輪が三つ

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しばらくぶりです。

実はこの半月ほど、入院していました。

その詳細はまた別の機会に改めて書くとして、今日は先日、そうめんについて書いたので、その続編を。

この「素麺」の起源ですが、古代中国の後漢の「釈名(後漢末の劉熙が著した辞典)」や唐の文献に度々出てくる「索餅(さくべい)」とする説が有力です。

日本では天武天皇の孫、長屋王邸宅跡(奈良市)から出土した木簡が最も古い「索餅」の記録となっています。奈良時代には索餅は米の端境期を乗り越える夏の保存食であり、「正倉院文書」にも平城京での索餅の取引きの記録が残っているそうです。

原形はもち米と小麦粉を細長く練り2本を索状によりあわせて油で揚げたもの、とされており、現在も中国で食される「油条(ヤウティウ)」に似たものだったのではなかったか、という説があります。

油条は、油で揚げたパンで、食塩、重炭酸アンモニウムを水で混ぜたものに小麦粉(薄力粉)を少しずつ加えながらこねて生地を作ります。中国や香港、台湾などでの朝食に、豆腐脳、粥や豆乳の添え物としてよく食べられますが、横浜の中華街などで食べたことがある人も多いでしょう。

奈良時代に日本へ唐から伝来したのが、この油条そのものだったのかどうかはわかりませんが、いずれにせよ唐菓子の1つではないかといわれています。一般に唐菓子といえば、米粉や小麦粉などの粉類に甘葛(あまずら)の汁など甘味料を加えてこね、果物の形を造った後、最後に油で揚げた製菓をさしますから、油状にも似ています。

日本では、神社や神棚に供える供物のことを「神饌(しんせん」といいますが、これが日本に当初伝わった当時の「索餅」に近いのではないか、といわれています。この神饌が、一般生活に浸透し、別の形に変わったものが、「鏡餅」です。

ただ、当初中国から入ってきて、日本風に変化していった索餅の材料・分量、作るための道具についてはあまり詳しいことはわかっていません。

日本では、まず奈良時代に上の索餅が輸入されました。

その原型については諸説あるようですが、小麦粉と米粉を水で練り、塩を加え縄状にした食品だったらしく、このため、索餅は、「麦縄」とも書くことがあります。乾燥させて保存し、茹でて醤・未醤・酢付けて食べたとみられており、他にごま油を和えたり、ゆでアズキに付けて食べたとみられています。

平安時代中期の「延喜式」にも一部その製法についての記述があります。こちらにも、小麦粉と米粉に塩を加えて作る、といった記述がありますが、形状については言及がなく、そもそも麺だったのかどうかもわかりません。一説によれば、現在の素麺やうどんよりもかなり太く、ちぎって食べたのではないか、ともいわれています。

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ところが、本場の中国では日本よりもはるかに早く、「麺」として成立していたそうです。日本の平安時代とほぼ時期を同じくする、北宋時代(960~1127年)の書物に既に「索麺」の表記が出てきます。「居家必要事類全集」という百科全書に出ている索麺の作り方には「表面に油を塗りながら延ばしていくことで、最後に棒に掛けてさらに細くする」といった近年の手延素麺の製法と酷似した特徴が書いてあります。

この製法がなぜそのまま日本に上陸しなかったのかはよくわかりませんが、現在のそうめんにかなり近いものは、鎌倉時代には既に作られていたようです。後追いで古代中国の「策麺」の製造方法が伝わり、既に輸入済みだった「索餅」の製法のひとつとして発展したのではないでしょうか。

そして、室町時代になると「索麺」や「素麺」の文字が使われるようになりました。 このころからそうめんは、寺院の間食(点心)として広がり、この時代に現在のそうめんの形、作り方、料理方法がほとんど形成されたと考えられています。

文献にもよく登場するようになりますが、主な舞台は寺院や宮中の宴会などで、まだ庶民が気軽に食べられるものではなかったようです。奈良期以降、この時代までに「索餅」「索麺」「素麺」の名称が混じって用いられていましたが、やがて「素麺」として統一して呼ばれるようになっていきました。

室町時代には、茄でて洗ってから、再度蒸して温める、という食べ方が主流だったことがわかっており、その調理法から、「蒸麦」や「熱蒸」とも呼ばれていたようです。

この時代の文献に、「梶の葉に盛った索麺は七夕の風流」という文章も残されており、七夕ごろの夏の風物詩であったことがわかります。この時代の宮廷の女房言葉(朝廷や貴顕の人々に仕えた奥向きの女性使用人が使うことば)では、素麺を「おぞろ」と呼び、七夕の行事に饗せられていました。

その後、戦国時代までには、そうめんが庶民の口にも入るようにもなっていたようです。安土桃山時代に豊臣秀吉が、本拠地として姫路城に居城することとなり、入城したときには、「播州名産の煮麺の饗応を受けた」と伝えられています。

江戸時代に入ると、素麺作りはさらに栄え、庶民の間で素麺が食べられるようになり、元禄の頃には、現在のような醤油ベースのつゆが誕生しました。七夕にそうめんを供え物とする習俗が広まり、これは、細く長いそうめんを糸に見立てて裁縫の上達を祈願したものです。

素麺作りが急激に発展したのには、飢饉の影響もあるといわれています。米は雨が降らないと作れませんが、小麦は多少の水不足でも育ちます。さらに、乾麵である素麺は数年日持ちがするため飢饉食として使えます。このため、幕府もその製造を推奨していました。

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先日のブログでも触れましたが、現在、「日本三大そうめん」といわれているのは、①三輪素麺(奈良県)、②播州素麺(兵庫県)、③小豆島(香川県)です。このうち、三輪素麺は、最も「素麺つくり」の歴史が長く、全国に分布する素麺産地の源流でもあり、全国的にも有名な、奈良の特産品です。

