シヴァと大黒

blog170602-0245

6月になりました。

新緑は早、深緑になりつつあり、その色が伊豆の野山のほぼ全部に定着するようになるころには、そろそろ雨の季節がやってきます。

東海地方の梅雨入りの平年値は、6月8日だそうで、昨年は少し早く6月4日でした。長期予報を見ると、来週末あたりが雨になっており、おそらく今年の梅雨入りは平年並みなのではないでしょうか。

この、梅雨をもたらす、梅雨前線は、気象学的にはモンスーンをもたらす前線(モンスーン前線)の1つだそうです。モンスーン(monsoon)とは、ある地域で、一定の方角への風がよく吹く傾向があるときの風、「卓越風」のことを指します。季節によってその卓越風の向きは変わります。このため、アラビア語では「季節」を示す(マウスィムmawsim)と呼び、これがこの言葉の語源といわれます。

日本では夏季には太平洋高気圧(小笠原気団)から吹き出す南東風が卓越し、モンスーンとなります。これが、中国北部・モンゴルから満州にかけて発生する、暖かく乾燥した大陸性の気団、揚子江気団や、オホーツク海にある、冷たく湿った海洋性の気団、 オホーツク海気団と干渉しあって梅雨前線ができるわけです。

日本を含む南アジアや東南アジアで発生するモンスーンは、インド洋や西太平洋に端を発する高温多湿の気流が原因です。この地域のモンスーンは地球上で最も規模が大きく、このため、世界最多の年間降水量を誇ります。広範囲で連動して発生していることから、総称してアジア・モンスーンと呼ばれ、同時にこの影響を受ける地域をモンスーン・アジアといいます。

気象学では一般的に、梅雨がある中国沿海部・朝鮮半島、そして日本列島の大部分もモンスーン・アジアに含まれます。

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このモンスーン・アジアにおいて、世界最多の年間降水量を有する場所は、インドのチェラプンジです。インドの東部、メーガーラヤ州にある都市で、北西部にはネパール、東にはミャンマーがあり、それぞれの国境まではわずか200kmほど、という位置関係です。

標高1,484mの山地に位置し、ベンガル湾からの吹き上げる湿気の影響が非常に大きく、これが多雨の原因です。1860年8月から1861年7月の1年間には26,461mmという世界最高の年間降水量を記録し、長年、年間降水量世界一の記録を保持していました。

しかし、1994年、近隣のマウシンラムにその記録を抜かれました。

マウシンラムは、同じメーガーラヤ州のカーシ山地にある村で、2017年現在も、「世界で最も湿った地」として知られ、ここ約50年間の年平均降水量はおよそ11900mmに達します。ギネスブックによれば、中でも1985年度の降水量は26000mmに達したとされます。

日本で一番雨が多いとされる高知県の年間降水量が3700mm程度ですから、いかにものすごいかわかります。ちなみに、静岡県は9位で、2400mmほど。1985年のマウシンラムの降雨量のわずか10分の1以下です。

加えて、ここの降水量は年較差が比較的少ないのが特徴です。また、極めて霧が多く、晴天を望むことが少ないといいます。年から年中雨、というのは、考えただけでも気が滅入りそうですが、いったいどんなところなのか、想像に絶します。カビ対策はどうしているのでしょうか。

ところで、このマウシンラムと多雨度に関してライバル関係にあるチェラプンジは、東に直線距離でわずか9~-16kmの位置関係です。従って、その降雨量に関してはおそらく目糞鼻糞です。このためマウシンラムが1994年に世界で最も降水量が多い地として認定された際、ライバルのチェラプンジの住民が強く憤慨したといいます。

このマウシンラムには、「マウシンビン」とよばれる洞窟が存在します。マウシンビンにはシヴァ神の宝塔を象ったかのような巨大な石筍(せきじゅん)や巨大な岩塔が立ち並び、シンパー・ロック(Symper Rock)とよばれています。

石筍とは、洞窟の天井の水滴から析出した物質が床面に蓄積し、たけのこ状に伸びた洞窟生成物です。これに対して、洞窟の天井面から垂れ下がる形態のものが鍾乳石です。鍾乳石は、広義ではこの石筍や石柱などを含む洞窟生成物の総称としても使用されています。

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シヴァは、サンスクリット語で「吉祥者」の意味です。ヒンドゥー教の神であり、現代のヒンドゥー教では最も影響力を持つ3柱の主神の中の1人。そしてヒンドゥー教の一派、シヴァ派ではとくに最高神に位置付けられています。

シヴァは形の無い、無限の、超越的な、不変絶対のブラフマンであり、同時に世界の根源的なアートマンであるといわれます。ブラフマン(brahman)とは、ヒンドゥー教またはインド哲学における宇宙の根本原理。一方、アートマンは、最も内側 (Inner most)を意味する サンスクリット語の Atma(アートマ)を語源としており、意識の最も深い内側にある個の根源を意味します。「真我」とも訳されます。

