昭和と平成のはざまにて


めずらしく風邪をひいてしまい、昨日あたりから不調です。正月に出かけた初詣の際にもらってきたのかもしれません。みなさんもお気をつけください。

さて、25年前の今日、昭和天皇が崩御され、時代は昭和から平成へとバトンタッチされました。私はこのときまだハワイ大学の学生で、その前年末の期末試験が終り、短い冬休みのひとときを過ごしていたころでした。

このころ私は、外国人のルームメイト3人とルームシェアの形で大学近くにアパートを借りており、年末年始のことだったため、英米三人の他のルームメイトは、それぞれ帰省中で、アパートには私一人でした。

ホノルルには、Honolulu AdvertiserとHonolulu Star-bulletinという二大紙があるのですが、このアパートではHonolulu Advertiserのほうをとっており、いつものようにアパートの入口のドアの外に放り出すように置いてあったのを、ドアを開け、開いた瞬間に目に入ってきたのは、あの懐かしい昭和天皇のお顔でした。

第一面ほぼすべてが昭和天皇の肖像画という大きな扱いで、demise の文字をみたとき、何が起こったのか瞬間的にわかりましたが、それにしても、日本から遠く離れたこの地で、これほど大々的に報道されるほど、アメリカ人にとっても大事件なのだな、と思ったものでした。

無論、ハワイという土地柄は良しにつけ悪しきにつけ、日本とは関わり深い場所であり、古くは多くの日本人移民たちがこの地で未開の地を切り開いた歴史があり、また太平洋戦争には日本軍の奇襲攻撃によって多くのアメリカ人の命が奪われるという事件もありました。

それがゆえの新聞報道だなとも思いましたが、部屋に戻ってテレビをつけると、アメリカの多くのテレビ局もまた、この天皇崩御のニュースを大々的に扱っており、びっくりしたのを覚えています。

しかし、戦後40年以上も経ったあとのことでもあり、とくにかつての敵国のエンペラーの死を中傷するような報道もなく、むしろ、「時代の証人」がついに逝ったことを悼むような内容の報道が多かったように思います。

このときはハワイにいたため、逆に日本国内の報道ぶりについては預かり知るところではありませんでしたが、後年日本に帰ってきてからその喧騒がかなり過熱気味だったらしいことを知ることになりました。

昭和天皇が亡くなる前には、CMでは華々しい言動や映像はスポンサー各社とも控えるようにしていたとか、公的なものだけでなく私的なものも含めて多くの催し物が中止されたとか、病気平癒を祈るための記帳所が日本のあちこちに設けられて大勢の人が訪れたとかいうようなお話も日本に帰ってから知りました。

日本でこの「世紀の事件」を見聞きしたみなさんにとっては、とくに目新しいことではないのかもしれませんが、昭和天皇が亡くなるまでの経緯の詳細を良く知らない私にとっては、これらのことは回顧して確認しておきたい気持ちもあるので、以下にそのことを少しまとめさせてもらおうと思います。

記録によれば、昭和天皇の不調が公になったのは、亡くなる1年と8ヶ月ほど前の1987年(昭和62年)4月29日の天皇誕生日の祝宴の際、体調不良からこれを中座されたのが最初のようです。以後、体調不良が顕著となったという報道があいつぎ、とくにこの年の9月以降、病状は急速に悪化したとの報道がなされました。

9月19日には吐血されたと報じられ、その3日後の9月22日に歴代天皇で初めて開腹手術を受けられ、この結果天皇のご病気は「慢性膵臓炎」と発表されました。

この天皇吐血の事実は、その直後にすべての放送局が報道特番を組んで放送。不測の事態に備えてNHKが終夜放送を行ったほか、病状に変化があった際は直ちに報道特番が流され、人気番組でも放送が中止・中断されることもありました。

このころから、各マスコミは来るべき天皇崩御に備え、原稿や紙面構成、テレビ放送の計画など密かに報道体制を準備しており、そのなかで、来るべき崩御当日は「Xデー」と呼ばれるようになりました。

そんな中、一進一退を続ける天皇の病状や血圧・脈拍までもが定時にテロップ表示されたそうで、そこまでやる必要があったのか、と私的には驚くやらあきれるやらですが、そうまでして病状を知りたいと考えるほどこの天皇が愛されていたということなのでしょう。

9月時点ですでに「関係者の証言」として何等かの「癌」であることが一部の新聞などにリークされたりしていたようですが、後年の報道によれば、このとき、宮内庁・侍医団は天皇ご自身にはこの事実を告知していなかったといわれています。

このため、もし天皇がメディアに接するようなことが生じた場合を想定し、一般的なテレビ報道や全国紙では、具体的な病名を公表しないようにという「箝口令」が敷かれたようで、実際、この「癌報道」は崩御までほとんど報道されなかったそうです。

幸いにもこの最初の喀血のあとの手術の結果は良好だったようで、同年12月までにはかなり体力を回復され、このためその後一部の公務にも復帰されました。

しかし、術後から急激に体重が落ち、体力をなくされていったようで、そうした体調も時にニュースなどでとりざたされていましたが、しばらくの間はとくに緊迫した報道がなされることはなかったようです。

