芙蓉の人

駿河湾に浮かぶ

今日は、「富士山測候所記念日」ということになっているようです。

この測候所は、明治のなかばに初めて富士山頂に設けられた測候所ですが、気象庁が作ったものではなく、一民間人によって建てられてました。

野中到という人物がその人であり、妻の千代子夫人との共同作業によって世界で初めて富士山頂のような高所での冬期観測が試みられましたが、過酷な自然の中、残念ながら道半ばで二人とも測候を断念しています。

これが明治25年(1895年)のことであり、このころはまだ観測機器も極寒の地で耐えられるようなものもなく、またそもそもがそれまでの気象データがないわけですから、観測を始めたとしてもどんな不測の事態が起こるかもわかりません。

このため気象庁は、その後もここに観測所を建てるのには躊躇していたようで、結局、官による正式な測候所の発足は、この野中夫妻の観測所が設置されてから、37年も経った昭和7年(1932年)のことになりました。

ただ、この気象庁による新測候所もあくまで臨時のものだったそうで、その後の本格的な施設を建設する前の試験的なものだったようです。場所もその後の本格運用の測候所が富士山の最高位にある剣ヶ峰に建設されたのに対し、この臨時測候所は外輪山南東の東安河原に建設されました。

臨時とはいえ観測内容だけは本格的であり、このときから通年測候が行われるようになり、現在でもこのころからの気象データは貴重なものとなっています。ちなみに、その観測結果は超短波無線機で気象庁に送られたそうです。

しかし施設そのものが仮のものだったため、職員が山頂で観測を続けるための物資などを蓄えておくことはできず、このため、支援拠点としての事務所が麓の御殿場に昭和16年(1941年)に開設されました。

冬期には長期間の滞在ができないため、富士山測候所職員は、数日あるいは多くても一週間程度滞在したあと交代で「通勤」していたようであり、これとは別に食糧などの物資が強力によって搬送され、その登山道としては御殿場口登山道が使われていました。

現在でも、御殿場口登山道沿いには、このころの測候所職員が冬季の登下山に使った鉄製の手すりや避難小屋が残っているといいますから、今度この方面から富士山に登る人は気にかけてみてください。

その後、本格的な測候所が、建設されたのは、1936年(昭和11年)のことでした。日本最高峰の剣ヶ峯に建設されたのですが、これはここが最も高いからという理由からではなく、頂上付近の風の観測条件を考え、周囲に障壁がない場所としてここが選ばれたようです。

こうして、当時世界最高所にある常設気象観測所となった富士山測候所は、主に高山気象観測を目的とした気象観測を行い、これによって、日本上空を流れる偏西風の謎の解明につながるデータや高山気象における基礎的データが収集されるようになりました。

その後、この観測所は戦中戦後も機能し続け、この間も気象庁の職員の手により貴重な気象データが観測し続けられましたが、1964年(昭和39年)に富士山レーダードームが完成すると、その観測内容には台風などの低気圧の予測なども加えられるなど、よりその存在は重要になっていきました。

しかし、やがて気象衛星などが打ちあげられるようになり、富士山の山頂からよりもより広範囲で正確な気象データが得られるようになったことから、レーダードームもろとも富士山測候所は廃止されることになります。

1999年(平成11年)にはレーダー観測が取りやめられ、その後しばらくは職員によって気象観測が行われていましたが、2004年(平成16年)には自動観測装置が設置され無人施設となり、現在では気温、気圧、日照時間(夏季のみ)の気象観測が継続して行われています。

なお、それまで行われていた風向・風速の観測については、観測装置のメンテナンスが困難であることを理由に廃止されることになり、それまでNHKラジオ第2放送などの気象通報で放送されていた富士山頂の風向・風速は放送されなくなりました。

こうして現在の富士山頂に、気象庁の職員が足を向けることはほとんどなくなっており、行くとすれば自動観測機器のメンテナンスだけという状態となっています。

まあ、冬季の富士山の自然の厳しさを考えればこんなところに常駐するなんてのはどだい当然無理なことはわかります。しかし、なんでもかんでも自動化されていくんだなーとついつい文明の進む速度のことを考えてしまい、そういえば先日打ち上げ中止になったイプシロンロケットの打ち上げもほぼ全自動だそうです。

ところで、そんな自動観測装置など夢のまた夢のような明治の時代に、富士山で測候所を開設しようとした野中到という人はどんな人だったのでしょうか。

実は、この野中夫婦の物語は、「芙蓉の人」というタイトルの小説として1970年に新田次郎を作者として刊行されており、これにも先立つ1896年(明治29年)に劇化されて演劇公演されています。また、同じ年に、実際の登山記録をもとにした実録小説「高嶺の雪」が落合直文という人により作品化されています。

生前の至はこの「高嶺の雪」を比較的事実に近いものとしてある程度は評価していたといいます。現在ではこの小説は絶版になっていると思われますが、到が評価していただけに、そこには何故富士山頂に測候所を作ろうとしたのかという動機づけなども書いてあったのではないかと思われます。

しかし、さすがに古いものなので、現在は入手できないようです。が、新田次郎は、「芙蓉の人」の執筆にあたってこれには目を通しており、そこから読み取ったらしい動機を、その作品中で野中到自身のことばとして次のように表現しています。

「天気予報が当たらないのは、高層気象観測所がないからなのだ。天気は高い空から変わってくるだろう。・・・中略・・・富士山は3776メートルある。その山頂に気象観測所を設置して、そこで一年中、気象観測を続ければ、天気予報は必ず当たるようになる。だが、国として、いきなり、そんな危険なところへ観測所を建てることは出来ない。まず民間の誰かが、厳冬期の富士山頂で気象観測をして、その可能性を実証しないかぎり、実現は不可能である」。

