野火

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「野火」ということばがあります。

普段あまり使うことはありませんが、改めてどういう意味か調べてみたところ、一番多い説明が、春先に野原の枯れ草を焼く火、としており、これは「野焼き」ともいいます。

しかし、これは人間が意図的に火をつけるものであって、自然では様々な理由で野原などが燃えることがあり、いろいろなケースがありますが、落雷で火がつく場合、乾いた木などが風で動くことでこすれて火がつく場合、火山による場合などがあります。

昨日の8月16日、お盆最後の日の野火は、人が焚き付けるほうで、これは「送り火」と呼ばれます。この反対が迎え火であり、お盆に入った8月13日の夕刻に先祖の霊を迎え入れるために焚きます。

先祖をお送りするために焚く野火のことであり、川へ送る風習もあり、こちらは灯籠流しともいいます。最近は防火上の問題もあり、迎え火も送り火も盆提灯で行うようになりました。また、その盆提灯に灯す灯りも、少し前にはロウソクでしたが、その後電球に代わり、今ではLEDが多くなっています。

人が灯す野火の形も時代ともに変わってきたのだな、と改めて思うわけですが、しかし、自然発火の野火の存在は今も昔も変わりません。

狐火というのもあり、日本全域に伝わる怪火です。ヒトボス、火点し(ひともし)、燐火とも呼ばれます。火の気のないところに、提灯または松明のような怪火が一列になって現れ、ついたり消えたり、一度消えた火が別の場所に現れたりする、といわれるもので、正体を突き止めに行っても必ず途中で消えてしまうといいます。

また、現れる時期は春から秋にかけてで、特に蒸し暑い夏、どんよりとして天気の変わり目に現れやすいといいます。十個から数百個もの狐火が行列をなして現れることもあるといい、長野県では提灯のような火が一度にたくさん並んで点滅したのを見た、という目撃情報もあるようです。

その火のなす行列の長さは一里(約4km)にもわたることもあり、色は赤またはオレンジ色が多いとも、青みを帯びた火だともいろいろいわれます。具体的に現れた場所や状況が伝承されていることも多く、富山県砺波市では人気のない山複で目撃される一方で、石川県門前町(現・輪島市)のように逆に人前に現れ、追いかけてきたといいます。

このように人家が多いところに出てくる狐火は、道のない場所を照らすところが特徴で、それにより人の行先を惑わせるともいわれています。つまり、人を「化かす」というヤツで、その仕業は狐であると信じられたことから、狐火と言われるようになったのでしょう。

長野県はとくに狐火の伝承が多く、そのうちの飯田市では、そのようなときは足で狐火を蹴り上げると退散させることができる、ということが言われているようです。

狐といえばお稲荷さんなどの神社にもよく祀られています。出雲国(現・島根県)では、狐火に当たって高熱に侵されたとの伝承もあり、この狐火は「行逢神(いきあいがみ)」のようなものとする伝承もあります。これは不用意に遭うと祟りをおよぼす神霊のことです。

しかし、これもまた長野の伝説では、ある主従が城を建てる場所を探していたところ、白いキツネが狐火を灯して夜道を案内してくれ、城にふさわしい場所まで辿り着くことができたという話もあり、かならずしもワリィやつとばかりもいえないようです。

そういえば、お天気雨のことを「狐の嫁入り」と呼びますが、これも狐の悪さとはされるものの、おめでたい嫁入りの行事、ということで、一般には好意的に受け止められます。

キツネには不思議な力があるとされ、キツネの行列を人目につかせないようにするため、晴れていても雨を降らせると考えられてきました。また、めでたい日にもかかわらず涙をこぼす嫁もいたであろうことから、妙な天気である天気雨をこう呼んだともいわれます。

「晴れの日に滾々(コンコン)と降る」という意味の駄洒落であるという説もあり、昔の人は、晴れていても雨が降るという真逆の状態が混在することを、何かに化かされている、と感じたのでしょう。なお、地方によっては必ずしもお天気雨とは限らず、熊本では虹が出たとき、愛知では霰(あられ)が降ったときが狐の嫁入りだそうです。

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一方、昭和中期頃までは、上述の野火が、嫁入り行列の提灯の群れのようにも見えるので、こちらも、狐の嫁入りと言っていました。正岡子規も俳句で冬と狐火を詠っており、その出没時期は一般に冬とされています。しかし、夏の暑い時期や秋に出没した例も伝えられています。

「狐の嫁入り」としての野火の目撃例も多く、宝暦時代の越後国(現・新潟県)の地誌で4キロメートル近く並んで見えることを「狐の婚」と記述しているのを初めとし、同様の狐の嫁入り提灯の話が、東北から中国地方に至るまで各地にあります。

必ずしも「狐の嫁入り」という呼称ではなく、「狐の婚」のほか、埼玉県草加市や石川県能都町では、「狐の嫁取り」といい、静岡の沼津では、「狐の祝言」と呼ぶようです。

この狐の嫁入り提灯が多数目撃されたという昭和中期頃までの日本では、まだまだ結婚式場などというものは普及しておらず、夕刻に実家で待つ嫁を、嫁ぎ先の人間が提灯行列で迎えに行くのが普通でした。

その婚礼行列の連なる松明の様子に似ているため、キツネが婚礼のために灯す提灯と見なされようになった、というわけです。こうした行列では延々と提灯を持った人の行列が続きますから、いつまでたっても最後尾にいるはずの「嫁入り」が見えない、ということも往々にあり、そうしたことも狐が人を化かしているように思えたのでしょう。

こうした婚礼のクライマックスは神社で行われるのが普通です。従って、現代においても、この狐提灯にちなんだ神事や祭事が日本各地で散見されます。

現・東京都北区は、こうした狐火のメッカとされ、かつて江戸時代に、豊島村といわれていた豊島地区でも、暗闇に怪火が連続してゆらゆらと揺れるものが目撃されて「狐の嫁入り」と呼ばれており、同村に伝わる「豊島七不思議」の一つにも数えられています。

この豊島のすぐ近くにある、王子稲荷(北区岸町)は、お稲荷さんの頭領として知られると同時にとくに狐火の名所とされています。

かつて王子周辺が一面の田園地帯であった頃、路傍に一本の大きなエノキの木がありました。毎年大晦日の夜になると関八州(関東全域)のキツネたちがこの木の下に集まり、正装を整えると、官位を求めて王子稲荷へ参殿したといいます。

その際に見られる狐火の行列は壮観だったそうで、平安時代以降、近在の農民はその数を数えて翌年の豊凶を占ったと伝えられており、歌川広重の「名所江戸百景」の題材にもなっているほどです。このエノキは、明治時代に枯死したようですが、「装束稲荷神社」と呼ばれる小さな社が、旧王子二丁目電停の近傍に残っています。

