坂の上のこと

2015-1040302朝から春の陽光が注ぎこみ、わたしの仕事部屋の気温もグイグイと上がってきました。

すぐ側では愛猫のテンちゃんがその陽を浴びて気持ちよさそうに眠っており、見ているだけでこちらも幸せな気分になってきます。

良い季節になってきました。桜は無論のこと、その他の木々の多くも新芽を蓄え、中にはもう早々と薄緑色の葉を広げているものもあります。

司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」の冒頭には、「まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている。」とありますが、この「開化期」を「開花期」に置き換えると、ちょうど今の季節にぴったりです。

それにしても、本来は「開化期」という言葉はないはずであり、これは「文明開化」と掛け合わせた司馬さんの造語だと思いますが、こうしたちょっとした言葉の遊びが非常に上手な作家さんでした。

物語全体のストーリーとは全く関係はないのですが、そうした言葉の一つ一つが妙に後になって心に残り、もう一度その部分だけを読みたくて読み返したりすることも多く、そこが司馬作品の大きな魅力でした。

この「まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている」の後に続く文章は以下のようになっています。

”その列島のなかの一つの島が四国であり、 四国は、讃岐、阿波、土佐、伊予にわかれている。
伊予の首邑(しゅゆう)は松山。城は、松山城という。城下の人口は士族をふくめて三万。
その市街の中央に釜を伏せたような丘があり、丘は赤松でおおわれ、その赤松の樹間がくれに高さ十丈の石垣が天にのび、さらに瀬戸内の天を背景に三層の天守閣がすわっている。”

この「首邑」という聞き慣れないことばもまたしゃれており、これは首都というような意味でしょうが、普段使いもしないくせに、自分でも使ってみようかなと思ったりもするわけで、それやこれやで、このあとどんな新しいことばやおとぎ話が続いていくのだろう、とぐんぐんと物語に引き込まれていきます。

こうした司馬作品の魅力はさておき、この作品に出てくる松山城とはどんな城だったかなと思い返しています。

広島・山口に育った私は、海を隔ててすぐ対岸にある松山には子供のころから何回も行ったことがあり、たしかこの松山城にも登ったことがあるはずなのですが、なにぶん30年以上、もしかしたらそれ以上も前のことなので、どんな形状だったかまではよく覚えていません。

が、たしか小高い丘の上のようなところにあったよな、と調べてみたらやはりその通りでした。市街のほぼ中央に位置する標高132メートルの山頂にあり、天守へのルートは、4つほどあるようです。

無論、歩いて登ることができますが、現在ではロープウェイやリフトも整備されているので、高齢者でも辿り着くことができるようです。

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明治維新後においても、本丸の城郭建築群はほとんど破却されることはありませんでした。これは、戊辰戦争のあと明治政府が断固くしようとした1873年(明治6年)の「廃城令」の際も、引き続き軍事施設として利用できるものは残そうとしたからだと思われます。

この伊予松山城という城があった松山という土地は、その昔は四国の中でも1~2位を争う大きな街でしたが、現在でも愛媛県の県庁所在地であり、四国最大の都市でもあって、戦前には商業的・政治的以外にも軍事的な要衝の地でした。

幕末には佐幕派の藩だったため、明治維新後は一時土佐藩に編入されましたが、しかし土佐藩の首邑(早速使ってみました)、高知にあった高知城なんぞは廃城になっており、その跡地は高知公園になってしまっています。

“なんぞは”、などと書くと土佐の人に怒られそうですが、四国の最南端の言ってみれば辺鄙な場所であり、ここに壮大な城を残しておいてもあまり軍事的な意味はありません。

一方では、瀬戸内海で頻繁に多数の船が通るような表通りに面した松山城のほうが軍事的な価値が高いのは当然であり、これがこの松山城が今も残っている理由なわけです。ただ、廃城令でも本丸は残されましたが、麓の城門・櫓・御殿などは解体され民間企業などに払い下げられたため、完全に往時の形が残っているわけではありません。

この城を軍事的な価値があると明治政府が考えていた証拠に、ここには1886年(明治19年)より1945年(昭和20年)にかけて、帝国陸軍の松山歩兵第22連隊が駐屯するようになりました。二之丸と三之丸は陸軍省の管轄となり、この連隊の司令部は三之丸に置かれていたようです。

しかし、さすがに本丸だけは使いようがなかったとみえ、1923年(大正12年)には旧藩主家の久松家へ払下げとなり、そのまま松山市に寄贈され、以降、松山市の所有となっています。

