すべてはことのままに

あけましておめでとうございます。

皆様方におかれましては、今年もお健やかにお過ごしになられますよう、祈っております。年明け早々、流行り病が猛威を振るっていますが、いつかは春がやってきます。頑張りましょう。

さて、我が家のお正月は例年通り穏やかでした。お雑煮を食べ、質素ながらも正月料理を用意してお屠蘇を少し飲んで新年が始まりました。しかし、いつもと少し違ったのはそのあとの初詣。

本来は少し遠出をして、普段あまり行かない遠くの神社に詣でる、というのが我が家の風習です。例年だと下田の白浜神社や芦ノ湖畔の箱根神社といったところまで足を延ばすのですが、今年はさすがに近くの神社で初詣を済ませました。

正月に遠出をしたくなるのは、いつもは味わえない雰囲気を味わってみたいと思うからです。家と会社との間の往復で終始している生活から脱却し、非日常を味わいたいという気持ちは、まとまった休みのとれる年末年始にはとくに高まります。

昨年は掛川まで足を延ばし、事任八幡宮というところで初詣をしました。本当は隣の森町にあり、遠州一の宮とされる小國神社というところに行きたかったのですが、ひどい渋滞に巻き込まれたため参拝をあきらめ、別の神社を探してたどり着いたのがこの神社でした。

平安時代には清少納言の「枕草子」や多くの和歌、鎌倉時代には「吾妻鏡」、江戸時代には十返舎一九の「東海道中膝栗毛」などに登場するなど、由緒正しい古社です。

「事任」は「ことのまま」と読みます。「こと」は「言」であって、言い換えると「言葉のままに」となり、「願い事が意のままに叶う」という意味になります。言葉を司る神様であって、物書きや役者など文言を生業とする人にとっては大きなご利益があるとされます。

私も文章で飯を食っているようなところがあり、家内もかつてはコピーライターをやっていました。日ごろから読み書きには何かと気を使ってきた二人だからこそ、思いもかけずこの神社を見つけたのはきっとここの神様のお導きであったに違いありません。




その境内ですが、独特の空気感があり、いわゆる「良い気」に満ち満ちている感があります。多くの人が同じような感覚を持つようで、事任八幡宮への参拝についての書き込みを読むと、参拝するだけで気持ちが洗われるようだ、といった表現がよくみられます。

これだけ気持ちの良い気分にさせてくれる神社というのはそうそうあるものではありません。何か凛とした空気が漂い、神域一帯が何かふんわりとした霊気に包まれているように感じます。気のせいかどこからか笛の音色や鈴の音が聞こえてくるような気さえします。

一般に、「音」は、禍々しき魂や霊を追い払い、場を清める働きがあるとされます。その昔、日本においては鉦や太鼓などの楽器の音は異界にも届くものと考えられていました。

神隠しにあった子供を探す時などにも、大きな音をさせて異界へ音を届けると良いとされ、鉦や太鼓をにぎやかに叩いて捜索を行っていたといいます。異界とはこれすなわち神様が住まう世界であり、現在でも神前で行う祭囃子や能では太鼓や笛が使われます。

神社に参拝する時打つ、拍手(かしわで)もまた音による浄化の儀式です。両手を合わせ、左右に開いた後に再び合わせることで音を出します。音を出す理由は、神への感謝や喜びを表すため、願いをかなえるために神を呼び出すため、邪気を祓うためなど諸説あります。

魏志倭人伝には、邪馬台国などの倭人の風習について「見大人所敬 但搏手以當脆拝」と記されています。「貴人に対し、跪いての拝礼に代えて手を打つ」という意味で、この当時は神様だけでなく、高貴な人にも拍手を打っていました。また、人以外の貴いものに対しても拍手をしていたようですが、長い年月の間に主として神様に対してだけになりました。