地元では地域おこしの一環としてこの伝承を継承し、1993年より毎年大晦日の晩には、「王子狐の行列」と呼ばれるイベントを催しています。

このように、狐火、あるいは狐の嫁入りは、日本各地で目撃されてきましたが、こうした狐火については、実際の灯を誤って見たか、異常屈折の光を錯覚したものではないか、という意見も根強いようです。戦前の日本では「虫送り」といって、農作物を病害から守るため、田植えの後に松明を灯して田の畦道を歩き回る行事がありました。

狐の嫁入りは、田植えの後の夏に出現するという話も多く、また水田を潰すと見えなくなったという話が多いことから、この虫送りの灯を見誤ったのではないか、ということも言われています。

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このほかにも、各地の俗信や江戸時代の古書では、キツネの吐息が光っている、キツネが尾を打ち合わせて火を起こしている、キツネの持つ「狐火玉」と呼ばれる玉が光っているなどの色々な伝承があります。

その多くは現れたあと痕跡もなく消えてしまいます。ただ、何等かの痕跡を残す例もあり、これを根拠に物理的にありうる現象ではないか、とする説もあります。

「痕跡」としては例えば「糞」があります。埼玉県行田市では、谷郷の春日神社に狐の嫁入りがよく現れるといい、そのときには実際に道のあちこちにキツネの糞があったといい、狐火の原因の証明にはなりませんが、そこに狐が実際にいたことの証拠とされます。

また、岐阜県武儀郡洞戸村(現・関市)では、狐火が目撃されるとともに竹が燃えて裂けるような「音」が聞こえ、これが数日続いたといわれます。

寛保時代(1741~43年)の雑書「諸国里人談」では、元禄の初め頃、漁師が網で狐火を捕らえたところ、網に「狐火玉」がかかっていたといい、夜になると明るく光るので照明として重宝した、とあります。

ここまでくるとでっち上げとしか思えませんが、江戸初期の元禄時代(1688~1704年)の医薬本「本朝食鑑」には、より具体的にこの狐火の原因について触れています。

狐火は、英語では“fox fire”といいますが、「fox」には「朽ちる」「腐って変色する」という意味もあります。また、これが“fox fire”となると、その意味は「朽ちた木の火」、「朽木に付着している菌糸」、「キノコの根の光」を意味します。

そして、「本朝食鑑」には、この狐火の正体を「地中の朽ち木の菌糸が光を起こす」としており、英語の意味と同じになります。これは偶然の一致というよりも、おそらくは何等かの発光体を持つキノコが日米それぞれに存在していた(いる)ことをうかがわせます。

「ツキヨタケ」という、日本を中心として極東ロシアや中国東北部にも分布する発光キノコがあります。従来、発光性を有するのは、傘の裏側のひだのみだ、といわれてきましたが、近年の研究では、菌糸体についても肉眼的には検知できないほど微弱な光を発していることが判明しています。同様の発光キノコは北米にも多いようです。

また、「本朝食鑑」には、これ以外にも、キツネが人間の頭蓋骨やウマの骨で光を作っている、という記述が出てきます。

江戸後期の作家、高井蘭山や、随筆家・三好想山などの作家もまた、キツネがウマの骨を咥えて火を灯すと書いています。もっとも、この二人は高井は絵物語の読み本の作者、三好は奇談の収集家であり、多少興味本位で「本朝食鑑」の記述を改ざんした可能性があります。

また、明治時代に怪談話で一世を風靡した、東北の作家、杉村顕道が書いた奇談集「信州百物語」にも、ある者が狐火に近づくと、人骨を咥えているキツネがおり、キツネが去った後には人骨が青く光っていたとありますが、この話も本朝食鑑や、高井・三好らの作品を流用した可能性があります。

これらに比べて「本朝食鑑」は、日本の食物全般について、全12巻にわけて、品名を挙げ、その性質、能毒、滋味、食法その他を詳しく説明した博物書であり、傑作だと評価の高いもので、より信憑性があります。狐火の原因を発光キノコに求めているところなども科学的です。

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ただ、キツネが骨で光を作っている、というのがどういう根拠で出てきたのかはよくわかりません。が、この時代の人々のなかにも、狐火が発生する原因について、解明できないまでも、何等かの理由を探そうと努力していた人たちがいたわけです。

しかも、人の骨やウマの骨が光るというのは、まったく根拠のないことではありません。骨の中に含まれるリン(燐)は、夜間に光ることが知られています。後に東洋大学となる哲学館を設立した「井上円了」らは、この燐光を狐火と結び付け、リンが約60度で自然発火することが、狐火の正体だとする説を唱えました。

この人は、多様な視点を育てる学問としての哲学に着目し、また、迷信を打破する立場から妖怪を研究し「妖怪学講義」などを著したことで知られた人です。「お化け博士」、「妖怪博士」などと呼ばれました。

また燐は、農作物の生育にも必要不可欠なものであり、土中に多く含まれています。新潟や奈良県磯城郡などでは、狐の嫁入りなどの怪火の数が多い年は豊年、少ない年は不作といわれてきました。

その昔はリンの存在は知られていませんでしたが、こうした地方の人々は狐火の発光によって、知らず知らずにその年の土中に含まれるリンの量を把握していたことになります。

ただ、多くの伝承上の狐火は、キロメートル単位の距離を経ても見えるといわれており、発光キノコやこうしたリンの弱々しい光が狐火の正体とは考えにくい面もあります。

このため、狐火の正体を別の面から解明しようとする研究者もおり、最近では1977年に、日本民俗学会会員の角田義治という人が、山間部から平野部にかけての扇状地などに現れやすい光の異常屈折によって狐火がほぼ説明できる、と発表しました。

が、これに対しても異論は多数あるようです。ほかにも天然の石油の発火、球電現象などをその正体とする説もあるようですが、現在なお正体不明の部分が多く、狐火の正体を突き止めた人は未だいません。。

ところで、こうした狐火とは別に「鬼火」と呼ばれるものもあります。同じく、いわゆる「人魂」とされるもので、狐火と同じものだ、とする説もあるようですが、一般には鬼火とは別のものとして扱われています。

日本各地で目撃されたとする、空中を浮遊する正体不明の火の玉のことであり、一般に、人間や動物の死体から生じた霊、もしくは人間の怨念が火となって現れた姿である、と言われています。

アイルランドやスコットランドなどのイギリス地方では、ジャックランタンといった怪火が昔から目撃されており、この日本語訳としても「鬼火」の名が用いられることがあります。イギリス以外にも世界中で目撃されており、一般的にはウィルオウィスプ(will-o’-the-wisps)で知られています。

グニス・ファトゥス(愚者火)とも呼ばれ、他にも別名が多数あり、地域や国によって様々な呼称があります。こうした諸外国の鬼火は、夜の湖沼付近や墓場などに出没し、近くを通る旅人の前に現れ、道に迷わせたり、底なし沼に誘い込ませるなど危険な道へと誘うとされます。