ウィキペディアによる野中到の紹介は、さりげなく、その前半生は、1867年(慶応3年)筑前国早良郡鳥飼村(現福岡市)に生まれ、1889年(明治22年)に大学予備門(東大教養学部の前身)を中退した、とだけ書いてあります。

大学を中退した野中青年が何をめざそうとしていたのかについては詳しい言及がないのですが、大学を止めたあとはどうやら気象学者としての道を歩みたかったらしく、野中到というキーワードで探してみると、やたらと、「気象学者」という肩書が出てきます。

ただ、富士山頂に測候所を作ろうと決意したころにはまだ28歳くらいだったはずであり、大学もしっかりと出ていないような人物が果たして世間に「学者」として認められていたかいうと少々疑問です。しかし、そんな到を実家の野中家は認めて支援していたといい、また中央気象台も彼を援助していたといいます。

普通の予備門中退者であればそこまで認められることはなかったのではなかったと思われ、おそらくは大学中退とはいえ、気象学についてはそれなりの博識を持っていたのでしょう。

また、この国の人のために、気象観測の近代化を進めたいという、強い意志をもっていたことでしょう。その後の過酷ともいえる測候所建設にそこまで情熱を燃やしたのはそれほどこの「気象観測」という道に惚れ込んでいたに違いありません。

さらに、この頃の日本は清国に大勝、世界列強に負けじと国民意識が高まっている時代であり、野中到もまた、その自らの前人未到の試みが大衆の関心に答えるものだと感じていたのでしょう。

明治の半ばの時代であり、このころの若者は日本の将来を見据え、その中で自分をいかに昇華させていくか、という点に情熱を燃やす人物が多かったのではないかと思われます。このあたり、何かと軟弱な現在の若者とはえらい違いです(かつての私も含めて)。見習ってほしいところです。

さて、そんな到は、大学を中退後25歳のときに母方の従妹である、同じ福岡藩の出身の喜多流能楽師の娘、千代子と結婚します。

千代子はその後、52歳という若さで亡くなっていますが、至との間に早世した娘・園子のほかにも6人もの子をなしたそうです。

到が、富士山頂での通年の気象観測が成功すれば、正確な天気予報が実現して、国民の利益となり、世界に日本の名を高めることにもなる、と考えるようになったのが、この結婚前だったのかあとだったのかよくわかりません。

が、結婚後3年の間にその気持ちはかなり高まっていたようで、28歳になった明治28(1895年)1月には、富士山頂の気象状況を自らの目で確かめるべく、厳冬の富士山に登り、さらにはこれに続いて2月にも登頂に成功しています。そしてこの登山により、富士山頂の冬期滞在が不可能ではないという確信を持ったようです。

しかし、厳冬の富士山に登るのがどれほど危険なのかについては、登山のための機材などの発達した現在に至ってもいまだに冬期の登山が禁止されていることがそれを物語っています。

それを十分な登山道具もない明治期に二度も成功させたというのは、不可能を可能にしたともいえる大記録であり、登山史に刻まれるものとも言って良いでしょう。

ところが、到はさらにここに冬季の観測所を作ろうとしました。これはほとんど正気の沙汰とは思えません。真冬の富士山頂の気温は最も低い2月には、平均でマイナス38度にもおよび、また富士山は独立峰であるため、低気圧が日本付近を通過中は、猛烈な強風となり、そこでの風速は台風なみの風速20m/s以上となることもあります。

しかも高所にあるため高山病とは常に背中合わせであり、一度体調を崩すと命取りになりかねません。

本当にそこまで理解していたかどうかは今となってはわかりませんが、ともかくも冬の富士山測候をやりたいという情熱は、実際の状況の厳しさを上まわるほどのものだったのでしょう。こうして野中到は冬季の富士山頂観測という事業に命を燃やしはじめます。

この夫の決意に強く同調したのが妻の千代子でした。いとこ同士であり、幼い頃からお互いをよく知っていたこともあるでしょうが、明治時代の女性というのは、夫の夢をかなえることが自分の生きる目的と思っているような人物が多く、この人もそうだったのでしょう。

千代子の生家は能楽師とはいえ、九州黒田藩の武家であり、武家といえばその家に生まれた子供は男であれば切腹の作法を教えられ、娘は自害の際見苦しい死に様を見せぬようにもがいても着崩れしない足の縛り方を教えられます。

当然千代子もそうした教育を受けたと思われ、夫になった男には武家の娘として生涯を尽くすことが習いである以上、夫の決意にはどこまでもついていく、と考えたのでしょう。

しかし、単独で観測しようとする夫の計画を知り、聡明だった彼女は、それはあまりにも無謀な計画であることを知ります。しかし、夫への愛情からそれを告げず、自らはいざというときのためにと、夫に黙って山登りのための基礎トレーニングをはじめます。

1895年(明治28年)8月30日、富士山頂に野中によって投じられた私財によって日本最初の富士気象観測所が完成しました。その広さはたった六坪だったといい、これは12畳に相当しますが、観測機器などを置くスペースを考えれば居住空間などないに等しいものだったでしょう。

そして、10月1日、到は単独で富士山頂に登り、気象観測を開始します。やがて冬季に入り、吹き荒ぶ風雪の中のたった六坪の観測小屋の中、到はたった一人で冬期高層気象観測をはじめました。

ところが、自然の猛威は容赦なく、野中測候所を襲い、ひとりでの観測は睡眠時間を圧迫し、日に日に状況は悪化していきます。

ところが、そんな中、妻の千代子がなんと、女ながらも夫を追いかけて富士を登り、野中測候所へやってきたのです。驚いた到に対し、千代子はものおじもせず、一緒に観測をしたいと申し出ます。到の登山から10日遅れの10月11日のことでした。

