輪が三つ

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しばらくぶりです。

実はこの半月ほど、入院していました。

その詳細はまた別の機会に改めて書くとして、今日は先日、そうめんについて書いたので、その続編を。

この「素麺」の起源ですが、古代中国の後漢の「釈名(後漢末の劉熙が著した辞典)」や唐の文献に度々出てくる「索餅(さくべい)」とする説が有力です。

日本では天武天皇の孫、長屋王邸宅跡(奈良市)から出土した木簡が最も古い「索餅」の記録となっています。奈良時代には索餅は米の端境期を乗り越える夏の保存食であり、「正倉院文書」にも平城京での索餅の取引きの記録が残っているそうです。

原形はもち米と小麦粉を細長く練り2本を索状によりあわせて油で揚げたもの、とされており、現在も中国で食される「油条(ヤウティウ)」に似たものだったのではなかったか、という説があります。

油条は、油で揚げたパンで、食塩、重炭酸アンモニウムを水で混ぜたものに小麦粉(薄力粉)を少しずつ加えながらこねて生地を作ります。中国や香港、台湾などでの朝食に、豆腐脳、粥や豆乳の添え物としてよく食べられますが、横浜の中華街などで食べたことがある人も多いでしょう。

奈良時代に日本へ唐から伝来したのが、この油条そのものだったのかどうかはわかりませんが、いずれにせよ唐菓子の1つではないかといわれています。一般に唐菓子といえば、米粉や小麦粉などの粉類に甘葛(あまずら)の汁など甘味料を加えてこね、果物の形を造った後、最後に油で揚げた製菓をさしますから、油状にも似ています。

日本では、神社や神棚に供える供物のことを「神饌(しんせん」といいますが、これが日本に当初伝わった当時の「索餅」に近いのではないか、といわれています。この神饌が、一般生活に浸透し、別の形に変わったものが、「鏡餅」です。

ただ、当初中国から入ってきて、日本風に変化していった索餅の材料・分量、作るための道具についてはあまり詳しいことはわかっていません。

日本では、まず奈良時代に上の索餅が輸入されました。

その原型については諸説あるようですが、小麦粉と米粉を水で練り、塩を加え縄状にした食品だったらしく、このため、索餅は、「麦縄」とも書くことがあります。乾燥させて保存し、茹でて醤・未醤・酢付けて食べたとみられており、他にごま油を和えたり、ゆでアズキに付けて食べたとみられています。

平安時代中期の「延喜式」にも一部その製法についての記述があります。こちらにも、小麦粉と米粉に塩を加えて作る、といった記述がありますが、形状については言及がなく、そもそも麺だったのかどうかもわかりません。一説によれば、現在の素麺やうどんよりもかなり太く、ちぎって食べたのではないか、ともいわれています。

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ところが、本場の中国では日本よりもはるかに早く、「麺」として成立していたそうです。日本の平安時代とほぼ時期を同じくする、北宋時代(960~1127年)の書物に既に「索麺」の表記が出てきます。「居家必要事類全集」という百科全書に出ている索麺の作り方には「表面に油を塗りながら延ばしていくことで、最後に棒に掛けてさらに細くする」といった近年の手延素麺の製法と酷似した特徴が書いてあります。

この製法がなぜそのまま日本に上陸しなかったのかはよくわかりませんが、現在のそうめんにかなり近いものは、鎌倉時代には既に作られていたようです。後追いで古代中国の「策麺」の製造方法が伝わり、既に輸入済みだった「索餅」の製法のひとつとして発展したのではないでしょうか。

そして、室町時代になると「索麺」や「素麺」の文字が使われるようになりました。 このころからそうめんは、寺院の間食(点心)として広がり、この時代に現在のそうめんの形、作り方、料理方法がほとんど形成されたと考えられています。

文献にもよく登場するようになりますが、主な舞台は寺院や宮中の宴会などで、まだ庶民が気軽に食べられるものではなかったようです。奈良期以降、この時代までに「索餅」「索麺」「素麺」の名称が混じって用いられていましたが、やがて「素麺」として統一して呼ばれるようになっていきました。

室町時代には、茄でて洗ってから、再度蒸して温める、という食べ方が主流だったことがわかっており、その調理法から、「蒸麦」や「熱蒸」とも呼ばれていたようです。

この時代の文献に、「梶の葉に盛った索麺は七夕の風流」という文章も残されており、七夕ごろの夏の風物詩であったことがわかります。この時代の宮廷の女房言葉(朝廷や貴顕の人々に仕えた奥向きの女性使用人が使うことば)では、素麺を「おぞろ」と呼び、七夕の行事に饗せられていました。

その後、戦国時代までには、そうめんが庶民の口にも入るようにもなっていたようです。安土桃山時代に豊臣秀吉が、本拠地として姫路城に居城することとなり、入城したときには、「播州名産の煮麺の饗応を受けた」と伝えられています。

江戸時代に入ると、素麺作りはさらに栄え、庶民の間で素麺が食べられるようになり、元禄の頃には、現在のような醤油ベースのつゆが誕生しました。七夕にそうめんを供え物とする習俗が広まり、これは、細く長いそうめんを糸に見立てて裁縫の上達を祈願したものです。

