野火

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「野火」ということばがあります。

普段あまり使うことはありませんが、改めてどういう意味か調べてみたところ、一番多い説明が、春先に野原の枯れ草を焼く火、としており、これは「野焼き」ともいいます。

しかし、これは人間が意図的に火をつけるものであって、自然では様々な理由で野原などが燃えることがあり、いろいろなケースがありますが、落雷で火がつく場合、乾いた木などが風で動くことでこすれて火がつく場合、火山による場合などがあります。

昨日の8月16日、お盆最後の日の野火は、人が焚き付けるほうで、これは「送り火」と呼ばれます。この反対が迎え火であり、お盆に入った8月13日の夕刻に先祖の霊を迎え入れるために焚きます。

先祖をお送りするために焚く野火のことであり、川へ送る風習もあり、こちらは灯籠流しともいいます。最近は防火上の問題もあり、迎え火も送り火も盆提灯で行うようになりました。また、その盆提灯に灯す灯りも、少し前にはロウソクでしたが、その後電球に代わり、今ではLEDが多くなっています。

人が灯す野火の形も時代ともに変わってきたのだな、と改めて思うわけですが、しかし、自然発火の野火の存在は今も昔も変わりません。

狐火というのもあり、日本全域に伝わる怪火です。ヒトボス、火点し(ひともし)、燐火とも呼ばれます。火の気のないところに、提灯または松明のような怪火が一列になって現れ、ついたり消えたり、一度消えた火が別の場所に現れたりする、といわれるもので、正体を突き止めに行っても必ず途中で消えてしまうといいます。

また、現れる時期は春から秋にかけてで、特に蒸し暑い夏、どんよりとして天気の変わり目に現れやすいといいます。十個から数百個もの狐火が行列をなして現れることもあるといい、長野県では提灯のような火が一度にたくさん並んで点滅したのを見た、という目撃情報もあるようです。

その火のなす行列の長さは一里(約4km)にもわたることもあり、色は赤またはオレンジ色が多いとも、青みを帯びた火だともいろいろいわれます。具体的に現れた場所や状況が伝承されていることも多く、富山県砺波市では人気のない山複で目撃される一方で、石川県門前町(現・輪島市)のように逆に人前に現れ、追いかけてきたといいます。

このように人家が多いところに出てくる狐火は、道のない場所を照らすところが特徴で、それにより人の行先を惑わせるともいわれています。つまり、人を「化かす」というヤツで、その仕業は狐であると信じられたことから、狐火と言われるようになったのでしょう。

長野県はとくに狐火の伝承が多く、そのうちの飯田市では、そのようなときは足で狐火を蹴り上げると退散させることができる、ということが言われているようです。

狐といえばお稲荷さんなどの神社にもよく祀られています。出雲国(現・島根県)では、狐火に当たって高熱に侵されたとの伝承もあり、この狐火は「行逢神(いきあいがみ)」のようなものとする伝承もあります。これは不用意に遭うと祟りをおよぼす神霊のことです。

しかし、これもまた長野の伝説では、ある主従が城を建てる場所を探していたところ、白いキツネが狐火を灯して夜道を案内してくれ、城にふさわしい場所まで辿り着くことができたという話もあり、かならずしもワリィやつとばかりもいえないようです。

そういえば、お天気雨のことを「狐の嫁入り」と呼びますが、これも狐の悪さとはされるものの、おめでたい嫁入りの行事、ということで、一般には好意的に受け止められます。

キツネには不思議な力があるとされ、キツネの行列を人目につかせないようにするため、晴れていても雨を降らせると考えられてきました。また、めでたい日にもかかわらず涙をこぼす嫁もいたであろうことから、妙な天気である天気雨をこう呼んだともいわれます。

「晴れの日に滾々(コンコン)と降る」という意味の駄洒落であるという説もあり、昔の人は、晴れていても雨が降るという真逆の状態が混在することを、何かに化かされている、と感じたのでしょう。なお、地方によっては必ずしもお天気雨とは限らず、熊本では虹が出たとき、愛知では霰(あられ)が降ったときが狐の嫁入りだそうです。

