Boys be……

今朝がた、アメリカ東部のボストンで行われていたマラソン大会のゴール付近で、大きな爆発があったようです。死者も出たとのことで、誰がやったのかなどの詳しいことはまだ調査中とのことですが、おそらくはテロ事件なのでしょう。

ボストンマラソンは市民大会としては世界で最も歴史のあるレースで、運営サイトによると、今年のマラソンには96カ国から2万7000人ほどが参加していたとのこと。

そういう人が集まるところを狙って殺傷能力の高い爆弾をしかけるという卑劣なことをやる輩といえば…… だいたい想像は難くないところですが、誰あれ早くとっつかまえて、相応の裁きを受けさせたいものです。

このボストンですが、私も行ったことがあります。マサチューセッツ州の州都で、アメリカで最も歴史の古い街の一つです。ニューイングランドと呼ばれる、アメリカ島北部の6つの州を合わせた地方でも最大の都市で、同地域の経済的・文化的中心地と考えられています。

「ニューイングランドの首都」と言われることもあり、アメリカ有数の世界都市であり、金融センターとしても高い影響力を持っていて、ニューヨークとともにアメリカ東部の中では日本人にもなじみの深い街のひとつでしょう。

このNew Englandという地名は、1616年に初めてイギリスが入植した土地であることが、その地域名の由来ですが、その後1620年ころからイギリスのピューリタンがマサチューセッツへ移住を始め、各植民地を設立していきました。

しかし、1616年というと、徳川家康が死んだのがちょうどこの年であり、こうした史実をみると、やっぱりアメリカはまだまだ若い国なんだなと思ってしまいます。

1637年には北のヌーベルフランス、南のニューネーデルラントに対抗するため「ニューイングランド連合」が結成され、のちの1776年にはアメリカ独立戦争発祥地となりました。19世紀にはニューイングランドの商人や漁師が活躍するようになり、ここから出た捕鯨船が世界を駆け巡るようになり、その一部は日本にまで出没するようになります。

やがて、幕府が下田や横浜、長崎などなど多くの港を開放したことで、アメリカ人も多数来日するようになり、このころ箱館港に入港していた米船ベルリン号では、新島襄が密出国しています。

新島は、上海でワイルド・ローヴァー号に乗り換え、この船の中で、船長のホレイス・S・テイラーに「Joe(ジョー)」と呼ばれていたことから以後、自分を襄と呼ぶようになったといいます。そして慶応元年(1865年)、ボストンに到着。ワイルド・ローヴァー号の船主・A.ハーディー夫妻の援助をうけ、フィリップス・アカデミーに入学することができました。

その翌年の慶応2年(1866年)には、アンドーヴァー神学校付属教会で洗礼を受け、慶応3年(1867年)にフィリップス・アカデミーを卒業。明治3年(1870年)にアマースト大学を卒業して、理学士の学位をえます。これは日本人初の学士の学位取得でした。

このアマースト大学で新島は、ウィリアム・スミス・クラークなる人物の化学の授業を受けており、この人こそ、後年、「ボーイズ・ビー・アンビシャス」のことばで有名になるクラーク博士です。

新島襄はクラークにとっては最初の日本人学生でしたが、これが縁で、その後クラークは来日することになります。新島は、明治7年(1874年)、アンドーヴァー神学校を卒業すると、その齢の11月に横浜に帰着。

アメリカを去る前には、アメリカン・ボード海外伝道部の年次大会で日本でキリスト教主義大学の設立を訴え、5000ドルの寄付の約束を得ることができ、帰国後は、かねてより親交の深かった公家華族の高松保実より屋敷の約半部を借り受けて校舎を確保し、学校を設立します。

これがのちの同志社大学の前身となる、同志社英学校であり、新島はこの学校の初代社長に就任しました。

ちょうどこのころ、北海道でも、札幌に「札幌農学校」という新しい学校をつくろうという建設計画が持ち上がっていました。札幌市街の建設は、明治2年(1869年)に始まりますが、このころには何もない沼地ばかりの荒地であり、町の建設以前に札幌に住んでいた和人はわずか2家族しかいなかったといいます。

そんな原野を開拓して今の札幌の街ができたのは驚きですが、明治5年(1872年)ころまでにはかなり町の様相を呈してきており、札幌郊外に東京・芝の増上寺の方丈25棟を購入して「開拓使仮学校」と呼ばれる、北海道初の学校も設置されました。

