ウンカとキリギリス

blog170523-9226富士山の雪が遠目にもかなり融けてきて、夏山になりつつあるのは明らかです。

暑さ厳しい季節に入りつつある証そのものであり、夏が嫌いな私にとっては、今年の夏もいつも通り暑いぞ~、と脅しをかけられているような気分になってきます。

とはいえ、富士山そのものに悪気があるわけでなし、日々変化する凛々しいその姿でどれだけ心が洗われていることか。がしかし、富士の守り神、木花咲耶姫もまた暑い夏がお嫌いだからこそ、その高嶺の涼しい場所に鎮座しておられるに違いありません。

そろそろ厚く着込んだ十二単を脱ぎ捨てて衣替えをされているに違いなく、もしかしたら、今日あたりは残雪を使ってかき氷など、召し上がっているかもしれません。

それにしても今日も暑くなりそうです。朝から気温がどんどん上がり、9時の時点でもう既に25度。まだ、5月だというのに…です。

ここは山の上ゆえに、やや気温は低いものの、午後には30℃まではいかないまでも、おそらくそれに近い暑気になるのではないでしょうか。

こうした暑さに誘われてか、虫が多くなってきました。先日、庭の水やりをやっている間に、今年初めて蚊に食われ、仕舞ってあったキンカンはどこかと探し回る、という一幕があったばかり。そろそろ虫よけスプレーを買い、蚊取りも求めて、これからのムシムシする季節に備える必要がありそうです。

ところで、虫といえば、その昔は、虫送り(むしおくり)という行事があったそうな。

虫追い(むしおい)ともいい、農作物の害虫を駆逐し、その年の豊作を祈願する目的で行われるこれは、今はかなり廃れてしまった日本の伝統行事のひとつです。

ちょうど春から夏にかけての今の時期、すなわち初夏のころ行われていた行事で、夜間たいまつを焚いて行います。一般的には藁人形をつくって悪霊にかたどり、作物を食い尽くす害虫をくくりつけて、鉦や太鼓をたたきながら行列して村境にいき、川などに流しました。地域によっては七夕の行事などと一緒にやることもあったようです。

しかし、明治時代以後、虫送りは各地で廃れていきました。農薬が普及するようになったことと、火事の危険などから行われなくなったことが原因のようです。

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とはいえ、長い歴史を持つす風習だけに、現在も続いているところもあちこちにあり、私の郷里の山口でも、長門市から下関市にかけての日本海沿いの北浦地方で「サバー送り」という虫送りの風習が残っています。萩藩やその支藩では、虫の害によって米の凶作が起こることも多く、その度に飢饉が生じたため、各地で虫送りが行われました。

北浦地方の場合、「サバーサマ」「サネモリサマ」という2体の騎馬武者姿の藁人形を作ります。それを自分たちの地域から隣の地域へ、さらに隣の地域へと、かつての村の境を幾つも越え、延々と送り出していく、リレー形式であるのが特徴です。どこまで行くかについては、その年によって異なりますが、最長では60km近くになるようです。

確認されたものでは最長約53kmあったそうで、そのときは約1ヵ月にわたって送り出されています。こういった形の虫送りは、全国的にもまれで、2009(平成21年)には、県の無形民俗文化財に指定されました。

この北浦地方の「サバー送り」「サバーサマ」のサバーとは、稲の害虫であるウンカなどを指します。時に、大発生して米の収穫に大打撃を与える、体長2~3cmほどのバッタとセミのあいの子のような虫で、ウンカは「浮塵子」と書きます。「「雲霞のごとく」、という表現がありますが、こちらは「雲」や「霞」のように人が集まっている、という場合に使い、虫のウンカとは関係ありません。

「サネモリサマ」のほうですが、こちらは、源平合戦で亡くなった老武士・斉藤実盛(さいとう さねもり)のことです。その死にざまから、無念の死を遂げた怨霊が稲を荒らすようになったという伝説があります。その怨霊を鎮めるために「サネモリサマ」として崇めるようになり、害虫であるウンカの化身であるサバーサマをよそへ連れて行っていただくよう祈る行事として「サバー送り」が定着したようです。

この北浦地方のサバー送りは、6月末から7月上旬にかけて長門市の飯山八幡宮で、地域の人々が藁人形を作ることから始まります。長門市中心部から南の山の手のほうに行ったところにある、東深川藤中(ふんじゅう)にある古社です。奈良時代に湊の浜にまつられ、平安時代初期に現在地に移されたと伝えられています

この神社で、宮司さんたち主導で、街の有志が藁の馬に人が乗った形の「サバーサマ」「サネモリサマ」を作ります。騎馬武者姿のこの2体の藁人形が出来上がると、顔には、白い半紙を貼り付け、目・鼻・口を描き、頭には紙で作った兜をかぶせ、背には羽織代わりに貼った紙に「一○」と書き、腰には木の枝で作った刀を差します。

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ネットで見つけた写真で見ると意外に大きく、中学生の背丈ほどもあります。2日間の神事の後、地域の人たちがこの藁人形を担ぎ、幟(のぼり)を持ち、鉦(かね)や太鼓をたたきながら八幡宮を出発し、長いリレーが始まります。その後は、車に乗せ換え、初日は旧長門市域と長門市街の西にある日置(へき)との境に藁人形を置いて立ち去ります。そこからは、子ども会などが徒歩や車で中継点まで運び、そっと置いて立ち去ると、また送り出されます。

このリレーは日置のさらに西にある、油谷(ゆや)に入っても同様に行われます。その後も、西へ西へと進み、各自治会や子供会などにより、数週間をかけ、最終的には下関市豊北町の粟野のあたりに達します。このあたりは、美しい海岸線が続く場所で、大きな海水浴場こそはありませんが、碧い海と岩礁帯、そして青い空との組み合わせが魅力です。

