続 河童の死

さて、昨日の続きです。

芥川龍之介が「歯車」や「河童」といった破滅的な内容の作品を書いた晩年は、病に苦しんだ日々ではありましたが、そんな中、龍之介は文との間に三人の子供を設けています。

長男の比呂志を筆頭に、多加志、也寸志の三人がそれであり、ご存知のとおり、この兄弟のうちの比呂志は後年著名な演出家になり、三男の也寸志もまた有名な作曲家になりました。

次男の多加志は、三人のうち最も文学志向が強く、このため龍之介にもよく似ていると言われていたようで、長じてから京外国語学校(現東京外大)仏語部文科に進みましたが、残念ながら二次大戦の戦役にとられ、ビルマで戦死しました。

長男の比呂志は、俳優としても活躍した人で、舞台の他、ラジオドラマ・ナレーション・映画・テレビなどにも数多く出演。1963年、仲谷昇、小池朝雄、岸田今日子、神山繁らと共に文学座を脱退し、「現代演劇協会」を設立。協会附属の「劇団雲」でリーダーとして活動しました。

1966年にはNHK大河ドラマ「源義経」で源頼朝役も演じており、俳優業の傍ら、演出家としての才能も発揮し、1974年には「スカパンの悪だくみ」の演出で芸術選奨・文部大臣賞、泉鏡花の戯曲「海神別荘」の演出で文化庁芸術祭・優秀賞を受賞しています。

しかし、晩年には若い頃からの持病である肺結核が悪化していて入退院を繰り返し、1981年、療養中だった目黒区内の自宅にて死去。享年61歳という若さでした。

一方、三男の也寸志は、1947年に東京音楽学校本科を首席で卒業すると、すでに在学中に作曲していた「交響三章」などが着目され、すぐに作曲家として引っ張りだこになっていきました。快活で力強い作風と言われ、「交響三章」は特に人気のある代表作であり、このほかにも「交響管絃楽のための音楽」「絃楽のための三楽章」などの名作があります。

また映画音楽・放送音楽の分野でも「八甲田山」「八つ墓村」「赤穂浪士のテーマ」などの作曲をした人としてよく知られているとともに、童謡の分野でも「小鳥の歌」「こおろぎ」などの抒情あふれる曲をつくりました。そのほか、多くの学校の校歌や日産自動車の「世界の恋人」など、団体(企業等)のCMソングや社歌も手がけています。

也寸志はその生涯で3回結婚していますが、2度目の妻は女優の草笛光子です。最初の妻との間に生まれた長女・芥川麻実子はタレントとして活躍した後にメディアコーディネイターになりました。また、3度目の妻はエレクトーン演奏の名手といわれた江川真澄でしたが、彼女との間に生まれた息子・芥川貴之志は現在もグラフィックデザイナーとして活躍しています。

このように、龍之介の死後もそのDNAはその息子たちに受け継がれ、現在に至るまで脈々と生き続けています。

ちなみに、也寸志は、その生前、父・龍之介に対しては強い尊敬の念を抱いていたといいますが、しかし同時に有名人の息子であるがゆえに、ことあるごとにそのことを知人に引き合いに出され、苦しんだそうです。

「学校を卒業して社会に出た時には、ことある毎に「文豪の三男」などと紹介され、いい年をして、親父に手を引っぱられて歩いているような気恥ずかしさに、やり切れなかった」と語っています。

また、「父が死んだ年齢である三十六歳を越えていく時は、もっとやり切れなかった。毎日のように、畜生! 畜生! と心の中で叫んでいた。無論、自分が確立されていないおのれ自身への怒りであった」とも告白しており、父の死はその生涯に大きな影を落としていたようです。

その後も長く名作曲家として活躍しましたが、1989年、東京都中央区の国立がんセンターに入院中、肺癌のため逝去。享年63才。最後の言葉は「ブラームスの一番を聴かせてくれないか…あの曲の最後の音はどうなったかなあ」だったといいます。

これより2歳若くして逝った長男の比呂志よりもわずかばかり長く生きましたが、父の龍之介といいその息子といい、どうもあまり長生きはできない性質(たち)の人々のようです。

彼らの父の龍之介は、その後その名を文学界の「芥川賞」に残しましたが、その息子の也寸志もの音楽界での功績を記念して、1990年にはサントリー音楽財団により「芥川作曲賞」が創設されており、親子でこうした賞によりその名を歴史に刻んでいくことになりました。

また、也寸志の死の半年後、埼玉県松伏町には、彼が作曲した「エローラ交響曲」から名を取った「田園ホール・エローラ」も完成しています。

さて、龍之介のその後の話に戻りましょう。この三兄弟の末っ子の也寸志が生まれた1925年(大正14年)、龍之介は専修学校の文化学院文学部講師に就任していますが、その翌年には、胃潰瘍・神経衰弱・不眠症が高じ再び湯河原で療養しています。

一方、妻の文は自身の弟・塚本八洲が病を得たことから、その療養のために実家が鵠沼に持っていた別荘に移ることになり、彼を看病するためにここへ息子たちを連れ、弟とともに移住しました。

このため、一時は龍之介と別居状態となりましたが、その後龍之介も鵠沼にある旅館「東屋」という宿に滞在するようになり、その後、この東屋の北方にあり、同じ東屋の経営だった貸別荘を借りてここへ妻子を呼び寄せ、一緒に住まうようになります。

