坂の上のこと

2015-1040302朝から春の陽光が注ぎこみ、わたしの仕事部屋の気温もグイグイと上がってきました。

すぐ側では愛猫のテンちゃんがその陽を浴びて気持ちよさそうに眠っており、見ているだけでこちらも幸せな気分になってきます。

良い季節になってきました。桜は無論のこと、その他の木々の多くも新芽を蓄え、中にはもう早々と薄緑色の葉を広げているものもあります。

司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」の冒頭には、「まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている。」とありますが、この「開化期」を「開花期」に置き換えると、ちょうど今の季節にぴったりです。

それにしても、本来は「開化期」という言葉はないはずであり、これは「文明開化」と掛け合わせた司馬さんの造語だと思いますが、こうしたちょっとした言葉の遊びが非常に上手な作家さんでした。

物語全体のストーリーとは全く関係はないのですが、そうした言葉の一つ一つが妙に後になって心に残り、もう一度その部分だけを読みたくて読み返したりすることも多く、そこが司馬作品の大きな魅力でした。

この「まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている」の後に続く文章は以下のようになっています。

”その列島のなかの一つの島が四国であり、 四国は、讃岐、阿波、土佐、伊予にわかれている。
伊予の首邑(しゅゆう)は松山。城は、松山城という。城下の人口は士族をふくめて三万。
その市街の中央に釜を伏せたような丘があり、丘は赤松でおおわれ、その赤松の樹間がくれに高さ十丈の石垣が天にのび、さらに瀬戸内の天を背景に三層の天守閣がすわっている。”

この「首邑」という聞き慣れないことばもまたしゃれており、これは首都というような意味でしょうが、普段使いもしないくせに、自分でも使ってみようかなと思ったりもするわけで、それやこれやで、このあとどんな新しいことばやおとぎ話が続いていくのだろう、とぐんぐんと物語に引き込まれていきます。

こうした司馬作品の魅力はさておき、この作品に出てくる松山城とはどんな城だったかなと思い返しています。

広島・山口に育った私は、海を隔ててすぐ対岸にある松山には子供のころから何回も行ったことがあり、たしかこの松山城にも登ったことがあるはずなのですが、なにぶん30年以上、もしかしたらそれ以上も前のことなので、どんな形状だったかまではよく覚えていません。

が、たしか小高い丘の上のようなところにあったよな、と調べてみたらやはりその通りでした。市街のほぼ中央に位置する標高132メートルの山頂にあり、天守へのルートは、4つほどあるようです。

無論、歩いて登ることができますが、現在ではロープウェイやリフトも整備されているので、高齢者でも辿り着くことができるようです。

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明治維新後においても、本丸の城郭建築群はほとんど破却されることはありませんでした。これは、戊辰戦争のあと明治政府が断固くしようとした1873年(明治6年)の「廃城令」の際も、引き続き軍事施設として利用できるものは残そうとしたからだと思われます。

この伊予松山城という城があった松山という土地は、その昔は四国の中でも1~2位を争う大きな街でしたが、現在でも愛媛県の県庁所在地であり、四国最大の都市でもあって、戦前には商業的・政治的以外にも軍事的な要衝の地でした。

幕末には佐幕派の藩だったため、明治維新後は一時土佐藩に編入されましたが、しかし土佐藩の首邑(早速使ってみました)、高知にあった高知城なんぞは廃城になっており、その跡地は高知公園になってしまっています。

“なんぞは”、などと書くと土佐の人に怒られそうですが、四国の最南端の言ってみれば辺鄙な場所であり、ここに壮大な城を残しておいてもあまり軍事的な意味はありません。

一方では、瀬戸内海で頻繁に多数の船が通るような表通りに面した松山城のほうが軍事的な価値が高いのは当然であり、これがこの松山城が今も残っている理由なわけです。ただ、廃城令でも本丸は残されましたが、麓の城門・櫓・御殿などは解体され民間企業などに払い下げられたため、完全に往時の形が残っているわけではありません。

