ポストを愛すと…

2014-1100892今週から、一週間は「ポスト愛護週間」だそうです。

今週末の4月20日は、日本で初めて郵便制度が始まった日ということで、逓信記念日=郵政記念日となっているようで、このため郵政省と全国郵便切手販売協会が、郵便ポストを大切にし、お客様とポストの親近感を深めようとこの一週間をそれに充てることに決めたということのようです。

ポストを愛護するってどうするんだろーなー、雑巾がけでもしてやるんかい、と突っ込もうと思ったら、本当にこの一週間のあいだは全国でポストの清掃活動などをやるようです。ただし、これは必ずしも郵便局員がということではなく、地元の小学校の児童などがボランティアでやるのだとか。

また、「ポスト感謝祭」なるものを開催する地域もあるそうで、こちらはもっと小さな幼稚園や保育園の子どもたちが郵便局へ行くか、逆に郵便局員さんがこうした施設にやってきて、いろいろな交流行事をやるのだそうです。

郵便局員が持ってきた臨時のポストに園児たちが、自分で書いたハガキを投函したり、その「ポストさん」へ手作りの帽子を作ってあげたりし、「真っ赤なお顔のポストさん、雨の日も雪の日も頑張ってくれてありがとう。これからもよろしくね」という子ども達の言葉に対して、ポストさんもさらに顔を真っ赤にして喜ぶのだといいます。

近代日本の郵便制度改革は、明治維新で開催されるようになった議会において、それまでは東京~京都~大阪間の政府の手紙等の配達に毎年1500両が幕府から支出されていたのを改め、政府の公的な手紙配達に併せて民間の手紙配達も行い、これによって利益を出そうという提案が前島密から出されたことに始まります。

この前島密(ひそか)という人は、日本の近代郵便制度の創設者といわれる人で、今も現役で使われている1円切手の肖像でその顔が知られています。「郵便」や「切手」、「葉書」という名称を定めたのもこの人で、その功績から「郵便制度の父」と呼ばれています。

天保6年(1835年)に越後国(現在の新潟県上越市)の豪農の子として生まれましたが、父が間もなく亡くなり、母方の叔父の糸魚川藩医に養われるようになったことで、この医家でその後の教養の基礎を身につけることになりました。

結構な神童だったらしく、わずか12歳で江戸に出て医学を修め、蘭学・英語を学んでおり、23歳のときには航海術を学ぶため箱館へ行くなど、このころの最新の知識をふんだんに摂取しながら成長しました。

30歳のときには既に蘭学者として著名となっており、薩摩藩の洋学校(開成所)の蘭学講師となりましたが、ちょうどそのころ、幕臣前島家の養子となり、家督を継ぐようになりました。この前島家は結構格の高い家だったようで、そのため前島も幕政にも口をさし挟めるほどの立場になりました。

このころ、教育の普及のためと称して、漢字を廃止し平仮名を国字とすることを主張した「漢字御廃止之議」を将軍・徳川慶喜に提出していることなどもそのひとつの表れです。

漢字を廃止するなんて無茶苦茶な、と思われるかもしれませんが、現在において漢民族を主な住民としない国で漢字を使っているアジアの国は日本だけであり、朝鮮半島およびベトナムなどでもすでに漢字の使用は事実上消滅しています。

その理由としては自国の独自文化を重んずる外来文化の排他運動の一面もありますが、もっと実用的な側面として、漢字が活字印刷の活用、とりわけ活版印刷において決定的な障害となっていたことなどが挙げられます。

確かにワープロの変換作業などにおいて漢字を使いながら文章を綴っていくという作業は、かなりしんどいものがあり、ましてはや手書きともなると、これはかなり高度な技術活動です。かつて私も英語を使って生活をしていた時代には、あー26文字しかない英語ってなんて楽なんだろう、と実感したこともありました。

が、これだけ複雑な文字と仮名を合わせて繊細な表現をすることのできる日本語というのは世界に類をみないほど美しい言語であり、かつそれを自由自在に操ることができるからこそ日本人は頭がいいのだ、と主張する人もいることは確かです。

前島が漢字撤廃を提唱したのは、漢字を書いたり印刷する手間を省き、国政を効率化させたい、ということが理由だったようですが、最近はコンピュータ等による漢字変換技術も進んでいることから、手書き原稿を前提とした漢字制限・字体簡略化論はその有効性を失っており、こうした漢字廃止論もあまり議論されることがなくなりました。

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とまれ、そうしたワープロやタイプライターもない時代に、この前島密という人は、漢字の有効性についての議論を世に問うたという点などをみても、非常に先進的な頭脳を持った人とであった、ということは想像できます。

幕臣の立場であったために、明治維新が起こった直後には政府に登用されませんでしたが、そうした先進性が認められ、明治2年(1869年)には明治政府の招聘により、民部省・大蔵省に出仕することになり、これを機会それまで前島来輔と名乗っていた名前を、密に改名しました。

なぜ、密という名前にしたかについては、よくわかりませんが、この漢字の持つ意味としては、「秘密」という言葉があるように、ぴたりと閉じて外から見えない、あるいは人にわからぬように隠しているさまを指します。

が、これとは別に「深く閉じて人の近づけない山」といった意味もあるようなので、そうした奥深い人物になることを願っていたのでしょう。

翌年の明治3年(1870年)には、「駅逓権正」となりますが、これは翌年郵便事業が発足した際に設定された「駅逓頭」すなわち、のちの郵政大臣に次ぐ、ナンバー2の地位です。前島はこの立場において太政官に郵便制度創設を建議し、この年にはまた郵便制度視察のために渡英しています。

こうして1871年(明治4年)4月20日に我が国の郵便事業はスタートしましたが、この郵便事業は宿駅制度をつかさどる「駅逓司」という省庁の所管でした。その初代駅逓頭には浜口梧陵という人がなり、こちらはヤマサ醤油の創業者としても知られています。

津波から村人を救った物語「稲むらの火」のモデルとしても知られ、以前このブログでも取り上げたことがあります(自己犠牲とてんでんこ)。

この初代駅逓頭への就任は、大久保利通の要請によるものでしたが、次官になった前島密との確執もあって、浜口は半年足らずで辞職し、その後継指名を前島が受けました。

近代郵便事業の展開が本格的になされるようになったのは、この第2代駅逓頭となった前島密の代からです。当初駅逓司は民部省に所属していましたが、その後大蔵省・内務省・農商務省と転々と所属が変わる度に組織が大きくなり、この間に「駅逓寮」「駅逓局」と昇格していきました。