素麺作りが急激に発展したのには、飢饉の影響もあるといわれています。米は雨が降らないと作れませんが、小麦は多少の水不足でも育ちます。さらに、乾麵である素麺は数年日持ちがするため飢饉食として使えます。このため、幕府もその製造を推奨していました。

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先日のブログでも触れましたが、現在、「日本三大そうめん」といわれているのは、①三輪素麺(奈良県)、②播州素麺(兵庫県)、③小豆島(香川県)です。このうち、三輪素麺は、最も「素麺つくり」の歴史が長く、全国に分布する素麺産地の源流でもあり、全国的にも有名な、奈良の特産品です。

この地で、中国から入ってきた索餅が派生変化した、との説があり、奈良時代の遣唐使により、小麦栽培・製粉技術、製麺方法が伝えられたとされています。

ただ、上で述べたとおり、鎌倉時代以前では、まだ現在と同じような麺の形の完成形はなかったというのが通説です。この地方だけに、素麺の製法が中国から伝来した、という話には、何やらうさんくさい臭いがします。おそらくは、これを売らんがするために作られた創作話でしょう。

とはいえ、それだけ他に比べれば長い歴史を持っており、それなりのこだわりを持って長年の生産が続けられてきました。そのこだわりのひとつの表れが、三輪産のそうめん製品に取りつけられている「鳥居のマーク」です。

この鳥居のマークこそが、大和三輪においてそうめんが発祥したとされる、「大神神社(おおみわじんじゃ)」の鳥居です。大神神社は、奈良県桜井市三輪にある神社で、別称を「三輪明神」・「三輪神社」ともいい、祭神は大物主(おおものぬし)、または大物主大神(おおものぬしのおおかみ)です。

その拝殿は、国指定の重要文化財になっており、日本でも古い神社の一つです。皇室の尊厳も篤く、進んで外戚を結んだ、といわれていることから神聖な信仰の場であったと考えられます。

伝説によれば、紀元前91年(崇神天皇7年)、五代目の「大物主」の孫(または子)である、「大田子根子命(おおたたねこのみこと)」が大神神社の大神主に任ぜられたことに、その起源があるとされます。

さらに、奈良時代の宝亀年間(770~781年)のころ、その十二世の孫である「大神朝臣(おおみわのあそん)・狭井久佐(さいくさ)」の次男、穀主(たねぬし)なる人物が、本殿に飢饉と疫病に苦しむ民の救済を祈願しました。そうしたところ、三輪の地で小麦をつくるようにと神からの啓示を賜ったといいます。

穀主は常日頃から農事をもっぱらにして、穀物の栽培にこころをくだいていましたが、三輪の地に適した小麦の栽培を行い、小麦と三輪山の清流で素麺作りを始めたとされます。ちなみに、「朝臣」とは、皇族以外の臣下の中では事実上一番上の地位にあたるため、狭井穀主は、かなり位の高い人物であったと推定されます。

この縁で、大神神社の祭神、「大物主」は素麺作りの守護神とされ、毎年2月5日には、その年の三輪の生産者と卸業者の初取引の際、卸値の参考価格を神前で占う「卜定祭」が営まれるようになりました。また、大物主は、別名、三輪明神とも呼ばれるようになりました。

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この大物主は、蛇神であり水神または雷神としての性格を持ち、稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神として、現在でも篤い信仰を集めています。

また国の守護神である一方で、祟りをなす強力な神ともされます。ネズミを捕食する蛇は太古の昔より五穀豊穣の象徴とされてきており、このことから、最も古き神々の一柱とも考えられます。古事記によれば、日本の初代天皇とされる神武天皇の岳父(義親)、綏靖天皇(すいぜいてんのう)の外祖父にあたる、とされているようです。

国造りの神であり、神様の中の神様、大国主(おおくにぬし)の分霊でもあるといわれるため、大国主と同じく大黒様(大黒天)として祀られることも多いようです。

大物主にまつわる神話は数多くあります。

そのひとつ、古事記・神武紀に書かれているものによれば、古代の三島地方(現 大阪府茨木市 及び 高槻市) を統率していた豪族 の三島溝咋(ミシマノミゾクヒ)の娘の玉櫛媛(たまくしひめ)が美人であるという噂を耳にした大物主は、彼女に一目惚れしました。

大物主は玉櫛媛に何とか声をかけようと、赤い矢に姿を変え、勢夜陀多良比売が用を足しに来る頃を見計らって川の上流から流れて行き、その娘の富登(ほと)をつき刺しました。

ほと、とは「陰所」のことであり、姫は驚いて「イススキ」と叫びながら走り去ったといいます。イススキとは、「狼狽」の意味の古語ですから、ここでは「ぎゃあ゛~」といったかんじでしょうか。

彼女がその矢を自分の部屋に持ち帰ると、ポンッと大物主は元の姿に戻り、二人は結ばれました。こうして生れた子が富登多多良伊須須岐比売命(ホトタタライススキヒメ)であり、後に「ホト」を嫌い比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)と名を変え、神武天皇の后となったといいます。初代皇后ということになります。

大物主に関しては、またこんな神話もあります。

第7代孝霊天皇皇女、倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)= 百襲姫(もそひめのみこと)は、奈良県桜井市に今も残る、箸墓古墳((はしはかこふん)に葬られている実在したとされる人物です。

