昭和と平成のはざまにて


めずらしく風邪をひいてしまい、昨日あたりから不調です。正月に出かけた初詣の際にもらってきたのかもしれません。みなさんもお気をつけください。

さて、25年前の今日、昭和天皇が崩御され、時代は昭和から平成へとバトンタッチされました。私はこのときまだハワイ大学の学生で、その前年末の期末試験が終り、短い冬休みのひとときを過ごしていたころでした。

このころ私は、外国人のルームメイト3人とルームシェアの形で大学近くにアパートを借りており、年末年始のことだったため、英米三人の他のルームメイトは、それぞれ帰省中で、アパートには私一人でした。

ホノルルには、Honolulu AdvertiserとHonolulu Star-bulletinという二大紙があるのですが、このアパートではHonolulu Advertiserのほうをとっており、いつものようにアパートの入口のドアの外に放り出すように置いてあったのを、ドアを開け、開いた瞬間に目に入ってきたのは、あの懐かしい昭和天皇のお顔でした。

第一面ほぼすべてが昭和天皇の肖像画という大きな扱いで、demise の文字をみたとき、何が起こったのか瞬間的にわかりましたが、それにしても、日本から遠く離れたこの地で、これほど大々的に報道されるほど、アメリカ人にとっても大事件なのだな、と思ったものでした。

無論、ハワイという土地柄は良しにつけ悪しきにつけ、日本とは関わり深い場所であり、古くは多くの日本人移民たちがこの地で未開の地を切り開いた歴史があり、また太平洋戦争には日本軍の奇襲攻撃によって多くのアメリカ人の命が奪われるという事件もありました。

それがゆえの新聞報道だなとも思いましたが、部屋に戻ってテレビをつけると、アメリカの多くのテレビ局もまた、この天皇崩御のニュースを大々的に扱っており、びっくりしたのを覚えています。

しかし、戦後40年以上も経ったあとのことでもあり、とくにかつての敵国のエンペラーの死を中傷するような報道もなく、むしろ、「時代の証人」がついに逝ったことを悼むような内容の報道が多かったように思います。

このときはハワイにいたため、逆に日本国内の報道ぶりについては預かり知るところではありませんでしたが、後年日本に帰ってきてからその喧騒がかなり過熱気味だったらしいことを知ることになりました。

昭和天皇が亡くなる前には、CMでは華々しい言動や映像はスポンサー各社とも控えるようにしていたとか、公的なものだけでなく私的なものも含めて多くの催し物が中止されたとか、病気平癒を祈るための記帳所が日本のあちこちに設けられて大勢の人が訪れたとかいうようなお話も日本に帰ってから知りました。

日本でこの「世紀の事件」を見聞きしたみなさんにとっては、とくに目新しいことではないのかもしれませんが、昭和天皇が亡くなるまでの経緯の詳細を良く知らない私にとっては、これらのことは回顧して確認しておきたい気持ちもあるので、以下にそのことを少しまとめさせてもらおうと思います。

記録によれば、昭和天皇の不調が公になったのは、亡くなる1年と8ヶ月ほど前の1987年(昭和62年)4月29日の天皇誕生日の祝宴の際、体調不良からこれを中座されたのが最初のようです。以後、体調不良が顕著となったという報道があいつぎ、とくにこの年の9月以降、病状は急速に悪化したとの報道がなされました。

9月19日には吐血されたと報じられ、その3日後の9月22日に歴代天皇で初めて開腹手術を受けられ、この結果天皇のご病気は「慢性膵臓炎」と発表されました。

この天皇吐血の事実は、その直後にすべての放送局が報道特番を組んで放送。不測の事態に備えてNHKが終夜放送を行ったほか、病状に変化があった際は直ちに報道特番が流され、人気番組でも放送が中止・中断されることもありました。

このころから、各マスコミは来るべき天皇崩御に備え、原稿や紙面構成、テレビ放送の計画など密かに報道体制を準備しており、そのなかで、来るべき崩御当日は「Xデー」と呼ばれるようになりました。

そんな中、一進一退を続ける天皇の病状や血圧・脈拍までもが定時にテロップ表示されたそうで、そこまでやる必要があったのか、と私的には驚くやらあきれるやらですが、そうまでして病状を知りたいと考えるほどこの天皇が愛されていたということなのでしょう。

