今日は、なぜか「風邪の日」となっているようです。その理由は江戸時代の力士で、この当時としては破竹の63連勝の記録を誇った、第四代横綱の「谷風梶之助」というお相撲さんがで1795年(寛政7年)のこの日に、流感で亡くなったからだそうです。
ただし、この谷風関が実際に亡くなったのは旧暦の1月9日だったようで、西暦では2月27日だったということなのですが、思うに、「○○の日」と呼ぶときは、現在の暦に合わせて決めるべきではないでしょうか。特に季節の移ろいに関係がある記念日のときには、ひと月以上も違っているとまったく無意味になってしまいます。
もっとも「風邪の日」などというありがたくもない日は、誰も気にしていないでしょうから、私としてもそれが1月だろうが2月だろうが一向にかまわないのですが、それにしても、そもそも何のためにこの日を制定したのかという説明自体、何を調べても出てきません。
なのでこれはおそらく、その昔に、厚生省のお役人か医師会か何かが、この日は風邪の日です、ウチへ帰ったら必ず手を洗ってうがいをしましょう、でないと強いお相撲さんでも死んでしまうんですよ~ とかいったキャンペーンを打つためにこの日を制定したのではないかと勝手に邪推してみたりしています。違っているでしょうか。
ま、風邪に気をつけるにこしたことはなく、こういう日を便宜的に設けて、みんなで手を洗ってうがいをしましょう、という呼びかけを小中学校などで広めるのも良いことかもしれません。風邪とはちと違うようですが、ノロウィルスのように伝染性の病気も流行っているようですし……
ちなみに、この「谷風梶之助」さんの63連勝という記録は、1778年の3月場所から1782年2月場所までの足かけ4年で達成されたそうです。が、これは江戸本場所だけの連勝記録であり、谷風関はさらにこのあと行われた京都本場所・大坂本場所でも連勝をしており、1786年までの記録も合わせると、連勝記録は98連勝にもなるそうです。
この当時は一般的に「連勝記録」といえば「江戸本場所」の連勝をさしていたということなので、このため各地を転戦しての98連勝は過去における最多連勝記録となり、地方場所での連勝も含めて「連勝記録」としている現在の大相撲の基準で考えても、この記録はすばらしく、2013年現在でも未だに破られていない「大々記録」ということになるようです。
この谷風関は生前、「土俵上でワシを倒すことは出来ない。倒れているところを見たいのなら、ワシが風邪にかかった時に来い」と豪語していたそうですが、そのとおりその後、江戸全域で猛威を奮ったインフルエンザによって、44歳であっけなく死んでしまいました。
この谷風関が亡くなったころに江戸で大流行したインフルエンザは、我々が現在「スペイン風邪」と呼んでいるごとく、江戸の町では「御猪狩風」と呼ばれていましたが、谷風関が死んだときからこうした流行性感冒のことを「タニカゼ」と呼ぶようになったといい、その後も江戸で風邪が流行るたびに、これを「谷風」と呼ぶようになったということです。
もっとも現代ではまったく死語になっていますが、万が一今日、白鳳関がインフルエンザで亡くなったら、風邪のことは今後「白鳳風邪」と呼ぶのかもしれません。もっともそれが把瑠都関ならば、「バルト風邪」、琴欧洲なら、「欧州風邪」になり、まるで日本の風邪ではないように聞こえるのですが……
正月早々、縁起の悪いお話はこれくらいにしておきましょう。
さて、昨日、会津藩にスペンサー銃がどうやって流通したかについて書きかけましたが、その補足をしておきましょう。
会津藩への西洋銃の導入にあたっては、会津藩の藩主、松平容保公自らが動き、その配下の家老で梶原平馬(かじわらへいま)という人物が活躍し、その背後にはエドワルド・スネル(エドワード・シュネル)という武器商人がいたと書きました。
松平容保は16才で美濃国高須藩の「松平家」から、会津藩の同名の「松平家」へ養子として入って家督を継ぎますが、その後10年間に時代は大きく動き、容保が26才になった1862年(文久2年)には幕府からの強い要請で「京都守護職」に就任しています。
