金の切れ目は……

東京以北では厳しい残暑が続いているようですね。改めて残暑お見舞い申し上げます。去年までは、やはり私も東京にいて、その暑さで辟易していましたから、その辛さはわかります。

先日、同じ別荘地内の方が亡くなり、お悔やみを申し上げたばかりなのですが、このときふと思ったのは、もしかしたら暑い夏には死亡率が高いのかな、ということ。

気になったので調べてみると、厚生労働省(厚生省)が1947年から2005年までとった統計では、6~9月の死亡率はそれほど高くなく、人口千人に対して7人(0.7パーセント)前後で、最も低いのは9月ということでした。

逆に1~3月の冬のほうが死亡率は高く、だいたい0.9~0.95パーセントで、もっとも高いのが1月でした。

夏のほうが死亡率が高い、と私は思い込んでいましたが、なぜ夏のほうが死亡率が低いのでしょうか。おそらくインフルエンザや肺炎といった寒い時期ならではの病気が多いためなのでしょうが、もしかすると、夏の暑さは逆に健康増進のためにプラスになっているのかも……

そう考えるとこの暑さも少し和らぐのではないでしょうか。暑さ寒さも彼岸まで。涼しくなるのもあと少しです。がんばりましょう。

さて、それでは昨日の続きを書いていきましょう。

近代的金山開発

伊豆の諸金山は長安の導入した新技術によって生産量を飛躍的に増大させていきました。特に土肥金山は、海に面していたため、採掘した金をすぐに船に積み込んで運ぶことができ、周辺の金山からも鉱石が集約されたため、拠点として大いに繁栄しました。

我々が住む修善寺のすぐ隣の大仁にも、「大仁金山」と呼ばれる金山がありましたが、ここから採掘された金も土肥まで運ばれ、船で積み出されました。

1607年(慶長12年)、家康は将軍職を息子の秀忠に譲り、自らは大御所として駿府に移り、ここから全国の諸大名をコントロールするようになります。こうして新時代を迎えた徳川幕府の財政を支えたのが、伊豆の金山から産出された金だといわれています。

江戸時代に流通した慶長大判・小判の多くが、土肥から駿府まで船で直接搬送され、そこで鋳造された金でつくられたのです。

伊豆で開発された金山としては、土肥金山やさきほどの大仁金山のほか、伊豆天城鉱山(西伊豆町)、縄地金山(河津町)、蓮台寺金山(下田市)、伊豆猪戸金山(下田市)、清越金山(土肥町)などがあり、その中でも土肥金山の産出量はとびぬけており、日本でも指折りの金山のひとつでした。

これらの金山の多くは大久保長安が金山奉行になってから開発されたようですが、このように数多くの新しい金山が運営されるようになったのは、その採掘法が大きく改良されたためでもありました。

それ以前の鉱山の採掘法といえば、金鉱の一部が露出している山腹の露頭部を探しだし、その直下に抗口を開け、斜めに地下の富鉱部を求めて掘り進むという単純な方法でした。斜めに掘り進むだけの工法のため、最後は穴の底に湧水が貯まり、採掘を中止に至るというのが常で、水が貯まった坑道は放棄して、次の穴を掘るという不効率さでした。

これに対し、長安が考案した採掘法は、山腹の一番下に横掘坑道(立入)を掘削し、同じ高さで掘り進むことによって金鉱脈に達するというものです。その後主流となる「横掘法」という掘り方であり、坑内の湧水を排出するための水抜法についても長安は研究を重ね、こうした新技術の開発に力を注いだ結果、その産金量は大きく増大することになりました。

さらに、1609年(慶長14年)、イエズス会の宣教師たちが、母国から水銀を使う「アマルガム金製錬法」の技術を日本にもたらします。

この製錬法では、まず、粉砕した金鉱石をさらに微細な粒になるまで挽き、これに水を加えて練り、水銀とともに撹拌することで鉱石中の金銀が水銀に溶け込ませます。これを、これをキューペル皿(骨灰やポルトランドセメント、酸化マグネシウムの粉末などで作った皿)にのせて加熱すると、水銀が蒸発し不純物がキューペルに吸収されたあとに金銀の合金が得られるのです。