この地で、中国から入ってきた索餅が派生変化した、との説があり、奈良時代の遣唐使により、小麦栽培・製粉技術、製麺方法が伝えられたとされています。

ただ、上で述べたとおり、鎌倉時代以前では、まだ現在と同じような麺の形の完成形はなかったというのが通説です。この地方だけに、素麺の製法が中国から伝来した、という話には、何やらうさんくさい臭いがします。おそらくは、これを売らんがするために作られた創作話でしょう。

とはいえ、それだけ他に比べれば長い歴史を持っており、それなりのこだわりを持って長年の生産が続けられてきました。そのこだわりのひとつの表れが、三輪産のそうめん製品に取りつけられている「鳥居のマーク」です。

この鳥居のマークこそが、大和三輪においてそうめんが発祥したとされる、「大神神社(おおみわじんじゃ)」の鳥居です。大神神社は、奈良県桜井市三輪にある神社で、別称を「三輪明神」・「三輪神社」ともいい、祭神は大物主(おおものぬし)、または大物主大神(おおものぬしのおおかみ)です。

その拝殿は、国指定の重要文化財になっており、日本でも古い神社の一つです。皇室の尊厳も篤く、進んで外戚を結んだ、といわれていることから神聖な信仰の場であったと考えられます。

伝説によれば、紀元前91年(崇神天皇7年)、五代目の「大物主」の孫(または子)である、「大田子根子命(おおたたねこのみこと)」が大神神社の大神主に任ぜられたことに、その起源があるとされます。

さらに、奈良時代の宝亀年間(770~781年)のころ、その十二世の孫である「大神朝臣(おおみわのあそん)・狭井久佐(さいくさ)」の次男、穀主(たねぬし)なる人物が、本殿に飢饉と疫病に苦しむ民の救済を祈願しました。そうしたところ、三輪の地で小麦をつくるようにと神からの啓示を賜ったといいます。

穀主は常日頃から農事をもっぱらにして、穀物の栽培にこころをくだいていましたが、三輪の地に適した小麦の栽培を行い、小麦と三輪山の清流で素麺作りを始めたとされます。ちなみに、「朝臣」とは、皇族以外の臣下の中では事実上一番上の地位にあたるため、狭井穀主は、かなり位の高い人物であったと推定されます。

この縁で、大神神社の祭神、「大物主」は素麺作りの守護神とされ、毎年2月5日には、その年の三輪の生産者と卸業者の初取引の際、卸値の参考価格を神前で占う「卜定祭」が営まれるようになりました。また、大物主は、別名、三輪明神とも呼ばれるようになりました。

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この大物主は、蛇神であり水神または雷神としての性格を持ち、稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神として、現在でも篤い信仰を集めています。

また国の守護神である一方で、祟りをなす強力な神ともされます。ネズミを捕食する蛇は太古の昔より五穀豊穣の象徴とされてきており、このことから、最も古き神々の一柱とも考えられます。古事記によれば、日本の初代天皇とされる神武天皇の岳父(義親)、綏靖天皇(すいぜいてんのう)の外祖父にあたる、とされているようです。

国造りの神であり、神様の中の神様、大国主(おおくにぬし)の分霊でもあるといわれるため、大国主と同じく大黒様(大黒天)として祀られることも多いようです。

大物主にまつわる神話は数多くあります。

そのひとつ、古事記・神武紀に書かれているものによれば、古代の三島地方(現 大阪府茨木市 及び 高槻市) を統率していた豪族 の三島溝咋(ミシマノミゾクヒ)の娘の玉櫛媛(たまくしひめ)が美人であるという噂を耳にした大物主は、彼女に一目惚れしました。

大物主は玉櫛媛に何とか声をかけようと、赤い矢に姿を変え、勢夜陀多良比売が用を足しに来る頃を見計らって川の上流から流れて行き、その娘の富登(ほと)をつき刺しました。

ほと、とは「陰所」のことであり、姫は驚いて「イススキ」と叫びながら走り去ったといいます。イススキとは、「狼狽」の意味の古語ですから、ここでは「ぎゃあ゛~」といったかんじでしょうか。

彼女がその矢を自分の部屋に持ち帰ると、ポンッと大物主は元の姿に戻り、二人は結ばれました。こうして生れた子が富登多多良伊須須岐比売命(ホトタタライススキヒメ)であり、後に「ホト」を嫌い比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)と名を変え、神武天皇の后となったといいます。初代皇后ということになります。

大物主に関しては、またこんな神話もあります。

第7代孝霊天皇皇女、倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)= 百襲姫(もそひめのみこと)は、奈良県桜井市に今も残る、箸墓古墳((はしはかこふん)に葬られている実在したとされる人物です。

大物主神の妻となりましたが、大物主神は夜にしかやって来ず、昼に姿は見せなかったといいます。そこで、夜ごと訪ねてくるこの夫に、「ぜひ顔をみたい」と頼みますが、大物主神は、これを拒否しました。しかし、何度も頼まれるうちに断りきれず、「絶対に驚いてはいけない」という条件つきで、朝になってから小物入れをのぞくように、と妻に言いました。

朝になって百襲姫が小物入れをのぞくと、なんとそこには小さな黒蛇の姿がありました。驚いた百襲姫が、悲鳴を上げたため、大物主神はこれを恥じて御諸山(三輪山・後述)に登ってしまいました。

百襲姫がこれを後悔し、がっくりと腰を落とした瞬間、そこに立ててあった箸が陰部(ほと)を突いたため、百襲姫は死んでしまいました。こうして、大市(現在の奈良県桜井市箸中)に墓が創られ、葬られました。以後、人々はこの墓を「箸墓」と呼びました。

この墓の造営にあたっては、昼は人が墓を作り、夜は神が作ったと伝えられており、また墓には大坂山(現・奈良県香芝市西部の丘陵)の石が築造のため運ばれたといいます。

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さらに、大物主にはこんな伝説もあります。

海神である、綿津見大神(ワダツミノオオカミ)には、活玉依比売(イクタマヨリビメ)、通称、玉依姫(タマヨリビメ)という娘がいました。「タマヨリ」という神名は「神霊の依り代」を意味し、タマヨリビメは神霊の依り代となる女、すなわち巫女を指します。

