ほおずき市とウルトラマン


毎年7月の9日、10日にかけて浅草寺で催される「四万六千日」という行事は、御本尊の観音さま詣での縁日と盆の草市が結びついたもので、この日には「ほうずき市」も開かれ、東京ならではの夏の風物詩になっています。

そもそも、観音さまのご縁日は「毎月18日」だったそうです。しかし、室町時代以降にこれとは別に「功徳日(くどくび)」と呼ばれる縁日が新たに加えられました。月に一日設けられたこの日に参拝すると、百日分、千日分の参拝に相当するご利益(功徳)が得られると信仰されてきました。

中でも7月10日の功徳は千日分と最も多く、「千日詣」と呼ばれていましたが、浅草寺では享保年間(1716~36)ごろより、なぜかそのご利益は46,000日分(約126年分)に相当するといわれるようになり、「四万六千日」と呼ばれるようになりました。

この数については諸説があり、定説はないようですが、一説では「米一升分の米粒の数が46,000粒にあたり、一升と一生をかけた」のではないかといわれています。

徳川時代以来、江戸東京の庶民は、夏になるとこの日に浅草寺に詣でて格別のご利益にあずかりながら雷よけの赤玉蜀黍(あかとうもろこし)を求めたり、また盆の草飾りを買って帰り、先祖様の仏壇に飾っていました。

そして、「四万六千日」のこの10日には一番乗りで参拝したいという人々も多く、これが高じて前日の9日よりお詣りする人も出始めたため、長い間には7月9・10日の両日が四万六千日のご縁日になったそうです。

この両日には前述のとおり、「ほおずき市」が開かれます。

なぜ「ほうずき」なのかというと、そもそもこの市は、東京芝にある23区内で「一番高い山」、標高25.7mの愛宕山の上に築かれた愛宕神社の縁日に開かれていたものでした。

当初、ほうずきは薬草としてこうした縁日にも売りに出されていました。そして、その効用が評判となって人々の知るところとなり、「ほおずきを水で鵜呑(うの)みにすると、大人は癪(しゃく)を切り、子どもは虫の気を去る」といわれるようになりました。

こうしたほうずき市が開かれるようになったのは、現在のような神仏分離前のことですから、愛宕神社のような社殿でも仏教の故事である観音さまの縁日が開かれていたわけであり、これをお寺さんと同じく「四万六千日」と呼んでいたようです。

ところが、四万六千日ならば、仏教の浅草寺のほうが元祖で、「本家本元」というわけで、その後浅草寺境内のほうでもほうずき市が立つようになり、かえって愛宕神社をしのぎ盛大になっていきました。

愛宕神社のほうでも、今でも負けじとほうずき市が開かれているようですが、今では、四万六千日は浅草寺に譲ったような形になっており、今年のほうずき市も6月23に24日に行われたようです。ただ、HPをみるとそのご利益は46000日ではなく、「千日分」になっています。

ま、東京在住でなければ、浅草寺にも愛宕神社にも行けないわけで、そのご利益は得られませんから同じこと。せめて地方にいる我々は近隣の神社仏閣へ行って、46000日分の功徳を得られるようにしましょう。

ただし、その神社やお寺の「四万六千日」の縁日が7月10日とは限りませんから、ご注意を、です。

ところで、今日7月10日は、1966年(昭和41年)、TBSテレビで「ウルトラマン」の放映が開始されたということで、「ウルトラマン記念日」だそうです。

好評だった特撮テレビドラマ「ウルトラQ」の続編で、怪獣や宇宙人によって起こされる災害や超常現象の解決に当たる科学特捜隊と、それに協力するM78星雲からやってきた光の国の宇宙警備隊員、ウルトラマンの活躍を描く物語であり、日本人なら知らない人はいないでしょう。

本来は、この番組の前の番組で、かなりの人気を誇った「ウルトラQ」の最終話がこの日に放送される予定であり、ウルトラマンは7月17日に放送開始の予定だったそうです。ところが、関係者の間でこのウルトラQの最終回の内容が難解であるという議論が出たそうで、なんとそれだけの理由で、これが急きょ放送中止となりました。

