マリーとピエール

夕べは遅くになってはげしい雷雨になった修善寺です。今年引っ越してきてから、庭造りに手を焼いたため、種をまくのが遅くなってしまった朝顔が、今頃になって次々と花を咲かせています。

しかし、かなり涼しくなった朝夕に、その朝顔越しに見える富士山は、まだまだ夏の山。すっかり、雪は無くなってしまいましたが、9月も下旬になってくると、そろそろ初冠雪があってもおかしくはありません。ひさびさにブログで、白く雪化粧をした富士山を紹介できるのも、そう遠くないことでしょう。

ところで、今日は、キュリー夫人が、史上初めて、ラジウム単体の結晶を抽出するのに成功した日だそうです。

何でいきなりキュリー夫人? かといえば、最近福島原発の事故で放射能汚染が問題になっているのに、放射能とは何か?ということすら、自分でも納得して理解しておらず、前からよく調べてみようと思っていたからです。

キュリー夫人といえば、放射能研究の功績だけでなく、学問の道を歩む女性への偏見の大きかった時代にあって、これに負けずに栄誉を勝ち取ったその姿がたたえられ、「キュリー夫人(Madame Curie)」として「伝記」にもなり、その活躍が今も語り継がれている人物です。

化学研究者であった夫のピエールと共に放射能の研究を続け、1989年にラジウム・ポロニウムを発見した功績が認めら、1903年のノーベル物理学賞を受賞。さらに1906年に夫が事故死した後も、研究を続け、1911年に2度目のノーベル賞(化学賞)を受賞しました。女性初のノーベル賞受賞者であり、2度受賞した最初の人物でもあります。

ワルシャワからパリへ

キュリー夫人の結婚前の本名は、マリア・スクウォドフスカであり、1867年11月7日に現在のポーランドの首都、ワルシャワで生を受けました。

この当時、ポーランドはウィーン会議にて分割された直後の状態でした。ウィーン会議とは、フランス革命とナポレオン戦争終結後に荒れ果てたヨーロッパの秩序再建と領土分割を目的として、1814年に開催された会議です。オーストリア帝国、ロシア帝国、プロイセン王国、イギリス(連合王国)、フランス王国、ローマ教皇領がこの会議の主催国でした。

各国の利害が衝突して数ヶ月を経ても遅々として結論がでませんでしたが、なんとか1815年にウィーン議定書が締結されました。しかし、この結果、ワルシャワ公国はポーランド立憲王国として事実上帝政ロシアに併合された状態となりました。

お父さんのブワディスカ・スクウォドフスキは下級貴族階級出身で、帝政ロシアによって研究や教壇に立つことを制限されるまではペテルブルク大学で数学と物理の教鞭を執った科学者でした。お母さんのブロニスワバ・ボグスカも下級貴族階級出身で、女学校の校長を勤める教育者でした。

マリアは5人兄弟の末っ子で、ゾフィア、ブロスニワバ、ヘラの三人の姉と、ユゼフというお兄さんがいました。その中でもマリアは幼少の頃から聡明で、4歳の時には姉の本を朗読でき、記憶力も抜群だったといいます。

マリアは、たいへん優秀な成績でギムナジウム(ヨーロッパの中高一貫校)を卒業しましたが、ポーランドがロシア支配下のことでもあり、この当時のロシアが女性を大学に入学することを認めていなかったため、大学へ行くのは断念しました。そして家庭教師をしながら、教え子が住む田舎の自然の中でのんびりした生活をすごしていました。

1890年に、マリアが23才のころ、ワルシャワ大学で数学を学んでいた男性と恋仲になり、結婚を誓い合うようになります。しかし、二人の社会的地位の違いから相手の両親に反対され、やがて破局。ちょうどそのころ、パリに出ていた姉のボローニャが医師の資格を取得し、パリに出てくればよいと誘われたため、破れた恋心を癒す意味もあって、マリアは心機一転パリに出ることを決心します。

