神々の黄昏

アメリカへ

第一次世界大戦が終わり、フランス国内の復興も徐々に始まろうとしていました。マリーらのラジウム研究所も再開しましたが、戦争で供出した設備や試料はあまりにも多く、しばらくはまともな研究や実験などできるような状態ではありませんでした。

そのころ、ユダヤ系ドイツ人のマイアー・アムシェル・ロートシルトを祖とし、ヨーロッパの各地に銀行を持つ大財閥のロスチャイルド家から申し出があり、財団からの出資によって、1920年にキュリー財団が設立されました。

主として放射線治療の研究を支援する非営利団体として発足したキュリー財団でしたが、その目的は、世界中の研究者の研究を支援することであり、マリーらの研究所の研究を支援することだけが目的ではありませんでした。

このため、マリーらの研究所に下りる研究資金は微々たるもので、せっかくの財団創設でしたが、マリーら自身の研究資金不足の解消にはほとんどつながりませんでした。

ちょうどそのころ、アメリカの女性雑誌「ディリニエター(Delineator)」の編集長、ミシイ・ブラウン・メロニーという女性が、マリーにインタビューを申し込んできました。マリーはこれに応じ、そのインタビューの席でメロニーから、今何が一番欲しいかという質問を受けました。

これに対して、マリーは、「1グラムのラジウム金属」が欲しいと答えます。その価格はその当時でも10万ドルに相当するほどの金額でした。

このころ、科学技術の新興に力を入れていたアメリカでは、先行する科学技術には豊富な研究資金が投入されており、アメリカならばノーベル賞を受賞するような優秀な科学者に対して、この程度の出資をするのは当たり前のことでした。

ところが、マリーのような優秀な科学者に十分な資金すら提供されていないフランスの科学界の実情を知り、メロニーは大いに驚きました。

マリーとのインタビューを通じて語り合い、第一次世界大戦での彼女の活躍などから、無私の心で社会貢献をしようとするマリーの生き方や、その人柄に強く惹かれたメロニーは、マリーを援助しようと心に決めます。

そして、アメリカに帰国後に、マリーにラジウムを贈呈する資金を集めるためのキャンペーン運動を起こし、やがてマリーの希望する「1グラムのラジウム」が彼女の元へ届けられることになるのです。

これをきっかけとして、マリーとメロニーの交流は深まり、その後、マリーは彼女の求めに応じて、アメリカへ講演旅行に出かけることに合意します。しかし、講演旅行とは名ばかりで、実情は研究資金を集めるための宣伝活動であったこの旅行は、メディア嫌いのマリーにとっては気の進まないものでした。

とはいえ、マリーはアメリカ各地で大歓迎を受け、この当時の大統領、ウォレン・ハーディングから直々にラジウムの授与が行われるというセレモニーまで設けられました。1929年には再度、アメリカに渡り、その4年前の1925年にワルシャワに設立されたキュリー研究所に導入する機器類の資金を集めるのに成功しています。

フランスでは心無いジャーナリストたちに自分たちの生活を踏みにじられたマリーでしたが、自由の国アメリカはそんなマリーの心を癒してくれるような場所であり、あれほど嫌いであった講演が楽しくなり、自らがホテルにジャーナリスト達を呼んで接待することもあったといいます。

指導者として

アメリカへの旅は大成功を修め、研究所はラジウム以外にも多くの鉱石サンプルや分析機器類、そして資金を得ることができました。しかし、彼女は、自分の名声や影響力が大きくなればなるほど、かつてのように研究や実験に没頭することは許されなくなっていくことを悟ります。

このころから、マリーは自らの研究よりも、パリのラジウム研究所を大きくすることを目標とするようになり、ここを放射能研究の拠点として、若手の研究者を育てていくことに自分の情熱を注いでいこうと考えるようになります。

このころのラジウム研究所は、性別・国籍を問わない多様なスタッフを抱えるようになっており、マリーは彼らの指導に多くの時間を割き、毎朝のようにスタッフと研究や実験の指針や進捗を相談していました。彼女の周りは、いつも論文の校正などを願う研究員らでひしめき、笑い声が絶えなかったといいます。