ある日、玉依姫の前に突然立派な男が現われて、二人は結婚しました。しかも彼女はそれからすぐに身篭ってしまいます。不審に思った父母が問いつめたところ、姫は名前も知らない立派な男が夜毎にやって来ることを両親に告白しました。

父母はその男の正体を知りたいと思い、糸巻きに巻いた麻糸を針に通し、針をその男の衣の裾に通すように教えました。翌朝、針につけた糸は戸の鍵穴から抜け出ており、糸をたどると近くの山の社まで続いていました。糸巻きには糸が3回りだけ残っていたので、以後、その山を「三輪山」と呼ぶようになったといいます。

この山こそが、三輪山(みわやま)です。上述の、大神神社の東方にそびえる標高467.1m、周囲16kmの山で、位置的には、奈良県北部奈良盆地の南東部になります。三諸山(みもろやま)とも呼ばれ、なだらかな円錐形の山です。

「古事記」によれば、大国主神とともに国造りを行っていた少彦名神(スクナビコナ)が常世の国(死後の世界)へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光り輝く神様が現れて、大和国にある、この三輪山に自分を祭るよう進言しました。

この神様こそが大物主であり、「日本書紀」の一書では大国主神の別名としています。大神神社の由緒では、大国主神が自らの和魂を大物主として祀った、とあります。

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古墳時代に入ると、山麓地帯には次々と大きな古墳が築造されました。この一帯を中心にして強力な政治的勢力が発展したと考えられており、これこそがヤマト政権の初期政権(王朝)である、という説が有力です。

200~300mの大きな古墳が並び、そのうちには第10代の崇神天皇(行灯山古墳)、第12代の景行天皇(渋谷向山古墳)の陵があるとされます。また、上で述べた、百襲姫の陵墓、箸墓古墳(はしはかこふん)は、この山の西に位置する大神神社から北北西へ約1.5kmの位置にあり、実は、近年の調査から、「魏志」倭人伝に現れる邪馬台国の女王、かの有名な「卑弥呼」の墓ではないかと取り沙汰されています。

つまり、上の百襲姫こそが卑弥呼、ということになります。この三輪山を中心とした一帯は大物主に関わりのあるこうした神様の「居住団地」といってもよく、三輪山は古くから「神宿る山」とされ、山そのものが御神体であると考えられてきました。

このことから、神官や僧侶以外は足を踏み入れることのできない、禁足の山とされていますが、飛鳥時代には山内に大三輪寺が建てられ、平安時代には空海によって遍照院が建てられました。

鎌倉時代に入ってからは神仏両部思想(日本土着の神道と仏教信仰をひとつ信仰体系として再構成(習合)する思想)を確立したことで知られる僧侶、慶円(けいえん)が三輪氏の氏神であった三輪神社を拡大し、本地垂迹説によって三輪明神と改め、別当寺三輪山「平等寺」を建立しました。

本地垂迹(ほんじすいじゃく)とは、仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つで、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れたもの、とする考えです。

中世以降は長らく神仏習合の影響が色濃く、神宮寺も数多く建立され、徳川将軍家などに「三輪明神」として篤く信仰されました。

三輪山そのものが、大神神社の御神体として正式に記録されたのは、1871年(明治4年)に神社が奈良県にあてた口上書に、神山とは「三輪山を指す」と使ったのが初めてです

江戸時代には徳川幕府より厳しい政令が設けられ、平等寺の許可がないと入山できませんでしたが、明治以降はこの伝統に基づき、「入山者の心得」なるものが定められ、現在においてはこの規則を遵守すれば誰でも入山できるようになりました。

三輪山の祭祀遺跡としては、下方から辺津磐座(へついわくら)、半ほどの中津磐座(なかついわくら)、頂上付近の奥津磐座(おきついわくら)、山ノ神(やまのかみ)岩陰祭祀遺跡、大神神社・拝殿裏の禁足地遺跡、狭井神社西方の新境内地遺跡などがあります。

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これらは、いわゆる「巨石群」であり、「磐座(いわくら)」とは、天然現象である岩石・巨石、またはその集群を神座と考え、神を招き奉ってはじめて祭祀を行ない、崇拝をしたものです。

けっして驚くほど大きいものばかりではなく、中には一個のみで威厳を備えているもの、巨石群、重なり合っているものなど、いろいろです。そしてこれらの磐座も自然のものと、人工的な仕組みのものとがあり、人間の生活が山麓から低地へ移っていく過程で、平野部で造られるものほど、人為が入っているものが多くなるといいます。

頂上には高宮神社が祀られていますが、この神社は、古代には、太陽祭祀に深く関わっていた神坐日向神社(みわにますひむかいじんじゃ)であったと推測されています。同名の神社が、麓の大神神社の南にあり、古い時代に山頂からここに移されたものと考えられます。

頂上付近はかなり広い平地です。この神社の東方に東西約30m、南北10mの広場に高さ約2mの岩がたくさんあります。これが奥津磐座です。

現在、この山中で見学できるのはこの磐座だけです。奥津磐座や、中津磐座には巨石群の周囲を広く環状に石を据えた形跡があり、「日本書紀」巻二の天孫降臨に際しての高皇産霊尊の勅に「天津神籬および天津磐境を起こしたて」とある磐境にあてる、といった考証もあるようです。

山ノ神遺跡に関しては大正7年に偶然発見されたものです。古墳時代中期以降の岩陰祭祀遺跡で、発見当初は古墳と思われました。磐座とされる石と5個の石がこれを取り囲むような状態で見つかり、さらにその下には割石を敷きつめて地固めがされていました。