この学校は、北海道開拓に当たる人材の育成を目指して建設されたものですが、後に札幌に移して規模も大きくする計画であったことから「仮学校」とよばれていました。

初年度全生徒数は120名であり、最初は男性ばかりでしたが、この年の9月には50名からなる女学校も併設されるようになりました。

明治8年(1875年)、札幌本府建設から5年が経ち、ようやく町の形ができてきたころのこと、この二つの学校を併合し、場所も札幌郊外から、市内中央に移転させ、仮学校を本学校にすることになりました。

新島襄が日本に帰国したのはこの前年のことです。本学校は、「札幌学校」という名称にすることが決められ、その場所も、北海道石狩国札幌郡札幌。現在の札幌市中央区北2条西2丁目付近に決められ、校舎の建築がはじまりました。

その後、「札幌学校」に「農」の字を加え、「札幌農学校」とさらに改められ、開拓使札幌本庁学務局所管の学校として、9月7日に開校式が行われました。のちの北海道帝国大学、現在の北海道大学の誕生です。

ただ、仮学校からの移転した女学校のほうは、翌年の明治9年(1876年)までには廃校になりました。

この女学校校舎の一部は、明治21年(1888年)12月14日に北海道庁の赤レンガ庁舎ができるまでのおよそ10年あまり、開拓使、札幌県及び北海道庁の庁舎として使用されました。今はもう形も残っていませんが、現在の札幌市中央区南1条西4丁目付近にある、三越札幌店付近にその校舎があったということです。

この札幌農学校の初代校長には、元薩摩藩士で、元老院議官、貴族院議員などを務めた、のちの男爵、「調所広丈」が選ばれましたが、教頭に選ばれたのが、このころマサチューセッツ農科大学学長を務めていたウィリアム・スミス・クラークでした。

そして、このクラークを日本政府へ紹介したのが、その教え子である、新島襄でした。

この新島襄も卒業した、アマースト大学(Amherst College)は、日本人にはあまり馴染のない名前です。しかし、全米最高峰のリベラルアーツ・カレッジ(において人文科学・自然科学・社会科学及び学際分野に渡る学術の基礎的な教育研究を行う四年制大学)ともいわれ、徹底した少人数による学問教育から、卒業生として4人のノーベル賞受賞者を輩出しています。

マサチューセッツ州に本部を置く私立大学であり、2008年度のU.S News College Rankingのリベラルアーツ大学部門では1位に選ばれており、最新の2010年度同ランキングでは、長年のライバル校であるウィリアムズ大学についで2位につけています。

クラーク自身もこの大学を卒業しており、卒業後はヨーロッパに渡り、ドイツのゲッティンゲン大学にて博士号取得。その後帰国して、アマースト大学教授となりました。

マサチューセッツ州のアッシュフィールドで生まれ、お父さんのアサートン・クラークは医師であったそうです。大学教授に就任する前には、南北戦争にも参加しており、このときは北軍少佐として従軍したといいますから、単なる青っちろいインテリ学者というわけではなかったようです。

専攻は園芸学、植物学、鉱物学で、この母校のアマースト大学で教鞭をとったあと、このころマサチューセッツ農科大学(現マサチューセッツ大学アマースト校)の第3代学長に就任していましたが、新島襄から紹介を受けた日本政府から、農学校教頭就任への熱烈な要請を受けます。

そして、明治9年(1876年)7月に来日し、札幌農学校教頭に就任します。日本に来るにあたっては、マサチューセッツ農科大学を退職して正規に職に就くいうかたちはとらず、1年間の休暇を利用して訪日するという期間限定での就任でした。

クラークの立場は教頭で、名目上は調所広丈が校長でしたが、クラークの希望により、その職名は英語で President と表記することが開拓使によって許可され、殆ど実質的にはクラークが校内の全てを取り仕切っていたといいます。

ちなみに、この調所も戊辰戦争に従軍し、箱館戦争に参加するなど、クラークと同様に戦火をくぐり抜けてきた経歴を持っています。同じような経験をしているということで、お互い気があったのではないでしょうか。