真我は、スピリチュアル的には、「自我」、「魂」であり、言い換えれば「本当の自分」です。自己の中心であるアートマンと宇宙そのものであるブラフマンとは、同一であるとされており、つまり、宇宙と真我は表裏一体、ひとつのもの、ということです。

これを古代インドの思想では梵我一如(ぼんがいちにょ)といいます。アートマンとブラフマンが同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとするのが梵我一如であり、インド哲学の聖典、ヴェーダの究極の悟りとされます。

ヴェーダ(Veda)は、日本語では「梵」と書き、紀元前1000年頃から紀元前500年頃にかけてインドで編纂された一連の宗教文書の総称で、「知識」の意でもあります。

こうした流れから、すなわち「シヴァ」とは全ての中の全て、創造神、維持神、破壊神、啓示を与える者です。全てを覆い隠すものだと信じられており、とくにシヴァ派にとってシヴァは単なる創造者ではなく、彼(彼女)自身も彼(彼女)の作品だといいます。

シヴァは全てであり、普遍的な存在である… というのですが、ここまでくると何やらわけがわからなくなってきそうです。この世、いなや宇宙に広がり、私たちの体をも突き抜けるという、ダークマターのようなもの、というのが現代的な解釈かもしれません。こちらも物理学が専門でない私にはわけのわからないものですが…

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ただ、そうした説明は一般人にもわかりかねます。このため、古来から数多くのシヴァ像が形作られてきました。偶像上のシヴァの特徴としては、額の第三の目、首に巻かれた蛇、三日月の装飾具、絡まる髪の毛から流れるガンジス川、武器であるトリシューラ(三叉の槍)、ダマル(太鼓)、などなどがあります。

また、シヴァは通常「リンガ」という形に象徴化され信仰されることも多いようです。リンガは、一般に男性の性器(男根)を指すサンスクリット語で、本来は「シンボル」の意味を持ちます。

特にインドでは男性器をかたどった彫像は、シヴァ神や、シヴァ神の持つエネルギーの象徴と考えられ人々に崇拝されています。リンガ像の原型が、インダス文明にあるという説もあります。が、この当時の遺跡から発掘されたものが性器崇拝に使われたかどうかは判然としません。ただ、リンガ像の原型になったという考え方は正しいと考えられているようです。

こうした性器崇拝に関する記述は、古代インドの宗教的、哲学的、神話的叙事詩「マハーバーラタ」にも数多くみられます。ヒンドゥー教の聖典のうちでも重視されるものの1つで、そこには豊穣多産のシンボルとしてのリンガの崇拝が記録されています。

後世にシヴァ信仰の広まりとともに、こうしたシヴァの姿がより人々に鮮明に意識されるようになり、大小さまざまなリンガ像が彫像されるようになりました。こうした彫像が多くのヒンドゥー教寺院に祀られるようになったのはこの聖典に拠るところが大きいといわれます。

その説明によれば、通常、リンガの下にはヨーニ(女陰)が現されます。人々はこの2つを祀り、白いミルクで2つの性器を清め、シヴァの精液とパールヴァティーの愛液として崇める習慣があります。

シヴァの主要な性格は、「サマディ」で、これは日本語の「三昧」に相当する言葉です。日本では、「贅沢三昧」「ゴルフ三昧」というような、悪習慣の意味でよく使われますが、本来はシヴァ神の本質を意味するものであり、極度の偏執的な「凝り性」を表しているといいます。

つまり、瞑想だけでなく、エッチに関しても、何に関してもシヴァは何億年もの時をかけてひとつのことに没頭するわけです。こうした究極の凝り性の姿が「リンガ」という偶像に例えられ、これを尽きることなく生命を生み、さらに破壊する女神として崇めるわけです。リンガは、シヴァの原理や現世の本質をあらわしており、この世の万物を生み出し続ける性器そのものという位置づけがなされてきました。

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こうした性器崇拝はかつての日本にもありました。我が国にも「男根崇拝」の時代があり、その名残のひとつが、実は「道祖神」だといいます。ご存知の通り、守り神として主に道の辻に祀られている民間信仰の石仏であり、自然石・五輪塔もしくは石碑・石像等の形状のものが多いようです。基本的には、厄災の侵入防止を祈願するために村の守り神として崇められてきましたが、実はそのルーツには子孫繁栄の意味も含まれていたといいます。

こうした思想を生み出したインドの特異性は、その思想をさらに発展させ、性魔術である「タントラ思想」を生み出しました。今でもインド北部のカジュラーホーには、ミトゥナという男女の性交場面を現した彫刻がありますが、これはタントラ思想を具現化したものと言われます。

シバ神妃の性力 (śakti)を崇拝し、実践行法に関する規則や、神を祀る次第、具体的方法も含む魔術だそうで、その術は192種もあるとされます。どんな秘術なのか想像しかねますが、セックスにも48手あるそうなので、あるいは似たようなものなのかも(※ここのところ未成年の閲覧不可!!)。

これが元となり、のちに発展したインド密教では、タントラを所作、行、ヨーガの3種に分類しています。また、チベット密教では、タントラを所作、行、ヨーガ、無上ヨーガ、の4種に分けています。