大物主神の妻となりましたが、大物主神は夜にしかやって来ず、昼に姿は見せなかったといいます。そこで、夜ごと訪ねてくるこの夫に、「ぜひ顔をみたい」と頼みますが、大物主神は、これを拒否しました。しかし、何度も頼まれるうちに断りきれず、「絶対に驚いてはいけない」という条件つきで、朝になってから小物入れをのぞくように、と妻に言いました。

朝になって百襲姫が小物入れをのぞくと、なんとそこには小さな黒蛇の姿がありました。驚いた百襲姫が、悲鳴を上げたため、大物主神はこれを恥じて御諸山(三輪山・後述)に登ってしまいました。

百襲姫がこれを後悔し、がっくりと腰を落とした瞬間、そこに立ててあった箸が陰部(ほと)を突いたため、百襲姫は死んでしまいました。こうして、大市(現在の奈良県桜井市箸中)に墓が創られ、葬られました。以後、人々はこの墓を「箸墓」と呼びました。

この墓の造営にあたっては、昼は人が墓を作り、夜は神が作ったと伝えられており、また墓には大坂山(現・奈良県香芝市西部の丘陵)の石が築造のため運ばれたといいます。

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さらに、大物主にはこんな伝説もあります。

海神である、綿津見大神(ワダツミノオオカミ)には、活玉依比売(イクタマヨリビメ)、通称、玉依姫(タマヨリビメ)という娘がいました。「タマヨリ」という神名は「神霊の依り代」を意味し、タマヨリビメは神霊の依り代となる女、すなわち巫女を指します。

ある日、玉依姫の前に突然立派な男が現われて、二人は結婚しました。しかも彼女はそれからすぐに身篭ってしまいます。不審に思った父母が問いつめたところ、姫は名前も知らない立派な男が夜毎にやって来ることを両親に告白しました。

父母はその男の正体を知りたいと思い、糸巻きに巻いた麻糸を針に通し、針をその男の衣の裾に通すように教えました。翌朝、針につけた糸は戸の鍵穴から抜け出ており、糸をたどると近くの山の社まで続いていました。糸巻きには糸が3回りだけ残っていたので、以後、その山を「三輪山」と呼ぶようになったといいます。

この山こそが、三輪山(みわやま)です。上述の、大神神社の東方にそびえる標高467.1m、周囲16kmの山で、位置的には、奈良県北部奈良盆地の南東部になります。三諸山(みもろやま)とも呼ばれ、なだらかな円錐形の山です。

「古事記」によれば、大国主神とともに国造りを行っていた少彦名神(スクナビコナ)が常世の国(死後の世界)へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光り輝く神様が現れて、大和国にある、この三輪山に自分を祭るよう進言しました。

この神様こそが大物主であり、「日本書紀」の一書では大国主神の別名としています。大神神社の由緒では、大国主神が自らの和魂を大物主として祀った、とあります。

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古墳時代に入ると、山麓地帯には次々と大きな古墳が築造されました。この一帯を中心にして強力な政治的勢力が発展したと考えられており、これこそがヤマト政権の初期政権(王朝)である、という説が有力です。

200~300mの大きな古墳が並び、そのうちには第10代の崇神天皇(行灯山古墳)、第12代の景行天皇(渋谷向山古墳)の陵があるとされます。また、上で述べた、百襲姫の陵墓、箸墓古墳(はしはかこふん)は、この山の西に位置する大神神社から北北西へ約1.5kmの位置にあり、実は、近年の調査から、「魏志」倭人伝に現れる邪馬台国の女王、かの有名な「卑弥呼」の墓ではないかと取り沙汰されています。

つまり、上の百襲姫こそが卑弥呼、ということになります。この三輪山を中心とした一帯は大物主に関わりのあるこうした神様の「居住団地」といってもよく、三輪山は古くから「神宿る山」とされ、山そのものが御神体であると考えられてきました。

このことから、神官や僧侶以外は足を踏み入れることのできない、禁足の山とされていますが、飛鳥時代には山内に大三輪寺が建てられ、平安時代には空海によって遍照院が建てられました。

鎌倉時代に入ってからは神仏両部思想(日本土着の神道と仏教信仰をひとつ信仰体系として再構成(習合)する思想)を確立したことで知られる僧侶、慶円(けいえん)が三輪氏の氏神であった三輪神社を拡大し、本地垂迹説によって三輪明神と改め、別当寺三輪山「平等寺」を建立しました。

本地垂迹(ほんじすいじゃく)とは、仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つで、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れたもの、とする考えです。

中世以降は長らく神仏習合の影響が色濃く、神宮寺も数多く建立され、徳川将軍家などに「三輪明神」として篤く信仰されました。

三輪山そのものが、大神神社の御神体として正式に記録されたのは、1871年(明治4年)に神社が奈良県にあてた口上書に、神山とは「三輪山を指す」と使ったのが初めてです

江戸時代には徳川幕府より厳しい政令が設けられ、平等寺の許可がないと入山できませんでしたが、明治以降はこの伝統に基づき、「入山者の心得」なるものが定められ、現在においてはこの規則を遵守すれば誰でも入山できるようになりました。