調所は、明治5年に開拓使に入り、以後、開拓幹事、開拓少判官などを経て、開拓権書記官兼務で札幌農学校長に就任しています。

その後は、開拓大書記官などを歴任後、札幌県令に就任。開拓使廃止後は、元老院議官に就任し、その後、高知県知事、鳥取県知事なども勤め、明治44年に71才で亡くなるまで貴族院勅選議員を任じられていました。

こうした長年の功から、錦鶏間祗候(きんけいのましこう、功労のあった華族や官吏を優遇するために設けられた資格)にも任じられ、60才では男爵の資格をも叙爵しています。

しかし、農学校の運営にはほとんどタッチしていなかったようで、その教育内容の構築の作業はほとんどがクラークに委ねられたようです。

クラークの滞在は、わずか8ヶ月でしたが、この間に、その後の帝国大学の礎となるような学制の充実に力を入れ、とくに科学教育に力を入れるとともに、キリスト教的道徳教育を熱心に行いました。

その薫陶を受けた1期生からは、のちの北海道帝国大学初代総長となる佐藤昌介や東京農学校講師で実業家となる渡瀬寅次郎らが輩出されました。

ちなみに、この渡瀬寅次郎は、静岡ゆかりの人物です。1859年に江戸で生まれましたが幕末に臣沼津に移り住み、沼津兵学校などで学問を学んでいましたが、札幌農学校が設立されたときに、この一期生として入校しました。後に「東京興農園」という農場を開いたほか、日本各地に試験農場を開き、農業の発展に大きく貢献します。

「二十世紀梨」の命名者としても知られています。恩師・クラーク博士の理念を基に、自らも学校を開こうと考えていましたが、67才で病没。札幌農学校では、新渡戸稲造、内村鑑三らと同学であり、その後その意思を継いで設立された「興農学園」の初代理事長は新渡戸稲造でした。

更に余談ですが、寅次郎の兄・渡瀬庄三郎も札幌農学校に入学、後に動物学者となり、こちらは「ホタルイカ」の名付け親だそうです。

新渡戸稲造は、札幌農学校の2期生として入校し、主として教育学を専攻後、名高い教育者として世に知られるようになります。また、内村鑑三は、農学校を経て思想家として著名になり、このほか、この当時の農学校卒業生として有名な人物には、土木工学の権威、広井勇や、植物学で有名な宮部金吾などがいます。

これらの有名人の多くは、クラークが教える「キリスト教学」にも傾倒し、クラークの作った「イエスを信じる者の誓約」に次々と署名し、キリスト教の信仰に入る決心をしました。

のちに、彼らは「札幌バンド」と呼ばれるようになり、横浜バンド、熊本バンドと並んで日本におけるプロテスタントの浸透に貢献した青年グループとして、その筋の方々には著名です。

ちなみに、横浜バンドは、米国オランダ改革派教会のS.R.ブラウンが教育した日本青年たちであり、これは、日本基督公会に発展し、また、アメリカ人教師L.L.ジェーンズが熊本の青年を育て作り上げた熊本バンドは、新島襄が設立した同志社英学校におけるキリスト学の系譜の成長に大きな影響を与えました。

熊本バンド出身者は後に牧師、教職、官公吏、政治家などになり、のちのYMCA設立にも大きく関係しました。

こうして、のちの北海道大学の基礎を形づくり、日本におけるキリスト教の布教にも大きな影響を与えた多くの青年を育てた「クラーク博士」は、8ヶ月の札幌滞在の後、翌年の1877年(明治10年)5月に離日しました。

その去り際に残した言葉が、かの有名な、「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」ですが、これは、札幌農学校1期生との別れの際に、この当時月寒村と呼ばれていた現在の北広島市の島松という場所でクラークが発したものとされています。

しかし、この1期生の一人で、後の甲府中学校(現甲府第一高等学校)の学校長となる大島正健氏が札幌農学校創立15周年記念式典で行った講演内容によれば、正確には「Boys, be ambitious like this old man」であったといいます。

「ジイサンのワシのように野心的になれ」という意味になりますが、このほかにも「Boys, be ambitious in Christ (God)」と言ったという説もあるようです。

このほかにも、「青年よ、金、利己、はかなき名声を求むるの野心を燃やすことなく、人間の本分をなすべく大望を抱け」と述べたというながったらしい弁舌めいたものであったという説もあり、さまざまです。