そして、1885年(明治18年)に逓信省が設立されると「駅逓局」、すなわち現在の郵便局はその所属となりました。つまり、この逓信省は、2001年に廃止されることになった郵政省の前身ということになります。

明治4年(1871年)には駅逓頭になった前島は、その後の日本の近代的郵便制度の基礎を確立していきましたが、このほかにも数々の民間企業の設立にも関与しており、現在の日本通運株式会社の元となる「陸海元会社」を設立するとともに、郵便報知新聞、すなわち現在の「スポーツ報知」の設立にも関わっています。

明治11年(1878年)には、元老院議官となり、その翌年には内務省駅逓総監に任じられるなど、文字通り郵政一筋の人生を歩みましたが、明治14年(1881年)憲法制定・議会開催が争点となった、いわゆる「明治十四年の政変」においてはイギリス流の議会体制を推し進めようとしていた政府主筋と対立して辞職。

大隈重信らとともに立憲改進党を創立するとともに、大隈が設立した東京専門学校、すなわち現在の早稲田大学の、二代目校長に就任(初代は大隈)。また関西鉄道会社社長するなど、官を辞したのをこれ幸いと、現在までも続く数多くの民間機関の創設に関わりました。

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しかし、明治21年(1888年)には政府に請われて逓信次官に復職。明治24年(1891年)に退職するまでの間に官営電話交換制度にも着手し、これはのちの電電公社、現在のNTTの発展にもつながっていきました。

こうした功績に対して明治35年(1902年)には、男爵の称号が授与され、明治38年(1905年)には、貴族院議員にも選任されましたが、大正8年(1919年)、神奈川県の三浦半島にあった別荘にて没。84歳の大往生でした。

この前島密が1871年(明治4年)に導入した郵便制度はイギリスのものを手本としており、東京~大阪間62箇所の郵便取扱所に集積された郵便物を官吏が引き受けるというものでした。

管理・配送時間は厳しく守られ、従来の飛脚は丸笠をかぶった郵便配達員に取って代わられ、東京~大阪間144時間だったのを78時間に短縮しました。翌1872年には全国展開が図られ、江戸時代に地域のまとめ役だった名主をほとんど無報酬で要請・任命し、彼らの自宅を郵便取扱所として開放させました。

1873年(明治6年)には全国約1100箇所の名主が新たな国の役割を担える郵便取扱所として自宅を使うことを快諾し、それまでの主流であった飛脚やかごはやがて姿を消していきました。

しかし明治4年4月に日本の郵便事業が始まった当初は特に定められた徽章はなく、「郵便」の文字だけでした。このため明治10年(1877年)からは、「日の丸」をイメージした大きな赤丸に太い横線を重ねた赤い「丸に一引き」が郵便マークとして用いられ始め、「丸に一引き」は郵便配達員の制帽・制服・郵便旗などに記されるようになりました。

明治17年(1884年)6月23日太政官布達第15号により、この「丸に一引き」は正式に「郵便徽章」と定められましたが、その翌年の明治18年(1885年)には郵便等の所管官庁として正式に「逓信省」が創設されました。

これを契機に、この徽章も国際的にも認められるようなよりセンスのいいものに改めようという意見が出されたため、その二年後の明治20年(1887年)2月8日には、当時の逓信省が「今より「T」字形を以って本省全般の徽章とす」と告示し、このTの字が正式な郵便マークのさきがけとなるはずでした。

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ところが、2月14日に逓信省はTの字を「〒」に変更し、2月19日の官報でも「実は「〒」の誤りだった」という内容を正式な発表として公表しました。

このTが〒になった経緯に関しては、諸説あるようですが、そのひとつは、「T」にすることで最初から決まっていたものの、後日調べてみると「T」は国際郵便の取扱いでは、郵便料金不足の印として万国共通に使用されていたというものです。

このため、これによく似たマークは適当ではないということで、「〒」に訂正した、という説がよく言われている説で、この訂正にあたっても、「テイシンショウ」の片仮名の「テ」を取ってそうしたのだという説と、単純に「T」の上に一本足して「〒」とした、という二つの説があるようです。

この「Tの上に棒を一本加える」というアイディアは、初代逓信大臣であった榎本武揚が出したとも言われているようです。

それにしてもなぜ「T」だったのかについても、漢字の「丁」が逓信の「逓」の略字としてみなせるからだという説と、「逓信」をローマ字で表した「Teishin」の頭文字だという説のふたつがあるようです。

いずれにせよ、これ以降は「〒」の徽章が、郵便配達員が身につける帽子の正面や制服上着の袖口、郵便旗、あるいは書状集め箱(現在の郵便ポスト)につけられるようになりました。また、徽章はこれ以前の「丸に一引き」を引き継ぎ、「〒」を丸で囲んだものと定められました。

ちなみに、この〒マークの縦棒と横棒の比率は、昭和25年(1950年)の郵政省告示第35号により横棒のほうが縦棒より広い(長い)のが正しい記号だそうです。

こうして郵便事業が発足してから、30年ほどを経た1900年(明治33年)にはそれまでの郵便規則・郵便条例・小包郵便法などが統合され、郵便法(旧)が制定されました。1920年(大正9年)には、さらに貯金局と簡易保険局が設けられ、その後郵便事業は通信院・逓信院・復活した逓信省を経て、郵政省に受け継がれることになっていきます。

ところで、この「逓信」という文字の由来ですが、これは、駅逓の「逓」と電信の「信」を合わせたもので、ともに逓信省の母体となった組織である、「駅逓局」、「電信局」の名前から1字ずつ取ったものだと言われています。また「逓」という漢字には“かわるがわる伝え送る”という意味があるそうです。

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電信のほうは明治以後に欧米から導入された技術であり、江戸時代以前には存在しませんが、駅制度のほうは、江戸時代よりはるか昔の飛鳥時代から存在します。「駅」とは古代の律令制で設けられた“駅家”を指し、これは「駅」とも略して使われ、いずれもが「うまや」と訓読みされます。

京を中心に街道に駅(うまや)が設けられ、駅に備えられた駅馬を乗り継いで通信が行われ、重大な通信には「飛駅(ひえき)」と呼ばれる至急便が用いられました。

「飛駅」には「駅鈴」が授けられました。これは官吏の公務出張の際に、朝廷より支給された鈴であり、官吏は駅において、この鈴を鳴らして駅子(人足)と駅馬を集めました。また、古くは馬だけでなく、船も運搬に使われたため、「駅舟」ということばもあったようです。