その翌年の10月。3日間の汽車の旅を経てマリアはパリに移り住みます。そしてこの当時、女性でも科学教育を受講可能である数少ない機関の1つであったソルボンヌ大学(パリ大学)に入学。入学にあたっての登録用紙には、名前を「マリア」からフランス語風に「マリー」と書き、気持ちの上では別人に。そして、物理、化学、数学などの基礎学問を学ぶ日々が始まりました。

とはいえ、故国から仕送りがあるわけでもなく、生活費や学費は自分で働いて稼がなければならなかった彼女は、昼は大学で学び、夕方は講師のアルバイトをする毎日を送ります。生活費に事欠いて食事もろくに取らず、暖房も無かったため寒い時には持っている服すべてを着て寝る日々を過ごしながらも勉学に打ち込みました。

貯蓄が底をつき一度は諦めかけたことなどもありましたが、同郷の学友が彼女のために奨学金を申請してくれたため、勉学を続けることができ、その努力が実って、1893年にはとうとう物理学の学士資格を取得することができました。

学士を獲得後も、マリーは相変わらず屋根裏での貧乏生活を続けていましたが、やがてフランス工業振興協会の受託研究を行うことができるようになります。わずかな収入だったそうですが、その中でも懸命に貯蓄し、やがて奨学金を全額返納することができました。

ピエール・キュリー

マリーが受託していた研究は、鋼鉄の磁気的性質についてのものでしたが、この研究を進めるためには、大学や工業振興協会の工業試験場では手狭すぎました。

ちょうどそのころ、ワルシャワ時代に知り合った女性がパリに来て、マリーを訪ねてきました。そして彼女の夫がフリブール大学の大学教授であることを知り、この教授にお願いして、より広い試験場の提供を頼めそうな人物を探してもらうことになりました。

そして、この教授が探してきた人物こそが、フランス人科学者の「ピエール・キュリー」でした。当時35歳で、パリ市立の工業物理化学高等専門大学(EPCI)の教職に就いていましたが、大学の学位はまだ持っておらず、ましてや学者としてはほとんど無名でした。

しかし、彼はイオン結晶の誘電分極など電荷や磁気の研究で成果を挙げており、特殊な天秤の開発でフランス以外の国ではよく知られていました。また、後にキュリーの法則(物質の磁化は、かけられた磁場に正比例して生じるが、物質が熱せられた場合は磁化しなくなる)につながる基本原理などをこの当時既に解明していました。

彼を良く知るイギリスの高名な物理学者、ウィリアム・トムソンなどは、ひそかに彼を天才だと見抜いており、彼の意見を聞くため、わざわざイギリスから彼に面会に訪れたほどといいます。

彼自身は、女性との交際などにはまるで興味のない人間で、薄給と粗末な研修設備に甘んじながらも、無心に自分の好きな研究に打ち込む日々を送っているような人物でした。

しかし、1894年春、初めて会った二人は、「誠実で優しい人柄ながら、どこか奔放な夢想家の雰囲気がある」という自分とどこかよく似た人間であることに気付き、お互いに惹かれあうようになります。

その後ピエールは、1894年に、かねてよりの研究テーマであった、「対称性保存の原理」、すなわちキュリーの法則によって、数学の学士資格を得ます。

その頃はもう、お互いに信頼し合う親密な間柄になった二人でしたが、マリーはかねてより、学士を取得したら、故郷のポーランドに帰ろうと考えていました。しかし、このころから、ピエールは、マリーに求婚の手紙を何度も送るようになり、やがては、一緒にポーランドに行って暮らしてもよいとまで伝えてきました。

彼女が彼のプロポーズを受諾したのは1895年でした。ピエールの熱心さに負けたというよりも、パリに残り、彼とともに同じ研究を続けていくことが、自分にとっても彼にとってもプラスになると考えたためでもあります。

1895年7月26日、教会での誓いも、指輪も、宴も無い質素な結婚式が行われました。そして、ごく身近な人たちだけから贈られたお祝い金で自転車を購入し、フランス田園地帯を巡る新婚旅行に出発したといいます。こうしてマリーは、新しい人生の伴侶であるとともに、生涯で最高の共同研究者を得たのです。