一方、柏手だけでなく、神様に対して唱える祈りや呪文もまた長い年月の間に形を変え、現在までには祝詞(のりと)の形になりました。

祝詞は神道の祭祀において神に対して唱える言葉で、万の神々を称え奏上するものです。ノリトのノリは「宣る」の名詞形で、呪的に重大な発言をすることであって、その内容は様々です。一般的にはまず祭神の御名や当該祭祀の由来が述べられ、続いて神徳を称え、供物や神酒を奉り、そして祈願の趣旨が述べられます。

なお、詔(みことのり)も、祝詞の一種かと考えられます。天子(皇帝・天皇)の命令、またはその命令を伝える国家の公文書(詔書)ですが、その内容は「宣命」として口頭で下位の人々に伝達されていました。この当時、天子は神様でしたから、祝詞のように人から上へ上奏するものではなく、逆に神から人へ下達する言葉ということになります。




祝詞にせよ、詔にせよ、声に出した言葉には「言霊」が宿るといわれています。「言魂」とも書き、言葉には霊的な力があるとされ、古来、日本は言魂の力によって幸せがもたらされる国「言霊の幸ふ国」とされてきました。

神前に限らず、声に出した言葉は、現実の事象に対して何らかの影響を与えると信じられ、良い言葉を発すると良い事が起こり、不吉な言葉を発すると凶事が起こるとされています。

これとは別に、神前で自分の意志をはっきりと声に出すことを「言挙げ」と言います。内容は神道の教義的なものが多く、「言挙げ」はこれを「ことば」によって明確にする行為です。

ここでの「ことば」とは広義には「身振り」など音声以外の要素も含みます。現在の多くの神道諸派では言葉よりもこうした「身振り=所作」を重んじています。とはいえ、「ことば」を重視していることには変わりはなく、その「ことば」が自分の慢心により発せられたものであった場合には悪い結果がもたらされると信じられてきました。

神道における「言挙げ」の歴史は古く、奈良時代の歴史書、「古事記」の中巻には、伊吹山(滋賀県米原市)の神を討ち取りに出かけた倭建命(ヤマトタケルノミコト)が事挙げを行ったという記述が出てきます。

ミコトが伊吹山に登った時、牛ほどの大きさの白い大猪が現れました。ミコトは「この白い猪は神の使者だろう。今は殺さず、帰るときに殺せばよかろう」と言挙げをし、これを無視してしまいます。ところが実際にはこの猪が神そのもので、怒った神は大氷雨を降らし、これによってミコトは失神してしまいます。

やがて気を取り戻し、山を降りたミコトは、麓にあった「居醒めの清水」で正気をやや取り戻しますが、ほどなく病の身となっていました。米原には現在も醒井(さめがい)という地があり、ここの加茂神社に湧き出る名水が「居醒めの清水」と呼ばれています。

ミコトはそのあと、弱った体で大和を目指して、現在の岐阜南部から三重北部へと進んで行き、そして能煩野(のぼの:三重県亀山市)に到ったとき、「倭は国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭し麗し」と国を偲ぶ歌を詠って亡くなりました。この地には現在、能褒野神社があり、ヤマトタケルノミコトが祀られています。

以後、さまざまな事挙げがなされるようになったようです。万葉集の柿本人麻呂の歌に「葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国」とあるほか、作者不詳の作で「蜻蛉島大和の國は神からと言擧げせぬ國しかれども吾は言擧げす 」といったものが残されています。

詔としての事挙げはいろいろなものが唱えられていたようですが、ばらばらだった言挙げはその後、整理・淘汰されていき、室町時代になってから、神道家、吉田兼倶によって体系化され、神道初の理論書が完成します。「唯一神道名法要集」「神道大意」などがそれです。

これはその後伊勢神宮に受け継がれて「神道五部書」として完成し、中世から近世初期にかけて神道の最重要経典となり、伊勢神道などの根本経典として現在に至っています。

このように言霊、事挙げは古い歴史を持ちます。そもそもこうした万葉の時代に言霊信仰が生まれたのは中国の影響といわれています。この時代、中国の文字文化(漢字)に触れるようになったことが、日本人にとっては逆に「大和言葉」を自覚することに繋がりました。精神的基盤として、自らが作り上げた言語を重要視するようになったのです。