調査に入るまでの3ヶ月の間に盗掘を受けてしまったとされますが、残った遺物には、おびただしい数の宝物が残されていました。

小形の素文鏡3、碧玉製勾玉5、水晶製勾玉1、滑石製模造品の子持勾玉1、勾玉約100、管玉約100、数百個の有孔円板と剣形製品、無数の臼玉、高坏、盤、坏、臼、杵、杓、匙、箕、案、鏡の形を模した土製模造品、それに剣形鉄製品と考えられる鉄片などなどであり、本来はさらにおびただしい量の遺物が埋納されていたことが知られています。

その遺物を見ると、鏡・玉・剣のセット、いわゆる三種の神器の形式をとっているものが多いほか、三輪山の神が農耕神としての一面を持つ宝物が多いようです。臼、杵、杓、匙、箕といったものがそれらです。

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入山する際は、後述の規則(掟)を遵守する必要があります。入山せずに参拝する際には、大神神社の拝殿から直接、神体である三輪山を仰ぎ拝むといった手法を採ります。したがって、大神神社には本殿がなく、そこには自然そのものを崇拝する古神道が息づいています。

さらに登山を希望する場合は、大神神社から北北東250m辺りに位置する境内の摂社・狭井神社の社務所で許可を得なければいけません。そこで氏名・住所・電話番号を記入し300円を納めます。そして参拝証の白いたすきを受け取り御祓いを済ませます。道中このたすきを外すことは禁止されています。

行程は上り下り約4kmで、通例2時間ほどで登下山できますが、3時間以内に登下山しなければならないという規則が定められています。また山中では、飲食、喫煙、写真撮影の一切が禁止され(水分補給のためのミネラルウォーターやスポーツドリンクの飲用は可能)、下山以降も山中での情報を他人に話すことを慎むのがマナーでもあります。

午後4時までに下山しないといけないため、午後2時以降は入山が許可されない場合があります。雷雨などの荒天の際は入山禁止となることもありますが、禁止とならない場合であっても万一の事故に備えて電話番号の記入が求められます。また、大神神社で祭祀が行われる日は入山ができません。

原則として、数多く散在する巨石遺構や祭祀遺跡に対しても許可なく撮影はできません。さらに、山内の一木一葉に至るまで神宿るものとし、それに斧を入れることは許されておらず、山は松、檜などのほか、杉の大樹に覆われています。

日本酒の造り酒屋ではこの杉を使い、風習として「杉玉」を軒先に吊るすことがあります。これは一つには、酒造りの神でもある大物主の神力が古来スギに宿るとされていたためといわれます。

スギの葉(穂先)を集めてボール状にした造形物。酒林(さかばやし)とも呼ばれます。日本酒の造り酒屋などの軒先に緑の杉玉を吊すことで、新酒が出来たことを知らせる役割を果たします。「搾りを始めました」という意味です。

吊るされたばかりの杉玉はまだ蒼々としていますが、やがて枯れて茶色がかってきます。この色の変化がまた人々に、新酒の熟成の具合を物語っています。今日では、酒屋の看板のように受け取られがちですが、元々は酒の神様に感謝を捧げるものであったわけです。

俗に一休の作とされる句、「極楽は何処の里と思ひしに杉葉立てたる又六が門」は、杉玉をうたったものです。

又六は一休和尚のいた大徳寺の門前の酒屋の名です。

極楽は遠くにあるのではなく、案外近くにあるものですよ。例えばほら、そこの杉玉を吊るした酒屋さんとかね、といった意味かと思われます。

さて、人生初の入院も終わりました。まだまだ極楽に行くわけにはいきません。

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妖しい光の候

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7月になり、伊豆では、あちこちに出ていたホタルもほとんど見られなくなりました。

しかし、東北地方などではまだまだこれからが見ごろ、というところも多いようで、7月下旬までは楽しめるようです。長野県では、志賀高原など高地では10月から11月になっても見られるといいます。

この本州以南の各地でみられるホタルですが、一般には「ゲンジボタル」を指すことが多いようです。

オスは川の上空を飛び回りながら、メスは川辺の草の上などに止まって発光します。発光のパターンは西日本と東日本で違い、西日本のほうが発光のテンポが速いそうです。西日本の蛍は「2秒に1回」、 東日本の蛍は「4秒に1回」発光します。

このテンポの違いは、本州中央部、中部地方から関東地方にかけての地域を縦断するフォッサマグナが境となっているそうです。が、現段階では、このような発光周期の差がなぜ生じたかはっきりしていないといいます。東と西を分けるこの大地溝帯が、生物の生育にどんな影響を与えているというのでしょうか。

「ゲンジ」は言うまでもなく「源氏」から来ています。とくに、平家打倒の夢破れ、無念の最期を遂げた「源頼政」の思いが夜空に高く飛び舞う蛍にたとえられたといいます。

頼政は、平清盛から信頼され、晩年には武士としては破格の従三位に昇り、公卿に列しました。しかし、平家の専横に不満が高まる中で、後白河天皇の皇子である以仁王と結んで挙兵を計画し、諸国の源氏に平家打倒を呼びかけました。。

ところが、その計画が露見し、準備不足のまま挙兵を余儀なくされます。そして、そのまま平家の追討を受け、宇治平等院の戦いに敗れ自害しました。

以後、敗れた源頼政が亡霊になり蛍となって平家と戦うという話が広まり、「源氏蛍」として生まれ変わったとして全国に喧伝され、全てのホタルの代表であるかのように言われるようになりました。

が、実際にはホタルには遥かに多様な種があります。国内では約40種が知られており、熱帯に区分される南西諸島により多くの種がありますが、本土が主な分布域です。

この中に、ヘイケボタルというのもいます。こちらはとくに由来となった武将などがいるわけではありません。その命名は、ゲンジボタルより小型であるため弱い印象があるためでしょうか。源氏に駆逐され、滅亡した平家になぞらえたものと思われます。