ところが、翌年の1988年(昭和63年)8月下旬以後、容態が再び悪化されたとの報道があいつぐようになります。おそらくは宮内庁関係者も今度はかなり厳しいぞと覚悟したためか、それまでの「箝口令」にもタガが緩んできたものと思われ、ひそかに天皇の「本当の御病状」についての報道も取りざたされるようになっていったようです。

天皇としての公務は、この年の8月15日に行われた、「全国戦没者追悼式」が最後の公式行事へのご出席となり、以後は御病状は悪化する一方であるとの報道があいつぎ、このため日本全国で「自粛」の動きが広がっていきます。

前述のように、各地に病気平癒を願う記帳所が設けられ、多くの人がこの記帳所を訪れましたが、最初の手術直後の病臥の報道から一週間で記帳を行った国民は235万人にものぼったそうで、最終的な記帳者の総数は900万人に達したといいますから、驚くべき数字です。

伊豆大島にもこの記帳所が設けられましたが、伊豆大島はこの前年に三原山噴火して大きな被害が出た場所であり、こうした中でさえも島民による記帳が行われたということからみても、いかに国民の多くが天皇の御病状を杞憂していたかかがわかります。

このほか、歌舞音曲を伴う派手な行事・イベントが中止またはその規模が縮小されましたが、中止や規模縮小を「余儀なくされた」という感覚ではなく、あくまでこれらは「自粛」であったことが、このときのフィーバーの特徴です。

こうした動きは公的なイベントだけではなく、時に結婚式や祝賀会などといった個人のイベントにもおよび、「自粛」は、1988年(昭和63年)の「世相語」としても取り上げられたほどでした。

大きなイベントの中には中止できないものもあり、1988年(昭和63年)の中日ドラゴンズのリーグ優勝においては、「祝勝会」が「慰労会」に名称変更されて実施されましたが、この時は予定されていたビールかけが中止になりました。

また、同年京都で行われた国体でも大会そのものは実施されましたが、花火の打ち上げなどの派手なイベントはやはり「自粛」されました。

このほか、実際に取りやめられたイベントとしては、「明治神宮野球大会」や「自衛隊観閲式」「自衛隊音楽祭」などの自衛隊行事などがあり、各国大使館・在日米軍基地などの諸外国機関でも、日本国民への心情へ配慮してイベントの自粛や規模縮小がなされたそうです。

これは、日本に帰ってきてからかなりあとに友人か誰かから聞いたのですが、日産自動車のセフィーロという車のCMでもこうしたことがあったそうです。

CMに起用された井上揚水さんが「みなさんお元気ですか~」という問いかけをにこやかにする、というシーンがあったのを、この「お元気ですか」の部分が失礼にあたるとされ、この部だけ「口パク」で流したというのですが、私はこれをビデオでもみていません。ご覧になった皆さんはどんな気分だったでしょうか。

このほかにも、トヨタがその乗用車販売で作ったポスターに「生きる歓び」というキャッチコピーがあったことから、このポスターを撤去したとか、派手なバラエティ番組を、映画や旅行番組に差し替えたり、百貨店でのディスプレイを地味なものに変更したとか、コマーシャルにおける「自粛」は枚挙のいとまもないほどだったようです。

地方における小イベントも自粛され、神社の「お祭り」が各地でみられなくなっただけでなく、このほかの伝統行事の中止や規模縮小が行われ、およそ「○○フェスティバル」「○○まつり」的なものはほとんどこの間自粛されたり、もしくは名称が変更されたりしました。

学校での学園祭や大学祭や、小・中学校における運動会、体育祭まで取りやめるところまであったそうで、今振り返ってみると、ここまでやる国民性というのはちょっと「異常」のようにも思えます。外国人の目にはどう映ったことでしょう。

確かに、アメリカのメディアも日本人のこの「異常さ」を新聞やテレビのニュースで時折流していたのを今思い出しましたが、もし私もこのとき日本国内にいれば、きっとその異常な空気に飲まれていたに違いありません。

そうした意味では、たまたまとはいえ、この時期の日本を客観的に見ることができる体験をしていたわけであり、今思えばこの体験は貴重なものであったといえます。

こうした自粛ムードは、天皇が亡くなる直前まで続いており、新年に配られる年賀状からは「賀」「寿」「おめでとう」の文字が消え、新年会ですら自粛されていたようですが、そうした状況がピークにも達したと思われる年明け7日になって、ついに昭和天皇が崩御されました。

1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分のことであり、のちに公表された正式な死因は、「十二指腸乳頭周囲腫瘍」であり、一般には「腺癌」と呼ばれるものでした。その享年87歳は、古き神代を除いては、歴代の天皇で最も長寿だったそうです。

崩御後、政府の藤森昭一宮内庁長官が「天皇陛下におかせられましては、本日、午前六時三十三分、吹上御所において崩御あらせられました。」と発表を行い、その月末の1月31日に、現在の今上天皇が、在位中の元号からとって亡くなった天皇を正式に「昭和天皇」と追号されました。