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一方、昭和中期頃までは、上述の野火が、嫁入り行列の提灯の群れのようにも見えるので、こちらも、狐の嫁入りと言っていました。正岡子規も俳句で冬と狐火を詠っており、その出没時期は一般に冬とされています。しかし、夏の暑い時期や秋に出没した例も伝えられています。

「狐の嫁入り」としての野火の目撃例も多く、宝暦時代の越後国(現・新潟県)の地誌で4キロメートル近く並んで見えることを「狐の婚」と記述しているのを初めとし、同様の狐の嫁入り提灯の話が、東北から中国地方に至るまで各地にあります。

必ずしも「狐の嫁入り」という呼称ではなく、「狐の婚」のほか、埼玉県草加市や石川県能都町では、「狐の嫁取り」といい、静岡の沼津では、「狐の祝言」と呼ぶようです。

この狐の嫁入り提灯が多数目撃されたという昭和中期頃までの日本では、まだまだ結婚式場などというものは普及しておらず、夕刻に実家で待つ嫁を、嫁ぎ先の人間が提灯行列で迎えに行くのが普通でした。

その婚礼行列の連なる松明の様子に似ているため、キツネが婚礼のために灯す提灯と見なされようになった、というわけです。こうした行列では延々と提灯を持った人の行列が続きますから、いつまでたっても最後尾にいるはずの「嫁入り」が見えない、ということも往々にあり、そうしたことも狐が人を化かしているように思えたのでしょう。

こうした婚礼のクライマックスは神社で行われるのが普通です。従って、現代においても、この狐提灯にちなんだ神事や祭事が日本各地で散見されます。

現・東京都北区は、こうした狐火のメッカとされ、かつて江戸時代に、豊島村といわれていた豊島地区でも、暗闇に怪火が連続してゆらゆらと揺れるものが目撃されて「狐の嫁入り」と呼ばれており、同村に伝わる「豊島七不思議」の一つにも数えられています。

この豊島のすぐ近くにある、王子稲荷(北区岸町)は、お稲荷さんの頭領として知られると同時にとくに狐火の名所とされています。

かつて王子周辺が一面の田園地帯であった頃、路傍に一本の大きなエノキの木がありました。毎年大晦日の夜になると関八州(関東全域)のキツネたちがこの木の下に集まり、正装を整えると、官位を求めて王子稲荷へ参殿したといいます。

その際に見られる狐火の行列は壮観だったそうで、平安時代以降、近在の農民はその数を数えて翌年の豊凶を占ったと伝えられており、歌川広重の「名所江戸百景」の題材にもなっているほどです。このエノキは、明治時代に枯死したようですが、「装束稲荷神社」と呼ばれる小さな社が、旧王子二丁目電停の近傍に残っています。

地元では地域おこしの一環としてこの伝承を継承し、1993年より毎年大晦日の晩には、「王子狐の行列」と呼ばれるイベントを催しています。

このように、狐火、あるいは狐の嫁入りは、日本各地で目撃されてきましたが、こうした狐火については、実際の灯を誤って見たか、異常屈折の光を錯覚したものではないか、という意見も根強いようです。戦前の日本では「虫送り」といって、農作物を病害から守るため、田植えの後に松明を灯して田の畦道を歩き回る行事がありました。

狐の嫁入りは、田植えの後の夏に出現するという話も多く、また水田を潰すと見えなくなったという話が多いことから、この虫送りの灯を見誤ったのではないか、ということも言われています。

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このほかにも、各地の俗信や江戸時代の古書では、キツネの吐息が光っている、キツネが尾を打ち合わせて火を起こしている、キツネの持つ「狐火玉」と呼ばれる玉が光っているなどの色々な伝承があります。

その多くは現れたあと痕跡もなく消えてしまいます。ただ、何等かの痕跡を残す例もあり、これを根拠に物理的にありうる現象ではないか、とする説もあります。

「痕跡」としては例えば「糞」があります。埼玉県行田市では、谷郷の春日神社に狐の嫁入りがよく現れるといい、そのときには実際に道のあちこちにキツネの糞があったといい、狐火の原因の証明にはなりませんが、そこに狐が実際にいたことの証拠とされます。

また、岐阜県武儀郡洞戸村(現・関市)では、狐火が目撃されるとともに竹が燃えて裂けるような「音」が聞こえ、これが数日続いたといわれます。

寛保時代(1741~43年)の雑書「諸国里人談」では、元禄の初め頃、漁師が網で狐火を捕らえたところ、網に「狐火玉」がかかっていたといい、夜になると明るく光るので照明として重宝した、とあります。