独自の文化・思想、精神世界を尊び、自国文化を再認識する過程で日本人自らが作り上げた言語が尊重され、その結果として言霊信仰が定着していきました。言霊は日本人のルーツそのものであり、日本人の心でもあります。



ところで、「言葉」の語源は何でしょう。これは「言(こと)」と「端(は)」の複合語であるといわれています。古くは、言語を表す語は「言(こと)」が一般的で、「ことば」という語は使われていませんでした。

やがて「言」(こと)」には「事(こと)」と同じ意味が持たせられるようになり、「言(こと)」はかなり重い意味として使われるようになりました。

それでは、「事」とは何でしょうか。「事」は象形文字で、そもそもは「神への祈りの言葉を書きつけ、木の枝などに結びつけた札を手にした形」です。変じて、「祭事に携わる人の様」を示すようになり、やがては「仕事」「仕える」という意味を持つようになりました。

人にとって仕事をするというのは重い作業です。「言」に「事」の意も持たせることで、その意を深めようとしたわけですが、ところが、逆に軽々しく使えなくなってしまいました。

そこで、「言」「事」に何かを加えて軽い意味にしようとしました。その時考えられたのが「端」で、この象形文字は「定められた位置に正しく座る巫女の形」を表していいます。そこから「正しく座る、正しい、正す」という意味を示す文字として使われるようになりました。

これを「言」と組み合わせることで重い意味を「正」し、事実が伴わないような「口先だけ」の語として使うようになりました。軽い物言いを表現するために「羽」という文字が加えられたという説もあります。

最初は「言端」「言羽」と書いていたようですが、奈良時代までには「言羽」だけが残り、これに「言葉」「辞」が加えられました。「万葉集」にもこの3つが使われています。現在のように「言葉」という文字だけが使われるようになったのは、室町時代頃と考えられおり、この時代の随筆、「徒然草」では主に「言葉」が使われています。

複数ある「ことば」を示す漢字の中で「言葉」が残った理由としては、「葉」はたくさんの意味で豊かさを表す上で最適と考えられた、という説があります。

「古今和歌集」には「やまとうたは ひとのこころをたねとして よろずのことの葉とぞなりける」と書かれています。平安のこのころすでに「葉」を「ことば」の一般的な用語として使いたい気分が多くの人にあったのでしょう。



話は変わりますが、神前で祭事に携わる人たちが行う行事のひとつに禊(みそぎ)があります。罪や穢れを落とし自らを清らかにすることを目的とした神道における水浴行為であり、滝行などに代表されるものです。不浄を取り除く行為である祓(はらえ)の一種であって、神社に参拝するとき、手水で手や口を清める行為も禊のひとつです。

「古事記」などの神話によると、伊邪那岐神(イザナギ)は死者の国へ行き心身が穢れ、帰って来ました。そこで日向(現宮崎県)の小戸の阿波岐原(おどのあわぎはら)という場所で海水を浴びて禊を行い、この時、祓を司る祓戸(はらえど)の神々が生まれました。この神々の力でその後多くの罪や穢れが清められるようになったのが、禊の始まりとされます。

一方、当初、祓には、こうした水の禊以外にも、火の禊、風の禊、光の禊、大気の禊、など色々なものがあったそうです。そしてもうひとつ、「言霊の禊」というものもありました。つまり現在までに生き残ったものが、水の禊と言霊の禊ということになり、言霊の禊は祓(はらい)となり、今日では神道の浄化儀式として宮中や神社で日常的に行われています。

大晦日に行われる「大祓」というのをご存じの人も多いと思いますが、これは天下万民の罪穢を祓うという意味を持つ神道の年最大の祓の行事のひとつで、12月31日だけでなく、毎年6月の晦日(30日)にも行われています。