突然訪れた妻に驚いた到ですが、当然最初は反対し、千代子を返そうとします。が、ついには千代子の熱意に負け、これを受け入れ、夫婦で協力して気象観測を行うことになりました。

ところが用意周到、自信満々で観測に望んだはずの到は、こと自分自身の身体に関してはまったくといって考えていませんでした。例えば食事のことについては考慮が足らず、どうやって高所で飯を炊くかについても十分な知識を持っていませんでした。トイレのない居住空間もその最たるものでした。

こうした無謀ともいえる「生活」に対する不備を千代子は的確に指摘し、また自らが準備してきた食材やその機転によって到は救われることになります。そして一日12回の気象観測など常人には到底無理ですが、一人では無理でも二人ならなんとか補えることを到は千代子の存在により気づいていきます。

千代子には気象の知識はほとんどなかったと思われますが、普段から夫の無鉄砲さは知っており、到がやがて生命の危機に直面するに違いないことはことを本能的に感じとっていたのでしょう。ともあれ、彼女がいなければ到が生還することはなかったでしょう。

しかし、自然の猛威はさらに激しくなり、やがて二人に死の危険が迫っていきます。寒さが厳しくなっていく中、貴重な観測機材が次々と壊れていき、到が起き上がれなくなることもありましたが、そうした時は千代子が補い、冬期連続観測の「記録の鎖」を二人で必死で繋いでいきました。

とはいえ、何もかもが凍りつく中、高山病が体力を奪い、次第に二人の健康を蝕んでいきました。寝不足と栄養不足が追い討ちをかける中、その後も交代で仮眠をとり観測を続けましたが、ある日とうとう千代子が風邪をこじらせ扁桃腺が腫れて呼吸ができなくなるという事態が発生します。

このとき、なんと到は、真っ赤に焼いたノミで千代子の扁桃腺を切り、膿を出して助け、この荒療治が功を奏し千代子は元気になりました。

しかし長引く観測に二人の体力はさらに落ちていきます。そんな中、極寒の富士山頂に慰問に訪れる支援者達もいたといいますが、到はそんな支援者たちにも「「野中夫妻は元気だったと云えてくれ」と懇願したといいます。

慰問者がここを訪問者が訪れたのは一度だけではなかったようで、何度目かの訪問者がきたときには、夫妻は生死をさまようほどの状態だったようです。

そんな彼らに訪問者は下山を促しましたが、頑として首を縦にふろうとしない夫妻に対し、ある訪問が、愛娘が亡くなったことを伝えました。実は二人の間には、園子という長女がおり、登山中は福岡の実家に預けていたものが肺炎で亡くなっていたのでした。

それまでの訪問者たちは、夫妻の頑張りに支障が出るからと口止めされていたのですが、夫妻の惨状を目の当たりにし、彼らを救うためには事実を告げるしかないと判断したのでしょう。

このときの二人の心情は計り知れませんが、このときですらまだ、二人は目指していた連続観測の記録を閉ざすことをやめることはありませんでした。

しかし、やがて12月に入り、沼津に向けて週1回の頻度で鏡の反射によって信号を送り、自分たちの生存を知らせていた習慣をも途絶えました。ふもとの住人はこのため、12月12日、夫妻の様子を見るため登頂しましたが、観測小屋に入った者達は二人の状態を見て息を呑みました。

二人はほとんど飲み食いをしていない状態で寝たきりのままといってもよく、特に到は瀕死状態であったといい、そんな中でも観測を続けていたのです。

このままでは二人とも死んでしまうと判断した彼らはいったん下山すると、救助隊を編成して再度登頂し、そして12月22日、ついに夫妻を強制下山させました。下山の決断がなければ、おそらく生命を落としていたことでしょう。

がんばり続けた富士山頂観測の記録はこうして82日間で途切れることになりました。

救助隊によって救出される夫妻の思いは、想像だに悔しさでいっぱいだったことでしょう。しかも、そんな彼らには亡くなったばかりの一人娘の元にかけつけるという悲しい役割がまだ残っていました。

その後、二人は再び健康の回復を取り戻し、長女に次いで6人の子供を設けました。しかし到は、富士山頂への再度の挑戦をまだ夢見つづけており、成長の著しい子供たちの世話に忙しい千代子もまた、その気持ちをわかっていました。

そして、最初の登頂から25年あまりの時がたっていましたが、子供たちがある程度成長したのを見計らい、二人はふたたび富士山への登頂のための準備を始めます。到は既にもう56歳にもなっていました。

ところがそんな中、インフルエンザの流行に罹り、千代子が52歳であっけなく急逝してしまいます。1923年2月のことでした。

それまでは妻を相手に、冬期富士山頂観測について熱く語り、友人たちにも再度の挑戦を吹聴していましたが、夫人の死とともに到はそうした情熱についてはぱたりと触れなくなっといい、やがてその顔から笑いが消えていったといいます。

千代子夫人が亡くなったあと9年後の1932年には、前述の富士山臨時測候所が建設され、到はこのときに至って既に自分の出番は亡くなったことを知ります。

そして戦後10年ほど経った1955年、その後の富士山レーダーの完成をみることもなく、到は亡くなりました。享年88歳。晩年は亡くなるまで、ほとんど富士山頂観測所設置、冬期観測に触れることはなかったといいます。

その晩年の到にはこんなエピソードもあります。

戦後のまもないころに、冬季気象観測の功績で褒章の話が上がったときのこと、到はあの仕事は、私一人でやったのではなく千代子と二人でやったものですと云って、結局、その栄誉は受けずに終わったそうです。

また、かつて自分たちが情熱を燃やした富士山測候所建設について書かれた小説についても不満を漏らしていたといい、その理由は自分の功績ばかりについて書かれていて、夫人の千代子のことが書かれていなかったためだといいます。