このころになると、藁人形はかなり傷んでいますが、見つけた人によってさらに運ばれ、置く場所も一定せず、どこまで行くかはその年次第です。豊北町には、このさらに西に、粟野以上に美しい海岸線のある角島という景勝地があり、このあたりまで行ったこともあるのではないか、と想像します。

豊北町では、この藁人形を運べば不幸にならないとされてきたため、その昔から誰がしかが見つけると、こっそりと別の村へと運び出す、ということが繰り返されてきたようです。ただ、近年では伝承を知らない人が増え、道端に放置された藁人形は、雨風に打たれるまま、そのうち朽ちていく、といったこともあったようです。

しかし、有形文化財に指定されてからは逆に有名になり、新聞なども取り上げるようになりました。今では、藁人形を見つけた子どもたちが、そのいわれを寺社や地域の古老に聞いて地域の伝承や歴史を学ぶ、ということもあり、古くからあるこうした風習を、社会教育的な意味合いを込めて紹介されることも多くなっているようです。

豊北へ来たあとの藁人形の行方は不定ですが、最終的には海に流されることが多いようです。誰がどういう基準で最後を決めるのかはよくわかりませんが、不幸の源とされるものはいつかは始末しなければなりません。その行先が海のかなたというのは、そこに冥土があると信じられてきたからでしょう。

こうした虫送りは、昔から全国的に見られる行事でした。しかし、現在では広域にわたり送り継がれる例は全国的にも稀となり、この山口県の例のようにヒトガタを用いて行われるものはかなり少なくなりました。山口県内でも数少なく、貴重なものであり、今後こうしたかつての農耕文化を象徴するような行事は長く伝えていってほしいものです。

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ところで、このサバー送りの「サネモリサマ」の語源となった、斉藤実盛ですが、なぜ害虫のシンボルになったかといえば、それは「平家物語」に書いてあった逸話から来ているといいます。

斎藤実盛が討たれる際、乗っていた馬が稲の切り株につまずいたところを討ち取られたといい、その後実盛は民間伝承の中に取り込まれ、稲を食い荒らす害虫(稲虫)ということで定着していきました。馬が切り株につまづいた、というのはちょっと想像しにくいシチュエーションですが、それがきっかけとなったとしたら、稲の切り株さえなければ~、と実盛が死後の世界で強く思ったとしてもおかしくはありません。

実盛にすれば、稲憎しだったわけですが、これが高じて稲を食い荒らす稲虫(ウンカ)に例えられ、あげくは実盛虫とまで呼ばれるようになりました。そして、虫送りのことを実盛送りまたは実盛祭とも呼ぶようになっていきました。

それにしても、この実盛とは実際にはどんな人物だったのでしょう。

調べてみると、平安時代末期に生きた武将のようです。時代背景を見てみると、ちょうどこのころが武士が台頭し始めた時期であり、武力を背景にさかんに朝廷の政治に口出しをするようになったころです。その結果として保元・平治の乱が勃発し、それを契機に朝廷の権威がゆらぐようになり、やがては平清盛の率いる平氏が台頭し始めた、という時代です。

実盛は、越前国の出で、武蔵国幡羅郡長井庄(現、埼玉県熊谷市)を本拠とする、長井別当と呼ばれる斉藤家の一子として、天永2年(1111年)に生まれました。このころの武蔵国は、相模国を本拠とする源義朝と、上野国に進出してきたその弟・義賢という両勢力の緩衝地帯でした。

源義朝といえば、あの有名な源頼朝・源義経らの父です。そのさらに父の源義家はもともとは畿内・河内の人でした。その死後、河内源氏は内紛によって都での地位を凋落させていましたが、都から東国へ下向した義朝は、在地豪族を組織して勢力を伸ばし、再び都へ戻って下野守に任じられました。その後勃発した保元の乱では、東国武士団を率いて戦功を挙げ、さらに勢力を伸ばしました。

実盛の本拠地は、現在の東京・埼玉にあたる武蔵国ですが、その南にある、現在の神奈川県にあたる相模国を支配していたのが、源義朝でした。逆に北側にある、上野国、現在の群馬県にあたる地域に進出し、支配をしていたのが、義朝の弟の義賢になります。

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実盛は初め、この兄のほうの義朝に従っていましたが、相模よりも大きな武蔵国と上野国を併せた地域で勢力を伸ばしていくほうが、今後関東地方に君臨していく上では有利と考えたのでしょう。義朝を見限って、やがて義賢の幕下に伺候するようになっていきます。

対する、義朝には、義平という長男がいました。通称は鎌倉悪源太といい、母は京都郊外の橋本の遊女とも言われ、源頼朝・義経らの異母兄にあたる人物です。勇猛果敢な武将として恐れられていました。

武蔵衆と上野衆の連合という、こうした動きを見ていたこの義朝の子、鎌倉悪源太・義平は、これを危険視し、ついに行動に出ます。そして、久寿2年(1155年)、義賢を急襲してこれを討ち取ってしまいます。「大蔵合戦」といい、ともに源氏であるこの両家の身内争いは、その後それぞれの後ろ盾である宮中の勢力の争いにつながっていったため、保元の乱の前哨戦とも言われています。

この実盛という人は、もともと旧恩には篤い性格だったらしく、義朝の元を離れて義賢の元に伺候するようになってからも、義朝への義理を忘れていなかったようです。そのためもあり、義賢が討たれるとみるや、今後の関東の勢力地図は義朝中心になっていくとみて、再び義朝・義平父子とよりを戻し、再びその麾下に入りました。

ただ、旧知の恩に報いるタイプ、というよりも、時勢のバランスを見ながら世を渡っていく、八方美人的な人物だったというのが正しい見方かもしれません。

この義朝・義平父子の配下には、もう一人畠山 重能(はたけやま しげよし)という人物がいました。大蔵合戦では、源義賢を討った立役者で、義平はこの重能に、義賢の子で2歳になっていた「駒王丸」を探し出して必ず殺すよう命じました。

