伊豆の王国

雨が降り続きます。風も強い。まるで、台風のようです。今日の天気予報は終日曇り。まだまだ梅雨は続きそうです。

そんな中、先日庭に植えようと思って買ってきた、バラの鉢植えを見たら、きれいなピンク色の花を咲かせていました。「マチルダ」という品種だそうで、臭いはあまりありませんが、小さいながらも可憐な少女を思わせるようできれいです。我が家で初めて咲いた、記念すべきバラでもあり、ちょっと写真に撮ってみました。

先日、「素粒子と魂」の項で、アナウンスしていた、「魂の真実」が昨日届きました。沼津や三島の書店をあちこち探したのですが、入手できず、結局amazonで注文。一日で届きました。

早速昨日から読み始めていますが、さすがに科学者(現役のお医者さん)が書かれているだけに、霊魂も物質も、すべてエネルギー震動から作られているという説明には説得力があります。ここのところ、ちょっとだけ説明するのは難しいので、今度また改めて整理して、お伝えしたいと思います。が、その主旨としては、人間の体は、目にみえる肉体以外に、電磁気的エネルギー体でできており、このエネルギー体が霊魂だというお話です。

このエネルギー体は、情報伝達網を持ち、電磁気的な信号や電子による情報伝達、そして記憶能力を持ち、肉体が滅びても、生き続けることができる。しかし、振動数が高いため、通常の人には見ることができず、より精妙で高い振動数の波動と同調できる人は、視覚的にとらえることができる。つまり、「霊能力」がある人、ということです。

本の前半には、こうした人間の電磁気的エネルギー=霊魂、についての科学的説明があり、後半は、その霊魂の具体的な形態や、霊界とは何を意味するものか、霊魂と宗教とのかかわり、などなどの具体例が書かれています。

まだ、すべて読み終わっていないので、ここでその内容を総括するのは、今日はやめておきます。また、いずれ、整理してお伝えしましょう。

さて、昨日書き残した、伊豆の古代のことです。伊豆の古代については、昨日引用した日本書記に、配流地だったことなどの断片的な記述がある以外には、ほとんど文献資料がなく、どういう場所だったのかほとんどわかっていません。

しかし、伊豆半島の中央部を流れる、狩野川の西側には、古墳や横穴群がたくさんみつかっており、これらの遺跡から少し古代の伊豆の様子がわかりそうです。

伊豆長岡の少し北、沼津にほど近いところの海側に大平山という山がありますが、この山のふもとに、「江間」という場所があります。海からほど近く、2kmほども下ると、もう海岸線です。この江間から南の伊豆長岡町内に至る一帯には、は29群173基の古墳時代の遺跡が密集しており、こららの遺跡は主に、「横穴」です。実に23群151基が横穴なのだそうで、遺跡が見つかった場所の多くでは、一つのエリア内に、横穴群と古墳がセットになって発見されているそうです。

横穴群があるところは、これがひとつの「村」だったと考えられ、そうした場所には、たいがい古墳があるのだとか。一般庶民?のお墓としての横穴群のそばに、「村長さん」のお墓があった、ということになります。この遺跡、だいたい、六世紀(500年代)後半から、八世紀(700年代)前半までに作られたということで、と、いうことは、近畿地方で見つかっている古墳の成立年代が、4世紀(300年代)以降であることを考えると、およそ二百年も遅れてからの出現ということになります。

そこに「古墳」と横穴群が存在するということは、つまり、農業を中心とした原始的な生活を送っていた人々のところに、京都や奈良のような畿内にあった、最新の階級社会が持ち込まれ、横穴群をお墓にしていた人たちの中に浸透していったということなのでしょうか。七世紀ころの寺院建築の名残らしい、屋根瓦も発掘されているそうで、古代の伊豆と畿内の近代が、合体したような場所といえます。

昨日も書いたように、伊豆は配流地として指定されていたような場所ですから、中央の人たちからみれば、横穴をお墓にするような人たちは、野蛮人だと思っていたのかもしれず、それだからこそ、中央政府は、伊豆を在任の牢屋としてふさわしい、と思っていたのかもしれません。

この古墳や横穴群の分布ですが、狩野川流域では、沼津市、清水町、三島市の河口や下流部で、また伊豆の国市、伊豆市、旧修善寺町などの中流域で数多く発掘されているのだとか。上流域では、天城湯ヶ島町月ヶ瀬・古奈にもわずかではあるが発見されており、これらの遺跡はいずれも標高200mまでの範囲に分布しているそうです。これより低いところは、狩野川などの氾濫によって生活環境が脅かされていたためでしょう。

