涼しいはなし


ここのところ天候不順ですが、この嵐が過ぎれば、また暑い夏が戻ってきそうな気配です。

私が大嫌いな季節であることは、このブログでも再三書いてきたところです。

が、いったいなぜ夏が嫌いなのだろう、とふと思ったので改めて理由を考えてみることにしました。普段なにげに思っていることをつきつめてみると意外なことがわかったりします。

すると、まずは汗をかくのがいやだ、ということがわかりました。じっとりとかいた汗は衣類を汚しますし、気持ちの悪いものです。冬ならば同じものを2~3日も着ることができますが、夏はそうはいきません。毎日着替えなくては不衛生です。

暑いので自分で体温調節ができないのも気になります。人は、体感温度が体温以上になると行動が緩慢になり、判断力が鈍り、最終的には脱水症状を起こして死に至ります。

湿気が多いのも不快です。まとわりつくような空気に身を晒していると体の中まで湿ってきそうです。日本の夏は湿度も高く、不快指数が80%も超えると体調も崩しがちです

総合的に考えてみると、ようするに環境を自分でコントロールしにくいということがいえそうです。夏以外の季節ならば重ね着をしたりして自分の体調を整えることができます。しかし夏はたとえ裸でいてもそれ以上は涼しくなりません。

扇風機やクーラーがあるじゃないかと言われるかもしれませんが、こうした電気器具は無理に体を冷やしてしまいます。医学的にも体を温めるのが健康にはいいようです。暖房病と言うのは聞いたことがありませんが、冷房病というものが確かに存在します。

原始時代、人は火を持ったことで、暖を取り、寒さを避けられるようになりました。そのおかげで、寒い場所でも生きていけるようになるなど生活範囲も広くなりました。その一方で、暑さから逃れるには、日陰や風を利用するか、海や川で水浴びをしてしのぐしかありません。

鎌倉末期の随筆家、吉田兼好法師は、随筆「徒然草」の中で「家の作りやうは、夏をむねとすべし」と書いています。夏の暑さを基準に家づくりをせよ、というわけで、この有名歌人も夏の暑さが一番厳しい気候条件と考えていたようです。

近代になって冷房が誕生するまでは、太陽から発せられる輻射熱や放射熱は人の活動を制限し、時には命さえ奪いました。このため人は、緯度や高度が異なる涼しい避暑地に引っ越して暑さを避けるようになりました。また、夏まで雪を貯蔵し、涼を取るためにこれを用いたりもしました。




こうした保存施設の歴史がどれくらい古いか正確な記録は残されていませんが、初期の頃には、洞窟や鍾乳洞に貯蔵したと考えられます。またさらに時代が下ってからは、地面に掘った穴に氷を入れ、その上に茅葺などの小屋を建てて覆って、保冷していたようです。

いわゆる「氷室」の中は、地下水の気化熱によって外気より冷涼となります。ここに氷を保存することで、涼しさ・冷たさを夏の間継続して利用することができます。

ただ、夏場の氷は大変貴重品でした。長らく朝廷や将軍家など一部の権力者だけのもので、庶民には手の届かないものでした。

日本書紀」には、氷連(むらじ)という姓が登場します。これは朝廷のために氷室を管理していた一族です。朝廷の要職のひとつで、皇族の一派である鴨縣主家(かものあがたぬし)の家系図にもやはり「氷連」「氷室」の記述が見られます。

また7世紀に施かれた律令制において、製氷職は宮内省の主水司が世襲していました。主水(もひとり)とは飲み水のことで、主水司は水・氷の調達を司る職です。こうした製氷と氷室を管理する職は、その後長きに渡って存在しましたが、明治時代になって消滅しました。

ただ、江戸時代には氷を献納する習慣がまだ残っていました。加賀藩では、毎年旧暦の6月1日(現在の7月の10日頃)に、将軍家へ自藩の氷室の氷を献上する慣わしがありました。

また、江戸では土蔵造りの氷室が作られ、これにより、一部の庶民が氷の提供を受けることができるようになりました。江戸には玉川上水から飲料水が供給されていましたが、夏場にはぬるくなってしまいます。そこで、提供された氷で冷やした水を売る「水屋」という商売が成立し、町中で棒売りがこの冷水を売り歩くようになりました。

