最近、というか、近年、「パワースポット」という言葉が「氾濫」しています。「スピリチュアル」と同様、最初はそういう言葉を口にすること自体になにか違和感があったのですが、ここまで誰しもが口にするようになると、不思議なことに最近は気にならなくなってしまいました。
実は英語には、“power spot”という言葉はありません。日本語で「パワースポット」と聞くと、何か特別なエネルギーがある場所、というふうになんとなく理解できますが、外国人に、power spot in Japan……と話かけても通じません。典型的な和製英語です。
いったい誰が言い出したんだろうな、と調べてみると、どうやら1990年代の始めに、自称、超能力者を名乗っていた「清田益章」さんという人が、「大地のエネルギーを取り入れる場所」を意味することばとして使い始めたのが発端のようです。
聞いたことがないな~と、お顔を検索してみたら、なんとなーく覚えている顔。「エスパー清田」という名前で、テレビによく出ていらっしゃったようで、スプーン曲げなどの念力や念写などの超能力が使えると主張されていたそうです。2003年春に「脱・超能力者」を宣言され、現在はイベント企画会社の代表を務めていらっしゃるとか。
この方が活躍されていたころは、私が日本にいなかった時期と重なるようなので、それであまりなじみがないのでしょうが、みなさんご存知ですか??
まあ、それはともかく、言葉の意味としては、「大地のエネルギーを取り入れる場所」ということなので、体にはよさそうな雰囲気。この清田さん同様に、最近テレビによく出ていらっしゃる博物学者でタレントの荒俣宏さんも、パワースポットは「大地の力(気)がみなぎる場所と考えればよい」と述べていらっしゃるそうで、どうやらその定義としては、「大地の力があふれていて、それを人間が得られる場所」ということのようです。
さらに調べてみると、欧米では、”power spot”などとは呼ばず、“vortex”とよぶみたいで、ヴォルテックスとは渦巻きのこと。そうすると、さらに定義は修正され、パワースポットとは「渦巻きのように大地の力(気)が噴出する場所」で、そこにいくと人はそのパワーを得られるということになりますか。
同じく荒俣宏さんによれば、そもそも日本では、昔から大地の力を得ようとする試みはあったのだそうで、紀州の「熊野三山詣で」がその代表的な例とか。本来なら修験者たちが厳しい修験を行ってはじめて得られる力を、そこに行くだけで身分性別を問わず得られる、という意味で、昔の人にとっては、そのことは画期的なことだったということです。
江戸時代に流行った「お伊勢参り」もそうで、こちらは「修験者しか得られないパワーを性別身分を問わず得られる」と伊勢神宮が宣伝したことで、庶民の爆発的な人気を得ることになりました。本来は来世の救済を目的としてはじめられたものですが、やがて「現世利益」を得るためのお詣りになり、さらには観光の目的も含む国民的な行事にまで昇格しました。
熊野三山詣はそれよりもはるかに古く、平安時代後期の阿弥陀信仰から始まったとされており、ということは1000年以上も前から日本人はパワースポットに慣れ親しんできたということになります。
こうして考えると、昨今急に流行り出したように思えるパワースポットブームですが、そもそも日本人の習慣に根付いていたものであり、そう考えれば、特に珍しいものではないな、という気にもなってきます。
それにしても、パワースポットといえば、なにもそんな神社みたいなところばかりではないはず、と思っていたらやはりそのとおりで、そもそも神社というものは「自然崇拝」から出てきた「神話」から生み出されたものですから、もともとは神の根源である自然の風物、すなわち風・雷・雲や、山・大地・川・湖などがパワーの源であったわけです。
こうした場所は、長い年月をかけて信仰の場となり、自然崇拝が行われるようになった場所であり、伝統的に「霊場」とか「聖地」と呼ばれました。もともとは神社などなかったものが、あとになってそれが作られ、後付でその場にふさわしいとされる「神様」がでっちあげられた、というと言い過ぎかもしれませんが、造られるようになったと考えることができます。
「ミルチア・エリアーデ」という宗教学者さんがいますが、この方は彫刻家の岡本太郎さんも尊敬していた知る人ぞ知る、有名な学者さんです。その方は、自然に対する信仰のうち、山、岩などは天上・地上・地下を結ぶ「宇宙軸」を意味し、大地や水などは「死と再生」を象徴するものだと述べられているそうです。