それまでの精錬方法は、細かく砕いた鉱石から数多くの不純物が含まれる金銀分を取り出し、鉛とともに炭火で溶かして、金銀と鉛の合金を作ります。その合金を灰を敷いた鍋の中で熱すると、最初に鉛が溶けて灰にしみ込み、金銀だけが残るという方法で、「灰吹法」と呼ばれていました。

アマルガム法に比べると金銀抽出の効率が悪く、また不純物が大量に出来上がった生成物に残ってしまうという欠点がありました。

アマルガム法が導入されるようになり、金の実収率が飛躍的に改善されたため、土肥金山はその後さらに隆盛を極め、本邦随一の金山とまで称されるようになり、こうして土肥鉱山の第一期黄金時代が形成されるに至ります。

明治時代以降

しかし、日本屈指の金山として多くの金を産出した土肥金山も1620年ころには、産出量が枯渇しはじめ、1625年(宝永2年)に休山に至ります。その後の江戸時代にも、再開発の作業がたびたび試みられていますが、記録に残るような成果はなく、再び開山されることはありませんでした。

土肥の町はその後も伊豆各地の金の集積地として存続し続けていましたが、土肥金山から金が産出されなくなったことから、町(村)のにぎわいも衰退の一歩を辿っていました。

明治期に入っても、土肥金山はあいかわらず閉鎖されたままでしたが、1906年(明治39年)、神戸の実業家、長谷川銈五郎(けいごろう)がヨーロッパの技術者を招き、閉鎖されていた土肥金山のふたを開け、探鉱を行ったところ、かなりの金が埋蔵されていることを発見します。

そして、長谷川がその開発に成功すると、土肥金山はふたたびその名声を高め、第二期黄金時代を築くことになりました。長谷川は、1917年(大正6年)に企業形態を「土肥金山株式会社」に改め、金山の開発操業のために最新式の機械と新技術を導入して、高品位な金鉱石の効率的な採掘を行いはじめました。

さらに、長谷川は、金以外にも銅の製錬事業にも着手し、銅の精錬に欠くことのできない珪酸鉱という鉱物の長期売鉱契約を、住友財閥の鉱山会社、住友鉱業と結びます。そして銅の売買で多額の利益を上げるなど、「土肥金山株式会社」を本邦第二位の金山会社、といわれるまでその地位を引き上げました。

ちなみに、「本邦第一」は佐渡金山を有する三菱合資会社です。佐渡金山は、江戸時代には既に産出量が激減していましたが、明治以降に三菱に払い下げらた後も採掘が続けられ、それなりの産出量を誇っていました。

佐渡金山の閉山は、1989(平成元)年でしたが、1601年の初掘からこの年までの388年間に採掘された金の総量は、諸説ありますが、76トンから83トンだといいます。

これに対して、土肥金山の金の累計産出量は推定40トンだそうで、佐渡金山の産出量の約半分にすぎませんが、それでも他の金山を圧倒する産出量だったといいます。

長谷川は、その後も神戸で摩耶鋼索鉄道という鉄道会社の経営にも乗り出し、六甲山に「六甲山ケーブル」を敷設するなど観光開発も行うなど活躍しましたが、1931年(昭和6年)に死去。

長谷川氏が亡くなったあと、土肥金山株式会社は、1942年(昭和17年)住友鉱業の傘下に入り「土肥鉱業株式会社」と改名しましたが、第二次世界大戦後、1947年(昭和22年)、住友の系列を離れて独立し、再び土肥周辺の探鉱を始めました。

土肥の中心を流れる恋文川(土肥山川)より北側の開発なども行われましたが、有望な鉱脈を発見するには至らず、金の産出量はその後次第に減少していきます。その後、1959年(昭和34年)には、三菱金属株式会社(現三菱マテリアル(株))がその再興に乗り出しますが、やはり高品位の金鉱石を産出することはできませんでした。