本人もしかりですが、当初、家老の西郷頼母(たのも)ら家臣は、会津藩が幕末の動乱に巻き込まれていくことをおそれ、この京都守護職就任を断わる姿勢を取りました。
が、この当時の政事総裁職・松平春嶽に、会津藩の藩祖・保科正之が残した家訓「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在である」を引き合いに出されると、容保はこれを断れなくなってしまいます。
そして押し切られる形で就任を決意し、この藩祖の遺訓を守り、佐幕派の中心的存在として戦い、その後幕府滅亡まで運命を共にしました。
京都守護職に就任した容保は、会津藩兵を率いて上洛し朝廷との交渉を行い、また配下の新選組などを使い、上洛した14代将軍徳川家茂の警護や京都市内の治安維持にあたり、幕府の主張する公武合体派の一員として、反幕派の尊王攘夷と敵対していきます。
しかし、1867年(慶応3年)に病没した家茂に代わって15代将軍の座についた徳川慶喜が大政奉還を行うと、江戸幕府は消滅すると同時に、京都守護職そのものも廃止になります。
この直後に、鳥羽・伏見の戦いが勃発しましたが、開戦に積極的でなかったといわれる慶喜は、大政奉還を宣言したその夜、わずかな側近と老中板倉勝静、老中酒井忠惇、桑名藩主松平定敬、そして会津藩主松平容保と共に密かに城を脱し、大坂湾に停泊中の幕府軍艦開陽丸で江戸に退却しました。
その後会津藩に戻った容保は、今後生じるであろう新政府軍との戦いに備え、京都守護職時代から信頼していた側近で家老の「梶原平馬」に江戸でそのための資金と軍備の調達を命じます。
梶原平馬 (かじわらへいま1842年(天保13年)生)は、会津藩の名家、内藤家に生まれましたが、長じてから、遠祖が源頼朝の側近であった「梶原景時」といわれる同じく会津藩の名家の梶原家に養子入りし、その家督を継ぎます。そして、藩主松平容保に請われ、容保が京都守護職に任ぜられた後はその側近として仕えました。
大政奉還とともに主の容保とともに会津へ帰還する直前の1866年(慶応元年)には若干22才で若き家老となり、その後は会津藩をはじめとする奥羽越列藩同盟の結成を主導するなど、幕末期の会津藩の方向を定めるための中心的な役割を担いました。
幕府が鳥羽・伏見の戦いに敗れたのち、前述のとおり江戸へ下り、容保の命により資金と軍備の調達をはじめましたが、そのときに出会ったのが横浜を根拠地としていたスネル兄弟です。
このスネル兄弟は、ドイツ人、オランダ人、あるいはトルコ系ともいわれていますが、出自についての史料はほとんど残っていません。兄はジョン・ヘンリー・スネル(またはシュネル、John Henry Schnell)で、生年は1843年ころではないかと推定されており、だとするとこのころはまだ24~25才の青年です。
一方の弟のエドワルド・スネル(Edward Schnell)は、兄より一つ年下で23才くらいだったようで、こちらは生まれがオランダであったということはわかっているようです。
大政奉還に先立つこと7年前の1860年(万延元年)に幕府がプロシアと通商条約を結ぶと、初代領事としてマックス・フォン・ブラントが日本に赴任してきましたが、兄のヘンリーはその下で書記官を務めるために来日しました。
弟のエドワルドのほうは、スイスの総領事の書記官として来日したという記録があり、来日後の動向には残っている記録が比較的多いようです。
スネル兄弟は、二人というのが一般的な説のようですが、別のある史料ではこの兄弟にはさらに兄か弟がおり、この人物は「コンアート・ガルトネル」と称し、箱館で商人をやっていたのではないかという話もあります。
函館におけるプロシアの領事であったという記録が残っているようで、この人物がスネル兄弟の本当の兄弟かどうかはよくわかりませんが、いずれにせよ、この兄弟?は、その出自といい、人物像がはっきりしません。
