大日本沿海輿地全図

あいかわらず高い気温の日々が続きます。しかし、季節は確実に秋へ向かっているようです。その証拠に、カナカナゼミが鳴かなくなりました。鳴いているのは夏の終わりに鳴くというツクツクボウシばかりです。暑い夏ももうすぐ終わり。夜風に吹かれて秋の訪れを一足先に味わいましょう。

全国測量へ

さて、昨日、中途半端に終わってしまった伊能ストーリーの続きです。

蝦夷から帰ってきた忠敬らはその測量成果をとりまとめると同時に、直ちに蝦夷地などの地図の作製に取りかかりました。これに従事したのは、忠敬のほか、3人の助手と内妻の栄(エイ)、そして先日のブログでも紹介した佐原・津宮村で知り合った名主久保木清淵でした。以後、この弟子たちが中心となり、忠敬の測量成果を次々と地図にしていくことになります。

ちなみに、忠敬は、1783年(天明3年)に最初の妻、ミチを42歳でなくしたあと、その後3人の妻をむかえています。2番目の妻とは、ミチの死んだあと4年目に結婚しますが、さらに4年後の1790年(寛政2年)にわずか26歳で亡くなります。

その妻(本名不詳)との間には男の子二人と女の子の、合計3人が生まれました。この子供たちのうち、秀蔵(しゅうぞう)は、後に忠敬と共に全国測量に従事しています。3人目の妻は、仙台藩の藩医であった、桑原隆朝という人の娘ノブ(信)でしたが、彼女も病気がちで、結婚して5年目の1795年(寛政7年)に亡くなります。

そして、最後に江戸で一緒に暮らすようになったのが栄(エイ)です。1798年(寛政10年)、忠敬が53才のとき、内縁の妻としました。非常に頭がよかったそうで、忠敬らの地図作りも手伝えるほどだったといいます。

この蝦夷地での第一次測量の成果として出来上がった地図は、現在の尺度で縮尺1/43,636ほどであり、ほぼ五万分の一の地図に相当します。また、この十分の一ほどの小図も作成し、幕府に上呈されました。大きいほうの地図は全10枚組程度だったようですが、その一部が欠損しているものの、残りは現存しており、東京国立博物館に重要文化財として保存されています。

蝦夷地での業績は幕府から高く評価されるとともに、忠敬の測量が極めて高度なものであることが認められました。その後も行われた第二次、第三次の測量と回数を重ねるうちに、徐々に幕府からの支援が増強されるようになり、やがては国家的事業としての側面を持つようになっていきます。

第三次測量が終わったあと、その測量成果は幕府からさらに高く評価され、このとき、忠敬は正式に苗字帯刀を許されています。以前の苗字帯刀は、領主の津田氏から認められたものでしたが、それを幕府によって許されたことから、旗本同様の格に上がったことになります。当時としては非常に名誉なことだったはずです。

しかし、忠敬自身は、鉄製の刀の刃は、測量に使う磁石が狂うからといって嫌い、その後も常に竹光を差していたそうです。何事につけ実務優先のまじめ人間であったことがうかがわれます。しかし、測量家としての性根は見上げたものといえます。

忠敬が幕府から命ぜられた全国測量は、第二次測量が相模伊豆海岸から奥州海岸、第三次測量が、出羽・越後、第四次測量が、東海地方沿岸から北陸沿岸まででした。

ところが、第四次測量から帰って、わずか2ヶ月後の1804年(文化元年)の正月に、生涯の師と仰いだ高橋至時が39才の若さで病死しました。忠敬の落胆は大変なものだったようです。

しかし、至時の死を受けて、幕府が次の天文方に指名したのは、至時の息子、景保でした。これを知った忠敬の喜びはひとしおでしたが、やがてこの景保がとんでもないことをしでかすことになるとは、この時の忠敬は知る由もありません。

旅の終焉

忠敬は、師匠の高橋至時の死を乗り越え、その後も精力的に働き続け、その年の8月までには、それまでの測量成果をもとにして、尾張・越前以東の地図を完成させました。幕府はこのときもその地図の正確さに感心し、以後、忠敬を幕吏として登用することに決定します。