そしてこの鵠沼で開業医、富士山(ふじたかし)という医者の治療を受けつつ療養を続け、この間、晩年の作品群の多くを執筆しています。

ちなみに、この東屋という旅館は、数々の文士が逗留した宿として有名であり、明治期には、志賀直哉と武者小路実篤がここに滞在して「白樺」の発刊を相談し、これがやがて白樺派を生みだすことにつながっていきました。

龍之介が滞在したのちの1936年(昭和11年)にも、川端康成が滞在して少女小説「花のワルツ」を執筆していますが、その後日本が戦争に突入していく中で、旅館業も振るわず、1939年(昭和14年)に廃業。その建物も戦後まで残っていましたが、1957年以降解体され、今は記念碑しか残っていません。

この龍之介が滞在していた時代はまだ文士の溜り場といった雰囲気だったようで、堀辰雄、宇野浩二、小沢碧童、斎藤茂吉、土屋文明、恒藤恭、川端康成、菊池寛といった当時の蒼々たる文壇の名士たちがここを訪問しています。彼らとの交流のためにこの鵠沼で借りていた東屋の別荘もさながら龍之介サロンのようだったといいます。

しかし、ここには結局一年弱いただけで、元号が昭和に替わってからは、妻子をまず田端に返し、そのあと龍之介はしばらくここにとどまっていたようです。が、結局はその翌年の1927年(昭和2年)の正月には自身も田端に帰っています。

ただ、この鵠沼の家は4月ころまで借りていたといい、その後も時折訪れていたといいますから、龍之介はこの東屋という旅館をよほど気に入っていたのでしょう。

そんな折、1927年(昭和2年)の正月の余韻も冷めやらぬ頃、義兄の西川豊(次姉の夫)が突然、放火と保険金詐欺の嫌疑をかけられ、西川はこれを苦にして鉄道自殺します。

また、ちょうどこのころ、実家の田端では芥川家の当主であった異母弟も亡くなっており、このため龍之介は、西川の遺した借金やその家族、また養父母の面倒も見なければならなくなり、自身の持病に加えてまた心労を得ることとなります。

このころ知人に宛てた手紙には「又荷が一つ殖えたわけだ。神経衰弱治るの時なし。毎日いろいろな俗事に忙殺されている」とこぼしています。

さらに龍之介を悩ませたのは、このお膝元の田端で同居する芥川家の老人たちだったといいます。

龍之介の伝記には、死の直前、彼が自家の老人達のヒステリーに悩んでいたことが記されており、主治医の下島勲が龍之介の健康を心配していろいろ助言しているのに対し、彼は「こちらのことは御心配なく。それよりもどうか老人たちのヒステリーをお鎮め下さい」と手紙で頼んでいるそうです。

彼はまた別のところで、「老人のヒステリーに対抗するには、こちらもヒステリーになるがいいと教えられたので、今それを実践中です」というような内容の手紙も書いているといい、この老人たちの言動がかなり晩年の龍之介を苦しめていたことがわかります。

芥川は結婚後、養父母と伯母という三人の老人と同居していました。最初はそのことを取り立てて苦にはしていなかったようで、彼は一日中、二階に腰を据えて原稿を書くか、訪ねてくる編集者や友人と会うかしており、同じ家にいても老人達と言葉を交わすことがほとんどなかったようです。

ところが、義兄や異母弟が亡くなって、龍之介が芥川家一族の中心になると、彼は老人達と腹を割って話さなければならなくなり、このことは彼の持病をさらに悪化させる原因となっていきました。

このころから二階の書斎にこもりきりになり、あまり人とも合わなくなっていったといい、その理由は扶養する老人達の前に姿を現わせば、彼らとの接触は避けられないためだったようです。

さらにこの頃、龍之介はその秘書を勤めていた平松麻素子という女性と帝国ホテルで心中未遂事件を起こした、といわれています。

これは私としても初耳だったので、詳しく調べてみたのですが、どうも真相は明らかになっていないようです。ただ、推理作家の松本清張が「昭和史発掘」という著書の中で、この龍之介の自殺未遂について触れており、ここにはかなり核心に近い「らしい」ことが書いてあります。

実はこの「昭和史発掘」は私も大学時代に通読しており、国鉄総裁が轢死した下山事件の真相などのいろんな昭和の事件に触れており、なかなか面白い読みものでした。

その内容はほとんど忘れていましたが、この龍之介の項を書き始めたときにネットで色々調べていたら、この清張さんの著述に触れている方がいたので、それで私も松本さんがこのことを書いていたことをおぼろげに思い出しました。

このころ、妻の文は、持病に苦しむ夫が、老人たちとの軋轢からしばしば過激な言動も繰り返すようになっているのをたびたび耳にしています。そしてそれらの言動や、もめごとがあるたびの嘆息から、夫がもしかしたら自殺を計画しているのではないかと疑うようになっていたようです。

このため不安に襲われ、ときおり二階に駆け上がって夫の無事を確かめるようにもなっていたといいます。そして彼女は彼女なりに善後策を考え、もしかしたら、龍之介に文学のことが分かる女友達をあてがえば、彼の孤独感が解消するのではないかと考え、幼友達の「平松麻素子」に救いを求めました。

平松麻素子は文より2~3才年上で独身でした。父親は弁護士で裕福な暮らしをしていましたが、生まれつき病弱だったため、結婚もせずに弟妹の面倒を見ていたようであり、こういうか細い印象により、後年、実際に龍之介と心中を図ったと、書かれるようになったのかもしれません。