ただ、新田次郎の「芙蓉の人」は彼の死後に書かれたため、到はこれには目を通していません。

しかし、到本人よりも千代子夫人のエピソードがふんだんに盛り込まれたこの小説を到が読んだらさぞかし喜んだことでしょう。この小説のタイトルの「芙蓉」も、夫人が残した日記の題だったそうで、このことも喜んだに違いありません。

この日記は夫人の死後、報知新聞に掲載されていたそうで、新田次郎もこれを呼んで自作のタイトルにしたようです。

ちなみに、芙蓉はアオイ科の落葉低木で夏から秋にかけて白い花をつけるものもありますが、新田次郎自身も白い花が好きだったそうで、「白い花が好きだ」というタイトルの随筆を残しています。

日本が誇る名峰・富士はその姿から芙蓉峰と形容されてきており、新田次郎は千代子の生きざまを、まさに芙蓉のごとくであったと思ったに違いありません。

富士山における世界初の冬季観測というのは、確かに無謀な観測であり、失敗に終わっても不思議ではなかったといっても良いと思います。

しかし、それを未完とはいえ80日以上も継続させることに成功したのは、その裏側で支えた千代子夫人のおかげと言っても良いでしょう。彼女の助けがなければ到はどうなっていたのだろうかとついつい考えさせられてしまいます。

無謀な夫の行為に対して、あくまで冷静に判断し、夫の反対を押し切ってまで自らも冬期の富士に上るという、極めて冷静な判断はいったいどこからきたものなのでしょうか。

どこまでも夫である到の目指す目標を達成させるために自分の持てる力を発揮しようとする献身的な姿は人として素晴らしい生き方であり、女性のみならず、多くの人が見習いたいと感じると思います。

しかし、到自身も、自らの目標のためにその能力を伸ばし、努力を積み重ねていったその姿は素晴らしく、自分自身の可能性を信じて努力を持続すること、自分で限界を設けないことの大切さを感じる人も多いに違いありません。

……と書いてきてふと思い出したのが、最近テレビを賑やかしているドラマの「半沢直樹」です。実は私自身はほとんど見ていないのですが、いろんなマスコミ報道でその内容はだいたい把握しているつもりで、このドラマの中でも劇中の夫婦がお互いを信じ合い、ひとつの方向を向いて歩む姿が描かれていると聞いています。

野中夫妻が歩んだような、自らが誓った目的のために生死をかけて挑む、というほど厳しいものでないかもしれませんが、現在の日本のように離婚率の高く殺伐とした結婚砂漠が広がる国では、案外とこうした夫婦愛こそが最も求められており、それがこのドラマのヒットを支えているサブストーリーなのかもしれません。

新田次郎は、芙蓉の人のあとがきにこう書いています。

現在の世に、野中千代子ほどの情熱と気概と勇気と忍耐を持った女性が果たしているだろうか。私は野中千代子を書いていながら明治の女に郷愁を覚え、明治の女をここに再現すべく懸命に書いた。

「野中千代子は明治の女の代表であった」とも。さて、我が妻は、平成の女の代表になれるでしょうか……!?

富士山頂


先だってこのブログでも取り上げた、「風立ちぬ」がもうすぐ公開されるようです。宮崎駿の「崖の上のポニョ」(2008)以来5年ぶりとなる監督作で、「ゼロ戦」の設計者として知られる堀越二郎と、同時代に生きた文学者・堀辰雄の人生をモデルに生み出された作品です。

「主人公の青年技師・二郎が、不景気や貧困、震災などに見舞われ、やがて戦争へと突入していく1920年代という時代をどのように生きたのか、その生きざまや薄幸の少女・菜穂子との出会いなどを描く」と何かの映画紹介に書いてありました。

ネット上では、早くもその映画上の全ストーリーが書いてあるブログなども登場していますが、読んでしまうと劇場で見る分の楽しみが減ってしまうので、こうしたページは開かないようにしています。このブログでも、これ以上書くのはやめておきましょう。

ところで、この主人公の「堀越二郎」さんのことを調べていたら、「群馬県藤岡市出身。藤岡中学校、第一高等学校、東京帝国大学工学部航空学科をそれぞれ首席で卒業し、三菱内燃機製造に入社」とその略歴が書いてありました。

三菱内燃機製造?どこかで目にしたような気がするな……と記憶をだどってみると、確かその昔よく読んでいた新田次郎さんの小説、「孤高の人」の主人公も確かこの会社に勤めていたな、と思い出しました。

「加藤文太郎」という人で、前にも新田さんのことを書いたときに少し触れました。堀越二郎は明治36年生まれ、加藤文太郎は明治38年生まれですから、年もかなり近いわけで、同じ会社にいたなら、面識があったのではないか、と思って調べてみたのですが、どうも接点はなさそうです。

三菱内燃機製造というのは、現在の三菱重工業の前身にあたる会社で、1919年(大正8年)三菱合資会社神戸造船所から三菱合資会社神戸内燃機製作所として独立。その翌年に本社を名古屋に置いて、いったん社名を「三菱内燃機株式会社」として発足したのち、大正10年に「三菱内燃機製造株式会社」になったものです。

堀越二郎が勤めたのは、この名古屋本社のようで、ここにはこの会社の「名古屋工場」もあり、ここはその後、1934年(昭和9年)三菱重工業株式会社「名古屋航空機製作所」と改称、戦中の日本海軍の戦闘機製造にあたりました。堀越二郎がゼロ戦や九六式艦上戦闘機といった名機を生み出したのは、これ以降のことになります。

ちなみに、この名古屋工場は、現在、三菱重工業傘下の「名古屋航空宇宙システム製作所」という名称に変わり、飛行機だけではなく、ロケットの設計製作を行う会社になっており、日本の航空宇宙技術開発の最先端を担っています。