それまでは私財を投げうって行ってきた測量事業ですが、これ以降、忠敬が行う測量は幕府の事業として行われることになったのです。

その後、1805年からの11年間に、第五次測量(東海道・近畿・中国の沿岸)、第六次測量(四国・大和路)、第七次・第八次測量(九州・中国・中部地方の内陸部)を続けてこなし、それぞれの成果を次々と地図にしていきます。

そして、九州本土および、屋久島‐種子島、壱岐、対馬、五島列島などの島しょ部、ならびに中国内陸部から高山、飯山、川越に至るまでの全913日間にも及んだ第八次測量から帰ったとき、忠敬はもう、67才になっていました。

これを機に、それまで深川黒江町にあった居宅を八丁堀亀島町(現日本橋茅場町)に移し、ここを自宅兼、幕府の地図御用所とします。

1815年(文化12年)には、第九次測量が行われ、東海道から伊豆にかけての測量、および、八丈島、御蔵島、三宅島や伊豆諸島などの関東地方の島しょ部の測量、及び八王子から熊谷、江戸にかけての関東地方が測量されました。

このとき、忠敬は既に、71才になっており、さすがに寄る年波には勝てず、すべての測量には参加しませんでした。しかし、それでも、伊豆七島・箱根方面の測量だけには参加しています。そんな年齢であるにもかかわらず、測量が楽しくて楽しくてしょうがない、という風情だったそうです。

翌年の1815年、忠敬にとっては自身の測量としては最後のものとなる、江戸府内測量を実施。このときの測量には忠敬も参加し、その後、数ヶ月を要して縮尺6/1000の地図を完成させています。

その後、この10回にも及ぶ全国の測量の結果を、「日本沿海全図」としてとりまとめる作業にとりかかります。

が、その道のなかばの、1818年(文政元年)5月17日(旧暦4月13日)、終に、忠敬は、八丁堀亀島町の自宅で静かにその生涯を閉じました。

享年73才。肺をわずらっていたという話もあるようですが、はっきりした死因は伝えられていません。

遺骸は遺言によって、浅草の源空寺(台東区東上野6丁目)にある、高橋至時の墓と並べて葬られ、爪髪は故郷の佐原、観福寺に治められました。

現在残っている忠敬の「遺跡」としては、浅草の源空寺と佐原観福寺のお墓のほか、香取市佐原に残る伊能忠敬旧宅、そして伊能忠敬記念館などがあります。このほか、1919年(大正8年)に建造された伊能忠敬銅像があり、その名をとった「忠敬橋(ちゅうけいばし)」もあり、故人の偉業をたたえています。

また、旧宅近くの香取市立佐原小学校の校歌の歌詞には、忠敬のことが歌われているそうで、命日の5月17日には忠敬祭(ちゅうけいさい)として墓参などの行事が行われているそうです。

シーボルト事件

忠敬亡き後、その偉業を引き継いだ高橋景保は、日本沿海全図の仕上げ作業を監督し、久保木清淵や暦局の吏員・門弟も協力して、1821年8月7日(文政4年7月10日)に「大日本沿海輿地全図(225枚)と大日本沿海実測録(14巻)を完成させ、1821年(文政4年)に幕府に上呈しました。

大日本沿海輿地全図は、大変精度の高い日本地図として国内はもとより、その後日本を訪れた外国人からも高く評価されましたが、このころ日本を訪れていたシーボルトもこの地図をみるなり、日本にこんなに高い測量技術があるのかと驚いたそうです。

シーボルトは、ドイツのバイエルン州出身の医者で、ヴュルツブルク大学医学部の時代には、医学ばかりでなく、動、植物学や民族学なども学びました。この大学時代に知り合った、植物学者のネース・フォン・エーゼンベック教授の影響を受け、シーボルトは植物学にとくに興味を覚えます。

1820年に卒業し、国家試験を受け、ハイディングスフェルトで開業します。しかし、一介の医師で終わる道を選ばず、東洋研究を志したシーボルトは、1822年にオランダのハーグへ赴き、国王ウィレム1世の侍医から斡旋を受け、7月にオランダ領東インド陸軍病院の外科少佐となりました。

そして、9月にロッテルダムから出航し、喜望峰を経由して1823年4月にはジャワ島へ至り、6月に来日。自らはドイツ人でありながら、オランダ人であると偽って幕府に届けをだし、出島にあったオランダ商館のオランダ人医師として、日本で勤務するようになります。