そして、その正体は、生前罪を犯した為に昇天しきれず現世を彷徨う魂、洗礼を受けずに死んだ子供の魂、拠りどころを求めて彷徨っている死者の魂、ゴブリン達や妖精の変身した姿だ、などとされます。

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日本でも、亡霊や妖怪が出現するときに共に現れる怪火とされることが多いようです。江戸時代に記された「和漢三才図会」によれば、松明の火のような青い光であり、いくつにも散らばったり、いくつかの鬼火が集まったりし、生きている人間に近づいて精気を吸いとるとされます。これは、江戸時代中期に編纂された類書(百科事典)です。

同図会の挿絵からは、この鬼火の大きさは直径2~3センチメートルから20~30センチメートルほど、地面から1~2メートル離れた空中に浮遊する、と読み取れるといいます。が、あくまで想像の世界の絵なので、実際にその大きさや高さとは限りません。

江戸時代中期から後期にかけての、勘定奉行、南町奉行を歴任した「根岸鎮衛」というお役人がいましたが、この人が書いた随筆にも「鬼火の事」という記述があります。

ここでは、箱根の山の上に現れた鬼火が、二つにわかれて飛び回り、再び集まり、さらにいくつにも分かれたといった逸話が述べられています。箱根山上のものが見えるということは、大きさもかなりのものであるはずであり、また浮遊高さも1~2mで済むわけはありません。

そのほかにも、現在に至るまでいろいろな目撃情報があり、外見や特徴にはさまざまな説が唱えられています。が、その色は青だとされるものが多く、このほかでは、青白、赤、黄色などがあります。大きさも、ろうそくの炎程度の小さいものから、人間と同じ程度の大きさのもの、さらには数メートルもの大きさのものまでさまざまです。

上の根岸が目撃したように、1個か2個しか現れないこともあれば、一度に20個から30個も現れ、時には数え切れないほどの鬼火が一晩中、燃えたり消えたりを繰り返すこともあります。出没時期は、春から夏にかけての時期。雨の日に現れることが多く、水辺などの湿地帯、森や草原や墓場など、自然に囲まれている場所によく現れます。

が、まれに街中に現れることもあります。このため手で触れた「体験談」を語った伝承もあり、触れても火のような熱さを感じない、とする伝承もあれば、本物の火のように熱で物を焼いてしまったとするものもあります。

こうした鬼火と考えられている怪火には、地方によっても色々異なった形態がありますが、名前についてもいろいろです。

例えば高知では、遊火(あそびび)といい、高知市内の市や三谷山で、城下や海上に現れます。すぐ近くに現れたかと思えば、遠くへ飛び去ったり、また一つの炎がいくつにも分裂したかと思えば、再び一つにまとまったりしますが、特に人間に危害を及ぼすようなことはないので、遊び火というようです。

このほか、岐阜県揖斐郡揖斐川町では「風玉」といい、こちらは、暴風雨が生じた際、球状の火となって現れます。大きさは器物の盆程度で、明るい光を放つといい、明治30年の大風では、山からこの風玉が出没して何度も宙を漂っていたといいます。

京都には、「叢原火」、または「宗源火(そうげんび)」というのがあり、これはかつて壬生寺の地蔵堂で盗みを働いた僧侶が仏罰で鬼火になったものとされ、火の中には僧の苦悶の顔が浮かび上がったものだとされています。

同じく京都の、北桑田郡知井村(現・美山町、現・南丹市)には渡柄杓(わたりびしゃく)
という鬼火があり、これは山村に出没し、ふわふわと宙を漂う青白い火の玉です。柄杓のような形と伝えられていますが、実際に道具の柄杓に似ているわけではなく、火の玉が細長い尾を引く様子が柄杓に例えられているとされます。

このほか、沖縄のものは「火魂(ひだま)」といい、こちらは普段は台所の裏の火消壷に住んでいますが、時に鳥のような姿となって空を飛び回り、物に火をつけるとされます。

これらのほかにも、いげぼ(三重県度会郡)、小右衛門火、じゃんじゃん火、天火といった鬼火があり、「陰火」と「皿数え」は、ともに怪談話でよく語られる鬼火です。とくに皿数えは、「皿屋敷」のお菊の霊が井戸の中から陰火となって現れるもので、このとき現れたお菊さんは、例の「一枚足りな~い」という名ゼリフを吐きます。

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上の狐火は、発光キノコによるものではないか、あるいは燐光によるものではないか、など、その解明に向けて科学的なアプローチがされるのに対し、この鬼火のほうは、せいぜい江戸時代に川原付近で起きる光の屈折現象ではないか、とされるくらいであまり研究がされていないようです。

その最大の理由は、目撃証言の細部が一致していないためです。上述のとおり、地方地方によって呼び名も異なり、「鬼火」という総称もいくつかの種類の怪光現象を無理やりまとめあげるためにつけられたような印象があります。

ただ、雨の日によく現れる、とされることが多く、これから、狐火と同じく人や動物の骨が濡れることで内部にあるリンと化学反応を起こすのではないか、ということはよく言われます。紀元前の中国では、「人間や動物の血から燐や鬼火が出る」と語られていました。

ただし、当時の中国でいう「燐」は、ホタルの発光現象や、現在でいうところの摩擦電気も含まれており、必ずしも元素のリンを指す言葉ではないと思われます。

日本でも、前述の「和漢三才図会」の解説によれば、「鬼火」とは、「戦死した人間や馬、牛の血が地面に染み込み、長い年月の末に精霊へと変化したもの」と書かれています。

この「和漢三才図会」から1世紀後の明治21年には、新井周吉という作家が「不思議弁妄」という怪奇本を出し、この中で「埋葬された人の遺体の燐が鬼火となる」と書いたことから、近代日本でもこの説が一般化したようです。

この解釈は1920年代頃までには広く喧伝され、昭和以降の辞書でもそう記述されるようになり、多くの人が、人魂は人骨のリンが燃えている、と信じるようになりました。昭和30年代には、自称「発光生物学者」の「神田左京」という人が、この説にさらに解説を加えました。

リンは、1669年にドイツ人のヘニング・ブラントという錬金術師が、実験中に、尿を蒸発させた残留物から発見し田とされていますが、神田はその事実にも触れ、さらにリンに「燐」の字があてられのは、上述の中国での鬼火の故事に出てくる燐が、元素のリンと混同された結果だ、と説明しました。

これは全くそのとおりです。ただし、この神田氏は、鬼火とは、死体が分解される過程でリン酸中のリンが発光する現象である、とも説明しましたが、これには科学的な根拠はないようです。

ところが、この説には尾ひれがつき、いや、リン自体ではなくリン化水素のガス体が自然発火により燃えているという、まことしやかな説や、死体の分解に伴って発生するメタンが燃えているという説、同様に死体の分解で硫化水素が生じて鬼火の元になるとする説など、次々と新説が唱えられるようになりました。