そして固定価格制度によって、金の価格が安くなっていったこともあり、1963年(昭和38年)、長い歴史を誇った金山としての採掘を中止し、翌1965年(昭和40年)、ついに本邦有数の金山として君臨した土肥金山は閉山しました。

しかし、土肥鉱業株式会社そのものは、その後も経営を継続し、1972年(昭和47年)、再び社名を変更し、今度は、「土肥マリン観光株式会社」となって観光事業会社として再出発します。

この土肥マリン観光株式会社が運営しているのが、鉱山の跡地を利用した博物館です。歴史的遺産である坑道の一部を改造し、江戸時代の坑内作業風景が理解できるように電動人形などが配され、一般に公開されています。

大久保長安のその後

家康に見いだされ、幕閣きっての能吏として実力を発揮し、徳川初期の財政を一手に支えるほどの貢献をした大久保長安でしたが、晩年に入ると、全国鉱山からの金銀採掘量の低下から次第に家康の寵愛を失っていきました。

金の切れ目が縁の切れ目といいますが、家康に嫌われるようになったのは、その素行にも問題があったのではないかと言われています。

長安は無類の女好きだったそうで、金にモノを言わせて側女を70人から80人も抱えていたと言われています。金山奉行になったころから派手好きとして知られるようになり、かなり贅沢な暮らしぶりだったようで、死後、自分の遺体を黄金の棺に入れて華麗な葬儀を行なうように遺言したという話まで残っています。

このような派手な出費ぶりが家康に長安の不正蓄財の疑いを抱かせたともいわれており、さらに、長安は、家康より伊達政宗のほうが天下人にふさわしいと考え、政宗の幕府転覆計画に賛同していたのではないかという話もあるようです。

やがて、美濃代官をはじめとする代官職を次々と罷免されていくようになり、さらに正室が早世するなどの不幸も相次ぐ中で、1613年(慶長18年)脳卒中のために死去しました。享年69才。

その死後、幕府に目をつけられるようになっていた大久保家では、無論黄金の棺などは作られませんでした。しかもそれだけではなく、長安の死後、生前に長安が金山の統轄権を隠れみのにして、不正蓄財をしていたという理由でお咎めを受け、大久保家は蟄居を命じられます。

そして、厳しい詮議の末、長安の不正蓄財が事実であったとされ、長安の七人の男児は全員処刑、縁戚関係にあった諸大名も連座処分で改易などの憂き目にあいました。さらに、家康は埋葬されて半ば腐りかけていた長安の遺体を掘り起こし、安倍川の川原で斬首して駿府城下で晒し首にまでしています。

また、長安の庇護者であった大久保忠隣らも後に失脚しました。しかしこれは、当時の幕府の二大実力者である、大久保忠隣(秀忠側近)と本多正信・正純父子(家康側近)の対立のためであったのではないか、と言われています。

長安が不正蓄財を行っていたというのも本多側の陰謀で、幕府内における権勢を盛り返そうと図っていた本多正信・正純父子がでっちあげたのではないかというのです。

しかし、長安の財力と権勢を徳川家が警戒していたことは事実であり、その粛清は、不正を行い易い他の代官に対する見せしめの意味もあったのではないかと言われています。

一般市民には厳しい税を課し、おいしい汁は自分だけ吸う役人……、いつの世にも同じような光景が繰り返されてきましたが、いまもそのような役人がはびこっているとしたら、それこそ見せしめに斬首にしてほしいところです。

先日、土肥の浜で行われた土肥金山で亡くなった方々の魂の慰霊祭に参加してきましたが、この方々は、このように権勢を誇った大久保長安が、不正な蓄財をしていたことを知っていたでしょうか。もしかしたら、彼らが一生懸命金山で働いて作った金を横取りし、それをもとに土肥の町で女を囲い、豪遊していた長安の姿は、鉱夫の間で噂になっていたのかもしれません。