1864年(元治元年)にエドワルドは横浜でフランソワ・ペルゴという商人と共にスイス時計の「シュネル&ペルゴ」という輸入商社を設立しますが、エドワルドが武器販売を優先しようとしたことからペルゴと対立してこの商会は解散しました。
その後、大政奉還が行われた1867年(慶応3年)には、このスネル兄弟がそろって馬車乗車中に、沼田藩(現群馬県沼田市)の藩士に襲撃されたという記録があります。
このころ多発していた攘夷主義者による無差別外国人殺戮事件のひとつですが、このとき襲撃者は抜いた刀でエドワルドに斬りかかろうとしましたが、その寸前、兄ヘンリーが拳銃で反撃したため、エドワルドは九死に一生を得ました。
このことが原因かどうかはわかりませんが、おそらく兄弟は江戸にいては命がない、と思ったのでしょう。それぞれの国の書記官としての職を辞し、新潟に移り、ここで弟・エドワルドは「エドワルド・スネル」商会を設立します。
梶原平馬は、藩主の容保に命じられて江戸入りしていたころに、幕府親藩の越後長岡藩家老、河井継之助を仲介としてこのエドワルドと知り合ったようで、これが縁となり、新潟で設立されたスネル商会から、エドワルド・スネル商会からアメリカ製のライフル銃780挺と2万ドル相当の弾薬の購入の約束をとりつけます。
そして、アメリカ国籍船をチャーターし、同年に新潟港からこれらの荷を陸揚げし、会津に運び込んでいます。
実は、会津藩ではこれよりも前に、平馬よりも20才以上も年長の家老「田中土佐」が山本八重(新島八重)の兄、山本覚馬らに外国製の武器の入手を命じています。
これを受けて山本覚馬らは、プロシアの商人「カール・レイマン」に、神戸で元込銃千挺を注文しています。この銃はゲベール銃という旧式銃で、しかも鳥羽・伏見の戦いには納入が間に合わず、さらにはこの銃は戦争のさなか、新政府軍に押収されてしまっていました。
梶原平馬がスネル商会から購入した銃はこれよりも新式のものだったようですが、調べてみたところ、この銃の中に後年山本八重が手にすることになるスペンサー銃が含まれていたかどうかは不確かであり、それ以前の問題としてこの780挺すべてがスペンサー銃のような新式銃だったとは考えにくいようです。
アメリカから輸入されたということから、おそらくは、南北戦争時代に最も多く使用された、エンフィールド銃がほとんどではなかったか思われます。
エンフィールド銃とは、フランスで開発されたといわれる前装式銃のマスケット銃の銃身内に螺旋状の刻み、つまりライフリング(施条)を加えて命中精度を高めた「ミニエー銃」の派生系です。
フランスで改良されたミニエー銃にイギリス人が手を加えて完成度をさらに高めたもので、いずれも前装式であることから、これらの元祖マスケット銃、ミニエー銃、エンフィールド銃を総称して「マスケット銃」ということもあります。
幕末の動乱で使われた銃としては、
前装施条銃としてはミニエー銃(仏)・エンフィールド銃(英)
後装施条銃としては、シャスポー銃(仏)・スナイドル銃(英)・スペンサー銃(米)
などが主なものですが、後装施条銃は前装施条銃よりも高価であったため、大量に装備するためには、どうしても安価なエンフィールド銃のほうに食指が動きがちです。
大政奉還のあと、容保は軍備の増強についてはそのすべてをこの平馬に任せていたようです。本来は山本八重の兄で、江戸留学の際に佐久間象山のもとで学び、豊富な西洋知識を持った「山本覚馬」がこの任を担うべきところですが、山本覚馬は鳥羽伏見の戦いのとき、反政府軍の薩摩藩に捕えられ、その後幕府崩壊まで幽閉されてしまっています。
このために山本覚馬に代わって抜擢されたのが梶原平馬と考えられますが、梶原平馬はもともとこうした軍事面での知識には乏しく、西洋式銃器の購入に関しても十分な知識は持ち合わせていなかったと思われます。
梶原平馬は会津軍装備のため、幕府から軍資金のほかに、幕府軍が持っていた大砲や小銃、弾薬をも借りていますが、幕府から借りた軍備の中には、銃と弾が合わず使えないものも多かったといい、これは平馬自身の知識不足もあるでしょうが、幕府軍のほうもそうした知識に疎い人物がこれらの装備を整えたためでしょう。
