招き猫

今日、9月29日は、「くる(9)ふ(2)く(9)」ということで、副を招きよせる「招き猫の日」なのだそうです。

と、いうことは、2月29日は、副が逃げる日なので、「あっち行けニャンの日」ということになるのでしょうか。ネコが嫌いな人には良い記念日になるかも。が、愛猫家としては、断固としてネコの駆逐には反対です。税金を上げる前に、ネコ保護法を作ってもらいたいくらいです。

……冗談はさておき、今日はその「招き猫の日」ということで、この週末の土日を中心に、三重県の伊勢市や、愛知県の瀬戸市、長崎県の島原市などでは「来福招き猫まつり」なるものが開催され、毎年大勢の人で賑わっているそうです。

この招き猫、もともとはネコが農作物や蚕を食べるネズミを駆除してくれるため、養蚕業を営む人たちの縁起物として造られたようです。これがなぜ養蚕業以外の商売全体の縁起ものに担ぎ上げられたのかについては後述するとして、江戸時代には既に商売繁盛のマスコットとして全国で大人気になっていたようです。

右手(前足)を挙げている猫は金運を招き、左を挙げている猫は人(客)を招くとされています。私は見たことがないのですが、両手を挙げたものもあるのだそうで、これは「金」も「客」の両方を招きよせるということなのでしょうが、欲張り過て「お手上げ万歳」になるからやめたほうがいい、という人もいます。

一般的にみられる招き猫はほとんどが「三毛猫」風で、茶、黒、白の三色ネコです。ちなみに本物の三毛猫は99.9パーセントが♀だそうで、オスのミケは1000匹に一匹いるかいないかということです。これは、メス猫になるネコだけが、毛並がオレンジ(茶色)になる遺伝子を持っているためだそうで、ウチのテンちゃんも茶色を持っていて、メスです。

招き猫として教育したことがないので、本当に招き猫かどうかわかりませんが、いまのところ、テンちゃんのせいで災いがあったということはありません……

……さて、一般的なミケ招きは、「幸運を招く」として、全般的に運気上昇を願う招き猫とされています。招き猫として売られているものは、このほかにも白や赤、黒色の他に、ピンクや青、金色のものまであります。

色によってその「使用目的」が違うそうで、青い色の招き猫は、「学業向上」や「交通安全」用だそうです。また、ピンク色の招き猫は、「恋愛成就」。黒いのは、「魔除け」や「厄除け」もしくは「家内安全」とされているようで、これはネコが夜でも目がみえることから来ているようです。

白い招き猫は、お稲荷さんの白狐から来ているのではないか、ともいわれており、これは三毛猫と同じく、一般的な「幸運を招く」または「副を招く」ネコだそうです。赤い猫は、江戸時代に赤い色の服やはぎれを身に着けると、疱瘡や麻疹が治るということで、こうした病気が嫌う色、ということで、「無病息災」の意味を持ちます。

そして金色のネコ。これはやはり「金運」でしょう。江戸時代には金色の顔料は高価でしたから、出てきたのは最近かと思われます。右手を挙げている招き猫はそもそも金運アップ用なので、これを金色に塗ることで、さらに金運アップということになるようです。しかし、あまり欲張りすぎると、「お手上げ」になるかも。

この招き猫、日本一の生産地は愛知県の常滑市だそうです。常滑市といえば中部国際空港のある市として近年有名になりましたが、同県の瀬戸市と同じく陶器の産地として有名なところです。瀬戸市も招き猫の「名産地」で、いずれも陶器製の招き猫を作っています。

このほか、群馬県の高崎市でも招き猫を作っていますが、こちらは張子の招き猫です。高崎は毎年1月に行われる「だるま市」で有名なところで、同じく張子の達磨を作っており、同じ業者さんが招き猫も作っているのでしょう。

最近は中国でも、街角でモーターで手を振る機能を備えた、金色の招き猫が増えたそうで、この「中国産」のネコの多くは左手に「千両小判」を持っているのだそうです。

なので、昔から中国にあったわけではなく、多分日本の招き猫を意識して作ったのだと思います。ドラえもんやディズニーなどのアニメキャラのぱくりの多いことで有名な中国ですが、招き猫を「開発」するにあたっては、ただマネするだけでは、「著作権」の侵害になると思ったに違いなく、電動にすればいいと思ったに違いありません。

アメリカでも、ニューヨークの中国人街では招き猫はポピュラーな存在だといいます。こちらは「正統派」の招き猫が置いてあることが多いようで、レストランの入り口などに日本のものとほぼ同じ型の招き猫がよく置かれています。