これらの古墳・横穴群は、伊豆長岡の大平山付近の江間から、伊豆の国市役所の南側の小坂という場所にかけての場所にかなり密集しているそうで、ということは、ここが、中央からの人が流入した中心地であったと考えることもできるようです。

畿内から、伊豆に流れ込んだ人々はまずこのあたりの地を選び、定住していったと思われます。もちろん、古墳時代以前から伊豆には先住者達がいたわけですから、その人たちを手なずけながら、徐々にこの地を治めていったのでしょう。この伊豆長岡は海にも近く、海産物も豊富にとれるほか、その背後の田方平野には、弥生時代後期から水田が拡がっていたと考えられることから、農業による収穫もかなり期待できたと思われます。そして、それらの農作物を運搬する際、狩野川を生活の大動脈として利用していたことはまちがいないでしょう。

ところで、この伊豆長岡に多い古墳(横穴ではなくて)には、どんな人達が葬られていたのでしょうか。畿内の人たちがこの地に入り込む以前からあるお墓ですから、当然、この地で勢力を張っていた実力者のお墓には間違いありません。

伊豆長岡町に駒形古墳というのがありますが、これは、伊豆では最大規模の円墳なのだそうです。ですから「伊豆の王」ともいえる人が葬られたのではないかという人もいます。この古墳の周囲には、もっと小さい、横穴群があるのだそうで、この伊豆の王よりも身分が低い人が埋葬されていたと考えられます。

このうち、北江間にある、横穴群のひとつには、「若舎人(わかとねり)」と彫られた石櫃が発見されているそうです。若舎人とは、皇太子級の役人に仕えた人のことを指しますから、中央の重要人物が本地域で埋葬されたことを示す証拠だと、いう人もいるようです。このほかにも巨大な石棺が発掘されており、古墳時代の有力者が数多く埋葬された墓地であるこ可能性があります。

これらの古墳や横穴群が、後の時代に頭角を現してくる北条氏と関連あるかどうかは、まったくわかっていませんが、この地域に大きな墓が多いということは、この狩野川西岸地域が当時の伊豆の大豪族の本拠地を示すものであることは確かと思われます。

そしてその豪族の王、「伊豆の王」は誰なのか、については、歴史ミステリーということで、いろんな人が研究をされ、諸説をとなえられているようです。

そうした人物がいたという根拠のひとつには、魏志倭人伝に記載された国々で王の存在が書かれているみっつの国、すなわち、卑弥呼の邪馬台国、スサノウの狗奴国、葛城氏の伊都国の三っです。この伊都国こそ、すなわち伊豆の国ではないかというのです。

魏志倭人伝は、3世紀末に書かれた、中国の歴史書で、当時の倭(現在の日本)に、女王が治める邪馬台国を中心とした国が存在し、また女王に属さない国も存在していたことが記されており、その位置や官名、生活様式についての記述が見られるそうです。

そして、その問題の伊都国については、次のように書かれてるそうです。

「東南へ陸行すること五百里にして行程一ヶ月で伊都国に到る。官は爾支(にし)と曰(い)う。副は泄謨觚(せつもこ)柄渠觚(ひょうごこ)と曰(い)う。千余戸有り、世々王有るも、皆女王国が統属す。郡使が往来する時、常に駐(とどまる)所なり。」

どこからの行程が、500里なのかわかりませんが、1000戸あまりの住居があって、代々の王様がいるものの、邪馬台国の女王がその上にあり、ときおりその中央から派遣された役人がやってくる、などかなり具体的です。

朝鮮語(韓国語)では、伊都国の伊都は「イェヅ」と発音するそうで、確かに、イズと似ています。また、この伊都国を治めていたという、「葛城氏」は、皇族の苗字としては古くから存在するそうで、昨日とりあげた、修験道の祖の「役小角(えんのおづぬ)」の家系は、古きは、大豪族の国主であった葛城氏の末裔だそうです。その後も、天皇の皇子の賜り名として「葛城王」という名前が使われたことが何度もあるそうで、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の別名は、実は、葛城皇子(かつらぎのみこ)というのだとか。

さらに、この伊豆半島の中央部には桂川、狩野(賀茂)川、田京、御門、葛城山、長岡、賀茂郡など、かつての都の地である、紀伊半島内陸部や奈良盆地一帯にあった地名と同じ地名が点在しています。これらのことから総合して、この伊豆の地に、葛城氏の長を王にいただく、「伊都の国」があったのではないか、というのです。

