トンネルのお話

昨日の台風は、結構大きかったようですが、その割には際立った被害は少なかったようでやれやれです。とはいえ、被害に遭われた方がいなかったわけではなく、その方々にはお見舞いを申し上げたいと思います。

ところで、昨日の夜はせっかくの中秋の名月が見えるはずだったのに、残念なことをしました。新月や満月の夜には良しにつけ悪しにつけ、いろんなことがある、と前にこのブログでも書きましたが、昨日の満月の夜のそれは台風だったのでしょうか。

しかし、今朝目覚めて庭に出たところ、西の空にはなんと、夕べの満月がまだ沈まずに残っているではありませんか。これはラッキー♪と思い、パシャリと撮ってみましたので、皆さまにもお披露目します。

秋の名月を見ると、幸せになるという言い伝えもあるようですので、今日このブログでこの写真をご覧になったみなさんにも、きっとラッキーなことが起こるに違いありません。

さて、今日の話題です。先日、青函連絡船の洞爺丸の事故について取り上げましたが、この青函連絡船には、廃止になる1988年に先立つ2~3年前に一度乗ったことがあり、これが最初で最後になりました。

そのときには、青函連絡船が廃止になるということも知らずに乗船したため、船内の様子をとりたてて気にもとめていませんでしたが、もうすぐ廃止になるのならば、もう少しじっくり内部の様子を見ておけばよかった、と少し後悔しています。

退役した青函連絡船の多くは、老朽化のため退役後すぐに解体されたものも多いようですが、一部は中国や中近東の国などに売却されて別の用途に使われたものが何隻かあります。
しかし、これらもまたその後に老朽化が進んだため解体されたものがほとんどのようです。

もしかしたら、海外で残っているかもしれないものは、1965年に就航した「大雪丸」です。2008年に中国の船舶会社が買収し、福建省に回航されたまではわかっていますが、その後の行方は詳細不詳とか。昨今の日中の不穏な空気の中にあって、果たして生き残っているでしょうか。

国内に現存するのはおそらく二隻で、これは、1964年就航の「八甲田丸」と1965年に就航した「摩周丸」です。

八甲田丸は現在、青森駅北側の旧桟橋に係留され、「メモリアルシップ八甲田丸」として見学可能ですが、エンジンは取り外されていて、自力航行は不可能なため、法律上は「船舶」ではありません。

摩周丸のほうも、函館駅近くの岸壁に「函館市青函連絡船記念館・摩周丸」として係留されていますが、こちらも機関のない博物館として展示されています。

もう一隻、摩周丸と同じ年に就航した「羊蹄丸」という船がありましたが、こちらは終航後、お台場にある、船の科学館」の一展示施設として敷地内の岸壁に係留され、長年親しまれてきました。

しかし、昨年の11月以降、船の科学館自体が無期延期の休館となり、羊諦丸も、2012年3月に愛媛県新居浜市の企業に売却され、その市制施行75周年記念行事に出店されるため、新居浜東港へ回航。記念事業が終わった現在は、既に解体が始まっているか、あるいは解体予定という状況です。

ちなみに船の科学館の休館は、こちらも施設自体がかなり老朽化したためと聞いています。お台場の一等地にあり、結構広大な敷地にある施設なので、これからどういう施設になっていくのか注目が集まっています。

ところで、青函連絡船はなぜ廃止になったのでしょうか。

言うまでもなくそれは、1988年の3月に津軽海峡の下を通る「青函トンネル」が開通したためです。それまでは、青森(函館)から対岸のJR路線へ電車を運行するためには、それぞれの港で鉄道車両を連絡船の中にそのまま積み込んで運搬し、到着地でまた車両を地上におろして運行を続けていました。

青函連絡船には列車のほかに、一般の乗用車やトラック、そして旅客も載せて青森~函館間を運ぶことができたため、これが「連絡船」と呼ばれたゆえんですが、青函連絡船がなくなってしまった現在、そういうめんどうくさいことをしていたという事実さえ人々の脳裏から消え去ろうとしています。