そして、その穴埋めとして7月9日に杉並公会堂で開かれた、新番組ウルトラマンの宣伝イベントの模様を「ウルトラマン前夜祭」として放映したのが、ウルトラマンとしての放映の最初だったというわけです。

従って、ウルトラマン本編としての第一話の「ウルトラ作戦第一号」が放映されたのはその翌週の7月17日からであり、このときの登場怪獣は「ベムラー」でした。

この第一話は、視聴率34.0%と好調な滑り出しでしたが、「前夜祭」のほうも30.6%もの視聴率を得ており、本番が始まる前からこの番組の評判が高かったことがわかります。

本放送時の平均視聴率はさらにこれを上回り、平均視聴率は36.8%、最高視聴率は42.8%という大人気番組となりました。

放送終了後もその人気が衰えることはなく、最初に行われた再放送でも平均視聴率が18%台を記録したといい、その後何度も再放送が行われています。小学生だった私も、夏休みになるとこの再放送を繰り返し繰り返し、飽きもせずに良く見ていたのを覚えています。

しかも、オープニングテーマ「ウルトラマンの歌」の売上はミリオンセラーを記録しています。「き~ったぞ、われら~のウルトラマ~ン」という少年少女の歌声は今も耳に残っています。初放映から46年経った現在でも世代に関係なく認知度が高く、固有名詞としての「ウルトラマン」は、広辞苑の見出しにも記載されているとのことです。

また、データは少々古いですが、2002年に朝日放送系列で流された「決定! これが日本のベスト100」の「あなたが選んだヒーローベスト100」でも、第2位にランクインしており、ちなみにこのときの1位は、今大人気の俳優オダギリジョーさんが主演した、「仮面ライダー・クウガ」でした。

このように大人気だったウルトラマンですが、前夜祭も含めて結局全39話が作られたものの、実は途中で打ち切りになっていたという裏話があります。

その話の真相は後述しますが、その話は別として、この最終回でウルトラマンがゼットンに倒されたシーンは、放映当時の子供たちに少なからぬショックを与えたようです。

私もウルトラマンが倒されたのが悔しくてたまらず、その後ずいぶんと跡を引きましたが、私たちと同じ世代の元プロレスラー、大仁田厚さんや前田日明(あきら)さんも、「大人になったらゼットンを倒してウルトラマンの仇をとろう」と心に決め、格闘家を目指すようになったと語っているそうです。

このように、この当時の子供だけでなく、大人なまでをも夢中にさせたこの番組は、商業的にも成功し、主人公のウルトラマンだけでなく、番組に登場した数々の怪獣や「科学兵器」などに関連する商品は、その後現在に至るまでも玩具だけでなく、生活用品などあらゆる分野で発売されています。

しかし、その制作過程においては、涙ぐましい努力があり、ウルトラマンが全39話で終わらざるを得なかったのには、それなりの理由がありました。

企画のスタート

本作の企画が始動したのは、1965年の8月ごろのことだったそうです。このころ、ウルトラマンの前作の「ウルトラQ」もまだ放送が始まっていないころでしたが、TBSではこの「ウルトラQ」の放送を翌年の1月からと決め、放映時間はゴールデンタイムである日曜夜7時枠でスタートすることにほぼ決定していました。

ウルトラQはなかなか面白い企画だということで社内での前評価も高かったようで、実際、蓋をあけてみると、ほとんどの放送回で視聴率30%台に乗る大人気番組となっていきました。

これが追い風となり、ウルトラQを超える次回作を創ろうという検討がより具体的に進められるようになり、TBSの栫井巍プロデューサーと「円谷特技プロ」の企画文芸部室長・金城哲夫(きんじょうてつお)が中心となって、様々なアイデアが出されていきました。

ちなみに、この金城哲夫は、沖縄出身の脚本家で、1963年に円谷プロダクションへ入社後、「ウルトラQ」「ウルトラマン」はもとより、「快獣ブースカ」「ウルトラセブン」などの数々の黎明期の円谷プロ作品を手掛けて成功させた立役者であり、大変有名な人です。