マリーは適切な指示や指導を与え、成果が上がった際には祝いのお茶会を開くなど、彼らを導き、その実力を伸ばすことにおいては一流で、そこでは、かつての貧困時代から一貫して女学校で教べんをとってきた経験がものをいいました。

やがてこの研究所からは、アルファ粒子のエネルギーが一定ではない事を示したサロモン・ローゼンブルムや、真空中のX線観察を行ったフェルナン・オルウェック、フランシウムを発見したマルグリット・ペレーなどの才媛が続出しました。

その中でも際立ったものは、娘イレーヌと結婚したフレデリック・ジョリオ=キュリーでした。彼とイレーヌが共同で行ってきた人工放射能の研究は、学界で高く評価され、夫妻は1935年にノーベル化学賞を受賞しました。

マリー自身が、ノーベル賞を受賞という栄誉を得たばかりでなく、その指導力を生かし、自身のDNAをその後輩に植付けてきた彼女の努力は、ここに結実しました。

しかも母娘二代にわたってのノーベル賞は過去にも例がなく、娘の誉と自らの栄誉、そしてかつての愛する夫ピエールの栄誉にも思いをはせ、ようやく何事かを成し遂げた気分に浸ることのできるマリーなのでした。

放射能その光と影

娘のイレーヌのノーベル賞受賞のほか、多くのすぐれた研究者を排出していたラジウム研究所でしたが、このような華やかな成果を出しつつも、放射能というその当時まだ未知の研究対象については、それが人体へどのような影響を及ぼしているか、という点においては十分な配慮が行き届いているとはいえませんでした。

東北大学を卒業後、東京帝国大学(のちの東大)の助教授をしていた日本の「山田延男」は、日本政府から派遣され、1923年から2年半、ラジウム研究所でイレーヌの助手としてアルファ線強度の研究を行っていました。

マリーの支援も受けながら5つの論文を発表しましたが、その直後、原因不明の体調不良を起こして帰国。翌年亡くなりました。1925年1月には別の元研究員が再生不良性貧血で死亡。さらに個人助手も白血病で亡くなるなど、ラジウム研究所では次々と「原因不明」の死が相次ぎます。

しかし、この当時の医学では放射線と人体の健康の間の明白な因果関係が明らかにされておらず、何かの病気にかかっても、それが放射線の直接的な影響だと考える研究者は少なく、強い放射線から何等かの遮蔽物で人体を防護するといった、具体的な対処法は習慣化されていませんでした。

1932年、65才になっていたマリーは、うっかり転倒して右手首を骨折してしまいます。しかし、その傷はなかなか癒えない上、頭痛や耳鳴りなどが続き、健康不良が長い間続きます。

1933年には、今度は胆石が見つかりましたが、手術を嫌がり、薬物治療で乗り切ろうとします。この年の春、マリーはポーランドを訪問しましたが、これが最後の里帰りとなりました。

1934年の5月のある日、気分が優れずいつもより早く研究所を後にしたマリーは、自宅に帰り、そのまま寝込むようになってしまいます。医者の診察を受けたところ、今度は結核の疑いがあるといわれたため、さすがに本格的に療養に入ることを決め、フランス東部のオート=サヴォワ県のパッシーにあったサナトリウムへ入所しました。

ところが、ここで受けた診察では肺に異常は見つからず、ジュネーヴから呼ばれた別の医師が行った血液検査の結果をみて下された病名は、やはり、「再生不良性貧血」でした。

再生不良性貧血は、骨髄中の造血幹細胞が減少することによって、骨髄の造血能力が低下し、血液中の血球が減少してしまう、一種の白血病です。必ずしも放射線だけが原因ではありませんが、原因のひとつとされています。

それからおよそ二か月後の、7月4日の水曜日。マリーはこのサナトリウムで静かに息を引き取りました。享年67才。愛する夫ピエールの死後、26年もの間、ひとりで放射能と戦ってきたヒロインの死は、苦しむこともなく安らかだったといいます。