それぞれの駅では、官吏1人に対して駅馬1疋を給し駅子2人を従わせ、うち1人が駅鈴を持って馬を引き、もう1人は、官吏と駅馬の警護をしました。

現在残っているこの駅鈴の実物はわずかです。国の重要文化財に指定されている「隠岐国駅鈴」の二つだけで、これは、幅が約5 cm、高さ約6.5 cmほどの青銅製で、島根県隠岐の島町の玉若酢命神社に隣接する億岐家宝物館に保管・展示されています。

1976年(昭和51年)に発売された20円はがきの料額印面の意匠にもなったため、覚えている人も多いかもしれません。

その後、8世紀末頃になると、律令制は実効性が薄れ、実際には運用されなくなるなどほころびが目立つようになり、桓武天皇の時代に行われた長岡京・平安京への遷都などを機に完全にその制度が崩壊したため、この駅制もまた廃れていきました。

しかし鎌倉時代に復活し、公用便として鎌倉飛脚・六波羅飛脚などが整備されました。これは馬を用いた飛脚で、京都の六波羅から鎌倉まで、最短72時間程度で結んだといわれています。

鎌倉時代には、それまでに廃絶してしまっていた「駅」に代わり、「宿」がその代りをするようになり、宿はまた商業の発達に伴い各地で作られ、多くの人に利用されるようになっていきました。

しかし、戦国時代には、戦国大名をはじめとする各地の諸勢力が領国の要所に関所を設けたため、領国間にまたがる通信は困難になりました。とはいえ、戦国大名が書状を他の大名に送るためには飛脚が必要であり、このため家臣や寺僧、山伏が飛脚として派遣されました。

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江戸時代に入ると、幕府は飛脚制度を重視し、五街道や宿場などの交通基盤が整備して、飛脚による輸送・通信制度を整えていきました。

とはいえ、江戸時代の飛脚もまだ馬と、人の駆け足だけが主要な交通手段でした。しかし飛脚の種類としては、公儀の継飛脚の他、諸藩の大名飛脚、また大名・武家も町人も利用した飛脚屋・飛脚問屋と呼ばれた町飛脚などへの分化が進み、いずれもがこの当時の主要な通信手段として重要な役割を担いました。

とはいえ、これらの飛脚の利用は明治以降の郵便制度に比較すると費用的にも非常に高価であり、町飛脚なども庶民にはあまり利用されませんでした。天候にも左右されやすく、また江戸大阪間は一業者で届けられますが、江戸以東や大阪以西となると、今度は別業者を雇わなければなりません。

その連携は必ずしも円滑ではなく、このため書状などが期待した期日に届かないしこともしばしばだったようであり、また毎日配達しないため、別々の日に出された書簡をひとつにまとめて配達されるということも多く、そのための時間ロスも多かったようです。

この当時の書状は「親書(信書)」であることも多く、しばしば儀礼のために出されるものでもあったため、身分の高い武士や豊かな商家などでは、このように時間のかかる飛脚業者に頼まず、わざわざ自分の使用人を使って書状を運ぶことも多かったといいます。

とはいえ、江戸期を通じて、「システム」としての飛脚制度は、一応完成の息に達し、江戸時代中期〜明治初年における民間の飛脚問屋は、基本的には決められた「定日」に荷物を届けることを目標として運営されました。

決められた日に荷物を集荷すると、荷物監督者である「宰領」が主要街道の各宿場の伝馬制度を利用して人馬を変えながらリレー輸送し、荷物を付けた馬と馬方を引き連れた宰領は乗馬し、防犯のため長脇差を帯刀しました。

宿泊は指定の「飛脚宿」に泊り、盗賊の攻撃などにも気を配りました。しかし、人馬が疲労・病気などによって継立(馬方や馬の交換)がうまくいかなかったり、河川増水(川止め)、地震遭遇など不慮の人災・天災もあり、延着・不着・紛失もかなりありました。

このため、高額の金を支払い、一件のために発したのを「仕立飛脚」といい、また早便として「六日限」「七日限」などの種類がありましたが、やはり不測の事態は常にあり、遅れがちであったといいます。

このため飛脚を扱う飛脚問屋もまた、こうした事態に対処するため常にその賃銭を高めに設定したがり、これが飛脚を仕立てる費用をより高額にしていきました。

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こうした一般の武士や庶民も利用できる飛脚は「町飛脚」と呼ばれ、「継飛脚」「大名飛脚」と呼ばれるような公用のための飛脚とは区別されていました。

継飛脚(つぎびきゃく)は、幕府の公用便で、老中、京都所司代、大坂城代、駿府城代、勘定奉行、道中奉行だけが使うことを許されていた飛脚です。書状・荷物を入れた「御状箱」を担ぎ、「御用」と書かれた札を持った二人一組で宿駅ごとに引き継ぎながら運び、その費用として幕府から宿駅に「継飛脚給米」が支給されていました。

また、大名飛脚は、各藩が主に国許と江戸藩邸を結んで走らせた飛脚で、飛脚はその藩の足軽もしくは中間から選ばれることが多く、多くの藩では独自の飛脚を持っていましたが、維持費が嵩むことなどから、民間の町飛脚に委託する藩も多かったようです。

一方の町飛脚のほうは、1663年(寛文3年)幕府許可が出たために開業が始まり、大坂・京都・江戸の三都を中心に発達しました。1698年(元禄11年)に京都では町奉行が飛脚問屋16軒を「順番仲間」として認め、毎夕順番に発信するようにしたため、これ以後、「定期便」としての飛脚システムが確立しました。

ところが、宿駅の交通量が増え、人馬継立が混み合うようになると、次第に飛脚の延着が目立つようになりました。このため、江戸の飛脚問屋9軒の願いにより、幕府は1782年(天明2年)、宿駅での人馬継立をこれらの飛脚問屋に優先的に管理させる特権を認めました。

この優先利用にあたっては、その権利料が「御定賃銭」として幕府に支払われるしくみで、これにより、飛脚問屋による継立をコントロールしやすくし、遅延を減らすことが狙いでした。

しかし、この取り立て料金がかなり高めであったため、町飛脚にかかる費用はかなり高額になるとともに、飛脚問屋への特権集中は所得格差や労働環境の差別化などの問題も生み出しました。

こうした特権を行使した飛脚問屋を「定飛脚問屋」といい、この制度の導入により地方の城下町などでも高利をむさぼる飛脚問屋が増えていきました。

しかし、このことにより飛脚制度そのものはある程度安定し、延着は比較的少なくなりました。とはいえ、人馬を利用するものであり、江戸~京坂を結ぶ飛脚のうちの最低料金の「並便り」などでは、日数の保証はありませんでした。また、昼間のみの運行であり、また駅馬の閑暇を利用して運行する関係上、片道概ね30日を要しました。