昭和天皇のご葬儀は、2月24日、新宿御苑において「大喪の礼」として行われたあと、八王子の武蔵野陵に埋葬され、このとき同時に愛用の品100点余りが副葬品として共に納められたといいます。

この昭和天皇の崩御にあたっては、1月7日未明の午前6時35分に「危篤発表」がなされましたが、実際にはこの発表の2分ほど前に天皇は逝去されていたことになります。

実際の「崩御」の発表があったのは、この1時間以上あとの午前7時55分であり、このときから翌1月8日終日までは、NHKの総合放送および民放各局すべてが特別報道体制に入りました。そして、崩御報道を受けてのニュースやあらかじめ制作されていた昭和史を回顧する特集、昭和天皇の業績を偲ぶ番組などが繰り返し放送されました。

この2日間はまったくCMは放送されなかったといいます。当然のことながら7日の新聞朝刊にはこの事件は間に合わず、通常のニュースや通常のテレビ番組編成が掲載されていましたが、同日昼過ぎまでには、各社とも号外を発刊し、また夕刊では各新聞ほとんどが最大級の活字で「天皇陛下崩御」の文字を掲載しました。

この夕刊では、天皇崩御が報じられたあとも通常放送を行っていたNHK教育放送のテレビ番組欄以外はほとんど「真っ白」状態だったそうで、この局以外のすべてのテレビ局が特別報道を行ったため、この間、多くの人々がレンタルビデオ店などに押しかけたそうです。

特別番組では「激動の昭和」という言葉が繰り返し用いられ、1月8日に日付が切り替わる直前には「昭和が終わる」ことに思いを馳せた人々が銀座和光の時計塔などの前で記念写真を撮ったり、皇居真の二重橋の前で日付変更の瞬間を待つ人々の姿などが報道されました。

1989年(昭和64年)1月7日のNHK朝の「ワイドニュース」の平均視聴率は32.6%にも達したそうで、続いての2月24日の「大喪の礼」のNHK「ニューススペシャル・昭和天皇大喪の日」の平均視聴率に至っては44.5%を記録したそうです。ちなみに、この日は土曜日であり、翌8日は日曜日であったことも視聴率を押し上げた要因だったようです。

昭和天皇が亡くなった直後にもまだ「自粛」ムードは当然あったようですが、この瞬間からむしろ人々の関心は、次の元号は何?という興味に早くも移りはじめ、時代が変わることに対する希望やら期待やらが渦巻いていきました。

昭和天皇の崩御当日には、現在の明仁天皇が即位されましたが、この当日にはまだ新しい元号は公表されませんでした。新しい元号は、「元号法」に基づき、その翌日の1月8日に公表されましたが、この新元号は元号法によって改元された最初の元号だそうです。

実はこの新元号である「平成」は、改元時に内閣総理大臣であった竹下登首相やそのとりまきの政府首脳が、その決定前から執心していたということを、現民主党最高顧問で、この当時自民党の国会対策委員長であった「渡部恒三」氏がのちに暴露しています。

こうした「噂」はこの当時の閣僚などを通じて結構外部に漏れていたようで、「平成」以外にも「修文」などの候補があることが外部に漏れ、三流紙や雑誌報道でそのことを知り、予想していた人たちもいたようです。

しかし、この当時内閣内政審議官で、現阿部内閣の内閣官房副長官に就任した「的場順三」氏が「元号は縁起物であり改元前に物故した者の提案は直ちに廃案になる」と発言したことなどから、平成が本当に新しい元号になるかについては疑問視する向きもあったようです。

この新元号の決定にあたっては、東京大学名誉教授で国文学者だった「宇野精一」氏、九州大学名誉教授で古典中国文学史が専門の「目加田誠」氏、ならびに東京大学名誉教授で東洋史学者の「山本達郎」氏などに政府から新元号提案の委嘱があったといわれ、このうちの目加田氏が「修文」を、宇野氏が「正化」を提案したようです。

そして、ノンフィクション作家の佐野一郎氏が「文芸春秋」における記事のためにその後山本氏へ行ったインタビューの中で、山本氏はこのことについては「ノーコメント」と答えており、この結果から佐野氏はどうやら「平成」の提案者はこの山本氏に間違いないだろうと述べています。

しかし、一方では非公式ながら、翌年の1990年(平成2年)1月に竹下登首相が講演を行った際、「平成」は陽明学者で、思想家であった「安岡正篤(まさひろ)」の案であったと述べています。

この安岡正篤という人は、戊辰戦争の際、新撰組の近藤勇を捕縛し斬首したことで知られる土佐藩士の「安岡良亮」の曾孫にあたるそうで、終戦時、昭和天皇自身によるラジオ放送の終戦の詔書発表(玉音放送)に加筆し原稿を完成させたことでも知られ、皇室からも厚い信頼を受けていた人物です。

2.26事件の首謀者だった西田税らに影響を与えた一人ともいわれ、元海軍大将の八代六郎や山本五十六、中華民国総統の蒋介石などとも親交があり、第二次世界大戦中には大東亜省顧問として外交政策などに関わりました。

数々の伝説を残し、政界・財界・皇室までもが安岡を頼りにしていたといわれることから「昭和最大の黒幕」と評され、戦後の歴代総理に「日本の黒幕はだれか?」と聞けばほとんどの首相が安岡正篤の名前を挙げたといいます。