エピローグ

パリのラジウム研究所は、その後、娘のイレーヌ・キュリーが二代目所長を務め、現在はキュリー研究所(Institut Curie)という名称で、医学、特に癌研究の拠点となっています。

この研究所の一部で、元マリーが研究所長をしてた当時の所長室と実験室は、博物館として整備され、一般の人でも見学できるようになっています。しかし、マリーの残した直筆の論文などのうち、1890年以降のものは放射性物質が含まれ取り扱いが危険だと考えられており、公開されていません。

当時彼女が使っていた料理の本からも放射線が検出されたそうで、これらは鉛で封をされた箱に収めて保管され、閲覧するには防護服着用が必要になります。また、マリーが使っていた実験室も、その昔は放射能で汚染されて見学できませんでしたが、近年汚染除去が施され、公開される運びとなりました。

この部屋には実験器具なども当時のまま置かれており、そこに残されたマリーの指紋からも放射線が検知されるといいます。

ふたつのノーベル賞を受賞しながら、外国人であることを理由に、1911年のフランスアカデミー学会の会員の選挙に敗れたマリーですが、その後、1922年には、パリ医学アカデミーが医療への貢献という理由で、前例を覆して彼女を会員に選出しました。

しかし、フランス政府としては、その後も、あいかわらず放射能の研究者としてのマリーに冷淡で、その死に至るまでラジウム研究所への資金援助は微々たるものだったといいます。

マリーが亡くなった当時、その亡骸は、夫ピエールが眠るパリ郊外のソーの墓地に、夫と並んで埋葬されましたが、60年後の1995年、ふたりの墓はフランスを代表するかつての偉人たちの墓のある、「パンテオン」に移されました。

パンテオンは、ギリシア語で「すべての神々」を意味するそうで、キュリー夫妻は、フランス人にとっては「神」になったわけです。

しかし、実際には日本の靖国神社のような宗教性はなく、どちらかといえば、「偉人の殿堂」といったところでしょう。フランスのパンテオンに女性が祀られるのは、初めてとのことでした。

ちなみに、このとき、マリーの棺内部の放射能測定が行われましたが、その結果としては、放射線量は若干高めながら、許容度の5%程度にとどまったため、彼女の死因が放射線被曝であるという説には疑問が挟まれたということです。

放射能研究者である彼女とピエールの墓がここに移されたのは、「夫妻の業績を称え」、ということでしたが、これには別の見方もあります。

原子力大国であるフランスとしては、このころから積極的な原子力利用を推進しようとしていましたが、それにあたり、ノーベル賞受賞者である二人を「殿堂」に祭り上げることで、そうした国の方針に国民を賛同しやすくさせるためではなかったか、とも考えられるのです。

もし、彼女が放射能の研究者ではなく、別の分野でノーベル賞をとった人物であったなら、その墓はパンテオンなどには移されなかったのではないでしょうか。

マリーとしても、そんな国家主義的なフランスの側面は生前から重々理解し、苦々しく思っていたことでしょう。しかし、そんなフランスに、マリーが骨をうずめたのは何故でしょうか。

その生涯で、何度か祖国のポーランドに帰るチャンスはあったのにも関わらず、最後までフランスで研究を続けたのは、それほどフランスが好きだったのでしょうか。

私は違うと思います。彼女がフランスを離れなかった理由、それは、ラジウムという秘められたパワーを持った物質を平和裏に利用していける国は、その当時のヨーロッパにあってフランスしかないと考えたからではないでしょうか。

ポーランドは独立したとはいえ、この当時まだまだ弱体国家で、いつまた他の国に占領されてしまうかもしれません。隣国のドイツもロシアも、昔から他国を占領してわが物にしてきた肉食系国家であり、イギリスやスペインも、世界各国に植民地を持つ侵略国家です。

フランスもまた、世界各地に植民地を持っていましたが、イギリスのように諸外国に執拗に自国の制度を押し付けたがるような国ではなく、かといってスペインのように弱体化しつつある衰退国でもありません。