しかし、青函トンネルができあがって、青函連絡船で列車を運ぶ必要がなくなり、これが廃止になったにも関わらず、現在も青森と函館を結ぶ津軽海峡には、「青函フェリー」が運行しています。乗用車やトラックで北海道に渡るためには、このフェリー以外には手段がないためです。

この事実は、案外と知らない人が多いようで、今も北海道へ渡ったことのない人の中には、北海道へは青函トンネルを通ってクルマで行けると思っている人がいるようです。

かくゆう私も、実は青函トンネルを車で通れると勘違いしていた一人で、10年ほど前に新潟から小樽までフェリーを使って車で北海道へ行ったとき、帰りは津軽トンネルを通って帰ろう♪と楽しみにしていたところ、函館港まで来て、エッ!? 青函トンネルってクルマは通れないの?と初めてその事実を知ったのでした。

現在は、昨年新幹線が青森まで延伸したばかりであり、2015年には函館まで新幹線で行けるというような情報もメディアを通じてかなり流れていますから、実は青函トンネルはクルマは通れない、という現状を認知している人も多くなっていることでしょう。しかし、私のようなおっちょこちょいも中にはいらっしゃるのではないでしょうか。

じゃあ、それにしても何で青函トンネルではクルマが通れないの? という話なのですが、これは青函トンネルが53.85kmという長大なトンネルであるためです。そのおよそ半分が海底を通っているため、ここに自動車を通すということになると、その大量に走る車から排出される排気ガスを排気するための適当な方法がないためです。

トンネルの中央部は最大で140mの水深がある海の底で、ここに仮に排気塔を設けるとなると莫大な費用がかかります。しかも、その排気口の海上部分は津軽海峡のど真ん中にできるわけで、ここを航行する船舶の妨げになることは間違いありません。

このため、設計の当初から青函トンネルは「鉄道専用トンネル」と位置付けられて計画がスタートしました。当初は在来線規格での設計でしたが、その後、整備新幹線計画に合わせて新幹線規格に変更されることになり、現在のJRの在来線のほとんどが採用している狭軌鉄道ではなく、世界標準の広軌鉄道用のトンネルとして建設されることになりました。

このため、トンネル内施設の保安装置の設置基準などはすべて新幹線規格を踏襲しており、開通後、現在に至るまで在来線としてしか営業はしていないものの、来るべき将来に新幹線が開通する際には、現状における軌間の狭さや架線電圧の違いなどは問題なく解消できるといいます。

しかし、自動車の運行は上記のような理由のほかに、後述するようにトンネル内での災害にそなえて、現在では考えられていません。

こうして、鉄道専用トンネルとして計画がスタートした青函トンネルは、1961年の工事開始以来、24年かけて掘削が行われ、1985年に本坑が開通、1988年にJR東日本の車両がはじめてここを通過し、営業が始まりました。

トンネル本体の建設費は計画段階で5384億円だったそうですが、最終的には7455億円を要し、取り付け線を含めた完成形の海峡線としての建設費は実際9000億円に上る大国家プロジェクトになりました。

ところが、青函トンネルが完成したときには、国の財政悪化から、北海道新幹線の建設は凍結になっていました。関東以西と北海道が鉄道と青函航路で結ばれていた着工当時と打って変わり、このころは関東から北海道への旅客輸送は既に航空機が9割を占めるようになっており、北海道新幹線の必要性が薄らいでしまっていました。

さらにトンネルが完成後も、トンネル内に大量にあふれる湧水の汲み上げや、トンネル壁面の老朽化の補修にかかる維持コストも大きいことから、トンネルは完成したものの、これを埋め戻してしまって放棄した方が経済的であるまで言われました。

よく、「昭和の三大馬鹿」ということが言われますが、青函トンネルはそのひとつとと言われ、「無用の長物」、「泥沼トンネル」などと揶揄されたこともありました。

ちなみに他の「馬鹿」は「戦艦大和」と「伊勢湾干拓」です。伊勢湾では広大な面積を埋め立てて農地にすることが計画され、1959年(昭和34年)に完成して営農が始まりましたが、この最初の年に伊勢湾台風がこの地を襲い、干拓地のほとんどは海水に没してしまいます。