一方の加藤文太郎は、兵庫県の美方郡の旧浜坂町の出身で、近畿圏を生活ベースとしていた人です。「三菱内燃機株式会社」の前身である、「三菱合資会社神戸造船所」の時代に「内燃機設計課」のスタッフとして働いており、神戸勤務でした。

従って、年齢が近く同じ会社に入社したとはいえども、神戸と名古屋では接点はなかったでしょう。が、堀越二郎のほうはともかく、加藤文太郎のほうは、本社勤務のエリートであった堀越のその後の活躍のことを社内報か何かで知っていたかもしれません。

堀越二郎も優れた技術者でしたが、この加藤文太郎も、高校の夜間部しか出ていないとはいえ、その後努力してこの時代には高卒では難しいといわれた「技師」に昇格しています。

新田次郎(以下、うっとうしいので「さん」付けは、しばし略)の小説では、技師に昇格したのは、内燃機(エンジン)の設計において革新的なアイデアを出したからということになっていますが、おそらく事実でしょう。

この二人に何か技術的なことや、そのほかにも歴史的な接点があれば面白いなと思ったのですが、残念ながら今回はそうした事実関係はつかむことができませんでした。

が、学歴や技師としての活躍の違いはあれども、同じ時代に同じ環境で生きた二通りの技術者の生き様ということで、私自身もかつては技術者であったこともあり、手前味噌でありますが、この共通点の発見はなかなか面白いなと思いました。

加藤文太郎のこと

さて、加藤文太郎については、以前も書いたことがあったので、詳しくは書きませんが、1905年(明治38年)3月11日生まれで、その後日本を代表する登山家とまで言われるようになった人です。

1936年(昭和11年)1月に、数年来のパートナーであった吉田富久と共に、冬季登山では日本屈指の難山といわれる槍ヶ岳北鎌尾根に挑みましたが、猛吹雪に遭い、槍ヶ岳直下の天上沢で30歳の生涯を閉じました。

加藤文太郎は、「単独行の文太郎」と呼ばれ、一人で山へ入ることが多かった登山家ですが、その最後にパートナーを伴って山に入ったのは、加藤はもともと岩登りが得意ではなかったのに対して、この吉田富久はこれが得意だったため、厳冬の北鎌尾根に挑むにあたってはその欠点を補いたかったためではないか、とする説もあるようです。

当時の新聞は彼の死を「国宝的山の猛者、槍ヶ岳で遭難」と報じたそうで、この時代のこの遭難事件関連のスクラップ記事をいくつか目にしましたが、その捜索はかなり大々的に行われたようです。が、結局10日間にも及ぶ捜索の結果でも遺体はみつからず、二人が発見されたのはその年の夏のことだったようです。

加藤文太郎が、山登りを始めたのは、この神戸造船所に務めながら、兵庫県立工業学校夜間部に通っていたころのことのようで、1923年(大正12年)頃からは本格的に登山を始め、地元の神戸の山だけでなく、日本アルプスの数々の山々に登っています。

当時の彼の住まいは須磨にあったため、六甲山が歩いて登れる位置にあり、現在でも地元の人の中ではポピュラーな六甲全山縦走がそのきっかけだったようです。

ところが、その歩くスピードは異常に早く、ある日などは、早朝に須磨を出て六甲全山を縦走し、宝塚に下山した後、その日のうちに、また歩いて須磨まで帰って来たといます。その踏破距離は実に100kmに及ぶことになり、平地でもこの距離を歩くことは容易ではありません。

当時の登山は、戦後にブームになった大衆的な登山とは異なり、装備や山行自体に多額の投資が必要であり、猟師などの山岳ガイドを雇って行く、高級なスポーツとされていました。

その中で、加藤文太郎は、ありあわせの服装で山に出かけ、高価な登山靴も持たなかったため、「地下足袋」を履いて山に登る異色の存在でした。単独行であることと、地下足袋を履いていることが、彼のトレードマークとなり、このため「地下足袋の文太郎」とも呼ばれていました。

1928年(昭和3年)ごろから専ら単独行で日本アルプスの数々の峰に積雪期の単独登頂を果たし、なかでも槍ヶ岳冬季単独登頂や、富山県から長野県への北アルプスの単独での縦走によって、「単独登擧の加藤」、「不死身の加藤」として一躍有名となります。

1935年(昭和10年)、同じ浜坂出身の下雅意花子と結婚。新田次郎の小説では二人の間に娘ができたことになっていますが、調べてみたところ、その事実はなさそうです。結婚した翌年の1月に加藤は遭難していますから、おそらく子供がいたとしても、遭難後に生まれたことでしょう。

加藤と新田次郎の接点

実は、新田次郎は、この加藤文太郎と面識があったようです。彼が残した随筆に「不撓不屈の岳人加藤文太郎の追憶」というものがあり、この中に”一度だけ会った人”として紹介されており、その出会いの場所とは、なんと富士山でした。

新田次郎は、本名は藤原寛人(ふじわらひろと)といい、作家になる前には実は気象庁の職員でした。気象庁へ入庁後に、休職して旧制諏訪中学校(現在の長野県諏訪清陵高等学校)の無線電信講習所本科の「電機学校」に通ってここを卒業しており、これは現在の東京電機大学の前身になります。

ちなみに、私の愚息は現在この学校に通っており、新田次郎はその先輩ということになります。

富士山測候所に配属されたのは、この電機学校を卒業する数年前のことであり、気象庁へ入庁してすぐのことでした。この当時、新田(藤原)は、東京にある中央気象台に勤務していましたが、富士山での観測のために年に何度か交替勤務で富士登山をしており、加藤文太郎と出会ったのはそこでの勤務のときのことでした。

新田を含む複数の気象庁職員は、山頂での観測勤務を終えて新たな観測隊との交代を済ませて下山する途中だったようで、このとき、富士の五合目にある避難小屋で一服してから麓に下りる予定だったようです。