所作とは、現在の日本語では、行い、振る舞い、しわざのことで「一日の所作を日記に記す」という風に使います。が、もともとは仏語で、身・口・意の三業(さんごう)が発動することを意味します。

また、行も、現在の日本語に名残として残っており、こちらも仏教用語です。心の働きが一定の方向に作用していくこと、意志形成力のことであり、例えば、桜を見て、その枝を切って瓶にさしたり、苗木を植えてみようと思い巡らすこと、といった場合に使われます。

ヨーガは、現在では、身体的ポーズ(アーサナ)を中心にした、宗教色を排した身体的なエクササイズとして行われていますが、本来のヨーガは、古代インドに発祥した伝統的な宗教的行法です。心身を鍛錬によって制御し、精神を統一して人生究極の目標である輪廻転生からの「解脱」に至ろうとするものです。

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こうした現在の日本語にも残るタントラの思想を日本にもたらしたのが、密教です。性魔術であるタントラ思想は、最初インド密教に取り入れられ、さらにはヒンドゥー教、ボン教、ジャイナ教、そして仏教にも取り入れられて共通して存在します。こうしたタントラはさまざまな形で南アジア、カンボジア、ミャンマー、インドネシア、チベット、モンゴル、中国、韓国、そして日本に伝わりました。

タントラ思想と仏教が融合したものが、チベット密教であり、これが中国に伝わり、そしてこれを初めて日本に持ち帰ったのが、弘法大師こと、空海です。空海はこれを真言密教の形にまとめ上げ、これがさらに発展したのが、今なお日本中に数多くの信者のいる真言宗になります。

タントラの心は日本に今なお強く息づいているといえ、このタントラの流れをひく密教の聖地としては、比叡山、高野山などが有名です。このほか、全国の身近にある稲荷もタントラの影響から発生したものといわれています。

このタントラを人類にもたらしたのは、そもそも人知を超えた存在に対する恐れの感情と、自然のメカニズムです。そしてそれを具現化したものがシヴァであったわけですが、このシヴァは実は非常に化身が得意だとされます。このため、多数の別名を持ちますが、その一つが「マハーカーラ」です。「時間を超越する者」、「時間を創出する者」という意味を持ち、すなわち「永遠」を意味します。

マハーは「大いなる」もしくは「偉大なる」、カーラは「黒、暗黒、時間」を意味し、世界を破壊するときに恐ろしい黒い姿で現れます。シャマシャナという森林に住み、不老長寿の薬をもします。力ずくでも人を救済するとされており、本来は、究極のいいヤツです。

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ここで、「大」と「黒」といえば、日本人ならすぐに思い浮かべるのがあの「大黒天」です。

タントラの流れを引く密教用語が、日本に入ってきた際に翻訳されてできた言葉ですが、大黒天は、大暗黒天とも漢訳され、その名の通り、もともとは青黒い身体に憤怒の形相をした護法善神でした。

例えば、東京の神田明神の大黒天像は怖い顔をしており、福岡県の大宰府市にある観世音寺の大黒天立像も憤怒相です。

この逆に、千葉県市川市にある日蓮宗の寺院、本光院の大黒様は柔和な顔をしていますし、近年お土産物店などで売られている大黒天像なども、ほとんどが優しい顔をしています。

これはなぜか。実は、憤怒相は鎌倉期の頃までで、これ以降、大国主神と習合して現在のような福徳相で作られるようになったためです。習合(しゅうごう)とはさまざまな宗教の神々や教義などの一部が混同ないしは同一視される現象のことで、神道の神格と仏教の尊格が習合した場合は神仏習合と呼ばれます。

日本での大黒天は、「大黒」と「大国」の音が通じていることから神道の大国主神と習合したといわれており、現在の大黒天が上記の本来の姿と違い柔和な表情を見せているのはこのためです。

しかし、鎌倉期以前は、破壊と豊穣の神として信仰されていました。後に豊穣の面が残り、七福神の一柱の大黒様として知られる食物・財福を司る神となりました。室町時代以降は「大国主命(おおくにぬしのみこと)」の民族的信仰と習合されて、微笑の相が加えられ、さらに江戸時代になると米俵に乗るといった現在よく知られる像容となりました。

現在においては一般には米俵に乗り福袋と打出の小槌を持った微笑の長者形で表されますが、袋を背負っているのは、大国主が日本神話で最初に登場する因幡の白兎の説話において、八十神たちの荷物を入れた袋を持っていたためです。また、大国主がスサノオの計略によって焼き殺されそうになった時に鼠が助けたという説話から、鼠が大黒天の使いであるとされます。

奈良市の春日大社には平安時代に出雲大社から勧請した、夫が大国主大神で妻が須勢理毘売命(すせりひめのみこと)である夫婦大黒天像を祀った日本唯一の夫婦大國社があります。