そしてその都は田京(伊豆の国市大仁田京)にあったのではないかとう人もいます。田京というのは、伊豆長岡の南にある場所で、前述の古墳群からもほど近い場所に位置します。この一帯は、古くから伊豆における政治・文化の重要な場所であったと言われており、後年、伊豆の大豪族になる狩野氏も、一番最初にここに入植しています。

しかも、田京の西側にはなんと、葛城山という山があります。古事記には、「御眞津日子詞惠志泥(みまつひこかえしね)の命(みこと)、葛城の掖上(わきがみ)宮に坐(ま)しまして、天の下治(し)らしましき。」という記述があるそうです。

ところで、この古事記と日本書記、何が違うんでしょうか。昨日、日本書記が最古、と書きましたが、編纂が開始された年(697)は確かに、日本書記のほうが古いのですが、出来上がった年(712年)は、古事記のほうが古い(日本書記は720年完成)。それにしてもたった、8年の違いしかなく、同じ時期に、同じようなものが何故2つも作られたのでしょう。

これについて、両者の違いを述べてくれているサイトがあったので、以下、その違いを要約します。

・両者は神話の世界観が全く異なり、編集目的も全く異なっている。
・古事記は、語り部によって伝えられた伝承を、忠実にほぼそのまま記述したもので、王家が歴代統治してゆくことの正当性を述べようとしたもの。
・これに対して、日本書紀は、残っている書物をもとに中国風の史書を作ることを目的としたものであるが、王家に都合の悪いことについては意図的な改ざんが行われている。

その信憑性については、どっちもどっちというかんじですが、いずれにせよ、これより古い歴史書は存在せず、我が国の古代がどんなところだったのかを知るためには、この二つが最も重要な書物であることには違いないようです。

閑話休題。さて、古事記に書いてあるという、「葛城」の掖上宮のことです。この宮城を住んでいた?らしい、御眞津日子詞惠志泥命とう長ったらしい名前の人物が「伊豆の王」だとすると、「葛城」とは葛城山のこと、もしくは葛城氏をさしており、その掖(わき 脇)にあったという掖上宮とは、田京のことではないか、という説があるのです。

さらに、現在の駿豆線の田京駅の東側にある、御門(みかど)という場所には、条理制(じょうりせい)という、大化の改新の際に行われた土地の区画法の跡も見られるそうで、しかも、そこには、「久昌寺(きゅうしょうじ)の六角堂址」と伝えられる史跡があるそうです。と、いうことは、このお寺があったところに、伊豆の王が「ましました」掖上宮があったのではないか、と考えている人もいるようです。

田京といえば、我が家からもほど近く、クルマで10分ほどで行けます。葛城山に至っては、ウチから毎日のように見える山です。その麓にかつての邪馬台国に匹敵するような王国があった、と考えるとワクワクします。

もっともそれが本当だったという確証は何も得られていないようですが、一般の人の目には見えない霊魂同様、見るべき人が見たら、何かわかるのかもしれません。いかんせん、伊豆はパワースポットとして有名な場所。そんな場所にかつての王国があっても不思議ではないように思うのです。

今日はかなり太古に遡って伊豆の歴史について語ってきましたが、次回からは有史にある事項に少しずつ入っていきたいと思います。その合間合間にまた、「魂の真実」に書かれていることなどもご紹介していきましょう。

流刑地としての伊豆


昨日の九州地方の大雨はすごかったようです。50mmでもバケツをひっくり返したような雨といいますから、時間雨量100mmなどというのは想像もできません。ここ、修善寺でも夜遅くになってから、かなり降りましたが、それでも九州で降った量には遠く及ばない量で、事なきを得ています。

朝起きてみると、もう雨は止んでいました。庭に出て、アサガオの苗を植えているポットをみると、なんと、そこには、セミの抜け殻が。梅雨ももうすぐ明け、まぶしい日差しの夏がもうすぐそこに来ていることがわかります。

ところで、ご縁あって住むことになった伊豆ですが、これまでも何度か、その歴史にまつわる話題をこのブログで書いてきました。ひとつの物事について、ひとつ調べるとまた、別の事実が出てきて面白いなとは思っていましたが、伊豆の場合、とくに鎌倉や駿府(静岡)にも近く、思った以上に歴史的な物語の宝庫だ、と感じるようになっています。

なので、今後は、過去に伊豆でおこったさまざまな歴史的事実について、少しずつ調べ、このブログでまとめていこう、と思います。

とはいえ、堅苦しい歴史談義は苦手ですし、自分でもやっていて楽しい、人にも読んでもらって面白い、わかりやすい、といってもらえるような「伊豆ものがたり」を書いて行こうかと思います。その中で、また面白い発見があれば、それに特化したことをシリーズで書いてみるのもよいでしょう。時に、現地取材もありかも。なかなか面白くなるのではないでしょうか?

