八重姫


一昨日は九州地方や中国地方で大雨が降ったようですが、ここ伊豆でも結構降りました。造成したばかりの庭はどうかしら、と心配したのですが、表土が少し流れただけで事なきを得ました。

でも、ふもとの狩野川や桂川は結構増水しただろうな、と思ったのでちょっと、見に行ってこようということで、修善寺の駅から歩いて5分ほどのところにある市役所まで行ってきました。狩野川のすぐそばにある、市役所脇の遊歩道からは、いつものように、滔々と流れる狩野川がみえます。確かに少し増流しているようですが、危険を感じるほどではないかんじ。しかし、田方消防署の方々4~5人が、水位を確認に来られていました。古くから水の事故の多い狩野川のこと、やはり増水が心配になられたのでしょう。

狩野川といえば、「狩野川台風」により大きな被害が大きかった場所として有名です。1958年(昭和33年)9月26日夜、関東地方に上陸した台風22号が伊豆半島を襲いおおきな被害を出しました。狩野川流域では、破堤15箇所、欠壊7箇所、氾濫面積3,000ha、死者・行方不明者853名に達したそうです。静岡県全体の死者行方不明者は1046人ですが、そのほとんどが伊豆半島の水害によるものでした。

この狩野川台風による被害状況については、その当時のことを調べるとまたいろいろな史実がでてきそうなので、日をあらためて書いてみることにします。

さて、この狩野川ですが、その豊富な水量と良好な水質により古くから繊維業、製紙業、醸造業などが発達してきたそうです。特に、天城山系の清流を利用したワサビ栽培は、全国一の生産額だそうで、紙も、ふもとの修善寺がそのメッカだったらしく、現在も和紙を作っている工場があります。

地形的には、伊豆半島の最高峰、天城山に端を発し北流、大仁や伊豆長岡、韮山などが位置する田方平野を蛇行しながら、沼津市付近で大きく向きを変えて駿河湾に注いでいる川です。太平洋側の大河川で、このように北流するものは狩野川だけなのだそうで、何事につけ、人とは違ったことをやるのが好きな、変わり者の私としては、妙に親近感を感じたりする……

その長さは、約46kmほどもあるそうですが、標高差が大きく流れが急なことや、下流部で蛇行することもあり、古くから洪水が多発しました。その昔は、洪水のたびに流路が変わったそうで、現在でも伊豆長岡町や韮山では網目状に古い河道が分布しているのがわかるとか。

当時は中州がいくつもできて島のようになり、「土手和田」、「和田島」や「蛭ヶ小島」などと呼ばれていたといいます。「田島」というのは、中州のことなのだそうで、「小島」というのも中州が島のように見えたからつけられた名前なのでしょう。

ところで、蛭ヶ小島といえば、平家によって流罪となった、源頼朝が居留したところとして知られています。伊豆へ引っ越してきたときから、どんなところなのだろう、と気になっていたので、お天気も回復しそうだし、狩野川の様子を見に行ったついで、ということで、午後から現地に行ってみることにしました。

行ってみると、予想どおり、というか、あまり期待していなかったのですが、「小島」などはなく、小さな茶屋と東屋を中心においた、周囲200m程の公園。伊豆の国市が管理しているらしく、なかなかきれいに整備されています。入口付近には、史跡であることを示す碑と、頼朝と政子が寄り添って、遠くを見つめる像があります。頼朝さん31歳。政子さん21歳のころだそうですが、もっと若いときに出会って結婚しているはずですから、結婚後、十何年も経ったころの像ということになります。

頼朝さんは、平家1159年(平治元年)、お父さんの義朝が平治の乱で敗れたため、平家に捕えられますが、清盛の継母の池禅尼(いけのぜんに)の命乞いで、翌1160年、ここ、「蛭ヶ島」へ流罪になったとされています。たった14歳だったそうです。おそらくは流人であったため、付き人なども一人いるかいないか、ぐらいではなかったかと思われます。

蛭ヶ「小島」ではなく、蛭ヶ島なのだそうで、平安時代には、このあたりの水田地帯一帯をそう呼んでいたのだとか。しかし、いろいろ調べてみると、歴史的には「伊豆国に配流」と記録されているだけらしく、「蛭ヶ島」というのも、後世の文書で史実に誰かが勝手につけ加えたという説があるようです。

発掘調査などでも、より古い、弥生・古墳時代の遺構や遺物が出てくるだけで、平安時代末期の遺構は確認されていないのだとか。鎌倉時代につくられたという歴史書、「吾妻鏡」で、頼朝さんの流刑地について「蛭島」と確かに書いてあるようですが、現在蛭ヶ小島と称されているところが、本当にその場所であるのかどうかはわからないのだそうです。

現在、蛭ヶ小島の遺跡として整備されている場所は、江戸時代に学者の秋山富南が「頼朝が配流となった蛭ヶ島はこの付近にあった」と推定し、江戸中期の1790年に、これを記念する碑を建てたんだとか。これが「蛭島碑記」という石でできた碑文で、確かに公園内にこの古い碑が建てられていました。

現地へ行ってわかったのですが、狩野川からはかなり離れた東側の山寄りに作られているこの公園、地質調査の結果から当時も付近を大きな河川が流れるということはないことが分かっているそうです。なので、頼朝さんが流された場所というのは、狩野川の中の中州ではなく、水田の多い湿地帯のなかに島状にあった「微高地」と考えるべきだという説が有力視されているようで、それならばなるほど、狩野川から離れたところにあるのもわかる気がします。