ただ、川から直接汲んだ水に氷を入れて冷やしたものであったため、そのまま飲んで腹を壊す人が続出しました。とくに高齢者の場合は重症になることもあったことから、年寄りが無理をするとロクなことがないという意味の「年寄りの冷や水」という言葉が生まれました。

一方、それぞれの庶民が自由に氷を売り買いできるようになるのは明治になってからです。日本で最初に氷店が開かれたのは明治2年(1869年)のことで、横浜・馬車道通り常磐町五丁目において、氷水店が開業したのが嚆矢とされます。

これを営んでいたのは元旗本の町田房造と言う人で、「あいすくりん」の名でアイスクリームを売り出しましたが、外国人にしか売れませんでした。しかし徐々に評判を呼ぶようになり、西洋料理店や西洋洋菓子店のメニューに加わってのちは、日本中に広がっていきました。

ただ、氷のほうはあまり売れませんでした。このころ販売されていたのは、「ボストン氷」という輸入天然氷で高価だったためです。米ボストン港から世界中に輸出され、日本では横浜港に陸揚げされていましたが、運搬中に溶けるので供給量も多くありませんでした。

これを輸出していたのは、アメリカ東部、ニューイングランドの実業家でフレデリック・テューダーという人です。1806年に初めて商業的な規模で氷の輸出を始めた人物として知られ、その後世界的な産業として拡大していく「氷貿易」の生みの親です。

チューダーははじめ、マサチューセッツ州にあるウェナム湖という湖でできる天然氷を、カリブ海にあるフランス領マルティニークに輸出しました。この島には裕福なヨーロッパの上流階級が居住しており、この商売は大当たりしました。

その後、自前の貯氷庫も建設するなど業務を拡大し、販路もキューバやアメリカ南部へと広げました。競合者も現れましたが、市場そのものが大きかったことから、1830年代から1840年代にかけて氷貿易はさらに拡大しました。

彼らの積荷はイギリス、インド、南アメリカ、中国、日本、オーストラリアにまで達しました。チューダーは特にインドとの貿易を通じて一財産を築き、「ウェナム・アイス」が有名なブランドになりました。





明治4年、中川嘉兵衛という実業家が、この商売を日本産の氷でてきないかと考えました。

嘉兵衛は、1817年(文化14年)に三河国額田郡(現・岡崎市)で生まれました。新しもの好きだったようで、横浜が開港したと聞くと早速ここに店を構え、輸入氷や洋菓子の販売を始めます。 1868年(明治元年)には、東京での牛鍋屋の第一号として「中川屋」も開店させました。

そして天然の製氷事業にも着手しました。まず、富士山の山麓に500坪の採氷池を造り天然氷を得ることに成功しましたが、商売にはなりませんでした。最寄りの江尻港(現清水港)までは8里(約31km)あり、馬で運ぶ間に大半の氷が溶けてしまったからです。

さらに横浜まで船で運ぶ間にも氷は溶けました。船賃は一般貨物の2倍もしたといい、そこまでして運んでも残った氷はわずかであり、商売としてはとても成立しませんでした。

挫折した嘉兵衛はその後2年間休業し、各地で氷の産地を探しまわりました。諏訪湖、日光、青森、はたまた釜山と各地を巡り、これらの場所で毎年氷を採り、横浜へと運搬してみました。しかし、あいかわらず歩留まりは低く、いずれも失敗に終わりました。

しかし、諦めることなく今度は函館に渡り、6度目の採氷に挑戦しました。場所は五稜郭です。1868年(慶応4)年の箱館戦争の激戦地になったここは、このころ放置され荒れ放題になっていました。

この五稜郭の濠へは、すぐ西側を北から南へと流れる亀田川から水が引かれ、飲料水として供給されていました。その水は大変清涼な水で、これを視察した嘉兵衛は有望と判断。開拓使より7年間の使用権で濠1万7000坪を借り受けました。