この城を軍事的な価値があると明治政府が考えていた証拠に、ここには1886年(明治19年)より1945年(昭和20年)にかけて、帝国陸軍の松山歩兵第22連隊が駐屯するようになりました。二之丸と三之丸は陸軍省の管轄となり、この連隊の司令部は三之丸に置かれていたようです。

しかし、さすがに本丸だけは使いようがなかったとみえ、1923年(大正12年)には旧藩主家の久松家へ払下げとなり、そのまま松山市に寄贈され、以降、松山市の所有となっています。

その後、昭和に入り、1933年(昭和8年には、放火事件がありましたが、小天守・南北隅櫓・多聞櫓が焼失したもの大天守などの大部分は無事でした。2年後の1935年(昭和10年)、天守など35棟の建造物が国宝保存法に基づく国宝に指定されました。

その後太平洋戦争が勃発。昭和20年7月26日には松山大空襲があり、被災面積約5平方キロ、罹災戸数14,300戸、罹災者 62200名、死者・行方不明者259名の被害を出し、市街地の大半は灰燼に帰しました。

松山城も天神櫓など11棟が焼失しましたが、このときも大天守などの本丸はほとんど死焼失から免れ、生き残りました。が、戦後の1949年(昭和24年)にも放火により筒井門とその東続櫓、西続櫓などが消失しており、こうしたことから国宝に指定されるほどであった価値がかなり低下しました。

このため、1950年(昭和25年)にあらためて文化財の指定を受けたときには、大天守以下21棟の建造物は「重要文化財」ということになり、少々格が下がってしまった格好になりました。

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しかし、空襲や放火によって失われたものは、写真やかつて国宝指定時に作成されていた正確な図面や写真などをもとに復元されることになり、その工事が昭和33年から本格的に始まりました。

1968年(昭和43年)には、1933年に焼失した本壇の建造物群を木造により復元されたほか、2004年(平成16年)からも大天守ほか6棟の改修工事が行われ、この工事は2006年(平成18年)に終了しました。

「坂の上の雲」の制作はその前からすでに企画されていたようで、その後この落成して生まれ変わった松山城でも多少のロケが行われたようです。ドラマのほうは2009年11月から2011年12月まで足掛け3年かけて放映されました。

この物語について、司馬さんがこれを連載執筆していた1968年(昭和43年)から1972年(昭和47年)のころからすでに「本作を映像化させてほしい」とのオファーが殺到していたといいます。

しかし司馬さんは、「戦争賛美と誤解される、作品のスケールを描ききれない」として許可せず、このときNHKもオファーを行っていましたが、この声を聞いて断念。

しかし、司馬さんの死後、熱烈なエールを司馬さんの死後設立されていた「司馬遼太郎記念財団」に送り、ついにその映像化の許諾を得ました。その後、著作権を相続していた福田みどり夫人の許諾も得て、2002年には製作チームが結成されました。

2003年には、大河ドラマとは別枠の「21世紀スペシャル大河ドラマ」として2006年に放送する予定が発表されました。この2006年というのは、上述の松山城の改修が終わった年であり、おそらくはそれに合わせようとしたのでしょう。

ところが、この企画は突然暗転します。2004年6月に脚本担当の「野沢尚」氏が自殺してしまったためです。野沢尚氏は北野武の映画監督デビュー作の脚本を手掛けたことでも知られているこの当時の人気脚本家でした。

自殺の原因は必ずしも明らかにされていませんが、その2か月前に放送されたドラマには自らの死をほのめかすかのようにテレビ業界への絶望が描かれていたといい、テレビというメディアにおける自作のありように悩んでおられたのでしょう。自殺した際には知人に「夢はいっぱいあるけど、失礼します」との遺書が残されていました。

しかし、自らの命を絶った、野沢氏は全話分の脚本の初稿を書き上げていたといいます。これをもとに作品化を進めることもできたわけですが、ところが更に悪いことに、2005年1月にはこの作品の映像化を強く推進した海老沢勝二会長がNHKの不祥事などを理由に辞任してしまいました。