しかし、安岡正篤は、昭和天皇崩御前の昭和58年に亡くなっており、竹下首相の発言とはいえ、彼の発案ということはあり得ない、という意見もあります。

ただ、歴代の首相が大きな影響を受けるほどの人物であったならば、生前から竹下首相がこの安岡氏に、次の元号は平成にせよと言い含められていたと考えることもできます。しかし、竹下氏をはじめとする関係者の多くが亡くなっており、事実はここでもまた歴史の闇の中の話となりそうです。

こうした事実があったかどうかは別とし、表向きには、政府は昭和天皇崩御を受け、その当日の1989年(昭和64年)1月7日の午後、8人の有識者で構成される「元号に関する懇談会」が開かれ、その結果として衆参両院正副議長に「平成」「修文」「正化」の3つの候補が示され、各委員にこれに対して意見が求められました。

その際、委員のひとりから「修文(しゅうぶん)」「正化(せいか)」の2候補はローマ字表記の頭文字が「昭和」と同じ「S」になるので不都合ではないかという意見が出たため、この結果全員一致で「平成」に決まったと伝えられています。

頭文字のアルファベットが決め手となったというこの話は結構説得力のある話であり、国際社会の一員として名乗りを上げている日本としては当然の配慮でもあります。が、前述したようにこの会議に先立って既に裏側では「平成」にしようと決められていたとすれば、この表向きの会議はとんだ茶番劇だったということになります。

いずれにせよ、同日14時10分から開かれた臨時閣議に於いて新元号を「平成」にすることが正式に決定。14時36分、内閣官房長官・小渕恵三が記者会見で発表されました。

のちに「平成のおじさん」とあだ名され、この10年後に総理大臣となり、その就任からわずか2年後に脳こうそくで亡くなる小渕恵三氏が、「新しい元号は「平成」であります」と言いながら新元号「平成」を墨書した台紙を示す姿はその後何度もテレビ放映されたため、私もみたことがあります。

同日、「元号を改める政令」(昭和64年政令第1号)が、新天皇の允裁(いんさい)を受けた後、官報号外によって公布され、翌1月8日から施行されました。また、「元号の読み方に関する件」(昭和64年内閣告示第6号)が告示され、新元号の読み方が「へいせい」であることが明示されました。

大正と昭和の際には、元号の改正の発表が行われた当日に「改元」が行なわれましたが、平成の改元では発表の翌日に施行された背景としては、平成の場合、大正や昭和の際に比べると文書事務がかなり煩雑化しており、ワードプロセッッシングをはじめとする政府OAシステムへの入力やプログラム等の変更を行うためなどの事情があったようです。

従って、昭和の時代は、平成の元号発表のあった昭和64年1月7日までであり、平成のスタートは平成元年1月8日となり、明日、2013年1月8日が、その「25周年目」にあたるということになります。

この「平成」の名前の由来については、後日詳しいことが報道などから伝えられました。そもそもは、中国の歴史書の「史記」に「内平外成(内平かに外成る)」ということばがあり、また「書経」にも「地平天成(地平かに天成る)」ということばがあるそうで、その意味は、「内外、天地とも平和が達成される」です。

日本において元号に「成」が付くのはこれが初めてだそうで、「大成」(北周)や「成化」(明)など、中国の年号や13代天皇の「成務天皇」の諡号(しごう)にも使用されており、「平成」は慣例に即した古典的な元号といえるのだそうです。

江戸時代最末期、「慶応」と改元された際にも別案に「平成」があったそうで、出典も同じ「史記」「書経」であったことが記録されています。

ただ、これを元号として使うことに反対する向きもあったそうで、その根拠は、「保元・平治の乱」のあった「平治」以来、「平」で始まる元号がないのは、平治がこの戦役によって混乱した時代であったためであるというものです。

これ以降、「平」で始まる元号はこれを避けることが慣例になっていたとされ、また、「平」「成」の文字の中に「干(=楯)」「戈(=鉾)」があり「干戈(戦争を意味する)」にも通じるということを指摘する古人もいたということです。

八世紀には「平城天皇」という人がおり、この人は「薬子の変」という政争の末敗れて失脚しており、この「平城」と「平成」は一文字違いである点を懸念する学者などもいたようです。

昨今、新政権の阿部内閣は右寄りの傾向の強い内閣であると取沙汰される向きもあり、この後もしばらくは続くであろうこの平成の時代に、こうした懸念が現実にならないことを祈りたいものです。

なお最終案まで残ったという「平成」「修文」「正化」の他にも、「文思」「天章」「光昭」などの案も存在したと言われ、もしこれらが採用されていたら、その元号のイニシャルはそれぞれB.T.Kとなります。

明治大正昭和のM.T.S.と重ならないのは、このうちの「文思」のBと「光昭」のKであり、もし平成が採用されなかったらこれらが今の元号として採用されていたかもしれません。

少々不埒かもしれませんが、今上天皇もかなりご高齢になっていることですから、もしかしたら関係者の中では、こうした新元号が既に取りざたされ始めているのかもしれません。