三輪山の祭祀遺跡としては、下方から辺津磐座(へついわくら)、半ほどの中津磐座(なかついわくら)、頂上付近の奥津磐座(おきついわくら)、山ノ神(やまのかみ)岩陰祭祀遺跡、大神神社・拝殿裏の禁足地遺跡、狭井神社西方の新境内地遺跡などがあります。

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これらは、いわゆる「巨石群」であり、「磐座(いわくら)」とは、天然現象である岩石・巨石、またはその集群を神座と考え、神を招き奉ってはじめて祭祀を行ない、崇拝をしたものです。

けっして驚くほど大きいものばかりではなく、中には一個のみで威厳を備えているもの、巨石群、重なり合っているものなど、いろいろです。そしてこれらの磐座も自然のものと、人工的な仕組みのものとがあり、人間の生活が山麓から低地へ移っていく過程で、平野部で造られるものほど、人為が入っているものが多くなるといいます。

頂上には高宮神社が祀られていますが、この神社は、古代には、太陽祭祀に深く関わっていた神坐日向神社(みわにますひむかいじんじゃ)であったと推測されています。同名の神社が、麓の大神神社の南にあり、古い時代に山頂からここに移されたものと考えられます。

頂上付近はかなり広い平地です。この神社の東方に東西約30m、南北10mの広場に高さ約2mの岩がたくさんあります。これが奥津磐座です。

現在、この山中で見学できるのはこの磐座だけです。奥津磐座や、中津磐座には巨石群の周囲を広く環状に石を据えた形跡があり、「日本書紀」巻二の天孫降臨に際しての高皇産霊尊の勅に「天津神籬および天津磐境を起こしたて」とある磐境にあてる、といった考証もあるようです。

山ノ神遺跡に関しては大正7年に偶然発見されたものです。古墳時代中期以降の岩陰祭祀遺跡で、発見当初は古墳と思われました。磐座とされる石と5個の石がこれを取り囲むような状態で見つかり、さらにその下には割石を敷きつめて地固めがされていました。

調査に入るまでの3ヶ月の間に盗掘を受けてしまったとされますが、残った遺物には、おびただしい数の宝物が残されていました。

小形の素文鏡3、碧玉製勾玉5、水晶製勾玉1、滑石製模造品の子持勾玉1、勾玉約100、管玉約100、数百個の有孔円板と剣形製品、無数の臼玉、高坏、盤、坏、臼、杵、杓、匙、箕、案、鏡の形を模した土製模造品、それに剣形鉄製品と考えられる鉄片などなどであり、本来はさらにおびただしい量の遺物が埋納されていたことが知られています。

その遺物を見ると、鏡・玉・剣のセット、いわゆる三種の神器の形式をとっているものが多いほか、三輪山の神が農耕神としての一面を持つ宝物が多いようです。臼、杵、杓、匙、箕といったものがそれらです。

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入山する際は、後述の規則(掟)を遵守する必要があります。入山せずに参拝する際には、大神神社の拝殿から直接、神体である三輪山を仰ぎ拝むといった手法を採ります。したがって、大神神社には本殿がなく、そこには自然そのものを崇拝する古神道が息づいています。

さらに登山を希望する場合は、大神神社から北北東250m辺りに位置する境内の摂社・狭井神社の社務所で許可を得なければいけません。そこで氏名・住所・電話番号を記入し300円を納めます。そして参拝証の白いたすきを受け取り御祓いを済ませます。道中このたすきを外すことは禁止されています。

行程は上り下り約4kmで、通例2時間ほどで登下山できますが、3時間以内に登下山しなければならないという規則が定められています。また山中では、飲食、喫煙、写真撮影の一切が禁止され(水分補給のためのミネラルウォーターやスポーツドリンクの飲用は可能)、下山以降も山中での情報を他人に話すことを慎むのがマナーでもあります。

午後4時までに下山しないといけないため、午後2時以降は入山が許可されない場合があります。雷雨などの荒天の際は入山禁止となることもありますが、禁止とならない場合であっても万一の事故に備えて電話番号の記入が求められます。また、大神神社で祭祀が行われる日は入山ができません。

原則として、数多く散在する巨石遺構や祭祀遺跡に対しても許可なく撮影はできません。さらに、山内の一木一葉に至るまで神宿るものとし、それに斧を入れることは許されておらず、山は松、檜などのほか、杉の大樹に覆われています。

日本酒の造り酒屋ではこの杉を使い、風習として「杉玉」を軒先に吊るすことがあります。これは一つには、酒造りの神でもある大物主の神力が古来スギに宿るとされていたためといわれます。

スギの葉(穂先)を集めてボール状にした造形物。酒林(さかばやし)とも呼ばれます。日本酒の造り酒屋などの軒先に緑の杉玉を吊すことで、新酒が出来たことを知らせる役割を果たします。「搾りを始めました」という意味です。

吊るされたばかりの杉玉はまだ蒼々としていますが、やがて枯れて茶色がかってきます。この色の変化がまた人々に、新酒の熟成の具合を物語っています。今日では、酒屋の看板のように受け取られがちですが、元々は酒の神様に感謝を捧げるものであったわけです。