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こうして作品の完成はますます怪しくなりました。司馬さんの、「絶対映像化させない」という強い思念がこうした事態を招いたのかとも思えないではありません。が、その真偽はあの世の司馬さんに聞いてみるしかありません。

さらには、このころからNHKは受信料不払いことなどから、その経営があやしくなってきており、多数のCGやVFSの利用が必要となると予想され、また出演者はいずれも人気俳優さんばかりであったため、制作費は相当に高額になると考えられました。

このため、この作品を本当に作るべきかどうかの再検討がなされ、その結果、全18回を1年かけて放送するという当初の予定を変更し、3部構成の全13回を2009年秋から足掛け3年で放送することが決まりました。

親方日の丸におんぶにだっこのNHKならではの選択といえ、単年度だけなら大枚の金をそこに投入しなければならなくなるものの、3年に分割すれば、その費用は分散できる、と踏んだのでしょう。

要はすぐには買えない高い買い物をできるだけ長期ローンで済まそうとしたわけです。あれほど良い作品をつくるから、と遺族に懇願してまで製作の権利を勝ち取ったのに、です。

この発表は2007年に行われました。が、それに先立ち前年から心配された脚本については製作スタッフが外部諮問委員会などの監修をもとに完成させており、同年1月に主要キャストとともにその内容が発表されました。

しかし、当初冠にしていた「スペシャル大河ドラマ」は後に「大河」の文言を抜いて単に「スペシャルドラマ」という冠に変更されており、例年の大河ドラマに順応していたファンには異例というか、異端な作品、というふうに思えたことでしょう。

私もこの作品は大好きな司馬作品の中でも特に好きなものだったので、こうしたいろいろないきさつがあったことは知っていたとはいえ、その映像化には大変期待していました。

そしてようやく始まった作品も毎回のように食い入るように見ていたわけですが、いかんせん、3年という長いダラダラとした放映には少々困惑しました。というよりもがっかりした、というほうが正しいかもしれません。

というのも、3年越しの3部構成になっており、その1部1部は、年末にまとめて4~5回連続で放映されるのです。1部が終わるごとに、次はどうなるのだろう、と期待しつつ、次の放映は1年後とずいぶん先になるため、まず最初にみたその部の感動が薄れてしまう、ということがありました。

次の年の年末には、既に前年に見た内容はかなり忘れており、当然どう感動したのかも覚えておらず、どうしても物語に入り込んでいけない、ということがありました。また、「人間ドラマ」としての製作に力点が置かれており、原作にあったようなダイナミックな時代背景の説明といったものが大部分省かれていた点も残念でした。

私と同じような感想は誰しもが持ったようで、その証拠に、初年度2009年の第一部全5回平均の視聴率は17.5%もあったのに、翌年の第二部では13.5%と落ち込み、さらにはクライマックスの第三部では11.5%と低迷しました。

物語の最高潮であるはずの最終回の「日本海海戦」ですらわずか11.4%という寂しさであり、こりゃーやはり司馬さんの祟りだわ、と言われてもNHKは反論できないでしょう。

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……とまあ話の流れで愚痴めいた内容になってきましたが、長年の大河ドラマファンだけに、このNHKの「仕打ち」には少々腹が立っていたので、ついつい書いてしまいました。

その後全巻がDVD化されており、レンタルショップでこれを借りてみることもできたわけですが、そこはやはりタダで見ることができるものをわざわざ金を払ってまで、というわけでこれまでこれを見る機会はありませんでした。

が、その後、私同様に全話をもう一度通してみたいとする視聴者からの反響が大きかったようで、このため番組終了から3年が経過した昨年、この作品の再放送がなされました。10月5日から今年の3月にかけて、1つのエピソードを前後編の2週に分け、合計26回に再編集したアンコール連続放送がNHK BSプレミアムにて放送されたものです。