日本に滞在中には、阿蘭陀通詞(オランダ語通訳)や、絵師の川原慶賀、および全国からシーボルトのところへ洋学を学びに来た多くの日本人学者たちの協力を得ながら、日本の調査・研究を行い、その後、その成果をヨーロッパに紹介しました。

1828年(文政11年)シーボルトが、帰国する際、長崎の自然・歴史・風俗・美術工芸に関する大量の資料を持ち出そうとしましたが、その中に忠敬らが作った大日本沿海輿地全図の小図が含まれていたことが発覚。

そして、それを贈ったのは、父の職を継いで幕府天文方となり、このころには、書物奉行、兼天文方筆頭に就任していた高橋景保でした。鎖国を国策としていた幕府は国内の地図へ持ち出すことを厳しく禁じており、これを犯したものは死罪相当というのがこの当時のきまりでした。当然、景保は捕縛され、ほかにもこれに関与したとして十数名が牢に入ることになりました。

しかし、どうしてシーボルトが地図を持ち出そうとしたことが発覚したのでしょうか。

一説によると、忠敬の弟子であった高橋景保は同じ弟子の間宮林蔵に密告されたといいます。ある日、シーボルトから間宮宛の手紙が届いたとき、その中には景保宛ての手紙も同封されていました。

この当時、幕府は外国人との文通を禁じていましたから、間宮はこの二つを幕府の規定どおり開封せずに幕府に提出。これによって、景保とシーボルトの関わりが明らかになったというのです。

これも史実であるかどうか不確かなことですが、景保と間宮の間には、測量成果による幕府からの報酬を巡って確執があったといいます。景保は、幕府の測量事業への参加が評価され、書物奉行、天文方筆頭にまで昇進しましたが、間宮はこのころ、勘定奉行・村垣定行の部下となり、幕府の隠密として全国各地を調査する活動を行うようになっていました。

間宮海峡を発見し、偉人のように伝えられている間宮林蔵ですが、高橋とともに大日本沿海輿地全図の作成に参加し、それなりの成果をあげたにも関わらず、高橋景保が幕府の高級役人にまで昇進する一方で、いわば幕府の「犬」のような仕事をしていた間宮には、高橋に対するねたみや嫉みがあったとしても不思議ではありません。

シーボルトから自分への手紙類の中に景保への手紙を発見したとき、その中身は改めることなくそのまま幕府に提出されたといいますが、隠密をやっているような人物ですから、人にはわからないようにその中身を読むことは朝飯前だったと思われます。

そして、その手紙の中に日本沿海全図の贈与のことが記載されていることを知っていたとしたら、それを提出することで、景保を陥れることができます。

高橋景保は、間宮にとっては大師匠の高橋至時の息子であり、道徳上、そんなことをするわけはない、という意見もあるようです。しかし、一方では、間宮は、このころから幕府隠密としての仕事を忠実にこなしており、シーボルトと景保の密接な関係を知ったとき、それが国益を損なうと判断し、その事実を隠すことなく幕府に報告したのかもしれません。

おそらく良心の呵責はあったと思われますが、幕府隠密の仕事を忠実にこなすということは優先したのではないでしょうか。

間宮は、このほかにも石州浜田藩の密貿易の実態を掴み、大坂町奉行矢部定謙に報告して検挙に至らせる、「竹島事件」という案件にも関与しています。1844年(天保15年)に64才で亡くなったときの死因は梅毒という説もあるなど、何やら陰湿な印象のある人間です。

シーボルトは翌年の1829年(文政12年)に国外追放のうえ再渡航禁止の処分を受け、投獄されていた高橋景保はそのまま獄死しました。享年45才。獄死後、遺体は塩漬けにされて保存され、後日改めて引き出されて罪状申し渡しの上、斬首刑に処せられたそうで、このため、公式記録では死因は斬罪になっています。それほど国禁を破るということが重罪だったということがわかります。

ちなみに、後年、アメリカの黒船に乗り込んで密行しようとして幕府に捕えられた吉田松陰も、その後、国禁を破った罪で斬首されており、これ以降の幕末にかけては多くの志士が処刑されています。高橋景保の処刑は、その後激烈になっていく開国運動に先駆け、幕府が庶民への見せしめのために行った最初のデモンストレーションだったのかもしれません。