とはいえ、生物的には、かなり逞しい存在です。環境の悪化に弱いゲンジボタルに比べ、汚れた水域にも生息することができます。時には干上がる水田のような環境でも生息できるのは、鰓呼吸だけではなく空気呼吸を併用しているからです。成虫の出現期間は長く、5月から6月には終わってしまうゲンジボタルに比べて9月頃まで発光が見られます。生存期間が長いということは、それだけ強い生物だということです。

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ゲンジボタルにせよ、ヘイケボタルにせよ、これら発光するホタルの成虫は、ほぼ全種が腹部の後方の一定の体節に発光器を持ちます。ホタルの発光物質はルシフェリンと呼ばれ、ルシフェラーゼという酵素とアデノシン三リン酸(ATP)がはたらくことで発光します。

ルシフェラーゼとはホタルなどの生物発光において、発光物質が光を放つ化学反応を触媒する作用を持つ酵素です。発光酵素 とも呼ばれます。一方、ATPは、生物の体の中でエネルギーの放出・貯蔵などの重要な役目を果たしている物質です。

ホタルの発光はこの二つの物質の化学反応によるもので、ルシフェリン – ルシフェラーゼ反応と呼ばれます。化学的エネルギーを光エネルギーに変換する化学反応の過程で、光が発生するもので、生物発光は英語ではバイオルミネセンス(Bioluminescence)と言います。

ホタルに限らず、こうした生物の発光は電気などによる光源と比較すると効率が非常に高く、熱をほとんど出しません。このため「冷光」、“冷たい発光”とも言われます。

省エネで知られる、LED 照明は消費電力効率が飛躍的に向上し、70% 以上もあり、このため省エネルギーのみならず、発熱も抑えられています。明るくても比較的熱くない、熱効率の良い照明器具としてもてはやされていますが、それでも生物発光より多くの熱を出します。

これに対してホタルの光は、放射する光の20%以下しか熱放射を起こしません。エネルギー変換効率が非常に高いため、発する熱は極めて小さく、それでいて光への変換も可能としていることは注目に値します。どんなに光っても、ホタルが熱くならないのは、この高効率な生体機能のためです。

明るさの点では、電気を利用するLEDランプなどに比べれば遥かに劣りますが、暗黒条件下でのこうした発光は、微弱な光であっても、生きるための手段としては必要十分な明るさをもたらします。

ホタルが発光する能力を獲得したのは「敵をおどかすため」という説や「食べるとまずいことを警告する警戒色である」という説があります。幼虫は、親以上に捕食者に食べられやすいため、卵の段階からもう既に発光が始まります。

一方、成虫の発光は、おもに交尾の相手を探すための交信に発光を用いられており、明らかに種族保存のための行為です。光を放つリズムやその際の飛び方などに種ごとの特徴があるのは、雌に気に入られるために、発光方法そのものに工夫が凝らされてきた結果といわれています。

ホタルだけでなく、こうした生物発光を行う生物が光るのは、夜に限られることが多く、このことから、こうした生物は「概日リズム(circadian rhythm)」を持っている、とされます。約24時間周期で変動する生理現象で、動物、植物、菌類、藻類などほとんどの生物に存在しており、一般的に体内時計とも言います。

もっとも体内時計といっても、メカニカルな時計とは異なり、生物の体内で形成されるものですから、正確とはいえず、光や温度、食事など外界からの刺激によって微妙に修正されるのが常です。光や温度は天候に左右され、かなり誤差が出ますから、このあたり、人間の「腹時計」のほうがむしろ正確かもしれません。

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このように自らの体を光らせる能力を持っているのは、無論、ホタルだけではありません。ホタルはその成虫が交尾のために光るのに対し、ホタル以外の生物の発光は、餌を呼び寄せるために使われることが多いようです。チョウチンアンコウなどの深海魚は、獲物を誘うルアーとしてこれを使います。魚の頭部に背鰭から変形し、釣竿よろしく伸びた突起の先が発光し、これを揺らすことで、小魚や甲殻類を攻撃範囲内に引きつけます。

また、水深1,000mより深い海に生息する深海魚、ダルマザメは、体全体が発光しますが、下腹部の一部のみを暗いままに残してあり、大型の捕食魚に対し、小さな魚の影に見せかけているといいます。それらが「小さな魚」を捕食しようと近寄ってきたとき、ダルマザメに体の一部分を食べられるといいます。

自身の影で大型の獲物をおびき寄せる、珍しいタイプの海洋生物で、自分の体長に匹敵する15~30cmのイカを丸ごと食べることもあり、さらに自分よりはるかに大きなイルカやイルカの一種であるゴンドウなどすら襲うといいます。

プランクトンのなかには、鞭毛を光らせるものもあります。鞭毛とは、毛状の細胞小器官で、本来は、遊泳に必要な推進力を生み出す事が主な役目です。「渦鞭毛藻類」という単細胞藻類は、2本あるこの鞭毛を発光させます。水流により捕食者(多くは自分より大きなプランクトン)を感知したとき発光します。

これにより、自分より数十倍も大きい捕食者を引きつけ、天敵である捕食者どうしが共食いするように仕向け、その間に自分は逃げおおせる、というわけです。

同様にある種のイカでは、発光する化学物質や、発光バクテリアを含む液を、普通のイカの墨のように吐き出すことで、敵を撃退します。発光する煙幕によって、捕食者を混乱させ。その混乱に乗じて安全に逃げおおせます。

このほか海中では、ミジンコによく似た「貝虫」などが発光生物として知られています。長距離の伝達にはフェロモンを使用しますが、短距離においては発光によってお相手を惹きつけているといわれています。

生物発光を、人間と同じように照明に使うものもいます。海棲生物のほとんどの発光色は青か緑ですが、深海魚の「ワニトカゲギス」などは、赤い光を放ちます。赤色光は海水中で速やかに吸収され深海にはまったく届かないため、ほとんどの深海生物の眼は赤色を認識する能力をもちません。