しかし、見つけたその幼子に刃を立てる事を躊躇した重能は、その子をそのころ義朝・義平父子の部下に戻っていた斎藤実盛に託します。義賢に対する旧恩を忘れていなかった実盛はこれを了諾し、重能から密かに預かった駒王丸を信濃国へ逃しました。

信濃国には、木曾地方に本拠を置く豪族、中原兼遠という武将がおり、実はこの兼遠の奥さんが、駒王丸の乳母でした。そういった縁もあり、兼遠は斎藤実盛から、駒王丸が源義賢の遺児であることを聞かされると、ひそかに匿って養育することを約束します。

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こうして、駒王丸は兼遠一族の庇護のもとで成長し、長じてからは、育った土地にちなんで、「木曾」姓を名乗るようになります。義朝を叔父に持ち、つまり源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたるこの人物こそが、後に「旭将軍」と呼ばれ、頼朝・義経の最大のライバルとなる「木曾義仲」です。

保元の乱、平治の乱において実盛は、平家打倒を旗印に上洛する義朝の旗下、忠実な部将として奮戦します。しかし、やがて清盛率いる平家の逆襲に遭い、徐々に義朝は追い詰められていきます。東国で勢力挽回を図るべく東海道を下りますが、その途上度重なる落武者狩りの襲撃を受け、配下の重鎮たちは深手を負い命を落としていきました。

そんな中、義朝の三男の頼朝も一行からはぐれて捕らえられ、兄の義平は別行動で北陸道を目指して一旦離脱します。そして再び京に戻って潜伏し、生き残っていた義朝の郎党と共に清盛暗殺を試みますが、失敗してしまいます。

その後も、義平は近江国に潜伏して清盛を付け狙いますが、結局は平家の郎党に生け捕られ、六波羅へ連行され、清盛の尋問を受けます。義平は「生きながら捕えられたのも運の尽きだ。俺ほどの敵を生かしておくと何が起こるかわからんぞ、早よう斬れ」と言ったきり、押し黙ってしまったといいます。

やがて義平は六条河原へ引き立てられますが、その斬首の太刀取りに向かい、「貴様は俺ほどの者を斬る程の男か?名誉なことだぞ、上手く斬れ。まずく斬ったら喰らいついてやる」と言ったそうです。太刀取りが「首を斬られた者がどうして喰らいつけるのか」と言い返すと、「すぐに喰らいつくのではない。雷になって蹴り殺してやるのだ。さあ、斬れ」と答え、義平は斬首されました。このときの義平の享年はわずか20でした。

この話には後日談があります。それから8年後、この太刀取りだった、難波経房という人物は、清盛のお伴をして摂津国布引の滝を見物に行きました。すると、にわかに雷雨となり、激しい雨の中、突然稲光が光ったと思うと、あっという間に雷に打たれて死んでしまったといいます。はたしてこの雷を落としたのは義平だったのでしょうか。

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一方、父の義朝も平家軍との緒戦での連敗を重ねます。やがては馬も失い、裸足で尾張国野間(現愛知県知多郡美浜町)にたどり着き、年来の家人であった長田忠致とその子・景致のもとに身を寄せました。しかし、恩賞目当ての長田父子に裏切られ、入浴中に襲撃を受け、ついには殺害されました。

伝承によれば、義朝は入浴中に襲撃を受けた際、最期に「我れに木太刀の一本なりともあれば」と無念を叫んだとされます。義朝の墓はその終焉の地である野間大坊と呼ばれる真言宗の寺院の境内に存在し、上記の故事にちなんで多数の木刀が供えられています。また、境内には義朝の首を洗ったとされる池があるそうです。

こうして義朝そその傘下の武将たちが次々と平家に捕えられ、命を落としていく中、義朝たちと行動を共にしていた実盛だけは、関東に無事に落ち延びました。

通常ならば、ここで命運が尽きてもよさそうなものですが、しかし、ここでも実盛はその八方美人的な才能?を発揮して生き延びます。

その後平氏隆盛の世の中になることに気付くと、今度は逆に平家に仕え、東国における歴戦の有力武将として重用されようになっていきました。そのため、治承4年(1180年)に義朝の子・源頼朝が挙兵しても平氏方にとどまり、平清盛の嫡孫、平維盛の後見役として頼朝追討に出陣しています。

その後、平氏軍は富士川の戦いにおいて、伊豆で蜂起した頼朝に大敗を喫します。

富士川の戦いとは、駿河国富士川で源頼朝らと平維盛が戦った合戦です。石橋山の戦いで敗れた源頼朝が安房国で再挙し、集めた東国武士による大軍と、都から派遣された平維盛率いる追討軍とが戦ったもので、この戦いに勝利した頼朝はその後、鎌倉幕府の基礎を東国で築いていくようになります。

この富士川の戦いでは、平氏軍が突如撤退し、大規模な戦闘が行なわれないまま戦闘が終結しました。この件に関しては以下のような逸話が有名です。

両軍が富士川を挟んで対峙していたその夜、頼朝方の武将、武田信義の部隊が平家の後背を衝かんと富士川の浅瀬に馬を乗り入れました。それに富士沼の水鳥が反応し、大群が一斉に飛び立ち、これに驚いた平家方は大混乱に陥りました。兵たちは弓矢、甲冑、諸道具を忘れて逃げまどい、他人の馬にまたがる者、杭につないだままの馬に乗ってぐるぐる回る者までおり、集められていた遊女たちは哀れにも馬に踏み潰されたといいます。

平家方は恐慌状態に陥った自軍の混乱を収拾できず、総崩れになって逃げ出し、遠江国まで退却しますが、軍勢を立て直すことができず、全軍散り散りになり、維盛が京へ逃げ戻った時にはわずか10騎になっていたそうです。

