意識を変えよう

今日9月28日は「パソコン記念日」なのだそうです。何で今日なのかな?と思ったら、1979年(昭和54年)の今日、NECがパーソナルコンピュータ「PC-8000シリーズ」を発売し、これが大ヒットしたことで、パソコンブームの火附け役になったためだとか。

誰がいったい、パソコン記念日なんかに勝手に制定したんだろう、と調べようかと思いましたが、なんとか工業会とかのお偉いさんがNECさんの関係者で、その偉業を称えたいと思ったとか、そういう自慢話が出てきそうなのでやめておきます。

しかし、この当時としてはNECさんのパソコンは確かにすばらしいものでした。安くて性能がよく、のちに対応するソフトがたくさん出たこともあり、PCシリーズはマニアには大人気でした。私も大学を卒業して、就職し始めたころでしたが、少ない給料の中から大枚をはたいて、NECのPCを買ったのを覚えています。

しかし、そのころはまだ、自分でパソコンを買って持っているという人は、マシン好きのオタクでない限りはあまりいなかったように思いますし、ましてや社員一人一人がパソコンを持っているなんてことはまずありませんでした。

しかし、あれから30年、月日は流れて今やパソコンは一家に一台どころか、ひとりに一台の時代となり、かつてはスーパーコンピュータと呼ばれたような高性能な機械ですら、個人で買えるようにまでなりました。

人工知能の開発も急速に進んでいて、このままでいけば、あと20年もしないうちに、人間と同等の知能を持ったコンピュータが造られることも夢ではないだろうとまで言われています。

しかし、人間の知能はある程度マネできたとしても、「人間の意識」を模倣できるコンピューターの実現にはまだまだ時間がかかると言われているようです。

「人工意識」は、人工知能と「認知ロボット工学」に関わる研究領域であり、技術によって作成された人工物に意識を持たせることを目的としています。認知ロボット工学とは、人間が住む世界のような複雑な環境において、人間と同じく複雑な目標の達成を可能にできるような高水準の認識能力を、ロボットへ与えることを目的とした工学分野です。

人間の持つ知識や信仰、好み、ときには生きる目的や目標といった人間の意識の根本にまで立ち返ったような情報までロボット認識させようという試みですから、その実現が簡単ではないことが容易に想像できます。

そもそも、人の「意識」というものが何であるか、とうところから紐解いていかねばならず、人工意識の研究にあたっては、その哲学的な意味すら研究していかなくてはなりません。しかし、最近では遺伝学、脳科学、情報処理などの研究がかなり進んできたため、そう遠くない将来、意識を持った人工的存在を生み出すことができるのではないか、とまで言われるようになってきました。

生物学的には、人間の脳に必要な遺伝情報を持つ人工的なゲノムを、ホストコンピュータの細胞に見立てた一部品に組み込むことで、人工的に生命を生み出すことも可能かもしれないとも言われており、それが実現できれば、人工生命体は意識を持つ可能性が高いのだそうです。

しかしながら、その人工生命体の中のどういった属性が意識を生み出すのだろうか? 似たようなものを非生物学的な部品から作ることはできないのか? コンピュータを設計するための技術でそのような意識体を一から生み出せないだろうか? そのような行為は倫理的に問題ないだろうか? ……などなど、この命題に取り組もうとすると数々の諸問題が出てくるようです。

また、コンピュータのような機械が任意の環境で意識を持てるかという議論においては、物理主義と二元論の対立があるようです。二元論者は「意識には物理的でない何かが関わっている」と信じている一方、物理主義者は「全ては物理的に説明できる」としています。

人工意識を持ったコンピュータを開発しようとしている人たちの多くは後者です。この人たちは、脳のある部分の相互作用によって意識が生まれると仮定し、この相互作用をコンピュータによっていつかエミュレート可能であると信じているといいます。しかし、この意識を生み出すための脳の活動については、必要最小限のものでもまだ完全には解明されておらず、その前途は多難なようです。