その後、昭和に入り、1933年(昭和8年には、放火事件がありましたが、小天守・南北隅櫓・多聞櫓が焼失したもの大天守などの大部分は無事でした。2年後の1935年(昭和10年)、天守など35棟の建造物が国宝保存法に基づく国宝に指定されました。

その後太平洋戦争が勃発。昭和20年7月26日には松山大空襲があり、被災面積約5平方キロ、罹災戸数14,300戸、罹災者 62200名、死者・行方不明者259名の被害を出し、市街地の大半は灰燼に帰しました。

松山城も天神櫓など11棟が焼失しましたが、このときも大天守などの本丸はほとんど死焼失から免れ、生き残りました。が、戦後の1949年(昭和24年)にも放火により筒井門とその東続櫓、西続櫓などが消失しており、こうしたことから国宝に指定されるほどであった価値がかなり低下しました。

このため、1950年(昭和25年)にあらためて文化財の指定を受けたときには、大天守以下21棟の建造物は「重要文化財」ということになり、少々格が下がってしまった格好になりました。

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しかし、空襲や放火によって失われたものは、写真やかつて国宝指定時に作成されていた正確な図面や写真などをもとに復元されることになり、その工事が昭和33年から本格的に始まりました。

1968年(昭和43年)には、1933年に焼失した本壇の建造物群を木造により復元されたほか、2004年(平成16年)からも大天守ほか6棟の改修工事が行われ、この工事は2006年(平成18年)に終了しました。

「坂の上の雲」の制作はその前からすでに企画されていたようで、その後この落成して生まれ変わった松山城でも多少のロケが行われたようです。ドラマのほうは2009年11月から2011年12月まで足掛け3年かけて放映されました。

この物語について、司馬さんがこれを連載執筆していた1968年(昭和43年)から1972年(昭和47年)のころからすでに「本作を映像化させてほしい」とのオファーが殺到していたといいます。

しかし司馬さんは、「戦争賛美と誤解される、作品のスケールを描ききれない」として許可せず、このときNHKもオファーを行っていましたが、この声を聞いて断念。

しかし、司馬さんの死後、熱烈なエールを司馬さんの死後設立されていた「司馬遼太郎記念財団」に送り、ついにその映像化の許諾を得ました。その後、著作権を相続していた福田みどり夫人の許諾も得て、2002年には製作チームが結成されました。

2003年には、大河ドラマとは別枠の「21世紀スペシャル大河ドラマ」として2006年に放送する予定が発表されました。この2006年というのは、上述の松山城の改修が終わった年であり、おそらくはそれに合わせようとしたのでしょう。

ところが、この企画は突然暗転します。2004年6月に脚本担当の「野沢尚」氏が自殺してしまったためです。野沢尚氏は北野武の映画監督デビュー作の脚本を手掛けたことでも知られているこの当時の人気脚本家でした。

自殺の原因は必ずしも明らかにされていませんが、その2か月前に放送されたドラマには自らの死をほのめかすかのようにテレビ業界への絶望が描かれていたといい、テレビというメディアにおける自作のありように悩んでおられたのでしょう。自殺した際には知人に「夢はいっぱいあるけど、失礼します」との遺書が残されていました。

しかし、自らの命を絶った、野沢氏は全話分の脚本の初稿を書き上げていたといいます。これをもとに作品化を進めることもできたわけですが、ところが更に悪いことに、2005年1月にはこの作品の映像化を強く推進した海老沢勝二会長がNHKの不祥事などを理由に辞任してしまいました。

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こうして作品の完成はますます怪しくなりました。司馬さんの、「絶対映像化させない」という強い思念がこうした事態を招いたのかとも思えないではありません。が、その真偽はあの世の司馬さんに聞いてみるしかありません。

さらには、このころからNHKは受信料不払いことなどから、その経営があやしくなってきており、多数のCGやVFSの利用が必要となると予想され、また出演者はいずれも人気俳優さんばかりであったため、制作費は相当に高額になると考えられました。

このため、この作品を本当に作るべきかどうかの再検討がなされ、その結果、全18回を1年かけて放送するという当初の予定を変更し、3部構成の全13回を2009年秋から足掛け3年で放送することが決まりました。

親方日の丸におんぶにだっこのNHKならではの選択といえ、単年度だけなら大枚の金をそこに投入しなければならなくなるものの、3年に分割すれば、その費用は分散できる、と踏んだのでしょう。

要はすぐには買えない高い買い物をできるだけ長期ローンで済まそうとしたわけです。あれほど良い作品をつくるから、と遺族に懇願してまで製作の権利を勝ち取ったのに、です。