放射能

パリで二人は、グラシエール通りでアパートを借り、新生活を始めました。ピエールが勤めるEPCIで研究室や広い実験場を提供してもらえるようになり、ここで研究を続けながら家事もこなしました。二人になっても暮らしは豊かとはいえず、収入を助けるために中・高等教育教授の資格を取得しました。

1897年には長女イレーヌに恵まれ、その出産と育児の中、フランス工業振興協会から受託していた研究の成果をもとに、鉄鋼の磁化についての研究論文を仕上げます。そして、これを機会に、マリーはピエールとも話し合い、博士号の取得をめざそうと決意します。

二人が博士号のテーマとして考えたのは、1896年にフランスの物理学者アンリ・ベクレルが報告した、ウラン塩化物(ウラン元素と塩素が化合してできる物質)が放射する「X線に似た透過力を持つ光線」でした。

ベクレルによれば、これは燐光(外光によって光る)とは違って、外部からのエネルギー源を必要とせず、ウラン自体が自分で光を発しているらしいということでした。しかし、その正体や原理は謎のままで、ベクレルは途中でその研究を放棄していました。

この研究に取り組むために、ピエールが確保したEPCIの実験場は、倉庫兼機械室を流用したもので、「ジャガイモ倉庫と家畜小屋を足して2で割ったような」暖房さえない粗末なものでした。

そこにピエールが昔発明した高精度の象現電圧計と水晶板ピエゾ素子電気計(注:この両者により、物質が放射能で「電離」した空気の電荷を精密に計測できる)など機器を持ち込み、ウラン化合物の周囲に生じる電離の状況を計測しはじめました。

そしてすぐに、計測したウラン化合物の発光が、光や温度など外的要因に影響されたものではなく、化合物に含まれるウランそのものからだという結果を得ます。つまり、放射は原子そのものに原因があるという事実が確認できたのです。

このことは、それまでに夫妻が明らかにしたものの中で最も重要な事実でした。しかし、マリーは、この現象がウランのみの特性かどうか疑問を持ちます。ほかにも自ら放射現象を起こす元素があるのではないかと考えたのです。

そして、既に知られている元素を80以上も測定した結果、「トリウム」と呼ばれる元素でも同様の放射があることを突き止めます。この結果から、マリはこれらの元素が発する放射を「放射能」と呼び、またこのような現象を起こす元素を「放射性元素」と名付けるのです。

彼女は、この発見した内容を即座に要約して論文にまとめ、科学アカデミーに報告しました。このころ放射能の研究を始めた研究者はほかにもいましたが、彼女の報告がそれよりも早かったことが、その後夫妻がノーベル賞を受賞できる要因にもなりました。しかし、トリウムが放射性元素であることに関しての発見競争では、2か月前のドイツのゲアハルト・シュミットの発見に遅れをとることになりました。

新元素の精製と研究

マリーたちの探究心は止まることを知らず、次には、EPCIに保管されていた、様々な鉱物サンプルの放射能評価を始めます。やがて、2種類のウラン鉱石について調べた結果、「トルベルナイト」とよばれるウラン鉱石の電離が、純粋なウラン元素の電離の2倍になり、「ピッチブレンド」という鉱石ではさらに4倍になることを発見します。

しかもそれらはトリウム元素を含んでおらず、測定が正しければ、これらの鉱石にはウラン元素よりも遥かに活発な放射を行う何かしらの物質が含まれるに違いないとマリーは考えるようになります。

マリーはできるだけ早急にこの仮説を確かめたくなる熱烈な願望にかられ、夫ピエールにその意を伝えます。1898年4月14日、マリーはピエールが苦労して入手してくれた、ピッチブレンドの分析にとりかかり、100グラムの試料を乳棒と乳鉢ですり潰す作業に着手しました。

しかし、その後「ラジウム」と呼ばれるこの物質が、自らが放射能を発する新発見の元素であることを証明するための二人の苦闘は、始まったばかりでした。

ラジウムが化合物ではなく元素であると証明するため、純粋なラジウム金属の分離に成功するのは、それからさらに10年以上の年月を経たのちのことでした。