これより急を要する場合はやはり金がモノをいいました。所要10日の「十日限」(とおかぎり)、6日の「六日限」あるいは「早便り」の利用が可能であり、更に火急の書状では「四日限仕立飛脚」が組まれることもあり、料金4両を要したといいます。一両は今の価値の
12~13万円ですから、軽自動車一台分の購入費用に相当します。

こうして「定飛脚問屋」の導入によって飛脚の遅延は軽減され、飛脚制度は定着したかのように見えましたが、しかし、その後江戸・京阪の人口はさらに増えていったことから、東海道の通信量は目立って増加するようになっていきます。

増加と共に各宿での滞貨もまた増大するようになったため、江戸末期ころには2〜3日の延着が通例になったといいます。このため江戸~上方を6日間で走ることを約した定飛脚が登場し、これは「定六」または「正六」と呼ばれました。

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このように早く正確に書状を運ぶため、飛脚の「走法」にも次第に工夫が重ねられていきました。「飛脚走り」と呼ばれる独特の走法がそれで、これは一説には「ナンバ走り」とも呼ばれていたそうです。ナンバとは大阪の難波のことと思われ、その発祥は大阪と推定されます。

これは「体をひねらずに走る」というものだったらしいのですが、より具体的にはどういった体勢で走っていたのかはよくわかっていないようです。

まさか「金チャン走り」のようなヘンテコなものだったとは思えませんが、ともかく、体力の消耗が抑えられるような走り方だったということだけ伝えられており、詳しいことを記した文献や口伝も存在しないことから真偽のほどすらも不明だそうです。

が、これをもし復活させることができたら、もしかしたら日本の陸上界にはセンセーショナルな革命がおきるかもしれません。来たる東京オリンピックまでにはその秘密を探し当てて復活させ、「ナンバ走り」を日本陸上界の切り札にしてはどうでしょうか。

このように、飛脚はこの時代、中央と地方を結ぶ唯一の公的な交通手段だったことから、重要な情報伝達手段でもあり、災害情報などについても得意先へ伝える機能がありました。地震、火災、洪水などのほか、戦争情報も伝えましたが、また同時に文化も伝える役割を担いました。

そのためもあって、飛脚は浄瑠璃や古典落語川柳狂歌などに登場し、庶民によく親しまれていた職業で、川柳や狂歌にもよく詠われました。

このころの川柳に、「十七屋日本の内はあいと言う」とか、「はやり風十七屋からひきはじめ」というのがありますが、この「十七屋」というのは飛脚問屋の「十七屋孫兵衛」のことで、京都に本拠を置いて日本各地にも出店を置き、広域的に書状や金銀荷物を輸送しました。

現在の佐川急便やヤマト運輸のように流行った飛脚問屋だったようで、このように川柳に詠まれるほどの人気業者でしたが、1785年(天明5年)に幕府御用金の不正使用が発覚し、闕所(営業停止)となっています。

近年でも飛脚は時代小説の題材にも取り上げられ、人気作家、出久根達郎作の「おんな飛脚人」は江戸の飛脚問屋「十六屋」を舞台にヒロイン「まどか」が繰り広げる人情話で、NHKではドラマ化もなされました。

また、同じく小説家の山本一力の作には、「かんじき飛脚」というのがあり、これは寛政年間に、金沢藩の御用飛脚問屋「浅田屋」の飛脚人たちが雪の金沢―江戸間を走り、幾多の障害を越えて漢方薬「密丸」を江戸藩邸へ届ける、という話です。私もまだ読んだことがないのですが、面白そうです。

現代の飛脚といえば、宅配便、軽貨物便、バイク便などがすぐに思いうかびますが、前述の佐川急便などは、まさに飛脚の絵をトレードマークにしています。

上で前島密が、日本通運の創業に関わったと書きましたが、この日本通運もまたその前身は江戸の定飛脚問屋でした。これを明治期になって「陸運元会社」としたのが始まりで、同会社は1875年(明治8年)2月に内国通運に社名変更、その後1937年(昭和12年)に現在の日本通運に改名しています。

江戸の時代の飛脚はもう残っていないかと思いきや、こうした運送会社といい、それが形を変えた郵便制度といい、今もまだ我々の身近なものとして存在しています。

なので、ポスト愛護週間であるという今週は、あの赤いポストを飛脚の名残と思い、愛おしんであげましょう。

ちなみに、日本で郵便制度が始まった初期のポストの色は、飛脚の衣装をイメージしてか、赤色ではなく黒色だったそうです。しかし、当時公衆便所が普及し始めた頃でもあったことから、黒い郵便箱の「便」を見た通行人が郵便箱を垂便箱(たれべんばこ)と勘違いして、これをトイレ替わりに使ったという話は有名です。

また、当時はまだ街灯などが十分に整備されていなかったため、夜間は見えづらくなるなどの問題が起こり、このため1901年(明治34年)に鉄製のポストを試験導入した際に「目立つ色」として赤色に変えられました。

ポストの設置数は郵便制度が始まった1871年(明治4年)には62カ所に過ぎなかったものが、現時点では全国でおよそ20万もあるそうで、その差出箱は、街頭のみならず、工場などの私有地内を含めいろいろな場所にあります。

特殊なケースでは自衛隊の基地内、自動車道やロープウェイなどの通じていない高山の山頂近くや和歌山県すさみ町などにある海底ポストのように海底にあるものも存在します。海底であろうと収集時間になれば収集し、配達先へ投函されるそうで、この収集を行う郵便屋さんはダイビングの資格を持っているらしいです。

ちなみに、私が住んでいるこの別荘地内には都合3か所ほどポストがあるようですが、山の上にあるため、1日に一回しか収集に来ません。しかも午前中なので、今日の便はもう終わりです。

が、ポストさんは今日もそこで雨風に打たれながらも頑張ってくれているので、ポスト週間であるという今週、感謝の気持ちを込めて何等かのエールを送ってあげたいと思います。

が、園児のように手作りの帽子を作ってあげることも、歌を歌ってあげることも気恥ずかしいので、せめて一緒に酒でも飲めればと思います。

きっと、「真っ赤なお顔のポストさん」はもっと顔を赤らめて喜んでくれることでしょう。

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ウルトラの父


梅雨明け以降、良いお天気が続きます…… というか、はっきりいって良すぎます。

もう少し雨を降らせてもらわないと、庭木にやる水の水道代ばかりかかるという切実な問題もあります。

雨乞いでもしようかな、とでも思うのですが、やり方がよくわかりません。

調べてみると、雨乞いの方法としては、山野で火を焚く、神社への参籠、神仏に能を奉納する、呪術、などのほかに、「禁忌を犯す」というのがあるようです。

禁忌を犯す?? は、何かと思ったら、通常は水神が住むとして清浄を保つべき湖沼などに、動物の内臓や遺骸を投げ込み、水を汚すことで水神を怒らせて雨を降らせようとするものだそうで、かなり過激です。