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最近では、放電による一種のプラズマ現象によるものだとする学者もいて、雨の日に発生することが多いという、セントエルモの火と同じだと説明する学者もいます。これは、悪天候時などに船のマストの先端が発光する現象で、激しいときは指先や毛髪の先端が発光する。航空機の窓や機体表面にも発生することがあります。

セントエルモの火の名は、船乗りの守護聖人である聖エルモに由来します。その後の研究で、尖った物体の先端で静電気などがコロナ放電を発生させ、青白い発光現象を引き起こすことがわかっており、雷による強い電界が船のマストの先端(檣頭)を発光させたり、飛行船に溜まった静電気でも起こることが確認されています。

1750年、ベンジャミン・フランクリンが、この現象と同じように、雷の嵐の際に先のとがった鉄棒の先端が発光することを明らかにしており、物理学者の大槻義彦氏もまた、こうした怪火の原因がプラズマによるものとする説を唱えています。テレビなどのメディアで有名な先生で、超常現象なら何でもありえん、と否定することで有名な方です。

さらには、真闇中の遠くの光源は止まっていても暗示によって動いていると容易に錯覚する現象が絡んでいる可能性がある、と心理学的な観点からの原因を主張する学者もいます。

いずれの説も、確かに科学的なアプローチに基づいており、そういわれればなんとなくそういう気にもなってきますが、前述のように鬼火の伝承自体が様々であることから考えても、いろいろある鬼火の原因を十把一絡げにまとめてしまうこと自体に、無理があるようにも思われます。

また、鬼火と狐火は別物だとする意見があるのと同じく、鬼火と人魂は別物だとする意見もある一方で、じゃあ何がどう違うのよ、と聞かれて、はっきりそうだと言える人がいないのも現実です。こうした怪火、とされるものについての原因究明はさっぱり進んでいないのが現状といえるでしょう。

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九州には、不知火(しらぬい)という、こうした現象とはまた違った怪火の伝承があります。海岸から数キロメートルの沖に、始めは一つか二つ、「親火(おやび)」と呼ばれる火が出現し、それが左右に分かれて数を増やしていき、最終的には数百から数千もの火が横並びに並ぶといいます。

「日本書紀」に出てくる第12代天皇、景行天皇は、九州南部の先住民を征伐するために熊本を訪れた所、この不知火を目印にして船を進めたとされており、この地方の昔からの風物詩でもあります。

旧暦7~8月の晦日の風の弱い新月の夜などに、八代海や有明海に現れるといいます。その距離は4〜8キロメートルにも及ぶといい、また引潮が最大となる午前3時から前後2時間ほどが最も不知火の見える時間帯とされます。

水面近くからは見えず、海面から10メートルほどの高さの場所から確認できるそうですが、不知火に決して近づくことはできず、近づくと火が遠ざかって行くといわれ、かつては龍神の灯火といわれ、付近の漁村では不知火の見える日に漁に出ることを禁じていました。

実はこちらの怪火は、ある程度科学的には説明できるようになっていて、これは大気光学現象の一つとされています。江戸時代以前まで妖怪の仕業といわれていましたが、大正時代になってから科学的に解明しようという動きが始まり、その後、蜃気楼の一種であることが解明されました。

さらに、昭和時代に唱えられた説によれば、不知火の時期には一年の内で海水の温度が最も上昇すること、干潮で水位が6メートルも下降して干潟が出来ることや急激な放射冷却、八代海や有明海の地形といった条件が重なり、これに干潟の魚を獲りに出港した船の灯りが屈折して生じる、と詳しく解説されました。

つまり、不知火とは、気温の異なる大小の空気塊の複雑な分布の中を通り抜けてくる光が、屈折を繰り返し生ずる光学的現象であり、その光源は民家等の灯りや漁火などです。条件が揃えば、他の場所・他の日でも同様な現象が起こります。

その昔は、旧暦八朔のころ、現在では8月末から9月末にかけて、この地方では未明に広大なる干潟が現れました。

このとき、冷風と干潟の温風が渦巻きを作り、異常屈折現象を起こしますが、このとき沖合には夜間に出漁した漁船も多く、不知火の光源はこの漁火となりました。この漁火は燃える火のようになり、それが明滅離合して目の錯覚も手伝い、陸上からは怪火のように見えた、というわけです。

現在では干潟が埋め立てられたうえ、電灯の灯りで夜の闇が照らされるようになり、さらに海水が汚染されたことで、不知火を見ることは難しくなっているといいます。こうした怪火とされるものも環境の悪化によって次第に失われつつあるとすれば、少々悲しい気がします。

いつの日か人魂や狐火も見れなくならないよう、いつまでも美しい日本の自然を守っていきたいものです。

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トォース!

2014-6177修善寺から下田へ下る途中の湯ヶ島に、「明徳寺」という曹洞宗の古刹があります。

先月の末、ここでお祭りがあり、夜には花火大会なども開かれたようなのですが、残念ながら参加できませんでした。が、前々から気になっていた場所であり、先日、湯ヶ島方面に行く機会があったので、ちょっとよってみることにしました。

実は、このお寺には「便所」の神様が祀られています。便所は、古くは「東司(とうす)」とよばれており、この東司の守護神とされるのが「烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)」です。

寺自体は、南北朝時代末期の明徳年間に、曹洞宗の利山忠益という禅師により創建されたとされています。曹洞宗はいわゆる「禅宗」であり、伊豆では昔から曹洞宗のお寺が多かったようで、修善寺にある、「修禅寺」もまた弘法大師が開祖といわれる曹洞宗のお寺です。もっとも弘法大師は真言宗を開いた人であり、当初は真言宗のお寺でしたが。

明徳年間といえば、1390年から1393年までの期間であり、今から600年以上も前です。時は南北朝時代(室町時代)であり、将軍は足利義満。この時代の天皇は、北朝方が後小松天皇、南朝方が後亀山天皇で、双方がいがみ合って畿内を中心としてあちこちに内乱が起こっていた時代です。

この時代の伊豆は、鎌倉幕府が瓦解後、勢力が突出していた北条氏が落ちぶれ、伊東氏や狩野氏、工藤氏や河津氏といった豪族が群雄割拠していた時代であり、これらを平定する北条早雲が現れるのは、これよりさらに100年ほどのちのことです。

この明徳寺のある湯ヶ島は、14世紀末には既に、“お湯がいたる所に湧いている”場所という記録があることから、この当時から既に湯治場として利用されていた可能性があり、伊豆の有力者も頻繁に出入りする堀越御所のあった長岡からも比較的近いことから、こうした有力者の誰かの援助でこの寺も創建されたのでしょう。