その手始めとして、まず、そもそも伊豆の歴史って、文献として残っているもので、どこまでさかのぼれるのだろうか、という疑問が沸いたので、そこんところをいろいろ、つっついてみました。

すると、古代史ということになると、文献的な資料は非常に乏しいようで、伊豆に関する記述があるもので最も古いものは、やはり、日本書紀になるようです。

そもそも、日本書記ってなんだ? と私と同じような歴史オンチの方も多いと思うので、一応解説しておきましょう。日本書記とは、奈良時代にできあがった日本の歴史書で、現存する最古の日本史、しかも、朝廷が太鼓判を押した、「正史」のことを指すのだそうで、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)、すなわち、のちの天智天皇以降に成立した、律令国家で編纂された歴史書です。

中大兄皇子は、それまで執政として、朝廷を牛耳っていた、蘇我入鹿(そがのいるか)を中臣鎌足(なかとみのかまたり、別名、藤原鎌足)らと組んで暗殺します(西暦645年)以後、宮廷改革の中心人物として、遷都をはじめとし、この国の行政改革を次々とやってのけます。

これが世にいう大化の改新ですが、数ある改革の中のひとつとして、それまで誰も実現してこなかった国史の編纂がありました。日本の歴史の編纂を完成させ、日本の国威を内外に示そうとしたのだと思われますが、日本書記というのは、そうして作られた6つある歴史書のうちの一番最初のものを指すのだそうです。

この6つの歴史書、「六国史(りっこくし)」といいますが、このうちの最初のものを編纂したのが舎人(とねり)親王という、天武天皇の息子さんで、697年からスタートして、720年に完成したといいますから、20数年もかかっています。

その内容はというと、アマテラス大御神の神代から持統(じとう)天皇が退位した、697年ころまでの歴史的事実を詳しく書き上げており、古代日本のことを記した、いわばタイムマシンともいえるような存在です。

全30巻もあるそうなのですが、登場人物の系図などが欠落していて、また固有名詞が極端に少ない、といった難点があるらしい。さらに、誰がいったい何のためにそういうことをしたのか、といった具体的な事実がわかりにくいのだそうで、学者泣かせの代物らしいのですが、それでもともかく、1300年以上の昔のことが、これでわかる、ということはすごいことです。

さて、前置きが長くなりましたが、そんな日本書記の中に出てくる記述のひとつが、先日もこのブログでも紹介したように、「応神天皇五年(274年)十月、伊豆国に命じて船を造らせたとところ、長さ十丈の船が出来た。試しに海に浮かべてみると、軽くて、走るように進んで行くので、これを「枯野」と名付けた。」という記述。これが、おそらく歴史書に出てくるもっとも古い伊豆に関する記述と思われます。

これ以降は、天武天皇の時代の、653年に三位麻績王という皇族の息子が伊豆島に流されたという記述があるのをはじめ、686年には、に大津皇子という皇子の家臣で、張内礪杵道作(張内という場所に住んでいた、「ときのみちつくり」という人)が伊豆に流されたという記述があるそうです。大津皇子は、朝廷に謀反の意があると言われ、朝廷から自害を命じられており、「ときのみちつくり」は、これに連座したのです。

また、699年には、役小角(えんのおづの、おづぬ)という人が「伊豆島」に流されたという記述が出てくるそうですが、この伊豆島とは、伊豆大島のことを指しているという人もいるようです。

この役小角、飛鳥時代から奈良時代にかけて活躍?した呪術者なんだそうです。修験道者、ようするに山伏の元祖で、その死後の平安時代に山岳信仰がさかんになるとともに、役行者(えんのぎょうじゃ)と呼ばれるようになったようで、こちらのほうが、名前を聞いたことがある人が多いのでは。

実在の人物だそうですが、のちの世に至って、いろんな伝説で彩られていて、実のところはどんな人だったかよくわかっておらず、伝説ばかり残っているらしい。しかし、奈良で生まれ、17歳の時に元興寺というところで、「孔雀明王の呪法」という呪術を学んだということはわかっているらしい。その後、葛城山(現在の奈良と大阪の境界にある金剛山)で山岳修行を行い、熊野や吉野の山々で修行を重ねて、修験道の基礎を築いた人だということです。