おそらく同じくニューヨークにある日本人街の日本人から影響を受けたのでしょう。ヘンなマネなどせず、素直に他国の文化を受け入れている中国人街の中国の人たちはエライと思います。

ちなみに、招き猫はアメリカでもお土産用や輸出用として製作されています。”Welcome Cat” とか “Lucky Cat” と呼ばれ、ペニーなどの硬貨を手にもった”Dollar cat”というのもあります。

ただ、アメリカの招き猫は、日本の招き猫が、手のひらを下に、甲を上に向けて「招く」のに対し、手のひらを上に向け、指を上にまげ「カムカム」と言っているようなしぐさをしています。

日本では、手招きのジェスチャーでは、手のひらを下にして「おいでおいで」とするのが普通ですが、欧米では手の甲を下にして、指先をまげて「カムカム」としながら人を呼びます。欧米では、手のひらを下にして指先を振ると、見ようによると、「あっちゃへ行け」ととられるためです。日本における「しっしっ」と同じですよね。

文化の違いというのは、こういう作りモノにも出てきます。面白いですね~。

さて、この招き猫の由来が日本でポピュラーな縁起物として普及した由来としては、有力な説が二つあります。

浅草神社由来

そのひとつは、1853年(嘉永5年)に記された「武江年表」という江戸の地誌書に書かれていた逸話です。これによると、江戸時代の初期、浅草の花川戸(現台東区花川戸町)に住んでいたおばあさんが、貧しさゆえにかわいがっていた猫を手放したのだそうです。

そうしたところ、ある夜、夢枕にその猫が現れ、「自分の姿を人形にして祀ったら福徳が授かるニャン」と言ったといい、おばあさんがその猫の姿の人形を「今戸焼(この周辺で今も造られている素焼きの焼き物)」の職人に頼んで土人形にしてもらいました。

近所の浅草寺三社権現で売り物にしたところ、たちまち評判になって大売れし、そのおかげでおばあさんはお金持ちになったといいます。

これが招き猫の発祥の一つと言われ、同じ浅草にある「今戸神社」では、昭和50年代ころから、「招き猫発祥の地」「縁結びの神」として看板を掲げ、多くの招き猫が奉られるようになりました。

もともとの発祥の地は浅草寺であるはずで、古い文献等には招き猫と今戸神社との結びつきを示す記録は見当たらないのだそうです。なので、今戸神社が招き猫のメッカになったのは、おそらくそのころ始まった「招き猫ブーム」に今戸神社側が乗っかったということのようです。

しかし、まるで関係がないというわけでもなさそうで、今戸神社の前身の旧今戸八幡が、今戸焼の産地である浅草今戸町の産土神であったこととも関係しているようです。ただ、現在今戸神社より授与されている招き猫の形状は、江戸時代や明治時代の今戸焼製の招き猫の伝世品や遺跡からの出土品とは少し違っているとか。

浅草寺三社権現(現浅草神社)で造ら得た招き猫の原型は、丸〆(まるしめ)のネコといい、今も浅草神社に江戸時代のものが保管されているそうで、公開されているかどうか知りませんが、オリジナルを見たい方は浅草神社まで行くしかなさそうです。

伊井直孝

さて、招き猫の発祥とされる、もうひとつの有力な場所は、東京都世田谷区にある「豪徳寺」です。小田急線に同名の駅があり、ここからは歩いて10分ほどのところ。たしかその昔、私もすぐそばまで行ったことがあるように思うのですが、記憶によればなかなか豪壮なお寺さんだったと思います。

このお寺さん、江戸時代の彦根藩第二代の藩主、「井伊直孝(なおたか)」が寄進して今のような立派なお寺になったといいます。

彦根藩の伊井家といえば、幕末に強権を発して「安政の大獄」などを執行したために、志士たちの反感を買い、江戸城の桜田門外で暗殺された人物として有名な「伊井直弼(なおすけ)のご当家です。

直弼は1815年生まれ、直方は1590年生まれですから200年以上も前のご先祖となりますが、伊井家はこの直孝のおかげで、江戸幕府きっての名家として幕末までその権勢をふるうことができるようになりました。

この直方さん、なんと静岡県生まれで、今の焼津市でその生を得ました。焼津はこの当時、駿河国中里と呼ばれており、駿河でも名家の誉れ高い伊井家の当主、「伊井直征」の二男として生まれました。

伊井家は、代々徳川家の家臣の筋で、戦国時代には、戦国屈指の精鋭部隊として有名な「伊井の赤備え」を有し、家康の天下取りを全力で支えました。その当主の直政は、徳川氏きっての政治家・外交官としても名高く、北条早雲を攻める小田原征伐などでは大きな武勲を立てるなど活躍していました。