これに対してワニトカゲギスは赤色光を放出するとともに、自身で赤い光を認識することもできます。このため、獲物や他の捕食者に気づかれることなく周囲を探索することが可能になります。

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このように生物発光はそれを用いる生物それぞれの事情で用いられ、その多くは科学的にメカニズムが証明されています。

同様に、その昔は妖怪や物の怪の仕業ではないか、といわれていたものが、近年になって、ほぼ原因が特定され、科学的にほぼ証明された自然現象である、といわれるようになったものもあります。

そのひとつに、「不知火」があります。

九州に伝わる「怪火」の一種で、夏の日の風の弱い新月の夜などに見られると言い、代表的な発生場所は八代海や有明海などの九州沿岸です。海岸から数キロメートルの沖に、始めは一つか二つ、「親火(おやび)」と呼ばれる火が出現し、それが左右に分かれて数が増えていき、最終的には数百から数千もの火が横並びに並ぶといいます。

その距離は4〜8キロメートルにも及ぶこともあり、また引潮が最大となる午前3時から前後2時間ほどが最も不知火の見える時間帯とされます。

水面近くからは見えず、海面から10メートルほどの高さの場所から確認しやすいといい、また不知火に決して近づくことはできず、近づくと火が遠ざかって行くとされます。こうしたことから、かつては龍神の灯火といわれ、付近の漁村では不知火の見える日に漁に出ることを禁じていました。

古くは、「日本書紀」「肥前国風土記」「肥後国風土記」などに、景行天皇が九州南部の先住民を征伐するために熊本を訪れた際、不知火を目印にして船を進めたという記述があります。

江戸時代までは妖怪の仕業ではないかと言われていましたが、大正時代に入ると、不知火を科学的に解明しようという動きが始まり、その結果、蜃気楼の一種でないか、といわれるようになりました。

昭和時代に入ってからの研究では、不知火の時期には一年の内で海水の温度が最も上昇すること、干潮で水位が6メートルも下降して干潟が出来ることや急激な放射冷却、といった条件が重なり、これに干潟の魚を獲りに出港した船の灯りが屈折して生じる、と詳しく解説されました。こうした現象はとくに八代海のような遠浅の地形でしか起こらないことなども確認されました。

戦争中の1943年、広島高等工業学校、通称「広島高工」の教授、宮西道可は、「不知火の研究」という論文を発表しています。

これによれば、不知火の光源は漁火であり、旧暦八朔(旧暦の8月1日、 新暦では8月25~9月23頃)の未明に広大なる干潟が現れ、冷風と干潟の温風が渦巻きを作り、異常屈折現象を起こし、そのため漁火は燃える火のようになり、それが明滅離合して漁火が目の錯覚も手伝い、怪火に見える、としました。

また、戦後になって熊本大学教育学部の山下太利は、「不知火は気温の異なる大小の空気塊の複雑な分布の中を通り抜けてくる光が、屈折を繰り返し生ずる光学的現象である、と発表しました。そして、「その光源は民家等の灯りや漁火などであり、条件が揃えば、他の場所・他の日でも同様な現象が起こりうる。逃げ水、蜃気楼、かげろうも同種の現象である。」と論じました。

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このように近代になって蜃気楼の一種と認識されるようになった不知火ですが、無論、幻ではなく、現在でも見ることができるようです。干満の差がある海岸で起こる現象とされ、これまで目撃情報の多かった八代海やこれよりも北にある有明海以外でも類似の現象を見ることができるといいます。

旧暦8月1日前後(新暦では8月下旬)の風の弱い新月の夜に発生しやすいとされます。とはいえ必ず見ることができる現象ではなく、見ることができたら運が良い、といった頻度のようです。現在では干潟が埋め立てられたうえ、電灯の灯りで夜の闇が照らされるようになり、さらに海水が汚染されたことなどで、見ることが難しくなったようです。

熊本県宇城の不知火町では、旧暦の8月1日(昨年は9月12日)に「海の火まつり」毎年のように開催されています。地元・竜燈太鼓の演奏、松明行列、総おどり、海上花火大会とともに「不知火」観望会なども開催されますから、運がよければ花火と不知火の両方を楽しむことができるかもしれません。

一方、日本ではこの不知火以外に、やはり何等かの物理化学現象ではないか、といわれているものの、いまだに原因が特定されていないものもあります、

そのひとつが狐火(きつねび)です。

沖縄県以外の日本全域に伝わる怪火で、ヒトボス、火点し(ひともし)、燐火(りんか)とも呼ばれます。

火の気のないところに、提灯または松明のような怪火が一列になって現れ、ついたり消えたり、一度消えた火が別の場所に現れたりするもので、正体を突き止めに行っても必ず途中で消えてしまうといいます。現れる時期は春から秋にかけてで、特に蒸し暑い夏、どんよりとして天気の変わり目に現れやすいようです。

十個から数百個も行列をなして現れ、その数も次第に増えたかと思えば突然消え、また数が増えたりもするともいい、長野県では提灯のような火が一度にたくさん並んで点滅するのが目撃されたこともあるそうです。

火のなす行列の長さは一里(約4キロメートル)あるいは約500~600メートル)にもわたるといい、火の色は赤またはオレンジ色が多いとも、青みを帯びた火だともいいます。

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東京北区 王子の王子稲荷は、稲荷神の頭領として知られると同時に狐火の名所とされます。かつて王子周辺が一面の田園地帯であった頃、路傍に一本の大きなエノキの木がありました。毎年大晦日の夜になると関八州(関東全域)のキツネたちがこの木の下に集まり、正装を整えると、官位を求めて王子稲荷へ参殿したといいます。

その際に見られる狐火の行列は壮観で、近在の農民はその数を数えて翌年の豊凶を占ったと伝えられています。このことから榎の木は「装束榎」(しょうぞくえのき)と呼ばれ、よく知られるところとなり、歌川広重の「名所江戸百景」の題材にもなりました。