俗に一休の作とされる句、「極楽は何処の里と思ひしに杉葉立てたる又六が門」は、杉玉をうたったものです。

又六は一休和尚のいた大徳寺の門前の酒屋の名です。

極楽は遠くにあるのではなく、案外近くにあるものですよ。例えばほら、そこの杉玉を吊るした酒屋さんとかね、といった意味かと思われます。

さて、人生初の入院も終わりました。まだまだ極楽に行くわけにはいきません。

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そうめん雑学

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梅雨が明けました。

今年もうあと一ヵ月、いや、それ以上の長きにわたって、暑い日々が続ことになるのでしょう。

暑さに弱く、蝋細工のような私にとっては、一年で一番辛い時期でもあります。

そんな中、多少なりともその暑気を和らげてくれるのが、冷たい食べ物。

とりわけ、毎年お世話になるのが、そばや冷麦(ひやむぎ)、冷やし中華といった冷麺ですが、中でもやはり食する頻度がダントツに高いのは素麺(そうめん)です。

清涼感を求めて食する夏の麺料理として代表的なものといえますが、その消費比率はどのくらいなのか、調べてみました。

すると、日本で生産されている冷麺用の乾麺の生産量は、そうめん類がだいたい44%、うどん類が23%、日本そば19%、ひやむぎ類10%、干し中華(インスタントラーメン除く)4%、となっているようです。

やはり素麺はダントツに人気なのがわかります。

夏の間、広く日本中で食される代表的な食べ物であるわけですが、日本各地にあるそうめんの生産地のうち、奈良県の三輪地方を本拠とする「三輪素麺」は、最も素麺つくりの歴史が長く、全国に分布する素麺産地の源流でもあります。かつては、全国の素麺の相場は、三輪で決められていたといいます。

その味といい、のどごしといい、日本を代表するそうめんであることには疑いの余地はありません。原料に良質の小麦粉を使い、極寒期に手延べ法により精製する、といったこだわりにより、腰のしっかりした煮くずれしにくい独特の歯ごたえと舌ざわりの良さを実現しています。

かつては、製造から1年以上寝かしたものは「古物(ひねもの)」、2年以上は「大古(おおひね)」と呼ばれ珍重されました。また、麺が細いほど高級とされ、そうめんのランク(細さ)を上から、次の大きく4つに区分していました。

神杉(かみすぎ)…極細の最高級品
緒環(おだまき)・・・神杉より少々太い高級品
瑞垣(みずがき)・・・誉より少し細い高級品
誉(ほまれ)・・・通常の三輪そうめん

ところが、本来国内産の麦はグルテン量が少なく、細く作ることには不適なのだそうです。グルテンは、小麦、ライ麦などの穀物の胚乳から生成されるタンパク質の一種です。小麦加工品を作る上で弾性や柔軟性を決定し、膨張を助ける重要な要素です。

麦が生育する環境の違いもあり、国産小麦は輸入ものに比べてグルテンの量が少なく、「ねばり」が弱い傾向にあります。しなやか、かつ、弾力のある麺を作るには、しっかりしたグルテン膜が必要です。

このため、三輪そうめんだけでなく、国内の各生産者とも独自の外国産小麦の輸入ルートを確立し、製造法も工夫して、極細の麺でも弾性や柔軟性を確保できる麺を製造できるよう、努力してきました。

ただ、現代では、お中元などで高級品を贈る以外には、それほど高級品にはこだわりがない向きも多く、三輪そうめんでも、従来の4ランクから、瑞垣(鳥居の金帯)、誉(鳥居の黒帯)の2ランクといった、大まかな区分けがされる程度となっているようです。

また、そうめんといえば、「三輪」と呼ばれるほど、かつては品質が突出していたようですが、近年では他の地域でも製造技術が向上し、大きな品質差はなくなり、どれを食べても十分に満足できるレベルになってきています。

とはいえ、長い歴史に基づいた確かな品質を重んじる消費者も多く、一般には、「日本三大そうめん」といわれるブランドがあり、これが珍重される傾向は今も続いています。その3つとは、三輪素麺(奈良県)と、播州素麺(兵庫県)、小豆島素麺(香川県)になります。

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これに加え、近年では、長崎の「島原素麺」、が第四のそうめんとしてクローズアップされてきています。なぜ長崎なのか、ですが、一説によれば、これは香川県の小豆島の素麺職人が移住し、島原でそうめん作りを始めたのが起源といわれます。

島原そうめんのはっきりとした産地形成は、文化年間(1804~1818年)ごろといわれますが、昭和初期までは数えるぐらいの業者数であり、近隣諸県に行商する程度であったようです。戦後、経済統制もようやく平静を取り戻しつつある昭和28年、島原地区で初の製麺業者組織「長崎県手延素麺製粉協同組合」が設立され、本格的に地場産品としての生産に乗り出しました。

昭和29年〜47年の高度経済成長期になると、高級志向・贈答がもてはやされるようになりました。手延素麺の老舗ブランドとして一足早く全国へ名を馳せていた「三輪素麺」の問屋は大いに活気づき、その供給量の不足を島原に求めるようになりました。

一方で日本の最西端にあるためもあり、販路不足に悩んでいた島原は、これを機に一気に他有名産地の委託下請け生産地として生産量を増大させ、製造者戸数も増加の一途をたどりました。現在にいたるまで、島原半島の南側にある、南島原市・西有家地区を中心にした地域は、およそ400軒が軒を並べる全国第二位の一大生産地となっています。