さて、年改まって平成25年となった今年はどんな年になるでしょうか。

天皇の在位中、これまでのところ日本が戦争に巻き込まれることなく経過してきた時代は、近代においては今回が初めてのこととなりますが、その平和がいつまでも長く続いていくことを願ってやみません。

今年も今上天皇のご健勝をお祈りしたいと思います。

大正天皇のこと


先週、秋の深まる中、修善寺温泉街の紅葉はどうなっているだろうかと気になっていたので行ってみることにしました。案の定、紅葉まっさかりで、いつもは閑静な温泉街も多くの観光客で賑わっていました。

こんなに紅葉がきれいなときに温泉街に足を踏み入れるのは初めてです。もともとひなびてしっとりとした落ち着きのある温泉街の中にあって、各所に植えてある鮮やかな紅葉はより引き立ってみえ、なかなか良い風情です。

町の中心にある修禅寺の中にも足を踏み入れてみましたが、ここの紅葉もまた見応えがありました。ふと、お堂のほうをみると、お寺の係?の方が何やら呼び込みをしています。なんだろうなと、思って近寄ってみると、どうやらお寺の本堂の右手にある方丈(離れ)の庭を特別公開しているので、いかがですか、と言っているようです。

聞くと、一年に一度しか公開していないそうで、正式名称は「東海第一園」というのだとか。明治40年に大正天皇が皇太子だった時「東海第一の庭園である」と激賞したことから名づけられたそうです。

方丈のほうが現在のかたちに整えられたのは、明治の終わりのころのようです。この建物はこのブログでも前に取り上げた三島の「楽寿園」にあった皇族の小松宮彰仁親王の別邸を明治38年に修善寺が拝領し、移築して修禅寺方丈及び書院としたのだとか。

庭のほうは、達磨山山麓から水を引き、大小の岩を積み、滝や池を造り、背後の山を借景とした小規模ながら奥行きと高低の変化に富んだ回遊式庭園で、前述のとおり大正天皇に絶賛され東海第一園という名前になりました。

下賜された建物はオリジナルものではなく、老朽化のため昭和の終わりに建てかえられたそうですが、庭園は当時のままの姿で残っていて、時折公開されているようです。

たまたまの巡り会わせとはいえ、数少ない公開の機会に遭遇するというのもなかなかないこと。早速、維持奉仕料?でしたか、200円を支払って中へ入れてもらいました。

中に入るとなるほど、紅葉の見事な庭園でした。規模はそれほど大きくはないものの、南側に面した山の斜面をうまく利用してモミジ類や松などの多くの樹木が植えられており、達磨山から引いたという水を山水のように上から流して滝の風情をつくり、その下には小さな池が拵えてあります。

回遊式になっているということで、入口から右手のほうを回って山の上の方へ行き、また入口まで帰ってくるという形式で、小さいながらも各所でいろんな景色が楽しめる工夫がこらされています。

東海第一?かどうかはわかりませんが、なかなかのもの。ここでも良い写真がたくさん撮れましたのでその一部をこのブログでも紹介しておきます。

ところで、この庭園を絶賛したという大正天皇ってどんな人だろう、と気になったので調べてみました。一般的なイメージとしては、その在位がわずか15年ということもあり、病弱でひ弱な天皇たったという印象ですが、実際にはどんな人だったのでしょう。

明治天皇はかくしゃくとした武人のイメージ、昭和天皇は学者然としたイメージがありますが、大正天皇といわれるとどうもイメージがわきにくい、というのは私だけではないでしょう。

ただ単にイメージが薄いというだけではなく、先天性なのか後天性なのかはよくわかりませんが、精神的な障害、あるいは知的な遅れ、発達遅滞を伴った人であったのではないかという評価もかねてからあるようです。

この評価は不確かなものではありますが、大正時代のその当時も国民全体が「なんとなく」そうらしいと感じてはいたものの、こうした評価は不敬罪に相当するということでなかなか表に出てくるものではなかったもののようです。

とくに、幕末維新を実現してきた新政府にとっては、そうした評価が一般化することで、明治天皇の時代に40年以上の歳月をかけて作り上げてきた富国強兵を目的とする近代天皇制度が、二代目早々にして根底から覆るような事態になることは極力避けたかったはずです。

このため、大正天皇がどういうご病気だったのかについては、ほとんどの発表がされておらず、後の昭和天皇が即位可能な年齢に達するや否や、大正天皇の意に反して強引に引退させ、このため大正天皇は失意のうちに没したというのではないかという推測もあるほどです。

そして、日露戦争の勝利などを修めた「栄光の明治」の再来ともいえる「昭和」が訪れたとき、政府は意図して大正時代を忘却する施策をとり、新たなる戦争に突入していく中、人々は意図として大正を忘れ去ろうとしたのではないか、とまでいう向きもあるようです。

そもそも、大正天皇が精神的な障害や知的な遅れがあったのではないかと言われる素因となったのは「遠眼鏡事件」というものがそのひとつのようです。

遠眼鏡事件とは、大正天皇が即位後に、ある国会開会の詔書を読み上げる前に、丸めた詔書をまるで子供がよくやるように望遠鏡のようにし、議員たちをのぞきこんでいたというものです。これについては諸説が飛び交いましたが、後年このことがあったことから、やっぱり大正天皇は頭がおかしかったのだ、知恵遅れに違いないという意見が大勢を占めました。