大島氏によれば、その去り際は次のようだったといいます。

“先生をかこんで別れがたなの物語にふけっている教え子たち一人一人その顔をのぞき込んで、「どうか一枚の葉書でよいから時折消息を頼む。常に祈ることを忘れないように。ではいよいよ御別れじゃ、元気に暮らせよ。」といわれて生徒と一人々々握手をかわすなりヒラリと馬背に跨り、”Boys, be ambitious!” と叫ぶなり、長鞭を馬腹にあて、雪泥を蹴って疎林のかなたへ姿をかき消された”

なんともカッコいい、去り方です。

ここでは、簡潔にBoys, be ambitiousとなっていますが、当然原語は英語であり、このときクラーク博士を見送った日本人たちすべてが英語が堪能だったかどかも疑問なため、本当にそういったのかは、今となってはわかりません。

また、「Boys, be ambitious」というのは、彼の出身地のニューイングランド地方でよく使われた別れの挨拶(「元気でな」の意)だったという説もあり、だとすれば、クラーク博士もそれほど意味深な言葉を吐いたつもりはなかったのかもしれません。

その後、クラークはアメリカへ帰国後、元のマサチューセッツ農科大学の学長の席に戻りましたが、やがて大学を辞め、洋上大学の開学を企画しますが、資金難などからその実現に失敗しています。

この洋上大学というのはよくわかりませんが、かつての南北戦争時代の軍務経験や日本での経験を生かし、若者を船の上で鍛え上げるといったスパルタ教育だったのかもしれません。色々調べてみましたが結局詳細な内容は不明です。

その失敗によって、それまでの彼の人生のひとつのテーマであった「教育」というものに幻滅してしまったのか、クラークはその後、知人と共に鉱山会社を設立し、事業家をめざすようになります。

この鉱山事業は、当初は大きな利益を上げたようですが、所詮はもともとは大学の先生のこと、やがて経営に行き詰まり、資金の確保が出来ず多額の借金を抱えるようになり、この会社も倒産してしまいます。

その後破産をめぐる裁判に訴えられて悩まされ続けますが、これがたたったのか、その後心臓病となって寝たり起きたりの生活となります。

そして、1886年、その持病の心臓病によりこの世を去りました。享年59才。

クラーク博士の「弟子」のひとりである内村鑑三は、農学校時代にクラークを第一級の学者であると思っていたそうです。が、その後、米国に渡る機会があったときに、ある学者にクラークの評判を聞いたところ「クラークが植物学で幅を利かせているなんて不思議だ」と笑われたそうで、このとき、内村は、「ついに先生の化けの皮がはがれたか」と思ったそうです。

しかし、内村はその後の著書で「ものを教える」技能を有し、教育で貢献する人物の好例としてクラークを引用し、青年に植物学を教え、興味を持たせる力があり、「植物学の先生としては非常に価値のあった人でありました」などと書いており、この方面でのクラークの才能を高く評価しています。

また、 札幌農学校に赴任してきてその校則を作ったとき、クラークの招聘をし、この当時の開拓使長官であった黒田清隆に、「この学校に規則はいらない。“Be gentleman”(紳士であれ)の一言があれば十分である」と進言したと言われています。

しかし、開校日にクラーク自身が学生に提示した学則は、これよりはるかに多かったそうで、本音とタテマエは別、ということだったようです。

この“Be gentleman”も“Be ambitious”と並んで有名になりそうな言葉ですが、こういう言動といい、そのアメリカに帰るときの去り際の様子といい、これらがすべて本当だとすると、どうも、「エエかっこしい」のところがあったような人物であるよう気がします。

その後の洋上大学の試みでの挫折や、鉱山会社の経営と失敗などをみてもわかるように、えーカッコしたくて、やってはみたものの、うまくいかない、ということの繰り返しのような人生だったのではないでしょうか。重厚な人物のような印象がありますが、案外と「軽い」ところのある人だったのかもしれません。

現在、札幌郊外の羊ヶ丘展望台に作られているクラーク博士の銅像もまた、エエかっこしいの典型のような像ですが、実は、これとは別の像が、北海道大学の構内にあります。

全身像ではなく胸像ですが、この羊ヶ丘展望台の像ができる前は、こちらのほうがより有名であり、多くの観光客が訪れていました。

しかし、北海道大学では研究活動に支障が出るとして1973年に観光バスの入場を禁止し、この像を一般人は見れなくなってしまったため、この事態を受けてあわてた札幌観光協会は新しい像を市内のどこかに作ることを企画。