厳冬期のことでもあり、下山はともかく、富士山の登山においては二日かけるというのは現在でも常識といえるところですが、このとき加藤を目撃した新田は、ここを彼は一日で登ったと書いています。

新田らが、この五合目にある避難小屋で休息をとるために入っていったとき、加藤はアルコールランプに火をつけ、コッフェルで湯を沸かしていたそうです。湯が沸くとその中に、ポケットからひとつまみの甘納豆を出して投げこみ、スプーンですくっておいしそうに食べていたとか。

ちなみに、この甘納豆は、「孤高の人」の中では加藤文太郎の「好物」ということで頻繁に出てきます。おそらくはこれを目撃した新田が、加藤の人間くささを出すための材料としてこの逸話を利用したものでしょう。

このとき、時間はもう既に3時近くになっていたそうで、このとき新田は加藤はここに泊まるのだと思ったようです。というのも、冬の富士山での午後3時には、通常の登山であれば、行動停止の限界であったためです。

ところが、口に出した言葉は、「まだ日が高いのにここに泊まるのですか」だったそうで、これは受け取りようによれば、こんなにまだ明るいのに頂上をめざさないのですか、とも解釈されかねません。

それに気が付いた新田はあわてて、「もう間もなく暗くなります」と言い直しており、これは、この時間から頂上をめざすのは危険ですよ、という意味でした。が、このとき彼は、にやっと笑って、「そうですか、私は頂上まで行って見たいと思います。頂上には観測所があるのですね」と答えています。

これをどう捉えたのかよくわかりませんが、このとき新田は、「観測所があって所員が五人います。泊めて貰ったらいいでしょう」と答えたそうで、とくに引き止めることばを与えなかったのは、加藤の自信のありげな笑いのためだったのでしょうか。

彼は甘納豆を食べ終わるとすぐ出発したそうですが、これを見送っていた新田らは、突風が吹きまくる富士山の氷壁をまるで平地でも歩くような速さで歩いて行く彼の姿を目撃したそうで、新田たちは「まるで天狗のような奴だなと」口々に言い合ったといいます。

その後、下山していった新田次郎と加藤がその生涯においてお互いすれ違うことは二度とありませんでした。が、後年、新田が作家としてデビューしたのち、「孤高の人」の執筆にあたってその奥さんである藤原花子さん(旧姓下雅意)に取材のために会っています。

この取材のときのことも、前述の富士山での出会いのことを綴ったエピソードにも書かれており、新田は、もし富士山で彼と会っていなかったら、孤高の人の執筆はしなかっただろう、と語っています。

「ちょっと顔を合わせただけでしたが、なにか心の中に残ったものがあったのです」と書いており、実際の小説の中でも、このとき目撃した風のように歩く加藤の姿が時々使われており、また、新田が目にした加藤の自信ありげな笑顔は、「不可解な微笑」といった表現で文中に出てきます。

このときみかけた彼のぎこちない微笑についても花子夫人にインタビューで質問しており、夫人によれば、これは加藤独特の照れかくしの微笑であったそうです。彼女だけでなく、誰しもがこの笑い方には違和感を覚えたようで、馴れるまではちょっとへんな笑い方だな、と思ったらしいということでした。

しかし、新田自身は彼のこの「薄笑い」が小説の中では「たいへん役に立ちました」と述懐しており、この彼との出会いがなければ、こうした人間・加藤文太郎の本質のようなものは小説中で描き切られることはなかったかもしれません。

新田次郎の仕事

新田次郎は、この加藤との出会い後も中央気象台の職員として千葉の布佐気象送信所で勤務し、その後小笠原諸島の母島での測候所建設に携わったあと、1943年に満州国観象台に高層気象課長として転勤になっています。この間、1939年には、 「兩角(もろすみ)てい」と結婚、その後二人の男児と長女を授かっています。

ところが、この長女咲子が生まれた1945年、敗戦の混乱の中で、新京においてソ連軍の捕虜となり、その後中国共産党軍に拉致され、一年間の抑留生活を送っています。

この時期の、家族の引き揚げの体験を妻・ていが「流れる星は生きている」として作品化し、これはベストセラーになり映画化もされました。戦後まもないころで藤原家も貧困に悩んでいましたが、このヒットは家計を大いに助けることにもなりました。

この夫人の作家としての成功が、新田自身をも作家活動を考えるようになったきっかけになっていったようです。

1946年に帰国。中央気象台に復職しながら、サンデー毎日第41回大衆文芸に「強力伝」を応募、これが、「現代の部」で一等を得たため、本格的に作家活動をはじめましたが、その後この「強力伝」で、新田次郎は第34回の直木賞を受賞することになりました。

その後も、気象庁の職員と作家活動の二足のわらじを履きつつの生活が続きましたが、1961年には、気象庁の気象測器調査のため、3ヶ月渡欧。

帰国後、1963年から1965年までは、気象庁観測部測器課補佐官、高層気象観測課長・測器課長などを歴任しています。

私も気象庁さんとはいろんな仕事でお付き合いがあるので、良く知っているのですが、気象庁内で課長さんになるというのは、将来を嘱望されている人間だけです。

無論、この時代と現在はかなり勤務体系は異なるでしょうが、こうしたお役所では課長職まで行った人はたいていはその後、地方といえども最低限、どこかの気象台の台長クラスの長にまでなっていたでしょう。かなりの重職といえます。

富士山レーダー

その証拠に、新田は、1966年(昭和41年)、このころ気象庁が様々な気象観測プロジェクトに挑戦していた中でも最も重要といわれた、「富士山気象レーダー」の建設責任者に任命されています。