ところが、詔書というものはもともと丸めてあるものだそうで、それを再び丸めるのは別におかしくないそうです。

実際には、そのころ既に病気により指先や言語が不自由になっていたという天皇が、一度別の国会で苦労して丸まっていた詔書を開いたらなんと逆さまだったという事があったので、その際には開く前にちょっと覗いて向きを確かめようとしたのではないかといわれています。

ところがたまたまそれを覗いたのが悪く、しかも傍からみれば議員たちを覗き見るようにみえたことから、それがまた巷間を駆けめぐり、ああ、陛下は、やはりお可哀相に御脳が……となったのではないか、と思われます。

もともと子供のころから体が弱かったため、こうしたお身体が云々という噂に加えて、御脳も云々というような噂が流れ、さらに尾ひれハヒレがついて巷間を駆けめぐるようになったようです。

が、後述するように、この天皇はかなり庶民の間では人気があり、逆の見方をすれば当時の人々は健康を気づかうほど大正天皇へ親近感を抱き、身近に感じていたということでもあり、こうした風潮は厳格な軍人でもあった明治天皇のときには絶対に見られなかった事だということです。

では病気がちで御脳の悪い?大正天皇がどうしてそんなに人気があったのでしょうか。それを語る前にまずその前半生をみていきましょう。

大正天皇は、正式には「明宮嘉仁(はるのみやよしひと)」といいます。1879年(明治12年)の8月31日に、明治天皇の側室、柳原愛子を母として生まれました。

生まれたときに既に全身に痣があるなどの異常があったそうで、また新生児の多くは頭がい骨が完全にはくっついていないなどの不完全な状態で生まれてくるものですが、大正天皇の場合にはその頭骨に通常とは明らかに異なる異常があり、普通の新生児にくらべてかなり頭がとんがっていたようです。

これは事実のようで、幼少のころの大正天皇の写真をみると子供にしては異様に顔がひょろ長く、失礼ながらピーナッツのような形の頭をされています。

その後成長する際にも常に何かを吐いていたという話もあり、病気がちでいつ死んでもおかしくないといわれるほど虚弱な体質だったそうですが、奇跡的に持ちこたえて成長されました。

しかし、その後学習院に入るようになるほど大きくなっても相変わらず虚弱で、いつも病気がちだったといい、そのうちのもっとも大きな病気といわれるのが髄膜炎です。

髄膜炎(ずいまくえん)というのは、脳の髄膜下腔というところに病原菌によって炎症が生じる病気で、乳児や幼児、学童がよくかかる病気です。大人でも高齢者や免疫力が低下した人がかかりやすいそうで、症状としては、発熱や頭痛のほか意識障害を起こすといいます。

後年の大正天皇の奇矯?は、この子供のころにかかった髄膜炎が何十年も後になって、後遺症として現れたのではないかと当時の人々は考えていたようですが、そうした菌が何十年も持ち越すということはありえないそうです。が、こうした病気をかこったことが天皇の御脳が……といわれるようになった要因のひとつであることはまちがいなさそうです。

大正天皇は8歳のときに学習院に入学しました。学習院時代には侍従にせがんで軍隊の背嚢を背負って登校したため、この「軍隊の背嚢」がランドセルの原型となったといわれています。

しかし、健康に優れず学業に集中できなかったこと、学習院の厳しい規則に馴染めなかったことなどから、留年することも多く、1889年(明治22年)からは熱海への保養が毎年の恒例になったといいます。

1889年(明治22年)、10才のとき、皇室典範の制定により皇太子となり、立太子礼を受けます。しかし学習院での学習は一向に進まず、乗馬などに進歩があった一方で、数的な理解や状況把握の能力に乏しかったといわれ、とくに理数系の教科が苦手だったそうです。

1894年(明治27年)には、健康状態から学業を続けることが困難であるとして、学習院を中退。その後は赤坂離宮で数人の教師によるマンツーマンの授業を受けました。この時重視された教科は、フランス語、国学、漢文であり、特に漢文を教えた川田甕江(かわだおうこう、幕末明治の漢学者)からは大きな影響を受け、漢文を趣味としたといいます。

得意とする漢詩の内容は文学的価値というより情景描写に徹したものが多かったようですが、普通の人もさることながらましてや脳に障害があるような人物が漢詩などそうそう簡単につくれるはずもありません。

このことから、幼少時から頭が云々という噂は根も葉もない噂であることであることがわかります。残された書などもあるようで、これもかなり達筆だそうですから、少なくとも手などに障害があったなどということはなさそうです。

その「ご勉学」のご成績も中の下か下の上程度だったようで、けっして傑出しているというような成績ではないものの特に異常はみられないといいます。

しかし情緒面では、発達にやや遅れがあったらしく、このため長じても落ち着きが無く、ひとつのことに集中することが大の苦手であり、思ったことをすぐさま口に出すのが癖だったそうです。そしてこの性癖は結局、死ぬまで治らなかったようです。