景保の墓は上野の源空寺にある、高橋至時と伊能忠敬の墓に並べて造られています。本人にとっては慙愧に耐えない出来事であり、無念の気持ちでいっぱいだったでしょうが、あの世では、父至時と忠敬のふたりが景保の手を握り、その労苦をねぎらったことでしょう。

伊能図その後

幕府によって日本地図を没収され、国外追放になったシーボルトですが、日本を退去後の1832年にオランダで刊行した「日本」という書物の中には「間宮海峡」と命名されたカラフトを含む日本辺界略図がオランダ語で掲載されています。おそらくは、幕府に没収された以外にも、精度の高い伊能図(大日本沿海輿地全図の略称)を別のところに隠し持っていて、それを持ち出したものと考えられています。

その証拠に、伊能図は元来、沿岸の地形を確定させるために作成されたものであるため、内陸部の記述は詳しくありません。これをシーボルトは、別の日本図などで補ったとみえ、たとえば、干拓で消滅したはずの海域が描かれていたり、信濃川の放流河川として掘削された阿賀野川が描かれていない、などの不自然があるといいます。

シーボルトが国外に持ち出した伊能図の写本は、日本に開国を迫った際にマシュー・ペリーも持参しています。ペリーはそれを単なる見取図だと思っていたようですが、日本の海岸線を測量して、これと比較してみた結果、きちんと測量した地図だと知り、驚愕したといいます。

江戸時代を通じて伊能図の正本は国家機密として秘匿されましたが、シーボルトが国外に持ち出した写本を基にした日本地図は、開国とともに日本に逆輸入されてしまったために秘匿の意味が無くなってしまいました。

慶応年間に、勝海舟が海防のために作成した地図は、伊能図をモデルとして逆輸入されたものをもとにしたといい、ヨーロッパ人が手を加える必要のないほど精度が高いものであったことを裏付けています。

大日本沿海輿地全図は、大図と小図の二種類が造られましたが、このうちの幕府に上程された「伊能大図」の正本は、明治初期、1873年の皇居炎上で失われ、伊能家で保管されていた写しも関東大震災で焼失したとされています。

ところが、2001年、アメリカ議会図書館でこの写本207枚発見されます。国土地理院の前身である陸軍参謀本部が、20万分1図の日本図を作成するため、その骨格的基図として伊能図を模写したものが、第二次世界大戦後アメリカに渡ったのです。

その後、続けて国立歴史民俗博物館で2枚、国立国会図書館で1枚発見され、欠けていた4枚については、2004年5月に、海上保安庁海洋情報部で保管されていた縮小版の写しの中に含まれていることがわかり、これで伊能図の全容がつかめるようになりました。

さらに一番最近では、2007年1月、海上保安庁海洋情報部所蔵の写しの中から最高レベルの原寸模写図3枚を含む色彩模写図が発見されており、失われたと考えられていた伊能図はほぼすべてが発見されることとなりました。

2006年12月には、「伊能大図」全214枚を収録した「伊能大図総覧(上下)」が「日本地図センター」から刊行されました。価格は39万9000円もしたそうですが、「完売」したようです。なので、今ではこれを購入した図書館などでしか見られません。

これに先立つ、2001年には、伊能忠敬をモデルとした映画、「子午線の夢」が小野田嘉幹監督のもとに製作され、加藤剛さんが主演を務めました。私も見たかった映画なのですが、このときは劇場でみることができませんでした。おそらくDVD化されていると思うので、今度、TUTAYAで探してみようと思います。

また、この映画の公開に先立っては、「伊能ウォーク」なるものが、朝日新聞社の主催で行われました。正式名称は、「平成の伊能忠敬・ニッポンを歩こう・21世紀への100万人ウォーク」だそうで、全国47都道府県約800市町村を一筆書きで歩き、その距離は約1万キロに達するという壮大なものでした。

1998年1月以来、2年間にわたって、のべ約17万人の人が参加し、2001年元旦、無事ゴールイン。このイベントでは、伊能忠敬の測量隊が歩いたルートを歩いたほか、拠点地で伊能図の展示会などが行われたそうです。

同じイベントはもうやらないのだと思いますが、忠敬同様、歩くのが大好きな私ですから、もしもう一度同じようなイベントがあったら、参加してみたいかもしれません。しかし、さすがに江戸(東京)から蝦夷(北海道)まで歩くというのは無理でしょう。