意識とは何か

しかし、それにしてもそもそも、「意識」とは何なのでしょうか。

歴史的、文化的に「意識」ということばはいろんな形で用いられており、その意味の広がりは大きく、宗教や哲学、生物学、心理学、医学、日常会話などの中で、様々な意味で用いられるため、一言でくくっていいかどうか、ということ自体がそもそも議論の対象になっているようです。

「意識」というものを科学的に研究している科学者さんたちの対象も、覚醒のメカニズムとは何か、主観的な体験と神経との間に相関はあるのか、人が何かの選択をするとき、いったい何に注意しているのかなどなど、いったいどれをはじめに研究すれば意識というものが解明できるのかについては、いろいろな議論があるようです。

こうした入口論でとどまっていてはいつまでたっても研究は進みません。なので、全体を含む最も包括的な意識の定義として暫定的にしばしば使用されるのが、アメリカの哲学者で「ジョン・サール」さんという人が採用した考え方に基づく次のような定義です。

「意識とは、私たちが、夢を見ない眠りから覚めて、再び夢のない眠りに戻るまでの間持っている心的な性質のことである」

かなりあいまいな表現ですが、ようするに意識とは、人間が「起きている」状態にある場合に持っている心的な状況をさすようです。シンプルといえばシンプル。

起きている状態というのは、「自分の今ある状態や、周囲の状況などを正確に認識できている状態」のことであり、ようは「覚醒」しているということ。これは睡眠、失神、昏睡または死亡、という状態にないという事を意味します。

この場合の「意識」に関する用例としては、「柔道で、絞め技をかけられて我慢していたら、意識を失ってしまった」とか「交通事故のあとずっと昏睡状態だった人の意識が、今朝やっと戻った」などがあります。

しかし、問題はこの覚醒している間に人が持っているという「心的な性質」という部分。一口に心的な性質といってもいろんなものがあるでしょうが、考えらえるものとしては、「気づき」とか「注意」などがありそうです。

「気づき(awareness)」という意識は、気づいている、または知っている、といった状態で、たとえば今この文章を室内で読んでいるとしたら、窓の外の風の音、パソコンのファンのうなり、冷蔵庫が動く音、蛍光灯の音、外を通過する車の音等々、何らかの音が常にまわりに渦巻いていいるでしょう。

しかし、こうした音はおそらく言われてはじめて気づいたことで、それまではたぶん、特に気にして考えていなかったと思います。このようなとき「たしかに色々な音がする。でも今まで特に意識していなかった」などといいます。

他の例では、あなたはこの文章を読んでいる間、何度も瞬きをしていると思いますが、これも言われてみればそう思われるでしょうが、しかし言われるまでは恐らくそうしたことは考えていなかったはずです。この場合でもおそらくあなたは「たしかに瞬きはしているが、普段は特に意識していなかった」というでしょう。

つまり「気づくこと」は「意識すること」であるわけです。

また、「注意」はどうでしょう。「意識」と「注意」という二つの概念はよく混同されるようですが、専門家たちはこの二つの概念を、深い関わりはあるが別の概念であるとして、はっきり区別して使用しているそうです。注意には定位、フィルタリング、探索という三つの側面があるそうです。

定位とは、注意を向けている対象についての情報が得やすいように体の姿勢など制御することで、たとえば犬の近くで大きい音を鳴らしてみると、犬は音のした方向に顔を向け、耳をピンと立てます。こうすることで対象についての情報が取得しやすくなりますが、この反応は「定位反射」と呼ばれ、「注意」のひとつです。

また、「フィルタリング」とは注意を向けていることがらについては多くの情報を取得しようとする一方で、他の対象についての情報処理作業を抑制することです。たとえば音楽が鳴り、ワイワイ・ガヤガヤと多くの人が会話をしているパーティの会場で、誰かが自分の名前を出して話題にしようとしているのに気が付いたとします。

そのとき、その自分の名前が含まれる会話の情報を収集しようと集中しようとするあまり、他の人たちが行っている会話については聞こえないようにシャットアウトしようとします。つまり情報を「フィルタリング」しているのであって、これを「カクテル・パーティー効果」といい、これも「注意」のひとつです。

さらに、探索というのがありますが、これは文字通り、自分が興味がある情報について、積極的に探しに出ようとする反応で、さきほどのカクテルパーティの中で、自分の話題が出ていないかを「そば耳だてる」、という状態が探索です。