そして、1976年にアメリカ合衆国建国200年祭が行われるのに合わせ、この年が奇しくもクラーク博士の来道100年でもあったことから、札幌農学校の創基100年記念ということで、全身像としてのクラーク像を建立することになったようです。

なんとなく軽々しい印象もあるクラークですが、とはいえ、この先生、弟子たちにはかなり慕われていたようであり、その後も黒田清隆や教え子との間で手紙による交流を続けたといい、そうした書簡が今も数多く残っているといいます。

クラークは学生にカレー以外のメニューの時の米飯を禁じ、パン食を推進したと言われ、カレーを日本に広めたのはクラークであるという説もあるそうです。もしかしたら、こうした学生たちと一緒に食堂でカレーライスを食べることによって、その交流を深める目的があったのかもしれません。

また、米食を禁じた理由はよくわかりませんが、寒冷な北海道では米よりも麦のほうが育ちやすいため、その栽培方法を普及させたほうが日本人のためになる、という考えだったのかもしれません。現在では北海道は日本でも有数な麦の産地となっていますから、あながちその推論は間違っていないようにも思います。

……そんな北海道にかつては年に数十回も仕事で行っていた私ですが、最近はとんとご無沙汰しています。ときおり、あのひんやりとした澄み切った空気がむしょうに懐かしくなりますが、当面、無理して旅行でも組まない限りは、行けそうもありません。当面はこの伊豆の青い空と海だけで我慢することにしましょう。

さて、ゴールデンウィークも間近になりました。北海道へ行くことを企画している人も多いことでしょう。もし北海道へ行ったら、羊ケ丘展望台にも足を延ばしてみてください。

そこからは、遠くにまで広がる札幌市街や石狩平野を見渡すことができ、これを背景に丘の上で羊が牧草をはむ牧歌的な風景が広がっているはずです。

そして、その丘の上に立ち、札幌市街を指さすクラーク像を見たら、彼の有名な言葉、Boys, be ambitiousを口づさんでみましょう。あるいは、Be gentlemanでもよいかも。

きっとあなたも、クラーク博士になった気分になれるに違いありません。

幕末の密航者


先日、戸田の「戸田造船郷土資料館」を訪問したとき、資料の中に、「橘耕斎(たちばなこうさい)」という人物の名前がありました。

あまり知られていない人物ですが、出身は掛川藩士、つまり静岡県人です。若いころに脱藩し、一時博徒の頭目になったり、出家して仏門に入ったりと、波乱万丈の前半生を終えたあと、今度は伊豆沖で難破したディアナ号の船員がロシアに帰る際、その便船でロシアへ密航。サンクトペテルブルグでロシア語を学んだあとに、後年ロシアの外交官として活躍した人物です。

「ウラジミール・ヨシフォヴィチ・ヤマトフ」というロシア名まで持っており、1870年にはペテルブルク大学初の日本語の講師にまでなっています。1873年、岩倉使節団としてロシアを訪れた岩倉具視に説得され、日本に帰国。しかしその後高輪の源昌寺に籠り世に出る事なく1885年(明治18年)生涯を閉じました。

この人物については、いずれまた詳しく書くとして、幕末にはいったい、どれくらいの密航者がいたのかが気になったので調べてみました。すると、いるわいるわ、結構な人数がこの時期に外国に密航しています。改めて幕末の人たちがいかに新しい時代のための新知識に飢えていたかを再認識させられます。

まずは、薩摩藩。薩摩藩は、横浜で薩摩藩士がイギリス人を殺傷した生麦事件に端を発し、その後イギリスとの戦争、「薩英戦争」を引き起こしました。この戦争は薩摩の一方的な敗北に終わり、薩摩は攘夷論が空論であることを理解するようになります。そして、逆にイギリスをはじめとする欧米諸国から最新技術を導入しようと考えるようになり、やがて極秘裏にイギリスと「薩英同盟」を締結します。

そして、この同盟を機に、その頃の幕府の定めでご法度であった、「密航」を藩ぐるみ画策。藩内の厳しい選抜で14名もの俊英を選び、これに藩の監督官や通訳など5人を加えて、合計19名がイギリスに密航しました。