この発表は2007年に行われました。が、それに先立ち前年から心配された脚本については製作スタッフが外部諮問委員会などの監修をもとに完成させており、同年1月に主要キャストとともにその内容が発表されました。

しかし、当初冠にしていた「スペシャル大河ドラマ」は後に「大河」の文言を抜いて単に「スペシャルドラマ」という冠に変更されており、例年の大河ドラマに順応していたファンには異例というか、異端な作品、というふうに思えたことでしょう。

私もこの作品は大好きな司馬作品の中でも特に好きなものだったので、こうしたいろいろないきさつがあったことは知っていたとはいえ、その映像化には大変期待していました。

そしてようやく始まった作品も毎回のように食い入るように見ていたわけですが、いかんせん、3年という長いダラダラとした放映には少々困惑しました。というよりもがっかりした、というほうが正しいかもしれません。

というのも、3年越しの3部構成になっており、その1部1部は、年末にまとめて4~5回連続で放映されるのです。1部が終わるごとに、次はどうなるのだろう、と期待しつつ、次の放映は1年後とずいぶん先になるため、まず最初にみたその部の感動が薄れてしまう、ということがありました。

次の年の年末には、既に前年に見た内容はかなり忘れており、当然どう感動したのかも覚えておらず、どうしても物語に入り込んでいけない、ということがありました。また、「人間ドラマ」としての製作に力点が置かれており、原作にあったようなダイナミックな時代背景の説明といったものが大部分省かれていた点も残念でした。

私と同じような感想は誰しもが持ったようで、その証拠に、初年度2009年の第一部全5回平均の視聴率は17.5%もあったのに、翌年の第二部では13.5%と落ち込み、さらにはクライマックスの第三部では11.5%と低迷しました。

物語の最高潮であるはずの最終回の「日本海海戦」ですらわずか11.4%という寂しさであり、こりゃーやはり司馬さんの祟りだわ、と言われてもNHKは反論できないでしょう。

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……とまあ話の流れで愚痴めいた内容になってきましたが、長年の大河ドラマファンだけに、このNHKの「仕打ち」には少々腹が立っていたので、ついつい書いてしまいました。

その後全巻がDVD化されており、レンタルショップでこれを借りてみることもできたわけですが、そこはやはりタダで見ることができるものをわざわざ金を払ってまで、というわけでこれまでこれを見る機会はありませんでした。

が、その後、私同様に全話をもう一度通してみたいとする視聴者からの反響が大きかったようで、このため番組終了から3年が経過した昨年、この作品の再放送がなされました。10月5日から今年の3月にかけて、1つのエピソードを前後編の2週に分け、合計26回に再編集したアンコール連続放送がNHK BSプレミアムにて放送されたものです。

その放送もあさって、日曜日が最後になるわけですが、無論のこと私も全編を通してこれを見ました。そして、切れ切れで見させられた前回とは異なり、やはり今回はじっくりとこの物語を堪能できました。

この作品は視聴率は低迷したものの、その制作手法を支えた技術に関して、2010年に「放送文化基金賞(放送技術分野)」というもの受賞しています。また2012年にも「第38回放送文化基金賞番組部門(テレビドラマ番組)」で本賞を受賞しています。

その制作費は、従来の大河ドラマを上回るケタ違いの規模であったとNHKは公表しており、確かに改めて見てみると、その映像は圧巻です。とくに最終回の日本海海戦の戦闘シーンは特筆すべき出来であり、私的には最近のどんなFSX映画よりも素晴らしく思えました。

その他の陸上の戦闘場面なども改めてみると素晴らしい映像が多く、またこうした戦場での場面ばかりでなく、主人公3人が過ごした伊予松山の美しい映像なども見て、改めてこの街の美しさなどを思い起こすことができました。

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冒頭で述べた松山城もさることながら、この松山という町は実に見どころの多い街です。この松山城と日本最古の温泉といわれる道後温泉は、ミシュランの観光版ではそれぞれ二つ星に選定されており、このほか四国八十八箇所の1つである石手寺もミシュラン一つ星となっており、多くの観光客を集めています。

また、しまなみ海道開通時には、しまなみブームと呼ばれるほど観光客が増加しましたが、
上述の坂の上の雲が最初に放映された中年の2010年には、その効果からか推定観光客数は588万を超えました。その後も毎年のように観光客は増え続けており、増加率は毎年3%ほどもあるそうです。