9月時点ですでに「関係者の証言」として何等かの「癌」であることが一部の新聞などにリークされたりしていたようですが、後年の報道によれば、このとき、宮内庁・侍医団は天皇ご自身にはこの事実を告知していなかったといわれています。

このため、もし天皇がメディアに接するようなことが生じた場合を想定し、一般的なテレビ報道や全国紙では、具体的な病名を公表しないようにという「箝口令」が敷かれたようで、実際、この「癌報道」は崩御までほとんど報道されなかったそうです。

幸いにもこの最初の喀血のあとの手術の結果は良好だったようで、同年12月までにはかなり体力を回復され、このためその後一部の公務にも復帰されました。

しかし、術後から急激に体重が落ち、体力をなくされていったようで、そうした体調も時にニュースなどでとりざたされていましたが、しばらくの間はとくに緊迫した報道がなされることはなかったようです。

ところが、翌年の1988年(昭和63年)8月下旬以後、容態が再び悪化されたとの報道があいつぐようになります。おそらくは宮内庁関係者も今度はかなり厳しいぞと覚悟したためか、それまでの「箝口令」にもタガが緩んできたものと思われ、ひそかに天皇の「本当の御病状」についての報道も取りざたされるようになっていったようです。

天皇としての公務は、この年の8月15日に行われた、「全国戦没者追悼式」が最後の公式行事へのご出席となり、以後は御病状は悪化する一方であるとの報道があいつぎ、このため日本全国で「自粛」の動きが広がっていきます。

前述のように、各地に病気平癒を願う記帳所が設けられ、多くの人がこの記帳所を訪れましたが、最初の手術直後の病臥の報道から一週間で記帳を行った国民は235万人にものぼったそうで、最終的な記帳者の総数は900万人に達したといいますから、驚くべき数字です。

伊豆大島にもこの記帳所が設けられましたが、伊豆大島はこの前年に三原山噴火して大きな被害が出た場所であり、こうした中でさえも島民による記帳が行われたということからみても、いかに国民の多くが天皇の御病状を杞憂していたかかがわかります。

このほか、歌舞音曲を伴う派手な行事・イベントが中止またはその規模が縮小されましたが、中止や規模縮小を「余儀なくされた」という感覚ではなく、あくまでこれらは「自粛」であったことが、このときのフィーバーの特徴です。

こうした動きは公的なイベントだけではなく、時に結婚式や祝賀会などといった個人のイベントにもおよび、「自粛」は、1988年(昭和63年)の「世相語」としても取り上げられたほどでした。

大きなイベントの中には中止できないものもあり、1988年(昭和63年)の中日ドラゴンズのリーグ優勝においては、「祝勝会」が「慰労会」に名称変更されて実施されましたが、この時は予定されていたビールかけが中止になりました。

また、同年京都で行われた国体でも大会そのものは実施されましたが、花火の打ち上げなどの派手なイベントはやはり「自粛」されました。

このほか、実際に取りやめられたイベントとしては、「明治神宮野球大会」や「自衛隊観閲式」「自衛隊音楽祭」などの自衛隊行事などがあり、各国大使館・在日米軍基地などの諸外国機関でも、日本国民への心情へ配慮してイベントの自粛や規模縮小がなされたそうです。

これは、日本に帰ってきてからかなりあとに友人か誰かから聞いたのですが、日産自動車のセフィーロという車のCMでもこうしたことがあったそうです。

CMに起用された井上揚水さんが「みなさんお元気ですか~」という問いかけをにこやかにする、というシーンがあったのを、この「お元気ですか」の部分が失礼にあたるとされ、この部だけ「口パク」で流したというのですが、私はこれをビデオでもみていません。ご覧になった皆さんはどんな気分だったでしょうか。

このほかにも、トヨタがその乗用車販売で作ったポスターに「生きる歓び」というキャッチコピーがあったことから、このポスターを撤去したとか、派手なバラエティ番組を、映画や旅行番組に差し替えたり、百貨店でのディスプレイを地味なものに変更したとか、コマーシャルにおける「自粛」は枚挙のいとまもないほどだったようです。