ここまでくるとでっち上げとしか思えませんが、江戸初期の元禄時代(1688~1704年)の医薬本「本朝食鑑」には、より具体的にこの狐火の原因について触れています。

狐火は、英語では“fox fire”といいますが、「fox」には「朽ちる」「腐って変色する」という意味もあります。また、これが“fox fire”となると、その意味は「朽ちた木の火」、「朽木に付着している菌糸」、「キノコの根の光」を意味します。

そして、「本朝食鑑」には、この狐火の正体を「地中の朽ち木の菌糸が光を起こす」としており、英語の意味と同じになります。これは偶然の一致というよりも、おそらくは何等かの発光体を持つキノコが日米それぞれに存在していた(いる)ことをうかがわせます。

「ツキヨタケ」という、日本を中心として極東ロシアや中国東北部にも分布する発光キノコがあります。従来、発光性を有するのは、傘の裏側のひだのみだ、といわれてきましたが、近年の研究では、菌糸体についても肉眼的には検知できないほど微弱な光を発していることが判明しています。同様の発光キノコは北米にも多いようです。

また、「本朝食鑑」には、これ以外にも、キツネが人間の頭蓋骨やウマの骨で光を作っている、という記述が出てきます。

江戸後期の作家、高井蘭山や、随筆家・三好想山などの作家もまた、キツネがウマの骨を咥えて火を灯すと書いています。もっとも、この二人は高井は絵物語の読み本の作者、三好は奇談の収集家であり、多少興味本位で「本朝食鑑」の記述を改ざんした可能性があります。

また、明治時代に怪談話で一世を風靡した、東北の作家、杉村顕道が書いた奇談集「信州百物語」にも、ある者が狐火に近づくと、人骨を咥えているキツネがおり、キツネが去った後には人骨が青く光っていたとありますが、この話も本朝食鑑や、高井・三好らの作品を流用した可能性があります。

これらに比べて「本朝食鑑」は、日本の食物全般について、全12巻にわけて、品名を挙げ、その性質、能毒、滋味、食法その他を詳しく説明した博物書であり、傑作だと評価の高いもので、より信憑性があります。狐火の原因を発光キノコに求めているところなども科学的です。

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ただ、キツネが骨で光を作っている、というのがどういう根拠で出てきたのかはよくわかりません。が、この時代の人々のなかにも、狐火が発生する原因について、解明できないまでも、何等かの理由を探そうと努力していた人たちがいたわけです。

しかも、人の骨やウマの骨が光るというのは、まったく根拠のないことではありません。骨の中に含まれるリン(燐)は、夜間に光ることが知られています。後に東洋大学となる哲学館を設立した「井上円了」らは、この燐光を狐火と結び付け、リンが約60度で自然発火することが、狐火の正体だとする説を唱えました。

この人は、多様な視点を育てる学問としての哲学に着目し、また、迷信を打破する立場から妖怪を研究し「妖怪学講義」などを著したことで知られた人です。「お化け博士」、「妖怪博士」などと呼ばれました。

また燐は、農作物の生育にも必要不可欠なものであり、土中に多く含まれています。新潟や奈良県磯城郡などでは、狐の嫁入りなどの怪火の数が多い年は豊年、少ない年は不作といわれてきました。

その昔はリンの存在は知られていませんでしたが、こうした地方の人々は狐火の発光によって、知らず知らずにその年の土中に含まれるリンの量を把握していたことになります。

ただ、多くの伝承上の狐火は、キロメートル単位の距離を経ても見えるといわれており、発光キノコやこうしたリンの弱々しい光が狐火の正体とは考えにくい面もあります。

このため、狐火の正体を別の面から解明しようとする研究者もおり、最近では1977年に、日本民俗学会会員の角田義治という人が、山間部から平野部にかけての扇状地などに現れやすい光の異常屈折によって狐火がほぼ説明できる、と発表しました。

が、これに対しても異論は多数あるようです。ほかにも天然の石油の発火、球電現象などをその正体とする説もあるようですが、現在なお正体不明の部分が多く、狐火の正体を突き止めた人は未だいません。。