何かにつけ、他国とは違うことをアピールしたがる国民性を持ち、他国に頼ることなく、独自の文化、独立した国家体制をこの当時築くことに成功していた数少ない国のひとつといえるでしょう。

そのフランスこそが、その当時にあって最も安心して放射能研究をおこなえる唯一の国である、とマリーは判断したに違いありません。

そして、もうひとつ大きな理由がありました。それは、愛する夫ピエールの母国がフランスであったということです。10年以上もの間、愛と信頼をもって、ともに放射能研究に挑んだ彼の存在は、彼女の体の一部のようであり、その夫を事故で亡くしたあとも、その彼が眠る祖国に居続けたい、と彼女は考えたのだと思います。

死した今、二人の墓碑はパンテオンに移されましたが、しかし、あの世で再び巡り合った二人の魂にとっては、そんなことはどうでもよいと考えているでしょう。

むしろ、すでに役割が終わったともいえる、原子力という技術にしがみついて生き残っていこうとしている、このフランスという国の行く末を憂えるばかりなのではないでしょうか。

いつの日か、このキュリー夫妻が再びフランスに生まれ変わったら、原子力に頼る必要のない未来永劫安全なエネルギーの供給源を見つけてくれるような気がます。

いや、キュリー夫妻が生まれ変わるのは日本かもしれません。生まれかわったキュリー夫妻が、荒廃した日本に手を差し伸べ、日本を安全な国に導くとともに、フランスだけでなく全世界を救済していくに違いありません。

そういう日が来るのを願いつつ、この項を終えたいと思います。

戦う研究者

悲しみを乗り越えて

不慮の事故でピエールを亡くした直後のマリーは、沈黙に沈んだままでいたかと思うと、急に悲鳴を上げるなど、極端に不安定な精神状態に陥っていました。朦朧とした面持ちで窓の外を眺めるその姿は、魂のぬけがらそのもののようで、アパートに閉じこもり、毎日通っていた研究室にすら、顔を出さなくなっていました。

ピエールが亡くなってから一か月後の1906年5月のことでした。ピエールが勤めていたパリ大学は、彼のために物理学部に用意していた職位と、実験室における諸権利をマリーのために提供することを決定し、そのことをマリーに伝えてきました。

夫の死後一か月を経て、少し落ち着いてきていたマリーでしたが、まだまだ気持ちの整理がつかず、この件は即座に回答せず保留し、ひとり部屋に引きこもって考えました。

放射能の研究一筋に費やしてきた10年あまりの年月の間、いつも一緒にいてくれたピエールを失った心の隙間は簡単には埋められそうもありませんでした。彼女にとってピエールは夫や共同研究者という以上の人間であり、体の一部といっても良いほどの存在でした。

しかし彼女は気付きます。体の一部は失っても、まだ自分は生かされている。ましてやピエールの魂は今も私と一緒にいる。まだまだやれる。いや、ピエールがやり残したことを私がやらなければならないのだ……と。

そして、彼女は彼の意思を継ぎ、ピエールが作り上げようとしていた研究所を、自分が完成させるべきであると考え、パリ大学での彼の職位と実験室を引き継ぎたい旨を関係者に伝えました。こうして、この当時フランスでも珍しく、パリ大学としても初の女性教授が誕生することになるのです。

1906年、11月5日。マリは万雷の拍手を受けてソルボンヌの教壇に立ちました。女性初のノーベル賞受賞者が、その初めての講義でどんな話をするのだろう、と興味津々の学生たちとを前に、マリーがまず最初に語ったのは、ピエールが最後に行った講義内容の要約でした。

彼が最後に語ったことをもう一度ゆっくりと繰り返したあと、今後はピエールが予定していた講義を彼女が引き継ぐつもりであることを淡々と述べました。就任の挨拶はなく、ただピエールの最後の講義を繰り返しただけの初講義に、学生たちはあっけにとられながらも、故人の志を継ぐのだというマリーの強い意志を感じとり、大きな拍手が生まれました。