いずれの要素も人間の世俗生活の根底にあり、人がこの世をこの世であることを認識する、つまり、それらを天・地・地下、大地・水である、と認識すること自体が人間が生きていく上で最も重要なことである、という意味のことをおっしゃっているそうです。その自分たちが生きていく上での「糧」であり、分身のような存在を崇拝するのは当然だ、ということのようです。
だんだんと哲学的になってきましたが、例えば「地上」に関して言えば、平地で農業を行い生活してきた「農耕民族」である我々日本人は、より高い場所にある「山」をもっとも神聖な場所としてみなしています。山を神霊のすみかとであると考えていたり、同時に死者の国と見なしており、古来から亡くなった魂は山の上の彼方のほうへ行くということが信じられてきました。これを「山上他界」といいます。
日本には富士山、英彦山、白山などの形状が美しい山や、たくさんの雨を降らせると見なされている山、特異な形状や温泉・池などが認められる山などがたくさんありますが、古くからそうした山々が崇拝され、そうした「山岳信仰」は現在に至るまで継承されています。
ところが、山のない太平洋の島々、例えばポリネシアや、日本では九州などの南方の島々では、人は死んだら海の彼方に行ってしまうと考えられており、これは「海上他界」といいます。また、北米のインディアンの諸族は、川や湖を特に神聖視しており、水の精や水神が住むところだとされ伝説や神話が数多く残っています。
つまり、パワースポットとは、その民族が住んでいる地域によって異なり、日本においては山岳地帯に多いパワースポットも、別の国へ行けば海や川であったり、同じ山であっても高い山ではなく、台地であったりするわけです。オーストラリアには、エアーズロックと呼ばれる平たい台地状の山がありますが、ここは原住民のアボリジニにとっては、聖なる「丘」になっています。
我々日本人がパワースポットに向かうわけ、それは何もそこで特別なパワーを得ようとするからでなく、本来は、そこにある自分たちの住んでいる土地ならではの特徴的な自然を通じて、その場所に「住まわせてもらっている」ことに対してその自然に「感謝の念」を発するためなのです。
しかし、そうはいっても、同じ山々の中でも霊験あらかたな山とそうでない山があるのは確かです。人はやはり崇めることで自分に帰ってくるご利益が大きければ大きいほど喜びを感じます。では、本当に「パワーがある」スポットとはどういうものなのでしょうか。
楢崎皐月(ならさきさつき)という、1974年に75才で亡くなった物理学者がいますが、この方は、戦前、東条英機に登用され、満州で製鉄関連の技術研究所の所長を務めるなどその筋では活躍された方のようです。
「静電三法」という理論を提唱されており、この理論では土壌中の電位差によって土地自体が持つパワーがあるとし、土地にはプラスのエネルギーを持つ土地とマイナスのエネルギーを持つ土地がある、と主張されていました。
プラスのエネルギーを持つ土地は、「イヤシロチ(弥盛地)」といい、マイナスのエネルギーを持つ土地は「ケガレチ(気枯地)」と呼ぶのだそうで、もしケガレチであっても土壌中に木炭を埋設すればイヤシロチに変えられるとその論文で書かれたそうです。
この理論は、のちにマーケティングで有名な船井幸雄さんも継承し、この考え方は正しいと主張していらっしゃるそうです。船井さんによれば「イヤシロチ」にいると筋肉が柔らかくなるので、前屈をしてみればイヤシロチかどうかが分かる、とおっしゃっているとか。
どうやら科学的にもパワーがある土地とない土地が研究されてきたようです。
また、長野県伊那市には、分杭峠(ぶんぐいとうげ)という標高1400mほどの峠がありますが、ここは、「磁場がゼロ」の峠として有名で、パワースポットとされています。伊那市の依頼により、その道の専門家が科学的な測定をしたこともあるそうで、その結果「ゼロ場(相殺磁場、ゼロ磁場)」が確認されたといいいます。
このゼロ磁場、日本最大、最長の巨大断層地帯である中央構造線の真上にあり、2つの地層がぶつかり合っている場所であり、そのため、地下の「エネルギーが凝縮している」らしいです。世界でも有数のパワースポットとして2009年ころにマスコミに大きく取り上げられ、そのころから分杭峠に来る観光客が急増。