ところで、こうした狐火とは別に「鬼火」と呼ばれるものもあります。同じく、いわゆる「人魂」とされるもので、狐火と同じものだ、とする説もあるようですが、一般には鬼火とは別のものとして扱われています。

日本各地で目撃されたとする、空中を浮遊する正体不明の火の玉のことであり、一般に、人間や動物の死体から生じた霊、もしくは人間の怨念が火となって現れた姿である、と言われています。

アイルランドやスコットランドなどのイギリス地方では、ジャックランタンといった怪火が昔から目撃されており、この日本語訳としても「鬼火」の名が用いられることがあります。イギリス以外にも世界中で目撃されており、一般的にはウィルオウィスプ(will-o’-the-wisps)で知られています。

グニス・ファトゥス(愚者火)とも呼ばれ、他にも別名が多数あり、地域や国によって様々な呼称があります。こうした諸外国の鬼火は、夜の湖沼付近や墓場などに出没し、近くを通る旅人の前に現れ、道に迷わせたり、底なし沼に誘い込ませるなど危険な道へと誘うとされます。

そして、その正体は、生前罪を犯した為に昇天しきれず現世を彷徨う魂、洗礼を受けずに死んだ子供の魂、拠りどころを求めて彷徨っている死者の魂、ゴブリン達や妖精の変身した姿だ、などとされます。

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日本でも、亡霊や妖怪が出現するときに共に現れる怪火とされることが多いようです。江戸時代に記された「和漢三才図会」によれば、松明の火のような青い光であり、いくつにも散らばったり、いくつかの鬼火が集まったりし、生きている人間に近づいて精気を吸いとるとされます。これは、江戸時代中期に編纂された類書(百科事典)です。

同図会の挿絵からは、この鬼火の大きさは直径2~3センチメートルから20~30センチメートルほど、地面から1~2メートル離れた空中に浮遊する、と読み取れるといいます。が、あくまで想像の世界の絵なので、実際にその大きさや高さとは限りません。

江戸時代中期から後期にかけての、勘定奉行、南町奉行を歴任した「根岸鎮衛」というお役人がいましたが、この人が書いた随筆にも「鬼火の事」という記述があります。

ここでは、箱根の山の上に現れた鬼火が、二つにわかれて飛び回り、再び集まり、さらにいくつにも分かれたといった逸話が述べられています。箱根山上のものが見えるということは、大きさもかなりのものであるはずであり、また浮遊高さも1~2mで済むわけはありません。

そのほかにも、現在に至るまでいろいろな目撃情報があり、外見や特徴にはさまざまな説が唱えられています。が、その色は青だとされるものが多く、このほかでは、青白、赤、黄色などがあります。大きさも、ろうそくの炎程度の小さいものから、人間と同じ程度の大きさのもの、さらには数メートルもの大きさのものまでさまざまです。

上の根岸が目撃したように、1個か2個しか現れないこともあれば、一度に20個から30個も現れ、時には数え切れないほどの鬼火が一晩中、燃えたり消えたりを繰り返すこともあります。出没時期は、春から夏にかけての時期。雨の日に現れることが多く、水辺などの湿地帯、森や草原や墓場など、自然に囲まれている場所によく現れます。

が、まれに街中に現れることもあります。このため手で触れた「体験談」を語った伝承もあり、触れても火のような熱さを感じない、とする伝承もあれば、本物の火のように熱で物を焼いてしまったとするものもあります。

こうした鬼火と考えられている怪火には、地方によっても色々異なった形態がありますが、名前についてもいろいろです。

例えば高知では、遊火(あそびび)といい、高知市内の市や三谷山で、城下や海上に現れます。すぐ近くに現れたかと思えば、遠くへ飛び去ったり、また一つの炎がいくつにも分裂したかと思えば、再び一つにまとまったりしますが、特に人間に危害を及ぼすようなことはないので、遊び火というようです。

このほか、岐阜県揖斐郡揖斐川町では「風玉」といい、こちらは、暴風雨が生じた際、球状の火となって現れます。大きさは器物の盆程度で、明るい光を放つといい、明治30年の大風では、山からこの風玉が出没して何度も宙を漂っていたといいます。