時は、1865年(元治2年)、全員が変名を使い、表向き藩主の御用で奄美大島方面へ出張と偽り、長崎のイギリス武器商人グラバー所有の蒸気船で鹿児島港を出港。香港で便船を乗り継ぎ、ジブラルタルを経て、2か月後の5月に英国サザンプトン港へ到着しました。

密航者の中には、のちに関西経済界の重鎮となる五代友厚(ごだいともあつ)などもおり、年齢も14~34才と幅広く、イギリスでは、軍事のほか、海軍測量、機械、文学、医学、化学、造船など多岐の学問を習得し、彼らが得た新知識は明治以降の文明開化に大いに貢献しました。

一方、薩摩藩のライバル、長州藩も1861~1864年の文久年間に5人の藩士をイギリスに秘密留学させています。これが有名な「長州ファイブ(5)」と呼ばれる面々で、その5人こそが、井上聞多、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔、野村弥吉です。

井上聞多は、のちの井上馨(外務卿、内務大臣等を経て侯爵)、伊藤俊介は、のちの総理大臣、伊藤博文です。野村弥吉も後年名前が変わって、井上勝と称するようになりますが、この人は鉄道発展に寄与し、日本の鉄道の父と呼ばれました。

遠藤謹助、山尾庸三の二人は他の三人ほど有名ではありませんが、遠藤謹助は明治政府で長く造幣局に勤め、明治14年には造幣局長となり、大阪造幣局の「桜の通り抜け」を造った人として知られています。

山尾庸三は、長州ファイブの中でも一番最後までイギリスに残っていた人で、1868年(明治元年)に帰国。帰国後に工部権大丞・工部少輔、大輔、工部卿など工学関連の重職を歴任し、のちの東京大学工学部の前身となる工学寮を創立。晩年は聾(ろう)を患う身体障害者の人材教育に熱心に取り組み、1880年(明治13年)に楽善会訓盲院を設立しました。

この長州ファイブは、五十嵐匠監督によって2006年に映画化され、第40回ヒューストン国際映画祭ではグランプリを受賞しており、山尾庸三役を松田優作の長男の松田龍平さんが演じて話題になりました。

この5人の秘密留学に際して、長州藩は費用として約5000両を用意したといいますが、これは現在の価値に換算すると5億円以上になります。いかに長州藩がこの5人に期待していたかわかりますが、その期待に応え、五人ともその後の新しい時代において大いに活躍しました。

薩摩や長州以外の藩から密航して、留学した有名人のひとりには「新島譲」もいます。のちにキリスト教の布教家となり、現在の同志社大学を興し、福澤諭吉らとならび、明治六大教育家の1人に数えられています。この六代教育家は以下のとおりです。

大木喬任:文部卿として近代的な学制を制定
森有礼: 明六社の発起代表人、文部大臣として学制改革を実施
近藤真琴:攻玉塾を創立、主に数学・工学・航海術の分野で活躍
中村正直: 同人社を創立、西国立志編など多くの翻訳書を発刊
新島襄: 同志社を創立、英語・キリスト教の分野で多くの逸材を教育
福澤諭吉: 慶應義塾を創立、法学・経済学を中心に幅広い思想家として著名

この中の新島譲は、上州(現群馬県)安中藩の人で、江戸生まれ。元服した際に友人からアメリカの地図書を見せられたことがきっかけで、アメリカの制度を知るようになり、アメリカに憧れを持つようになります。

その後、幕府の軍艦操練所などで洋学を学んでいましたが、ある日、アメリカ人宣教師が訳した漢訳聖書に出くわし「福音が自由に教えられている国に行くこと」を決意。

そしてアメリカ合衆国への渡航を画策し、備中松山藩の洋式船「快風丸」に乗って開港地の箱館へと向かい、箱館に潜伏。その折、当時ロシア領事館付の司祭だったニコライ・カサートキンと出会い、カサートキンによってより聖書に興味を持つようになります。

これに対して、カサートキンは自分の弟子になるよう勧めましたが新島はこれを拒否。アメリカ行きの強い意思は変わらなかったため、逆にカサートキンがその密航に力を貸すことになり、坂本龍馬の従兄弟である沢辺琢磨や福士卯之吉と共に密出国の計画を練るようになります。

1864年(元治元年)の6月、新島ら3人は、函館港から秘密裡に米船ベルリン号で出国します。上海でワイルド・ローヴァー号という別の船に乗り換え、船中で船長ホレイス・S・テイラーに「Joe(ジョー)」と呼ばれていたことから、以後アメリカではその名を使い始め、後年の帰国後も「譲」「襄」と名乗るようになります。