誹謗と中傷の中で

こうして、マリーは夫の死を乗り越え、再び、放射能研究の場に戻ってきました。しかし、神はまだまだマリーに安息の時間を与えてはくれません。

パリ大学の教授に就任し、研究に復帰したマリーがどうしても取り組まなければならないことがひとつありました。それは、純粋なラジウム金属の抽出です。

そのころ、イギリスの物理学会の重鎮、ウィリアム・トムソン博士は、「ロンドンタイムズ」に論文を掲載し、その中でラジウムは元素ではなく、化合物であると書いていました。

ピエールとマリーは、塩化ラジウムの結晶の抽出には成功していましたが、まだ純粋なラジウム金属を取り出すことができておらず、物理学会の重鎮のトムソン博士のような人物の見解であるだけに、このことに賛同する学者も多く、悔しい思いを持っていました。

そして、その思いを晴らすべく、EPCIでのかねてからの共同研究者らとともに、パリ大学の新しい実験室で再度ラジウム金属の抽出に挑戦。ついに、1910年9月7日、ウランの約300倍の放射能を持つ純粋なラジウム金属0.0085グラムの単独分離に成功するのです。

ピエールとともに、ラジウムが元素であること予測する論文で発表して以来、12年の年月が経っており、まさに夫妻の執念がここにきてようやく実ったのです。

これにより、トムソン博士の意見は誤りであることが立証され、ラジウムは原子番号88の元素として、その後、元素周期表にも掲載されるようになります。

夫の意思を継ぎ、パリ大学に発足させた研究所は、このラジウムの単離の成功に先立つこと三年前の1907年から、アメリカの大富豪、アンドリュー・カーネギーからの資金援助を得ることができるようになり、研究員も10人程にまで増えていました。

マリーはこのころ、ラジウムが出す放射能の国際基準単位を定義する仕事を行うようになっており、1911年に、この放射能の単位を、夫妻の姓からとって「キュリー」(記号:Ci)とすることが決定されました。

この年、フランスの科学アカデミーでは空席ができ、マリーがその空席を埋める会員として、初の女性候補として推薦されます。しかし、この席を巡っては、対立候補があり、その最有力者であるエドアール・ブランリーとの間で、支持者による二つの陣営が出来上がる構図が生まれました。

会員の選出はアカデミー会員の投票による選挙で行われる予定でしたが、マリーがフランス人ではなくポーランド人であり、かつ女性であったことから、これを認めるか認めないかということで、選挙を始める前から世論を巻き込み、新聞ネタになるほどの大騒ぎになりました。

結果としては、僅差でブランリーが選ばれました。これに対して不服はないのかなどと、新聞などのメディアがマリーのところへ押しかけましたが、マリーは彼らを相手にせず、淡々とした態度を貫きとおしました。

しかし、この当時のマリーの手記には、フランスアの科学カデミーの古い因習を批判する文字があり、このあと二度と候補にならなかったばかりか、機関紙への論文掲載も拒否するようになり、フランス科学アカデミーとは完全に袂を分けることになりました。

この1911年という年は、マリーにとっては、何かとわずらわしい出来事が多い年でした。

科学アカデミーの一件があったそのすぐあとには、5歳年下で、ピエールの教え子の若い男性との不倫記事がある新聞に掲載されます。有名人のスキャンダルをネタにすることを売りにしていた三流新聞でしたが、ドイツとの戦争が噂されるという暗い世相の中、スキャンダルに飢えていた市民には格好の話題となりました。

この報道は、他の新聞社も刺激して報道合戦がまき起こり、ついには、マリーがその男性に宛てた手紙の暴露記事まで掲載されるようにまでエスカレートしていきます。マリーは実はユダヤ人だ、ピエールは妻の不倫を知って自殺したのだとか、あらぬ事を連日書き立てられ、あげくのはてにはマリーが参加していた国際会議にまで、新聞記者が押し寄せてくるようになりました。