彼女は短歌を作るなどの文才もあり、芥川の作品もほとんど読んでいたといい、文から事情を聞いて、龍之介の話し相手になることを承知しました。文は、彼女が訪ねてくると二階の芥川の書斎に案内するようになり、その後麻素子は龍之介の書斎で彼と文学談義までするほど親しくなっていったといいます。

こうなるとはやり、男女の中のことでもあり、やがて龍之介と平松麻素子は、文に隠れて二人だけで外で会うようになります。恋愛関係にあったのではないかとも言われていますが、おそらく事実でしょう。

こうして龍之介は麻素子との逢う瀬を重ねてはいましたが、その関係はプラトニックのままだったとする説が強いようです。その理由は言うまでもなく、龍之介と彼女との交際を勧めたのはほかならぬ妻の文であり、その監視の目がいつもあったから、ということでしょう。

が無論、実際に龍之介が外出したあとの二人がどういう行動をしていたのかについては、想像でしか語ることはできません。

ところが、この二人の関係はこれだけでは終わらず、このころ既に精神を相当病んでいた龍之介は、あろうことか彼女を踏み台にして自殺を決行しようと考えるようになっていきました。つまり心中です。そしてある日彼女を連れだって散歩しているとき、一緒に死んでくれないかと切り出します。

もっとも、プライドの高い龍之介はその後に書いた、「或阿呆の一生」の中で、話を持ちかけたのは女の方からだと書いています。

しかし、麻素子が龍之介と心中する約束を交わした、というところまではどうやら事実のようです。そして、その場所を帝国ホテルとし、実行する日時も二人で決めました。

そして昭和2年の春、二人で決めた日に龍之介は家を出ました。文が、「お父さん、どこに行くんですか」と尋ねても何も答えないで出ていったそうで、胸騒ぎを感じた文は、近所に住む龍之介の有人で画家の小穴隆一の下宿に駆けつけ、このことを相談しました。

ところが、そうやって文が小穴と二人で話し合っているところに、なぜか意外にも平松麻素子がそこを訪れます。実は、彼女は龍之介との約束を破って帝国ホテルに行かなかったのですが、彼のことを見捨てることもできず、かといって龍之介との間が深くなっていたために文にも告げられず、龍之介の親友である小穴に相談にやってきたのでした。

夫の行方を知らないかと文に問い詰められた麻素子は、その面前では本当のことを言えません。文は「とにかく、芥川の行方を捜さなければならない」と言って二人を置いて出て行ってしまいますが、二人きりになると、麻素子はそれまで隠していた秘密を小穴に打ち明けます。

こうして、心中事件は発覚するところとなり、小穴は自宅に帰っていた文にこのことを告げ、さすがに麻素子は同伴しませんでしたが、小穴と文の二人は連れ立って龍之介の泊まっていた帝国ホテルにかけつけ、彼が借りていた一室を訪れました。

泊っている部屋のドアを叩くと、「お入り」と、大きな声で芥川が怒鳴り、中へ入ると龍之介はベッドの上にひとりで不貞腐れたような顔をして坐っていたそうです。

そして、「麻素子さんは死ぬのが怖くなったのだ。約束を破ったのは死ぬのが恐しくなったのだ」と、龍之介ベッドに仰向けになって、怒鳴るような、訴えるような調子で叫んだといいます。

平松麻素子が結局龍之介との心中に踏み切らなかったのは何故か、という疑問に対する答えとして、松本清張は龍之介が平松麻素子に逃げられたのは芥川の側に過信があったからだ、と書いています。

「芥川が平松麻素子と体の関係を持っていなかったことは、事実だと思われるが、肉体的交渉もない女が、自分と一緒に死んでくれると思いこんだところに芥川の甘さがあり、その甘さは自己の名声に対する過信から来ている」とも書いています。

つまり、大作家である自分が頼めば、女一人ぐらいは道連れにできるだろう、と龍之介が高をくくっていたということであり、確かに現代でも人気のあるミュージシャンに甘い声をかけられようものなら、心中までしてしまいそうな若い女性はゴロゴロいそうです。

が、結局のところ、平松麻素子はそれほど軽い女ではなかったということなのでしょう。むしろ心中してくれるだろうと信じ切っていた龍之介のほうがミーハーだったといえます。

この事件があってからは、当然のこと平松麻素子は芥川家に寄りつかないようになりました。一方の龍之介はこの一件を境にさらに自殺に対して一歩踏み込んだ姿勢を示すようになり、単独で自死を決行する決意を固めはじめたようです。

そして7月24日未明、「続西方の人」を書き上げた後、龍之介は斎藤茂吉からもらっていた致死量の睡眠薬を飲んで自殺した、とされています。が、松本清張によれば、これは睡眠薬ではなく青酸カリであり、これは誰あろう、心中事件を引き起こしたときにその相手であった平松麻素子が彼に与えたものだった、というのです……

この青酸カリ説を支持する人は多いようで、例えば後年の作家、山崎光夫は、芥川の主治医だった下島勲の日記などからもこの青酸カリによる服毒自殺説の可能性が高いと主張しています。

睡眠薬説のほうは、死の数日前に龍之介を訪ねた、同じ漱石門下で親友の内田百閒の証言によるもののようです。それによれば、龍之介はこの日にも大量の睡眠薬でべろべろになっていたそうで、起きたと思ったらまた眠っているという状態だったといいます。