かつて、ここ静岡、熱海の伊豆山神社(伊豆山権現)の神宮寺であった走湯山般若院にも、像容が異なる鎌倉期に制作された夫婦大黒天像が祀られていたそうです。が、現在では熱海の老舗温泉旅館、古屋旅館に移されているといいます。一泊数万円する高級旅館のようなので、当分、お目にかかることはないでしょうが。

その熱海に近い場所に住む、我々夫婦の結婚記念日もそろそろ近づいてきました。6月20日のそのころにはもう既に梅雨に入っていることでしょう。

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空海のいない風景


沖縄が梅雨に入ったそうです。関東甲信越地方が梅雨に入るのはだいたい毎年約一カ月後。もうすぐまたあの雨の季節か~とも思いますが、この自然豊かな修善寺にいれば、雨音を聞いて過ごす日々もまた楽しかな……です。去年の今ごろにも同じことを書いたような気がします。

さて、先日、奥の院へ行こうとタエさんと散歩がてら出かけたものの、その道のりのあまりの遠さに断念したことを書きました。悔しかったので、そのリベンジにと今度はクルマで出かけてきました。

修禅寺の奥の院(正覚院)は、791年(延暦10年)に弘法大師こと空海が修行をしたという山奥にあるお寺で、「奥の院」の名の通り、ふもとの修禅寺からは5kmほど東へ離れた山の中にあります。

修禅寺の温泉街からのその導路は、湯船川沿いにあって別名「いろは道」といい、周囲をひなびた田園風景が広がる小道を春ならば新緑、秋ならば彼岸花やコスモスを眺めながら歩くことができます。

先日は、これをタエさんと途中までのんびりと40分以上もかけて歩きましたが、今回はクルマなので、温泉街から10分ほどで「奥の院」の看板を見つけることができました。

入口には山門などは特になく、お寺なのに、なぜか石鳥居があります。ただ、通常の鳥居ではなく、一番上の梁がない独特のものです。その昔の修禅寺の宗派は真言宗(現在は曹洞宗)なので、密教ではこうした聖地で普通に架ける形式なのかもしれません。

鳥居越しには、その向こうにかなり急な石段見えます。50段ほど登ると、そこには真正面に小さな滝のある広場があり、右手には、大師が修行したといわれる修行石があります。傍らに「弘法大師降魔壇」(こうまだん)という石標とたくさんの石仏が建てられています。

この滝を囲む岩壁の辺り一帯が「奥の院」と呼ばれている場所であり、「奥の院」とは、そもそも寺社の本殿より奥にあって、開山祖師の霊像や神霊などを祭られている場所です。その通り、その昔この場所には、江戸末期に建てられた護摩堂があったとうことですが、昭和36年に台風で倒壊し今では礎石のみになっています。

空海がここで修業をしたときには、まだ18歳だったといい、ここには「馳籠の窟(かりごめのいわや)」という岩洞があったそうです。今はもう岩孔は埋まってしまっているようです。

この洞窟があったとされる岩壁に上から流れ落ちる滝は「阿吽の滝」と呼ばれています。現在は滝に打たれて修業をする、というほどの水量はありませんが、空海が修業したという1300年ほど昔はもっと水量があったのかもしれません。

水の量が今よりも多かったころにはおそらく、修験道の場所としてにぎわったのでしょうが、現在は修験者もあまり入っていないようで、観光客もあまり訪れるところではありません。我々が行ったときにも、老夫婦が二人とハイカーらしい年配の女性が一人いらっしゃるだけでした。

さらにこの場所から、山奥へ分け入ったところには、空海が別の修験場所として良く使っていたという場所があり、空海がこの土地を去るときに「手植え」したという桂の大木があるそうです。

事実だとすると、空海の時代より既に1000年以上経っていることから、それだけの樹齢になるはずで、実際にもかなり大きな木のようです。が、この日の気分は「楽して見物」だったので、我々二人は無論、ここまでは行っていません。また、お天気の良い日に、ハイキングがてら行ってみたいと思います。

空海はこの山奥に分け入った奥の院を気に入り、修行の適地と考えて選んだということですが、実際に座禅を組んでみると、この地にあったたくさんの天魔やら地の妖怪が現れ、修行の邪魔をしたそうです。また、この妖怪たちは、空海だけでなく、地元の住民の前にもたびたび現れて悪さをしたということです。

このため、これを退治しようと空海が「大般若波羅蜜多経」という仏教の基礎的教義が書かれている経典を空中に向かって指でシャシャシャーッと書いたところ、金色の経文が突如中空に現れ、そこら中にいた魔物たちは、たちまちその功徳に魔力を押し込められ、馳籠の窟に向かって吸い込まれていったとか……。

……無論言い伝えにすぎず、本当にそんなことがあったのかどうかはわかりません。ただ、私は霊感のあるほうなので、タエさんに聞かれるまま、周囲の「気」をそれとなく感じてみました。