この話にはもうひとつ逸話があり、実はその敗因の原因のひとつには、実盛の存在が大きかったのでは、といわれています。このころ69歳になっていた実盛は、事あるごとに頼朝ら東国武士の勇猛さを日ごろから説いていたといい、このため、維盛以下味方の武将の多くはついには過剰な恐怖心を抱くようになったといいます。

その結果水鳥の羽音を夜襲と勘違いしてしまった、という説ですが、事実がどうかはわかりません。が、それだけ平家は武士というよりも公家化しており、維盛軍は烏合の衆だったわけです。戦わずして負ける、とよく言いますが、源氏側にすれば勝つべくして勝ったと言っていいでしょう。

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その後、実盛は72歳まで生き延びます。寿永2年(1183年)には、再び維盛らと、今度は木曾義仲追討のため北陸に出陣しました。

このころの義仲はというと、これに遡ること3年前の治承4年(1180年)、以仁王が全国に平氏打倒を命じる令旨を発したのち、これに賛同して行動をともにすることを誓います。兵を率いて北信で平家と戦う源氏方の救援に向かい、さらには頼朝勢力が浸透していない北陸に進出して、ここで勢力を広めていました。

実はこのころから、義仲と頼朝との関係は急速に悪化しており、同じ平家打倒を掲げていながら、両者は反目するようになっていきます。そのきっかけは、頼朝と敵対し敗れた、父義賢の弟、源義広(志田義広)と、同じく頼朝から追い払われた叔父の源行家が義仲を頼って身を寄せたことにあるといわれています。

この2人の叔父を庇護した事で頼朝と義仲の関係は悪化し、ついには直接戦うに至ります。そして、このわずか一年後の、宇治川や瀬田での戦いで、義仲は源範頼・義経率いる鎌倉軍に敗れ、その後近江国粟津(現在の滋賀県大津市)であっけなく討ち死にしています(享年31)。

木曾義仲は、頼朝や義経ほどではないにせよ、多くの武勇伝がある武将です。が、本項では主人公ではないため、ここではこれ以上詳しくは述べません。

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とまれ、このころはまだ義仲も頼朝の部下として北陸方面で元気に奮戦していた時期であり、破竹の勢いで、各地の平家軍を蹴散らしていました。無論、平家方に付いていた実盛とは敵味方同士です。

こうした中、勢力を強める義仲を討伐しようと、平維盛らは実盛らの旗下の兵を率いて、義仲が牛耳る北陸へと出陣してきました。しかし、加賀国の「篠原の戦い」では、緒戦の倶利伽羅峠の戦いで敗れたところへ、義仲らの源氏軍からの追走を受け、平氏軍はほとんど交戦能力を失い惨憺たる体で壊走しました。

平氏側は甲冑を付けた武士はわずか4,5騎でその他は過半数が死傷、残った者は物具を捨てては山林に逃亡しましたが、ことごとく討ち取られました。平家一門の平知度が討ち死にし、平家第一の勇士であった侍大将の平盛俊、藤原景家、忠経らは一人の供もなく逃げ去ったといいます。

味方が総崩れとなる中、覚悟を決めた実盛は老齢の身を押して一歩も引かず奮戦し、ついに義仲の部将・手塚光盛によって討ち取られました。このとき、その死の原因となったのが、最初に述べた、稲の切り株に馬がつまづいたことだったとされるわけですが、なにぶん900年以上も昔の話であり、本当かどうかを証明するものは何もありません。

ただ、この際、出陣前からここを最期の地と覚悟しており、「最後こそ若々しく戦いたい」という思いから白髪の頭を黒く染めていた、という話が残っているようです。このため首実検の際にもすぐには実盛本人と分かりませんでしたが、そのことを義仲は、側近の樋口兼光の口から聞きます。

この樋口兼光とは、義仲を実盛から預かった、あの中原兼遠の息子であり、義仲が駒王丸と呼ばれていたころのあの乳母の息子でもあります。乳母子として義仲と共に育ち、長じてからは忠臣として義仲に従って各地を転戦し、上の倶利伽羅峠の戦いなどでも重要な役割を果たしています。おそらくは、母である乳母伝いに、武蔵国にいたころの知人から実盛の近況を聞き及んでいたのでしょう。

義仲は、これを聞き、その首を付近の池にて洗わせたところ、みるみる白髪に変わったといい、これで実盛の死が確認されました。

このとき、かつての命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は、人目もはばからず涙にむせんだといいます。

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こうして実盛の死から長い年月が経ちました。それから約230年後の室町時代前期の応永21年(1414年)3月のこと、加賀国江沼郡の潮津(うしおづ)道場(現在の石川県加賀市潮津町に所在)というところで、浄土宗の僧たちが庶民とともに七日七夜の念仏勤行を行っていました。

そうしたところ、突然、白髪の老人が現れ、居合わせた「太空」という高僧から十念(「南無阿弥陀仏」を十回称える作法)を受けるやいなや、諸人群集のなかに立ち入り、そのまま忽然と姿を消してしまったといいます。

このことは噂として広まり、この老人こそが、源平合戦時に当地で討たれた斉藤別当実盛の亡霊との風聞がたちました。太空はその供養を決め、卒塔婆を立てて、その霊魂をなぐさめたといいます。のちにこの話は、観阿弥とともに謡曲の祖といわれる猿楽師、世阿弥のもとにもたらされ、謡曲「実盛」としても作品化されました。

以来、浄土宗の盛んな地域を中心に、実盛の供養が慣例化するようになるとともに、謡曲として実盛が演じられる機会も増えることになりました。やがては、それらが虫送りの風習とつながり、住民の間では夏を迎える行事として定着するようになっていったのでしょう。

実盛が最後を迎えた「篠原の戦い」の古戦場は、現在の加賀市の片山津温泉から2kmほど北西に行ったところの、海岸に近い場所にあります。現在ここには「篠原古戦場跡実盛塚」がという碑とその説明文の立札が建てられています。また、ここから東へ1.4kmほど離れたところには、実盛の首を洗ったとされる池も残っています。