そして、安い賃金でこきつかわれた鉱夫たちは、長安らの不正役人を恨みながら死んでいき、そのためにその霊は浮かばれずにこの世に留まっているのかもしれないのです。

しかし、土肥金山で浮かばれずにそこにとどまっていた霊たちの何体かは、先日の我々の祈りであちらの世に安んじて旅立って行ったことでしょう。慰霊祭のあとに4度もかかったという虹がそれを物語っています。

それにしても、その虹を渡って成仏した霊たちは、あちらの世で長安の霊に出会ったでしょうか? 出会ったとしたら、長安に恨みのひとつやふたつは言ったかもしれません。

ただ、長安がこの人たちの霊が行くような高い次元の世界にいるとは限りません。もしかしたら、この世にいたころの素行が祟り、今もずっと低い、地獄に近い次元にいるかもしれないからです。

お金は生きていく上では大事です。けれどもそのために、死してまで苦労するようなお金の使い方はくれぐれもしないよう、気をつけましょう。

天正金鉱

先日、広島のご神職Sさん主催の地震鎮めのお祈り会に参加したのは、伊豆西海岸の土肥でのことでした。

この土肥ですが、その昔は「土肥金山」で潤った町で、「土肥温泉」として知られています。金山を開発中の江戸時代に、街中にあった坑口から突然お湯が湧き出したのが始まりだそうで、その源泉は、発見者の「間部(まぶ)彦平」にちなんで「まぶ湯」と名づけられ、現存しています。

このまぶ湯があるのは、土肥の町の中心を流れる恋文川(なんとも洒落た名前ですが、由来は不明、別名、土肥山川)の北側、山の手にあるお寺の裏山あたり。このお寺、「安楽寺」は1534年(天文3年)に創建されたと云われている曹洞宗の古刹であり、これもまた土肥観光の一つの名所になっています

「まぶ」とは坑道を意味しているそうで、幕府の金山奉行の「大久保長安」が伊豆の金山奉行として赴任してきたとき、このお寺の裏山に坑口を開けさせたものです。その当時の安楽寺の住職は「隣仙」という名前の和尚さんでしたが、坑道を掘る鉱夫たちや土肥村の人々に大変慕われていたといいます。が、あるとき、このご住職は重い病に倒れます。

「間部彦平」という人物は、苗字が記録されているところをみると、どうやら大久保長安の部下で、金の採掘の現場主任クラスの人だったと思われます。この人物も隣仙和尚を敬仰していたとみえ、住職の治癒を願い、薬師如来に願掛けをはじめました。そして、彦平らが願掛けをはじめて21日目の夜、彦平の枕元に薬師如来が現れ、坑口を掘ってみよ、と告げられます。

彦平が言われたとおりに、坑道の入口付近を鉱夫たちに掘らせてみたところ、地中からみるみる熱いお湯が噴出してきました。このころには伊豆のあちこちで温泉がみつかっており、これに浸かると病気が治ると聞かされていた彦平は、早速、隣仙和尚にもこの湯につかってみてもらうことにします。すると、和尚の病はみるみるよくなり、もとのように元気になったということです。

これが、1611年(慶長16年)のことで、以来、村人や鉱夫だけでなく、近隣の村々からも多くの人々が湯治に訪れるようになりました。

現在、まぶ湯の傍らには「湯かけ地蔵」というお地蔵さんが据えられていて、この地蔵さんにお湯をかけると無病息災の霊験があると云われています。

土肥金山はその後、日本屈指の金山として、多くの金を産出しましたが、江戸初期の1620年ころには、早くも産出量が枯渇しはじめたため、1625年にいったん休山。そして、明治の終わりごろになって、新しい掘削技術が導入されたことから、また新な採掘がおこなわれるようになります。このころから、温泉のほうも着目されるようになり、現在の形の温泉街の開発がスタートしました。