既に自殺を決意し、体を睡眠薬に徐々に慣らしていたのだろう、というのが睡眠薬説を推する人達の言い分です。

また、龍之介は自殺の直前に身辺の者に自殺を仄めかす言動を多く残していたといい、実際には早期に発見されることを望んだ狂言自殺で、たまたま発見が遅れたために死亡したとする説もあります。青酸カリならば、死ぬのは確実ですが、睡眠薬であれば本当に死んでしまう前に人に発見してもらいやすくなるわけです。

また、死後に見つかり、旧友の久米正雄に宛てたとされる遺書「或旧友へ送る手記」の中では自殺の手段や場所について多少具体的に書かれています。

それには「僕はこの二年ばかりの間は死ぬことばかり考へつづけた。(中略)…僕は内心自殺することに定め、あらゆる機会を利用してこの薬品(カルモチン・睡眠薬の一種)を手に入れようとした」と書いてあります。

この記述を信頼すれば、やはり睡眠薬によって計画的に自殺を企てていたとも考えられるわけですが、睡眠薬を使おうと思ったけれども直前に気が変わったかもしれません。実在の平松麻素子という人物との関係も確かであり、このため、彼女が手渡したという青酸カリによる死亡説はいまだに消し去れない有力な説となっています。

平松麻素子がその後どういう人生を送ったかについては、ネットで調べた限りではよくわかりませんでした。が、青酸カリを手渡したなどと公表すれば、お縄になるのはみえていますから、その後そうしたことを自らが口にするはずはありません。

警察も青酸カリだったとすれば、当然その入手先を調べたでしょうが、仮にそうだったとしてもそうした調査情報を新聞などのメディアに公表するメリットは何もありません。

こうして睡眠薬説か青酸カリ説のどちらが本当かはいまだに不明のままであり、前述の息子二人もその後何も語っていません。おそらくは母の文からもその生前には何も知らされなかったのでしょう。

その後文は、1968年9月11日、調布市入間町の三男・也寸志邸にて心筋梗塞のため68歳で死去。

死後の1975年、筑摩書房から「追想芥川龍之介」が刊行されていますが、これは本人が書いたものではなく、中野妙子(ジャーナリスト?)という人が文にインタビューを行い、この時文の口から出たことばを取りまとめたもののようで、こうした見ず知らずの人に夫の死の真相を話すわけはなく、当然、その死についても何ら触れられていません。

龍之介はこうして36歳の若さで亡くなり、その人生の終焉がどんな形であったのかは今も闇の中です。が、その遺書としては、妻・文に宛てた手紙、菊池寛、小穴隆一に宛てた手紙があり、その中で龍之介が自殺の動機として記した「僕の将来に対する唯“ぼんやりした不安”」という言葉は、今も非常に有名です。

自殺直前の龍之介ののこうした厭世的な心境は「河童」を初めとする晩年の作品群のあちこちに表現されているようですが、この「ぼんやりした不安」というものが、果たして彼を死に追い込むほどの激しい不安であったのかどうかは、これらの作品を読み込むことでしか理解できないのかもしれません。

死の前日、芥川は近所に住む室生犀星を訪ねたそうですが、犀星は雑誌の取材のため上野に出かけており、留守でした。犀星は後年まで「もし私が外出しなかったら、芥川君の話を聞き、自殺を思いとどまらせたかった」と、悔やんでいたといいます。

龍之介は死の直前に

「橋の上ゆ胡瓜なくれは水ひびきすなはち見ゆる禿の頭」

と河童に関する作を残しています。これが、彼の命日を「河童忌」とするゆえんです。

死の8年後、親友で文藝春秋社主の菊池寛が、芥川の名を冠した新人文学賞「芥川龍之介賞」を設け、龍之介はこの世からいなくはなりましたが、その名を冠した芥川賞は現在に至るまでも最も有名な文学賞として受け継がれ続けています。

龍之介が亡くなったのは7月24日の未明だったそうですが、この日の朝、文夫人が亡くなった夫に対して「お父さん、良かったですね」と語りかけたという話が先述の「追想芥川龍之介」の中に書かれています。

この「良かったですね」は意味深なことばですが、素直に受け取れば、龍之介の生前の苦しみが、その死によってようやく払拭されたことに対する祝意でしょう。しかし、と同時に夫とともに苦しみ抜いた、自分自身へのねぎらいの言葉であったようにも思えます。

また、このとき文夫人は、夫の龍之介の「安らぎさえある顔」をみて、こういったといい、だとすれば、龍之介の死因は苦しみの伴う青酸カリではなく、やはり睡眠薬だったのかもしれません。

実際にはどんな表情だったのかは、ご本人が亡くなられていることでもあり、もうわかりませんが、この言葉が表すように、彼の苦しみを一番よく知り、また最も愛していたのは、親友までも愛人としてその夫に差し出した彼女であったことは間違いありません。

戒名は懿文院龍之介日崇居士。墓所は、東京都豊島区巣鴨の慈眼寺だそうです。河童忌の昨日はおそらくは多くのファンがこの墓前を訪れたことでしょう。

煙草が大好きで、1日に180本も吸っていたといいますから、きっと空の上から好きなタバコをくゆらせながら、彼らの姿を見ていたに違いありません……

河童の死


そろそろ夏休みという学校も多いようです。我が家のお隣からも、賑やかな子供たちの声が聞こえるのは、休みに入った親戚の子たちが泊りがけで遊びに来ているからでしょう。

子供たちにとってはこれからが夏本番なのでしょうが、今年は早々と梅雨が明け、先週までの猛暑もあったことから、もうそろそろ夏も終わりでもいいじゃん、という気になってしまっているのは私だけでしょうか。