しかし、慶長7年(1602年)、関ヶ原の戦いのときの鉄砲傷が原因で病死したため、その長男であった、直勝が直政の跡を継ぎ、関ヶ原の恩賞として与えられた領地の近江・佐和山藩の藩主となります。このころ、直孝も佐和山城に移り住みました。

しかし、直勝が幼少であり、かつ病弱だったため家臣がまとまらなかったといい、それを心配した徳川家康は、伊井家の相続に介入。その裁定により、伊井家本来の家臣は直勝に、武田氏の遺臣などは直孝に配属されました。

しかし、井伊家の領地のうち直孝は街道筋に近い一等地の彦根を継承し、直勝はより田舎の上野安中の所領を継ぎます。家康は伊井家をまとめるためには直孝のほうが適していると考えたのです。

しかし、兄の家督はそのままに、直孝はその後しばらくは江戸で家康の長男の秀忠の近習として仕えるなどして過ごします。しかし、徐々にその才覚が認められるようになり、慶長13年(1606年)に書院番頭となって、上野刈宿5000石を与えられます。

さらに二年後には上野白井藩1万石の大名を任じられるとともに幕府の大番頭に任じられ、慶長18年(1613年)には伏見城の番役まで任されるようになりました。

ところが、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の際、家康に井伊家の大将に指名された直孝は大失態をおかしてしまいます。大阪城の真田丸を守っていた真田信繁勢の挑発に乗り、突撃したところを敵の策にはまってしまい、信繁や木村重成の軍勢から一斉射撃を受け、500人の死者を出してしまうのです。

後に先走って突撃したことを軍令違反と友軍の将からは咎められましたが、家康が「味方を奮い立たせた」とかばってくれたため、処罰はされずに済みました。

そればかりか、翌慶長20年(1615年)には井伊家の家督を継ぐよう、家康から正式に命じられ、伊井家の所領18万石のうち彦根藩15万石を直孝が拝領し、直勝は安中藩3万石の領主となることになりました。

そして、続いて起こった大坂夏の陣においては、藤堂高虎と共に先鋒を務め、敵将木村重成と長宗我部盛親を打ち破り、冬の陣での雪辱を遂げます。さらに秀忠の命により、大坂城の山里郭に篭っていた淀殿・豊臣秀頼母子を包囲し、大阪城に向かって大砲を打ち込み、これにおののいた秀頼親子を自害に追い込むという大任を遂げます。

こうして、伊井直孝はその勇猛さを「井伊の赤牛」と恐れられるまでになり、その結果5万石が加増され、直孝は官位として従四位下を拝領するまでに昇進します。

以後、二代将軍秀忠が亡くなったあとも、三大将軍徳川家光の後見役の「大政参与」となりますが、この大政参与が、「大老職」のはじまりと言われます。その後、家光からも絶大な信頼を得ながら参与を続け、のちには徳川氏の譜代大名の中でも最高となる30万石(最終的には35万石)の領土を与えられ、70歳で逝去するまで譜代大名の重鎮として幕政を主導しました。

彦根城主としては善政を敷いたお殿様として知られており、城下でも質素倹約を徹底させようとしました。しかし、彦根城下は都にも近く、派手ないでたちの者も多くなかなか民たちの素行も改まりません。

そこで直孝は「衣服を質素に改めない者は、自分に泥を塗ることになる」と触れを出し、派手な者を見つけ次第着物に泥を塗りたくるという罰を与えたそうです。これにより、城下で派手な着物を着る者はいなくなったといい、このころから彦根藩では質素で厳格な規律が重んじられる藩風が育って行ったと考えられます。

直孝は、晩年になってからも質素倹約を実践したそうで、藩主でありながら粗末な身なりで畳も敷かず竹のスノコの上で寝ていたそうです。屋敷内にもすきま風が吹き荒ぶような生活をしていたそうで、庭には植木もなく雑草が生い茂っていたといいます。

こうした暮らしぶりにあきれた侍医が「不養生が過ぎる」とたしなめたところ、「戦場では湿った土の上でも寝るものだ。体を温めるようでは徳川の先手は務められぬ。これしきの寒さで死ぬようならもっと頑強な者が当主になったほうが将軍家の御為になる」と言い返したといいます。