すると……とくに悪い気はないようであり、とはいえ、特段良い気が流れているわけでもなく、むしろまるで「気が感じられない」という不思議な空間でした。

普通は森のにおいやら水の臭いなどのその場特有の環境がその空間を形造っているものなのですが、まるでそういう五感を刺激するようなものがなく、ただ単に景色が見えるだけ……というのでしょうか、今まで経験のしたことのないかんじです。

以前、京都の鞍馬寺に行ったときには、境内一帯に紛れもないパワーを感じたのですが、ここはそういうかんじでもなく、なにやら異次元空間のようなかんじ。これをパワーというのかどうか、また空海が実際にここで修業したためにそういう気ができたのかどうかはわかりませんが、何等かの不思議な力を持っている場所のようです。

ただ、史料によれば791年(延暦10年)にこの地で修業を始めたという18歳の空海(この当時の幼名は佐伯真魚(まな)でしたが)は、実際にはその2年ほど前から3年間にわたって、空海の母方のおじにあたる阿刀大足(あとのおおたり)の弟子として京で学んでいるはずです。そして、この年には官僚候補生を育成する大学寮に入っています。

この大学寮では勉学に限界を感じ、その後、吉野の金峯山や郷里の四国の石鎚山など修験道の聖地で修行をするなどしていますが、それ以外に畿内を離れてどこかにいたという記録はなく、従って18歳のときに、京都からも遠く離れた伊豆で修行をしているというのは、いかにも無理があります。

麓にある、修禅寺もまた、空海が2年間の唐での留学を終えて帰国したとされる806年(大同元年)の翌年にあたる807年(大同2年)に創建したと伝えられています。

しかし、福岡の大宰府に帰着した空海は、20年の予定留学期間をたった2年で切り上げ帰国したため、当時の規定により闕期(けつご)という罪を与えられています。

「闕」とは「欠ける」という意味であり、朝廷の命をもって20年間の勉学機関を与えたのに、勝手にそれを破って帰国したのは許しがたい、というわけですが、重罪というわけではなく、単に謹慎という程度の罪だったでしょう。

とはいえ、帰国した空海にはすぐには入京の許しが出ず、このため数年間大宰府に滞在することを余儀なくされたといい、大同2年より2年ほどの間、つまり809年までは大宰府にある観世音寺に止住させられています。

この間、空海は唐から持ち帰った経典や曼荼羅などの整理に追われていたはずであり、また個人の法要も引き受け、その法要のために密教図像を制作するなどをしていたといいますから、そんな多忙な合間を縫って、伊豆くんだりまでやってきてお寺を創建できるはずがありません。

ここ修善寺にはこのほかにも空海ゆかりとされるお寺があります。修禅寺から5kmほど行った発端丈山という山の中腹にある、高野山真言宗の「益山寺(ますやまでら)」というのがそれです。このお寺もまた、806年(延暦25年)の創建とされ、空海が創建し、本尊の千手千眼観音菩薩を刻んだとされています。

しかし、806年は空海が唐から帰って大宰府に帰着した年であり、これもまたありえない話です。ただ、益山寺にも伊豆でも屈指の巨樹(樹齢約860年の楓と400年の銀杏)があるということであり、修善寺同様、この地に古くからある由緒正しい?お寺であることには間違いありません。

空海はその後許され、809年(大同4年)に入京。京都市右京区にあった高雄山寺(後の神護寺)に入りました。その後、嵯峨天皇の命などにより鎮護国家のための大祈祷などを行い、現長岡京市にある乙訓寺の別当などを務めながら、新教団設立の準備を進め、812年(弘仁3年)、高雄山寺にて「金剛界結縁灌頂」を開壇。

この儀式は仏の世界を表す曼荼羅に向かってお経をあげるものだそうで、仏と縁を結ぶ、すなわち「結縁」することで信者の心の中の仏心と智慧を導き開くというものらしいです。

このときの入壇者には、空海と並ぶ高僧として名高い最澄も含まれており、その弟子の円澄、光定、泰範のほか190名にものぼったといい、この時点で空海は日本の仏教界の頂点に上り詰めまたといってよいでしょう。

その6年後の、815年(弘仁6年)には、現福島県の会津や現栃木県の下野(しもつけ)などに在住の東国の有力僧侶の元へ弟子を派遣し、密教経典の書写を依頼したという記録が残っており、もしかするとこのころ、伊豆などの東方在住の僧侶などにも写経依頼を行っていたかもしれません。

ただ、いずれにせよ、修善寺や奥の院、益山寺の創建年とはかなりのずれがあり、しかも空海自らがこの地に足を運んだという記録はありません。

その後、空海は816年(弘仁7年)に、現在までの高野山真言宗のメッカとなっている高野山を修禅の道場として下賜してもらうことを朝廷に依頼し、同年この下賜の旨の勅許をえています。翌817年、弟子の泰範や実恵らを派遣して高野山の開創に着手し、818年(弘仁9年)には、空海自らが勅許後はじめて高野山に登りました。

819年(弘仁10年)には七里四方に結界を結び、この高野山の地に伽藍建立に着手。完成した伽藍の中で、その後の日本における仏教界のバイブルともいうべき「即身成仏義」「声字実相義」「吽字義」「文鏡秘府論」「篆隷万象名義」などの有名仏典を立て続けに執筆しています。