位置的には狩野氏の居城のあった狩野城も近く、狩野氏をパトロンとして創建されたというのが妥当な推理かと思われます。狩野氏はその後北条早雲によって滅ぼされましたが、その子孫たちは地方に散らばり、そのうちの狩野景信という人がその後絵師として名をはせ、以後狩野派は日本画の主流となり、日本画壇に君臨するようになりました。

これら狩野氏の一連の話は、かなり前に書いた「狩野城」というブログに詳しいので、こちらも参照してみてください。

さて、この狩野氏が援助して建てられたと思われる明徳寺に祀られている烏枢沙摩明王は、不浄なものを浄化する徳を持っているとされる「お便所の神様」です。この明王さまには「おさすり」「おまたぎ」と呼ばれる部分があります。その形状はご想像にお任せしますが、これを撫でたり跨いだりすると下半身の病気に御利益があるといわれます。

毎年8月29日に伊豆三大奇祭ともいわれる、東司祭が行われますが、これが冒頭で述べた私が見逃したお祭りです。ほかのふたつは、尻つみ祭り、どんつく祭り、といい、尻つみ祭りは、源頼朝と八重姫が逢瀬を楽しんだと言われる伊東の音無神社で行われます。

神事は真っ暗な社殿の中で行われ、お神酒を回すのに、隣の人のお尻をつまんで合図したことから、「尻つみまつり」と言われたそうで、現在では境内で、お囃子のリズムにのってお尻をぶつけ合うユーモラスな尻相撲大会が行われるそうです。

また、どんつく祭りのほうは、伊豆南東部の稲取で行われる祭りで、男性のシンボルをかたどったご神体を神輿で担ぎ、夫婦和合、子孫繁栄などの願いを込めて、ドンと突く!のだそうで、こちらはなんと弥生時代からあるお祭りだそうです。いずれのお祭りも下ネタが特徴であり、面白そうなのでいずれ機会があったら行ってみたいと思います。

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東司の烏枢沙摩明王はもともと、インド密教における明王さまで、古代インド神話において元の名を「ウッチュシュマ」、或いは「アグニ」と呼ばれた炎の神でした。天界の「火生三昧」と呼ばれる炎の世界に住し、人間界の煩悩が仏の世界へ波及しないよう聖なる炎によって煩悩や欲望を焼き尽くす明王です。

「この世の一切の汚れを焼き尽くす」ほどの功徳を持ち、仏教に包括された後も「烈火で不浄を清浄と化す」神力を持つことから、心の浄化はもとより日々の生活のあらゆる現実的な不浄を清める功徳があるとされてきた火の仏です。日本に入ってきてからは意訳から「不浄潔金剛」や「火頭金剛」とも呼ばれました。

遠い昔のこと、ある時、インドラ(帝釈天)さまは、仏が糞の臭気に弱いと知り、ちょっとしたいたずら心から仏を糞の山で築いた城に閉じ込めてしまったといいます。

そこに烏枢沙摩明王が駆けつけると大量の糞を自ら喰らい尽くし、仏を助け出したという伝説があり、この功績により烏枢沙摩は仏様から「厠」の守護者に任命されるようになったといいます。

厠は、すなわちトイレのことです。この厠の神様ということで、当然その功徳は便所を清めてくれるということですが、また一般的には下半身の病に霊験あらたかであるとされています。

便所は不潔な場所であるゆえ、日本では古くから人々はこれを「怨霊や悪魔の出入口」と考えており、このため、烏枢沙摩明王の炎の功徳によって清浄な場所に変えるという信仰が広まったのでしょう。

烏枢沙摩明王はとくに曹洞宗の寺院で祀られることが多く、伊豆以外にも海雲寺(東京品川)、瑞龍寺(富山高岡市)、万願寺(千葉県)、来振寺(岐阜県)、観音正寺(滋賀県)、大龍寺(京都市)などがあります。静岡でもほかにもうひとつ、袋井市に秋葉総本殿というお寺で烏枢沙摩明王を祀っているようです。

この明王はまた、胎内にいる女児を男児に変化させる力を持っていると言われ、男児を求めることが多かった戦国時代の武将に広く信仰されてきており、「烏枢沙摩明王変化男児法」という祈願法として今も伝わっています。何かと争乱の多かった伊豆でも男子が常に求められており、明徳寺でこの明王が祀られていることもこれとは無関係ではないでしょう。

ちなみに「トイレの神様」で有名になった、シンガー・ソングライターの植村花菜さんは、明徳寺でこの曲のヒット祈願をして絵馬を奉納したそうです。

便所のことをなぜ昔の人は東司といったかですが、これは元々仏教寺院における便所を守る神様のことでした。が、やがて便所の建物をさす言葉となり、曹洞宗のような禅宗寺院では古くは重要な伽藍であり、立派なものも多かったようです。通常、東司と西司の二つがあり、この伽藍を管理する寺の役職名として、「西浄」と「東浄」のふたつがありました。

が、東司や西司とされる遺構で現存しているものは少ないそうです。また二つも同じ役職があるとややこしいためか時代とともに西のほうがなくなり、「東浄」と「東司」だけが残りましたが、やがてトイレの管理者も不要ということで「東浄」という役職は消え去り、そして、トイレのことを東司とよぶ風習だけが残りました。

しかし、現在ではこの東司という言葉も使いません。ちょっと東司に行ってきます、といっても通じることはまずありません。また厠へ行く、という人もそれほど多くなく、便所、という響きもなにやら汚らしく聞こえるためか、たいていの人は「トイレ」と呼びます。

このトイレは、いわずもがなですが、大小便の排泄の用を足すための設備を備えている場所であり、悪臭を放ち周辺の環境を汚損するおそれのある汚物を衛生的に処分するための機能を持っています。

近年の日本では、施設の多くが水洗ですが、日本以外では乾燥させたり、燃焼させたり、乾燥地帯では砂を掛けて糞便を乾燥させて処分する様式も見られます。が、衛生的に処理できればその方法はなんでもいいわけです。気候・風土・生活習慣によって、求められる機能も様々であるため、世界各地には様々な便所が存在します。

不潔、不浄なイメージが強いため、日本も含め、多くの文化圏で婉曲表現が存在します。日本の「厠(かわや)」という呼び方は古く、「古事記」に既にその記載があるそうで、ただし、文字は施設の下に水を流す溝を意味する「川屋」だったようです。

時代が更に下ると、あからさまに口にすることが「はばかられる」ために「はばかり」「手水(ちょうず)などと呼ぶようになり、中国の伝説的な禅師の名から「雪隠(せっちん)」という語も使われるようになりました。

これは唐の時代の人で、正式には雪竇(せっちょう)禅師と呼ばれていたようですが、なぜこれが雪隠になったのかについては諸説あります。

ひとつは、雪竇禅師がいた中国浙江省の雪竇山霊隠寺で便所の掃除をつかさどったという故事から、また、この霊隠寺というお寺にトイレの掃除の大好きな雪という和尚がいたため、和尚の名前の「雪」と寺の名前の「隠」をとって雪隠という言葉が生まれたという説。