こうした人物であったことから、おそらくは成人しても明治天皇の跡取りとしての自覚や国父としての役割、ましてや陸海軍の総帥であるというような認識はなかったのではないかといわれています。

実際、明治天皇をはじめとする、国家要人や宮中の要人の多くも、皇太子の将来にハラハラし通しだったようであり、この当時は皇太子の将来がすなわち日本帝国の将来と考えられていたわけですから無理もないことではあります。

ところが、この大正天皇は、その父の明治天皇が絶対に国民の前で口を開かなかったのに対し、実によく公の前に姿を現して発言し、あるときには親しげに一般市民にも声をかけることが多かったといいます。

そうした事実を新聞各社が驚きを持って掲載するのを自らスクラップして楽しんでいたという逸話もあり、一般人からみれば気さくで酔狂な貴人と映ったようです。実際に身近にあって直接接する誰にも親近感をわかせる雰囲気があり、いわゆる「庶民派」といえる天皇でした。

また、それまでの明治天皇は子孫を残すために側妾を持つのが普通だったのに対し、大正天皇はこれを持とうとしませんでした。制度上一夫一婦制となるのは昭和天皇からですが、大正天皇はこの制度が整う前からこれを実践した初めての天皇ということになります。

家族思いで、子どもらと相撲を取り、家族団欒の夕食をとったといい、馬とワインとたばこが大好きだったようです。東宮(皇太子の住む宮殿)に住んでいたころは、夕食後皇太子妃のピアノを伴奏に酔ってよく歌を歌っていたという逸話もあり、天皇になってからは、ビリヤードを慰みにしていたそうです。

これに対して昭和天皇は、こうした庶民派の大正天皇を「反面教師」とし、徹底的に厳しくしつけられたということです。昭和天皇の思慮深く、物事に動じず、徹頭徹尾、公の場では自己意見を封殺し機関としての天皇に徹する重々しい口ぶりは、その幼少のころに学習院の院長であった元帥の乃木希典によって教育され、形成されたといいます。

昭和天皇のこうした資質は現在の平成天皇にも引き継がれており、そうした意味ではこの大正天皇の庶民的な振る舞いが転じて昭和以降の厳格なる天皇制が形づくられていったといえるかもしれません。

大正天皇はその皇太子時代、既に高齢だった明治天皇の名代として、国威発揚のために全国を9回も行啓しています。沖縄を除く全地方を回った上、この当時はまだ大韓帝国であった韓国も訪問しています。

韓国では、その後来日して日本に住むようになる李王朝の皇太子李垠(りぎん)を気に入り、自ら朝鮮語を勉強しています。この李垠が日本で別荘として持つようになるのが三島で小松宮彰仁親王が所有していた楽寿園であり、そこにあった建物が修禅寺の方丈として移築されたのは前述のとおりです。

この修善寺にできた書院兼方丈の庭を「東海第一園」と命名したのは大正天皇であり、詳しいことはわかりませんが、これはこの方丈が大正天皇と親しかった李垠が所有していた楽寿園の邸宅の一部であったことと何等かの関係があるのではないかと思われます。

大正天皇は、皇太子時代の22歳のときに結婚しています。この結婚により精神的に落ち着きがみられ、体力も向上したといわれ、またこのころから頻繁に行うようになっていた各地への行啓においても気分転換が図られ、眼に見えて壮健になっていったといいます。

明治天皇の信頼が厚く海軍軍人(海軍大将)でもあった有栖川宮威仁親王や、のちに総理大臣となる原敬など、理解人を得た事も幸いしているといわれています。皇太子時代から巡啓に同行するなど近しい立場にあった原敬は、「気さく」で「人間味あふれる」「時にしっかりとした」人物像を「原敬日記」に記しているそうです。

皇太子嘉仁親王として、まさにこの明治後半の行啓時代が、まさに人生で最も輝いていた時期だったことは間違いなさそうです。

そんなふうに病弱であった幼少時から一変した生活を送るようになっていた皇太子時代ですが、不摂生により体調を崩していた明治天皇が急に崩御。これを受けて1912年7月30日に践祚(せんそ)。年号は明治から「大正」に改元されます。そして3年後の1915年(大正4年)に京都御所で即位の礼を行ない皇太子嘉仁は正式に「大正天皇」となりました。

もともと政治的な感覚に乏しく、どちらかといえば自分の世界だけに生きがいを見出そうとしていた大正天皇にとって、この新たな生活が楽しいわけはなく、せっかく皇太子時代におう歌しかけていた「青春時代」は奪われ、分刻みの過酷なスケジュールはやがて体調や精神状態を崩す要因となっていきました。

1917年(大正6年)には、立憲政友会などの政党政治に反対する山縣有朋への反感から枢密院議長の辞任を迫るという「事件」をひきおこし、寺内内閣がそれを押しとどめるということもありました。