また、石の地蔵を縛り上げ、あるいは水を掛けて雨を降らせるよう強請するものもあるそうで、こちらはつまり脅迫です。穏やかではありません。

山野で火を焚くというのも消防法違反で捕まりそうなので、やめておきたいところ。

神仏に芸能を奉納する……音楽オンチなので踊れません。呪術は……呪いをかけた張本人は、それなりの報いを受けたり、場合によっては死んでしまうと聞いたことがあります。死んでしまっては雨が降っても仕方がありません。

と、いうことで、とどのつまりは、神社への参籠ぐらいがオーソドックスで無難な雨乞いのようなので、今日は午後からどこか涼しそうなところの神社にでもお参りに行ってきましょうか。

が、もしかしたら、ウルトラマンなら雨を降らしてくれるかもしれません。
おーい、うるとらまーん、とみんなで呼んでみることにしましょう。

……と、いうことで、昨日の引き続きです(……ちょっと苦しい前振り(-_-;) )

ウルトラの父

ウルトラマンのデザインは、前作「ウルトラQ」でも怪獣や宇宙人のデザイン、セットの美術デザインを依頼された彫刻家の「成田亨」という人物が担当しました。

しかし、ウルトラマンのデザインに関しては、この人が最終案としてのデッサンという形で残したものはありません。

実は、ウルトラマンの製作にあたっての仕上げの最終段階では、平面上でのデッサン作業には限界があると成田が判断し、この作業に見切りをつけたため、最終段階での「デザイン画」の決定稿というものはこの世に存在しないのです。

もし、そういうものが残っていたとしたら、おそらくは今日、ものすごく高額で取引されるプレミアムアイテムに違いありませんが、これまでのところ、そうしたものは発見されていないようです。

従って、ウルトラマンの撮影のためのスーツを造るための雛形は、成田の指示のもと、美術スタッフが粘土によって造型し、その作業を繰り返す中で、あの独特のマスクと身体の模様が次第に出来上がっていきました。

成田亨は、神戸市で生まれです。しかし、父の仕事の関係からか、幼少期より父方の故郷である青森市で育っています。1980年代に「エイリアン通り」などの独特の作風で一世風靡した女性漫画家の「成田美名子」はこの成田亨の従兄弟の娘にあたります(……といっても誰もしらないか)。

1歳になる前、青森県の自宅で、囲炉裏の火をつかもうとして左手に火傷を負い、数度の手術でも治らなかったそうです。小学校ではこの事でいじめられ、右手だけ描ける絵が救いとなったといい、この辺のエピソードは、同じ東北の福島県で生まれ、幼いころに手にやけどを負った野口英世と酷似しています。

まさか、共通点はないよな、と面白半分で二人の運命数を調べてみました。そしたら、なんと、二人ともその運命数が「6」だったのにはびっくりしました。

運命数というのは、西暦に直した生年月日をすべて足し込んでいき、最後に残った数字です。野口 英世は、1876年(明治9年)11月9日生まれなので、1+8+7+6+11+9=42、4+2=6です。同様に、成田亨は、1929年(昭和4年)9月3日で、合計33になり、3+3=6になります。

我が家の「なっちゃん文庫」にあった、「数霊法運命鑑」という本をみると、運命数6の人は、「離合集散常なき陰の数霊にして、吉凶相なかばし、混乱の巷を意味す」とあり、どうやら波乱万丈の人生を送るようです。

確かに、野口英世も、ノーベル生理学・医学賞の候補にまであがるほどの業績を残しつつも、アフリカで黄熱病の研究中に自身も罹患して亡くなるという、波乱万丈の一生を送っています。

成田亨もそうなのでしょうか。

旧青森県立青森中学校(現青森県立青森高等学校)卒業後、印刷工として働き資金を貯め、1950年武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)に入学。当初洋画を専攻していましたが、授業に不満を感じ、途中で彫刻学科に転科。彫金の作業中、移植した皮膚からはしばしば血が流れたといいます。

1954年、美術学校卒業後、友人に誘われ、東宝の映画作品「ゴジラ」にアルバイト参加。怪獣ゴジラに壊される建物のミニチュアを制作しており、以後、美術スタッフとして、各映画会社の特撮作品に加わるようになります。

1955年、彫刻作品で「第19回新制作展」に入選し、1956年武蔵野美術学校彫刻研究科(現大学院)を修了。この年正式に映画界入りし、以後様々な特撮映画作品に参加。1962年には第26回新制作展新作家賞を受賞しています。

この「新制作展」は、入選者数、受賞者数とも少なく、作品の質などから考えても、そのレベルは非常に高く、現在、国画会の国展、独立美術協会の独立展と共に、洋画部門ではハイレベルな御三家といわれている展覧会です。

1965年春、円谷特技プロダクションの契約社員となり、翌年の1966年、TBSの特撮テレビ映画「ウルトラQ」の第2クールから美術監督を務めるようになります。

続いてデザインを依頼されたのが、同じTBSの「ウルトラマン」であり、その後、「ウルトラセブン」(1967年、TBS)、「マイティジャック」(1968年、フジテレビ)などでも、怪獣やレギュラーメカのデザインを手がけました。これらキャラクターデザインに関しては、後述のとおり、後にその著作権を巡り、円谷プロと争うことになります。

1968年春、円谷プロを退社。「ウルトラセブン」の美術監督を中途降板した後、青森市で初の個展を開催。その後、大阪万博において岡本太郎がデザインしたかの有名な「太陽の塔」内部の「生命の樹」のデザインを手掛けているほか、沖縄海洋博でも「WOSくじら館」の内部企画デザインなどを任されています。

さらに映画の美術監督などを経て、全国各地で個展を開催しつつ、多くの著書・作品集を残しましたが、2002年2月26日、多発性脳梗塞により没。享年73歳でした。

野口英世ほど波乱万丈といえるかどうかは、議論の分かれるところですが、天才といってもよいほどの才能に恵まれながらも、ありきたりの成果には満足せず、不安定な生活の中に身を置き、自我を貫き通した末に一生を終えた、というところはやはり似ているように思います。