このときの経験は、のちに彼自身の作品「富士山頂」という作品で描かれており、なかなか面白い作品です。みなさんも読んでみてください。またこの建設工事に関してはNHKの「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」の第1回で取り上げられました。覚えている方も多いでしょう。

この富士山気象レーダーは、1999年(平成11年)まで富士山最頂部の剣ヶ峯にある富士山測候所に据えられていた、まぁるい球状のドーム型レーダーです。東京都内からも良く見え、私も望遠鏡をのぞいては、あぁ今日もあそこにあるわい、と何が面白いわけでもないのですが、これが見えることを楽しみにしていたのを覚えています。

今はもう世界遺産になってしまった富士山ですから、景観の疎外になるという意味では、なくなってしまった今のほうがよいのかもしれませんが。

この建設のきっかけになったのは、1959年に生じた伊勢湾台風による、台風による被害としては過去最悪といわれる災害でした。

台風の接近と伊勢湾の満潮の時刻が重なったことで大規模な高潮被害が発生し、死者行方不明者5000名という大災害となりましたが、気象庁としては、これを受けて台風被害を予防する目的で日本本土に近づくおそれのある台風の位置を早期に探知することが使命として課されることになりました。

設置場所は全方向にわたってレーダーの電波が山岳で遮られることがないという観点から富士山頂が選定されることとなり、このため、従来から測候所として機能していた富士山測候所にレーダー棟を増設することになったのです。

工事は設置場所までの資材搬入経路の確保が格別に困難なこと、設置場所の気象条件が過酷なこと、納入機器が他に例を見ない性能であることから、公共工事としては異例の「随意契約」になりました。

そして三菱電機にその機器の製作と納品が発注され、取り付け工事は大成建設が請け負いました。設置費用は2億4千万円、着工は1964年5月のことでした。

当時の気象庁の富士山レーダーにかける期待はきわめて高く、すでに各地で運用されていた5.7センチ波レーダーではなく、観測エリアを広範囲にわたって確保するため、途中の雨雲等による電波減衰を防ぐ目的で異例の10センチ波レーダーを用いることになりました。

ところが、レーダー画像の分解能低下を防ぐためには、使用するアンテナを当時標準だった直径3メートルから直径5メートルにまで大型化することが必要となりました。

このためこれを保護するレーダードームも直径9mもある超大型のものとなり、風速毎秒100メートルの冬の風に耐えられるために、その重量も620kgというとてつもないものになりました。

半球状のドーム骨格にパネルを張ったその姿は、開発関係者や現場工事関係者らに「鳥籠」とあだ名されましたが、これはそのあだ名の通り鳥籠のようにヘリコプターから吊り下げて空輸して設置するしかないためにこう呼ばれたのでした。

こうした巨大な構造物を現地に搬送する際に、分解して運ぶにしてもその部分部分だけでもかなり大きなものとなり、それぞれを運搬し山頂で組み立てることは難しくなります。しかも、現場の気象条件は過酷であるため、比較的気候の穏やかな夏場だけで完成させることは困難だったのです。

一方、この工事ではこのドーム建設だけでなく、これを設置する土台の工事などにおいても、大量の資材が必要となり、その搬入だけでも大きな難題でした。

レーダーの設置を請け負った三菱電機では、資材の搬入をブルドーザー、強力(人力輸送)、輸送用ヘリコプターの3方法で試みましたが、最終的に、工事資材は500トンを超え、そのほとんどをブルドーザー用の専用道を切り開き、運ぶという大がかりなものになりました。

それでも着々と工事は進められ、いよいよあとは、レーダードームを据え付けるだけの段になりましたが、実はこれがこの難工事のなかにおいても最も難しく、最後の障害でした。

ヘリコプターによる空輸では十分な揚力が得られるかが問題になりますが、富士山頂上空の高度では空気が薄いために、平地よりも得られる揚力が少なく、このためペイロードもMaxで450キログラムも不足することが骨格完成後に判明。

このため、最終的には揚力が不足している分だけヘリコプターのドアや座席などを取り外して軽くするという策がとられ、しかもヘリコプターが無事に帰還できる必要最小限、ギリギリの燃料搭載で対応しました。

ということは、ドームの設置に時間がかかりすぎれば、ヘリコプターの帰還もあやうくなるという危険性があるということであり、また万一設置に失敗した場合には、これを再び吊り下げての帰還はありえないわけで、文字通り必発必中が求められた工事でした。

この時に利用されたヘリコプターは、ソビエト製のシコルスキーS-62というもので、海上保安庁の救助ヘリなどとしても有名なものです。ご覧になったこともある人も多いでしょう。

このレーダードームを搭載したシコルスキーは、晴天となった1964年8月15日の午前7時55分に富士宮市にある臨時ヘリポートを離陸。約18分後に骨格設置予定の富士山頂に到着しました。

ところが、好天が災いし、富士山頂上空はまったくの無風状態で、このため揚力を得るために期待していた上昇気流が全く得られず、予定していたような長時間のホバーリングができないことが判明。

ヘリコプターの操縦は困難を極めましたが、工事関係者たちが固唾をのんで見守る中、熟練の操縦者は、「置き逃げ(エスケープ)」という、いわばタッチ&ダウンに近い操縦方法で設置を強行し、見事にドームを土台に据えることに成功しました。

こうして、富士山レーダーは完成し、これが出来るまでは世界で一番高所にあった気象用レーダーはアメリカモンタナ州にある標高2,600mの山の山頂にあったものでしたが、完成した富士山レーダーはこれを一気に1,100m以上も世界記録を塗り替える事になりました。

この翌年の1965年には運用が開始され、出力1,500キロワット、5mも直径がある回転式パラボラアンテナによる気象レーダーによって、最大800km先まで観測が可能となり、その後長きにわたって日本の空を見守りました。が、その後の気象衛星の打ち上げなどによってその役割を終え、1999年には運用終了となり、解体されました。