そういえば、おとといぐらいからヒグラシが鳴き始めており、そのもの悲しげな声を聴いていると早、秋が来たかと勘違いしてしまいます。秋の季語にもなっているそうなので、本当にそうだとすればグッドタイミングなのですが、天気予報を見る限りではまだまだ暑い夏はこれからも続きそうです。覚悟しておきましょう。

ところで、夏休みといえば、海や川での遊び、夏の川といえば、なんとなく河童を思い浮かべてしまいます。そして、今日は「河童忌」ということで、故芥川龍之介の命日のようです。

つい先日発表になった芥川賞の創立のゆえんにもなった大作家であり、小学校や中学の教本にも必ずといっていいほどその作品が出てくるだけに、知らない人はいないでしょう。

無論、私もその名は良く知っており、若いころにその短編をよく読んでいました。中でも杜子春や地獄篇、羅生門といったおどろおどろしい作品群は、先鋭小説というよりも「怪奇物」に間違いなく、こうした不思議の世界を鮮やかにみせてくれる芥川龍之介は、文学作家と呼ばれる作家のなかではどの作家よりも好きでした。

しかし、若くして自殺した、という事実以外には、意外にこの人がどんな人物だったのかを良く知りませんでした。なので改めて調べてみたのですが、すると、あぁこんな人だったんだということや、その死にまつわる話にもこれまで知らなかったことが多くわかり、少々驚いています。

例えば、その自殺は睡眠薬によるものだったとまことしやかに語られていますが、実は青酸カリではなかったかという話もあるようであり、また、その死の直前には一度自殺未遂をしていることなどもわかりました。

また、作家としてデビューする前には、英語の教師だったということも知りませんでしたし、しかもその英語を教えていたのは海軍の学校だったこと、さらにはその作家としての研鑽を積む過程においては、同じく文豪といわれる夏目漱石に師事していたことなども知りませんでした。

なので、この芥川龍之介がどういう人だったのか、なぜ若くして自ら命を絶つという過程に至ったのかということを、改めてここでも整理してみたいと思います。

まず、芥川龍之介という名前ですが、私はこれはペンネームだとばかり思っていましたが、これは本名です。龍之介の「龍」は、彼が辰年・辰月・辰日・辰の刻に生まれたことに由来してつけられたそうです。

ただし、「芥川」という姓は実母の「フク」の結婚前の名前であり、父親は、新原敏三といい、周防の国の生まれで、幕長戦争においては長州藩兵士として戦闘に加わり重症を負うなど、幕末・維新の動乱を生きた人でした。

従って龍之介も本来はこの新原姓を名乗るはずでした。しかし、龍之介が生後7ヵ月のとき、この母のフクは精神に異常をきたしたそうで、このため龍之介は東京市本所区小泉町(現在の墨田区両国)にある母の実家の芥川家に預けられ、伯母のフキに養育されることになります。

このとき、実父の敏三は、存命でしたが、家業の牛乳販売は好調だったものの、これと並行して営もうとした牧場経営がうまくかず、大正7年ごろには牧場を手放すなど事業縮小を余儀なくされていました。

しかし、妻の発狂により、手元に龍之介を置いてもおけず、泣く泣く妻の実家へ預けましたが、のちに龍之介が芥川家の養子になるまで、息子を取り戻そうと苦心していたようです。

しかし結局敏三が折れる形で事態は決着し、敏三もその後再婚して、その後は父親として龍之介の前に現れることもほとんどなかったようです。が、後年、龍之介は「点鬼簿」で、この実父の敏三を作品化しています。

その後、11歳の時に母が亡くなり、翌年にフクの実兄で、叔父の芥川道章の養子となり芥川姓を名乗ることになりました。この芥川家というのは、江戸時代には士族の家柄であり、代々徳川家に仕えていましたが、雑用・茶の湯などを扱う「お数寄屋」であり、いわゆる「茶坊主」を代々拝領していた家でした。

そういういわば芸術関係には造詣の深い家柄であり、代々の主人もまた芸術・演芸を愛好していたため、芥川家の家中には江戸の文人的趣味の文物が数多く残っており、龍之介もこうした古い事物に触れながら成長したようです。

龍之介が生まれたのは、1892年(明治25年)の3月1日のこと。雛祭り生まれの私とは誕生日が二日違いの魚座であり、妙に親近感を感じてしまいます。

生まれたのは、東京市京橋区入船町8丁目で、これは現在中央区明石町にあたり、すぐ側を隅田川が流れ、近くには築地本願寺があって、現在ではこのほかのランドマークとしてはかの渋沢栄一が設立した聖路加国際病院があります。

父の新原敏三は前述のとおり牛乳屋を営んでおり、この店は、京橋区入船町にあって「耕牧舎
」という名前でした。経営拡大に手腕を揮い、各所に支店を設け、のちに新宿(!)に牧場を営もうとしましたが、失敗。龍之介がフクとの間に長男として生まれたのは、そんなころのことだったようです。