その後堤防をかさ上げするなどして干拓地を守り、農業開発が進められましたが、昨今の「離農」により新たな利用は低迷し、地価が下がったため、ごみ処理場やごみ焼却施設、下水処理場などの「迷惑施設」ばかりが乱立するようになり、国が当初もくろんだような有効な土地利用には至っていません。

戦艦大和のほうはご存知のとおりです。世界最大の戦艦として建造されたにも関わらず、戦中の石油不足のために逼迫する戦況への投入もままならず、沖縄へ「特攻船」として赴く途中で米軍航空機の攻撃にあい、あえなく沈没しました。

戦艦大和にせよ、伊勢湾干拓にせよ、昭和を代表する「無駄使い」として酷評されてきましたが、青函トンネルも苦労して完成させてはみたものの、同様に厳しい批判の目にさらされました。

トンネルの有効活用として「道路用に転用すべきだ」という声もあがったものの、前述のように技術的に実現が困難であり、このため、いっそのこと「石油の貯蔵庫にすべきだ」等のアイデアも出され、このほかのアイデアの中には「キノコの栽培場にすればいい」というものまであったようです。

しかし結局は、在来線を走らせ、将来的に「もしかしたら」新幹線が通すことができるかもしれない、と期待して「暫定的」に使おうということになりました。なおこの時、列車で車を運搬する「カートレイン」の運行を行うことも決定され、「青函カートレイン構想」と呼ばれましたが実現には至っていません。

こうして、在来線とはいえ、そこを列車が通ることがようやく認められた青函トンネルですが、それが実現するためにはまだハードルがありました。

それは1972年(昭和47年)に国鉄北陸本線の北陸トンネル内で発生した列車火災事故のような災害をおこさないよう、その対策を立てることでした。

このトンネル火災では、火災対策の不備により乗客乗員に多数の死傷者が出て大惨事となりましたが、その原因は、トンネル天井に設置されていた漏水誘導用樋が溶け落ち、架線に触れてショートを起こし停電したため、列車がトンネル内で身動きが取れなくなったというものでした。

深夜帯に発生した事故であり、列車編成前部に連結されていた寝台車では多くの乗客が就寝中であり、煙がひどかったことなども影響し、避難救助は難航を極めました。

すぐさまトンネル両側より救援列車が運転されるなどの対策がとられましたが、火災車両から発生した猛烈な煙と有毒ガスが排煙装置のないトンネル内に充満し、結果として30人(内1人は指導機関士)が死亡し、714人にものぼる負傷者を出す事態となりました。死者は全員が一酸化炭素中毒死でした。

この事故を教訓とし、青函トンネルでも列車火災事故などに対処するため、長大なトンネル内の安全設備として、トンネルの途中に消防用設備や脱出路を設けた「定点施設」と呼ばれる施設が2箇所設けられました(青森側、函館側それぞれ海岸直下から僅かに海底寄り)。

この「定点」は、現在青函トンネル内の施設を見学するための拠点としても使われており、吉岡海底駅(地図)と竜飛海底駅(地図)と命名されています。

見学を行う一部の列車の乗客に限り乗降できる特殊な駅であり、これをみるには予約が必要なようです。ちなみに、トンネルの最深地点には青色と緑色の蛍光灯によって彩られた「駅の看板」があるそうで、気を付けていれば車窓からみえるようです。

このほかにも、トンネル内は終日禁煙・火気使用厳禁となっており、トンネル内には一般建物用より高感度の煙・熱感知器が多数設置されているので、微量なタバコの煙を感知しただけでも列車の運行が止まってしまうといいます。

青函トンネルを走行する車両にも制約があり、列車保安装置としてATC-L型と呼ばれる最新型の自動列車制御装置を搭載することが求められています。また、トンネル内は海底を通ることから非常に湿度が高く(常に100%)、このためこれに耐えうる車両構造であることも求められています。