その放送もあさって、日曜日が最後になるわけですが、無論のこと私も全編を通してこれを見ました。そして、切れ切れで見させられた前回とは異なり、やはり今回はじっくりとこの物語を堪能できました。

この作品は視聴率は低迷したものの、その制作手法を支えた技術に関して、2010年に「放送文化基金賞(放送技術分野)」というもの受賞しています。また2012年にも「第38回放送文化基金賞番組部門(テレビドラマ番組)」で本賞を受賞しています。

その制作費は、従来の大河ドラマを上回るケタ違いの規模であったとNHKは公表しており、確かに改めて見てみると、その映像は圧巻です。とくに最終回の日本海海戦の戦闘シーンは特筆すべき出来であり、私的には最近のどんなFSX映画よりも素晴らしく思えました。

その他の陸上の戦闘場面なども改めてみると素晴らしい映像が多く、またこうした戦場での場面ばかりでなく、主人公3人が過ごした伊予松山の美しい映像なども見て、改めてこの街の美しさなどを思い起こすことができました。

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冒頭で述べた松山城もさることながら、この松山という町は実に見どころの多い街です。この松山城と日本最古の温泉といわれる道後温泉は、ミシュランの観光版ではそれぞれ二つ星に選定されており、このほか四国八十八箇所の1つである石手寺もミシュラン一つ星となっており、多くの観光客を集めています。

また、しまなみ海道開通時には、しまなみブームと呼ばれるほど観光客が増加しましたが、
上述の坂の上の雲が最初に放映された中年の2010年には、その効果からか推定観光客数は588万を超えました。その後も毎年のように観光客は増え続けており、増加率は毎年3%ほどもあるそうです。

坂の上の雲の中でも登場した、俳人正岡子規や秋山兄弟のほか、文豪夏目漱石ゆかりの地でもあり、また放浪の俳人種田山頭火もその晩年をここで過ごし、ここで没しました。市のキャッチフレーズは「いで湯と城と文学のまち」ですが、その尊称に値するほどの文化都市といえると思います。

2007年(平成19年)4月には、松山城を頂く城山の南裾に「坂の上の雲ミュージアム」が開館され、多くの司馬ファンがここを訪れるようです。総工費は約30億円だといい、物語の主人公秋山好古・真之兄弟、正岡子規の3人にまつわる資料が満載のようです。私はまだ行ったことがなく、ぜひ一度訪れたいと思っています。

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ちなみに、この3人はここ松山で死んでいません。秋山好古は昭和5年(1930年)に糖尿病による心筋梗塞によって亡くなり、東京の陸軍軍医学校で永眠。享年71。また、弟の真之は、大正7年(1918年)に腹膜炎で死去、満49歳。兄弟はともに青山墓地に埋葬されています。

子規は言うまでもなく、結核で1902年(明治35年)に享年34で亡くなっていますが、二人とは異なり、東京都北区田端の大龍寺に眠っています。

秋山真之は、日露戦争当時は中佐でしたが、その後明治41年(1908年)、海軍大佐となり、大正2年(1913年)には海軍少将に昇進。さらに。明治41年(1908年)、海軍大佐となり、大正2年(1913年)には海軍少将に昇進。

その後軍務からは遠のき、日露戦争時に海軍大臣であった山本権兵衛が総理大臣になると、このとき海軍大臣になったかつての上司、八代六郎の補佐を務めたりしています。

また、孫文とも交流があったと言われ、非公式に中国の革命運動を援助なども行っていましたが、その後対中政策からは離れ、日本海軍の改革のために海外の海軍の視察などに積極的に出かけました。しかし、大正6年(1917年)、48歳で少将になったとき、海軍から足を洗い、市井に戻りました。

この退官前後から心霊研究や宗教研究に興味を持つようになり、このころ軍人の信仰者が多かった日蓮宗に帰依するとともに、神道家の川面凡児などに師事して神道研究をも行っていました。

