先日、戸田の「戸田造船郷土資料館」を訪問したとき、資料の中に、「橘耕斎(たちばなこうさい)」という人物の名前がありました。
あまり知られていない人物ですが、出身は掛川藩士、つまり静岡県人です。若いころに脱藩し、一時博徒の頭目になったり、出家して仏門に入ったりと、波乱万丈の前半生を終えたあと、今度は伊豆沖で難破したディアナ号の船員がロシアに帰る際、その便船でロシアへ密航。サンクトペテルブルグでロシア語を学んだあとに、後年ロシアの外交官として活躍した人物です。
「ウラジミール・ヨシフォヴィチ・ヤマトフ」というロシア名まで持っており、1870年にはペテルブルク大学初の日本語の講師にまでなっています。1873年、岩倉使節団としてロシアを訪れた岩倉具視に説得され、日本に帰国。しかしその後高輪の源昌寺に籠り世に出る事なく1885年(明治18年)生涯を閉じました。
この人物については、いずれまた詳しく書くとして、幕末にはいったい、どれくらいの密航者がいたのかが気になったので調べてみました。すると、いるわいるわ、結構な人数がこの時期に外国に密航しています。改めて幕末の人たちがいかに新しい時代のための新知識に飢えていたかを再認識させられます。
まずは、薩摩藩。薩摩藩は、横浜で薩摩藩士がイギリス人を殺傷した生麦事件に端を発し、その後イギリスとの戦争、「薩英戦争」を引き起こしました。この戦争は薩摩の一方的な敗北に終わり、薩摩は攘夷論が空論であることを理解するようになります。そして、逆にイギリスをはじめとする欧米諸国から最新技術を導入しようと考えるようになり、やがて極秘裏にイギリスと「薩英同盟」を締結します。
そして、この同盟を機に、その頃の幕府の定めでご法度であった、「密航」を藩ぐるみ画策。藩内の厳しい選抜で14名もの俊英を選び、これに藩の監督官や通訳など5人を加えて、合計19名がイギリスに密航しました。
時は、1865年(元治2年)、全員が変名を使い、表向き藩主の御用で奄美大島方面へ出張と偽り、長崎のイギリス武器商人グラバー所有の蒸気船で鹿児島港を出港。香港で便船を乗り継ぎ、ジブラルタルを経て、2か月後の5月に英国サザンプトン港へ到着しました。
密航者の中には、のちに関西経済界の重鎮となる五代友厚(ごだいともあつ)などもおり、年齢も14~34才と幅広く、イギリスでは、軍事のほか、海軍測量、機械、文学、医学、化学、造船など多岐の学問を習得し、彼らが得た新知識は明治以降の文明開化に大いに貢献しました。
一方、薩摩藩のライバル、長州藩も1861~1864年の文久年間に5人の藩士をイギリスに秘密留学させています。これが有名な「長州ファイブ(5)」と呼ばれる面々で、その5人こそが、井上聞多、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔、野村弥吉です。
井上聞多は、のちの井上馨(外務卿、内務大臣等を経て侯爵)、伊藤俊介は、のちの総理大臣、伊藤博文です。野村弥吉も後年名前が変わって、井上勝と称するようになりますが、この人は鉄道発展に寄与し、日本の鉄道の父と呼ばれました。
遠藤謹助、山尾庸三の二人は他の三人ほど有名ではありませんが、遠藤謹助は明治政府で長く造幣局に勤め、明治14年には造幣局長となり、大阪造幣局の「桜の通り抜け」を造った人として知られています。
山尾庸三は、長州ファイブの中でも一番最後までイギリスに残っていた人で、1868年(明治元年)に帰国。帰国後に工部権大丞・工部少輔、大輔、工部卿など工学関連の重職を歴任し、のちの東京大学工学部の前身となる工学寮を創立。晩年は聾(ろう)を患う身体障害者の人材教育に熱心に取り組み、1880年(明治13年)に楽善会訓盲院を設立しました。
この長州ファイブは、五十嵐匠監督によって2006年に映画化され、第40回ヒューストン国際映画祭ではグランプリを受賞しており、山尾庸三役を松田優作の長男の松田龍平さんが演じて話題になりました。
この5人の秘密留学に際して、長州藩は費用として約5000両を用意したといいますが、これは現在の価値に換算すると5億円以上になります。いかに長州藩がこの5人に期待していたかわかりますが、その期待に応え、五人ともその後の新しい時代において大いに活躍しました。
薩摩や長州以外の藩から密航して、留学した有名人のひとりには「新島譲」もいます。のちにキリスト教の布教家となり、現在の同志社大学を興し、福澤諭吉らとならび、明治六大教育家の1人に数えられています。この六代教育家は以下のとおりです。
大木喬任:文部卿として近代的な学制を制定
森有礼: 明六社の発起代表人、文部大臣として学制改革を実施
近藤真琴:攻玉塾を創立、主に数学・工学・航海術の分野で活躍
中村正直: 同人社を創立、西国立志編など多くの翻訳書を発刊
新島襄: 同志社を創立、英語・キリスト教の分野で多くの逸材を教育
福澤諭吉: 慶應義塾を創立、法学・経済学を中心に幅広い思想家として著名
この中の新島譲は、上州(現群馬県)安中藩の人で、江戸生まれ。元服した際に友人からアメリカの地図書を見せられたことがきっかけで、アメリカの制度を知るようになり、アメリカに憧れを持つようになります。
