秋の夕空に

今年3月に伊豆に越してきてから、先週の11日でちょうど7ヵ月になりました。東日本大震災があった日と同じなので、この日になると毎月のようにテレビでなんらかの追悼の番組やニュースをやっていて、その都度、ああ○ヶ月経ったか……と思い起こされます。

我々にとっては記念すべき日ですが、被害に遭われた方々にとっては忘れられない日であり、「記念」という言葉は軽すぎて、使うのもはばかられます。「記憶に残すべき日」という意味なのでしょうが、どうもこの「記念日」というのは良いことがあった日という意味合いのほうが強いような気がします。

「終戦記念日」は、戦争が終わったのでこれを祝うという意味合いで記念日なのでしょう。片や「関東大震災」のあった日は、「震災記念日」というのでしょうか。あまり言わないような気がします。

事故や事件、災害はいったいいつになったら「記念日」と呼べるようになるのでしょうか。東北のこの震災の日も「記念日」と呼べるようになるまで、あと何十年もかかるのかもしれません。もしかしたら、我々が生きているあいだにはとても記念日などとは呼べないのかも。

さて、その我々の引っ越してきた伊豆では、最近よく空を見るようになった、というのは口癖のようによくこのブログでも書いてきました。四六時中空を眺めているわけではありませんが、毎朝今日は富士山がみえるかな、と遠くの空を眺めるのが習慣になっているせいか、そのついでに富士山とは違う方向の空を見ることも多くなったためでもあるようです。

そのせいかわかりませんが、山を下りて普通に市街を通っているときも空が気になります。とりわけ、夕日のきれいなときには、空を仰ぎたくなり、ふとみると、真っ赤な夕焼けで染まっていることもままあります。

昨日の伊豆もそうでした。最近見たこともないようなウロコ雲が真っ赤に染まり、えも言われないような色合いでした。残念ながらカメラもケータイも持参していなかったのでこの美景を記録できませんでしたが、これからはちょっとした外出でもカメラを携帯することを心掛けたいと思ったものです。

この夕焼けですが、なぜ赤く見えるかというと、その原因は夕方になると太陽の入射角が浅くなるため、その光が通過する大気層の距離が長くなるためだそうです。

太陽が普通に空の上を通過しているときには、太陽と自分の間にある空気層の長さは限られていますが、夕方近くになって太陽が水平線(地平線)に沈むころになると、太陽までの距離は「無限大」とまではいいませんが、天上にある時と比べればはるかに遠くなります。

太陽の光のうち、青い光は障害物に衝突すると吸収されやすくなるため、この大気層の距離、言い換えれば空気の厚さが増せば増すほど、青い光だけが減少していき、代わって黄や橙、赤などの光だけが目に届くようになり、太陽が沈む方向の空が赤く見えるわけです。

……と、理論で説明されるとなんとなくわかったような気にもなるのですが、じゃあ何故毎日夕焼けを見ることができないの?と聞かれると答えに窮してしまいます。

その理由はどうやらその夕方になると太陽までの距離が長くなる大気層に含まれているチリやらなんやらの不純物のせいのようです。

大気中にそういう不純物が多ければ多いほど赤くなるのだそうで、1883年には世界中で鮮やかな夕焼けが確認されましたが、これはその年に噴火したインドネシアのクラカタウ火山の噴火で大気中に障害物が撒き散らされたためです。

大気中の不純物が多ければ多いほど、はるかかなたに沈む太陽からの赤い光がその不純物にあたって、あっちこっちに散乱しやすくなるため、きれいな夕焼けになる、ということのようです。

夕焼けになると翌日はお天気になることが多いとよく言いますが、これは「不純物が多いにも関わらず遠くにある太陽が見える」ということであって、夕焼けが起こるときにははるかかなたの西の空の空気も澄んでいる(けれどもチリは多い)。その澄んだ空気がやがてやってくるということなのでしょう。

このあたりになると説明していてもなんだかわからなくなってきてしまいますが、これ以上によくわからんのが同じく空気がきれいなところでよくみられる「グリーンフラッシュ」という現象で、これは見通しの良い場所で、夕焼けや朝焼けの太陽の上端が緑色に光る現象です。

このグリーンフラッシュが見える条件として大事なのは、ともかく「空気が非常に澄んでいること」だそうで、こうした環境下では通常より大気層に青い色があまり吸収されず、とくに緑色の光は届きやすいのだとか。