龍之介の上には姉が2人いました。しかし、長姉は、龍之介が生まれる1年前に6歳で病死しており、フクが発狂したのはあるいはこの娘の死と関係しているかもしれません。

精神疾患は遺伝しないという医者も多い一方で、こうした遺伝要因と環境要因の相互作用によって発症する可能性もあると指摘する医者もいて、とくに思春期のストレスなどがこの環境要因になることなどが取沙汰されており、もしかしたら龍之介もこの母親の遺伝によりその晩年(といっても36歳ですが)に精神的に不安定になっていたのかもしれません。

龍之介は養家芥川家から府立三中に通わせてもらい、その後一高、東京大学に進んでいますが、前述のように、戸籍上の正しい名前は「龍之介」であるにもかかわらずこうした学校関係の名簿類での記名は「龍之助」になっているそうです。

養父母が自分の子供として育てるときに、前の新原家の因縁を断ち切りたかったのかもしれず、新たにこの名前を名乗らせようとしたのかもしれません。しかし龍之介自身はこの「龍之助」という名前を嫌っていたそうで、大学卒業後の後年は本名の龍之介で通しています。

学生時代の龍之介は秀才だったようです。江東尋常小学校を出た後に入った府立第三中学校の卒業の際には、「多年成績優等者」の賞状を受けており、その後に入学した第一高等学校第一部乙類への入学においては、中学での成績優秀者は無試験入学が許可される制度の適用を受けています。

この高校時代の同期入学生には、後年劇作家として有名になる「久米正雄」、日本共産党の幹部となり、戦前の共産党を牽引した「松岡讓」、文学者で俳句のアララギ派の指導的存在となる「土屋文明」、渋沢栄一の4男で自らも実業家となり田園調布などの開発で活躍した「渋沢秀雄」など、昭和前期の日本を牽引した蒼々たる文化人たちがいました。

さらには、のちに龍之介と同じく文豪として知られるようになり、文藝春秋社を創設した実業家でもある「菊池寛」も龍之介の同級生であり、そして、のちの法学者で京都帝国大学の教授となる恒藤恭(つねとうきょう)もおり、この二人はその後の龍之介の生涯において無二の親友となりました。

とくに恒藤恭とは仲がよかったようで、第一高等学校が全寮主義であったため、その寄宿寮に入った二年次に龍之介と同室になっており、これがきっかけで親交を深めるようになったようです。その後互いが結婚後も家族ぐるみで交流を続けるなど、生涯にわたって親密な関係を保った人物です。

島根県の松江市の出身で、文学者を志望して上京し、東京都新聞社の文芸部で記者見習をしながら苦学して第一高等学校に合格しており、その後は京都帝大にも入学しています。

しかし、京都帝大では、文科から法科へ進路変更しており、この理由について恒藤は後年、芥川との交流の中で自身の能力の限界を知った、と述べています。

京都帝大卒業後は、母校で教鞭をとるようになり、「刑法講義」「刑法読本」といった法律関係の著書を出版していますが、その内容が赤化思想だとして、このころから右傾化の一方を走る政府当局の目に留まるところとなり、著しい弾圧を受けるようになります。

1933年(昭和8年)には、ついに斎藤内閣の鳩山一郎文相が、この当時の小西重直京大総長に滝川の罷免を要求するに至りますが、京大法学部教授会および小西総長はこの要求を拒絶。しかし、文部省は滝川の休職処分を強行したため、この休職処分と同時に、京大法学部では教授31名から副手に至る全教官が辞表を提出して抗議の意思を示しました。

これがいわゆる「滝川事件」と呼ばれる思想弾圧事件です。これを契機として、京都帝大の学生の中にも激しい反ファシズム運動が生まれ、これは東京の東京帝大にも飛び火し、全国的な運動になる兆しをみせますが、政府当局の弾圧は厳しく、結局はこれらの抵抗もむなしく終わり、太平洋戦争への突入を阻止することはできませんでした。

恒藤恭は京都帝国大学辞任後、菊池寛から文藝春秋社に誘われますがこれを断り、大阪商科大学(後の大阪市立大学)の講師となり、その後は学長まで上り詰めています。

マルクス、エンゲルスの唯物史観をも批判的に摂取した「恒藤法哲学」とも称される独自の法哲学を構築したとのことで、哲学の世界では有名な人だそうです。1957年(昭和32年)に市立大学長を辞任。その9年後の1966年には文化功労者として表彰されましがた。翌1967年(昭和42年)に79歳で亡くなりました。

さて、こうした昭和の前半において活躍した多くの文化人と知り合い、その高校時代を楽しく過ごした龍之介ですが、1913年(大正2年)には、東京帝国大学文科大学英文学科へ進学しました。

この東京帝大の英文学科というのは、この当時一学年で数人のみしか合格者を出さないといわれるほどの難関であったそうで、このことからも龍之介の俊才ぶりがうかがわれます。しかし、東洋文学ではなく、英文学を選んだというのは私も意外でした。のちの彼の作風には西洋の空気はみじんも感じられないからです。

あるいは、そういう「西洋もの」も書いているのかもしれませんが、私の中には芥川龍之介といえば、中国の古典を翻案することで有名な作家というイメージがあります。

しかし、専攻は英文学といいながらも、東京帝大に入学後に入るとすぐに活発な文芸活動を始めます。帝大在学中の1914年(大正3年)2月には、一高で同期だった菊池寛や久米正雄らと共に同人誌「新思潮」を刊行。