それにしても、この地が「蛭ヶ小島」じゃないのならば、実際にはどこだったの?という声が聞こえてきそうですが、実は、この近辺には、頼朝さんが後年奥さんにする北条政子さんの実家、北条家の一族の住まいがあちこちにあったようです。おそらくはそのうちの一軒が、頼朝さんを閉じ込めておくには都合がよい場所にあったのではないでしょうか。

頼朝さんはここで父義朝の菩提を弔いながら、約20年を過ごしたそうです。生活費はどうしたのかな~ と余計な心配をしたもんですが、これについては、もともと頼朝さんの乳母だった「比企尼(ひきのあま)」いう人が、旦那さんの比企掃部允(ひきかもんのじょう)とともに暮らしていた、武蔵国比企郡(今の埼玉中部だそうですが)から仕送りを続けていたのだとか。愛情深い乳母だったんですね。頼朝さんがその後挙兵できたのも、この夫婦の援助のおかげということになります。

さて、そういうわけで、流人といわれる身分ながらも、とりあえず食うのにも困らず、「伊豆ライフ」を満喫していた頼朝さんですが、罪人であることにはかわりなく、当然監視役がいました。この監視をしていたのが、在地豪族の伊東祐親(いとうすけちか)という人。ところが、あろうことか、頼朝さん、その娘の八重姫という女性と恋に落ちてしまいます。

八重姫さんは、伊東祐親の三女とも四女ともいわれるお姫様。その八重姫さんに頼朝さんが出会ったのは、頼朝さんがのちの奥さんの政子さんと出会う少し前の事、といいますから、蛭ヶ小島に流されてきてから1~2年後の15才か16才くらいのことだと思います。八重姫さんのお年はよくわかりませんが、同い年ぐらいだったのではないでしょうか。

祐親さんには、娘が4人ほどいたそうですが、八重姫さんの上のお姉さんたちは、みんな嫁いだあと。しかし、八重姫さんは独身だったので、それをいいことに、頼朝さんは八重姫さんのところへ、こっそりと通うようになります。そしてなんと、監視役の祐親さんが大番役で上洛している間に、男の子までもうけ、その子に「千鶴(せんずる)」という名を付けます。

罪人と看守の娘が恋をする?14~5才で結婚?この辺の感覚がよくわからないのですが、この当時まだ、平安時代の末期のこと、男女の営みについては、周囲が見て見ぬふりをするような、かなりおおらかな風習だったのかもしれません。結婚も早かったみたいで、12、3才で夫婦になるというのも普通だったらしい。なので、まあ、許してやろう。ということで、先へ進みます。

二人の息子、千鶴が3歳になった時、ということは、頼朝さんが、17、8のころのことか。大番役を終えて京から戻った祐親は、この事実を知り、激怒します(そりゃーそうだわな)。そして、「源氏の流人を婿」と噂されて平家のお咎めがあった時はどうするのだ」と言い、郎党らに「その子供を伊豆の松河の奥にある白滝の底に沈めてこい」と命じます。郎党たちは、強くためらいますが、主君の命ということで、結局どうすることもできず、泣く泣く千鶴を滝に沈めてしまいます。

八重姫自身はというと、祐親(ひどいヤツなので、このへんから呼び捨てにすることにします)によって伊豆の小豪族で、「江間小四郎」という人のところに、むりやり嫁がされてしまいます。

頼朝さんは、深く嘆き悲しみ、祐親を討とうと思う気持ちも沸くのですが、そのころ既に、「平家打倒」を信念にしていたので、「小怨よりも大怨」と自分をなだめ、忍従の日々を過ごします。

そんな中、祐親がさらに頼朝を討つべく郎党を差し向けるのではないか、と知らせてきた人がいます。乳母の比企尼の三女を妻としていて、祐親の次男である伊東祐清という人です。

これを聞いた頼朝さん。祐清さんが成人のときに烏帽子親をしてくれたという、北条時政の邸に逃れることにします。時政の下で暮らすようになった頼朝は、やがてみなさんもご存知のとおり、時政の長女政子と結ばれることになるのです。

ところで、その後八重姫さんはどうなったか。江間小四郎さんのところへ嫁がされていましたが、頼朝さんへの未練を捨てきれず、とうとう数ヶ月で嫁ぎ先から実家へ出戻ってしまいます。そして、意を決し、侍女と共に頼朝が匿われているという時政の館へやってきます。しかし北条家の家人に、頼朝はもう政子と結婚した、と冷たく門前であしらわれ、追い返されてしまいます。

すでに嫁ぎ先も飛び出し、いまさら実家へ帰ることもできず、しかも頼るよすがの頼朝さんにも会うこともできず、八重姫は悲嘆にくれ、とうとう北条の館のすぐ近くを流れる狩野川の真珠ヶ淵というところから身を投げてしまいます。一緒に同行していた侍女たちもあとを追って自刃したということです……

八重姫は地元の人たちによって、現在、真珠院というお寺が建つあたりに供養されました。今でも真珠院では八重姫の祠があり、6人いたという、侍女の供養碑があるそうです。

と、いうことで、長くなってしまったので、この辺で終わりにしたいと思います。この真珠院は、この蛭ヶ小島の近くの山すそにあるようです。この近辺には、かつての北条氏の館の跡や、ゆかりのお寺、北条政子が産湯をつかった井戸とか、北条氏と頼朝さんゆかりの観光スポットがまとまってあるようです。今回は時間がなくって、蛭ヶ小島だけになりましたが、今度じっくり時間を作ってまた行ってみたいと思います。

今日は一日なんとか天気はもちそうです。庭いじりにはもってこいかも。梅雨が明けるまであとどれくらいでしょうか。だんだんと夏の強い日差しが恋しくなってきました……