せいぜい修善寺から東京までですか。いやいやそれも難しい。修善寺から沼津ぐらいまでにしておきましょう。もしイベントがあったら、ですが……

緯度1度の距離

佐原は、霞ヶ浦の東端から南へ10kmほど行ったところにあります。すぐ北側2kmほどのところに利根川が流れており、その支流の小野川は運河として機能するよう、底ざらいや岸壁が整備されており、これを通じてかつては、あたり一帯で獲れた豊富な穀物を江戸へ、あるいは外港の鹿島へ運び出していました。

この小野川沿いは、古き時代を思い出す懐かしい町並みが江戸時代そのままに保存されています。文化財でもある銀行や書店、呉服屋、乾物屋などなどの古めかしいお店が立ち並んでおり、東京からもほど近い人気の観光スポット。6月のあやめの時期には、小野川を中心とした周辺の運河を通って舟にゆられながら水郷を見物できるほか、7月と10月の大祭には豪華な山車(だし)も引き出されて、より一層観光客で賑わいます。

私も利根川の環境調査をしていた時期があり、この佐原には何回か行ったことがあります。佐原市民の方には大変失礼ですが、佐原の駅前はひなびたというか、ごく平凡な街並みなのに、この小野川沿いの街並み保存地区に入るいなや、いきなり時代を遡ったような感覚におそわれるほど、風景が一変。

両側に柳の木が並ぶ石造りの運河の中には、昔ながらの手漕ぎの和船などもあって、もし観光客がいなければ、本当にタイムスリップしてしまったのではないかと思えるほど、江戸時代そのままの町並みが残っていて大変風情のある風景でした。

伊能忠敬の旧宅は、この街並みからややはずれた場所にあり、忠敬自身が設計したという母屋と店がその当時のまま保存され、公開されています。忠敬は江戸の八丁堀亀島町(現日本橋茅場町)の自宅で晩年を過ごし、ここで亡くなったため、この佐原の自宅には戻ってきませんでしたが、この佐原の観福寺にも遺髪をおさめた参り墓があるそうです。ちなみに、遺骨は上野の源空寺に埋葬されました。

その忠敬は、50才で隠居して、この旧宅を離れ、その年齢で新たに暦学を学ぶという希望に燃えて、江戸にやってきました。

そして、そのころちょうど、幕府の暦局に招へいされていた天文学者の高橋至時に弟子入りします。また、高橋と同じく大阪の麻田剛立の高弟であり、高橋とともに暦局に入った間重富という知己も得ながら研鑽を重ね、やがて忠敬は、天体の観測や測量の技術にかけては、師匠の至時以上の技術を持っているとまで評されるようになっていました。

緯度1度の距離

その当時、高橋至時らの暦学者の間では、緯度1度の長さが実際にはどれくらいあるかが学問上の大きな話題になっていました。緯度1度の南北の距離については、30里とも32里ともいろんな説が入り乱れていましたが、いずれも実測に基づいた結果はなく、検証することはできません。

緯度1度の長さが確定しなければ、地球の大きさも測れないわけで、これは暦学上の大きな問題でありました。忠敬もこれに強い関心を持ち、浅草の暦局と黒江町の自宅が3キロメートルほど離れていたところから、この両地点の距離を計測し、その緯度の差と比較して緯度1度の長さを算出しようと試みました。

暦局と黒江町の緯度差は約1分半であり、この測定値に忠敬は自信を持っていましたが、問題はどうやってその距離を測定するかです。これを正確に測るには、間縄などの道具が必要になります。間縄は、現在の巻尺に相当するもので、1間ごとに目盛を付けた全長60間(約11m)の縄で、使い勝手のよさを考え、軽くて丈夫な麻縄が用いられたようです。

この間縄を使って、暦局と黒江町の長さを計測しようというのですが、しかしいざ、これを使って地上の長さを計ろうとすると、建屋が込み入った江戸の町では、思うように縄がはれず、直線距離を測ることは至難のわざでした。直線で縄を張ろうとすると、家々の屋根の上に上がらねばならず、そんなことを幕府が簡単に許すわけがありません。