さらに、火災事故防止のため、トンネルを通行する営業用列車は、電車または電気機関車牽引の客車・貨車のみに制限されており、内燃機関を用いる車両(気動車・ディーゼル機関車)は救援目的のディーゼル機関車を除いてトンネル内では自走・牽引は出来ない決まりになっています。

また、青函トンネル内を通る「冷凍コンテナ」のコンプレッサーは、その動力にディーゼルエンジンを用いている車両がありますが、トンネル内の熱感知機の反応で列車が足止めされないよう、このディーゼルエンジンを切るための専用回路が設けられており、機関車の運転席からの遠隔操作によりエンジンを切ることができる車両のみ、走行が許されているそうです

こうしたコンテナだけでなく、本州と北海道間で「車両」を輸送する際にも、内燃機関を停止することが厳しく定められており、しかもこれを運搬する車両も基本的には電気機関車のみに限定されているということです。

なお、1988年(昭和63年)にはJR東日本がヨーロッパから輸入した、「オリエント急行」の客車が青函トンネルを通行していますが、この食堂車では石炭レンジを使用していたため、火災対策上通行が認められない車両でした。

しかし、この時には各車両に車内放送装置と火災報知器を設置した上、防火専任の保安要員を乗務させるという条件で特別に通行が認められました。しかも、一回こっきりで、このあとには一度も通っていません。

ここまで厳しい防火対策をほどこし、ようやく1988年(昭和63年)の3月23日に青函トンネルをJRの初列車が通過しましたが、開業初日には3か所の火災検知器が誤作動を起こし、快速海峡などが最大39分遅れるトラブルも発生しました。

このトラブルによりその後の運行の継続が危ぶまれましたが、さらに十分な対策がとられたためか、現在に至るまで大きなトラブルは発生していないようです。しかし開業当初は、それでもおそるおそるの運行だったのか、主たる輸送は快速「海峡」のみでしか行われず、特急や急行電車の運行は限られた時間帯のみでした。

しかし、2002年(平成14年)12月に東北新幹線八戸開業により列車体系が大幅に変更されたことから、特急・急行列車が走れるようになり、現在は一日に10~11往復の特急・急行列車が青森~函館間を行き来しています。

このほかにも青函トンネルは、北海道~本州間の「貨物輸送」のために重要な役割を果たしており、一日に上下50本もの貨物列車が設定されているそうです。天候に影響されない安定した安全輸送が可能となったことの効果は大きく、特に北海道の基幹産業である農産物の輸送量が飛躍的に増加したといわれます。

どうりで最近、スーパーなどで北海道産のじゃがいもやサケほかの道産物が安く手に入るようになったと思っていたら、青函トンネルのおかげだったんですね。また首都圏で印刷された雑誌類も、即日北海道に輸送されるようになったため、発売日のタイムラグがずいぶんと短縮されたそうです。

しかし、この青森~函館間での電車の運行はJR北海道にとってはまだ赤字事業なのだそうで、しかも飛行機の価格破壊も進む中、今後は北海道新幹線の一日も早い開通による輸送量増加が期待されるところです。

その開業は函館駅までが2015年、札幌駅までが2035年だそうです。札幌まで新幹線で行ける日がくるころには私も70歳代になっていますが、たぶん生きているのではないでしょうか。

ま、札幌までいけなくても、あと3年もすれば函館まで新幹線で行けるというので、なんだかワクワクしてきました。

ちなみに、今日10月1日は、1964年(昭和39年)に日本で初めて東海道新幹線が営業を始めた日です。この間、何度新幹線に乗ったことでしょう。お世話になっております。

この間、車両の故障などの事故はあったものの、JR(国鉄)側が責を負うような大きな人身事故は一度も発生していないというのは驚異的なことです。どこかの国の国鉄のように多くの犠牲者を出した高速列車を地面に埋めて、事故原因の証拠を隠すなんてのとは雲泥の差があります。

今後も事故を起こさず、安全に運行を続けてください。そして、青函トンネルを通って、新幹線で私を北海道へ連れて行って~。