この企画のかなり早い段階で、TBSは以下の4つの条件を、この金城哲夫率いる円谷特技プロに提示しています。

1.カラーで制作する
→ 完成作品をアメリカへ売り込むことを予定していた。「ウルトラQ」が米国三大ネットワークと放送契約を締結できなかったのは、白黒作品であったため、と当時は考えられていた。

2.怪事件を専門に扱う、架空の公的機関を登場させる
→ 放送評論家を招いた「ウルトラQ」の試写会では「民間人が毎回怪獣に遭遇するのは不自然」という意見がかなり多かった。

3.怪獣と互角に戦える、正義のモンスターを主人公にする
→ 「ウルトラQ」の第2クール(1クールは四半期、3か月間))では「ゴロー対スペースモンスター」や「パゴス対ギョオ」といった怪獣対決モノが検討されていた。

4.「ウルトラQ」のレギュラー俳優を1人残す
→ 最終的には「ウルトラQ」の毎日新報カメラマン・江戸川由利子役の桜井浩子が選ばれた。円谷プロダクション所属のプロデューサーでもあり、「ウルトラマン」では、フジ・アキコ隊員役となった。なお、ウルトラQでは、このころ新人だった石坂浩二がナレーションを務め、「ウルトラマン」でもその前半のナレーションを務めた。

会議の中では「主人公が怪獣では具合が悪い」という意見が圧倒的に多く、監修者の円谷英二から「スーパーマンのようなヒーローを出してみてはどうか」と提案がなされました。

またこの時期、円谷が特技監督を担当していた東宝特撮映画として、人間に味方する巨人と凶暴な怪獣が死闘を展開するという内容の「フランケンシュタイン対地底怪獣」(1965年、東宝)という映画が公開されていましたが、この映画もウルトラマンの企画に少なからず影響を与えていると言われています。

さらに、このころライバル会社のフジテレビ用に企画されていた「Woo」という番組における「人間に味方する友好的宇宙人の活躍」というアイデアがTBS側の誰かにリークされ、これをもとに、TBS側では独自に「科学特捜隊ベムラー」という企画書が作成されました。

この企画書の段階での新番組は、「常識を越えた事件を専門に扱う科学特捜隊」と彼らに協力する正体不明の宇宙人「ベムラー」という設定になっていました。そして既にこのころ、「飛行機事故で消息を絶った主人公がヒーローになって生還する」という内容設定だったそうです。

これはウルトラマンをご覧の方はご存知だと思います。竜ヶ森湖上空で赤い球体と小型ビートルが衝突して墜落し、主人公であるハヤタ隊員が命を落としてしまいますが、この赤い球体の正体が実はM78星雲からやってきた宇宙人だったという、設定です。

ただ、この時点では、主人公とベムラーのこうした明確な関係は企画書には明記されていなかったそうです。

ベムラーの容姿もまた、最初のころは、日本の伝説上の生物・烏天狗を思わせるものが想定されていたそうですが、関係者から「敵怪獣との区別がつきにくい」「ヒーローとしてのキャラクター性が弱い」との指摘がありました。

そこで「ベムラー」企画は再検討され、新たに「科学特捜隊レッドマン」という企画が出されます。

この企画書では、正義の怪獣ではなく「甲冑を思わせるような赤いコスチューム」をまとった「謎の男」として設定され、身長は2メートルから40メートルまで伸縮自在というもので、また、変身時間の制限も導入されていたそうです。

ただし、「ベムラー」の名は第1話の登場怪獣の名前として残されました。最終的には、ウルトラマンが乗った「赤い球体」は、宇宙の墓場へ護送中に逃亡した宇宙怪獣ベムラー(青い球体)を追跡してきたもので、これを追いかけ地球までやってきて、誤ってビートルと衝突したという設定になりました。

また、主人公である科学特捜隊員の名前は「サコミズ(迫水?)」に変更され、彼とヒーローの関係についても「飛行機事故でサコミズを死なせた宇宙人レッドマンが責任を取ってサコミズの身体を借りる」と本作に近いものになり、こうして後の完成作品であるウルトラマンの設定の基本的な部分は出来あがっていきました。