そして得意の英語力を生かし、「柳川隆之助」の筆名でアナトール・フランスの「バルタザアル」、イエーツの「春の心臓」のなどの和訳をこの中に寄稿しています。この「新思潮」はわずかこの8ヶ月後に廃刊になっていますが、この間、自らの処女小説となる「老年」もここで発表しており、これが作家活動のスタートとなりました。

1915年(大正4年)10月、代表作の「羅生門」を初めて「芥川龍之介」名で「帝国文学」という雑誌に発表。このとき、級友で後に児童文学者になる「鈴木三重吉」の紹介で夏目漱石の門下に入りました。

ちなみに、この鈴木三重吉は、1896年(明治29年)に広島県広島尋常中学校に入学しており、これは私の母校である現在の「広島県立広島国泰寺高等学校」の前身であり、先輩ということになります。

東京帝大卒業後には広島に帰り、教師となる傍ら活発な創作活動を送り、1917年(大正6年)からは、有名な児童文学誌「赤い鳥」に力を入れ始め、この中で、龍之介の遺作であり代表作でもある「蜘蛛の糸」などを紹介しています。

昭和10年に亡くなっていますが、その三重吉の13回忌にあたる1948年(昭和23年)から、「鈴木三重吉賞」が創設され、これは芥川賞ほど有名ではありませんが、現在も全国の優秀な子供の作文や詩に賞が贈られています。

この鈴木三重吉が紹介した漱石と龍之介が親密な関係にあったということは、あまり知られていないようです。それもそのはず、そもそも二人の出合いは、漱石が亡くなるわずか一年ほど前の1915年(大正4年)のことで、そのきっかけは、このころ龍之介が発表した「鼻」を漱石が激賞したことだったようです。

このとき既に文豪として知られていた漱石に褒められたことによって、若き芥川龍之介は作家として歩んでい行こうと決意したともいわれており、その後も漱石に何度も手紙を出して色々と創作上のアドバイスを受けるとともに、身の上相談までしていたようです。

1915年といえば、漱石はこの3月、京都へ旅行し、そこで胃潰瘍のために5度目の入院をしています。ちょうど「道草」の連載を開始したころで、このころから糖尿病にも悩まされ始めており、1910年(明治43年)に初めて胃潰瘍で入院し、その療養のため訪れた修善寺で死にかけて以降、続く不調によって悩まされていた晩年の時期です。

にもかかわらず、漱石は親身になって龍之介の相談に乗ってやっていたようで、後年芥川は後々までこの漱石の優しさを忘れることができないと人に話しています。

漱石はやがて胃潰瘍が悪化し、翌年の1916年(大正5年)の12月にこの世を去っていますが、この師・夏目漱石の葬儀の際、龍之介は同じく漱石の門下で、のちに小説家となる江口渙と共に受付を務めています。

この江口渙の父の江口襄は陸軍の軍医で、東大医学部で森鴎外と同期だったそうで、このときの漱石の弔問には森鴎外も来訪しており、鴎外の名刺を龍之介自らが受け取っているそうです。何の接点もなさそうな、龍之介と森鴎外がこんなところで顔を合わせていたとは驚きです。

1916年(大正5年)、龍之介は、東京帝国大学文科大学英文学科を20人中2番の成績で卒業します。卒論は「ウィリアム・モリス研究」だそうで、これは19世紀イギリスの詩人で、デザイナーもやっていた人のようです。

マルクス主義者でもあり、政治にも関わっていたようで、このように多方面で精力的に活動し、それぞれの分野で大きな業績を挙げたといいます。「モダンデザインの父」と呼ばれ、「ファンタジー」の創始者ともされているといいますから、龍之介の作品の中にもこの「ファンタジー」という新しい分野への反映がみられるのかもしれません。

龍之介はこのあと、海軍の「機関学校」における英語教官に就任しています。前任の英語教官で、この職を長く勤めていた「浅野和三郎」が辞職したため、知人の英文学者たちがその後釜に推薦してくれたからと言われていますが、同じく英文学者でもあった夏目漱石の口添えがあったともいわれています。

海軍機関学校とは、日本海軍の機関科に属する士官を養成するために、戦前に設立された軍学校です。1878年(明治11年)に海軍兵学校附属機関学校として横須賀に発足しましたが、その三年後に海軍機関学校となりました。

1887年(明治20年)には、再び海軍兵学校に吸収されたため廃止になりましたが、1893年(明治26年)に再興され、このとき鎌倉に学校校舎が建てられており、このためここの教員に採用された龍之介もその勤務のために鎌倉に移り住んだようです。

旧帝国海軍は、その範を英国海軍に置いており、その軍事面での指導のために多くのイギリス人教師を招聘しています。その関係から英語教育にも大変熱心であったようであり、この機関学校でも英語教師を必要としていたのでしょう。

ちなみに(また脱線しそうなので早めにやめますが)、龍之介の前任の英語教官であった浅野和三郎なる人物は、心霊研究に傾倒し、こののちその一人者といわれるようになった人です。

この前年の1915年(大正4年)に、和三郎の三男が原因不明の熱病になり、多数の医者に見せても回復せず半年をすぎていましたが、三峰山という女行者にみてもらったところ、いずれ快癒するだろうとの予言を受け、実際、その通りに息子が回復したといいます。

驚いた和三郎は、もっとも実践的に心霊研究を始めようと考えるようになったといい、これが海軍機関学校の教師の職を辞する契機になったといわれています。

その後1923年(大正12年)3月、「心霊科学研究会」を創設し、この会は現在に至るまでも継続し、活動を続けています。この人物の話にはこのほかにもいろいろ面白い逸話がありそうなのですが、また長くなりそうなので、今日はやめにしておきましょう。