祓が「言霊の祓い」の名残である証拠に、祓の際には、祓詞(はらえのことば、はらえことば)が唱えられます。神事の前に必ず行われる祝詞の一種です。祓詞を唱えれば、祓戸の神々の御神力により、罪や穢れが清められると言われています。

祓詞を理解する話として、次のようなものを紹介します。明治初期の伊勢神宮神官が集めた霊験譚「神判記実」の中にある話で、紀伊国の岩松という樵(きこり)が狼の群れに襲わるという話です。狼に襲われた岩松は、木に登りますが、狼は背に登って重なり迫って来たため、暗唱していた祓詞を唱えました。

すると、突然心が清浄になり、狼達は降り、地に伏せ始めました。そのまま祓詞を続けていると、今度は朽ちた木の枝が折れ、大きな音と共に落ちたため、狼達は驚いて退散しました。難を逃れた岩松は、その後も日常的に祓詞を唱え続け、96歳まで生きたそうです。

このように、神通力のある言葉を唱えるというのは邪悪を廃し、幸せをもたらすとされ、これが祓詞です。祓詞は神道各派によって異なり、いろいろなものがあります。例えば出雲大社の祓詞は次のようなものです。

「掛介麻久母畏伎伊邪那岐大神筑紫乃日向乃橘小戸乃阿波岐原爾御禊祓閉給比志時爾生里坐世留祓戸乃大神等 惟神奈留大道乃中爾生令氐在奈賀良其御蔭乎志深久思波受氐皇神等乃御恵乎大呂加爾思比多利志時爾過知犯勢留波更奈里今母罪穢有良牟乎婆祓閉給比清米給閉登白須事乎八百万乃神等共爾聞食世登恐美恐美母白須」(かけまくもかしこきいざなぎのおほかみつくしのひむかのたちばなのをどのあはぎはらにみそぎはらへたまひしときになりませるはらへどのおほかみたちかみながらなるおほみちのなかにうまれてありながらそのみかげをしふかくおもはずてすめかみたちのみめぐみをおほろかにおもひたりしときにあやまちおかせるはさらなりいまもつみけがれあらむをばはらへたまひきよめたまへとまをすことをやおよろずのかみたちともにきこしめせとかしこみかしこみもまをす)」

お分かりのとおり、こんな長たらしい言葉を我々が使うのは日常的ではありません。第一暗記するのが大変です。

こんな長い文を覚えなくても、日ごろから汚い言葉や穢れた言葉は使わないようにし、良い言葉ばかりを使うようにすれば、良いことばかりが起こるようになる、といわれています。つまりは祓詞の簡易版であり、自分流の「祓えことば」です。

自分が発した言葉は、自分も耳にしています。口から出した瞬間、他の誰かに届く前に自分自身が自分の発したものを直に受け取ります。これはつまり「出したものが返ってくる」ということを意味し、それがこの世の真理であり道理です。

その原理に従い、自分が言ったことはそのまま自分に返ってくると考えれば、それはそのまま自分の中に浸透していく、ということにもなります。脳に刷り込まれたそれこそが言霊であり、望む望まないに関わらずその影響を受けるのは自分自身ということになります。

これと似たような法則に、引き寄せの法則というものがあります。こちらもポジティブな事を考えればポジティブに、ネガティブな事を考えればネガティブになるというもので、そう信じる事によって自分が求めている物を引き寄せると言われています。

言霊と同じく、ポジティブな言葉を言えばポジティブになり、ネガティブな言葉を言えばネガティブになります。本当にそんなことってあるの?と疑う方も多いと思いますが、言葉が意識を変え、意識が自分の行動を変えるので望んだ結果が生まれてくるのです。

ですから、今年は意識を変え、発言に注意し、良い言葉だけを発するようにしましょう。ネガティブな心を捨て、ポジティブマインドで毎日を過ごせば、おのずときれいな言葉だけが出てくるようになるはずです。

きれいな言葉は意識を変えるだけでなく、意識が行動を変え、さらに潜在意識の中にポジティブな事や、願いをすりこむようになります。その事によって、自分の行動がその目標に向かって動きやすくなるのです。