地方における小イベントも自粛され、神社の「お祭り」が各地でみられなくなっただけでなく、このほかの伝統行事の中止や規模縮小が行われ、およそ「○○フェスティバル」「○○まつり」的なものはほとんどこの間自粛されたり、もしくは名称が変更されたりしました。

学校での学園祭や大学祭や、小・中学校における運動会、体育祭まで取りやめるところまであったそうで、今振り返ってみると、ここまでやる国民性というのはちょっと「異常」のようにも思えます。外国人の目にはどう映ったことでしょう。

確かに、アメリカのメディアも日本人のこの「異常さ」を新聞やテレビのニュースで時折流していたのを今思い出しましたが、もし私もこのとき日本国内にいれば、きっとその異常な空気に飲まれていたに違いありません。

そうした意味では、たまたまとはいえ、この時期の日本を客観的に見ることができる体験をしていたわけであり、今思えばこの体験は貴重なものであったといえます。

こうした自粛ムードは、天皇が亡くなる直前まで続いており、新年に配られる年賀状からは「賀」「寿」「おめでとう」の文字が消え、新年会ですら自粛されていたようですが、そうした状況がピークにも達したと思われる年明け7日になって、ついに昭和天皇が崩御されました。

1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分のことであり、のちに公表された正式な死因は、「十二指腸乳頭周囲腫瘍」であり、一般には「腺癌」と呼ばれるものでした。その享年87歳は、古き神代を除いては、歴代の天皇で最も長寿だったそうです。

崩御後、政府の藤森昭一宮内庁長官が「天皇陛下におかせられましては、本日、午前六時三十三分、吹上御所において崩御あらせられました。」と発表を行い、その月末の1月31日に、現在の今上天皇が、在位中の元号からとって亡くなった天皇を正式に「昭和天皇」と追号されました。

昭和天皇のご葬儀は、2月24日、新宿御苑において「大喪の礼」として行われたあと、八王子の武蔵野陵に埋葬され、このとき同時に愛用の品100点余りが副葬品として共に納められたといいます。

この昭和天皇の崩御にあたっては、1月7日未明の午前6時35分に「危篤発表」がなされましたが、実際にはこの発表の2分ほど前に天皇は逝去されていたことになります。

実際の「崩御」の発表があったのは、この1時間以上あとの午前7時55分であり、このときから翌1月8日終日までは、NHKの総合放送および民放各局すべてが特別報道体制に入りました。そして、崩御報道を受けてのニュースやあらかじめ制作されていた昭和史を回顧する特集、昭和天皇の業績を偲ぶ番組などが繰り返し放送されました。

この2日間はまったくCMは放送されなかったといいます。当然のことながら7日の新聞朝刊にはこの事件は間に合わず、通常のニュースや通常のテレビ番組編成が掲載されていましたが、同日昼過ぎまでには、各社とも号外を発刊し、また夕刊では各新聞ほとんどが最大級の活字で「天皇陛下崩御」の文字を掲載しました。

この夕刊では、天皇崩御が報じられたあとも通常放送を行っていたNHK教育放送のテレビ番組欄以外はほとんど「真っ白」状態だったそうで、この局以外のすべてのテレビ局が特別報道を行ったため、この間、多くの人々がレンタルビデオ店などに押しかけたそうです。

特別番組では「激動の昭和」という言葉が繰り返し用いられ、1月8日に日付が切り替わる直前には「昭和が終わる」ことに思いを馳せた人々が銀座和光の時計塔などの前で記念写真を撮ったり、皇居真の二重橋の前で日付変更の瞬間を待つ人々の姿などが報道されました。

1989年(昭和64年)1月7日のNHK朝の「ワイドニュース」の平均視聴率は32.6%にも達したそうで、続いての2月24日の「大喪の礼」のNHK「ニューススペシャル・昭和天皇大喪の日」の平均視聴率に至っては44.5%を記録したそうです。ちなみに、この日は土曜日であり、翌8日は日曜日であったことも視聴率を押し上げた要因だったようです。

昭和天皇が亡くなった直後にもまだ「自粛」ムードは当然あったようですが、この瞬間からむしろ人々の関心は、次の元号は何?という興味に早くも移りはじめ、時代が変わることに対する希望やら期待やらが渦巻いていきました。