そして、夕日が沈む直前に赤色の太陽が地平線(もしくは水平線)で隠されたとき、太陽の中央は赤いにもかかわらずその周辺の一部では緑色の光が透過できる部分があるためこの部分だけが緑色にみえ、「瞬く」のだそうで、非常に稀な現象だということです。

そこまで稀だ非常に珍しいとか言われると一生に一度でいいからどんなふうに見えるのか見たくなります。

しかし、空気がきれいなところということになると、当然高い山の上か離島のような場所になってしまいます。高い山の上にはあまり人は住んでいないことから、やはり目撃されるのは島であることのほうが多いようで、日本では小笠原諸島、身近な外国としてはハワイやグアム島で比較的多く目撃されているとか。

ハワイやグアムでは、グリーンフラッシュを見た人は幸せになるという言い伝えがあるのだそうですが、私がハワイにいたときには見た記憶がありません。幸せにはなるにはまだちと修業が足りないのかも。

日没や日が昇る時にはこのグリーンフラッシュ以外にも「珍現象」が見られることが多いようで、そのひとつに、「太陽の蜃気楼(Sunset Mirage)」というのがあり、これは、太陽が「ダルマ」状になって二つ重なって見える現象です。

これを見ることのできる条件としては「蜃気楼」と同じように太陽の見える方向の空気の層に温かい部分と冷たい部分があること。この二つの空気層が重なることで、大気中に一種の「プリズム」のようなものができ、これによって遠くにあるものが複数以上みえるようになるみたいです。

沈む太陽が二つ見える、というのは何か「ラッキー」なかんじしますよね。きっとどこかの星では太陽が二つあって、それが別々に沈むのが見えたりもするのでしょうが、それもきっと幻想的な景色でしょう。

ちなみに、火星の夕日は地球の夕日とまた違う意味できれいらしいです。火星の大気にはチリが大量に含まれているので、このチリの影響で長い波長の散乱が常に卓越するため、地球とは反対にピンクの空の中を夕日が沈んでいき、その夕日の色はなんと青い!のだそうです。もし生きているうちに火星旅行が日常になったら、こちらもぜひ見てみたいものです。

さて、この夕焼けですが、日本では秋の夕焼けはとりわけ美しいそうです。その理由は秋になると大気がカラッとしてきますから、大気中の水分が少ない、つまり空気が澄んでいるという状態が多くなるためです。

空気が澄んでいればより遠くまで見通せるようになり、夕方にはとくに遠くに沈む太陽との間にある大気層に青い光が吸収されやすくなります。そして、条件が整えば赤っぽい光がそこにあるチリに散乱され、きれいな夕焼けになるというわけ。

また日の長かった夏に比べて、仕事が終わるころにはもう真っ暗になっていることも多い秋ですから、夏に比べて日没をより意識しやすくなるため、夕焼けを目にすることが多くなるともいいます。

この夕焼けは芸術家たちのインスピレーションも掻きたてるようで、歌や文学でも夕日にちなんだものも多いですよね。動揺の「赤とんぼ」や「夕焼小焼」もそうですし、映画の「オールウェイズ三丁目の夕日」なんてのもありました。

フランスの画家、フランソワ・ミレーの「晩鐘」も夕日の中、一日の農作業を終えた夫婦がお祈りをしている場面を描いたものですが、なんともいえない秋の哀愁が表現されていて見ている人の心をゆさぶります。

そういえば北島三郎の「与作」も一日の労働を終えたあとの歌でした。「よさぁくぅ~よ~さぁくぅ~、夕日がぁ泣いている~ ホーホー」でしたっけ。きこりの与作が夕日の中で斧をふるう手を休めて夕日を眺めているのが目に浮かぶようです。昔、会社勤めをしていたころ、仕事が終わるとよくこの歌を口ずさみながら、帰宅していましたっけ。

それにしても、日没や夕焼けをみることができる時間というものは、ものすごく短いものです。昨日我々がみた素晴らしい夕焼け空もクルマを走らせているほんの十数分で終わってしまいました。

しかし、そんな短い時間の自然のショーをうまく町興しに利用している場所もあります。島根県の松江市、宍道湖にある「島根県立美術館」もそのひとつで、ここは「夕日のみえる美術館」として有名です。

この美術館では、ロビーの西側をすべてガラス張りにし、夕日観賞のために一般開放しています。普通、美術館といえば夕方5時くらいには閉まってしまいますが、ここは夕日が沈むまで館内に入ることができます。

美術館の外の湖畔側にはたくさんのオブジェが展示され、夕日とともにこれを写真撮影するには絶好のロケーションであり、また館内の2階の展望テラスと1階のロビーから見る夕日は素晴らしいそうです。

