スペンサー銃と会津


私にスピリチュアル的な思考を与えてくれた飯田史彦さんが、「すべてのことには意味がある」とよくおっしゃっており、またその著書にもそのことがよく書かれています。私もそう思っており、何かにつけことが起こると、これはどういう意味を持つのだろう、と考える癖がついてしまっています。

だとすると、この正月明け、先日からひいてしまっているこの風邪にはどんな意味があるのだろう、と考えたりもしていますが、まだその答えが見えません。

「休めということじゃないの?」とタエさんは簡単にのたまわってくれますが、どうもそうでもないような。だとすれば何ナノでしょう。

痛みをこらえて発奮せよ、という意味かな~とも思ったりもするので、ならば今日もサボらずにブログを続けていくことにしましょう。が、頭がぼーっとしているので、文章が散漫になるかもしれません。ご容赦ください。

さて、先日の日曜日から、今年のNHKの大河ドラマ「八重の桜」がスタートしました。私は大河ドラマの中でもとくに幕末ものが大好きで、2010年の「竜馬伝」などは、録画しているにもかかわらず、毎回食い入るようにみておりました。

中高校生のころにも、年に似合わず「勝海舟」とか、「花神」とかをよく見ており、こうした幕末モノが大好きなジジくさい少年でしたが、このほかにも「国取物語」などが大のお気に入りで、大学に入るころまでには司馬遼太郎作品はことごとく読破しました。今思えば私の歴史好きは、司馬遼太郎作品とこのNHK大河ドラマが原点かもしれません。

今年の大河ドラマ「八重の桜」も幕末ものなのですが、NHK大河ドラマの中での幕末ものは非常に数が少なく、2010年から2年越しでこれが放送されるのは、極めて異例のことのようです。当初はまったく別のものを予定したといい、先日書いたとおり、東北の大災害の結果を受け、被災者の方々を慰労する内容にしたいとNHKが考えたためでもあります。

その予告編や、先日放送された初回の中で、しきりに主人公の新島八重が、「スペンサー銃」なるものを撃っているシーンが出てきました。後装式の連発銃だということくらいは私も知っていたのですが、実際にはどんな銃で、どういう使われ方をしたのかが気になったので、少し調べてみました。

この銃を開発したのは、アメリカ人のクリストファー・マイナー・スペンサーという人物です。1833年のコネチカット州マンチェスター生まれですから、これは日本でいうと、天保年間であり、同じ年に木戸孝允こと後年の桂小五郎が生まれており、これから幕末期に入ろうかという時期です。

この人は、非常に多才な発明家だったようで、1862年、29才のときには自分で蒸気車を製作したほか、織物機械にも多くの改良をほどこし、初期のころの「自動ねじ切り機」というねじを切る機械開発における先駆者としても知られています。

南北戦争の後、スペンサーはコルト兵器工場で働いていた老技師と知り合い、この人物と協力して、マサチューセッツのアーマストに「ビリングス・アンド・スペンサー会社」を設立しました。

そしてここでミシン用のスプールを旋削する特殊自動旋盤などの製作をはじめていますが、スペンサーライフルの開発はこの自動旋盤の開発よりも1~2年前の1960年ころのことのようです。

彼が開発した連発式ライフルである「スペンサーライフル」はアメリカの南北戦争において北軍に大量に供給され、結果的に南北戦争(1861~1865)の帰結に大きな役割を果たしました。

南北戦争は、奴隷制存続を主張するアメリカ南部諸州のうち11州が合衆国を脱退し、「アメリカ連合国」を結成し、合衆国にとどまった北部23州との間で内戦となったものですが、彼は当初、合衆国側の陸軍省に自分が開発したこのスペンサー銃導入を働きかけたようです。

しかし、合衆国陸軍はかなり保守的な体質だったらしく、こうした新しい銃を導入するよりも、従来からある先込式の「マスケットライフル」のほうが信頼できるとして、スペンサーの申し出を退けたため、南北戦争に先だってのスペンサー連発銃導入はかなり遅れることとなりました。

