昨日に引き続き、今日も良いお天気のようです。河津桜がそろそろ満開だという情報も入ってきたので、これから下田方面へ出かけてみようかと思っています。
仕事はどうするんじゃい!……とお叱りを受けそうなのですが、それはそれ、昨日までにあらかたメドをつけたので何とか今日一日ぐらいサボっても大丈夫でしょう。
若いころには、こうした段取りがなかなかつけられなくて、時間ばかり経過していくうちに仕事の締切が迫り、徹夜を余儀なくされる……なんてこともよくありましたが、経験を積んだだけのことはあり、仕事の手は20代、30代のころに比べると格段に早くなりました。
このまま、60代、70代に突入しても今のままでいられると良いのですが、昨日のブログでも書いたように、テロメアがどんどん短くなっていき、やがては放射能にだけ強い、ゴジラジジイになっていくのでしょう。
その先には当然、死神が待ち受けているでしょうが、できるものなら、今のうちからこの死神さんとも仲良くなっておいて、死に際になったら彼(彼女?)の裁量でもう少し寿命を延ばしてもらう……なんてことができると良いのですが。
ところで、この「死神」というワードを調べてみると、出所はやはりヨーロッパのようです。エジプトやギリシャなどの多くの古代文化では、その神話の中に死神を組み入れており、このころから既に、「死の象徴」であり、その性質上「悪の存在」的な認知をされていたようです。
が、一方ではそのほとんどの場合は宗教上においても最も重要な神の1つとされ、最高神もしくは次いで位の高い神となっている場合が多く、崇拝の対象にしている宗教もあるといいます。
日本においての死神は、仏教の伝来によってもたらされたようで、仏教では死にまつわる魔ということで「死魔」と呼ばれていたようです。人間を死にたくさせる魔物で、これに憑かれると衝動的に自殺したくなるなどといわれ、これが日本的な神道と結びついて後年、「死神」と説明されるようになったと考えられます。
仏教の極意がつづってあるという日本の古い文献、「瑜伽論」には衆生の死期を定める魔にのついてのことが書かれているそうで、これがまた後年、冥界の王とされる閻魔(えんま)を生みだしました。閻魔大王の配下には牛頭馬頭(ごずめず)などの鬼がいますが、これもまた死神の類とされることもあります。
一方、神道では、日本神話におけるイザナミのミコトが死者の国である黄泉の国に行ったということで、これを人間に死を与えた、というふうに解釈し、イザナミを死神と見なすこともあるようです。
ちなみに、このイザナミはその死後、自分に逢うためにわざわざやってきてくれたイザナギに、自分の腐敗した死体を見られたとき、これを「恥をかかされた!」と大いなる勘違いをして怒り、恐怖で逃げるイザナギを追いかけます。
しかし、黄泉国と地上である葦原中津国(あしはらのなかつくに)の間にある黄泉比良坂(よもつひらさか)で、イザナギが大岩で黄泉の国までの道を塞ぐことに成功。イザナギは地上に出て来れなくなりました。そしてイザナミとイザナギはその後、離縁したということですが、イザナギが慰謝料を払ったかどうかまでは記録に残っていません……
これに対して、西洋の死神はというと、一般的には大鎌、もしくは小ぶりな草刈鎌を持ち、黒を基調にした傷んだローブを身にまとった白骨化した人の姿で描かれることが多いようです。ほかにも色々バージョンがあって、白骨化した馬に乗っていることもあり、常に宙に浮遊している状態のもの、黒い翼を生やしているものなど、色々です。
持っている大鎌を一度振り上げると、振り下ろされた鎌は必ず何者かの魂を獲ると言われていて、死神の鎌から逃れるためには、他の者の魂を捧げなければならないとか。
ヨーロッパでも死神は基本的には悪い存在として扱われる事が多いようですが、誰が名付けたかは知りませんが、死神には「最高神に仕える農夫」という異名もあるそうで、この場合の死神は、冥府への先導者ということのようです。
死を迎える予定の人間が、魂のみの姿で現世でさまよい続け、悪霊化するのを防ぐため、この「農夫」が冥府へと導いていくれるといわれているそうで、多少は怖さが軽減されるものの、逆にそんな得たいのしれない農夫にあの世に連れて行かれるのは、余計に不気味なかんじがします。
ところで、死神といえば、「命の蝋燭(ロウソク)」という話を思い出します。
ある男が、命の蝋燭が置いてある場所に迷い込み、そこにある自分の蝋燭が消えかかっているのを見て、その場所の番人である死神に、なんとかもう少し長く……と懇願するという例の話ですが、この話の大元になったのは、有名な「グリム童話」だそうで、「死神の名付け親」というタイトルがついているということです。
そのあらすじはこうです。
ある貧乏な夫婦のもとに男の子が生まれました。その父親の男は無学であったため、自分で子供に名前をつけることできず、名付け親を探すために、赤ん坊を抱いて家を出、町はずれの街道まで行きました。そこを通る通行人を探して名付け親になってもらうつもりでしたが、ちょうどそこには神様がやってきました。
しかし、神様は忙しかったので、名付け親になることを拒み、次にやってきた悪魔にも断られてしまいます。最後にやってきたのが、死神であり、男が名付け親になってほしいと懇願すると、死神は快くこれを引き受けてくれました。しかも、死神は男に対し、この子を将来、大金持ちにする、とまで約束してくれました。