20代の頃に、藤原鎌足の病気を治癒したという伝説が残っていて、呪術に優れていただけでなく、医療技術ももっていたらしく、そのお弟子さんの中にはその後朝廷の薬局である、「典薬寮」の長官になった人もいるとか。鬼神を自由に使って、水を汲ませ、薪を採らせているとか、その命令に従わないときには呪で鬼神を縛ることもできたということで、ほんとかウソかわかりませんが、ボリショイサーカスの猛獣使いとMr. マリックを足して二で割ったような人だったのでしょう。

で、なんで伊豆へ流されたんかなーということですが、誰かに、人々を言葉で惑わしていると讒言(ざんげん)されたようで、その当時の天皇、文武天皇という天皇から伊豆大島へ流罪を命じられたそうです。

この、伊豆へ流罪になったという話は、伝説になっていて、その伝説のほうのことの顛末は次のようです。

役行者は、鬼神を使役できるほどの法力を持っていて、常に左右に鬼を従えるほどの力をもっていたそうです。ある時、葛木山と金峯山の間に石橋を架けようと思い立ち、諸国の神々にこれをやらせようとしたのですが、そのうちの一人、葛木山にいる「一言主(ひとことぬし)」は、醜い自分の姿をすごく気にしていて、夜にしか働こうとしませんでした。

そこで役行者は一言主を神であるにも関わらず、折檻して責め立て、昼間も働かせようとしました。それに耐えかねた一言主。朝廷まで行って、役行者が謀叛を企んでいると讒訴します。時の天皇、文武天皇は、これを怒り、役人に役行者の捕縛を命じます。役行者はこれを法力で退けようとしますが、役人が、彼の母親を人質にしてつれてきたところ、おとなしく捕縛され、ついに、伊豆大島へと流刑になります。

しかし、役行者は、流刑先の伊豆大島でも、毎晩海上を歩いて富士山へと登っていって修業していたとのことで、富士山麓の御殿場市には、役行者が建立したといわれる、青龍寺というお寺が今もあります。

その後、大宝元年(701年)正月に赦されて郷里の奈良に帰った役行者ですが、伝説では、その後仙人になったといわれています。が、実際には大阪府の箕面(みのお)市にある天井ケ岳というところで、68才で亡くなっています。

その後、時代が下るとともに、役行者は、信仰の対象にもなっていきますが、その超人的な伝説は、日本各地で語り継がれていきます。そして、近代では、江戸時代に書かれた、滝沢馬琴の南総里見八犬伝にも登場します。八犬伝の中で、「八犬士」の生みの母親である、伏姫に、「仁義礼智忠信孝悌」の文字が書かれた八つの玉を授けるのはこの役行者です。この南総里見八犬伝をもとにした、NHKの人形劇、新八犬伝(1973年)を見られた方も多いのではないでしょうか。

日本書紀には、このほかにも「伊豆島」へ罪人が流されたという記述が随所に見られるそうです。675年には麻績王(おみのおおきみ)という皇族の二人の子が流罪になっているほか、また、677年にも「杙田史名倉(くいたのふびとなくら)という人物が、天皇を批判したとかの罪で、「伊豆島」に流され、この場合は処刑された、とされています。

このほか、流罪ではありませんが、620年には掖玖(やく、現・屋久島)の人が「伊豆島」に漂着したという記述もみられるとか。

このように、伊豆半島や伊豆諸島は、古くから流刑地とされていたようで、六国史のひとつで、日本書記の次に書かれた「続日本紀(697-791)」には、724年には「伊豆国」が安房国、常陸国、佐渡国などとともに遠流の地に定められたという記述がみられるそうです。

ちなみに、この続日本紀にも、699年に役小角が伊豆島に流されたという記述があるそうですが、これよりずっとのちの1094年ころに書かれた「扶桑略記」という六国史の要約版のような歴史書にも同じ記述があるとか。そこには、「仍配伊豆大島(よって、伊豆大島に配流される)という記述がみられるそうなので、これを根拠にして、伊豆島とは、伊豆大島だったと考える学者さんが多いのだそうです。

さて、このように古代の伊豆は、流刑地という印象が強いのですが、日本書記に記されている記述以前の伊豆がどういう場所であったかについては、伊豆北部から中部にたくさんある古墳や横穴群にその当時の状況を知る手がかりがあるようです。

これについては、大化の改新のあとの670年代以降に出来上がっていく、律令国家の体制の中に伊豆の国が取り込まれていった状況とともに、明日以降、また詳しく書いていきたいと思います。

今日の伊豆の古代史、史料が少ないので、まとめていくのは結構大変でした。明日以降が思いやられますが、まあ焦らずぼちぼちやっていくことにしましょう。