昭和天皇の崩御当日には、現在の明仁天皇が即位されましたが、この当日にはまだ新しい元号は公表されませんでした。新しい元号は、「元号法」に基づき、その翌日の1月8日に公表されましたが、この新元号は元号法によって改元された最初の元号だそうです。

実はこの新元号である「平成」は、改元時に内閣総理大臣であった竹下登首相やそのとりまきの政府首脳が、その決定前から執心していたということを、現民主党最高顧問で、この当時自民党の国会対策委員長であった「渡部恒三」氏がのちに暴露しています。

こうした「噂」はこの当時の閣僚などを通じて結構外部に漏れていたようで、「平成」以外にも「修文」などの候補があることが外部に漏れ、三流紙や雑誌報道でそのことを知り、予想していた人たちもいたようです。

しかし、この当時内閣内政審議官で、現阿部内閣の内閣官房副長官に就任した「的場順三」氏が「元号は縁起物であり改元前に物故した者の提案は直ちに廃案になる」と発言したことなどから、平成が本当に新しい元号になるかについては疑問視する向きもあったようです。

この新元号の決定にあたっては、東京大学名誉教授で国文学者だった「宇野精一」氏、九州大学名誉教授で古典中国文学史が専門の「目加田誠」氏、ならびに東京大学名誉教授で東洋史学者の「山本達郎」氏などに政府から新元号提案の委嘱があったといわれ、このうちの目加田氏が「修文」を、宇野氏が「正化」を提案したようです。

そして、ノンフィクション作家の佐野一郎氏が「文芸春秋」における記事のためにその後山本氏へ行ったインタビューの中で、山本氏はこのことについては「ノーコメント」と答えており、この結果から佐野氏はどうやら「平成」の提案者はこの山本氏に間違いないだろうと述べています。

しかし、一方では非公式ながら、翌年の1990年(平成2年)1月に竹下登首相が講演を行った際、「平成」は陽明学者で、思想家であった「安岡正篤(まさひろ)」の案であったと述べています。

この安岡正篤という人は、戊辰戦争の際、新撰組の近藤勇を捕縛し斬首したことで知られる土佐藩士の「安岡良亮」の曾孫にあたるそうで、終戦時、昭和天皇自身によるラジオ放送の終戦の詔書発表(玉音放送)に加筆し原稿を完成させたことでも知られ、皇室からも厚い信頼を受けていた人物です。

2.26事件の首謀者だった西田税らに影響を与えた一人ともいわれ、元海軍大将の八代六郎や山本五十六、中華民国総統の蒋介石などとも親交があり、第二次世界大戦中には大東亜省顧問として外交政策などに関わりました。

数々の伝説を残し、政界・財界・皇室までもが安岡を頼りにしていたといわれることから「昭和最大の黒幕」と評され、戦後の歴代総理に「日本の黒幕はだれか?」と聞けばほとんどの首相が安岡正篤の名前を挙げたといいます。

しかし、安岡正篤は、昭和天皇崩御前の昭和58年に亡くなっており、竹下首相の発言とはいえ、彼の発案ということはあり得ない、という意見もあります。

ただ、歴代の首相が大きな影響を受けるほどの人物であったならば、生前から竹下首相がこの安岡氏に、次の元号は平成にせよと言い含められていたと考えることもできます。しかし、竹下氏をはじめとする関係者の多くが亡くなっており、事実はここでもまた歴史の闇の中の話となりそうです。

こうした事実があったかどうかは別とし、表向きには、政府は昭和天皇崩御を受け、その当日の1989年(昭和64年)1月7日の午後、8人の有識者で構成される「元号に関する懇談会」が開かれ、その結果として衆参両院正副議長に「平成」「修文」「正化」の3つの候補が示され、各委員にこれに対して意見が求められました。

その際、委員のひとりから「修文(しゅうぶん)」「正化(せいか)」の2候補はローマ字表記の頭文字が「昭和」と同じ「S」になるので不都合ではないかという意見が出たため、この結果全員一致で「平成」に決まったと伝えられています。