「随意運動」というのも「意識」だそうです。これは何かといえば、歩く、走る、泳ぐ、這う(匍匐する)など、ごく普通の人間活動であり、声に出すこと、つまり発声や発音もそうです。人間が、自己の意思あるいは意図に基づいて行う運動のことであり、自分で「意識して」こういう運動をするわけですから、これも「覚醒」している状態の「意識」ということになります。

自己の意思によらない、あるいは無関係な運動は「不随意運動」あるいは「反射運動」と呼ばれるようです。クルマにはねられそうになって、飛びのいた、という行為は自分が意識していない状態での行為なので、「反射運動」ということになります。

さらに、覚醒している人間がもつ「心的な性質」としては、「自己意識」というのがあります。これは、自分がいるということに気づいていること、または「自分がいるということを知っている」ことです。

「自意識」とも言われます。人間は成長の過程で自己の存在に気づくようになっていきますが、このことを「自我が芽生えた」、とよく言いますね。この「自我」については、心理学では、ひとつの大きなテーマなのだそうで、いろんな研究がなされているそうです。

例えば、「鏡像自己認知」という研究がありますが、これは、鏡を見てそこに映った自分の像を自分だと理解できるかどうか、という研究です。この鏡像自己認知が、ネコはできるか、ゾウはできるか、チンパンジーはできるか、イルカはできるか、といったことが調べられているんだそうで、この辺が人工意識の研究と結びついてきます。

ロボットが果たして鏡に映った自分を認知できるかといった研究がそれで、現在までのところ、ある研究所で開発されたロボットは、鏡に映った自分と別のロボットを区別することに成功しているそうです。

ウチのテンちゃんは、鏡を見ても、ニャーとも鳴きません。興味なさそうです。と、いうことは自意識がないということなのでしょう。ニャンとも悲しい。

このほか、「メタ認知」というのもあります。これは、自分自身の心的な状態などを把握することで、たとえば「自分は今機嫌が悪い」「自分は今○○をしたいと思っている」といったことを「知ることができること」です。

「あなた自分が何をしようとしているのかわかっているの?」というセリフがドラマの中でよく出てきますが、これをわかっていない人は、メタ認知能力ゼロの人というわけ。

さて、「意識」の中には、「主観的経験」というのもあります。もっともややこしいもののひとつです。「現象意識」、または「クオリア」と言われ、「主観性」といえばよりわかりやすいでしょうか。

主観性とは、「自分が持っている視点を客観的側面と対比させて自覚すること」と、ことばにすれば簡単ですが、その解釈は非常に難しく、学者さんたちの間でももっとも広い関心を集めており、かつ非常に激しい哲学上の議論が交わされている部分です。

「主観的な経験」の定義で最も有名なものは、ユーゴスラビア出身の哲学者トマス・ネーゲルが1974年の論文「コウモリであるとはどのようなことか」において提出した次の定義だそうです。

「ある生物が意識をともなう心的諸状態をもつのは、その生物であることはそのようにあることであるようなその何かが、しかもその生物にとってそのようにあることであるようなその何かが、存在している場合であり、またその場合だけである。」

???さっぱりわかりません。

なので、もう少しわかりやすい例を出すと、「“タンスの角に小指をぶつけた人である”、というのは一体どのようなことを示しているか」という例題。

この例題での答えは、タンスの角に小指をぶつけた人というのは、「足先に突如訪れた激しい痛み、そしてどこにぶつけていいのか分からないやり場のない怒り、などを経験している人」ということになります。

二つ目。「“お祭りの場でニコニコしながらチョコレート味のアイスクリームを食べている子供である”、とは一体どのようなことか」。

この場合の答えの例としては、このような子供は、「お祭りの場にともなう高揚感を感じ、そして口の中に広がる甘い感じを楽しんでいる子供」です。

それでは、三つ目。「“中にガソリンを詰められたドラム缶である”、とはどのようことか」。これはどうでしょう。

これはヘンな質問です。ドラム缶はただのモノであり何かを感じるとか、そういう類のものではありません。つまりドラム缶であるとはどのようなことかと言えるような何ものかはない、つまり意識はない、というわけです。