あなたも、ご自分の運命数を調べてみてください。そしてもし6だったら、波乱万丈の生になるのかもしれません。が、数霊の6は、「旧殻を破って新しき芽の伸び出る象を表す」ともあるので、新しいチャレンジに向いた人でもあるようです。がんばってください。

ウルトラマンのデザイン

さて、前述のとおり、成田は円谷特技プロダクション製作の「ウルトラQ」に途中参加し、番組内に登場する怪獣や宇宙人のデザイン、セットの美術デザインを手がけました。

この次回作「ウルトラマン」の企画では、主人公が正義の怪獣(宇宙人)という設定となり、当初「怪獣」のイメージから東宝特技課の美術監督渡辺明により、クチバシと翼を持つ烏天狗のような怪獣タイプのデザインが提案され、これを「ベムラー」と仮称することになった、という経緯は昨日書いたとおりです。

企画が進行し、主人公を「怪獣」から「宇宙怪人」にコンセプト変更されたのち、文芸部の金城哲夫は成田に主役ヒーローのデザインを依頼し、「いまだかつてない格好のいい美しい宇宙人が欲しい」と注文をつけます。

金城の依頼を受けた成田は、「宇宙怪人」のイメージとして、角を生やし、ダイヤモンドカットの髭を生やした宇宙人デザイン起こしましたが、これが、「科学特捜隊レッドマン」のヒーロー像の原型でした。

さらに検討が加えられるうちに、宇宙時代のヒーローとして、身体にぴったりフィットした宇宙服と、ヘルメットをベースとしたマスクデザイン画に変化。「人の顔」から余分なものを徹底的にそぎ落とす作業を繰り返していきました。

その作業の際に成田は以下の方針を立てています。

・広隆寺の弥勒菩薩像にも通じる、アルカイックスマイルをヒントにした口元
・能面のように単純化された様式でありながら、見る角度や陰影によって様々な表情を表す
・宇宙ロケットから着想を得た銀色の肌
・火星の模様からの発想による全身のライン

これらのデザインコンセプトを元に何枚かのスケッチを描いたのち、成田は平面画によるデザインを諦め、「ウルトラQ」で怪獣造形を担当した、武蔵野美大の後輩である造形家佐々木明とともに、粘土原型による直接の形出しに切り替えました。

佐々木の造形に、単純化されたデザインが間延びしないよう、目の位置や耳の角度など、パーツデザインにこだわり苦労しながら成田が手を加え、試行錯誤が繰り返されました。

こうしてようやく、日本初の巨大宇宙人ヒーロー「ウルトラマン」は、1尺サイズの粘土原型の形で完成するに至りましたが、既に述べたとおり、実物での造形を優先させたため、この姿を平面上に表したウルトラマンの最終デザイン稿は存在しません。

特徴的な銀と赤の体色に関して、当初は体のラインには宇宙感を示す青を考えていたようですが、この当時の特撮では撮影にあたってのその背景がブルーに設定されることも多く、青空に染まってしまうため断念し、このため赤いラインに落ち着いたということです。

カラータイマー

ウルトラマンの特徴の一つである「カラータイマー」は、子供にも視覚的にわかりやすくウルトラマンが弱っていることを示すためのちょっとした仕掛け、いわゆる「ギミック」として高い評価を受けました。

円谷特技プロ文芸部の発案で追加されたものでしたが、実はデザイン段階では存在せず、成田はこれを大変嫌っていたそうです。

しかし、「ウルトラマン」の次に円谷プロのスタッフとして成田が手がけることになった「ウルトラセブン」では、セブンの額にカラータイマーがとりつけられており、これは成田自身が取り付けたそうです。

成田は、「どうせ人から押し付けられて後から付けられるような事になるなら、最初から自分なりに選んだものを付けておいたほうがまだまし」という考えだったそうです。

このためセブンのときには、ウルトラマンの胸に取り付けられていたカラータイマーを廃し、自らがウルトラセブンの額に「ビームランプ」を設定し、カラータイマーの役割を兼用させることにしたのだそうです。

また、番組をよくみるとわかるのですが、ウルトラマンの「瞳」の下には小さな穴があいています。この「覗き穴」は、デザインを損なうとして最初にはなかったものですが、ウルトラマンの着ぐるみの中に入る「演者」であった俳優の「古谷敏」の視界確保のために、のちに取り付けられたものだそうです。

新番組の放映にあたっては、その番宣のためマスコミを招いてのスチール撮影会である「第一回特写会」というものが開かれましたが、この「特写会」で覗き穴をどう処理するか成田も決めかねていてそうです。

結局、当日になり、視界をほとんど確保できないままでウルトラマンの着ぐるみを着て登場することになった古谷は、円谷英二社長やマスコミ関係者の見守るなか、手を引かれるようにして、よろめきながらステージに立つような状況だったそうです。

これを見ていた成田は、結局この「第一回撮影会」の休憩時間に、控室にドリルを持ち込み、自らがデザインしたそのスーツにその場で「覗き穴」を開けています。当然、これは成田にとっては不本意なことであり、このときの成田を見た関係者は「怒っているようでもあり、マスクに傷を入れるのを悲しんでいるような複雑な表情だった」と語っています。

のちになって成田はアクターの古谷に、「やるせなかったが、あの場では仕方がなかった。実際の撮影では戻すつもりだったが、時間もなく面倒くさくてあのままにしてしまった。デザイナーとしては失格だったよ」と心情を吐露したそうです。

その後実際に撮影が始まりましたが、その特撮ステージにおいても最初の穴の大きさでは視界が不満足であることがわかり、古谷の依頼で機電担当者によってさらに穴が拡げられました。

このように、成田は自分が納得して完成させたデザインを、人に言われて修正するようなことをとくに嫌っていたようで、成田による最初のウルトラマン彫刻には、原則としてカラータイマーも目の覗き穴も存在しておらず、その後彼が書いたイラストなどにもこれは書き込んでありません。

怪獣のデザインの特徴

成田は「ウルトラマン」やその後の「ウルトラセブン」に登場する怪獣のほとんどをデザインしています。このデザインにおいて成田は、コスモス(秩序)の象徴としてのウルトラマンに対し、怪獣は「カオス(混沌)」の象徴という理念でデザインしたそうです。

あらゆる生物や無生物からヒントを得ながらも意外性を求め、自由な変形や組み合わせにより独創的な形の創造を目指したといいますが、内臓が露出していたり、顔が崩れていたりする嫌悪感を示すような怪獣は子供番組に適さないと考え、けっしてこうしたデザイン案は出しませんでした。