京都には、「叢原火」、または「宗源火(そうげんび)」というのがあり、これはかつて壬生寺の地蔵堂で盗みを働いた僧侶が仏罰で鬼火になったものとされ、火の中には僧の苦悶の顔が浮かび上がったものだとされています。

同じく京都の、北桑田郡知井村(現・美山町、現・南丹市)には渡柄杓(わたりびしゃく)
という鬼火があり、これは山村に出没し、ふわふわと宙を漂う青白い火の玉です。柄杓のような形と伝えられていますが、実際に道具の柄杓に似ているわけではなく、火の玉が細長い尾を引く様子が柄杓に例えられているとされます。

このほか、沖縄のものは「火魂(ひだま)」といい、こちらは普段は台所の裏の火消壷に住んでいますが、時に鳥のような姿となって空を飛び回り、物に火をつけるとされます。

これらのほかにも、いげぼ(三重県度会郡)、小右衛門火、じゃんじゃん火、天火といった鬼火があり、「陰火」と「皿数え」は、ともに怪談話でよく語られる鬼火です。とくに皿数えは、「皿屋敷」のお菊の霊が井戸の中から陰火となって現れるもので、このとき現れたお菊さんは、例の「一枚足りな~い」という名ゼリフを吐きます。

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上の狐火は、発光キノコによるものではないか、あるいは燐光によるものではないか、など、その解明に向けて科学的なアプローチがされるのに対し、この鬼火のほうは、せいぜい江戸時代に川原付近で起きる光の屈折現象ではないか、とされるくらいであまり研究がされていないようです。

その最大の理由は、目撃証言の細部が一致していないためです。上述のとおり、地方地方によって呼び名も異なり、「鬼火」という総称もいくつかの種類の怪光現象を無理やりまとめあげるためにつけられたような印象があります。

ただ、雨の日によく現れる、とされることが多く、これから、狐火と同じく人や動物の骨が濡れることで内部にあるリンと化学反応を起こすのではないか、ということはよく言われます。紀元前の中国では、「人間や動物の血から燐や鬼火が出る」と語られていました。

ただし、当時の中国でいう「燐」は、ホタルの発光現象や、現在でいうところの摩擦電気も含まれており、必ずしも元素のリンを指す言葉ではないと思われます。

日本でも、前述の「和漢三才図会」の解説によれば、「鬼火」とは、「戦死した人間や馬、牛の血が地面に染み込み、長い年月の末に精霊へと変化したもの」と書かれています。

この「和漢三才図会」から1世紀後の明治21年には、新井周吉という作家が「不思議弁妄」という怪奇本を出し、この中で「埋葬された人の遺体の燐が鬼火となる」と書いたことから、近代日本でもこの説が一般化したようです。

この解釈は1920年代頃までには広く喧伝され、昭和以降の辞書でもそう記述されるようになり、多くの人が、人魂は人骨のリンが燃えている、と信じるようになりました。昭和30年代には、自称「発光生物学者」の「神田左京」という人が、この説にさらに解説を加えました。

リンは、1669年にドイツ人のヘニング・ブラントという錬金術師が、実験中に、尿を蒸発させた残留物から発見し田とされていますが、神田はその事実にも触れ、さらにリンに「燐」の字があてられのは、上述の中国での鬼火の故事に出てくる燐が、元素のリンと混同された結果だ、と説明しました。

これは全くそのとおりです。ただし、この神田氏は、鬼火とは、死体が分解される過程でリン酸中のリンが発光する現象である、とも説明しましたが、これには科学的な根拠はないようです。

ところが、この説には尾ひれがつき、いや、リン自体ではなくリン化水素のガス体が自然発火により燃えているという、まことしやかな説や、死体の分解に伴って発生するメタンが燃えているという説、同様に死体の分解で硫化水素が生じて鬼火の元になるとする説など、次々と新説が唱えられるようになりました。

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最近では、放電による一種のプラズマ現象によるものだとする学者もいて、雨の日に発生することが多いという、セントエルモの火と同じだと説明する学者もいます。これは、悪天候時などに船のマストの先端が発光する現象で、激しいときは指先や毛髪の先端が発光する。航空機の窓や機体表面にも発生することがあります。