宍道湖を一望できるこの場所からは、日中でも刻々と移り変わる宍道湖の表情が楽しめますが、夕方になるととくに美しい夕陽がロビーを黄金色に染め上げるとか。

家内のタエさんが松江生まれなので、私も行ったことがあってもよさそうなものですが、残念ながらまだ行ったことがありません。ぜひ行く機会を作りたいものです。

この島根県立美術館は、「日本の夕日百選」にも指定されているそうです。

この「夕日百選」ですが、「特定非営利活動法人日本列島夕陽と朝日の郷づくり協会」というNPO法人が選定しているそうで、どんな活動をしているのかなと思ったら、全国各地の夕日がきれいな場所の旅館やホテルとタイアップして、その旅館などがある場所の町興しに関与している団体さんみたいです。

我が伊豆では、どこが百選になっているのかなと、調べてみると西伊豆町の「大田子浜海岸」と「堂ヶ島海岸」だそうで、私はまだどちらも行ったことがありません。ぜひ行かねば。

ちなみに私の郷里の山口では、萩市の「笠山」と「菊ヶ浜」、山陽小野田市の「きららビーチ焼野」と「竜王山公園」だそうです。私にはなるほどとうなずける場所で、とくに後者のきららビーチ焼野と竜王山公園は、瀬戸内海に浮かぶ島々の中を行き交う船を見ながら夕日を見ることができるというロマンチックなシチュエーションで、素晴らしいものです。

山口に行く機会がある方、ぜひ訪れてみてください。

さて今日も上天気です。運がよければきれいな夕焼けがみれるかもしれません。今日もし出かけるとしたらカメラを絶対忘れないようにしましょう。みなさんも秋の日には、カメラを常時携帯することをお勧めします。そして良い写真が撮れたらぜひ教えてください。

ちなみに俳句においては、「夕焼け」は「朝焼け」とともに夏の季語だそうで、秋の夕暮れを詠むときは「秋の夕焼け」という特別な季語を使うそうです。

俳句ではありませんが、最後に、清少納言が「枕草子」の中で夕日を詠んだ文章を引用して今日は終わりにしたいと思います。

「秋は夕暮れ 夕日のさして山の端いとちかうなりたるに、からすのねどころへ行くとて三つ四つ、二つ三つなど飛びいそぐさへあはれなり」

伊豆の七不思議

今日も良い天気です。日中は30度をまだ超えていますが、日没後は急激に温度が下がり、昨夜は夜の9時ごろには23度まで下がっていました。山の上はもう秋というかんじです。そういえば、最近、夏の終わりに鳴きはじめるというツクツクボウシが良く鳴くようになりました。夏の峠はもう越したということなのでしょう。

さて、今日は、昨日ちょっと触れた「伊豆の七不思議」について、書いておこうと思います。よくほかのブログでも取り上げられているので、ちょっと陳腐かな、とも思ったのですが、やっぱ興味はありますよね。

で、いったい誰が考えたのか?という観点からこの伊豆の七不思議を調べてみたのですが、どうもよくわかりません。おそらくは県かどこかの市町村の観光課あたりが考えたのではないかとも思ったのですが、その内容をみると、かなり古式ゆかしいもので、この中のいくつかは江戸時代からの伝承ということです。

なので、初めから七つあったかどうかは別として、それぞれのお話は、かなり昔から伝えられてきたベースがあり、それを誰かがアレンジして、伊豆の不思議物語としてとりまとめたのではないでしょうか。そしてそれを、どこかの観光協会が、ちゃっかりと伊豆の宣伝のために広めたのかもしれません。

その七つの不思議とは、以下のとおりです。

大瀬明神の神池(沼津市)
堂ヶ島のゆるぎ橋(賀茂郡西伊豆町)
石廊崎権現の帆柱(賀茂郡南伊豆町)
手石の阿弥陀三尊(賀茂郡南伊豆町)
河津の酒精進鳥精進(賀茂郡河津町)
独鈷の湯(伊豆市修善寺)
函南のこだま石(田方郡函南町)

その所在をみると、東西南北にちりばめられていて、なかなかバランスが良いです。もし、これを全部行くとすると、ほぼ伊豆を一周できますので、やはりどこかの観光協会の陰謀かも。この中に独鈷の湯が入っているのがくさいですね。案外と修善寺の観光協会さんあたりが、まず独鈷の湯を最初の不思議に決めて、あとは面白そうなのを加えて無理やり名七つにしたのかもしれません。