坂の上の雲の中でも登場した、俳人正岡子規や秋山兄弟のほか、文豪夏目漱石ゆかりの地でもあり、また放浪の俳人種田山頭火もその晩年をここで過ごし、ここで没しました。市のキャッチフレーズは「いで湯と城と文学のまち」ですが、その尊称に値するほどの文化都市といえると思います。

2007年(平成19年)4月には、松山城を頂く城山の南裾に「坂の上の雲ミュージアム」が開館され、多くの司馬ファンがここを訪れるようです。総工費は約30億円だといい、物語の主人公秋山好古・真之兄弟、正岡子規の3人にまつわる資料が満載のようです。私はまだ行ったことがなく、ぜひ一度訪れたいと思っています。

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ちなみに、この3人はここ松山で死んでいません。秋山好古は昭和5年(1930年)に糖尿病による心筋梗塞によって亡くなり、東京の陸軍軍医学校で永眠。享年71。また、弟の真之は、大正7年(1918年)に腹膜炎で死去、満49歳。兄弟はともに青山墓地に埋葬されています。

子規は言うまでもなく、結核で1902年(明治35年)に享年34で亡くなっていますが、二人とは異なり、東京都北区田端の大龍寺に眠っています。

秋山真之は、日露戦争当時は中佐でしたが、その後明治41年(1908年)、海軍大佐となり、大正2年(1913年)には海軍少将に昇進。さらに。明治41年(1908年)、海軍大佐となり、大正2年(1913年)には海軍少将に昇進。

その後軍務からは遠のき、日露戦争時に海軍大臣であった山本権兵衛が総理大臣になると、このとき海軍大臣になったかつての上司、八代六郎の補佐を務めたりしています。

また、孫文とも交流があったと言われ、非公式に中国の革命運動を援助なども行っていましたが、その後対中政策からは離れ、日本海軍の改革のために海外の海軍の視察などに積極的に出かけました。しかし、大正6年(1917年)、48歳で少将になったとき、海軍から足を洗い、市井に戻りました。

この退官前後から心霊研究や宗教研究に興味を持つようになり、このころ軍人の信仰者が多かった日蓮宗に帰依するとともに、神道家の川面凡児などに師事して神道研究をも行っていました。

しかし、大正6年(1917年)に5月に虫垂炎を煩って箱根にて療養に努めましたが、翌大正7年(1918年)に再発。悪化して腹膜炎を併発し、2月4日、小田原の友人宅で亡くなりました。この友人宅というのは、対潮閣という別荘で、所有者は「山下亀三郎」といい、山下汽船(現・商船三井)・山下財閥の創業者です。

勝田銀次郎、内田信也と並ぶこの当時の三大船成金の一人で、同じ四国は伊予の宇和島出身だったことから真之と親しくなったようです。また、真之が海軍軍務局長をやっていたころに、いろいろと仕事の面でも融通してやったことは想像に難くなく、年齢も真之よりひとつ上なだけで、いろいろと分かち合えるところがあったのでしょう。

日露戦争前、山下は秋山から、「開戦近し」の情報を入手していたといい、戦争になると民間船舶も徴用されることから、これを大量に購入しました。実際、戦争になると買ったものを海軍相手に売りさばき、徴用船となると一般の価格よりも有利であることから、これでかなりの儲けを得たようです。

そうしたこともあり、真之は晩年にはかなりこの山下の世話になっていたようで、その別邸である対潮閣に一室を貰い、死去直前に教育勅語や般若心経を唱えていたといいます。

しかし、退官後わずか1年で亡くなりました。兄の好古とは違ってあとくされのない一生であり、海軍という大組織の育成にその一生を捧げた彼にふさわしいといえばふさわしい最後です。

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一方、あとくされのある兄の好古のほうは日露戦争後も64歳になるまで陸軍で働き続けました。この間、明治42年(1909年)に50歳で任陸軍中将、大正5年(1916年)陸軍大将。大正9年(1920年)には、教育総監となり、陸軍三長官の内の一人にまで上り詰め、また軍事参事官を併任しました。

その3年後の大正12年(1923年)には、元帥位叙任の話もあったといいますが、本人が固辞し、それと同時に退官。翌年には松山に戻り、私立北予中学校(現在の愛媛県立松山北高校)の校長に就任しました。

予備陸軍大将、それも三長官まで上った者の仕事としては例のない格下人事といえるわけですが、本人の強い希望だったと言われます。

しかし、昭和5年(1930年)、71歳でこの校長も辞任しましたが、これはこのとき患っていた糖尿病が悪化したためと思われます。

ほどなくその治療のために、より医療設備の整っている東京陸軍軍医学校に入院。しかし、筋梗塞により11月4日にここで永眠。墓所は東京港区の青山霊園ですが、のちに有志により松山市の鷺谷墓地にも分骨されました。