自宅に帰ると、そこは群集に取り囲まれ、投石する輩まで出るような大騒ぎになることもあり、これにはさすがにマリーも困惑し、子供たちを連れて親しい友人夫妻宅へ避難する必要性にまで迫られます。

そんな中、11月7日になって、マリーに一通の電報が入りました。それは、スウェーデンの王立アカデミーからの電報で、中を開けてみると、「ラジウムとポロニウムという新元素の発見と、ラジウムの性質およびその化合物の研究を通じ、化学に対して特筆すべき、かつたぐいまれな功績をあげられたため、ノーベル化学賞授与する」という内容のものでした。

ノーベル賞は、1895年に創設され、1901年に初の授与式が行われて10年が経とうとしていましたが、これまでに2度もノーベル賞を受賞した者はなく、また物理学と化学という異なる分野で賞を授与され人物はいません。2012年の現在までにおいても、女性でかつ二度の受賞者というのは例がなく、マリーの受賞はまさに「たぐいまれ」なものでした。

しかし、マリーはちょうどそのころスキャンダルに巻き込まれている最中であり、これを理由に、スウェーデン側からも授与を見合わせてはどうかという声もあがり、親しい友人たちからも同様の意見が出ました。

しかし、マリーは毅然と受賞する意思を示します。前回のノーベル物理学賞の受賞のときには、マリーは体調を崩し、マリーを心配したピエールとともに「多忙」という理由でストックホルムでの授賞式には出席しませんでした。

しかし、ピエールを失ったのちの今回の受賞では、ストックホルムへ向かい、受賞式に出席することを決めたのです。

華々しい授賞式が終わり、その後に行われた記念講演でマリーが述べたのは、この受賞は自分だけのものではなく、ピエールと共に分かち合うべきものである、ということでした。そして、ピエールの業績と自分の業績を明瞭な口調で説明し、改めてこの成果をもたらしたのは、ピエールがいてくれたからこそだ、この受賞は私だけではなく、二人のものだと述べました。

誹謗と中傷の渦巻く中、ひとりストックホルムにおもむき、その記念講演の檀上で、堂々とかつての夫の栄誉をたたえたマリーの姿。これを見た会場の聴衆は感動し、拍手の渦が巻き起こったといいます。

心機一転のあとに

しかし、受賞式を終えてパリにもどったマリーは、その後も続くスキャンダル合戦のために精神を疲弊させ、1911年の暮れには、うつ病と腎炎と診断され、そのまま入院することになりました。その後一度退院しましたが、翌年の3月には再度入院し、腎臓の手術を受けたあと、静かな郊外に家を借りて、生涯で初めての療養生活に入ります。

その後、イギリスにいる友人宅に場所を移して療養を続けていましたが、10月ころにはかなり回復してきたことから、パリへ戻り、新しいアパートを借りることにします。

マスコミは相変わらず何かネタを見つけてはマリーを叩く記事を掲載していました。その一方で、諸外国でのマリーが高く評価されていることがわかると、フランスの先進性の象徴に祭り上げるなど、都合の良い記事ばかり載せるジャーナリズムをマリーは、心底から嫌悪していたといいます。

そんな中、1912年5月に、祖国ポーランドの教授連代表団がフランスを訪問し、ワルシャワに放射能研究所を設立して彼女に所長を務めてもらえないかと打診してきました。

ピエールから受け継いだパリ大学の研究所は、それなりの機関になっており、ピエールの遺志はある程度遂げられたといってもよいと感じていましたが、祖国ポーランドに帰り、同じような研究所を今度は自分の意思で設立するということは、彼女にとってはまた特別なことでした。

しかし、パリの研究所の存続には彼女が不可欠であると判断し、結局マリーのポーランドへの帰国は実現しませんでした。代表団には、そのかわりに、パリから指導するからということで納得してもらうことができました。

1913年に設立されたこのワルシャワの研究所の開所式にマリーは出席し、そこで初めて母国語のポーランド語で科学の講演を行い、故郷に錦を飾ることができました。

1914年7月には、夫の名を取ったピエール・キュリー通りにパリ大学のラジウム研究所の新しい建物キュリー棟が完成しました。それまで悩まされていたスキャンダル報道はようやく下火になっており、この新しい実験場で心機一転、新しい研究に取り組もうと、意気高揚とした気分のマリーでした。