この木は明治時代に枯死しましたが、「装束稲荷神社」と呼ばれる小さな社が、旧王子二丁目電停(現在の「ほりぶん」前の交差点)の近傍に残っており、一帯は以前には榎町と呼ばれてもいました。地元では地域おこしの一環として、1993年より毎年大晦日の晩に、「王子狐の行列」と呼ばれるイベントを催しています

正岡子規は「狐火のちろつく晩や野辺送(のべおくり)」とうたっており、野辺送りは野焼きのことで、冬の季語です。これにより、この王子狐の行列の時期は冬とされることが推定されるわけですが、他の狐火は一般的には夏の暑い時期や秋に出没する例が多いようです。

その原因ですが、古くは元禄時代の本草書「本朝食鑑」に、キツネが地中の朽ちた木を取って火を作るという記述があります。また同書には、キツネが人間の頭蓋骨やウマの骨で光を作るという記述もあり、読本作者・高井蘭山による明和時代の「訓蒙天地弁」、江戸後期の随筆家・三好想山による「想山著聞奇集」にも同じく、キツネがウマの骨を咥えて火を灯すとの記述があります。

さらに長野県の奇談集「信州百物語」によれば、ある者が狐火に近づくと、人骨を咥えているキツネがおり、キツネが去った後には人骨が青く光っていたとあります。

これらの歴史的記述をもととに、哲学館(現:東洋大学)を設立した井上円了は、1916年(大正5年)、骨の中に含まれるリンの発光を狐火と結び付ける説を提唱しました。

土中に埋まった動物の骨や死骸は、バクテリアによって分解され、土壌の有機成分となる際にリン化合物を発生させることが知られています。リンは発火点が60度とかなり低温であり、空気中で室温でも徐々に酸化されて自然発火し、熱および青白い光を発します。

このため、土の中に大量の骨があれば、確かに狐火に見えるかもしれません。しかし伝承上の狐火はキロメートル単位の距離を経ても見えるといわれており、それほど多くの骨が広範囲に散らばっているとは考えにくく、またリンの弱々しい光が、はたして「火」のように見えるかはなはだ疑問です。

井上円了は、哲学者として著名な人物でしたが、迷信を打破する立場から妖怪を研究し、近代的な妖怪研究の創始者としても知られています。当時の科学では解明できない妖怪を「真怪」、自然現象によって実際に発生する妖怪を「仮怪」、誤認や恐怖感など心理的要因によって生まれてくる妖怪を「誤怪」、人が人為的に引き起こした妖怪を「偽怪」と分類しました。

晩年には、妖怪研究は人類の科学の発展に寄与するものという考えを持つに至り、数々の研究成果から、「お化け博士」「妖怪博士」などと呼ばれました。しかし、上のとおり、リンの光を狐火の原因とするなど少々こじつけがましい研究成果も多かったようで、発表した研究の中には科学的な根拠に乏しいものもあったようです。

このほか、1931年(昭和6年)には、生物学者の神田左京が、狐火の正体は、朽木に付着している菌糸、キノコの根が光を発しているのではないか、という内容の論文を発表しています。たしかに、日本には、関東以西の太平洋側地域に「ヤコウタケ」という光るキノコがあり、ほかにも「ツキヨタケ」といった発光キノコがあります。

しかし、こちらもかなり大量になければ狐火には見えないはずであり、また、林間にうっそうとした繁みの中で発光したものが、遠くから見えるはずはなく、こちらも説としてはかなり厳しいものがあります。

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ちなみに、この神田左京という人は、1874年(明治7年)に長崎県で生まれています。東京で英語教師をしていましたが33歳で渡米、生物学を勉強し博士号を取得して41歳で帰国。ここまで輝かしい経歴ですが、以後は「権威が嫌い」という理由で定職にも就かずホタルの研究に没頭したことで知られています。「わたしはホタルと心中する」と妻帯もしませんでしたが、業績は海外にまでとどろき、英国学会からは「ぜひ会員に」、皇室からさえ「進講を」と誘われるほどでした。

彼を理解する少数の篤志家による援助のみで暮らしを立て、赤貧洗うがごとき生活でしたが、ホタル研究に邁進した結果、「源氏ボタルの発光間隔は日本の東と西では違っている」ことを発見する、という業績をあげました。1935年(昭和10年)に自費出版した「ホタル」を出しますが、その後まもなくの1939年、65歳で没しています。

まさに「ホタルと心中」したかのような人生ですが、あちらの世では光輝いているでしょうか。

人間がともした火を狐火と見間違ったとする説もあります。先日、このブログでも紹介した「虫送り」という行事は、戦前まではさかんに行われており、これは、稲を病虫害から守るために、田植えが終わった季節に松明をともして田んぼの畦道を歩きまわる というものでした。

稲作地方の風物詩であり、遠くの町から見れば狐の嫁入りそっくりに映ったはずであり、こうしたことから、1977年には、日本民俗学会会員で「怪火研究家」の角田義氏が、狐火の正体は虫送りなど人の手による灯火の行列が、光の異常屈折によって現れる現象だと説明しました。山間部から平野部にかけての扇状地などでは、光の異常屈折が起こりやすく、虫送りの松明の火が狐火に見えたのだ、という説はなるほど納得がいくものではあります。

戦後の近年では虫送りの行事はかなり減っており、と同時に狐火もあまり見られなくなっているようなので、時期的にもあっているような気がします。

しかし、ほかにも天然の石油の発火ではないか、とする説もあり、結論が出たわけではあありません。球電現象などをその正体とする説もあって、現在なお正体不明の部分が多いようです。

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この球電(ball lightning)現象ですが、空中を発光体が浮遊する自然現象、あるいはその発光体とされるものです。目撃例の多くは、赤から黄色の暖色系の光を放つものが多いとされていますが、白色や青色、色の変化するものなどもあるとのことです。また、中には灰色や黒色の光が吸収されていると思われ、金属光沢のような色や、黒色のものもあります。