晩年は教育にその身を捧げましたが、陸軍時代にも教育総監を勤めるなど、早くから教育に興味があったようです。福澤諭吉を尊敬していたそうで、自身の子のみならず親類の子もできるだけ慶應義塾で学ばせようとしたといいます。

海軍退官後は、自らの功績を努めて隠していたともいい、校長就任時に生徒や親から「日露戦争の事を話して欲しい」「陸軍大将の軍服を見せて欲しい」と頼まれても一切断り、自分の武勲を自慢することは無かったそうです。

中学校長時代は、「学生は兵士ではない」とし、学校での軍事教練を極力減らしたとも伝えられており、戦争を経験し、その中で多くの部下を死なせていった者だけが知る苦悩があったのではないかと推察されます。

弟の真之は兄よりは短い生涯でしたが、心霊研究や宗教に走ったということはやはり自分が経験した戦争の中で何かむなしさのようなものを感じていたに違いありません。

そんな二人が育った松山の地を再び訪れることができるのはいつのころだろうか、と考えてみたりします。静岡からはおよそ1000キロ。飛行機で行けばなんのことはありませんが、各種高速道路が整備された現在ではクルマで行くことも不可能ではありません。

これからの季節、久々に四国の地を訪れるのも悪くはないな、と思ったりもしています。松山城下に咲く桜はいまどんなかんじでしょう。飛び梅ならぬ、飛び桜になって静岡までやってきてくれないものでしょうか。

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菜の花の忌


最近、少し日が長くなってきたようです。一日の活動時間も少しずつ長くなっていくようで、寒さも和らいできたこともあり、これからは少し外出する機会も増えそうです。

人も日を浴びると活動的になると同じく、植物もそうで、庭の木々を見ていると、新芽をたっぷりとたたえたものも多くなり、もうすぐ春だなと感じさせてくれます。

伊豆のあちこちで梅や河津桜が咲いたという便りが届くようになり、こうした中高木ばかりでなく、水仙の花や菜の花が咲くのもあちこちで見られるようになってきました。先日も近くの大仁梅林に出かけてきましたが、梅はまだまだだったものの、梅の木の下にはたくさんの水仙の花が咲き誇っていました。

ところで、忙しくて書けなかったのですが、昨日は「菜の花忌」だったようです。作家の司馬遼太郎さんが亡くなった日です。

1996年(平成8年)1月12日といいますから、もう17年前のことになります。この日司馬さんは、ちょうど「街道をゆく 濃尾参州記」の取材を終えたころだったそうで、2月10日深夜に吐血して倒れ、国立大阪病院(現:国立病院機構大阪医療センター)に入院、12日の午後8時50分、腹部大動脈瘤破裂のため亡くなられました。

72歳という年齢は、ファンとしてはまだまだこれからなのに……といったお齢であり、かえすがえすも残念なのですが、もし生きておられたらどんな小説を書いておられたかな、と思い、最晩年の作品群をちょっと調べてみました。

すると、長編小説としては、「韃靼疾風録」(1987)が一番最後の作品であり、この二年前には、「菜の花の沖」を執筆されています。韃靼疾風録は、清の初代皇帝「ヌルハチ」などの生涯を描いたもので、この作品で司馬さんは第15回大佛次郎賞を受賞されています。

その4年前にも三国志の世界を描いた「項羽と劉邦」を書かれており、さらに少し前には中国に渡った空海のことを描いた「空海の風景」なども書かれていますから、その晩年の興味は中国のほうへ移っておられたのかもしれません。

しかし、その一方で、1982年には、「菜の花の沖」を書かれており、これは江戸時代の豪商、高田屋嘉兵衛を描いたもの、また1984年には、北条早雲の生涯を描いた「箱根の坂」なども書かれており、日本人として歴史上活躍した人物を描くことも忘れてはいなかったようです。

ちなみに命日の「菜の花忌」は、司馬さんがとりわけタンポポや菜の花といった黄色い花が好きだったことからつけられたようで、またこの晩年の作品の「菜の花の沖」にもちなんでいるそうです。

これら一連の長編小説を書いたあと、「韃靼疾風録」を最後に司馬さんは小説を書くことをほとんどやめており、このあとは「街道をゆく」や、月一回連載のエッセイ「風塵抄」、「この国のかたち」といった随筆作品に絞り、日本とは何か、日本人とは何かをテーマにした文明批評を中心とした執筆活動ばかりをされるようになりました。