その二年後の821年(弘仁12年)ころには生国である讃岐の国(現香川県)に帰り、かの有名な、満濃池(まんのういけ)の改修を指揮しています。空海の日本国内での修業地は畿内のほかには、四国内が多かったようであり、とくに生地の讃岐には頻繁に帰っており、「地元」の名士として人々のために色々尽したようです。

この満濃池の堤防も、水不足に悩む地元の農民のために空海が指導して造られたものといわれています。アーチ型の堤防はこの当時の最新工法であり、現在でも通用する技術です。

日本最大の農業用ため池であり、今でも現役の農業用灌漑池として使われています。周囲約20km、貯水量1,540万tを誇り、2000年(平成12年)にはその一部構造の「満濃池樋門」が国の登録有形文化財(建造物)に登録され、2005年には、ダム湖百選にも選定されています。

823年(弘仁14年)に空海は朝廷から東寺を賜って真言密教の道場とし、ここに現在に至るまでの真言宗の系譜の礎がほぼ確立されました。そしてこれよりのちは、それまでにあった天台宗の密教を「台密」、対してこの新しい東寺の密教を「東密」と呼ぶようになりました。

「密教」というのは、その名の通り、もともとは「秘密の教え」を意味する用語です。インドを発祥の地とし、伝統的に、ユーラシア大陸の中央部から東部の中国などにかけて信仰されてきた仏教の分派、これを「大乗仏教」といいますが、その中の「秘密教」のひとつとして布教されてきました。

現在、日本の伝統的な密教の宗派としては、空海が唐で学んで持ち帰り、「真言密教」として体系付けた「真言宗」と、同じく唐で学んで帰ってきた最澄によって創始され、その弟子の円仁、円珍、安然らによって完成された「日本密教(日本天台宗)」のふたつがあります。

真言宗のほうは、即身成仏と鎮護国家を二大テーゼとしており、「密教専修」つまり、唐から持ち帰ったオリジナルの秘密教に忠実であるのに対し、天台宗ではこれに日本の古来からの仏教テーマを加えた、天台・密教・戒律・禅の四つのテーマを根本としている点などが異なっています。

この密教を日本の公の場において初めて紹介したのは、空海よりも先に唐へ留学して帰国した最澄でした。

しかし、最澄は、密教についてはあまり深い勉強を積むことができず、このため、唐から持ち帰った密教を天台教学とうまく融合させて完成度の高いものにすることができませんでした。これがこうした教義には目の肥えていたこの当時の皇族や貴族の興味を惹きつけることができなかった理由のひとつです。

彼らはあの世での浄化を説く天台教学よりも、むしろ現世利益も重視する密教や、あるいは来世での極楽浄土への生まれ変わりを約束する浄土教(念仏)に関心を寄せており、こうしたところに、唐における密教の拠点であった青龍寺で本格的に密教を修業した空海が帰国したのです。

前述のとおり、空海は20年の留学の予定をかなり早めて帰国したため朝廷の不興を買って大宰府に留め置かれました。ところが、その後入京が実現したのは、空海が登場するまでは仏教界における最大の実力者であったこの最澄の尽力や支援があったからだといわれています。

その後、2人は10年程交流関係を持ち、密教の分野に限っては、その最新かつ深い知識を持ち帰った空海のほうを最澄が敬い、本来は自らが先輩ながら空海に対しては弟子としての礼を取っていました。

しかし、やがてその教義の違いもあり、その仲は壊れていきました。

本場中国の密教を持ち帰り、そのきらびやかな世界に魅了された皇族や貴族の人気は空海に集中したため、これを最澄が嫉妬したともいわれ、また、最澄の愛弟子の泰範が師匠を捨てて空海の下へ走ったことなどから、二人は徐々に対立するようになり、弘仁7年(816年)初頭頃には完全に訣別しています。

この訣別に関しては、空海が唐から持ち帰って経典を借覧させてくれと要請したのに対し、空海が秘密だからと、これを拒絶した、というまことしやかな話も残っているようです。

空海が朝廷から東寺を下賜され、ここを真言密教の道場として真言宗が確立されたのちは、最澄の主唱する天台密教を台密、空海の東寺の密教を東密と呼ぶようになったのは前述のとおりです。

これらの日本の密教は、その後霊山を神として神聖視する在来の山岳信仰とも結びつき、修験道など後の「神仏習合」の主体ともなりました。現在神の山として崇められている富士山もその昔は仏の山であったことを以前このブログでも書きましたが、これもまた空海らが持ち込んだ密教の影響といえます。

現在でも富士山周辺にある寺院・権現に伝わる山岳曼荼羅には、この台密と東密の両方の要素や浄土信仰の影響が認められるということです。

真言密教を確立した空海は、その後、828年(天長5年)には、東寺の東にあった藤原三守(ただのり)というお公家さんの私邸を譲り受け、私立の教育施設「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を開設しています。