2014年の7月30日、中国南部の湖南省の養豚場で「球電」の爆発が発生、女性が負傷し170匹以上の豚が死ぬという事故がおこりました。怪我をした農夫の妻は、「それは大きな火の玉のように見え、突然爆発し、二股に分かれていった」と証言しています。10分ほど目が眩んで何も見えなくなったといい、彼女の左目は黒くなり足は出血していたそうです。

この養豚場の事件に先立つ2年前の2012年7月にも、中国中北部、海抜 1,600mにある蘭州で球電現象が目撃されています。西北師範大学の研究者は、この青海高原という場所で、分光器を設置して雷を観測していたところ、偶然にもカメラで球電現象を撮影することに成功しています。

一般的には、雷放電が激しく起きているとき発生することが多いといわれ、多くの場合には豪雨の際に現れます。大きさは10~30cmくらいのものが多く、中には1mを超えるものも存在します。数秒から数分間地表付近を動きまわって消失するといいますが、移動中の金属体を追いかける、送電線などの細い金属を蒸発させる、などの現象も確認されているといいます。

一説によれば、一つの球電が爆発した際に放出されるエネルギーは10キロ分のダイナマイトに相当し、焦げ跡や硫黄臭・オゾン臭を残すことが多いといいます。

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すさまじいエネルギーであり、この球電によって、死亡事故も起きています。

1753年7月、ロシアに在住していたドイツ人物理学者のゲオルグ・ウィルヘルム・リッヒマンはサンクトペテルブルグで針がねを用いた電気の誘導実験を行っている最中、突如発生した球電と接触し、感電死したと言われています。

彼は、自分の業績を後世に伝えるため銅像を作ろうと、たまたま彫刻師を自宅に招いていました。その直前に、あるシンポジウムに参加していた折には、外で雷鳴が轟いていたといいますが、それを退出して、自宅に彫刻家を招き、実験を行っていたようです。そのとき、突然球電が現れ、彼の額を貫きました。靴はズタズタとなり、服の部分は焦げていたといい、球電が貫通した彼の額には赤い点が残っていたといいます。

同席した彫刻家によれば、「小さな砲弾が炸裂したようだった」といい、入ってきた球電の威力は部屋のドア・フレームを叩き破り、ヒンジごと吹き飛ばすほどだったといいます。

リッヒマンはは、ロシア帝国サンクトペテルブルク科学アカデミーの会員であり、電気学、大気電気学、熱量測定などの先駆的な研究に取り組んだことで知られています。電気の専門家であった彼が、よりによって電気実験の最中に球電現象で死ぬことになるとは皮肉なことです。

1987年には、日本でも目撃されており、しかも撮影された写真が残っています。長野県黒姫で日本の学生が偶然屋外で撮影したとされる写真で、球電を収めた数少ない貴重な写真として世界的に知られています。

このほか、2004年の夏頃、福岡県久留米市上空で青系列の球電が目撃されており、当時同地で雷雨による大規模停電が発生していたといいます。

球電は非常にまれな現象で、正体については諸説ありますが、どうやら雷に伴うことが多いらしいとうこと以外発生条件がつかめていません。

自然発生したプラズマのかたまりという説が有力ですが、科学者たちの多くは、「球電」と呼ばれている目撃例のすべてが同じ原理で説明できる現象ではなく、同じような見え方をするさまざまな現象が「球電」という言葉でひとくくりにされている、と考えているようです。従って、前述の狐火もまた、球電現象のひとつなのかもしれません。

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さて、長くなってきたのでそろそろやめようと思いますが、最後に、科学的にはまったく証明されていないものの、実際に起こったとされる不思議な現象をひとつだけ。

青森県の下北半島の突端に、尻屋埼灯台という灯台があります。「日本の灯台の父」と称されるイギリスの土木技師、リチャード・ヘンリー・ブラントンによって設計され、1876年(明治9年)に完成した白亜の灯台で、二重のレンガ壁による複層構造の美しい灯台です。

現在も運用されており、日本の灯台50選に選ばれています。周辺には寒立馬(かんだちめ)と呼ばれる馬が放牧されており、一帯は美しい景勝地となっています。

この灯台、第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)に米軍からの射撃を受け、このとき、村尾常人という標識技手が殉職しました(享年42歳)。灯台は8月10日までの間に計14回も襲撃されましたが、ブラントンによって設計された堅牢な躯体は残りました。しかし、運用不能になり、この日から灯台の灯りは消えました。

ところが、翌1946年(昭和21年)、攻撃を受け破壊しつくされたはずの灯台が突如として光を放つようになり、その目撃が相次ぎました。

5月に灯台職員らが目撃したのが最初で、航行する漁船からも幾度か目撃情報が寄せられたため、当時の台長代理がこれを「灯台の怪火について」という異例の公文書にして横浜の灯台局に報告する騒ぎになりました。

同年8月に霧信号舎(霧や吹雪などで視界が悪いときに船舶に対し音で信号所の概位・方向を知らせる)の屋上に仮の灯りを点灯すると同時にこの現象は消えたといい、以来、人々は米軍の攻撃時に殉職した村尾標識技手の霊がおこした仕業なのではないかと噂しました。

その後修復され、銃撃の跡が今でも残る33メートルの塔は、いまも完成当時の優美な姿を保っていますが、今はもう、ここに村尾標識技手の幽霊が出る、という噂はないようです。

比叡山、高野山と並ぶ日本3大霊場のひとつ、イタコの口寄せで知られる恐山(おそれざん)はここからすぐのところにあります。死者あるいは祖霊と生きている者との交感の際の仲介者として良く知られるイタコですが、ここで呼び寄せをしたら、あるいは村尾技師に会えるかもしれません。

自分が勤務した灯台において、死後も、何故あかりを灯し続けたかったのか、その気持ちをぜひとも聞いてみたいものです。

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