頭文字のアルファベットが決め手となったというこの話は結構説得力のある話であり、国際社会の一員として名乗りを上げている日本としては当然の配慮でもあります。が、前述したようにこの会議に先立って既に裏側では「平成」にしようと決められていたとすれば、この表向きの会議はとんだ茶番劇だったということになります。

いずれにせよ、同日14時10分から開かれた臨時閣議に於いて新元号を「平成」にすることが正式に決定。14時36分、内閣官房長官・小渕恵三が記者会見で発表されました。

のちに「平成のおじさん」とあだ名され、この10年後に総理大臣となり、その就任からわずか2年後に脳こうそくで亡くなる小渕恵三氏が、「新しい元号は「平成」であります」と言いながら新元号「平成」を墨書した台紙を示す姿はその後何度もテレビ放映されたため、私もみたことがあります。

同日、「元号を改める政令」(昭和64年政令第1号)が、新天皇の允裁(いんさい)を受けた後、官報号外によって公布され、翌1月8日から施行されました。また、「元号の読み方に関する件」(昭和64年内閣告示第6号)が告示され、新元号の読み方が「へいせい」であることが明示されました。

大正と昭和の際には、元号の改正の発表が行われた当日に「改元」が行なわれましたが、平成の改元では発表の翌日に施行された背景としては、平成の場合、大正や昭和の際に比べると文書事務がかなり煩雑化しており、ワードプロセッッシングをはじめとする政府OAシステムへの入力やプログラム等の変更を行うためなどの事情があったようです。

従って、昭和の時代は、平成の元号発表のあった昭和64年1月7日までであり、平成のスタートは平成元年1月8日となり、明日、2013年1月8日が、その「25周年目」にあたるということになります。

この「平成」の名前の由来については、後日詳しいことが報道などから伝えられました。そもそもは、中国の歴史書の「史記」に「内平外成(内平かに外成る)」ということばがあり、また「書経」にも「地平天成(地平かに天成る)」ということばがあるそうで、その意味は、「内外、天地とも平和が達成される」です。

日本において元号に「成」が付くのはこれが初めてだそうで、「大成」(北周)や「成化」(明)など、中国の年号や13代天皇の「成務天皇」の諡号(しごう)にも使用されており、「平成」は慣例に即した古典的な元号といえるのだそうです。

江戸時代最末期、「慶応」と改元された際にも別案に「平成」があったそうで、出典も同じ「史記」「書経」であったことが記録されています。

ただ、これを元号として使うことに反対する向きもあったそうで、その根拠は、「保元・平治の乱」のあった「平治」以来、「平」で始まる元号がないのは、平治がこの戦役によって混乱した時代であったためであるというものです。

これ以降、「平」で始まる元号はこれを避けることが慣例になっていたとされ、また、「平」「成」の文字の中に「干(=楯)」「戈(=鉾)」があり「干戈(戦争を意味する)」にも通じるということを指摘する古人もいたということです。

八世紀には「平城天皇」という人がおり、この人は「薬子の変」という政争の末敗れて失脚しており、この「平城」と「平成」は一文字違いである点を懸念する学者などもいたようです。

昨今、新政権の阿部内閣は右寄りの傾向の強い内閣であると取沙汰される向きもあり、この後もしばらくは続くであろうこの平成の時代に、こうした懸念が現実にならないことを祈りたいものです。

なお最終案まで残ったという「平成」「修文」「正化」の他にも、「文思」「天章」「光昭」などの案も存在したと言われ、もしこれらが採用されていたら、その元号のイニシャルはそれぞれB.T.Kとなります。

明治大正昭和のM.T.S.と重ならないのは、このうちの「文思」のBと「光昭」のKであり、もし平成が採用されなかったらこれらが今の元号として採用されていたかもしれません。

少々不埒かもしれませんが、今上天皇もかなりご高齢になっていることですから、もしかしたら関係者の中では、こうした新元号が既に取りざたされ始めているのかもしれません。

さて、年改まって平成25年となった今年はどんな年になるでしょうか。

天皇の在位中、これまでのところ日本が戦争に巻き込まれることなく経過してきた時代は、近代においては今回が初めてのこととなりますが、その平和がいつまでも長く続いていくことを願ってやみません。

今年も今上天皇のご健勝をお祈りしたいと思います。