しかたなく、忠敬は暦局と黒江町の間を何回も歩いて歩測を繰り返し、さらには磁石を使って南北の距離を出してみましたが、どうしても正確な測定ができません。そこで至時に相談したところ、至時は「たとえ距離を精密に測定することができたとしても、そんなに小さい緯度の差や距離から、緯度1度の長さを計算したのでは、信用のおける数値を得ることは無理だろう。」と答えました。

実は至時は、忠敬から相談を受けた時、既に緊迫する政治情勢をにらみながら、その後忠敬によって実現する蝦夷地測量の計画を自らも考えていました。

18世紀の後半には、鎖国日本の近海にしばしば外国の艦船があらわれ、水や食料の補給の要請ばかりでなく、通商まで求めるようになっており、鎖国をポリシーとしていた幕府の悩みの種になりつつありました。

1792年(寛政4年)には、帝政ロシアのラクスマンが根室港に入港し、日本人漂流民を送り届けるのを口実に、あからさまに通商を要求してきました。

このとき、幕府は通商は拒否しましたが、長崎への入港許可証ををラクスマンに与えました。その後、ロシアは、1804年(文化元年)にその許可証を持って長崎に来航し、再度交易を求めていますが、この1800年前後のころというのは、ロシアだけでなく、アメリカやフランスの艦船が蝦夷地や紀伊大島などの住民と接触するという事件が相次いだ時期であり、幕府としても迫りくる諸外国の圧力をひしひしと感じ始めていた時期でもありました。

このため、幕府は、蝦夷地探検や調査団の派遣を実施し、幕府の直轄領とするために番屋を置くなどの対策も講じ始めました。沿海測量も実施し、蝦夷地の広さを確認しようとしましたが、測量技術が稚拙であったため、絵地図程度のものしか出来上がってきません。

幕府の天文方であり、国内の測量部門を統括する責任者でもあった高橋至時のもとには、こうした情報が集められており、早晩、自分が計画して蝦夷地の測量を行ない、幕府が欲しがっている精密な地図を作る必要性を感じていました。

そして、まずその皮切りとして、忠敬が確認したがっていた、「緯度1度の長さ」の実測を実現しようとし始めます。

至時は、その実務担当者として忠敬が適任と考えていたようです。自分が教えたその測量技術の技量は今や自分の技量をはるかに超えており、佐原の造り酒屋の頭領として、人を見る目や人を率いる手腕も優れています。

さらに優れた筆記能力があり、測地測量という膨大なデータを処理するための記録能力も申し分なく、しかも自分のように天文方という職務に縛られない隠居の身でもありました。

しかし、高橋至時が最も忠敬に期待したのは、その財力でした。幕府は蝦夷地などの精密な測量が必要としながらも、その測量をするための十分な資金を用意するにあたっては幕閣があまりいい顔をしませんでした。幕府は、江戸時代半ばから物価の高騰や、安定しない米中心財政の行き詰まりに悩まされていたためです。

従って、測量のための蝦夷遠征を実現するにあたっては、当面、幕府からの財政援助はあてにできず、自費を前提にしてでなければ、その許可を得ることが難しかったのです。

その費用は莫大なものであったと考えられますが、忠敬は、至時からこの計画について相談を受けた時、これを喜んで引き受けました。

しかし、忠敬には忠敬の考えがありました。資金難から、至時が当面はこの計画を主として緯度1度の長さを測定するだけにとどめようと考えたのに対し、忠敬は蝦夷地の実測地図作成までを目標としたいと考えたのです。

当然、忠敬が長年佐原で蓄えた銭の大半がそれによって失われることになりますが、忠敬自身の心はもうすでに老境に入っていたのでしょう。老い先短いのに金を大量に残しておく必要はない、と考えたに違いありません。

幕府当局へ提出された蝦夷測量嘆願の書状には、「後世に残るような」地図を作成したい旨の決意が述べられていたといいます。

蝦夷測量

至時は、1799年(寛政11年)の末から、幕府に蝦夷地測量の許可が早くおりるように精力的に働きかけ、それが効して翌年2月には幕府から内定の裁可を得ることができます。

しかし、本裁可にあたっては問題一つありました。それは幕府の許可が、人員も器城も船で運ぶこと、となっていたことです。至時や忠敬の蝦夷行の目的のひとつは、できるだけ正確な緯度1度の長さを確定することであり、そのためにはできるだけ長い距離を陸路で測定することが必要です。船で蝦夷地へ行ったのでは、せっかくの陸地測量ができなくなってしまいます。