現在、土肥には、遠浅で両側を岬に囲まれた天然の海水浴場があり、この海水浴場の背後にホテルや旅館が立ち並ぶほか、土肥の旧集落内にも共同浴場がいくつかあって、これら共同浴場のある街中にも宿泊施設が点在します。

恋文川の河口付近の左岸側には、「世界一の花時計」を中心にした「松原公園」が整備され、ここにある観光案内所のすぐそばには足湯も設けられるなど、観光には力を入れており、土肥金山として江戸時代に栄えたことから、温泉街にはそれに関連した観光名所があちこちにあります。

松原公園や町の中心を流れる恋文川沿いには、河津桜ならぬ「土肥桜」が植えられていて、2月下旬~3月上旬にはそのピンクの花で観光客の目を楽しませてくれるそうです。我々もまだ見たことがありませんが、修善寺からは近いので、来年ぜひ見に行ってみたいと思います。

土肥金山ことはじめ

土肥金山の坑道跡は土肥観光の目玉のひとつで、明治時代に閉鎖された坑道跡を改造して博物館として公開されており、江戸時代や明治時代の採掘の様子などが再現されています。

江戸時代に大久保長安らが行った金鉱開発に先立つこと50年ほど前の天正5年(1577年)に開発されたことから、「天正金鉱」とも呼ばれています。北条氏(後北条氏)の配下の富永政家という人物がおり、この手代で、市川喜三郎という人が、土肥で本格的に金山の開発を行った最初の人物だそうです。

しかし、一説によると、これをさらに遡ること200年前の1370年代、足利三代将軍、義満のころには、既に盛んに金銀が掘り出していたとも言い伝えられています。1370年代というと、室町時代の初期であり、このころ伊豆を守護領国としていたのは、室町幕府から関東管領に任命されていた畠山清国です。

この清国は初代鎌倉公方の足利基氏と仲が悪く、鎌倉を追い出されたために、その領地の伊豆へやってきて反鎌倉の旗揚げをします。しかし援助を頼んだ伊豆の諸豪族からはそっぽを向かれ、逆にかれらに攻め滅ぼされて失脚。伊豆は、小豪族がひしめく無政府状態になっていました。

しかし、そんな状況の中で誰がいったい土肥で金を採掘していたのでしょうか。

畠山清国が失脚したあと、二代目鎌倉公方、足利氏満のころには政権がようやく安定してきましたが、この鎌倉公方足利氏の傘下にあって、このころから歴史に名前がよく出てくるのが、駿河国駿河郡大森(現静岡県裾野市)より起こったという大森氏です。

駿河の国の東から箱根道に連なる交通網の拠点を押える実力者として室町幕府に認められるようになり、関所などを実質的に采配するこの地方の長者といわれていましたから、金を採掘していたのは案外とこの大森氏あたりかもしれません。が、憶測にすぎず、このころ実際に誰が金を掘って潤っていたのかは歴史的にも空白です。

その後、16世紀後半までには、伊豆は北条早雲によって平定され、土肥も北条氏の領地となったため、土肥金山も北条氏が管理していたと考えられます。しかし、1590年(天正18年)に北条氏が豊臣秀吉の小田原城攻めによって滅びると、その際、土肥だけでなく、ほかの伊豆の金山も秀吉の軍隊に蹂躙され荒廃してしまったようです。

伊豆はその後、豊臣秀吉によって関東地方へ移封された徳川家康の知行地となり、このため土肥金山は家康の管理下に入ります。

そして、やがて豊臣家に反旗を翻し、関ヶ原の戦いで勝利した家康は、疲弊した徳川家の財政を賄うために積極的に金山の開発を進めるようになります。

1601年(慶長6年)、家康の命を受けた家臣の彦坂元成という人物が、伊豆の金山奉行を拝命しました。しかし、ぼんくらだったらしく、鉱山開発には着手したものの、あまり金を産出できず、五年後の1606年(慶長11年)に罷免され、子供や弟とともに改易されて没落しています。