その後、幕府の軍艦操練所などで洋学を学んでいましたが、ある日、アメリカ人宣教師が訳した漢訳聖書に出くわし「福音が自由に教えられている国に行くこと」を決意。
そしてアメリカ合衆国への渡航を画策し、備中松山藩の洋式船「快風丸」に乗って開港地の箱館へと向かい、箱館に潜伏。その折、当時ロシア領事館付の司祭だったニコライ・カサートキンと出会い、カサートキンによってより聖書に興味を持つようになります。
これに対して、カサートキンは自分の弟子になるよう勧めましたが新島はこれを拒否。アメリカ行きの強い意思は変わらなかったため、逆にカサートキンがその密航に力を貸すことになり、坂本龍馬の従兄弟である沢辺琢磨や福士卯之吉と共に密出国の計画を練るようになります。
1864年(元治元年)の6月、新島ら3人は、函館港から秘密裡に米船ベルリン号で出国します。上海でワイルド・ローヴァー号という別の船に乗り換え、船中で船長ホレイス・S・テイラーに「Joe(ジョー)」と呼ばれていたことから、以後アメリカではその名を使い始め、後年の帰国後も「譲」「襄」と名乗るようになります。
ちなみに新島の本名は、七五三太(しめた)といい、この名前は、新島の祖父が女子が4人続いた後に、初めて生まれたのが男子であったため、「しめた」と言ったためにそれがそのまま名前になったそうです。ずいぶんと安直なネーミングです。
翌年の1865年(慶応元年)7月にボストン着。ワイルド・ローヴァー号の船主、A.ハーディー夫妻の援助をうけ、フィリップス・アカデミーに入学。その後10年近くをアメリカで暮らすことになります。
1874年(明治7年)、アンドーヴァー神学校を卒業。同年10月、アメリカン・ボード海外伝道部の年次大会で日本でキリスト教主義大学の設立を訴え、5000ドルの寄付の約束を獲得。その後、ニューヨークに出て、当時開通していた大陸横断鉄道でサンフランシスコまで移動。ここから船で帰国の途につき、同年11月末に横浜に帰着。
この年は佐賀の乱で江藤新平が新政府に敗れて斬首された直後であり、その3年後には西郷隆盛らによる西南戦争も勃発するなど、明治になってから新政府の存続が危ぶまれる危機的事件が立て続けにおこる波乱の時期でした。
そんな中でも、旧主家の安中藩板倉氏の先祖である板倉勝重が京都所司代を務めたこともある関係で、新島家は公家華族とも広く親交があり、旧親幕藩が虐げられていた新政府の中においても、新島家は優遇されていました。
そして、新島が帰国後、公家華族の一人であった高松保実子爵の申し出によりそのお屋敷(高松家別邸)の約半部を借り受けることができることになり、京都府知事の槇村正直らの賛同も得て「官許学校」として、同志社英学校が発足。
後年、同志社大学となるこの学校の初代校長に就任しますが、開校時の教員は襄とJ.D.デイヴィスの2人、生徒は元良勇次郎、中島力造、上野栄三郎ら8人しかいなかったといいます。
このように、幕末の諸藩が自藩の藩士を密留学させたり、新島のように単独での密航者がいた中、幕府もまた幕府直参を留学させています。自らが海外への渡航を厳しく禁じていたにも関わらず、オランダやロシアなどへ官費留学生を送っており、とくに駐日イギリス公使パークスの勧誘に応じ、1866年(慶応2年)には、14名もの幕臣がイギリスへわたっています。
この渡航にあっては、選抜試験が行われたといいますが、幕臣の子弟の中にはコネを使って合格しようとした者もいたそうです。志願者は80名ほどもいたといいますが、その後幕府が瓦解し、薩摩や長州からの留学生が活躍する中、この留学から帰国した幕府留学生はあまり登用されていません。
薩長の力が強かったというよりも、腐りきった幕末の幕政の中で選ばれたボンクラ留学生ばかりで、新しい時代を担っていけるだけの人材がいなかったのではないかと思われます。
この幕府からの留学生は、その後幕府が新政府軍との戦闘に陥り、その後の海外生活が危ぶまれましたが、イギリスへ渡航した面々は、フランス・オランダへの留学生と共に戊辰戦争最中の慶応4年に無事帰国しています。
前述の新島譲が日本に帰国した明治7年、奇しくもこの同じ年にロシアから戻ってきたのが、「橘耕斉」です。
この橘耕斉の話は、長くなりそうなので、またいつか別の日にしたいとおもいます。あまり知られていない人物なのですが、ノーベル賞作家の川端康成も、昭和4年ころにこの人物について短い文章ではありますが、書き残しているということです。
そこには、明治政府が岩倉使節団を諸外国に派遣した結果、米では新島襄が、ロシアで橘耕斎が掘り出されたというようなことが書かれていたようです。
少し前に橘耕斎を主人公にした小説も出版されたそうで、山上藤吾著の「白雲の彼方へ:異聞・橘耕斎(光文社刊)」という本のようです。ネットで調べてみたところ、絶版になっているらしく入手できるかどうかはわかりませんが、もし入手可能ならばぜひ読んでみたいと思います。
今日のところはこれくらいにしたいと思います。外は雨。一日続くようです。おそらく富士の高嶺にも雪が降り積もっていることでしょう。白く降り積もって雪で化粧をした富士山が見れるであろう明日が楽しみです。