演出家や監督は、ウルトラマンに対峙する怪獣は恐ろしい外見をした悪役らしいインパクトのある物にしようと考えていたようですが、成田は彼らを説得する上でも重要と考え、ウルトラ怪獣のデザインに当たり、次の三原則を打ち出しました。

1.怪獣は妖怪ではない。手足や首が増えたような妖怪的な怪獣は作らない。
2.動物をそのまま大きくしただけの怪獣は作らない。
3.身体が破壊されたような気味の悪い怪獣は作らない。

また、侵略宇宙人のデザインについて、「地球人にとっては悪でも、彼の星では勇者であり正義なのだから、”不思議な格好よさ“がなければいけない」とも述べています。

バルタン星人は今でも人気怪獣であり、成田の代表作と取られがちですが、成田自身は「セミ人間に角と大きな鋏をつけてくれという無意味な注文が嫌だった」と、撮影所で目にしたその最終形も毛嫌いしていたそうです。

逆にケムール人は、自身の芸術的理想に照らして会心の宇宙人として挙げているそうで、ご存知の方はこのケムール人がどんなものかすぐに目に浮かぶと思いますが、少々おどろおどろしい幽霊のような形をしています。

このあたり「怪獣然」としたゴツゴツとした怪物の造形には優れていたものの、いわゆる「人型」の怪獣については、これを支持するファンの希望するデザインとの間に乖離があったように思われ、「ウルトラマン」の形が万人に受け入れられたのはむしろ不思議なことのようにも思えます。

成田はまた、たとえ自らが定めた三原則に沿っていたとしても、後に別のデザイナーにより生み出されていったような奇怪で複雑なウルトラ怪獣のデザインをも嫌っていたそうです。

表現の初期衝動を大事にせず、既存の怪獣デザインの枠内だけで新しいデザインを考えるといった安易で狭い姿勢の若いデザイナーを批判していたそうで、物のかたちの根底や問題の根源は何かといったことを考えず、既に誰かがデザインした怪獣の単なる組み合わせや、これを複雑化したにすぎないデザインは堕落であるとまで言っていたようです。

「新しいデザインは必ず単純な形をしている。人間は考えることができなくなると、ものを複雑にして堕落してゆく」と雑誌の取材でも述べています。

最終的には銀色塗装に落ち着いたウルトラマンとウルトラセブンの体表の金属感の表現にも不満だったそうで、1972年に日本テレビで放映された「突撃! ヒューマン!!」の主役ヒーロー「ヒューマン」のマスクデザインは、ステンレスの叩き出しによる金属成型で表現し、これを成田は「会心の作」と述懐しています。

この番組は、視聴率も低く、どんなヒーローだったか私自身も見た記憶がないので、ネットで調べてみたのですが、ウルトラセブンとアンパンマンに出てくるドキンちゃんを合わせたような様相であり、私自身は、ムムム……というかんじです。みなさんもネットで探せばすぐにみつかると思いますが、どう思われるでしょうか。

メカデザインなど

このほか、成田は、「ウルトラQ」から「ウルトラセブン」における主要メカニックや小道具なども、その多くをデザインしています。

しかし、オリジナルのメカ自体が少ない「ウルトラQ」はともかく、「ウルトラマン」では彼がデザインした主役メカと言うべき「ジェットビートル」が諸事情で間に合わず、東宝映画「妖星ゴラス」(1962年)で用いたプロップと同じ木型から作った複製を使用せざるを得なかったそうです。

そういえば、その後のウルトラセブンに出てくる「ウルトラホーク」比べて、ウルトラマンに出てくるビートルはまるでおもちゃのようで、エライちゃちいな~と子供心に私も思った記憶があります。

成田自身も、ウルトラマンにおいて、自らがデザインした他のメカ・小道具等との統一性が図られなかった事を後々まで悔やんでいたそうです。

「ウルトラセブン」ではトータルデザインを重要視し、主役級メカをはじめ、特捜隊の極東基地全体の構造図、隊員服、ビデオシーバー等の小道具、さらに基地作戦室のパーマネントセットに至るまで一貫したカラーの元にそのデザインが企画されました。

これらのメカはプラモデルとしても発売され、私も自らが完成させた主役機「ウルトラホーク」はカッコいい!と思い、何度もこれで遊んだのを覚えています。

また、成田の作品ではありませんが、東宝が作成した「キャプテンウルトラ」に登場する主機のデザインなども秀逸であり、今でもこの当時の特撮映画のデザイナーさんたちのデザインというのは、およそ現在の戦隊ヒーローものに出てくるものなどよりもはるかに高水準で美しいと思います。

復刻版でも作ってもらえれば、今でも手にしてみたいほどなのですが、人気があっただけに、おそらくこうしたものも中高年向けに販売されているかもしれません。今度探してみましょう。

円谷プロとの対立

さて、こうして世界にも類例のないようなユニークなウルトラマンは大ヒットテレビ番組として精彩を放ちながらもその短い放映を終えましたが、その成功の功績は無論、成田によるところが大きいといえるでしょう。

しかし、造形やストーリー・演出も重要な成功要素であり、これらをすべて統括していたのは、円谷プロという組織でした。

成田も、その円谷プロの一社員として制作スタッフに参加していたにすぎず、このため作品内におけるすべての権利は製作会社に帰属することになっていました。

ところが、成田は後年になってこのことの不満を漏らすようになり、ウルトラマンやその他の怪獣のデザインに関する著作権を主張するようになります。そして、作品そのものの著作権を持つ円谷プロに対して一方的な対立姿勢をとるようになり、ついには裁判訴訟を起こすまでに至りました。

この当時、成田の肝入りにより朝日ソノラマから「円谷プロ作品における成田画集」なるものが出版されましたが、円谷プロがこれについてクレームを入れてきたことから、「なぜ、俺の絵を出版するのに円谷プロの許可が必要なんだ」とこの当時既に円谷プロからの退職を表明していた成田は猛反発。本人の意向により絶版になるなどの事態が生じています。

円谷プロ退職後も、何度かあった新しいウルトラシリーズへの円谷プロからの参加依頼に対して成田がこの著作権のロイヤリティーの話を持ち出したため、円谷側のスタッフが怒って席を立ってしまう、ということもあったそうです。

こうして、成田を原告として円谷プロを相手取り民事訴訟をおこされましたが、結局裁判は判決を待たずに「原告側の訴訟取り下げ」により終了しています。

社員であった当時にデザインや設計を行ったものの権利はその所属会社に属する、というその後も多くの他の裁判事例で標準的ともいえるようになった判決結果をながめつつ、自らが起こした裁判の成りゆきにも同じ結果が待っていると観念したためでしょう。