さて、今年最初のブログもそろそろ終わりにしたいと思いますが、最後に一つだけ冒頭で書いた事任神社にまつわるエピソードを披露しましょう。

事任神社の近くに、小夜の中山(さよのなかやま)という峠があります。掛川市佐夜鹿(さよしか)に位置する峠で、西行法師が詠み新古今和歌集に入れられた「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」という歌があり、その歌碑がこの峠に存在します。

最高点の標高は252mで、古くから、箱根峠や鈴鹿峠と並んで東海道の三大難所として知られてきました。東海道の金谷宿と日坂宿の間にあり、当時は急峻な坂のつづく難所でした。頂上には真言宗の久延寺、西側の麓にあるのが事任八幡宮であり、この峠を越えた人、これから越える人の多くがこれらの寺社を参拝し、旅の安全や願い事成就を祈りました。

事任神社からこの小夜の中山までは、旧東海道を歩いておよそ50分ほどで到着します。現在は周囲を茶畑に囲まれたのどかな山道であり、峠付近には久延寺のほか、浮世絵のコレクションが日本一といわれる「浮世絵美術館 夢灯」といったものもあります。

この峠にはかつて、遠州七不思議の一つとして知られる「夜泣き石」というものがありました。「南総里見八犬伝」で有名な曲亭馬琴(きょくていばきん)がその話を「小夜中山復讐 石言遺響(せきげんいきょう)」の中で書いています。それによれば、その昔、お石という身重の女が小夜の中山に住んでいました。

ある日お石が麓の菊川の里(現菊川市)で仕事をして帰る途中、中山の丸石の松の根元で陣痛に見舞われました。そこを通りがかった轟業右衛門という男がこれを見つけ、しばらく介抱しましたが、お石が金を持っていることを知ると斬り殺して金を奪って逃げ去りました。

その時お石の傷口から子供が生まれたといい、そばにあった丸石には死んだお石の霊が乗り移ったといいます。この石はその後夜毎に泣くようになり、里の者はこれを「夜泣き石」と呼んで恐れました。生まれた子は、近くにある久延寺の和尚が見つけて保護し、音八と名付けて育てました。

和尚は音八に飴を与えて育てたといい、音八は成長すると、大和の国の刀研師の弟子となり、すぐに評判の刀研師となりました。ある日のこと、音八はひとりの客の持ってきた刀を見て「いい刀だが、刃こぼれしているのが実に残念だ」と言いました。

すると客は「去る十数年前、小夜の中山の丸石の附近で妊婦を切り捨てた時に石にあたったのだ」と暴露しました。音八はこの客が母の仇と知り、名乗りをあげて恨みをはらしました。

後にこの話を聞いた弘法大師がここを訪れ、亡くなった母を憐れんで丸石に仏号を刻んで供養を行ったと伝えられています。

かつて、峠にあり、夜泣き石と伝えられたこの石は今はなく、その場所には、夜泣石跡の石碑があるだけです。元の石は現在、国道1号小夜の中山トンネルの手前(東京側)の道路脇に移されています。その昔「夜泣き石」を見せ物しようとした業者がこれを持ち出しましたが、興行に失敗し、焼津に置き去りになっていたものを地元の人々がここに運んだそうです。

この国道1号は昔の東海道ではありません。明治13年に東海道の北側の沢沿いを開削した新道が造られ、これが明治38年に国道となりました。昭和7年には小夜の中山トンネルができ、トンネルができたことで峠を行き交う車のアップダウンも少なくなりました。

この夜泣き石がある敷地には「名物 子育飴 元祖 小泉屋」があり、ここで子育て飴という、琥珀色の水飴が売られ、この地の名物となっています。久延寺の和尚が飴で音八を育てたという伝説から、寺の隣にあった茶屋「扇屋」が、峠を通る客に出したのが始まりとされます。

昔ながらの静岡おでんや子育て飴ソフトクリームといったものもあるようです。一度訪れてみてはいかがでしょうか。