ただし、この時点では、「レッドマン」はすでに故郷が他の惑星の侵略で滅亡していること、サコミズ本人はすでに死亡してその心はレッドマンであること、サコミズには人気歌手の恋人がいること、といった設定があり、完成作品とは少々違っています。

実作ではウルトラマンには帰る故郷があり、主人公は宇宙人の魂を貰って蘇生しており、無論、恋人がいるなどといった設定はありません。

こうして、円谷プロから提示された「レッドマン」のデザインも次第に形をなしてきましたが、幾分ヒーロー的にはなったものの、TBSの拵井巍プロデューサーはもっとシンプルでインパクトのあるデザインを要求します。

また前述のように本作はアメリカへのセールスを予定しており、アメリカの事情に詳しいTBSの大谷乙彦らが「今の形では外国人に受け入れられない。もっと無表情な鉄仮面のようなものの方が謎があっていい」と提案。こうして試行錯誤した結果、今のようなウルトラマンのデザインに収束していきました。

結局、新作のタイトルも、前作の「ウルトラQ」に由来した「ウルトラマン」に変更が決定。

なお、劇中では、第1話でハヤタが最初に正体不明の宇宙人を「ウルトラマン」と命名していますが、ウルトラマン自身がこれを肯定したかどうかは、初回のころには明らかになっていませんでした。

その後、敵対する宇宙人や最終回でウルトラマンを迎えにくるゾフィーも、劇中でこのM78星雲からやってきた宇宙人を「ウルトラマン」と呼んでおり、登場人物たちの間でも回が進むにつれ「ウルトラマン」で定着していきます。ただ、私の記憶では実は彼の生まれ故郷の星に帰れば別の名前が存在する、という設定だったかと思います。

撮影・そして放送

前作の「ウルトラQ」は、劇中に登場する怪獣が好評で「空想特撮シリーズ」呼ばれていました。「ウルトラマン」はこの第2作として、「ウルトラQ」の世界観を継承する番組として制作・放映され、そのスポンサーは武田薬品工業一社でした。

本作では、怪獣が毒殺されるといったシーンは一切出てきませんでしたが、これはスポンサーが武田薬品だったためと言われています、また、第26・27話での関西ロケは武田薬品工業の要請だそうで、本編ではゴモラが武田本社ビルを破壊しています。

こうして撮影が始まった「ウルトラマン」でしたが、この作品はほぼ同時期に放映されたフジテレビの「マグマ大使」とともにカラーで放送される連続テレビ映画の草分け的存在でした。この当時こうした作品は世界にも類例がなく、いずれも巨大な宇宙人を主人公とする大がかりな特撮中心のドラマのため、その番組制作は苦難の連続だったといいます。

前作の「ウルトラQ」は放送前に全話の撮影を終了させる形式をとっていましたが、本作では放映と平行して制作する、その後の一般的なドラマと同様のスタイルとなりました。TBSから支給された予算は、1クールにつき7000万円(1本約538万円)、本編のクランクインは1966年3月下旬でした。

撮影は本編・特撮を同一スタッフが手がける一斑体制でスタートしましたたが、作業は遅々として進まず、途中からは別班を起こし2班による製作体制に変更。

なんとか無事に放映が始まったものの、スケジュールは次第に切迫し、特撮を複数編成にしても間に合わなくなり、しかも他に比類のない特撮には金がかかり、1話につき300万円前後の赤字が出て行く有様でした。

TBS側としては、ウルトラQの人気をも上回る評判を高く評価し、当初の予定放映数以上の番組の続行を望んだといいますが、受ける側の円谷特技プロは悲鳴を上げ、これ以上の続行は不可能とこれを断りました。

両者の間で協議が重ねられた結果、「赤字はともかく、週に一回の放送に間に合わないのが確実になった」ことを理由に3クール39話の放送で一旦終了することが決定し、ウルトラマンの次回作についてはまた話し合おうということになりました。

結局、その次回作の「キャプテンウルトラ」は、円谷特技プロに代わって東映によって「制作されましたが、これが不評であったため、その後再び円谷プロが製作したのが、1967年(昭和42年)~1968年(昭和43年)の間に全49話に渡って製作された「ウルトラセブン」でした……

この項、明日に続く……