第3次桂内閣では桂太郎の言うがままに詔勅を次々と渙発させられ、父明治天皇と異なり政治的な判断が苦手であることが国民の目からも明らかとなっていきました。

御用邸での休暇時には、ヨット、乗馬や漢詩作りに癒しを求めていたようですが、第一次世界大戦による国際情勢とその中における日本の立場の大きな変化は、僅かばかり残された大正天皇の自由をさらに奪っていくことになります。

1917年(大正6年)頃からは、公務や心労が病の悪化に輪をかけ、公務を休むことが多くなり、1919年(大正8年)には食事をとることも勅語を読むこともできなくなるほど病状は悪化していきます。

そして、1921年(大正10年)11月25日、当時20歳だった皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)が摂政に就任することで大正天皇は事実上の退位となり、宮内省発表による「天皇陛下御容體書」によって病状は公にされる運びとなりました。

これに先立つ公務では、前述の「遠眼鏡事件」などもあり、このほかにも宮廷内の公式儀式で三種の神器を受け取る際、江戸生まれの老臣を前にボロボロと涙をこぼすという奇矯を見せており、周囲の目にもその異常ぶりは明らかでした。

公務後半では、言語だけでなく、手先や足元も不自由なっており、ついには御用所に引きこもりになったため、やむなく裕仁皇太子が摂政になったわけですが、その際も、大正天皇自身は、自分はまだまだ大丈夫で、治って、公務をこなせると思っていたフシがあるそうです。

事実かどうかはわかりませんが、そうした大正天皇をみて周囲は、半ば強引に、詔勅の印鑑を取り上げたといわれています。

その後は日光・沼津・葉山と転地療養を続けていましたが、1926年(大正15年)11月に病状が極度に悪化し、同年12月25日午前1時25分、静養中の葉山御用邸において崩御。

この際には長く会えなかった実母の柳原愛子(二位局)の手を握ったまま亡くなったそうで、御年47才。臨終の床に生母を呼んだのは皇后の配慮だったといわれています。

その死は、このころ軍国主義をひたすらまい進していた政府にとってはむしろ好都合だったようです。偉大なる明治の復活をとげ、富国強兵復活の昭和キャンペーンを張るためにはむしろ時代に逆行するような言動と行為を繰り返していた大正天皇の死を好機ととらえる向きも多かったのです。

そしてそれを象徴するかのようにやがて世界情勢は日本帝国を孤立化させていき、やがて5・15事件や2・26事件などの軍部の暴走が始まっていきました。

この亡くなった大正天皇の病気はいったい何だったのか、というのは誰しもが気になるところです。幼児期の髄膜炎の再発でなかったとすれば、何が原因だったのでしょうか。

これについては現在までに公表されている皇室資料にもその病因を特定できるに至る詳しいものはないようであり、また、大正時代といえば現代に比べればはるかに医学が未発達の時代です。極論すれば現代明らかに病気であると特定されているような病気さえも単なる感冒程度に考えられていた時代のことです。

このため、はっきりとした特定はできないようですが、多くの医学関係者は過度のストレスによる神経衰弱と、身心の失調、喪失、それが元による抵抗力の低下、そして公務による心労の重なりが原因ではなかったかと指摘しているようです。

これらに加え細菌等感染症等が合併症を併発し、これにより神経症や弱度の脳溢血を起こしたのではないかと指摘する医者もおり、事実、宮内省の発表では「脳貧血」という表現が使われているそうです。

こうした状況下では記憶や言語に障害が見られ、手足も次第に麻痺し、ついには寝たきりとなることが多いそうです。裕仁皇太子が摂政となるころには既に言語は明瞭ではなく、アー、アーといった程度しかしゃべれなかったという話もあります。ただ、最後の直接の死因は、肺炎による心臓麻痺ということです。

ただ、以上のことから、その後巷で噂されるような精神失陥がもとよりあった、というわけではないらしく、現代の天皇のように公務に入られる際にはその激務を考慮して細かい配慮がなされていれば、もう少し長生きされたのではないかと考えられます。

こうした事実関係をみてくると、明治天皇やその後の天皇は軍神、あるいは「現人神」として崇めたてられましたが、この大正天皇はその二人の間に挟まれ、本来の自分とはかなりかけ離れた役割を担わされた悲劇の天皇というふうに考えることもできます。

その皇太子時代を見る限りはかなり庶民的な人であり、天皇となってもかなりリベラルな行動をとっており、それであるからこそ「大正デモクラシー」といわれる自由な雰囲気も生まれたのだと考えられます。この時代を象徴する「人物」ともいえ、戦後の今の時代であればもっと人気の高い天皇となっていたかもしれません。

明治と昭和の境といいうその時代にあって現代の皇室よりもむしろある意味開かれた皇室であったのではないかという気さえしてきます。

なにはともあれ、いろいろ調べてきて御脳が……といわれるような人物ではなかったことだけは確かそうです。そうした「汚名」が少しでも晴れたなら亡くなった大正天皇にも喜んでいいただけるように思います。

歴史というものは偏見を持たず事実のままに見つめていくことが大事だと思います。もしかしたらほかにも、後世の人々の誤解により実際とは異なる評価が定着してしまっている人物がいるかもしれません。そうした人物に気付いたらまたこのブログで取り上げてみたいと思います。そうすることがその人物の供養にもつながるわけですから。