しかしスペンサーは自前の銃にかなりの自信があったとみえ、このころ北軍の最高司令官であったエイブラハム・リンカーン大統領に謁見する機会を得た際に、彼が主宰する射撃競技会と兵器の展示会に大統領を招待することに成功します。

そして、その競技会においてスペンサー銃の実射をみたリンカーンは、従来のマスケットライフルの性能を遥かに凌駕するこの銃の性能に驚き、ついにはこれを採用することを決め、軍にこれを製造するよう命じました。

こうしてスペンサー連発銃は、最初にアメリカ海軍、次にアメリカ陸軍によって採用され暫時南北戦争の緒戦において使用されていきましたが、導入が遅かったせいもあり、戦争の終るまでに、その当時の標準装備であった前装式ライフルマスケットと完全に置き換わるほど普及することはできませんでした。

その理由のひとつは、新式の銃にありがちな故障の多さのためだったようで、連発式で装填していると、連発の機構に故障を生じて発射不能になる場合が往々にしてあったといい、結局単発銃として使用されることも多かったためです。

南軍のアメリカ連合国も、この新式銃を導入しようとしましたが、銅の不足のために自前で弾丸を製造できなかったため、その普及は北軍以上に伸び悩みました。

とはいえ、戦争が進むにつれて、スペンサー銃は、多くの北軍騎兵と騎乗歩兵連隊によって運用され、その火力は南軍を圧倒するためには大いに役立ち、このスペンサー銃のおかげとばかりはいえませんが、この戦争は結局北軍の勝利に終わりました。

このスペンサー銃の構造ですが、弾丸は従来のような玉のような円形弾丸ではなく、近代的な椎実型であり、金属性の弾と火薬の入った薬莢を組み合わせて使用する、いわゆる「カートリッジ」型といわれる弾丸でした。

これにより、従来の「鉄砲」のように弾丸を撃つ際に、いちいち粉状の火薬を銃身内に棒で「詰め込む」といった面倒な手間がなくなり、かつ玉を銃身の前側から詰めるのではなく、引き金のある手元から詰め込むことができる分、素早い発射を可能としていました。

スペンサー銃は、この後込めの銃弾を単発で撃つこともできましたが、これに加え、銃床と呼ばれる銃を肩で支えるための木製部分の最後尾から、「リムファイアカートリッジ」という長い円筒状の「弾倉」を指し込むことができる構造になっており、この弾倉には7発のカートリッジが装填でき、このことから7連発の銃弾を次から次へと連射できました。

さらには、この円筒状の弾倉である、「リムファイアカートリッジ」を何本も納めた「ブレイクスリー・カートリッジボックス(blakeslee cartridge box)」と呼ばれる弾薬盒(だんやくごう)も用意されていました。

これは、ポシェットのような革製の弾薬盒であり、この中に6本、ないしは10本および13本の「リムファイアカートリッジ」が納められ、7発の弾丸を撃ち尽くすと、このカートリッジボックスから次のカートリッジを素早く取り出して銃に装填できるように工夫されたものでした。

つまり、一本の「リムファイアカートリッジ」で7発の弾丸を撃ち終えたあと、その動作を6回、10回、13回繰り返すことで、ほぼ連続して銃弾を撃ち続けることができるわけです。

前込め式で一発一発の弾丸を込める旧式ライフルに比べれば飛躍的な速度で連続発射を可能とでき、これ以降更なる改良がくわえられていく「自動装填式ライフル」の原型ともいえるものでした。

ちなみに、先日放送された「八重の桜」で主人公の八重がこの「リムファイアカートリッジ」を銃床の後ろから、銃を横にしたままで充填しているシーンが放映されていましたが、これは間違いです。

実際の装填を行うときには銃口を下にして銃尾よりカートリッジを落とし込むようにして装填したはずで、これにより弾丸の目詰まりを極力防ぐことができます。

こうした工夫により、スペンサー銃は、毎分20発以上の発射を可能とし、戦闘という状況下でも信頼できる銃であるということで高い評価を得ました。毎分2~3発の発射速度の標準的な前装銃と比べて、これは重要な戦術的な利点でした。