この当時の教育は、貴族や郡司の子弟を対象にするなど、一部の人々にしか門戸を開いていなかったにも関わらず、綜芸種智院は庶民にも教育の門戸を開いた画期的な学校であったといい、空海という人は教育の分野においても開明的な人だったことがわかります。

しかし、831年(天長8年)には、病(悪瘡)を得たといわれ、その後は一線から退いて高野山に隠棲し、穀物を断ち禅定を好む日々であったと伝えられています。が、ときおり宮中の重要な儀式には参加していました。

そのひとつに、後七日御修法(ごしちにちみしほ)と呼ばれるものがあり、これは国家安泰・玉体安穏(ぎょくたいあんのん)・五穀豊穣・万民豊楽(ばんみんぶらく)などを祈る行事です。

835年(承和2年)に空海がこの行事を行って以降、毎年宮中の恒例行事として正月に行われるようになり、この御修法は、明治維新による神仏分離による短期の中断をはさみ、場所を宮中から東寺に移して、現在でも毎年行われているということです。

しかし、この行事が正月に行われたあとおよそ二か月後の3月には高野山で弟子達に遺告を与えており、そしてこの月21日に入滅。享年は60歳だったと記録されています。

空海の十大弟子の一人だった真済(しんぜい)が書き記した「空海僧都伝」によると、死因は「病死」とだけ書かれており、「続日本後紀」によれば遺体は火葬された(荼毘に付された)と書かれています。

その死の4年前には既に病を得ていた空海ですが、その晩年は文字通りみずからの命をかけて真言密教の基盤を磐石化することに傾力していたようです。

とくに834年(承和元年)の12月から入滅までの3ヶ月間は、後七日御修法の準備に心血を注ぎ、その修法を書き残すとともに、また自らが開いた金剛峯寺を定額寺(官大寺・国分寺に次ぐ寺格を有した仏教寺院)にするための運動も行うなどの密度の濃い活動を行っていました。

死後、荼毘に付されたということなのですが、すべてをやり終えた後に入定、即ち永遠の禅定に入り、即身仏になったという話もあり、その死のあたりから、色々な伝説が残されるようになります。

修禅寺のような古寺の開基や、奥の院での若きころの修業といった伝承などもそのひとつですが、このほかにも、その修業の際にいろんな「奇跡」を各地で起こしたことになっていき、手にもった鉾で地面を叩いたところ湯が湧き出したという類のいわゆる、「開湯伝説」などもそうしたものです。

その内容は温泉地により異なり、また温泉によっては複数の伝説が存在する温泉もあり、歴史が古い温泉では、必ずしも空海がその開祖というわけではありませんが、たいていは、こうした開湯伝説が存在します。

修禅寺温泉も空海が開祖となっている温泉のひとつなのですが、これ以外にも「弘法大師作」なる温泉は日本各地にあり、最北の山形県のあつみ温泉から一番南では熊本県に杖立温泉があり、その総数は二十有余にもなります。

空海と同じように温泉を発見したとされる数で多いのが「行基」です。空海よりも85年ほども前の749年(天平21年)に亡くなっており、彼が活躍した時代はまだ奈良時代といわれる時代です。

このころはまだ僧侶は国家機関のエージェントであると朝廷が定め、仏教の民衆への布教活動を禁じた時代であり、この禁を破って畿内を中心に民衆や豪族層など問わず広く仏法の教えを説き、このことにより人々より篤く崇敬されました。

また、道場や寺院を多く建立しただけでなく、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所を、困窮者のための布施屋9ヶ所等を設立したといわれ、数々の社会事業を各地で成し遂げています。

この点、満濃池などを民衆のために造り、教育機関や多くの寺を建立するなどの数多くの公共事業を手掛け、その徳によって民衆に愛された空海とよく似ています。

東大寺大仏造立にも関わったともいわれ、この他、行基は古式の日本地図である「行基図」を作成したとされており、その作成のために日本全国を歩き回り、その際に橋を作ったり用水路などの治水工事を行ったようです。全国に行基が開基したとされる寺院なども多く存在しており、彼によって開かれたとされる温泉が多いのもうなずけます。

空海が開祖であるとされるものほど多くはありませんが、それでも全国で18ほど行基が見つけたとされる温泉場があり、その中にはかの有名な草津温泉(群馬県)や、石川県の山代温泉、山中温泉なども含まれます。

おそらくは生涯、畿内から東へはほとんど行ったことがないと考えられる空海に比べると、全国を歩き回っているだけにずっと信憑性が高く、だからといってその価値がより高いというわけでもないのですが、我が修善寺温泉のように、「ありっこない」伝承をもとに弘法大師が見つけた、と開き直っているよりは少しマシな感じがします。

ただ、空海(弘法大師)による開湯伝説の場合、彼が開いた高野山からやがて「高野聖」と呼ばれた修行僧が諸地方に出向いており、勧進と呼ばれる募金活動のために勧化、唱導、納骨などを行ったこれらの僧侶たちが、それぞれの地で温泉を開いたのではないかとも考えられています。