このため、至時は、陸路で奥州から蝦夷地へ向かうという行程に変更してもらうよう、幕府と交渉しました。しかし、幕府としては、陸路を通れば、忠敬らの奥州の諸藩との接触は避けられず、欧米の知識の豊富な忠敬らが彼らに無用の影響を与えることは避けたい考えでした。

またこの当時は測量術は最新技術のひとつであり、いわばトップシークレットであったため、その技術の内容を幕府に先んじて奥州諸藩に知られたくなかったのです。

至時の粘り強い説得により、ようやく幕府は陸路は承認します。しかし、自らが言い出したとはいえ、陸路の移動であるがために、船のように大量の荷物を運搬することはできず、携行する器械の数は絞らなければならないというジレンマを抱えることになりました。その機器の選定や、危機不足を補うための工夫のために、忠敬たちはかなりの苦労を余儀なくされました。

やがて幕府の本裁可下り、「浪人 伊能勘解由 その方、かねがね心願の通り、測量試みのため、蝦夷地へ差し遺わされる。入念に努力せよ」との書状が忠敬の元へ送られてきました。「測量試みのため」という表現からもうかがえるように、幕府は忠敬の測量成果に大した期待を持っていなかったことがわかります。

そして、1800年4月、忠敬を筆頭として、門倉隼人・平山宗平・伊能秀蔵らを従えた一行6名が江戸の町を出発しました。忠敬の測量日記「蝦夷于役志」によれば、奥州街道を北上していたときには、一日に9里から10里、時には13里以上も歩いたといいます。一里は約4kmですから、13里といえば50km以上の道のりです。かなりの強行軍といえます。

しかも、夜には寝る間を惜しんで天体観測を行っていたといいますから、彼らのタフネスぶりがうかがわれます。

こうした「快進撃」の結果、一行は江戸出発から早くも30日目には津軽海峡を船で渡り、5月22に蝦夷地に足を踏み入れています。箱館(現函館)の蝦夷会所に顔を出し蝦夷測量の手続きを取ったあと、測量隊は室蘭、襟裳(えりも)岬、釧路と蝦夷地の東南岸を測量し続けます。

そして、根室の少し手前にある別海(現野付郡別海町)に8月7日に到着。別海の仮宿で天体観測を行い、2日間滞在したと記録に残っています。

ちなみに、忠敬の歩測の歩幅は江戸の町で訓練し、69センチと決まっていたそうで、自分の歩幅まで測量器具にしていたというところが、すごいなあと思います。この当時の蝦夷は、本州ほど道が整備されているわけではなく、当然難路ばかりであり、1日に歩ける距離もせいぜい4~5里程度でした。

道路の曲がり角では小方位盤で方位を測り、夜の天体観測は、北極星だけではなく、大熊座、小熊座など多い時には一晩に20個くらいの恒星を観測したといいます。

実は、今回の蝦夷測量には、幕府が決めた期限がありました。往路も考えると十分な時間もなくなってきたため、忠敬らは、蝦夷全土の測量を断念し、やむなく蝦夷東側だけの測量を終え、帰路につきました。

ちなみに、忠敬らが測量できなかった西蝦夷地の測量は、その後、忠敬の弟子の間宮林蔵によって行われ、この師弟の実測によって、蝦夷地全体の輪郭が初めて科学的で正確なものとなりました。

忠敬らが行った奥州・蝦夷を中心とするこの第一次測量では、宿泊日数は180日、天体観測日数は81日に及んでいます。帰路は、福島城下と二本松城下、白河城下などを通過し、10月21日に無事、江戸に帰ってきました。

測量の途中で下僕1人が暇を取った以外、他の5人は1日も病気もせず、元気であったといいます。

幕府は、この忠敬らの奥州蝦夷地測量の結果を見て、初めて忠敬の測量技術の高さに驚嘆します。この測量結果により、忠敬は、緯度1度の距離を、二十八・二里と算出し、天文方であり、師匠の高橋至時に提出しました。1里=3.9273Kmとして、110.75Kmが、忠敬らが算出した緯度一度の長さです。

現在の測量技術をもって算出されている長さとの誤差は、わずか約0.2パーセントでした……