実は司馬さんには大変失礼なのですが、私自身はこの一連の晩年の作品はあまり好きではありません。「菜の花の沖」や「箱根の坂」はそれなりに楽しんで読ませてもらったのですが、もっと若いころに書かれていた作品にみられたような強烈なインパクトがなく、登場人物の描写も凡庸であまりのめり込むことができないというかんじを持ちました。

無論、北条早雲や高田屋嘉兵衛といった、いわば歴史に埋もれていたような人物のお話であったためにいまひとつその生涯に興味が持てないというのもあります。

しかし、司馬さんの若いころの作品によくみられたような、司馬さんの登場人物への興味というか愛情がストレートに我々に伝わってきて、そのストーリーにぐいぐいと引き込まれていくというかんじがなんとなくみられない作品のように思いました。

司馬さんの作品には、司馬さん自身が解釈された歴史を大局的に見た見解が書かれることが多く、こうした「史実」を集めてきた膨大な資料の中から抽出してきて、これを面白おかしいゴシップとして披露する、というのが司馬さんのスタイルでした。

そうすることで登場人物を鮮やかに描きだす点が特徴的であり、しかもそういった工夫をしながらも、自分自身はいかにも「興味がない」といった読者を突き放したような書きぶりが魅力的で、そうした記述には類まれなるユーモアがありました。

「余談だが……」とか「閑話休題」といったかいった切り口で、時々物語から大いにお話が脱線しはじめると、本論とはまったく関係ないエピソードが延々とはじまり、その中には司馬さん自身の個人的な経験談も含まれていて、これがまた物語とは全然関係ない話であるだけに新鮮で面白い!とよく感じたものです。

しかし、司馬さんの晩年の作品をみると、登場人物の描写よりもむしろこの余談的随筆のほうが主題になっているような傾向があり、その余談もまたかなり「くどい」ことが多く、若いころに書かれていたような物語性の強い作品とはまた別の作品群ができあがっていったように思われます。

一介の読者にすぎない私が司馬さんのような大作家を批評するなどというのはとんでもないことなのですが、これら晩年に書かれた小説群以降の随筆のいくつかは読んだものの、どうしても興味を覚えることができません。

このため司馬さんが晩年に書かれたものは「街道をゆく」「アメリカ素描」」などのごく一部で、「街道をゆく」も全部を読んだわけではなく、自分に興味のあった「長州編」とあといくつかしか読んだ記憶がありません。

晩年の司馬さんは、1981年(昭和56年)には日本芸術院会員、1991年(平成3年)には文化功労者となり、1993年(平成5年)には文化勲章を受章するなど、文学の世界を登りつめたような感があり、そうしたきらびやかな境遇がむしろその作風をゆがめてしまったのかな、と個人的には思ったりもしています。

ちょうどこのころから、腰に痛みを覚えるようになってきたといい、当初、坐骨神経痛と本人は思われていたようですが、実はその後の直接の死因となる腹部大動脈瘤であったそうです。

それでも「街道を行く」などの取材のために、台湾にまで出かけ、当時台北で台湾総統だった李登輝との会談を行ったり、同じ「街道を行く」取材で青森の三内丸山遺跡を訪れるなど精力的な活動を続け、最晩年にはノモンハン事件の作品化を構想していたそうですが、とうとうこれに手をつけることなく、突然のようにその死は訪れました。

亡くなられた国立大阪病院は、奇しくも若かりし頃に執筆された「花神」の主人公、大村益次郎が暴漢に襲われ、その治療中に最後を遂げた場所であったそうです。

親族・関係者による密葬を経て大阪市内のホテルで行われた「司馬遼太郎さんを送る会」では約3000人もの人が詰めかけたそうなので、その数からみると当然知人ばかりではなく、熱烈なファンが多数含まれていたことでしょう。

政府からは、「従三位」が追賜されたということで、自身が「官位」を得たということを、しばしば歴史上の権力者を痛烈に皮肉っていたりしていた司馬さんはどう思われたでしょうか。

翌年に司馬遼太郎記念財団が発足し、司馬遼太郎賞が創設され、2001年(平成13年)に、はご自宅のあった東大阪市に「司馬遼太郎記念館」が開館。

6万冊に及ぶご本人の蔵書、資料、執筆に使用した書斎が晩年に使用した時のまま残されているそうで、直筆原稿、自筆の絵、色紙、加えて、眼鏡、万年筆、バンダナなどの身の回り品も展示されています。書斎は庭からも見学することができるといい、この庭は司馬さんが好んだという雑木林をイメージしたものだそうです。