後年、幕末に徳川政権を維持するため、これに抗う不平分子を「安政の大獄」という形で粛清した伊井直弼もまたこの質素を是とする家風の中育ち、自藩の規律には厳しかったといいます。200年を経る間にも直孝の血は受け継がれましたが、その血は長い年月を重ねて凝縮され、より厳格さを増したものになっていたのかもしれません。

豪徳寺由来

さて、前置きが長くなりました。招き猫の話でした。

伊井直孝が40才を過ぎ、江戸で幕府の宿老として活躍するようになっていたころのことと思われます。直孝が鷹狩に出た帰り、ある小さな貧しい寺の前を通りかかると、その門前の石畳に一匹の三毛猫がいました。

みると、その猫は自分に向かって何やら手招きをしているようにも思えます。鷹狩の帰りで疲れてもいた直孝は、これも何かの縁だと思い、手招きするネコの誘いに応じ、その小さなお寺、「弘徳庵」の境内に足を踏み入れました。

すると辺りは、急に暗くなったと思ったらポツポツと雨が降りはじめ、やがて激しい雷雨となって、寺の屋根を激しくたたくまでになりました。直孝が雨宿りに入ったそのお寺には、好々とした和尚がおり、この和尚と雨宿りをしながら話をしているうち、直孝はすっかりこの和尚が気に入りました。

そして、その後直孝は、このお寺に多額の寄進を申し出し、これを受けた弘徳庵では、その金子で寺を立派なものに再建しました。直孝の生前は弘徳庵の名前はそのままでしたが、その後、直孝はこのお寺を菩提寺と決め、直孝が亡くなった時にその法名「久昌院殿豪徳天英大居士」に因んでその名を「豪徳寺」と号するようになりました。

和尚はこの直孝が招いた猫が死ぬと墓を建てて弔ったといいます。さらに後世になって豪徳寺では、猫の手招きが寺の隆盛のきっかけになったことから「福を招き縁起がいい」として、境内に「招猫堂」というお堂を立てて祀るようになりました。

この招猫堂に据えられているのが猫が片手を挙げている姿をかたどった「招福猫児」であり、招き猫の由来のひとつとされています。

現代になっても、豪徳寺は「招き猫の寺」として有名で、多くの人が「招猫堂」を訪れ、境内で販売されている招き猫を買っていきます。こちらのネコは、白い招きネコで、赤い首輪をしています。豪徳寺の招き猫は右手を掲げており、一般の招き猫が持っている小判は持っていません。

豪徳寺の招き猫が右手を挙げているのは、豪徳寺が井伊家の菩提寺であることに由来しているといわれます。武士にとって左手は不浄の手のためだからという言い伝えのためですが、これは実は間違っています。武士の多くは右利きであり、左側に鞘(さや)を指すことが多かったので、こういうふうに言われるようになっただけです。

しかし、右手の使い手が多かったため、左手は不浄という風潮は確かにあったようです。ちなみに、江戸では右側通行にするとさや同士がぶつかって危ないので、左側通行が普通だったそうです。これが、近代の日本にも引き継がれ、日本の道路交通法では人は左を歩くことに決められています。

そして、豪徳寺の招き猫が小判をもっていない理由は、「招き猫は機会を与えてくれるが、結果までついてくるわけではなく、機会を生かせるかは本人次第」という考え方からだそうで、質素で厳格さを重んじた伊井家の家訓さながらです。「結果」とは要するに小判のことで、豪徳寺の招き猫が小判を持っていないのはそのためだそうです。

ひこにゃんと……

さて、この伊井家が築いた近江の彦根城は、2007年に築城400年を迎えました。これを祝うため、近江の彦根市では、彦根城の築城400年祭マスコットキャラクターを募集していたところ、多数の応募があったということです。

その中のひとつ、「ひこにゃん」は、伊井直孝が豪徳寺の招き猫に招かれた逸話に基づいての作品であり、彦根市ではこれが最も優れているとしてメインキャラクターに採用。以後、日本中で大人気になりました。

今や招き猫をしのぐほどの人気ぶりですが、招き猫のようなご利益があるかというと、そういう話はあまり聞きません。

幸運を招く猫といえばやはり招き猫。これに尽きると思います。

我が家のマスコット、テンちゃんは果たして招き猫でしょうか。少なくともこれまでのところ、テンちゃんがウチへ来てからというもの、良いことづくめであることは間違いありません。伊豆の今の素敵な住処もみつけることができたし、息子も無事大学に受かったことでもあります。ここは一発、ウチでも「招猫堂」を作りましょうか。

いやいやお堂なんか作って死なれたら困ります。まだまだ何十年も幸運を運んでくれる招き猫として生きていてほしい、そう切に願う親バカな飼い主なのでした……