さらに、この実盛がかぶっていたとされる兜が、ここから10kmほど東の小松市内の多太神社に残されています。実盛が討たれたあと、木曽義仲が実盛の供養と戦勝を祈願して当社へ兜を奉献したものとされ、現在、国の重要文化財となっているようです。同神社では、現在でも回向が行われているといいます。

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実は、江戸時代の元禄二年(1689)に、かの有名な俳人、松尾芭蕉もこの地を訪れています。

奥の細道の途次、旧暦の七月二十四日(現8月27日)に北陸路を金沢から小松へ入り
ここに宿泊して、句会を開催。多太神社にも詣でて、実盛の兜や袖を拝観しました。このとき、木曽義仲と斉藤実盛の数奇な巡りあわせに思いをはせ、詠んだといわれるのが、有名な次の句です。

「むざんやな 甲の下のきりぎりす」

句中の「きりぎりす」は、秋の季語であって、実際のキリギリスのことではありません。この場合、全国あちこちでよくみられる、ツヅレサセコオロギのことだと言われています。2~3cmの小型で黒い色をしており、農耕地、庭、草地に生息します。成虫は夏から秋に出現し、家屋内に入ってくることも多く、見たことがある人も多いでしょう。

中国では、このツヅレサセコオロギを喧嘩させて楽しむ闘蟋(とうしつ)という遊びがあり、この国の伝統的昆虫相撲競技です。子供の楽しむ純娯楽的なものではなく、闘犬、闘鶏、闘牛に近く、あるいはタイ王国の国技「ムエタイ」のような国技だといいます。

奇妙な名前ですが、漢字では「綴れ刺せ蟋蟀」と書くそうです。これは、かつてコオロギの鳴き声を「肩刺せ、綴れ刺せ」と聞きなし、冬に向かって衣類の手入れをせよとの意にとったことに由来するそうです。

で、芭蕉の句に戻って、「むざん」とは、いたわしい、ふびんなこと。「いまは秋、コオロギが一匹、兜の下で鳴いている。このコオロギは実盛の霊かもしれない。おいたわしいことである。」という鎮魂の感情を表した句です。

謡曲の「実盛」にも、「むざんやな」という表現があり、芭蕉の句はそれを引用したと言われています。

それにしても、コオロギが鳴き終わる秋は当分来そうもありません。ウンカやコオロギが死に絶え、私の大嫌いな夏の終わりが一日でも早く来ることを祈りつつ、今日の項を終えたいと思います。

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西南戦争のこと

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昨日の彼岸の中日を境に、秋が深まっていく感じがします。

暑さ寒さも彼岸までといいますが、一夜明けた今朝のこの山の上はかなり気温が下がり、20度を切りました。

彼岸明けは、26日なので、お墓参りにまだこれから行くという人も多いでしょう。我が家では先祖代々の墓は金沢にあるので、さすがにお参りには行けません。こちらで手を合わせただけで、済まさせていただきます。

かの西南戦争では、このお彼岸の時期に終結しました。現在に至るまで、「最後の内戦」とされるこの戦争では、官軍の死者は6,403人、西郷軍の死者は6,765人にも及んでおり、その英霊たちの供養もまた、このお彼岸の時期に各地でなされていることでしょう。

明治初期に起こった一連の士族反乱の中でも最大規模のもので、西南の役とも呼ばれるこの戦争について語ると長くなります。なので、ここでその詳細を書くつもりはありません。

が、その始まりと終わりの部分についてだけ、ざっと整理してみましょう。

この戦争は一言で言えば、西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱です。1877年(明治10年)の下旬に熊本城で始まった戦いは、熊本県内だけに収まらず、その後、宮崎県・大分県へとその激戦地を移しながら、鹿児島県で終わりを告げました。

事の発端は、明治政6年の政変で下野した西郷が、1874年(明治7年)に、鹿児島県全域に私学校とその分校を創設したことです。その目的は、西郷と共に下野した不平士族たちを統率することと、県内の若者を教育することでしたが、同時に外征を行うための強固な軍隊を創造することを目指していました。

このため、この学校では外国人講師を採用したり、優秀な私学校徒を欧州へ遊学させるなど、積極的に西欧文化を取り入れていました。が、やがてこの私学校はその与党も含め、鹿児島県令大山綱良の協力のもとで県政の大部分を握る大勢力へと成長していきました。

一方、近代化を進める中央政府は1876年(明治9年)3月に廃刀令、同年8月にも「金禄公債証書発行条例」を発布しました。これは、秩禄処分(ちつろくしょぶん)ともいわれるもので、旧来の「禄」つまり、江戸幕府の賃金体制を全廃する、というものでした。

この2つは帯刀・俸禄の支給という旧武士最後の特権を奪うものであり、士族に精神的かつ経済的なダメージを負わせました。これが契機となり、同年10月に熊本県での「神風連の乱」や福岡県の「秋月の乱」、さらに山口県では「萩の乱」が起こりました。

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下野後、現在も指宿市にある鰻池湖畔の鰻温泉にいた西郷はこれらの乱の報告を聞き、心を揺り動かされます。西郷の真意は明治政府に自分の主義主張を認めさせるために何が何でも武力で押し通す、といった好戦的なものではなかったと言われています。

しかし、自分が育て上げた私学校の卒業生や維新に至るまでに西郷を慕い、側近となっていた面々に担ぎ上げられた、とするのが定説です。

一方では、この決起は、この当時日本へ触手を伸ばそうとしてきていた、ロシアのための防御・外征を意味していたという説があり、自らが育てた軍でもって中央政府にも対ロシア戦への奮起を促したかったのだ、ともいわれているようです。

また、西郷は、1871年(明治4年)に中央政府に復帰して下野するまでの2年間、板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らによって提唱された、武力をもって朝鮮を開国しようとするいわゆる「征韓論」にも熱心でした。