大久保長安

そこで、次に家康が土肥金山の開発者として金山奉行に任命したのが、大久保石見守長安です。大久保長安は1606年(慶長11年)に全国の金山を司る金山奉行を拝命するとともに、伊豆奉行も拝命して本格的に伊豆金山の開発に取り組むことになります。

長安は、もともと甲州武田氏配下の猿楽師、「大蔵太夫新蔵」という人の次男で、1545年(天文15年)に生まれ、幼名を籐十郎といいました。父の新蔵は猿楽師としてだけでなく、武士としても優秀な人間だったらしく、数々の戦場で武勲をあげ、その功により信玄の家臣の土屋右衛門尉直村から土屋の姓を与えられ、土屋新之丞と名乗るようになります。

次男の藤十郎も蔵前衆(金銀・米穀や税を司る役人)として取り立てられ、やがて武田領国における黒川金山などの鉱山開発や税務などに従事するようになります。

その後、織田信長・家康連合軍に武田氏が攻め滅ぼされ、父の新之丞は長篠の戦で亡くなります。藤十郎は、武田家が滅亡する少し前から、信玄の息子の勝頼に疎まれるようになっており、長篠の戦があったころには武田氏を自ら離れて猿楽師に戻り、三河国に移り住んでいました。

家康が甲州武田家の征伐に向かったとき、奇しくもその逗留の仮館を建設したのが藤十郎だったといわれています。この時、家康がその館で藤十郎の作事をみて、その才能をひと目で見抜き、仕官をするように語りかけたそうです。

また、一説では家康の近臣で、旧武田家臣の成瀬正一が、藤十郎は信玄にも認められた優秀な官僚であり、金山に関する才能に恵まれているので重用されてはいかが、と家康に進言したため、家康もその気になって彼を召し抱えるようになったのだともいわれています。

いずれにせよ、藤十郎は天下人の家康の目にも止まるような非常に目端の利く青年であったようです。さらに家康に推挙され、その重臣、「大久保忠隣(ただちか)」に仕えることになります。忠隣は、その後二代将軍秀忠を支えた重臣として歴史にその名前を刻まれる人物です。

藤十郎はその大久保にも認められるようになり、やがて主人の大久保の姓を許されて大久保十兵衛長安と名乗るようになり、忠隣の懐刀として活躍するようになっていきます。

1582年(天正10年)6月、本能寺の変で信長が明智光秀に反旗を翻されて死去すると、信長の領地であった甲斐は、事実上、家康の領地となりました。しかしこの当時の甲斐国は、武田家が滅亡したあとの混乱がまだあとを引いており、治世は乱れに乱れていました。

そこで家康は、側近の本多正信と伊奈忠次を所務方に任じ、甲斐国の内政再建を命じました。しかし、このとき実際に所務方として実務に携わり、実質の再建を行なったのは長安であるといわれています。長安は甲府市内を流れる、釜無川や笛吹川の堤防復旧や新田開発に尽力するとともに、金山の開発も行い、わずか数年で甲斐国の内政を再建したそうです。

こうした功もあり、1603年(慶長8年)、家康が将軍に任命されると、長安も従五位下、石見守に叙任され、家康の六男・松平忠輝の附家老に任じられるとともに、以後、大久保石見守長安と名乗るようになります。

さらに同じ年の7月には佐渡奉行に、12月には所務奉行(後の勘定奉行)に任じられ、同時に年寄(後の老中)にまで列せられます。

そして、1606年(慶長11年)、ついに長安は、金山奉行兼、伊豆奉行に任じられ、全国の金銀山の統轄や、関東における交通網の整備、一里塚の建設などの一切を任されるなど、幕府きっての実力者に上り詰めるのです。長安58才のころのことです。

長安は甲州で金山の開発に携わっていた経験から、鉱山の知識が豊富で、西洋から学んだ最新の採掘法やアマルガム法という、最新の製錬技術なども駆使して従来の鉱山技術を一新し、これまでにないほど大量の金を生み出すことに成功します(この項、長くなりそうなので、明日へ続けます……)。