ま、営業妨害?になるかもしれないので、邪推はこれくらいにして、それぞれの不思議について、書いていきましょう。

大瀬明神の神池(沼津市)

これは、昨日触れたばかりです。が、おさらいをしておくと、沼津市内から直線距離でおよそ15kmほど南西にある大瀬崎には、引手力命神社と呼ばれる神社があり、この神社を含む半島の先端部分は神社の境内地とされていて、ここにはビャクシンの樹林(天然記念物)と、これに囲まれた「神池」と呼ばれる、直径が100メートルほどの淡水池があります。この神池が、半島または岬の先端にもかかわらず淡水池であることから、伊豆七不思議の一つとされているのです。

このビャクシンの樹林は、海から最も近いところでは距離が20メートルほど、標高も1メートルほどしかないので、海が荒れた日にはこれを飛び越して海水が吹き込みます。にもかかわらず淡水池であり、コイやフナ、ナマズなどの淡水魚が多数生息しているところが、不思議とされているゆえんです。

駿河湾を挟んで北方およそ50キロメートルの富士山から伏流水が湧き出ている、などとする説もある一方、海水面の上下に従って水面の高さが変わるとも言われていて、何故淡水池であるかは明らかにされていないそうです。

古くから池を調べたり魚や動植物を獲ったりする者には祟り(たたり)があるとされ、また、池の中がもしかなり珍しい環境である場合には、下手に調査をするととり返しのつかない環境破壊を招いてしまう可能性があることから、これまでも詳しい調査はされていないんだそうです。

人の手が入っていない、となると確かに神秘的な湖です。七不思議に入っているのもうなずけます。

堂ヶ島のゆるぎ橋(賀茂郡西伊豆町)

堂ヶ島のゆるぎ橋(どうがしまのゆるぎばし)は、静岡県賀茂郡西伊豆町の堂ヶ島に伝わる、民話的伝承です。これについては由来を書いた石碑だけがその場所に残っているだけです。

天平年間、の堂ヶ島に紀伊国熊野から来たという海賊の一団がいました。海賊の頭目の名は「墨丸」といい、たくさんの手下を従え、沖を行く船を襲い、村々の略奪をするという悪いヤツでした。

このころ、伊豆の海沿いの村々では都へのみつぎものとして、特産の鰹節や砂金を収めていました。ある年、ある村で、その貢物の荷支度も終え、祝いの宴も終わってほとんどの村の人々が家路につくころ、墨丸が率いる海賊たちが砂金目当てに押し入って来ました。

村人たちは必死に応戦したものの、最後には砂金を奪い取られてしまいます。砂金を手にして意気揚々とアジトへ帰ろうとする海賊たちが、その村の薬師堂の前の橋に差し掛かったときのことです。橋がまるで地震のように大揺れにゆれ、海賊たちは一向に反対岸に渡ることができなくなりました。

そして海賊たちは、しまいには橋の下の流れに、次から次へともんどり打って落ちていきました。大将の墨丸も最後までが大事そうに砂金の袋を抱えていましたが、この墨丸の前だけには、なんと、仁王さまが現れ、墨丸をつまみあげると、そのままお堂の薬師如来さまのところまで連れて行き、その前に差し出したのです。

薬師如来さまは墨丸に罰を与えると思いきや、とつとつと人の道を説かれはじめました。それによって心を打たれた墨丸は、それまでの悪行を悔い、以後この薬師堂の守護に尽くすようになります。そして、このあと、この薬師堂の前の橋は、心の汚れた者が渡るとゆれる「ゆるぎ橋」と呼ばれるようになったといいます。

このゆるぎ橋ですが、月経になった女性が渡るとゆれるともいい、また、橋から削った木片を焚きその火を見せると夜尿が治るとも伝えられているそうです。

この橋や薬師堂が本当にあったのかどうかはわかりません。言い伝えによると、その後風雨に曝された末、橋も薬師堂もなくなってしまい、現在では、由来を書いた石碑だけがその場所に残っているということです。

石廊崎権現の帆柱(賀茂郡南伊豆町)

石廊崎権現の帆柱とは、伊豆半島の最南端の石廊崎灯台の先にある、石室神社に江戸時代から伝わる伝説です。この神社、海面から30メートル以上の断崖絶壁の上に社殿が建てられていて、その基礎には、千石船の帆柱が使われているということです。