しかし、南北戦争においては、こうした高い速射性を十分に生かし切れるだけの戦略はまだ開発されておらず、また予備弾薬を前線に運ぶための供給システムもまた整備されていなかったことから、その性能を十分に生かしきれたとはいえませんでした。

またスペンサー銃のカートリッジで使われた火薬は「黒色火薬」といい、弾丸の発射とともにすさまじい黒煙を発したため、発生した煙で敵が見えにくくなるという欠点がありました。

火薬の問題はその後「無煙火薬」の開発によって解消され、また弾薬装填の速度もその後レボルバー式ライフルの開発やその他の自動装填システムの開発が行なわれ、これらの改良されたものが現在各国の軍隊が保有するライフルにも採用されています。

これらすべての原型ともいえるのがこのスペンサーライフルであったと言っても過言ではないでしょう。

こうした優れたライフルを開発したスペンサーですが、多くの他の発明家と同様に経営の才はなかったようで、このライフルを開発したあとに発明した自動ねじきり機の販売にあたって、自社で機械を工場生産するより、もっと生産性の高い他者に作らせたほうが儲かると考え、社外の人間に機械製作のライセンスを与えてしまいました。

結果としては、ライセンス譲渡による利益はいくらもなく、しかもその他の特許の保護にも失敗してしまい、たちまち多くの他者に同じものがコピーされてしまうという結果となりました。

こうして1869年にスペンサー社は倒産し、その権利は他社に売却され、最終的には西部開拓時代を切り開いたともいわれる銃器メーカーの「ウィンチェスター社」がこれを買い取りました。

スペンサーライフルはこのライフル形式の銃と、これを短くして携行性を良くしたカービン形式の銃の合わせて20万挺ほどが製造され、その後は他国にも輸出されました。南北戦争直後には多くのスペンサー騎兵銃が余剰品としてフランスに販売され、1870年の普仏戦争で使用されたほか、後述するようにその多くが日本へも流通しました。

スペンサー社は1869年に倒産していますが、その弾薬は1920年代頃まで合衆国で販売されていたそうで、その後も改良されたライフル銃とカービン銃が流通しているとのことで、弾丸も真鍮製に改良されたものがいまだ製造され、専門市場で入手できるといいます。私にはよくわかりませんが、マニアにとっては垂涎の的なのでしょう。

さて、南北戦争が終結した1865年がどういう年かというと、この年には長州において高杉晋作が俗論派とよばれた旧長州藩の主流派に反旗を翻し、下関の功山寺で挙兵をした年であり、長崎ではグラバーが日本で初めて蒸気機関車の試運転に成功した年であり、ひしひしと幕末への動乱の足音が聞こえてくるころのことでした。

南北戦争の終了により、アメリカで余剰となったスペンサー銃はちょうどこうした幕末の動乱の時期に徐々に輸入されるようになり、後年、大鳥圭介が率いる幕府歩兵隊が1000丁をアメリカから購入して装備しています。

しかし、後年幕府に反旗を翻すことになる佐賀藩は2000挺、薩摩藩にいたっては16000挺もの数を購入していますが、この銃は旧来の銃よりも高価なこともあって他の藩でスペンサーを購入できたのはごく少数藩にすぎませんでした。

この希少なスペンサー銃を会津藩がどうやって手に入れたかですが、その導入にあたっては、会津藩の藩主、松平容保公自らが動き、その配下の家老で梶原平馬(かじわらへいま)という人物が活躍することによって会津にももたらされたもののようです。

また、武器を提供したのはエドワルド・スネル(エドワード・スネル)という謎の武器商人だったようで、その兄のヘンリー・スネルという人物もこうした会津藩の武器導入に暗躍したとされます。

このヘンリー・スネルは、幕末の新政府軍との戦いにおいて会津藩の軍事顧問を務めており、藩主松平容保からは、その功により「平松武兵衛」の日本名を与えられ、屋敷まで提供されています。

これらのお話が今回の「八重の桜」に盛り込まれることになるのかどうかわかりませんが、歴史に埋もれた面白い史実でもあるため、このことについてはさらに書き進めてみたいと思います。

が、今日は風邪気味なのでこれくらいにさせていただきたいと思います。明日寝込んでいなければまたお会いしましょう。