」として新幹線開発計画を推進した立役者として名を知られるようになる人です。

十河信二総裁は罪に問われませんでしたが、それでも、国鉄はこの内容を不服として東京高等裁判所に裁決取り消しを求めて提訴しました。しかし、同高裁は1960年8月3日、「海難審判の裁決は意見の発表に過ぎず、行政処分ではない」として訴えを却下。8月15日に最高裁判所に上告したものの、1961年4月20日に上告を棄却して裁決が確定しました。

その後、この事故を教訓として既存連絡船への改修が施され、船尾車両積載口への水密扉の設置、下部遊歩甲板の旅客室窓の水密丸窓への交換、などなどが行われるようになり、主機関であったボイラーにも浸水後すぐに機能を停止しないような改良がくわえられるとともに、蒸気機関からディーゼル機関への転換が促されるようになりました。

青函連絡船の運航についても、出航判断等それまで船長の独断に任されていたものが船長と青函局指令との合議制になります。また、荒天時には気象台との連絡を緊密にする、台風や低気圧通過時の退避先は湾が開口していて海峡の波浪が押し寄せやすい函館ではなく、陸奥湾の奥にあり波浪の影響を受けにくい青森とする等が申し合わされるようになったといいます。

こうした改善の結果、その後1988年3月13日の終航まで、青函連絡船で2度とこのような大きな事故がおきることはありませんでした。そして、この事故をきっかけとして、本州と北海道を地続きにする青函トンネル構想が急速に具体化されることになっていくのです。

逸話

その後、洞爺丸の船体は後日引き揚げられましたが、引き揚げの遅延も災いして上部構造の損傷が著しく、現場検証後に解体されました。犠牲者の多くが打ちあげられた函館港北側の七重浜には、洞爺丸慰霊碑が作られ、そこには、「台風海難者慰霊之碑」と記されています。

亡くなった人の遺体の中には、明らかに自殺をほのめかす遺書を携えた遺体があり、この人が本当に投身自殺で死亡したのか、事故で死亡したのかが問題となったそうです。最終的には事故で死亡したと判断されたそうですが、このことを題材にしたと思われる推理小説が、水上勉の「飢餓海峡」です。

1965年には映画化され、またその後何度もテレビドラマにもなり、舞台でも上演されたことのある名作です。私も若いころ、この水上勉さんの原作を読み、映画も見ましたが、人間の性(さが)とは、こんなにも空しく悲しいものかと考えさせられるストーリーで、強い印象を覚えました。

ここでそのストーリーの概要を書いてもいいのですが、まだ読んだことがない人も多いかと思いますのでやめておきます。今日の項を目にしてご興味を持たれた方はぜひ原作を読んでみてください。なかなか面白いと思いますよ。

さて、今日は台風の話を発端にこんなにも引っ張ってしまいました。今日は良いお天気みたいですね。このあと、台風が来なければいいのですが……