こうして男の息子はすくすくと成長しますが、ある日、その息子のもとにあのときの死神が現れます。
死神は息子を薬草が生える群生地に案内してこう言いました。「お前が、今後もし病人の元に呼ばれることがあれば私もついていこう。その時、私が横たわる病人の足下に立っていたら薬草を飲ませなさい。その人間の命は助かる。しかし、枕元に立ったならその人間の命は私のものだ。」
息子のところへはその日から、次々と病人が連れてこられるようになり、そのたびに病人の枕元には死神が現れました。多くの場合、死神は病人の足元に立ったため、病人の家族は大いに喜び、息子に金銭を渡すようになりました。
時には死神が枕元に立ち、その病人はあの世へ連れて行かれることもありましたが、息子はこの死神の教えをしっかりと守って薬草を飲ませ続け、ついには名医とまで言われるようになりました。
ところが、ある日、息子が住んでいた国の王様が重病にかかります。王様の側近は息子の評判を聞きつけ、王様を息子のところに連れてきました。そのとき、死神はなんと王の枕元に向かおうとし、それはやがて彼が死ぬ運命であることを意味することは息子にもわかっていました。
ところが、この王様は国民に慕われていて、たいそう人気がある人だったため、息子はこのときに限って死神を騙して王の命を救おうと考えました。そして、死神が目を離しているスキにとっさに王様の体を逆転させ、王様を助けました。
死神はこのことをあとになって気づき、二度目そんなことをしたらお前の命はないぞときつく息子を叱りましたが、その後王様の娘の王女が病気になり、息子のところへ連れてこられたときにも、息子は同じようにして死神をだましてその命を救いました。
のちにまたしてもだまされたことを知って怒った死神は、息子を地獄の洞穴に連れて行きます。そこには人の命を表すロウソクが林立しており、死神は息子に彼の命のロウソクを見せました。
それは、今にも消えそうな弱々しい炎であり、息子は大きなロウソクに火を接ぎかえてくれと懇願します。
死神は今度だけだぞ、と言ってそれを了承しますが、ロウソクの火を移しかえるふりをして、わざとそれを落としてしまいます。息子はあわてて床に落ちたロウソクを元に戻そうとしますが間に合わず、その炎が消えていく中、息子の命も消えていきました……
……と、原作を読むと、結構もの悲しいかんじのあるお話なのですが、グリム童話がその後日本でも読まれるようになってから、この話を有名な落語家の三遊亭圓朝が翻案して、「死神」という落語に仕立てあげました。
これが圓朝によって演じられるやいなや大人気になり、以来この演目は、古典落語の一つとして、多くの落語家が演じるようになりました。
ここで、その落語バージョンのあらすじも書いてみましょう。
何かにつけて金に縁が無く、子供に名前をつける費用すら事欠いている男がいました。ある日その男がふと、「俺についてるのは貧乏神じゃなくて死神だ」とつぶやくと、何と本物の死神が現れてしまいます。
仰天する男に死神は「お前に死神の姿が見えるようになる呪いをかけてやる」と言い、「もし、死神が病人の枕元に座っていたらそいつは駄目。反対に足元に座っていたら助かるから、呪文を唱えて追い払え」と言い、それをネタにして医者になるようアドバイスを与えて消えていきました。
男は死神のいいつけを守って医者になりすまし、多くの患者を「救う」ふりをしてお金をもうけていきましたが、良家の跡取り娘の病を治したことなどから、世間からは本物の医者としてもてはやされるようになりました。
こうして有名になった男なのですが、「悪銭身に付かず」ですぐ貧乏に逆戻り。おまけに病人を見れば死神はいつも枕元にいることが多くなり、あっという間に以前以上に貧乏になっていきます。
こうして困っていた男のところに、ある大店から手代がやってきて、ぜひご隠居の病気を治療してくれと頼まれます。行ってみると、今度もちゃっかりと死神が枕元にいましたが、手代がご隠居を治してくれたら三千両差し上げる、と言ったことから男はその金に目がくらんでしまいます。
そして死神が居眠りしている間に布団を半回転させ、死神が足元に来たところで呪文を唱え、おまけに死神をたたき出してしまいました。
こうして大金をもらい大喜びで家路を急ごうとした男でしたが、途中で怒った死神に捕まり、大量のロウソクが揺らめく洞窟へと案内されます。
おそるおそるここはどこだと死神に聞くと、死神はこのロウソクはみんな人間の寿命だといいます。「じゃあ俺のは?」と聞く男に、死神は黙って今にも消えそうな一本のロウソクを指差しました。
そして、「お前は金に目がくらみ、自分の寿命をご隠居に売り渡したんだ。」といい、ロウソクが消えればその持ち主は死ぬ運命にある、と男に告げます。男はパニックになり、死神から渡されたロウソクの寿命を延ばそうと継ぎ足そうとしますが……
「アァ、消える……」
……というお話。「アァ、消える……」と呟いた後、演者は高座にひっくり返り、これが「死」を暗示するというオチのようなのですが、私は実際にはこの落語をみたことがありません。みなさんはありますか?