さらには、これは中国由来ではなく、日本にあった雪隠寺というお寺の雪宝和尚という人がトイレで悟りをひらいたから、あるいは、上でも述べた「西浄」の読みの「せいじょう」が、「せいじん」となり、さらになまって、「「せっちん」になったという説など色々です。

また、中国ではかつて、青い椿を便所のそばに植えて覆い隠したことから、トイレを青椿(せいちん)と呼んでいたそうで、この「せいちん」がなまって「せっちん」になったという説もあります。

青い椿?ということなのですが、この当時には時に国一つが買える値段で取引され、万病にも効く薬だとされた蒼椿があったという伝説があるようで、本当にあったかどうかはわかりません。が、椿をトイレの側に植える風習があったとみえ、これを隠語で蒼椿と呼んだのでしょう。

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さらに時代が下り、昭和になると「ご不浄」から「お手洗い」「化粧室」としだいに表現がより穏やかなものが使われるようになりました。また、「男性化粧室」と表記する施設もあるようですが、男子は化粧しませんからこの表現は少々ヘンです。戦後では「トイレ」が主流となり、Water Closet の頭文字をとって「W.C.」などが使われるようになりました。

Closetは倉庫、納戸の意味があり、水が出る小屋、というほどの意味でしょう。これももとは暗喩です。また、「トイレ」は元々「トイレット(toilet)」という英語ですが、これは「化粧室」の意味です。が、「便器」の意味もあるようなので、欧米ではあまり使いません。

日常会話では、住居において同室に設置されることが多い風呂と合わせて「Bathroom」と呼ぶことが多く、本来は「休憩室」を意味する「Rest Room」のも多いようです。あるいは「Men’s/Lady’sRroom」と婉曲的な表現が用いられることもあります。

日本語の「便所」は、「便器」とおなじく、かなり直接的な表現です。このため近年では、公衆便所を公衆トイレに変えるべきという議論をわざわざ行った自治体もあるといい、例えば東京荒川区では「便という言葉に不潔なイメージがあり、語呂も悪い」という理由で、公衆トイレに変更する条例案が区側から提出されたことがあります。

荒川区議会でこれを議論した結果、この条例案は賛成多数で可決、本会議で採決されることになったといいます。しかし、もともと「便所」という用語もまた婉曲的な表現だったということをこの議員さんたちは知っていたのでしょうか。

便所の語源は「鬢所(びんしょ)」であり、「鬢」とは頭部の左右側面の髪のことで、室町時代の貴族の家で、この鬢を整え身支度をする場所を鬢所と呼んでいたことに由来します。

また、身支度に適した便利な場所という意味から「便利所・便宜所」が変化したという説もあります。いずれの場合でも、現在使用されている「化粧室」に近い丁寧な表現だったことが理解できます。が、いつのまにやらこれもまた汚らしいイメージを持つようになってしまっており、これは、排泄物のことを「便」と呼ぶようになっためでしょう。

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古くは「糞」といっていたものを、明治時代あたりから便と呼ぶようになったようで、「便の」原義は「順調、スラスラ」ということです。他に簡便、至便などの言葉がありますが、もともとは「好都合」の意味であり、「郵便」とは好都合な伝達・通信手段の意味です。

排泄物ということで、便もまた、「スラスラ出るもの、出ると快適で好都合なもの」の婉曲表現だったものですが、時代を経るにつれて、婉曲表現としての機能を失っていき、排泄物そのものととられることが多くなり、これが便所の「便」と重なったわけです。

従って「便所」という言葉には、元々の語源である「鬢所」の意味と、「便を出す所」という二つの意味があるわけです。このように時代ごとの背景により、ふだん使いしている言葉の意味が変わっていくというのはよくあることです。

「ご丁寧」、とか、「ご立派」というのも本来は美化語ですが、最近は「ご丁寧にも」とか「ご立派なことで」とかマイナスイメージで使われることが多くなっているのと同じです。便所という言葉も時代とともに捉われ方が変わってきており、現在の「トイレ」もいずれは汚いと思われるようなり、違う表現に改められていくのかもしれません。

この便所そのものは古墳時代からもうすでにあったようで、それ以前の弥生時代の遺跡にも下水道のような構造が見られることから、遅くともこの時代には排泄専門の施設として便所が成立していたと考えられます。

「古事記」や「日本書紀」には、皇族が厠に入ったところ誰それに狙われた云々といったことが書かれているそうで、厠で暗殺された人物の記述もあるといい、さらに平安時代の貴族は「樋箱」というおまるを使用していたこともわかっています。

一方、「餓鬼草紙」といった絵巻物には、庶民が野外で糞便する光景が描かれており、このことからこのころの一般の人は便所を使用しなかったことが伺われます。しかし、のちには宮廷で主流であった穴を掘っただけの汲み取り式便所が登場するようになり、これは設置がいたって簡単であることからその後長い間日本のトイレの主流となりました。

ところが、皇族や高い身分の武士はさらに進化していました。とくに貴人の排泄物から健康状態を確認するといったことが行われたため、引き出し式トイレが普及し、これによって側人が主人の健康を管理するといったことが行われるようになりました。

が、これは身分の高い人のみの特権であり、一般にはやはり汲み取り式のトイレが普通であり、鎌倉時代~戦国時代における京都などの都市部では、各家庭に厠が付くようになりました。戦乱の時期でもあったことから、武家の家のトイレでは襲撃に備えて人が座った正面にも面に扉があったといいます。

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時代が下って江戸時代になると、とくに農村部では大小便(し尿)を農作物を栽培する際の肥料としても使うようになり、高価で取引されるようになりました。江戸、京都、大坂など人口集積地では、共同住宅の長屋などに共同便所が作られ、ここに集まるし尿を収集し商売するものが現れました。

農村部でもし尿を効率的に集めるため、母屋とは別に、独立して便所が建てられるようになりましたが、この頃のトイレは母屋の外に設けられるのが普通であり、とくに田舎ではこの形式はその後戦後まで普通でした。

民家が密集する都会では、わざわざ外にトイレを作るよりも母屋に設置したほうが効率的なので、田舎よりも早くトイレが母屋に移動するようになったと思われますが、それでも戦後すぐにはトイレ別棟は普通だったようです。

江戸時代より前の便器は大型の瓶であり、その上に大きな木枠、木の板を乗せ用を足す事が多く、また、小さな川の上に便所を設置することもあり、これが川屋と呼ばれるようになり厠の語源になった、とは上でも書きました。また琉球などにおいては中国と同じように、便所の穴の下でブタを飼い、餌として直接供給する豚便所も存在していたそうです。