1870年(明治3年)の冬、早速結氷した濠から嘉兵衛は氷を切り出します。しかし、この年は温暖であったため、250トンの氷を横浜に輸送するのが精いっぱいでした。しかし、これに手応えを感じた彼は、翌年の冬には倍以上の670トンの切り出しに成功します。

そして今度は、英米などの船足の速い外国商船を利用し、横浜経由で東京に運搬しました。運び込んだのは、やはり開拓しから借りた永代橋の倉庫でした。ここを貯氷庫にし、京浜市場で販売したところ、ボストン氷に比べて安価な箱館氷は飛ぶように売れ始めました。

当初、5~600gあたり輸入氷10銭であったのに対し、函館氷は4銭であったといい、また、その品質の高さが評判を呼んだ結果でした。嘉兵衛は箱館氷を「堅硬透明、実に水晶状」と表現して売り出しましたが、実際にも質が高く衛生的な氷でした。当時の東京司薬場(衛生試験所)も、「善良にして、飲食に適する」とお墨付きを与えました。

明治10年第一回内国勧業博覧会では函館氷は一等を受賞し、その賞牌に龍の紋章が附されていたことから、嘉兵衛はこの氷に“龍紋氷”という商標を付け、さらに好評を博しました。

その後、五稜郭の濠の貸与期限が終わったことから、嘉兵衛はすぐ北にある神山(現・函館市神山)という村に新たに約900坪、4枚の製氷池を新設します。労働者は地元民を採用したことから、村人は雪が降ると「ゼンコ降ってきた」と喜んだといいます。

嘉兵衛の製氷事業によって、従来高価だった医療用の氷も安くなり、また庶民が安価に安全な氷を食することができるようになったことは、社会的にも高く評価され、新聞各紙も「龍紋氷室」の創立者である中川嘉兵衛を絶賛しました。

ただ、嘉兵衛の成功は社会問題も起こしました。日本の各地で天然氷の採取販売が盛んになり、当時貴重な保冷剤であった“おが屑”が品薄になって相場が高騰したのです。また、他社が作った不衛生な氷を食して健康を害する人が続出しました。

しかし、嘉兵衛の成功は、都市部に氷問屋の開業を促しました。その結果氷が安価になったことで、食料の冷却や、医療・工業用など広範囲の用途に氷が使われるようになりました。

その中にあって、箱館氷はその後宮内省のご用達品にもなり、函館の特産品にもなりました。しかし、その裏では新池の開削費、運賃、販売競争などで経営的には厳しかったといいます。また暖冬の年には生産量が低いなど、その業績は自然条件にも左右されました。

嘉兵衛は、明治30年(1897年)に亡くなりましたが、その前年に事業を支配人だった北原鉦太郎に譲り渡しました。事業そのものは1940年(昭和15年)頃まで継続されました。





天然氷の生産は、その後大正に入っても行われていました。医療や食用もさることながら、養蚕業での需要もあったためです。繭を一斉に孵化させないためには、倉庫に入れ氷で冷やして調整する必要があり、依然、関東や信州では天然氷の採氷場が開設されていました。

ただ、天然氷の時代は、明治20年代がピークで、明治30年代以降衰退に向かいます。これはこのころから冷凍機が導入され、機械製氷がさかんになったためです。

日本で初めて機械製氷が行われたのは1879年(明治12年)のことです。横浜・元町に、米国資本による機械製氷会社、ジャパン・アイス・カンパニーが生産を開始しました。

この会社は2年後、ストルネブリンクというオランダ人に経営権が移転し、横浜アイス・ワークスと社名を変更、その後さらに帝国冷蔵株式会社に買収されました。この会社の製氷工場は神奈川日冷株式会社山の手工場として、1999年(平成11年)まで稼働していました。

一方、日本人が設立した機械製氷会社は、1883年(明治16年)に東京・京橋新富町に建設された東京製氷会社です。同社の工場を皇太子(のちの大正天皇)が視察したことから有名になり、以後、機械製氷は天然氷を凌駕するようになっていきました。