こうして、龍之介は海軍機関学校の嘱託教官となり、英語教員としての教鞭を執るようになりますが、そのかたわら創作に励み、翌年には初の短編集「羅生門」を刊行しています。その後もこの教員時代に短編作品を次々に発表し、この年の暮れには第二短編集「煙草と悪魔」を発刊。

1916年(大正7年)の秋には、慶應義塾大学文学部での講師にどうかという話があり、履歴書まで出したようですが、結局これは実現しませんでした。

こうした他の学校への転出を模索していことからみても、この海軍機関学校の教官というのはあまり面白いとは思っていなかったようで、その証拠に、入校からわずか一年後の1917年(大正8年)には、客外社員ながら大阪毎日新聞社に入社しています。

社員といっても、単に新聞への寄稿が目的だったようで、日々の仕事のために出社するという義務はなかったようです。このため機関学校も辞職したわけではありません。

あいかわらず教師としての職はつまらなかったものの、新聞に掲載されるからということで文学の創作には本格的に腰を入れるようになっていきました。

生活にもゆとりが出て、作家としても自立できると踏んだためか、この二年後の1919年(大正8年)に龍之介は結婚をしています。そのお相手は、友人の姪でした。龍之介と同じ府立第三中学校の同窓生で、同じく東京帝大にも進み、ここでは農学部に在籍していた「山本喜誉司」の姉の娘、「塚本文(ふみ)」がその人です。

ちなみに、この山本喜誉司は帝大卒業後には、三菱合資会社に入社し、社長の岩崎久彌から海外での農場経営の任務を与えられ、中国北京で綿花事業に携わった後、コーヒー栽培事業のため、ブラジルに派遣され、ここの日系ブラジル人社会で活躍した農業家です。

戦後混乱期のブラジル日系人社会をまとめた人物で、現地では「天皇」とまで云われた実力者となり、今日でもブラジル日系人社会で知らない人はいないほどの人なのだそうです。

実は、この山本家と芥川家は近所同士だったようで、家族ぐるみで交流があったために子供のころから龍之介は山本家によく遊びに出かけていたようです。このころの山本家には、海軍将校に嫁いだ喜誉司の姉が、夫に戦死されたため娘を連れて実家に戻ってきており、この海軍軍人の遺児が、塚本文でした。

文は、龍之介より8才年下ですから、龍之介が山本家に遊びに出かけ始めたころには、まだ小学校の生徒だったことになります。どうやらこのころからこの美少女に惹かれていたようで、しかし、大人になるまではそのことをおくびにも出しませんでした。

しかしそんな龍之介が、具体的な行動に出るのは大学を卒業する24才のころのことで、このとき彼は友人の山本喜誉司に彼女への好意をほのめかすような手紙を出しています。その後、文にも求婚の手紙を出したところ、彼女も龍之介に好意を持っていたらしく、これにOKの返事を出します。龍之介27歳のときのことでした。

こうして龍之介は東京帝大を卒業後、約2年4か月務めた機関学校を退職し、この年(1919年(大正8年))の3月に文子と結婚。機関学校のあった鎌倉から、実家のある東京府北豊島郡滝野川町、現在の北区田端に帰りました。

1921年(大正10年)には毎日新聞の海外視察員として中国を訪れ、北京を訪れた折には、のちの中華民国の学者で思想家の「胡適」と会い、中国における自署の検閲の問題などについて語り合っており、この海外旅行のことを綴った「上海遊記」などの紀行文を書いています。

ところが、この旅行後から龍之介は、次第に心身衰えさせ始め、神経衰弱、腸カタルなどの病気を次々と得るようになっていきます。1923年(大正12年)には湯河原町へ湯治に赴いて療養しなけらばならないほど悪化し、作品数も徐々に減っていきます。

この頃から彼の作風には「私小説」的な傾向が出てきており、この流れはその後の死を予想させる「歯車」「河童」などの作品へと繋がっていきます。

この「歯車」とういう作品は、「僕」と語る主人公が義兄の幽霊に悩まされる話で、「僕」が心理的な迷路の中でさまよい、もがき苦しむ様子が書かれており、このころの龍之介の疲弊した病的な神経そのものを描写したものではないかといわれています。

「河童忌」のゆえんともなった、「河童」のほうも、ある精神病患者が語る物語という形式で書かれており、ある日河童に出会った主人公が河童の国に迷い込み、この河童の国の「社会問題」に向き合うハメになるという話です。

その社会問題というのは、実はこの国では人間社会とは逆に合法であり、売春はもとより中絶も普通に行われており、しかもガスで安楽死させられた河童の肉を食用にすることもOKという異常な世界であり、あげくの果ては、自殺まで肯定されているという世界でした。

その後、人間の世界に戻った主人公は、この河童の国にいた時代を振り返り、彼らの存在が人間よりもっと「清潔な存在」と振り返り懐かしむというオチになっています。

この作品は龍之介が当時の日本社会、あるいは人間社会を痛烈に風刺、批判したという評価がある一方で、この年に自殺した晩年の龍之介自身の心象風景を表したものではないかとも言われています。

その死に至るまでのことをこの後書いて行こうと思いましたが、既に文面はかなりの量を越しているため、その後のことはまた明日書いていこうと思います。しばしの中断、ご容赦ください。