その昔、播州(現兵庫県)の濱田港から塩を運んでいた千石船が、ある日石廊崎の沖で嵐に遭います。船の船頭は、もし無事に帰れたら、その船の帆柱を石廊崎の権現様(石廊権現)に奉納するから、と誓って祈ったところ、なんとか嵐を切り抜け、無事に江戸に到着することができました。

そして江戸を発ち播州へ帰るその途中のこと。帆柱奉納のことをすっかり忘れていた船頭を乗せた船は、なぜか石廊崎の沖で船が進まなくなってしまいます。しかも天候が急変して暴風雨になり、船が沈みそうになってしまいました。

往路で誓いを立てたことを思い出した船頭は、あわてて千石船の帆柱を斧で切り倒したところ、不思議なことにその帆柱は、ひとりでに波に乗り、石廊権現の社殿の真下の断崖絶壁をこえ、社殿にまるで供えたかのように打ち上げられたそうです。

そして、これと同時に暴風雨も鎮まり、船は無事に播州へ戻ることができたといいます。

その帆柱?は、社殿の基礎として今も実際に残っているそうです。材質は檜で長さは約12メートルもあり、現在では社殿の床の一部がガラス張りにされ、直接覗くことができようになっているとか。

この話は、ちょっとうさんくさいですね。30mもの断崖を帆柱が登ったというのはちょっと信じがたいですし。石廊崎を回って江戸へ行き来していた船主たちがその航海の安全を祈願して、神社に帆柱を奉納した、というのが本当のところで、伝説のほうはそのあと面白おかしく地元の人が語り伝えたのではないでしょうか。

手石の阿弥陀三尊(賀茂郡南伊豆町)

手石の阿弥陀三尊(ていしのあみださんぞん)は、下田から石廊崎へ向かう途中の手石港の近くにある洞窟にまつわる、江戸時代から伝わるという伝説です。この洞窟、弥陀窟(あみだくつ)とも、弥陀岩屋、弥陀ノ岩屋とも呼ばれており、1934年(昭和9年)に「手石の弥陀ノ岩屋」の名称で国の天然記念物に指定されています。

その昔、手石の近くに七兵衛という漁師がいました。妻を亡くし、3人の子供を抱えて貧しい暮らしを送っていましたが、あるとき、末の子の三平が重い病気にかかります。近くの寺に願を掛け朝夕お祈りをしていると、ある日七兵衛の夢枕に観音様が現れ、「洞窟の海底にある鮑を取って食べさせよ」と告げました。

七兵衛が小船で洞窟に漕ぎ入ると、奥から金色の光と共に三体の仏様が現れました。目も眩んだ七兵衛が思わず船底にひれ伏し、おそるおそる目を上げると、船の中にはたくさんの鮑(あわび)が投げ込まれていたといいます。これを持ち帰り、三平に食べさせたところ、病気はやがて回復したといいます。そして、この洞窟での霊験が人々の口から口へと伝わり、やがては広く日本全国に知られるところとなったといいます。

この伝説は洞窟の中で起きるある自然現象が伝説化したのではないか、という説があります。それは、大潮で波の静かな晴天の日の正午頃、この洞窟の奥のほうに小舟で入りこむと、その天井に鳩穴という小さな縦穴が空いていて、ここから洞内に差し込む日光が、洞内の暗部を照らすのだそうです。

この日光があたかも暗闇の中に光る金色の阿弥陀像のように見えたのではないか、とする説で、もっともらしい話ではあります。それにしても、実際にどんなふうに見えるのか見てみたいものですね。

河津の酒精進鳥精進(賀茂郡河津町)

伊豆の七不思議の五つ目は、河津の鳥精進酒精進(とりしゅじんさけしょうじん)です。東伊豆の河津町、田中というところにある杉桙別命神社(すぎほこわけのみことじんじゃ、またの名を河津来宮神社)の氏子に伝えられてきた「風習」だそうです。

昔、河津の郷に杉桙別命(すぎほこわけのみこと)という武勇に優れた男の神様がいました。ある日のこと、命が酒に酔い野原の石にもたれ眠っていると、そこに野火が起こりあっという間に周りを囲まれてしまいました。

と、そこにたくさんの小鳥が飛んできて河津川から水を運び火を消しはじめ、このおかげで、杉桙別命は難を逃れることができました。このことがあってから、杉桙別命は、酒を慎むようになり、村人にも一層、」慕われるようになったということです。