しかし、西郷ら不平不満士族を中心とするこうした「強兵」重視路線は、四民平等・廃藩置県を全面に押し出した木戸孝允・大隈重信らの「富国」重視路線によって斥けられた格好となり、それに対する不満や反発が彼等の中に生まれました。西郷自信の心中にも同様の不満が全く無かったとはいえないでしょう。

とはいえ、「人間がその知恵を働かせるということは、国家や社会のためである」といったことを信条にするほど、国家の安泰ということを望んでいた人です。どうしてこうした暴挙に出たかについては、その真意はいまもって謎とされ、多くの学者や研究者の間で議論があるようです。

とまれ、そうした西郷が本当に築きたかった国家がどういうものであるかを理解することなく、鹿児島においては、私学校党による県政の掌握が進み、私学校を政府への反乱を企てる志士を養成する機関だとする雰囲気も蔓延していきました。

こうした動きを見ていた、中央政府の面々のうち、内閣顧問木戸孝允を中心とする長州派はとくにこの鹿児島の動きに敏感でした。そして木戸は「鹿児島県政改革案」を提案するに至り、1876年(明治9年)に、薩摩藩出身の内務卿、大久保利通に対して、これを受諾させました。

こうして、大久保は外に私学校、内に長州派という非常に苦しい立場に立たされることになりましたが、この改革案は、この時の鹿児島権令(県令)、大山綱良の猛反発を受けました。この当時、明治新政府では廃藩置県後に旧藩と新府県の関係を絶つために、新しい府県の幹部には他府県の出身者をもって充てるということとしていました。

ところが、大山は薩摩出身であり、同国人が鹿児島県令になるのは、この廃藩置県の原則に反する特例措置でした。大山は、西郷らが新政府を辞職して鹿児島へ帰郷すると、私学校設立などを援助し西郷を助けるようになりました。

県令を拝したあとは、鹿児島県は新政府に租税を納めようとしなくなり、私学校党を県官吏に取り立てるなどしたため、鹿児島はあたかも独立国家の様相を呈するようになりました。この大山の暴発に加え、上述の萩の乱ほかの地方の乱の発生により、結局、木戸が提案した「鹿児島県政改革案」はその大部分が実行不可能となりました。

ちなみに、大山はその後鹿児島で西郷らが挙兵した西南戦争では官金を西郷軍に提供するなど官軍に敵対する動きを見せましたが、西郷軍の敗北後は、その罪を問われて逮捕され東京へ送還、のち長崎で斬首されています。享年53。

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しかし、実際に実行された対鹿児島策もありました。その1つが1877年(明治10年)1月、私学校の内部偵察と離間工作のために警視庁大警視である川路利良が「中原尚雄」以下24名の警察官を、「帰郷」の名目で鹿児島へと派遣したことです。これに対し、私学校徒達は中原などの大量帰郷を不審に思い、その目的を聞き出すべく警戒していました。

また、新政府は、このころ、赤龍丸を持つ三菱会社に命じて、薩摩藩が一朝に緩急ある時のために藩士からの醵出金を集めて備蓄していた兵器・弾薬を大阪に運び出そうとしました。鹿児島県にある陸軍省砲兵属廠にあった武器弾薬がそれで、この中には当時の陸軍が主力装備としていた最新鋭のスナイドル銃などが含まれていました。

やがて彼等は警視庁帰藩組の内偵を行った結果、彼等の帰郷が西郷暗殺を目的としている、という事実を掴みます。私学校幹部らは善後策を話し合いますが、当の本人の西郷は、このときはまだ戦をするつもりなどは全くなく、大隅半島の南部の根占(ねじめ)で猟をしていました。

しかし、この暗殺計画の事実とともに、政府による弾薬掠奪事件の顛末を、私学校幹部が派遣した使者から聞いた西郷は、「ちょしもたー(しまった)」との言葉を発し、暗殺計画の噂で沸騰する私学校徒に対処するため鹿児島へ帰りました。

帰る途中、西郷を守るために各地から私学校徒が馳せ参じ、鹿児島へ着いたときには相当の人数にのぼっていました。血気に逸る私学校党は、ついに中原ら60余名を一斉に捕縛し、苛烈な拷問がおこなわれた結果、川路大警視が西郷隆盛を暗殺するよう中原尚雄らに指示したという「自白書」がとられました。

この話を聞いた多くの私学校徒は激昂して暴発状態となりました。根占から帰った西郷は幹部たちを従え、私学校本校に入り、ここに私学校幹部及び分校長ら200余名が集合して大評議がおこなわれ、今後の方針が話し合われました。

この会議においては、武装蜂起と政府との対話の両論が出ましたが、このほかにも諸策百出して紛糾しました。が、座長格の私学校幹部、篠原国幹が「議を言うな」と一同を黙らせ、また長年西郷につき従ってきた側近中の側近、桐野利秋が「断の一字あるのみ、…旗鼓堂々総出兵の外に採るべき途なし」と断案し、全軍出兵論が多数の賛成を得ました。

また、どのルートで東征に向かうかについては、数案が出されましたが、結局「熊本城に一部の抑えをおき、主力は陸路で東上」する策が採用されました。

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こうして、一番~五番大隊からなるおよそ14000名の部隊が編成され、2月14日、私学校本校横の練兵場で、騎乗した西郷による閲兵式が行われました。翌15日、60年ぶりといわれる大雪の中、薩軍の一番大隊が鹿児島から熊本方面へ先発しましたが、これがその後、8ヵ月に及ぶ西南の役の始まりでした。

これに対して政府側は、西郷軍が熊本城下に着かないうちにすでに天皇から征討の詔を得ており、西郷軍の邀撃(ようげき)に動き出していました。西郷軍が鹿児島を発したのが2月15日で、熊本城を包囲したのが2月21日。対して政府が征討の勅を得たのが2月19日でした。