セントエルモの火の名は、船乗りの守護聖人である聖エルモに由来します。その後の研究で、尖った物体の先端で静電気などがコロナ放電を発生させ、青白い発光現象を引き起こすことがわかっており、雷による強い電界が船のマストの先端(檣頭)を発光させたり、飛行船に溜まった静電気でも起こることが確認されています。

1750年、ベンジャミン・フランクリンが、この現象と同じように、雷の嵐の際に先のとがった鉄棒の先端が発光することを明らかにしており、物理学者の大槻義彦氏もまた、こうした怪火の原因がプラズマによるものとする説を唱えています。テレビなどのメディアで有名な先生で、超常現象なら何でもありえん、と否定することで有名な方です。

さらには、真闇中の遠くの光源は止まっていても暗示によって動いていると容易に錯覚する現象が絡んでいる可能性がある、と心理学的な観点からの原因を主張する学者もいます。

いずれの説も、確かに科学的なアプローチに基づいており、そういわれればなんとなくそういう気にもなってきますが、前述のように鬼火の伝承自体が様々であることから考えても、いろいろある鬼火の原因を十把一絡げにまとめてしまうこと自体に、無理があるようにも思われます。

また、鬼火と狐火は別物だとする意見があるのと同じく、鬼火と人魂は別物だとする意見もある一方で、じゃあ何がどう違うのよ、と聞かれて、はっきりそうだと言える人がいないのも現実です。こうした怪火、とされるものについての原因究明はさっぱり進んでいないのが現状といえるでしょう。

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九州には、不知火(しらぬい)という、こうした現象とはまた違った怪火の伝承があります。海岸から数キロメートルの沖に、始めは一つか二つ、「親火(おやび)」と呼ばれる火が出現し、それが左右に分かれて数を増やしていき、最終的には数百から数千もの火が横並びに並ぶといいます。

「日本書紀」に出てくる第12代天皇、景行天皇は、九州南部の先住民を征伐するために熊本を訪れた所、この不知火を目印にして船を進めたとされており、この地方の昔からの風物詩でもあります。

旧暦7~8月の晦日の風の弱い新月の夜などに、八代海や有明海に現れるといいます。その距離は4〜8キロメートルにも及ぶといい、また引潮が最大となる午前3時から前後2時間ほどが最も不知火の見える時間帯とされます。

水面近くからは見えず、海面から10メートルほどの高さの場所から確認できるそうですが、不知火に決して近づくことはできず、近づくと火が遠ざかって行くといわれ、かつては龍神の灯火といわれ、付近の漁村では不知火の見える日に漁に出ることを禁じていました。

実はこちらの怪火は、ある程度科学的には説明できるようになっていて、これは大気光学現象の一つとされています。江戸時代以前まで妖怪の仕業といわれていましたが、大正時代になってから科学的に解明しようという動きが始まり、その後、蜃気楼の一種であることが解明されました。

さらに、昭和時代に唱えられた説によれば、不知火の時期には一年の内で海水の温度が最も上昇すること、干潮で水位が6メートルも下降して干潟が出来ることや急激な放射冷却、八代海や有明海の地形といった条件が重なり、これに干潟の魚を獲りに出港した船の灯りが屈折して生じる、と詳しく解説されました。

つまり、不知火とは、気温の異なる大小の空気塊の複雑な分布の中を通り抜けてくる光が、屈折を繰り返し生ずる光学的現象であり、その光源は民家等の灯りや漁火などです。条件が揃えば、他の場所・他の日でも同様な現象が起こります。

その昔は、旧暦八朔のころ、現在では8月末から9月末にかけて、この地方では未明に広大なる干潟が現れました。

このとき、冷風と干潟の温風が渦巻きを作り、異常屈折現象を起こしますが、このとき沖合には夜間に出漁した漁船も多く、不知火の光源はこの漁火となりました。この漁火は燃える火のようになり、それが明滅離合して目の錯覚も手伝い、陸上からは怪火のように見えた、というわけです。

現在では干潟が埋め立てられたうえ、電灯の灯りで夜の闇が照らされるようになり、さらに海水が汚染されたことで、不知火を見ることは難しくなっているといいます。こうした怪火とされるものも環境の悪化によって次第に失われつつあるとすれば、少々悲しい気がします。

いつの日か人魂や狐火も見れなくならないよう、いつまでも美しい日本の自然を守っていきたいものです。

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