その後

その後、成田亨は、円谷プロが手がけた「平成第2期ウルトラシリーズ」と呼ばれるウルトラシリーズのひとつ、「ウルトラマンコスモス」が放映されている中、2002年(平成14年)に亡くなっています。

成田が手がけたウルトラマンやウルトラセブン以降、これらの作品の流れをくむ作品群は「ウルトラシリーズ」として継承され、各作品のヒーローは「○○ウルトラマン」「ウルトラマン○○」と呼称されるようになりました。

TBSは、「ウルトラマン」の後もこの「ウルトラシリーズ」の続行を望みましたが、円谷特技プロが赤字を理由にこれを断ったことから、これに代わって、東映によって「キャプテンウルトラ」が制作され、これをTBSは「ウルトラQ」、「ウルトラマン」に続く、「宇宙特撮シリーズ」、「ウルトラ・シリーズ第三弾」として内外にセールスしました。

しかし、「キャプテンウルトラ」の平均視聴率は25.6%であり、 1967年の第2話では、最高視聴率32.2%を記録したものの、その後も視聴率はふるいませんでした。

25%超の視聴率といえば、普通ならば大ヒットと言えるところですが、前番組「ウルトラマン」が平均36.8%という驚異的な数字を獲得していたために、スポンサーの武田薬品側も納得せず、TBSに対してクレームがつきました。

このため、これを製作した東映の平山亨プロデューサーはTBSの上層部から何度も叱責されたといい、「キャプテンウルトラ」の終了後、この番組枠は再び円谷特技プロ制作作品に戻ることになりました。

こうして、円谷プロにより「ウルトラセブン」、「怪奇大作戦」が「ウルトラシリーズ」として製作され、TBSで放送されることになりましたが、結局、TBSの番組枠として制作された「ウルトラシリーズ」は、以下の5作品で終わりました。

ウルトラQ 1966年(昭和41年)、全28話(円谷プロ)
ウルトラマン1966年(昭和41年)~1967年(昭和42年)全39話(円谷プロ)
キャプテンウルトラ1967年(昭和42年)全24話(東映)
ウルトラセブン1967年(昭和42年)~1968年(昭和43年)全49話(円谷プロ)
怪奇大作戦1968年(昭和43年)~1969年(昭和44年)全26話(円谷プロ)

以後、「ウルトラシリーズ」の製作は、円谷プロダクションが現在に至るまで継続していますが、その放映権の取得は、朝日放送や毎日放送、日本テレビと転々と変わり、最新作の「ウルトラマンメビウス」は再びTBS系列の各局で放映されました。

ただし、かつてのように特定の局が円谷プロや強力なスポンサー一社とだけ組んで、特定の番組を造る、といったことは、今では行われなくなっています。

TBSが円谷プロに依頼して制作した「特撮もの」としては、「ウルトラシリーズ」とは別に、「仮面ライダーシリーズ」「スーパー戦隊シリーズ」「メタルヒーローシリーズ」がありますが、これらもまた日本の代表的な特撮作品シリーズとしての金字塔を立てました。

これらの作品を「ウルトラシリーズ」のひとつとして語る向きもありますが、ウルトラマンが登場するのは本家の「ウルトラシリーズ」だけであり、正当な後継とはいえないでしょう。

現在に至るまでのところの「ウルトラシリーズ」の最新作は、「ウルトラマンメビウス」ということにはなりますが、中部日本放送(CBC)・TBS系列で全50話が放送され、2007年(平成19年)に終了して以降、TV番組としてのウルトラシリーズはその後6年にも及ぶ休止期間に入っています。

この前にも休止期間があり、これは「ウルトラマン80」から「ウルトラマンティガ」までのTVシリーズの16年間でした。

今後またこのウルトラシリーズが復活するかどうかは、不透明です。しかし、ウルトラマンシリーズの復活を望む声は高いといわれ、関係者の間ではこの作品を放送する環境は好転していると受け止められているようです。

ところで、成田亨は、1989年(平成元年)に、初代ウルトラマンのリデザインを試みています。

円谷プロがオーストラリアで新しい「ウルトラマン」を撮影する計画を立ち上げ、成田に新たなウルトラマンと怪獣のデザイン依頼を打診したそうで、結局成田のデザインは採用されませんでしたが、これは後に「ウルトラマンG(グレート)」として映画化されました。

成田は直ちに新ウルトラマンのデザイン画を描き上げ、これは「ウルトラマン神変」と題されたそうです。そして、その新しいウルトラマンのデザインはなんと、金色のボディに黒いラインだったといいます。

当時成田の頭の中には金と黒がヒーローのイメージカラーとしてあったようで、ウルトラマン、ウルトラセブンなどに続く全く新しいヒーロー像として1996年の成田亨特撮美術展で発表された「ネクスト」も金と黒だったといいます。

オーストラリア版「ウルトラマン」のほうは、成田がデザイン料として著作権の30%を要求したため、円谷プロと折り合いが付かず、結局成田の登板は実現しなかったということです。

しかし、もしこの金色のウルトラマンが採用され、かつてのウルトラマンのような人気を博していたとしたら、もしかしたら、2020年の東京オリンピック実現のあかつきにはメインキャラクターとして採用されていたかもしれません。

無論、何の根拠もなく、私がそう思うだけですが、新制作展の受賞者であり、万博や海洋博といった国家的な催しのデザインを数々担い、かつ、国民的ヒーロー像ともいえるウルトラマンというキャラクターを生み出した功績は大いに称えられてよく、もしご存命だとしたら、こうしたオリンピックのような国家事業のデザインを担う人物としては最適です。。

また、東京オリンピックが行われた1964年の二年後に放映されたこの「ウルトラマン」は、その後の日本の高度成長期の象徴のような気がしてなりません。

だとすれば、長い不況を乗り切るため、新たな東京オリンピックの象徴としてこの「ネクスト」なる新ウルトラマンを採用するならば、きっとうまくいくに違いない、なんとなくそう思えるのです。

単に思いつきにすぎませんが、もし、本当に次会の東京オリンピックが決まったならば、そのマスコットとして、この「新生ウルトラマン君」が採用されてもいいのではないでしょうか。

何度も繰り返しますが、単に私の思いつきにすぎません。忘れてください。

さて、昨日今日と、この項はかなり長くなりました。久々のことです。子供のころに大好きだったヒーローに関するものだっただけに、少々思い入れもあったのかもしれません。もう少し書き足りないこともあるのですが、今日はもう終わりにしたいと思います。

暑い日が続きます。熱中症にお気をつけください。