西郷軍が動き出してわずか4日目のことであり、彼らが熊本城を包囲する2日前でした。このことから明治政府の対応の速さの背景には電信などの近代的な通信網がすでに張り巡らされていたことがわかります。熊本城は熊本鎮台司令長官で、元土佐藩士、谷干城(たてき)の指揮の下、4000人の籠城で西郷軍の攻撃に耐え、ついに撃退に成功しました。

なお、この戦いでは武者返しが大いに役立ち、熊本城を甘く見ていた西郷軍は、誰一人として城内に侵入することができなかったといいます。しかし、熊本城はこのとき、原因不明の出火で大小天守などの建物を焼失しました。が、現在国宝になっている天守などの多くが焼け残りました。

薩軍はその後、九州各地で政府軍と戦いましたが、上述のように最新式の銃はなく、装備の劣った小銃と少ない大砲で堅城に立て籠もる政府軍と戦うという、無謀この上もない作戦を採用せざるを得なくなりました。これに対して、優勢な大砲・小銃と豊富な弾薬を有する政府鎮台側は圧倒的に有利でした。

また剽悍な士の多くが、熊本城ほかのこうした攻城戦で消耗していきました。しかし、全般的に戦いはこう着状況が続き、4月になり春となっても終結せず、さらに7月、8月と夏になっても各地で激戦が続きました。ただ、兵力と武器の双方の不足に悩む西郷軍は次第に本拠である鹿児島に追い詰められていきました。

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9月1日、西郷らは鹿児島入りすると、私学校を守っていた200名の官軍を排除して私学校を占領し、突囲軍の主力は、錦江湾西部(桜島の対岸)にある城山を中心に布陣しました。このとき、鹿児島の情勢は大きく西郷軍に傾いており、住民も協力していたことから、西郷軍は鹿児島市街をほぼ制圧し、官軍は米倉の本営を守るだけとなりました。

この城山というのは、鹿児島城下の高台にあり、現在公園になっており、私も行ったことがあります。その展望台からは、桜島をはじめ錦江湾と鹿児島市街地を一望できます。その北端に洞窟があり、ここに西郷らは立て籠もりました。

しかし、3日には官軍が形勢を逆転して城山周辺の薩軍前方部隊を駆逐し、6日までには城山包囲態勢を完成させました。その後、両軍の間には目立った交戦はなくにらみ合う形で20日ほどが過ぎました。

が、23日になって、海軍の総司令官の中将、川村純義からの降伏を勧める書状が届けられました。しかし、西郷はこれを無視し、また、陸軍総司令官の山縣有朋からの自決を勧める書状にも西郷は返事をしませんでした。

こうして、9月24日午前4時、官軍砲台からの3発の砲声を合図に官軍の総攻撃が始まりました。このとき西郷とその側近の将士40余名は籠もっていた洞窟の前に整列し、ここから岩崎谷と呼ばれる谷を下って、500mほど東へ離れた地に進撃しました。

この進撃に際しては、側近たちの多くが弾丸に倒れ、傷ついた者は自刃しました。最後に西郷らがいたのは、島津家の家臣と思われる、「島津応吉久能」という人物の邸宅だったようです。調べてみましたが、どんな人物かどんな邸宅だったかはよくわかりません。が、敵の弾を避けるだけの構えのある、豪壮な邸宅だったと推察されます。

この島津邸の門前で西郷も股と腹に被弾しました。西郷は、負傷して駕籠に乗っていた側近の別府晋介を顧みて「晋どん、晋どん、もう、ここでよかろう」と言い、将士が跪いて見守る中、跪座し襟を正し、遙かに東方を拝礼しました。遙拝が終わり、切腹の用意が整うと、別府は「ごめんなったもんし(お許しください)」と叫ぶや、西郷を介錯しました。

その後別府晋介もその場で切腹しました。西郷の切腹を見守っていた桐野利秋ほかの側近たちも敵陣に突撃し、敵弾に斃れ、自刃し、或いは私学校近くの一塁に籠もって戦死しました。そして、午前9時頃、すべての銃声は止みました。

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この西南戦争は、士族の特権確保という初期の目的を達成出来なかったばかりか、政府の財政危機を惹起させてインフレそしてデフレをもたらし、当時の国民の多くを占める農民をも没落させ、無産階級(プロレタリアート)を増加させました。

しかし、その一方で、一部の大地主や財閥が資本を蓄積し、その中から初期資本家が現れる契機となりました。結果、資本集中により民間の大規模投資が可能になって日本の近代化を進めることになりましたが、貧富の格差は拡大しました。

また、官僚制が確立し、内務省主導の政治体制が始まりました。士族(武士)という軍事専門職の存在を消滅させるとともに、士族を中心にした西郷軍に、徴兵を主体とした政府軍が勝利したことで、士族出身の兵士も農民出身の兵士も戦闘力に違いはないことが実証され、徴兵制による国民皆兵体制が定着しました。

西南戦争の教訓から、徴兵兵士に対する精神教育を重視する傾向が強まり、西郷軍の士気が高かったのは西郷隆盛が総大将であったからだと考えた明治政府は、天皇を大日本帝国陸軍・海軍の大元帥に就かせて軍の士気高揚を図るようになりました。結果、太平洋戦争による敗戦まで続く軍国主義へと日本は邁進していくことになります。

ところで、冒頭で述べたとおり、この戦争では、両軍合わせて13,000人以上の死者が出るとともに、それ以上の多数の負傷者が出ましたが、これを救護するためには、この当時発足したばかりの日本赤十字社の前身である「博愛社」が活躍しました。

西南戦争で政府軍と薩軍が激戦を交わす最中の5月に創立されたばかりであり、この当時の標章は日の丸の下に赤線一本でした。現在のようにレッドクロスになるのは、ジュネーブ条約に加入した明治20年からになります。このときはまだ、未加入であったため、赤い十字と類似の記号を用いることを避けて暫定的標章を使うことにしたようです。

標章案としては、赤ではなく別の色のクロスにする、という案もあったようですが、その検討の過程で、キリスト教を嫌っていた三条実美太政大臣の「耶蘇のしるしじゃ」の一言で一本線になったと伝承されています。