そうした中、2002年、三輪の大手のそうめん販売業者3社が、突如、長崎県産の素麺を「三輪そうめん」として販売していたとして告発を受け、その結果、農水省の立入検査と改善の指導を受けるという事態に発展しました。

「三輪素麺」とされるものには、大きく分けて、三輪に本社を置く大手企業が作るそうめんと、小口の生産者の団体「奈良県三輪素麺工業協同組合」が取り仕切って作るそうめんの2つがあります。

工業組合は、三輪市内の工業組合員が生産するそうめんこそが「三輪そうめん」である、と、長年主張を続けていました。これに対して、三輪に本社を置く大手そうめん業者たちは、工業組合を通したそうめんも販売する一方で、長崎県産(島原産)を仕入れながら「三輪」の表示を使用して販売を行っていました。

これは、長崎県産の素麺の市場価格が三輪と比較してずっと安価であったためだったようです。年々そうめんの需要が伸びえていく中で、長崎産のものも「三輪素麺」ブランドで売れば安定供給もでき、かつ安価で販売できるため、常習的に長崎産を使うようになっていったようです。

これに対して、工業協同組合側は、三輪で作られたものでしか「三輪そうめん」と呼べない、と主張しました。これは当然のことであり、地場産品の均一された品質は、その土地ならではの環境や風土に基づいて形成されることが多いのも事実です。また、長年、三輪という土地に住まう人々が育んできた技術によって生産されてきたものが、新興の他地域での産物と同一視される、ということは悔しいことに違いはありません。

その、強い地元意識を農水省にぶつけた結果、国もこれを受け入れ、立入検査、という結論になったのでしょう。

これを受けて、大手メーカーは、これ以降、自社販売品のうち三輪での生産ではない場合は、「三輪そうめん」とは表示しなくなりました。

この件により、長い歴史を持つ「三輪ブランド」は、三輪で生産したものに限られることになりました。しかし、長年この地で製造に励んできた、三輪のはえぬきの業者たちは、今回のことを教訓として、より三輪素麺のブランド力を高めていくことの必要性を痛感しました。

以後、三輪素麺の品質や歴史性の宣伝を内外に行うようになり、行政への働きかけも行い始めました。

そうした努力の結果、今年の6月、桜井市は「そうめん条例」を制定しました。これは、三輪素麺の普及のために、三輪素麺を食べる習慣を広め、伝統文化への理解の促進を目的に、市が、三輪素麺の普及を促進するために必要な措置を講じるよう努める、というものです。

三輪ブランドを守るため、市がその普及促進のための措置を講じ、生産業者の主体的取り組みを援助するしくみで、その活動に市民も協力してよ、というわけです。市をあげて地元産のそうめん作りを全国にアピールしていこう、という意気込みの表れともいえます。

こうした取り組みにより、三輪のそうめんは、日本におけるトップブランドとして、ゆるぎない地位を保ち続けており、現在でも桜井市三輪は日本のそうめんの生産の中心地と目されているわけです。

ただ、三輪では、そうめんだけでなく、もうひとつの雄、「ひやむぎ」も生産しており、こちらも全国トップクラスの生産をあげています。三輪の手延べひやむぎ、手延べ三輪うどんといった商品は、いま手延べそうめんに次ぐ、大きな収入源になりつつあります。

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そこで、ひとつ疑問が浮き上がるのですが、この、ひやむぎ(冷麦)とそうめん(素麺)はいったい何が違うのでしょうか?

多くの人が、単に太さが違うんだ、と思っているでしょう。

これは当たってもおり、当たっていなくもありです。実はこの二つ、製法が違う、ということをご存知でしょうか。

一般に出回っているひやむぎの多くは、細打ちにした「うどん」と同じで、小麦粉と塩と水を混ぜたものを練って延ばし、切って作ります。

一方のそうめんは、小麦粉と塩と水を練るところまでは同じですが、ひやむぎのように切らず、練ったものに植物油又はでんぷんを塗り、よりをかけて引き延ばし、細く仕上げて、天日干しにして作ります。

素麺は「索麺」とも書き、これは、糸やひもを引き出す、という意味です。ひもをたぐって中の物を引き出すように、手づるによってさがしもとめる、という意味があり、つまり、「手延べ索麺」=「手延べそうめん」です。

ひやむぎの方は、小麦が原料の「小麦粉」を練り、うどんよりもやや細めに切ります。これを「切り麦」といい、熱して食べるものを「熱麦」、冷やして食べるものを「冷麦」と呼んだことから、「ひやむぎ」の名があります。

「索麺」と「冷麦」、この文字そのものが、如実に製法の違いを表しており、原料は同じ小麦であるものの、仕上がりは別のものであるわけです。

昔ながらの手延べで作る「索麺」は、人力が入るために作るのにそれなりに手間暇がかかりますが、「冷麦」は、今日では機械でもってかなり簡単に作ることができます。今日では機械製麺が主流であり、上で述べたとおり、うどんと製法が同じです。

そして、うどん業界では、細切りのものを「ひやむぎ」、さらに細いものを「そうめん」と呼んで売り出しています。ところが、手間のかかる「手延べそうめん」のほうは製法が違うのに、こちらも普通は「そうめん」と呼ばれます。ここに、混乱があります。