記念館の展示室は、建築家の安藤忠雄さんが設計されたそうで、蔵書のうち約2万冊、及び多数の自著が高さ11mの書架に納められているということなのですが、展示室の建物奥のコンクリートの天井には、司馬さんが若いころに書かれた作品「竜馬がゆく」の主人公、坂本龍馬の肖像写真に似た「シミ」が浮き出ているということで話題になっているとか。

あまり大阪に足を運ぶ機会もないのですが、行くことがあったら私もぜひこのシミとやらを見てみたいと思っています。もしかしたら何等かのスピリチュアル的な意味があるのかしらん。

ところで、司馬さんの作品のなかからNHK大河ドラマ原作となった作品も多く、三年がかりで放映された「坂の上の雲」を含めると司馬さんの原作作品は7作品もあるそうです。

時代別にみていくと、

「竜馬がゆく」1968年 主演:北大路欣也)
「国盗り物語」1973年 主演:平幹二朗)
「花神」1977年 中村梅之助)
「翔ぶが如く」1990年 主演:西田敏行)
「菜の花の沖」2000年 主演:竹中直人)
「功名が辻」2006年 仲間由紀恵)
「坂の上の雲」2009〜2011年 主演:本木雅弘、阿部寛、香川照之

ですが、惜しいかな私は、この最初の「竜馬がゆく」だけを見ていません。それもそのはず、この当時まだ小学生であり興味がわかなかったのは当然。

しかし、その後の国盗り物語からはすべての作品を見ており、とくにこの国盗り物語が放映されていたころまだ中学生だった私はこれに夢中になり、日曜日に放映されている正規版とは別にその翌週の土曜日の午後の再放送も欠かさず食い入るように見るほどのファンでした。

ちなみに亡くなった昭和天皇もこの作品の大ファンだったそうで、スタジオ収録の訪問を希望し、桶狭間出陣前夜のシーンを直接観覧しています。

高橋英樹、松坂慶子、林隆三などに「見てるよ、見てるよ」と親しく声をかけて歓談したということで、スタジオセットの木々を見て「よく育つね」「ここで馬も走らすの」と実に楽しそうであったという逸話が残っています。

昭和天皇は、後日原作者の司馬遼太郎にも会っており、「あそこはテレビと原作では違うの?」などと質問するなど、この作品への愛着は相当のものだったようです。

私が夢中になったこの作品は、司馬遼太郎の長編小説の中でもとくに構成に破綻がなく秀作であると評されることが多いそうで、1960年代から80年代にかけてテレビでの解説でも知られた経済学者の伊東光晴氏らが1994年に選んだ「近代日本の百冊」(講談社)の中にもこの作品が入っています。

ところで、この大河ドラマとしては一番最後に放映された「坂の上の雲」に関しては、司馬さんは生前これを映像化することを嫌がっていたという逸話があります。

連載中から「本作を映像化させてほしい」とのオファーがテレビ会社各社から殺到していたというほどの人気作品だったのですが、司馬さんとしては「戦争賛美と誤解される。しかも映像ではこの作品のスケールを描ききれない」といって、頑としてこの映像化を許可しなかったそうで、NHKもそのオファーを行っていた一社でした。

NHKからの申し出を受け、司馬さんは2週間考えたそうですが、その末の結論は「やっぱり無理やで」だったといい、以後、司馬さんが亡くなるまでは映像化されることはありませんでした。

ところがその死後、NHKは「総力を挙げて取り組みたい」との希望を、この作品の著作権を相続した福田みどり夫人に申し出ます。そして映像技術の発展により、作品のニュアンスを正しく理解できる映像化が可能となったことなどを熱意をもって夫人に話したところ、夫人側も折れ、1999年には司馬遼太郎記念財団が映像化を許諾する形でOKがでます。

その後、2002年には志願したスタッフを中心に製作チームが結成され、2003年1月、大河ドラマとは別枠の「21世紀スペシャル大河ドラマ」として2006年に放送する予定が発表されました

ところが、2004年6月にこの作品の脚本作成を担当していた野沢尚氏が突然死去。

自殺でした。

この人はテレビドラマの脚本で高い評価を受け、北野武の映画監督デビュー作の脚本を手掛けたことでも知られており、1998年には第17回向田邦子賞受賞しています。

自殺の2か月前に放送されたテレビドラマ「砦なき者」では、自身の思いを表現したかったのか、登場人物によるテレビへの絶望が描かれているということで、自殺した際に知人に「夢はいっぱいあるけど、失礼します」との遺書が残されたということでした。