僧侶とはいいながら、いわゆる山師的な坊主たちが、温泉を探り当てて儲けようとした際に教祖たる空海の名を借用したと思われ、このため、まるっきり空海とは関係ないとばかりもいえません。

また、仏教の教えの中には人身の健康にも通じている部分もあり、このため高野聖などの僧侶の中には、医薬にも精通していた者が多く、湯治の場として温泉を勧めた僧もいたといいます。

そして、温泉により傷や病が癒えたことで、御利益があったとみなされるようになり、温泉信仰と仏教信仰が直結するようになった、つまりは信仰色が強い湯治場などでは、これをみつけた僧侶がここでその効用を勧めて檀家を多く持つようになり、彼らによってお寺が勧進されたところも多かったのだと思われます。

修善寺温泉にも修禅寺があり、温泉とこのお寺さんの関係が密接であることからその典型例といっても良いでしょう。

温泉の効能や効果を世に広く謳うためには、温泉療養に関連性の強い、著名な僧侶を引き合いに出すと良い宣伝になります。とりわけその中でも高名な空海や行基のような庶民に人気のあった人物を引き合いに出せば、その宣伝効果もより高くなるというわけです。

僧侶ばかりではなく、ほかにも平安時代の武将、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が発見したという温泉も多く、これも全国に10湯ほどのものがあります。

さらには、鳥や獣によって温泉が見つかったというのも多いようです。調べてみると、下呂温泉や、山中温泉、道後温泉などのシラサギ、城崎温泉(きのさきおんせん)のコウノトリや、山口の湯田温泉の白キツネなどがあります。

このほかにも、三朝温泉(みささおんせん)の白狼などといったものもあり、鹿(山鹿温泉など)と猿(俵山温泉など)は全国どこにもいる動物のためか、至るところにこれらの動物がみつけたという温泉があります。

動物が湯に浸かっているのを見た古人が温泉であることを発見したものとしては、「白い」動物にちなむものが多いようで、中には、「お告げ」に近い伝説もあり、白い動物が多いのも温泉信仰と直結させやすいためである場合が多いようです。

しかし、動物が発見したという部分自体がまったくのフィクションの場合も数多くあるようで、実際は鳥獣たちが発見したのではなく、それが温泉だと発見したのはそれを目撃した猟師や樵夫(きこり)などである場合のほうが多いのではないでしょうか。

ただ、こうした動物の中には、本能的に水浴びなどをすることで、体の汚れを落とし、疲れを癒す習性をもつものがあり、鳥などはその代表例です。自然に湧出したいで湯もまた、その一環として利用されていたに過ぎず、実際に浸かってみて、あぁ~いい塩梅だ~と鳥が思うわけはありません。

が、あえてシラサギが入っていたよ!きっと効能があるに違いないよ!とそれを敢えて喧伝することで、温泉の効能は説得しやすくなり、また親しみやすさもより増していきます。

その証拠に、こうした鳥や獣が発見したという伝説では、決まって「外傷を癒した」という文句だけが印象づけられています。

鹿や猿が胃腸病や関節痛を治した、なんてのは、目で見て実際に確認できるわけはなく、本当に動物がそれを癒しているかも分かりませんが、外傷が治ったというのであれば、これはもしかしたらホントかもしれない、と誰もが思い、治療に効くと説得しやすいというわけです。

もしも本当に鳥や獣がいで湯に浸かっていたとしても、それは必ずしも外傷の治療とは限らず、前述のように単に体の汚れを落としたいという本能だったのかもしれません。たまたま水場としていたのが温泉水だったにすぎないなどというのも多いと考えられます……

……さてさて、何を書いているのかよくわからなくなってきました。「開湯伝説」というものには根拠がないものが多い、ということを書きたかったのかもしれませんが、それを否定したところで、私には一文の得にもなりませんので、奥の院や修禅寺温泉を空海が開いたかどうかについての議論はここらでやめるとしましょう。

ただ、最後に一つだけ観光情報を付け加えておきましょう。

この奥の院では毎年12月の冬至のころ、22日前後に、一年の厄を払い新年の幸せを祈る「星まつり」が行われるそうです。

修禅寺からお坊さんがやってきて、護摩を焚き、この煙に当ると家内安全の願いが叶うとされており、この「星まつり」もまた、本来は真言密教に伝わる行事だそうです。奥の院、すなわち正覚院は500年前に修禅寺とともに曹洞宗に改宗されていますが、弘法大師の偉業を伝える儀式として宗派を越え、現在に受け継がれているということです。

ちなみに益山寺では修善寺奥の院より少し遅れて1月の第3土・日曜に「星祭」と名前は少し違いますが、やはり星のお祭りをやるようです。

弘法大師が開祖したかどうかはどうでもよいこと。家内安全の願いがかなうなら、こうしたお祭りにもまた出かけてみようかという気にもなります。年末年始のころ、また奥の院に行くことがあれば、またその様子をレポートしてみましょう。