この伝説から、河津では命が災難にあったという12月18日から12月24日の間、

鳥を食べない
卵も食べない
お酒を飲まない

という「鳥精進酒精進(とりしょうじんさけしょうじん)」が守られているそうで、この禁を破ると火の災いに遭うと信じられているということです。

これは、まあ伝説ですね。が、その伝説に由来する禁則が今も守られているというのは驚きです。鳥と卵ということは、親子丼は絶対ダメですね。個人的には、一週間もサケを飲めないというのはつらい。この神社の氏子には、絶対なりたくありません。

独鈷の湯(伊豆市修善寺)

出ました! 修善寺です。独鈷の湯は、前にこのブログでも取り上げました。修善寺温泉内を流れる桂川の中にある温泉で、伊豆最古の温泉ともいわれるものです。

川の中に、土台として大きな石を積み上げ、そこに浴槽を設けて湯を楽しめるようにしたもので、かつては入浴することができたましたが、現在は河川法に抵触するということで、入浴は禁止されています。

この温泉には、弘法大師が807年(大同2年)に修善寺を訪れたときの伝説が残っています。桂川で病んだ父親の体を洗う少年を見つけ、その孝行に感心した大師は、「川の水では冷たかろう」と、手に持った独鈷杵で川中の岩を打ち砕き、霊泉を噴出させた、というのです。

大師は、温泉がわき出ると、これが病気に効くことを父子に説き、これによってその父は長年患っていた病気を完治させることができた、と伝わっていて、この話が広がったために修善寺温泉の湯治療養が有名になり、現在の修善寺温泉郷ができたとされています。

この独鈷の湯ですが、もともとはもっと上流にあったそうで、大雨のときに川の流れを堰止めないようにということで、現在の川幅の広い場所に移されたとか。

前にも書きましたが、温泉ひとつで川の水が堰き止められるわけもなく、アホな役人の考えそうなことです。たぶん、ここで認めればほかでも認めなければいけなくなるから、とかいうのが役人の言い分でしょう。さすがに大雨で増水しているときの入浴は、あぶないのでやめたほうが良いとしても、常時は入れるようにすれば観光客も増えて良いと思うのですが、どんなもんでしょう。

函南のこだま石(田方郡函南町)

最後になりました。函南のこだま石は、伊豆北部、函南町の平井という山の中にある大きな岩にまつわる伝説です。どこにあるんだろうな、といろいろ調べてみたところ、どうやら新幹線の新丹那トンネルのすぐ南側あたりにあるようです。新丹那トンネルのそばに「酪農王国オラッチェ」という農場がありますが、その南西約2kmの山の中らしい。

昔、平井の村に、「おらく」という母親が息子の「与一」と二人で暮らしていました。夫は戦に駆り出されて行方知れずになっており、大変貧しい暮らしをしていましたが、あるとき村のお寺の和尚の勧めで、ふたりして峠を越えた熱海の湯治場へ商いに出かけるようになったといいます。

この熱海へ行く途中の峠には、大きな岩があり、商いに出かけるたびにこの岩のそばで休みながら語らうのが二人の習慣でした。商いのほうはなんとか軌道に乗り、母子の暮らしがようやく楽になりかけた頃のこと、おらくは病を得て帰らぬ人となってしまいました。

与一は悲しみのあまり、母と共に語らった大岩に向かい、声をかぎりに母を呼び続けたところ、岩の底から「与一よー、与一よー」と懐かしい母の声がこだましてきたといいます。そして、来る日も来る日も懐かしい母の声を聞きに行く与一に村人は心を打たれ、この岩を「こだま石」と呼ぶようになったそうです。

これは、悲しいお話ですね~。ちょっとほろりとさせられます。伝説には違いないのですが、ほんとうにあってもよさげな話ではあります。二人の魂は救われたでしょうか。

さて、以上で、伊豆の七不思議のお話は終わりです。いかがだったでしょうか。私はなかなか面白いと思いましたが、実際に観光に寄与しそうなのは、大瀬明神の神池と、石廊崎権現の帆柱、手石の阿弥陀三尊、そして独鈷の湯くらいでしょうか。

残る三つがいまひとつインパクトに欠けるのが難点なので、観光地としてもう少し話を盛り上げるためには、いまひとつ工夫が必要でしょう。

ゆるぎ橋では、実際に女性が渡ると揺れる橋をつくるとか、河津では、鳥と卵と酒を使ったB級グルメを作って町おこしにしてはどうでしょう。こだま石については、石の中にセンサーでも組み込んで、心無い人が呼びかけると、「アホー」「アホー」と答えるようにするとかはどうでしょう。

夏は続きます。頭を冷やして良いアイデアを考えましょう。