これに関して、JAS規格(日本農林規格)の「乾めん類品質表示基準」では、機械製法によって小麦粉由来の麺を作る場合、麺の太さが1.7mm以上を「うどん」、長径1.3mm以上1.7mm未満を「ひやむぎ」、長径1.3mm未満を「そうめん」と分類しており、基本的には麺の太さで区別します。

太さを基準に「うどん」のほか「ひやむぎ」と「そうめん」としたのは、製麺機で作られる麺の種類が増え、商品の流通上、都合がよいからです。

極太麺の「うどん」、やや太麺の「ひやむぎ」、そして細麺の「そうめん」とバラエティを変えれば、料理法もさまざまになり、消費者に喜ばれます。また、うどん業者などから税金を取る役人にとっても、いろんなバリエーションを作ってくれるほうが税金を取りやすくなり、税収が多くなる、というわけです。

これに対して、昔ながらの手作業で、そうめんを作る場合は、単に小麦粉と水と塩を混ぜて練るだけでなく、もうひと手間、難しい工程加わります。機械によってつくられる麺と異なり、油を加えてさらに細くする、という手間が加わっており、これが「手延べ」の意味するところです。

この「手延べそうめん」は、太さに関しては、機械麺ほど厳しい農林規格はありません。人力により手延べ麺にする場合の呼称は、「そうめん」でも「ひやむぎ」でも良いことになっています。そして、農林規格上、その太さについては、1.7mm以下ならばどちらでも良い、とされています。

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ところが、それでは機械でつくる「うどんそうめん」や「うどんひやむぎ」と違いがわからなくなってしまい、買ってもらえなくなる可能性があります。このため、その頭に「手延べ」をつけることで、差別化を図ることが許されています。

江戸時代から続く、人の手によってつくる「正統派」の手延べめんは、「手延べそうめん」あるいは、「手延べひやむぎ」と表示されています。がしかし実質この二者に違いはなく、太さが違うだけです。従って、かなり太くても「そうめん」という場合さえあり、実際、徳島県の手延べの名産品「半田そうめん」は太く、1.7mm前後あります。

ただし、「手延べ」と呼称する場合は、「手延べ干しめんの日本農林規格」というのが農林水産省で決められています。この規格の中には手延べの細かい製造方法が定められており、ある程度これに書かれているレシピに準じて作られたものでなくては「手延べ」を名乗ることはできません。

そのレシピは、上でも述べましたが、練ったものに植物油又はでんぷんを塗り、よりをかけて引き延ばし、細く仕上げて、常温で一定期間放置することにより熟成させ、さらには天日干しにする、といったものです。ここでは単に2~3行で書いていますが、ほかにも長年蓄積された、細かいノウハウが必要になります。

一方、機械で作った麺は、「ひやむぎ」「そうめん」と商標表示することはできますが、製法が違うため、あたまに「手延べ」をつけることは許されません。手延べの工程がないぶん、仕上がりはかなり異なったものになります。

従って、万一お店で売られている冷麦や素麺が、手延べの工程を経ていないのに「手延べ」と表示されていたら、それは法律を犯して販売されている、ということになります。

なので、お店でそうめんやひやむぎを買う場合には、「手延べ」なのかそうでないのかを見分けましょう。

まず、表面を見て、「手延べ」でのことばが書いてあるかどうかを確認します。さらに裏面を見れば、小麦や水のほかに「油」が入っている旨の成分表示があるはずであり、これで手延べ麺であるかどうかを確認できます。単に機械で作られたものには、「手延べ」の表示はないばかりか、成分表示にも何ら油成分は記載されていないはずです。

これで、冷麦と素麺の違い、そして手延べ麺とそうでないものの違いについての疑問が解決しました。このブログを見て勉強すれば、もう素麺と冷麦の違いについて迷うことはないわけです。

ところで冷麺に関するまた別の疑問。こちらも、日ごろから不思議に思っておられる方も多いと思のですが、麺に赤や緑の彩色麺が何本か入っている、アレです。理由はいったいなんなのでしょうか。

実はこれ、揖保乃糸など一部の「手延べ麺」の製造業者が、製麺所において、そうめんとひやむぎを区別するため、ひやむぎの麺束のほうに、これらの彩色麺を混入していたのがはじまりです。

揖保乃糸(いぼのいと)は、兵庫県手延素麺協同組合が有する手延素麺の商標です。その歴史は三輪そうめんほど古くはなく、とはいえ、15世紀前半に最古の記録が残るなど、日本を代表する手延べ素麺のひとつです。

この彩色麺を混入する、という風習を他の業者も真似し、1980年代後半までは関東地方(東京)などを中心に多く見られましたが、1990年代には徐々に縮小していき、揖保乃糸以外の大多数が白一色のひやむぎになってしまいました。

しかしその一方で、一部の製造業者が現在でもこの風習を続けており、中には子供が喜ぶから、という理由で、機械そうめんなどにも入れられていることがあります。

もっともこれに関しては色麺が入っていいたからといって農林規格に反するわけでもなく、罰則規定などもありません。白い冷麦の中に交じって、赤や緑の素麺が入っているのをみると涼しげで、いかにも夏を感じさせます。