加えて、この作品の映像化を推進した海老沢勝二会長がこのころちょうど問題になっていたNHKの不祥事問題などを理由に辞任。と同時にこれが引き金となってNHKへの受信料不払いが相次いつぐなどの社会現象がおこります。

さらに野沢尚氏は脚本の初稿をほぼ書き上げていましたが、司馬さんをもってして「映像化は不可能」といわしめた難しい作品を仕上げるためには最新技術のCGなどの多用が予想され、制作費が高額となることが必至であったころから、NHKとしては当初のままの放映は難しいと考えるようになり、その制作体制が再検討されました。

その結果として、脚本については製作スタッフが外部諮問委員会などの監修をもとに再度見直して完成させ、全18回を1年かけて放送するという当初の予定を変更し、3部構成の全13回を2009年秋から足掛け3年で放送することに決定。

また、栄えある司馬作品ということで「冠」にする予定であった「スペシャル大河ドラマ」という呼称も改め、「大河」の文言を抜いて単に「スペシャルドラマ」という名称変更されました。

2007年暮れに茨城県つくばみらい市でクランクイン。以後、日本各地のみならず日露戦争の舞台となった中国やロシア、アメリカ、イギリス等で3年にわたるロケが行われ、2010年に愛媛県今治沖にてクランクアップしました

司馬ファンの私としても当然この作品を見ましたが、通してみた感想としては、NHKが力を入れていたこともあり、かなり出来は良かったと思います。

しかし、「大河ドラマ」としての歴史性を重視しすぎたためか、歴史的な事実の説明がくどく、その割には私的にはかなり重要と考える歴史的事実がかなりカットされていたり、しかも司馬さんが描いていた数々の「面白エピソード」のほとんどは採用されていませんでした。

とくに秋山好古率いる日本陸軍騎馬隊が、世界最強といわれたロシアのコサック騎兵団を破る、という歴史的な事実の背景と現実がかなりの部分で割愛されていたのはまったくいただけません。

また女性の視聴者を意識した結果でしょうが、司馬作品ではあまり描かれなかった主人公たちの妻や姉妹、愛人といった女性の描写がやたらに多く、そうしたシーンは安っぽいドラマによくありがちな、妙に「鼻につく」かんじでした。

さらに、通年を通して放映すべきものを3年もかけて放映されたため、当初の興味を持ち続けるのが難しい、という人も多かったに違いなく、視聴率は初年度こそ平均17.5%とと比較的高かったものの、二年目は13.5%、三年目は11.5%と低迷しました。

脚本家の突然の死や、放映直前のNHKへの社会的な不信など、その制作にあたっては絶対に実写化させないと言っていた司馬さんの怨念?だったのかと思わせるような事件も相次いでおり、放映が終わったあとも、あの段階で果たしてそこまで無理して制作する必要があったのか、という疑問も改めてわいてきます。

私としては、こんな中途半端な仕上がりになるくらいだったなら、もう一度やり直して、通常の大河ドラマ枠で、一年を通して再度作品を練り直してもらいたい、と思うのですが、過去の大河ドラマの放映状況をみる限りは、同じ原作者の同じ作品を二回繰り返すことはしていません。

なので、これっきりか、と思うと原作が司馬さんの代表作だっただけに、返す返すも残念、という思いがあります。

とはいえ、三か年目・第三部のクライマックスの日本海海戦のシーンだけは秀逸で、何度みてもそのスケール感には圧倒されます。最近のCG技術はすごい!とうなるような出来であり、さすがにこうした描写は筆致力に富んだ司馬さんの文章をもってしても表現することはできません。

司馬作品でなくてもよいから、もういちどこうした日露戦争を題材にしたスケールの大きい大河ドラマにチャレンジし、こうした最新技術を使ってぜひもう一度あの感動を再度実写化してほしいものですが、NHKさん、どうなのでしょう?

さて、菜の花忌が終わった今日このごろ、伊豆のあちこちでも菜の花が咲き始めていることでしょう。西伊豆では菜の花ばかりを植えたお花畑もあるようですから、この週末、時間がとれれば行ってみたいと思います。

菜の花の「沖」にはきっと青い駿河湾が見えていることでしょう。できればその背後に雄々とそびえる富士山が写った写真なども撮ってみたいものです。そんな場所もみつけたらまたこのブログでも紹介しましょう。

みなさんはもう菜の花を見ましたか?