ネーゲルさんが定義した「意識」とはつまり、こういうことを意味しています。ネーゲルさんの定義では、生きている生物(多くの場合は人間)が、主観的な経験の中で現れるそれぞれの「質」のことを「意識」という言葉で表現しているのです。

この「質」こそが、その生物が「そのようにあることであるようなその何か」であり、かつ、その生物にとって「そのようにあることであるようなその何か」をさしており、生物が経験したり、感じたりすることを表しているのです。

このような感覚のことを、「クオリア」、「感覚質」ともいいます。さらにわかりやすい例では、「赤の赤さ」、「虫歯の痛み」、「コーヒーの苦味」などがそれです。物質は意識を持ちませんが、生物である人間は、こうした感覚を「意識」として感じることができるというわけです。

わかりますか? わからないというよりも、わかりにくいですよね。

こうした意識の持つ主観的側面については、物理化学的・神経科学的な見地から説明することが難しいと考えられているそうで、学者さん達でさえ、「説明のギャップ」、「意識のハードプロブレム」とか呼んで難問としているそうです。1990年代ごろから科学の領域で始まった議論で、今もこうした主観性の問題が活発に議論されています。

このほかにも「意識」は、神経科学などを専門としている科学者によって探求され続けており、病院などに入院している患者さんなどの事例・症例を多数踏まえ、脳の解剖や神経組織の観察・実験などから、「意識現象」と物理的な要素の関係を検証しようとする試みが行われています。

これら近年の研究の成果のひとつとして、「クオリア」は神経細胞の連合からつくられるということがわかってきているそうです。また、脳の視床と皮質系のネットワークが意識体験を生み出しているのではないかという理論も出されているということです。

さらに、これらの研究の中のひとつでは、人間が自発的に何かの運動する場合には、その行動が先に起こり、脳内の意識的決定のプロセスはそのあとに起こる(つまり後追いする)ということがわかったそうです。

脳内で神経細胞の活動というものは数百ミリ秒単位で起こるそうですが、人間が何かの運動を自主的に起こすときには、その脳内の神経細胞活動は始まっておらず、行動を起こしたあとの数百ミリ秒後にそのことを意識する、という順序が確かめられているのだとか。

このことからつまり、「意識」とは「自分の現状をモニター(監視)する機能ではないか」ということが言われるようになっており、半ば定説になっているそうです。つまり人間は自分の行った運動をモニター監視した結果を意識し、その後の行動にフィードバックするということで自分の行動を制御しており、その瞬間瞬間に行動を直接的に制御しているのではない、というのです。

だとすると、「意識」する前にその行動を起こさせるものがいったい何なのか、ということになるのですが、そこのところの答えはまだ出ていないようです。

その答えになるのかどうかはわかりませんが、意識というものは、しばしば心霊主義的な「霊魂」と同義語のような形で使われる場合があります。たとえば「意識が肉体から抜け出して幽体離脱(体外離脱)する」ということが言われますが、このように体と独立に心的実体があるという考え方は、哲学の世界では心身二元論、実体二元論などと呼ばれています。

この辺の議論になると、すでに「スピリチュアル」と呼ばれる世界に足を踏み入れることになるため、科学者や哲学者の中では、この考え方に賛同する人は多いとはいえません。

しかし、生理学や脳科学といった世界でもまだ説明されていない、意識よりも行動が先におこるというこの現象を二元論を用いて説明するならば、人間の行動はすべて魂が先に決定している、ということになります。

実は意識というものは、現代の科学者が考えているような脳内の神経細胞で説明できるような物理現象ではなく、魂そのものだと考えればすべての現象はすっきり説明できるようにも思います。おそらく数は少ないけれどもそういう研究をしている学者さんもいるのではないでしょうか。

今や、見えない幽霊粒子といわれた素粒子が宇宙に蔓延していることが発見されている時代です。二元論を否定している学者さんたちも、少し目を開き、そうした未知の分野からのアプローチをしてみてはいかがでしょうか。きっと「意識が変わる」と思うのですが……