ちなみに新島の本名は、七五三太(しめた)といい、この名前は、新島の祖父が女子が4人続いた後に、初めて生まれたのが男子であったため、「しめた」と言ったためにそれがそのまま名前になったそうです。ずいぶんと安直なネーミングです。

翌年の1865年(慶応元年)7月にボストン着。ワイルド・ローヴァー号の船主、A.ハーディー夫妻の援助をうけ、フィリップス・アカデミーに入学。その後10年近くをアメリカで暮らすことになります。

1874年(明治7年)、アンドーヴァー神学校を卒業。同年10月、アメリカン・ボード海外伝道部の年次大会で日本でキリスト教主義大学の設立を訴え、5000ドルの寄付の約束を獲得。その後、ニューヨークに出て、当時開通していた大陸横断鉄道でサンフランシスコまで移動。ここから船で帰国の途につき、同年11月末に横浜に帰着。

この年は佐賀の乱で江藤新平が新政府に敗れて斬首された直後であり、その3年後には西郷隆盛らによる西南戦争も勃発するなど、明治になってから新政府の存続が危ぶまれる危機的事件が立て続けにおこる波乱の時期でした。

そんな中でも、旧主家の安中藩板倉氏の先祖である板倉勝重が京都所司代を務めたこともある関係で、新島家は公家華族とも広く親交があり、旧親幕藩が虐げられていた新政府の中においても、新島家は優遇されていました。

そして、新島が帰国後、公家華族の一人であった高松保実子爵の申し出によりそのお屋敷(高松家別邸)の約半部を借り受けることができることになり、京都府知事の槇村正直らの賛同も得て「官許学校」として、同志社英学校が発足。

後年、同志社大学となるこの学校の初代校長に就任しますが、開校時の教員は襄とJ.D.デイヴィスの2人、生徒は元良勇次郎、中島力造、上野栄三郎ら8人しかいなかったといいます。

このように、幕末の諸藩が自藩の藩士を密留学させたり、新島のように単独での密航者がいた中、幕府もまた幕府直参を留学させています。自らが海外への渡航を厳しく禁じていたにも関わらず、オランダやロシアなどへ官費留学生を送っており、とくに駐日イギリス公使パークスの勧誘に応じ、1866年(慶応2年)には、14名もの幕臣がイギリスへわたっています。

この渡航にあっては、選抜試験が行われたといいますが、幕臣の子弟の中にはコネを使って合格しようとした者もいたそうです。志願者は80名ほどもいたといいますが、その後幕府が瓦解し、薩摩や長州からの留学生が活躍する中、この留学から帰国した幕府留学生はあまり登用されていません。

薩長の力が強かったというよりも、腐りきった幕末の幕政の中で選ばれたボンクラ留学生ばかりで、新しい時代を担っていけるだけの人材がいなかったのではないかと思われます。

この幕府からの留学生は、その後幕府が新政府軍との戦闘に陥り、その後の海外生活が危ぶまれましたが、イギリスへ渡航した面々は、フランス・オランダへの留学生と共に戊辰戦争最中の慶応4年に無事帰国しています。

前述の新島譲が日本に帰国した明治7年、奇しくもこの同じ年にロシアから戻ってきたのが、「橘耕斉」です。

この橘耕斉の話は、長くなりそうなので、またいつか別の日にしたいとおもいます。あまり知られていない人物なのですが、ノーベル賞作家の川端康成も、昭和4年ころにこの人物について短い文章ではありますが、書き残しているということです。

そこには、明治政府が岩倉使節団を諸外国に派遣した結果、米では新島襄が、ロシアで橘耕斎が掘り出されたというようなことが書かれていたようです。

少し前に橘耕斎を主人公にした小説も出版されたそうで、山上藤吾著の「白雲の彼方へ:異聞・橘耕斎(光文社刊)」という本のようです。ネットで調べてみたところ、絶版になっているらしく入手できるかどうかはわかりませんが、もし入手可能ならばぜひ読んでみたいと思います。

今日のところはこれくらいにしたいと思います。外は雨。一日続くようです。おそらく富士の高嶺にも雪が降り積もっていることでしょう。白く降り積もって雪で化粧をした富士山が見れるであろう明日が楽しみです。