ところが、この年の7月28日、第一次世界大戦が勃発します。フランスも参戦したため、研究所のスタッフたちもほとんどが、兵士として招集されることになり、男性で残った者は持病を抱える機械技師だけになってしまいました。

娘たちをフランス北西部のブルターニュに疎開させ、マリー自身は戦火の及ぶ可能性のあるはパリに残っていました。9月2日、おそれていたドイツ軍の空爆がパリに及び、マリーは政府の要請で、研究所が所有する貴重な純粋ラジウム金属を、南西部のボルドーに疎開させるために汽車に乗りました。

ラジウムを安全な場所に移すというのは重要な仕事でしが、しかし彼女はこのとき、自分ひとりがパリから逃げ出すような気分になっていました。本当に自分がやるべきことは別にあるのではないか、そう考えたマリーは、ラジウムの移送を無事終えたあと、自分だけはひとりで、パリに舞い戻っていきました。

レントゲン車

このころ、パリでは、ヴィルヘルム・レントゲンが1895年に発見したX線の医療への応用がすでに実用化していました。しかし、それを実際に使える設備はまだ非常に少なく、いくつかの大きな大学病院でその設備が導入されたばかりでした。

しかし、この希少な設備を使えば、戦闘によって傷ついた将兵を助けることができます。彼らの体に食い込んだ、銃弾や破片を手術の前に確認できれば、これにより、負傷者の生存率を上げることができるためです。

彼女はX線研究に携わった経験こそありませんでしたが、放射能研究の第一人者であることから十分な知見は持っており、コネを使って大学や製造業者などから必要な機材を調達するができました。そして、複数の病院にそれらを設置した上、できるだけ多くの教授や技師たちにその操作方法を学んでもらおうと考えました。

しかし、病院に固定したX線撮影装置だけでは各地で起こる戦闘に十分に対応ができないことが予想されました。そこで、マリーは、X線装置と発電機などの必要な機材を自動車に乗せ、戦闘によって傷ついた兵士のいる病院を回ることを思いつきます。

実際に、1914年8月頃から病院を廻り始めたこの移動レントゲン車は、軍の中で「プチ・キュリー」(ちびキュリー)と呼ばれ、その能力をいかんなく発揮しました。しかし戦局は長期化する見通しであり、早晩1台だけでは不足するだろうと考えたマリーは、公的・私有の車の提供者を募ります。

軍や行政機関の中には難色を示すところもが多かったようですが、マリーは、役人らを叱りとばして自動車や機材の調達を許可させるとともに、政府高官のところに押しかけ、「赤十字放射線局長」という役職まで貰ってしまいます。さらには未熟な利用者のためにX線の設備使用マニュアルまで用意し、現場での機器の浸透を図りました。

こうして、マリーが設置したレントゲン設備は、病院や大学など200箇所に設置されるまでに増え、移動レントゲン車も20台を数えるようになりました。マリー自身も、技術者指導を兼ねてこのレントゲン車1台に乗り込んで各地を廻り、自らも解剖学を勉強するとともに、あげくは自動車の運転免許を取得し、自動車の整備方法までも習得したといいます。

レントゲン装置には、ボルドーから持ち帰ったラジウム金属を気化して使うこともあり、これによってマリーはたびたびX線被曝を起こしていたという説もあり、後年の健康状態にかなりの悪影響を及ぼしたのではと考えられています。

しかし、彼女の奮闘によって、あちこちの病院に導入されたX線装置やレントゲン車のおかげで、数多くの傷ついた兵士の命が救われたことは、言うまでもありません。

1918年11月、戦争は終結しました。連合国側属していたフランスは勝利し、敗戦国のロシアの支配からポーランドは脱し、ポーランド第二共和国が建国されました。祖国ポーランドが独立できたことをマリーは心から喜びました