その後、製氷会社が続々と設立され、天然氷と人造氷とが競合をするようになると、互いにネガティブキャンペーンを繰り広げ、熾烈な市場獲得競争に入っていきました。この中で、実業家、和合英太郎は、今日言うM&Aの先駆け的経営者として辣腕を振るいました。

和合は気候によって価格や供給が左右されやすい天然氷に代わり、機械製氷が時代の主流になると見抜き、1897(明治30)年、機械製氷株式会社の設立に発起人として参加しました。しかしその後、日本各地に設立された同業者が競合しては潰し合いをするのを見て、これではこの産業は大きくならないと考え、これら各社の合併に乗り出しました。

1907(明治40)年、まず東京製氷を吸収合併して日本製氷とし、翌年には大阪製氷、静岡製氷を合併吸収。この後も吸収合併を繰り返し、1916(明治5)年頃までには東海地方に散在する10社、更に和歌山、岡山、大分、熊本などの合計13社を相次ぎ傘下に収めました。

1917(大正6)年、日本製氷社長就任、全国の製氷のうち40%を占めるまでとなり、2年後には下関の東洋製氷も吸収し、日東製氷を設立。1925(大正14)年には日本冷凍協会(現・日本冷凍空調学会)を組織し推されて会長となり、その後も日本の製氷・冷凍業界の発展に貢献しました。

和合はさらに、中川嘉兵衛が創立した龍紋氷室と日東製氷を合併させて大日本製氷と改称。1933(昭和8)年に病気で辞任するまで社長を務めました。合併はその後も続き、老舗数社を吸収して日本水産株式会社と名を変え全国の製氷能力の半分を占めるに至ります。

日本水産は1939(昭和14)年に71歳で和合が亡くなってからも更に続きましたが、戦時下にあって、1942年(昭和17年)には、大洋漁業、日魯漁業、極洋捕鯨、全漁連の製氷冷凍部門に統合され、国策会社、帝国水産統制株式会社が誕生しました。

戦後は、GHQによって財閥解体、寡占企業の排除が進み、帝国水産統制株式会社も解体されてしまいました。ただ、その製氷・冷蔵部門が独立しました。名前を変えて成立したのが日本冷蔵株式会社であり、現在のニチレイです。

一方、械製造の氷に押されて他の天然氷業者はほとんど消えてしまいましたが、現在も製造しているところがあります。日本で天然氷を製造している蔵元は、関東周辺では栃木県に3か所、山梨県に2か所、埼玉県に1か所などです。

現在、日本で生産消費されている氷の種類には、下の4種類があります。

管理された池などで、自然凍結した氷を採取する天然氷
家庭用電気冷蔵庫でつくる氷
主として業務用自動製氷機でつくる氷
製氷工場で一定の条件のもとで生産される純氷(じゅんぴょう)

4番目の純氷ですが、「純氷」という名称を、いつ頃、誰が初めて使用したかは不明です。ただ、特定の氷の商品名ではなく、自動製氷機の氷や家庭の冷蔵庫で製氷した氷と区別するために、製氷業界で広く使用されている名称であって、多くの氷商品のパッケージにも使用されています。

1980年代から1990年代にかけて、飲食店で業務用の自動製氷機が普及したため、扱う業者は販売不振に陥っていました。しかし、2013年にコンビニエンスストアの挽きたてコーヒーが登場したことによって、再び需要が上昇していきます。

高品質でほとんど無味無臭の純氷は、近年のかき氷ブームで歓迎され、ふわふわ感が楽しめる氷として求められ、また純氷のオン・ザ・ロックでウイスキーを楽しむ人が増えています。

純氷の定義としてはまず、家庭で製造したものではなく、製氷業界・氷販売業界が製氷工場で造る氷であるという点です。また衛生的に管理された飲料水を原料とし、主として「アイス缶方式」により‐10℃前後で48時間以上かけて凍らせた飲食用途の氷のことを指します。

その普及のきっかけは、1965年(昭和40年)にホシザキ電機が、メーカーとして初めて自動製氷機を発売し、以後、飲食店へ販売されて普及したことです。危機感を抱いた純氷製造業界は、売り上げの低下を懸念し、差別化の目的で「純氷」を大きく前面に出してPRを始めました。