と、同時に色つき麺が入っていると何やら楽しい気分にさせてくれます。子供時代にひやむぎを食べたとき、争うようにして、色のついた麺を取り合った、という経験をした人も多いのではないでしょうか。

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さて、こうしたいろいろな違いがあるにしても、そうめんもひやむぎも、その食べ方はほぼ同じです。湯を沸かしてゆでてから、氷水や流水で冷し、ぬめりを取るためのもみ洗いをした後、めんつゆにつけて食べるのが最も一般的です。

無論、ゆがいたあと、温かいままでいただく場合もあります。そうめんの場合、熱いツユで食べるものを、「にゅうめん」などと呼ぶようです。夏が過ぎ、涼しくなってから食べるにゅうめんは、冷やしそうめんとはまた違った魅力があります。

いずれの場合も、ゆでる水には塩を入れないのが普通です。これは逆に麺に含まれている塩分を出すためでもあります。冷やしそうめんの場合、茹で上がったらできるだけよい水で洗ってぬめりをとりますが、とくに手延べの場合、製造時に混入した油をとりのぞく効果があります。

そうめんつゆは醤油、出汁、みりんあるいは砂糖などからなる甘辛いもので、また、そばつゆよりは砂糖やみりんが多く添加され、甘味が勝るものが多いようです。出汁の材料は地域によってさまざまですが、鰹節、干しエビ、干し椎茸などが一般的です。付け合わせに煮込んだシイタケ、茄子、錦糸卵、トマト、蒲鉾、海老、缶詰のみかん等がつく場合もあるようです。

夏季には各醤油メーカーや食品メーカーから、「そうめんつゆ」と呼ばれる調味済みのめんつゆが販売されます。また、ごまだれをめんつゆに入れたりつけ汁として用いる、というご家庭も多いのではないでしょうか。

関西地方では冷やし中華(冷麺)のようにハム、キュウリなども添えるのが一般的で、薬味としては、刻み葱、おろし生姜、胡麻、ミョウガ、山椒、海苔、鰹節、大葉、おろし山葵などが用いられます。我が家も家内とともに広島・山口の出自なので、この手の薬味を入れることが多いようです。

そうめんに、焼いた鯖の身を入れる、という独特のレシピもあります。滋賀県長浜市周辺の湖北地方に伝わるそうめん料理で、焼鯖素麺、または鯖素麺とも呼ばれています。農繁期である5月に、農家へ嫁いだ娘を持つ親が忙しい娘を気遣い、実家から嫁ぎ先に焼鯖を届ける「五月見舞い」という湖北地方独特の習慣に由来するそうです。

農繁期に気軽に作って食べられる料理として、また客をもてなす際などのハレの料理としても伝えられてきたといいます。湖北地方は内陸に位置しますが、比較的近い地域に若狭湾という鯖の産地があるため、鯖は一般的な食材でした。

この伝統が伝わったのかどうかは定かではありませんが、東北地方の山形県では、たれと薬味に加え、サバの水煮缶を汁ごと、どんと中に入れるのが普通のようです。テレビのバラエティ番組で紹介されていたのを見て、我が家でも試してみましたが、確かにおいしいと思いました。無論、お好みもあると思いますが、みなさんも試してみてください。

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さて、暑い夏がこれから長く続きます。

食欲のない方は、本日のレシピを見て、冷たい麺で夏場を乗り切ってください。

ただ、「夏太り」にはご注意を。

現代の日本の夏は、基礎代謝が低下しやすい環境と言われています。基礎代謝とは、何もせずじっとしていても、生命活動を維持するために自動的に行われている活動で、そのために必要なエネルギー消費のことです。

秋から冬、そして春にかけては、寒暖差がそれなりにあるので、私たちの体は、体温を一定に保とうとかなり活発に基礎代謝を行います。ところが、夏場は一日を通して温度差が少ないため、そもそも代謝を上げなくても体温調整ができてしまいます。

そこにきて、暑いからと運動量が減りますし、発汗によってエネルギー代謝を促進するビタミンBが不足します。さらには睡眠不足とエアコンの多様が自律神経の乱れを誘発します。

結果、本来、自動的に脂肪を燃焼してくれるはずの基礎代謝ががくんと落ちてしまいます。

夏太りになった人の多くは、「そんなに食べていないのに太った」と口を揃えて言いますが、
そうした人に限って、冷たい麺類やパン類ばかり摂取しているようです。そうすると、いくら小食でも、エネルギー価の高い炭水化物のオンパレードとなり、ただでさえ低下した身体の代謝が追いつかなくなってしまいます。

食欲不振で「何か食べなくては」と、冷麺ばかり食べていると、栄養の偏りで代謝低下に拍車をかけることになるわけです。

なので、そうめんを食べるなら、それなりに運動もし、規則正しい生活を送って、できることならエアコンを使わずに快適に眠れる方法を模索します。ビタミンBを多く含む、酵母やレバー、肉、魚介類、野菜などをたくさんとり、基礎代謝量を保ちましょう。

バランスよく他の食材と合わせながら素麺を食べ、暑い夏を乗りきったあとも、美しい体型を保つ。これをこの夏の目標にしてはいかがでしょうか。

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