かつてのマイナスイオンブームの際には、一部の人々から「健康に良い」とされて騒がれ、有名な中国の気功師が来日した際にもここを訪れ、「気場」を感じたといいます。
しかし、この「気」が科学的に解明されているわけではなく、地学や地質学を専門とする学者の中には、この場所にパワーが存在するという考え方に否定的な人も多いようです。ただ、長野県の伊那市は、公式のホームページでこの分杭峠をとりあげており、このパワースポットでは気の力で放射性崩壊が引き起こされ、放射線が出るため、これが健康に良い、と書かれているとか。
観光客誘致のためのサービストークのようにも思いますが、ここで汲んだ沢水で元気になったという人が大勢いるという話を聞くと、あながち、ウソとばかりもいえないようにも思えます。
科学的アプローチとはいえませんが、「風水」の分野では、このパワースポットは、神社仏閣に多いとされているようです。以前、このブログでもとりあげたことのある、Dr.コパこと、小林祥晃さんは、風水の大家といわれていますが、神社仏閣は気を長期間留める特殊な建築法で造られている、とおっしゃいます。
風水的には、パワースポットは20年ごとに気の流れが変わり、場所も変動しますが、神社仏閣においてはその特殊な建築法によりパワーが継続しやすいのだそうです。また、パワースポットとみなされるのは神社が圧倒的に多く、仏閣は少ないそうで、これはお寺では、人々の悩みや悲しみが集まりやすいためにパワーが劣るためだということです。
パワーが集まるという点においては、「繁華街」もパワースポットの一種で、パワーに惹かれて人が集まった結果であると小林さんはおっしゃっているそうです。そうすると新宿や渋谷などの多くの人が集まる町はもともとそういうパワーを持った場所だったのでしょうか。
逆説的にいうと、人が集まらない場所はパワーのない場所、あるいはパワーを吸い取られてしまう場所ということになるのかもしれず、人気のない寂しいところで不安になるのは、そのためなのかもしれません。
それにしても、昨今のパワースポットブームはものすごく、インターネットでちょっと検索しようものなら、すごい数のパワースポットが紹介されていて、いったいどれが本物なのかさっぱりわからなくなります。
中にはスポットはスポットでも、単なる「観光スポット」にすぎないものまでパワースポットとして紹介されているものもあり、こうしたサイトをみると、ちょっと節操がないな、と思ってしまいます。
江原啓之さんは、こうしたブームの加熱ぶりをみて、ブームに乗って神仏への畏敬の念を持たずに「スタンプラリーのように」パワースポット巡りをするのは間違いだ、とおっしゃっているようです。
とある出雲の神社のご神職は、「携帯のカメラで大杉を撮影するのに夢中で、鳥居や本殿は素通り。神社はお参りするところなのに」と困惑しているそうで、既存の宗教界からは、参拝者が増加していることに肯定的な一方で、オカルト信仰などにつながりかねないと危惧する声もあると聞きます。
そして、「パワー」を求めて神社仏閣にやってくる人々に対しては、神や仏の前での拝礼の重要性、その場所の由来、ご利益を知ることが必要であり、それを通じてその場所が「パワースポット」として評価されるのに正しいかどうかを自分で判断することこそが大事、という声もあがっています。
まったく同感。
神社やお寺の伝統的な信仰をないがしろにするような「パワースポット」化はあってはならず、逆にそのような場所ではパワーを奪われることだってあるのかもしれません。観光や人集め、それに絡んだお金儲けをしたい、という理由だけで「我が地」をパワースポットとしたい人には耳が痛い話でしょうが、あまりにも過剰なブームに乗っかる我々もそういうことに気を付け、本物のパワースポットであるかどうかを見極めたいところです。
ただ、「いろいろな信仰の形があっていい。心が落ち着く根拠はある。信仰の世界に目を向ける人が増えるのはいいこと」とおっしゃる、ありがたいお寺さんもあるようです。とはいえ、「パワーをもらうだけでは終わらず、人に親切にするなど、仏の心に気付いてほしい」ともこのお寺さんはおっしゃっています。
前述したように、そもそもパワースポットとは、その場の自然を通じて、そこに「住まわせてもらっている」ことに対してその自然に「感謝の念」を発するための場です。自分が住んでいない場所のパワースポットを訪れる際にも、そこに「来させていただいている」ことに対してその場所に感謝の気持ちを持つ人だけが、ほんとうパワーを得られるのではないでしょうか。