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また、この博愛社の活動とは別に、熊本の医師・「鳩野宗巴(はとのそうは)が敵味方なく治療を行いました。この鳩野宗巴というのは、初代から10代まで、世襲によって代々同じ名を受け継いで活動していた医師の家系で、この西南戦争で活躍したのは第8代の鳩野宗巴です。

初代の宗巴は、寛永18年(1641年)、肥後長崎に生まれました。先祖は姓を中島といい、長州毛利家に仕えた武士でしたが、家督相続の処理に不平を抱き長州を離れ、浪人として肥前長崎で生活するようになり、そのなかで初代の宗巴が生まれました。

この初代宗巴は、幼いころから出島のオランダ館に出入りしていたといい、ここで海外の事情、特に西洋の医学が大いに進んでいることを知りました。「解体新書」よりも約100年早い、まだ鎖国中の万治年間(1658~1660年)に、密かにオランダ船に紛れ込んでオランダに渡り、5年間医学などを学んで帰国しました。

このとき、密航の犯跡をくらますために出島にとどまり、オランダ人の医師、カスパル、アルマンスの二人のもとでさらに研鑽を重ねました。この間、肥後細川藩主の飼い鳩を治療したことから、「鳩の医者」の称号がつき、君命によって姓を「鳩野」に改めたと伝えられています。その後、大阪に移り開業し名をなし、細川侯から厚遇を受けました。

第二代宗巴のとき、肥後に移り、以来代々「宗巴」を襲名し、中でも7代宗巴は豊後竹田にて華岡門下の十哲といわれた植村文建の門に入り、華岡流外科を学びました。

熊本では広大な医院(活人堂)や病室(養生軒)、医師養成の家塾(亦楽舎・えきらくしゃ)を建てて、診療を行いました。また多くの弟子を持ち、彼等の医師として育てるための教育にも力を尽くしました。

西南戦争に関わった8代宗巴は1844年(天保15年)、熊本城下で生まれ、19歳でこの世襲制の鳩野家の家督を継ぎました。25歳のとき、藩命で上野戦争に参加し、熊本一番隊医長として、横浜の軍事病院で薩長土3藩の負傷兵300人の治療を担当しました。このときの功績により宗巴は熊本藩より白銀3枚賞与を受けています。

34歳のとき、西南戦争に巻き込まれました。熊本城での戦闘が勃発した際、熊本士族の薩軍幹部より、病院を設けて治療に従事しろ、との強要を受けたのがことの発端です。

このとき宗巴は「あなた方の負傷者は実にお気の毒だが、官軍の負傷者にも手が届かずいる者が多いので、あなた方だけの治療をするわけにはいかない。また、軍人だけでなく、戦争の余波で負傷した普通人も少なくない。医は仁術であるので、官薩民隔たりなく負傷者の治療をしろ、というのなら応じましょう」と答え、薩軍側もこれを承服したといいます。

宗巴はさっそく同僚の藩医とともに、仮病院を開いて治療にあたりましたが、傷者はたちまち200人に及んだため、急きょ近隣の学校、寺院や民家41戸を借り上げて病室としました。

この医療活動は皆自費で行われといい、近隣の婦人達が競って看護に協力し、初めての戦陣での組織的な女性の看護活動も行われました。こうした活動は、5月27日に熊本で設立された博愛社よりも、94日早い2月23日だったため、日本の組織的赤十字活動は宗巴によって始められたともいわれています。

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戦後もその慈善活動は継続され、明治25年には、熊本貧児寮(現・社会福祉法人大江学園の前身)が設立されると、宗巴は進んで施設医(内科外科)となり、その後20年に渡って報酬を受けずに働き続けました。また、先祖から受け継いでいた鳩野の家塾、亦楽舎も、明治14年の医療制度改革によって私塾廃止のやむなきに至るまで継続しました。

後輩の医師の養成にも力を尽くし、亦楽舎では天保10年に創立されてから明治14年に廃止されるまでの43年の間に、総数156名の医生が学びました。明治に流行した数え歌のなかで、「医者の名所は鳩野」と唄われるほどであり、九州日日新聞でも慈善家としての鳩野宗巴の記事が掲載されるなど、慈善事業家としての宗巴の名声は高いものでした。

この8代宗巴は、医業のほかにも、質屋を営業し、貧民のために無利息受出しをしていたそうで、公益のために義援金を投じることも少なくなかったといいます。往診で出されたお菓子を包んで帰り道で貧しい家庭の子供に与える、といったことも日常的にしていたようです。

また、日清戦争の後に行われた招魂祭では、軍人と共に戦死した馬も、等しく君国のために倒れたのだからと、独力で近隣の寺の境内に馬の碑を建立したそうです。

しかし、60歳ごろから中風症を煩い、1917年(大正6年)3月に74歳で没しました。墓は熊本市横手町の妙永寺にあります。

8代宗巴を継いだ、9代の宗巴も父の業を継いで活躍しましたが、昭和20年に67歳で没しました。墓は熊本市高麗門妙永寺にあります。

また、8代宗巴の二男、長世は大正12年に分家して、熊本市内の辛島町に鳩野医院を開業しましたが、昭和44年に没しました。本家9代宗巴の後は、その長世の子、長光が昭和21年の10代宗巴を継いで医業に励みましたが、こちらは昭和40年に没しました。

鳩野家はこの10代宗巴を最後に医系としては絶えることになります。

歴代の宗巴のうち、西南戦争を機に最も活躍したとされる8代宗巴は、1977年、熊本県近代文化功労者として表彰されています。

遺訓は、次のとおりです。

「世は名利に馳せ、医も亦これを学ぶ傾向あるは、はなはだ患うべし」
「医は素より仁恤をもって天職とする。故にかりそめにも其の天職を忘却するが如きはもっての外の癖事なり。」

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