現在は、山梨県富士吉田市にある富士山親水公園(リフレ富士吉田)という「道の駅」のすぐ側に、富士山に設置されていた材料がそのまま使われて復元されており、「富士吉田市立富士山レーダードーム館」という名で、博物館として使用されています。

実は私もここに行きたい行きたいと思いつつまだ実現していません。館内には富士山レーダーでの気象観測に実際に使われた機材等が展示されているほか、富士山頂の「環境体験コーナー」ということで、気温-5℃、風速13mの世界を体験できる設備があるそうです。

また、「新田次郎コーナー」もあり、富士山レーダー建設当時の気象庁職員であった彼のゆかりの品や著書も展示されているとか。

新田次郎と司馬遼太郎の接点

その新田次郎こと、藤原寛人は、この富士山レーダードームの工事を完成させ、その運用が始まった翌年の1966年(昭和41年)気象庁観測部測器課長を最後に依願退職しました。

以後も活発な文筆活動を続け、晩年には「武田信玄」などの歴史小説をいくつか書きましたが、1974年には、この「武田信玄」によって吉川英治文学賞を受賞しています。

1979年には、紫綬褒章を受章しましたが、その翌年の1980年2月15日、心筋梗塞のため武蔵野市の自宅にて逝去。68歳でした。菩提寺は郷里の長野県諏訪市の正願寺だそうです。

気象庁を退職する際には、文筆一本で食っていけるかどうかを大変懊悩したといい、その決意に至るまで、6年後の定年まで待つべきかどうか悩み、また、退職に際しては、これだけ有能な人物であったことから、気象庁からも繰り返し強い慰留を受けたそうです。

新田次郎の小説を読んだ方はご存知だと思いますが、彼の文章は非常に緻密で、ひとつの小説を書くにあたっても、年代別に人物の流れを時系列に整理した「小説構成表」を作成してから執筆に取り掛かっていたそうです。

彼が作家としてデビューし、しかしまだ気象庁の職員だったころ、同じ作家の司馬遼太郎はまだ産経新聞の新聞記者でしたが、ある日のこと、記者として新田に原稿執筆を依頼しに行ったことがあるそうです。

そのとき、新田はこの申し出を断っていますが、依頼を受けることができない理由をひとつひとつ丁寧に司馬に説明したといいます。その説明は、勤務時間・執筆時間・病気になる可能性などなどの細かいものだったそうで、これらをトウトウと述べたあと、その依頼を丁重に断ったそうです。

司馬遼太郎の小説も新田に勝るとも劣らぬほど緻密なものですが、若き頃にこの二人がこうしてすれ違っていたとは面白いものです。

ちなみに私は、いまだにこの二人の大ファンで、中高大と若いころにはその作品を読み漁り、ほとんど読んでいないものはない、といってもよいほどです。

私のこのブログの文章が妙に細かいことに気が付いておられる人も多いと思いますが、それはこの二人の影響を受けていることにほかなりません。無論、この大作家たちの文章には遠く及びませんが……

とはいえ、この二人の作風はよく見ると大きく違います。司馬さんの作品は、各時代に生きた人物をどちらかといえば「泥臭く」徹底的に研究し、ときには歴史に埋もれてしまっていたかもしれないような無名な人をも取り上げ、この人物を通じて人間とは何か、をできるだけ「客観的に観る」ということを視点の中心に据えているように思います。

新田さんの作品に登場する人物もまた無名の人が多いのですが、彼の場合はその舞台が、「山岳」や「アラスカ」といった特定の大自然の中であり、その中にあって強い意志で道を切り開いた人物を描いたものが多く、この登場人物の内面を「主観的に表現する」という視点に足場を置いている作品が多いように思います。

常に何かに「挑戦」する主人公の姿を描いているところが司馬さんと違い、司馬さんの作品の中には乃木希典を描いた「殉死」や、「坂の上の雲」の中の正岡子規のように、夢も希望もない中で絶望し、どちらかといえば「暗い人生」を送った人物の「無常」を題材として描き切ったものも多いようです。

この点、途中で死やそのほかの障害で挫折しながらも、最後の最後まで希望を捨てない主人公が描かれることの多かった新田作品とは対照的といえば対照的です。

もともと新田さんは技術者であり、司馬さんは新聞記者であるという出自の違いも影響しているのでしょう。技術者には誰にでも見果てぬ「夢」があり、新聞記者はいつも「現実」、あるいは「真実」を追い求めているものです。

ただ、その新田さんも、晩年は司馬さんと同じく歴史小説に熱心に取り組みました。新田次郎といえば、山岳小説家の代表とされますが、自分の作品を山岳小説と呼ばれることを大変嫌っていたそうで、むしろ晩年に書いた歴史小説のほうが自分の作品としては気にいっていたそうです。

中でも武田家の盛衰は一番お気に入りのテーマだったらしく、「武田信玄」に次いで続編である「武田勝頼」を執筆し、さらには続々編である「大久保長安(武田氏に次いで徳川氏の家臣となり、後に江戸幕府勘定奉行、老中となった)」を執筆するほどの入れ込みようだったそうですが、最後にはこれを執筆中に亡くなりました。

私が大学生だったころのことであり、まだ静岡にいたころのことです。それから30年あまりも経ったあとに、再びこの静岡で新田さんのことを書いているということが、何やら不思議な気がしています。

もしかしたら、新田さんが、お前、まだ俺の作品全部読んでいないだろう、とおっしゃっているのかもしれません。

図星です。その最晩年の歴史ものはほとんど読んでいません。新田さん、ごめんなさい。

……ということで、その作品を探すべく、今日の午後は本屋にでも行ってみますか。みなさんもいかがでしょう。新田作品、面白いこと請け合いです。