大正時代から昭和にかけて、トイレ後の手洗いがそれまでの水盆式手水(ちょうず)から、軒下につるされた陶器、ブリキ、ホーロー製等の手水を使用する形式になりました。「手水」は、トイレに行くを意味する暗喩となり、これが現在も「お手水に行く」や「ご不浄」、「御手洗」等の現代にも使用される言葉として残っています。

その後、農業へのし尿の利用は廃れていきました。日本を占領した連合国軍のアメリカ軍兵士は、サラダなど野菜を生で食べる習慣があり、回虫など寄生虫感染防止という衛生上の理由から、このし尿利用による野菜栽培を禁じました。

また、化学肥料など他の肥料の普及などからし尿の利用価値が低下し、高度経済成長期にはまったく取引は行われなくなり、このため、汲み取ったし尿は周辺の海域に投棄されることが多くなりました。しかし、国際条約によってし尿の海洋投棄が禁止されることになると、下水道の整備や浄化槽の設置が進みました。

この「下水道」に関しても歴史は古く、最古の下水が弥生時代にはや建造されていたというのは上でも述べたとおりです。安土桃山時代には豊臣秀吉によって太閤下水と呼ばれる設備が大阪城付近に造られ、現在でも使用されています。

江戸時代にもその末期には江戸の神田界隈で煉瓦や陶器を使用した下水道設備が造られたようですが、これらは1923年の関東大震災で壊滅的な被害を受けたため、まとまった遺構としては残っていません。その後全国で下水道の整備が進められるようになり、2014年現在では下水道普及率は約76%だそうです。

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下水道の普及とともに、トイレの便器もまた改良され、発展してきました。現在のような衛生陶器は19世紀中期にイギリスで開発され、19世紀後期にかけてアメリカで技術が確立されました。日本では幕末に、以前の木製便器を模した陶製便器の生産が始まっていましたが、無論現在のように洋式ではなく、和式が100%でした。

日本で本格的に陶器製の便器を製造し始めたのは、現在のTOTOです。日本陶器合名会社(現:ノリタケカンパニーリミテド)の製陶研究所が母体となり、1917年に東洋陶器株式会社として設立され、その後この会社を母体とする森村財閥が形成されました。

創業者は森村市左衛門といい、その義弟である大倉孫兵衛、孫兵衛の長男の長男・和親らが出資者となって作られたのが東洋陶器株式会社であり、この会社が設立されたのは現在の北九州市小倉北区にあたり、ここは当時、福岡県企救郡と呼ばれていました。

創業から1960年代までは食器も製造していました。特に瑠璃色の色付け技術を得意としており、現在のロゴマークTOTOの瑠璃色の色はこれが起源です。大倉孫兵衛の孫の大倉和親は、1903年に製陶技術の視察のために渡欧しており、この時に衛生陶器(浴槽、洗面台、便器など)の知識を得て製造に関心を持ったとされます。

その後も洋風建築の増加にともなって衛生陶器の需要が増えたことから、大倉孫兵衛・和親の私財10万円によって日本陶器社内に製陶研究所が設立され、衛生陶器製造の研究が始まりました。

そして硬質陶器質の衛生陶器を生産するため、1913年から1916年にかけて試験的に手洗器・洗面器類が6541個、水洗式の大便器が1432個、同じく小便器が1249個も試作された、という記録が残っています。

さっそくこれを販売したところ、この試験販売の結果は大変好評であり、これを受けて大倉和親は事業化を決定し、1917年に東洋陶器株式会社として正式に発足。福岡県企救郡板櫃村に約17万平方メートルの土地を購入して工場を建設しました。

この地を選んだのは、当時、日本一の石炭生産量を誇った筑豊炭田に近く、陶器製造のために必要な火力を得るための燃料の調達が容易だったためです。また、中国景徳鎮で作られる磁器の材料として有名な、「カオリン」を朝鮮半島から輸入するのにも好立地であり、また九州の天草陶石などの原料の調達にも便利でした。

さらに鹿児島本線と日豊本線の分岐に位置し、1899年に開港した門司港も近く、商品の配送に好都合であり、TOTO本社は現在もこの地に本社を構えています。

会社が発足当時は、衛生陶器の知名度自体が低かったため、大倉らは市場の拡大を目指して高所得者や旅館などのユーザー向けに衛生陶器を解説する冊子も制作しています。また、日本陶器から技術指導や素材供給などの協力を得て磁器製の食器を作りました。

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その後、第一次世界大戦によるヨーロッパの生産能力低下などから海外での需要が大きくなり、コーヒーカップ・ソーサーなどがアメリカやイギリスに輸出されました。さらに海外の販路を開拓するために低廉な硬質陶器製食器を開発し、これは東南アジアなどに出荷され、衛生陶器とともに主力商品として育っていきました。

1923年9月の関東大震災では東京出張所が焼けましたが、住宅の復興にあわせて衛生陶器や食器の需要が発生し、丸ビルへの衛生陶器の納入などによって国内向けの売上が増加し、その後も東京市で下水道の普及が進んだことから衛生陶器の需要は伸びつづけました。この時期には皇居や那須御用邸、官庁、ホテルなど様々な顧客に衛生陶器を販売しています。

食器事業では、1926年の硬質磁器製の和食器製造の成功などにより、これが国内市場の売上を拡大させましたが、1969年、住宅の近代化などにより“本業”の衛生陶器・水栓等で十分に稼げるようになったことで、食器事業から撤退。また、略称の「東陶」が浸透したことなどから、現在のTOTOロゴの使用を開始しはじめました。

現在、日本における便器生産はこのTOTO、INAX(現・LIXIL)の2社による製造が大半を占め、ジャニス工業、アサヒ衛陶、ネポンなどがこれに続いています。そのなかでも最もやはりTOTOのシェアは高く、これは約50%であり、約25%のINAXがこれに続きます。

便器は重く嵩張るため、製造コストが安い中国などの発展途上国からの輸送では引き合わず日本市場はほぼ国内メーカーで占められ、将来的にもこの傾向は変わらないとみられています。同様の理由で日本の便器が輸出されることもなく、需要地での現地生産が主なものとなっています。

日本の便器メーカーは海外でも積極的に販売を行っており、現在最も日本のメーカーの便器が販売されている国は中国で、TOTOだけで毎年100万台以上販売されるといいます。

近年では、温水洗浄便座の普及によりパナソニック電工(現・パナソニック)、東芝、日立アプライアンス等、家電品メーカーの参入が盛んですが、これらのメーカーは焼き物の製造は出来ず「便座」部分への参入に留まっています。しかし最近ではパナソニックが樹脂製や有機ガラス系の便器を開発しシェアを伸ばしていてきています。