しかし、大正6年(1917年)に5月に虫垂炎を煩って箱根にて療養に努めましたが、翌大正7年(1918年)に再発。悪化して腹膜炎を併発し、2月4日、小田原の友人宅で亡くなりました。この友人宅というのは、対潮閣という別荘で、所有者は「山下亀三郎」といい、山下汽船(現・商船三井)・山下財閥の創業者です。

勝田銀次郎、内田信也と並ぶこの当時の三大船成金の一人で、同じ四国は伊予の宇和島出身だったことから真之と親しくなったようです。また、真之が海軍軍務局長をやっていたころに、いろいろと仕事の面でも融通してやったことは想像に難くなく、年齢も真之よりひとつ上なだけで、いろいろと分かち合えるところがあったのでしょう。

日露戦争前、山下は秋山から、「開戦近し」の情報を入手していたといい、戦争になると民間船舶も徴用されることから、これを大量に購入しました。実際、戦争になると買ったものを海軍相手に売りさばき、徴用船となると一般の価格よりも有利であることから、これでかなりの儲けを得たようです。

そうしたこともあり、真之は晩年にはかなりこの山下の世話になっていたようで、その別邸である対潮閣に一室を貰い、死去直前に教育勅語や般若心経を唱えていたといいます。

しかし、退官後わずか1年で亡くなりました。兄の好古とは違ってあとくされのない一生であり、海軍という大組織の育成にその一生を捧げた彼にふさわしいといえばふさわしい最後です。

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一方、あとくされのある兄の好古のほうは日露戦争後も64歳になるまで陸軍で働き続けました。この間、明治42年(1909年)に50歳で任陸軍中将、大正5年(1916年)陸軍大将。大正9年(1920年)には、教育総監となり、陸軍三長官の内の一人にまで上り詰め、また軍事参事官を併任しました。

その3年後の大正12年(1923年)には、元帥位叙任の話もあったといいますが、本人が固辞し、それと同時に退官。翌年には松山に戻り、私立北予中学校(現在の愛媛県立松山北高校)の校長に就任しました。

予備陸軍大将、それも三長官まで上った者の仕事としては例のない格下人事といえるわけですが、本人の強い希望だったと言われます。

しかし、昭和5年(1930年)、71歳でこの校長も辞任しましたが、これはこのとき患っていた糖尿病が悪化したためと思われます。

ほどなくその治療のために、より医療設備の整っている東京陸軍軍医学校に入院。しかし、筋梗塞により11月4日にここで永眠。墓所は東京港区の青山霊園ですが、のちに有志により松山市の鷺谷墓地にも分骨されました。

晩年は教育にその身を捧げましたが、陸軍時代にも教育総監を勤めるなど、早くから教育に興味があったようです。福澤諭吉を尊敬していたそうで、自身の子のみならず親類の子もできるだけ慶應義塾で学ばせようとしたといいます。

海軍退官後は、自らの功績を努めて隠していたともいい、校長就任時に生徒や親から「日露戦争の事を話して欲しい」「陸軍大将の軍服を見せて欲しい」と頼まれても一切断り、自分の武勲を自慢することは無かったそうです。

中学校長時代は、「学生は兵士ではない」とし、学校での軍事教練を極力減らしたとも伝えられており、戦争を経験し、その中で多くの部下を死なせていった者だけが知る苦悩があったのではないかと推察されます。

弟の真之は兄よりは短い生涯でしたが、心霊研究や宗教に走ったということはやはり自分が経験した戦争の中で何かむなしさのようなものを感じていたに違いありません。

そんな二人が育った松山の地を再び訪れることができるのはいつのころだろうか、と考えてみたりします。静岡からはおよそ1000キロ。飛行機で行けばなんのことはありませんが、各種高速道路が整備された現在ではクルマで行くことも不可能ではありません。

これからの季節、久々に四国の地を訪れるのも悪くはないな、と思ったりもしています。松山城下に咲く桜はいまどんなかんじでしょう。飛び梅ならぬ、飛び桜になって静岡までやってきてくれないものでしょうか。

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