純氷は、時間をかけて結氷するため、氷の結晶が大きく成長し透明度が高いのが特徴です。これに対し、自動製氷機で作った氷は‐25℃で急速に結氷させ、氷を取り出す際には温かいガスをあてて溶解させるため、氷に無数のひびが入って濁って見えます

また家庭用電気冷蔵庫でつくった氷も、-20℃程度の低温で急速に結氷するために、空気や次亜塩素酸ナトリウムが除去されずに残り、中央部が白く濁ります。

氷の結晶の立体構造は正六角形になっています。これが溶けるとき、表面からだけでなく内部からも溶けていきますが、純氷はこの正六角形の結晶が大きく、結晶と結晶の結合面が少ないために溶けにくいという特徴があります。

自動製氷機や冷蔵庫でつくった氷は結晶が小さく、結晶の結合面も多いので溶けやすく、また空気や不純物を純氷に比べて多く含むために、そこからも溶けやすくなります。

このように、純氷は自動製氷機や冷蔵庫で造った氷に比べて多くの利点を持っており、これが舌の肥えた消費者に受け入れられるようになった理由です。その需要は急増しています。

この純氷を作る方法ですが、まずは徹底的に不純物を取り除くことから始まります。純氷の原料となる原水は、活性炭ろ過装置でカルキや臭気を吸着・除去し、フィルターに通して異物を排除した後、さらに逆浸透膜ろ過装置を通してろ過し、不純物を極限まで取り除きます。

こうして不純物を取り除いた原料水をアイス缶に注水します。アイス缶というのは、純氷を作るための専用の長方形の缶で多くはステンレスなどで作られています。濾過水を満たしたアイス缶は、-10℃に保ったブラインという塩化カルシウムのプールの中に漬けます。

これは、冷凍機の冷凍能力を、被冷凍物であるアイス缶の中の純氷に伝える役割をする熱媒体で、一種の不凍液です。そしてアイス缶の中には、圧縮空気をエアパイプで送り、攪拌することで水中に残留した空気などの不純物がさらに空中に放出されます。

こうして-10℃の温度でアイス缶を冷却します。すると、アイス缶の蓋を除く5面の壁面から純水な分子だけが中心に向かってゆっくりと凍っていきます。

しかし、中央部分には凍らない部分が残ります。このため、中央に凍らずに残っている水を吸い取り、新たに水を注入します。この工程を数回繰り返し、中心部まで凍らせます。こうして、残留物をほとんど含まない、濃密で固くしかも溶けにくい透明な氷が出来上がります。

この純氷の製氷にかける時間は、最低でも48時間以上で、製氷工場によっては72時間もかけて製氷させています。さらにブラインのプールからアイス缶を抜き出すときにひびが入るのを防ぐために、1~2時間程度常温でなじませます。

最後に、15℃程度のプールにアイス缶を沈めアイス缶の周囲を溶かし、プールから引き上げたアイス缶から氷を抜き取ります。完成した氷柱は、およそ135kgもある巨大な氷柱です。

こうしてできた純氷は、さらに小分けにして販売されます。扱っているのはいわゆる町の氷店ですが、一般消費者も製氷工場から直販で入手できる場合もあるようです。ただそんなことをしなくても、最近はスーパーやコンビニで簡単に純氷を入手できます。

飲み物の味を損なわないことから、純氷はその昔、高級なホテルやバーでバーテンダーが使う特別品であり、寿司屋などでも高級店だけがこれをネタの保管用に使っていました。

そうした高級氷を、今我々は簡単に入手できる、そんな時代になっています。

暑い夏には、こうしたこだわりの氷を使った、かき氷を食べるのが一番です。かき氷がおいしく感じられる温度は、摂氏30度以上の夏日の日だそうです。そんな日を選んでかき氷と食べれば、少しは涼しい気分にもなろうというものです。

考えてみれば、自分でコントロールできない環境もそうやって色々な工夫をして改善していけば良いのかもしれません。これを書いていて、なんとか今年の夏もなんとかやり過ごせそうな気がしてきました。