三遊亭圓朝が演じたあとも、いろんな落語家が演じて結構な人気になったようですが、同圓遊派の三遊亭圓遊は、正月や客層など縁起のからむ高座にかけるためにこれを改作し、「誉れの幇間」という演目でこれを演じたそうです。
その内容は、オリジナルでは「アァ、消える……」と言って演者がひっくり返りますが、このバージョンでは、その直後にむっくりと起き上がり「おめでとうございます!」などと言いながら、ロウソクの継ぎ足しに成功して男がしぶとく生き残る、というもの。
その後、このほかにもオリジナルの噺に少し手を加えて、より面白おかしくしたものがたくさん出るようになりました。
死神をだます前に、主人公が風邪気味になるというバージョンもあり、これは死神が登場し「お前はその風邪が原因で死ぬだろう」と言い、ロウソクの継ぎ足しの段ではいったんこれに成功して主人公が喜悦満面となりますが、そこでクシャン!と一発くしゃみが出てロウソクは消え、無言のまま演者が舞台で倒れこむというもの。
これは、10代目柳家小三治が演じたそうで、ほかにも、ロウソクを継ぎ足した後に気が抜け、思わず出したため息でロウソクが消えてしまうもの、継ぎ足したロウソクを持ってその明かりで洞窟を戻り、その後死神が「もう明るいところだから消したらどうだ」と言われて自分で消して死ぬ、というものなどもあり、さらに笑いが倍増していきます。
このほか、ロウソクが消えても生きているパターンもあり、ただしこの場合にも、実際には主人公が既に死んでいるか、あるいはまもなく死ぬ、といったオチになるようです。
さらには、死んだ男が死神となり、また別の男に対し自分に儲け話を持ってきた死神と同じように儲け話を持っていくという、エンドレスな展開を予想させるオチも存在し、こういうのは「回りオチ」というのだそうです。
最後のセリフの「消える」は、最初は、「消えた」と言っていたそうで、「消える」に変わったのは6代目三遊亭圓生からだということで、これは圓生が、死んでしまったら「消えた」とは言えないはずだろう、と考えたためにこう変わったということなのですが、なるほど「言葉」で勝負している人達の奥は深いわい、と感心させられます。
この落語をレコードに録音したバージョンでは、聞く人は倒れるしぐさを見せることができないため、全て死神のせりふにして「消(け)えるよ……消えるよ……消えたぁ」と演じているそうで、ここでも噺家の工夫に感心させられます。
いずれにせよ、オチの部分に手が加えられていろんなバージョンができていくというのがこの落語の楽しいところで、このほかにも、7代目立川談志は、「死神が、せっかくついた火を意地悪で吹き消してしまう」というバージョンを作り出したそうです。
また立川志らくのバージョンでは、男がロウソクに一度は火をつけることに成功しますが、死神が「今日がお前の新しい誕生日だ。ハッピバースデートゥーユー」というと、男がつられて火を吹き消してしまう、というのもあって、本当に笑ってしまいます。
落語家ではないのですが、人気芸人の千原ジュニアが大銀座落語祭で披露したオチは、男が無事につぎ足したロウソクを持って喜びながら帰宅するのですが、「昼間からロウソクを点けるなんてもったいない」と妻にあっさり吹き消されるというもの。
いかにもありそうなブラックジョークですが、ペーソスが効いていて秀逸です。パーティネタにもなるのではないでしょうか。
さて、今日はこれから下田へ行くのでこのあたりで終わりたいと思います。
最後に、男が死神から伝授されたという呪文を披露しておきましょう。
演者、演出によりそれぞれ若干ことなりますが、三遊亭圓生が作ったものがもとになっており、次のようなバージョンがあるそうです。
・アジャラカモクレン、アルジェリア、テケレッツのパー
・アジャラカモクレン、ハイジャック、テケレッツのパー
・アジャラカモクレン、キュウライス、テケレッツのパー
「ハイジャック」のところは、中国の文化大革命がおこったころには「コーエイヘイ」、ロッキード事件の頃には「ピーナッツ」などに置き換えられたそうで、現代ならなんでしょう。「アベノミクス」とでも唱えるのでしょうか……