このスネル商会からは、越後長岡藩の河井継之助も多くの武器を購入しており、こうした装備の中にはスナイドル銃やスペンサー銃などの数百挺の元込め銃と、この当時世界最新鋭の武器であった機関銃である、「ガトリング砲」を2挺などが含まれています。
河井継之助はこうした軍備だけでなく経済的な面での藩運営に関しても抜群の才能があり、長岡藩はわずか14万石という小藩ながら、富国強兵を実現し、その後の新政府軍との戦いにおいてはこうした最新鋭の武器を巧みに駆使して新政府軍の大軍と互角に戦いました。
これに対して幕末の会津藩には残念ながら逸材がおらず、このため、スネル商会に騙された、のかどうかはわかりませんが、少なくとも梶原平馬らが購入した銃のほとんど、もしくはすべてがエンフィールド銃などの旧式銃だったと思われます。おそらくは、スペンサー銃も含まれていなかったのではないでしょうか。
そうすると、このスペンサー銃はどこから出てきたということになるのですが、これについては、うそかまことかわかりませんが、もっともらしい話がひとつあります。
大政奉還に先立つ三年ほどまえに勃発した1864年(元治元年)のいわゆる「蛤御門の変」の際、京都を追放されていた長州藩勢力は、会津藩主・京都守護職松平容保らの排除を目指して挙兵し、京都市中において市街戦を繰り広げました。
このとき、長州藩は最新式の銃を持って会津藩に対峙したため、会津藩はこの鎮圧に苦労しつつも、薩摩藩の助けを得てようやく長州藩の駆逐を果たしました。この戦いをみた容保は、長州藩や薩摩藩が持つ最新式の銃に比べ、貧相な旧式銃しか持たない自藩の装備に愕然としたようです。
ただ、この蛤御門の変の際、山本八重の兄、山本覚馬は自分が藩内で育てた砲兵隊を率いてこれに参戦し、それなりに奮戦したのが容保の目にとまり、これを機に公用人に任ぜられるようになりました。
これにより覚馬は、幕府や諸藩の名士等と交わる機会が増え、活動範囲を広げるようになりましたが、この事変により洋式銃の重要さに気づいた松平容保によって最新式銃の調査を命じられ、長崎へも派遣されました。
この調査の際、覚馬は7連発スペンサー銃を入手し、このうちの一挺を会津にいる妹の八重へ送ったのではないかといわれています。実はちょうどこのころ、八重は最初の夫の川崎尚之助と結婚しており、この銃はその結婚祝いの意味もあったとも伝えられています。
しかし、このスペンサー銃は最新式でしたが、このとき入手した弾丸は限られていました。この時期国内ではまだそうした最新銃の弾丸の製造は行われておらず、無論、会津国内でもそうした最新技術が導入されていようはずもありません。
覚馬が八重に多量の弾丸を送ったという記録もないようですから、おそらくは会津戦争の
さなか、持ち弾を打ち尽くした八重は、このころは既に国内生産されていたとみられる旧式のゲベール銃やエンフィールド銃の弾などを流用したのではないかと思われます。
無論、旧式銃の弾は「リムファイアカートリッジ」などの専用弾倉には収まりませんから、単発でこれらの弾を発射したことでしょう。
このように、NHKの番宣を見ていると、山本八重がスペンサー銃を撃った、という事実だけが妙に誇大に放映されていますが、会津藩の実情としての軍備は新政府軍に比べればかなりお寂しいものだったようです。
スペンサー銃を持っていたのはもしかしたら八重一人だったかもしれず、番組を見る側からすれば会津藩兵も最新式銃で新政府軍を苦しめた、という話ならば面白いのですが、現実はそう単純ではありません。
ただ、八重はこの希少な最新銃を使って、幕府軍に夜襲をかけた、というお話もあるようなので、このあたりの事実関係は、また調べてこのブログでもご紹介しましょう。
今日はまだ、風邪も完全に癒えていないのでこれくらいにしたいと思います。スネル兄弟のその後についての記述もまた、次回以降にさせてください。