逆に便器のトップシェア2社は、エレクトロニクス制御技術や陶器以外の新素材導入では家電品メーカーに水を空けられており、温水洗浄便座では苦戦しています。

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この温水洗浄便座も現在の日本のトイレを語る上においては無視できない存在です。洋風便器に設置して温水によって肛門を洗浄する機能を持った便座であり、「ウォシュレット」や「シャワートイレ」などと誰もが呼びます。が、ウォシュレットはそもそもTOTO、シャワートイレはINAX(LIXIL)の商標です。

日本ではこの温水洗浄便座を装備した便器が増加しており、現在の普及率は80%に迫る勢いです。内閣府の消費動向調査によると日本における温水洗浄便座の世帯普及率は1992年には約14%だったものが2000年には約41%、2008年には約68%、2010年には71.3%に達しています。最新の統計ではおそらくほぼ80%くらいではないでしょうか。

ところが、最近、温水洗浄便座による火災や感電、漏水などの事故がしばしば起きており、これは、長年使用していることによる老朽化が一因とされるものが多いようです。温水洗浄便座は電化製品の一つとして、メーカーおよび業界団体では10年以上使用している製品については点検や取替えを勧める告知をしています。

また、ある研究グループが一般住宅や公共施設の温水洗浄便座の洗浄水を検査したところ、洗浄水から厚生労働省の水道水質基準を超える一般細菌が検出されたといい、ノズルの先端やすき間から細菌が侵入し、タンク内の温水で増殖したのが原因と指摘しました。

これに対して業界団体の温水洗浄便座協議会は、「これまで約4000万台が生産されているが、感染症などの健康被害は一件も報告されていない。タンクに水が逆流することは構造上ありえず、タンク内で菌が繁殖する危険性は低い。研究ではノズルにもともと付着していた汚物から菌が検出されたのではないか」と疑問を呈しました。

が、タンク内の水道水に含まれる塩素が揮発され、菌に適した環境下になりやすいことから、長期間使わないトイレの洗浄便座を使うときには注意するにこしたことはありません。

ところで、温水洗浄便座は日本人が発明したと思っている人も多いでしょうが、実はアメリカで医療・福祉用に開発されたものが最初です。

日本では1964年に前述の東洋陶器がアメリカンビデ社(米)の「ウォシュエアシート」を輸入販売開始したのが始まりとされます。その後、ライバルのINAXも1967年に国産初の温水洗浄便座付洋風便器「サニタリーナ61」を発売、TOTOも1969年に国産化に踏み切りました。

ただ、初期のこれら商品は温水の温度調節が難しかったことから温水の温度が安定せず、火傷を負う利用者もいたほか、価格も高く普及は程遠いものでした。70年代以前はまだ和風便器も多く採用されており、下水道の普及も進んでいなかったのが不振の一因です。

しかし、TOTOはあきらめず、独自に開発を進めてゆき、1980年、「ウォシュレット」の名称で新たな温水洗浄便座を発売しました。このウォシュレットでは温水の温度調節、着座センサーの採用、さらにビデ機能の搭載などが盛り込まれ改良が年々進みました。

やがて日本人の清潔志向の高まりとTOTOの積極的なCM展開が普及へと繋がることになります。1982年には当時話題を集めていた女性タレント、戸川純を起用したCMで流された「おしりだって、洗ってほしい」のキャッチコピーが話題になりました。

ところが初回のこのCMの放映時間がゴールデンタイムであったため、視聴者からは「今は食事の時間だ。飯を食っている時に便器の宣伝とは何だ」などとクレームが入り、おしりという言葉を使用したことなどについても批判されました。

しかし、このCMはこの批判を乗り越えるだけのインパクトがあり、これをきっかけにウォシュレットの販売は順調に伸びていきました。1980年代半ばには伊奈製陶が「サニタリーナ」に代わって「シャワートイレ」の名称を前面に出すようになり、また松下電工(現:パナソニック)を始めに家電メーカーも参入しはじめました。

1990年代には日本の新築住宅で多くが温水洗浄便座を採用することになり、さらにオフィスビルや商業施設、ホテルといったパブリック用途にも採用が広がり、2000年代には住宅/パブリック問わず採用されるのが一般的となってきています。

さらに鉄道駅、鉄道車両のような不特定多数の利用がある場所でも、採用例が出てきたほか、和歌山県は2013年に県内全公衆トイレに温水洗浄便座を設置する計画を発表しました。

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一方、温水洗浄便座における世界のシェアは大部分は日本の企業ですが、海外ではその普及度といえばまだまだけっして高くなく、どこの先進国でも数%にも満たないようです。これはアメリカやヨーロッパなどではコンセントが便所に無いことが原因のようです。

しかし、最近では特に中国の富裕層に人気で、お金持ちの家を訪ねると結構な確率で見かけるようになっています。成田空港や秋葉原で温水洗浄便座の取り付けキットを抱える中国人や他のアジア人の姿も多く見かけられるようになっており、使った事のある外国人の口コミが広がっているようです。

温水洗浄便座の先駆け、TOTOもまたホテルや日本料理店に温水洗浄便座を置いてもらい、「口コミ」を狙っているといい、イギリスではかなりの話題になってきているといいます。

英大衆紙デーリー・エクスプレスは「未来型トイレ」との見出しで、「便座が温かくなり、紙がいらない文明の利器」と絶賛。実際に使用した英紙ガーディアンの記者も「これまでの人生で最高のトイレ経験」と感想を述べたといいます。

温水洗浄便座を設置したロンドンの和食レストラン「幸(さき)」には英メディアや顧客からの問い合わせが相次いでいるそうで、トイレだけをのぞきに来る人も多いといいますが、
英国の一般家庭で利用されているのは、まだわずか200台ほどで、レストランなどの店舗や公共施設では、この幸が初めてだったといいます。

しかし確実に、日本製の温水洗浄便座はシェアを拡げつつあるようで、アメリカでもセレブや芸能に関する情報誌「IN TOUCH WEEKLY」の電子版で、俳優のレオナルド・ディカプリオさんが最近ハリウッドヒルズにある自宅を改築した際、トイレはTOTOの最高級トイレを購入したと報じました。

彼は、「便座が暖かく、ウォシュレット機能付き。トイレは自動で蓋が開閉し、水も自動で流れ便器を清浄。リモコンも付いている。水も節約できる」と絶賛しているそうで、同紙も、「環境に気を使う彼だからこそこのトイレを選んだ」と書いているそうです。

TOTO広報によると、初めて日本に旅行に来た外国人がホテルに泊まった際に、特に感激するのがウォシュレットなのだといい、ディカプリオ以外にもマドンナや、ウィル・スミスなどの著名人も使って驚き、テレビのインタビューなどで絶賛したのは有名な話です。

いいものは必ず売れます。日本が温水便座の輸出大国になる日がいつか来ることでしょう。最近海外へ旅行することがめっきり少なくなった私ですが、次回渡航することがあれば、その国で日本製のウォッシュレットが使えるよう願いつつ今日の項は終えたいと思います。

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