義時と江間


今、住んでいる修善寺から北へ車で20分ほど走ったところに、「江間」という郷があります。

現在は伊豆の国市に属していますが、その昔は三島などを主とする君沢郡の一部でした。地名の由来はよくわかりませんが、「江」は海や湖が陸地に入り込んだ地形を示す言葉であることから、昔この地は海だったと推察されます。

縄文時代前期には、海面の高さが現在より数m~数10m高い時代があったそうです。全国的に陸地奥部まで海水が浸入しており、その原因は地球全体の温暖化に伴い極地の氷が溶けたことなどのようです。こうした海水面上昇のことを「海進」といいます。

伊豆においても、この海進によって三島や沼津の平野部の大半は海底となり、これより南の長泉町、清水町、伊豆の国市、伊豆市などの低地部でも海水が浸入し、山や台地など標高が高い部分だけが残る複雑な地形が形成されました。

その後、海水面はいったん現在くらいの高さまで戻ったようですが、平安時代ころに再び海進があり、縄文時代ほどではないにせよまた海水面が高くなりました。こちらは平安海進と呼ばれています。

このころ、―平安時代ですが― おそらく江間においても、縄文時代の浅海が残っていたか、あるいは入り込んできた海水が完全には引かずに、湿地帯のような様相を示していたに違いありません。またそこには入江があちこちに存在していたと想像されます。

ここに住んでいた住人は、その海の恩恵を受けながら暮らしていたことでしょう。浅瀬の海は魚介類の採集には最適であり、またすぐ近くには狩野川という大きな川が流れていますから、そこから水を引けば、農耕にも適した土地になります。

こうした豊かな自然を背景にそれなりの文化を築いていたと考えられ、事実、北江間と呼ばれる地域には、古墳が残っています。これは「大師山古墳群」といい、一般には「北江間横穴群」と呼ばれています。

現在の江間にはかつて海だった面影はなく、見渡す限りの田園地帯です。その合間にイチゴ作りのビニールハウスが点在していて、「江間いちご」は久能山の石垣いちごと並んで静岡いちごの代表的ブランドです。

かつてはそこに海水が入り込んで入り江を形成していたと考えられるわけですが、その辺縁は小高い丘に囲まれていて、その中に大師山と呼ばれる丘陵があります。その一角の南斜面に掘られた横穴が北江間横穴群です。







等高線に沿う形で10基ほどのものがあり、これらは平安時代より前の7世紀から8世紀にかけて作られたと考えられています。これすなわち飛鳥時代から奈良時代に相当し、この時代に造られた家形の石棺もいくつか残っています。そのひとつで「若舎人(わかとねり)」と銘が入ったものは、国の重要文化財にもなっています。

この江間のさらに南側には、「北条」と呼ばれる字があります。ここは鎌倉幕府の執権を代々勤めた在地豪族、北条氏が治めていた場所といわれています。

北条家の家紋は、「三つ鱗(ミツウロコ)」と呼ばれ、三つの三角形を重ねたものです。初代執権の北条時政が江の島に参籠した際、弁財天が現われ、非道を行なえば家が滅びると告げたのち、蛇に変化して海中に消えたという伝説が残っています。

そのとき残した3枚の鱗がこの北条家の家紋の所以です。時政がこの鱗を扇に載せ、竜に向かっておしいただく図を、幕末に活躍した浮世絵師、月岡芳年が残しています。

こうした大蛇伝説を持つ氏族は、大和大神氏(おおみわうじ)を先祖に持つ一族ではないかという説があります。これは奈良県の桜井市三輪にある「大神神社」を奉斎した一族で、その始祖は大友大人命(おおともうしのみこと)という神話の世界の人物です。

「日本書紀」では大三輪大友主 (おおみわのおおともぬし)の名で登場し、大神神社のある地「三輪」はここからきています。大和大神氏が「大神氏」というその名を朝廷から授かる前に名乗っていたのも「三輪氏」です。三輪の3と三鱗の3は相通じるものがあります。

さらにこの大和大神氏の先祖は、海人族(かいじんぞく)だったのではないかという説があります。これは弥生文化前期に力を持っていた民族で、航海、漁労など海上において活動し、4世紀以降は海上輸送で財をなした集団です。

だとすれば、大和大神氏の中でもとくに航海技術に優れた者たちが、奈良の地を離れてはるばる海を渡り、伊豆に辿りついて、土着したということも考えられます。

その一部が江間の地に落ち着き、のちに北条を名乗るようになったのかもしれません。今も残る横穴群は、北条氏の先祖でもある大和大神氏がその親族が亡くなる度にその亡骸を埋葬したものと考えることもできます。

江間の地には、かつて北条氏の一族がここを治めていた痕跡がいくつか残っています。江間を東西に走る「いちご街道」と韮山伊豆長岡修善寺線との交差点付近にある石徳髙神社(豆塚神社)もそのひとつで、北条氏が大明神として崇敬していた神様をここに祀ったものだと伝えられています。







ただ、江間の地は、遠く山並みが見えるあたりまですべからく田畑が広がるという土地柄であり、まとまった集落は少なくまた豆塚神社以外には神社仏閣もほとんどありません。

鎌倉幕府を率いた執権北条氏の根拠地とするにはあまりにもさみしい場所であることから、これ以外の場所が中心地だったと考えるのが妥当です。

江間の東側すぐには、狩野川が流れており、これを挟んで対岸には守山という小高い山を中心にした郷があります。江間の南に位置する北条の地もどちらかといえば閑散としており、この守山のほうが賑やかなことから、おそらく北条氏の先祖は北条に土着したのち、すぐ対岸にあるこちらへ本拠地を移したと考えられます。

守山の頂上にはかつて砦があっとされ、またその麓には、初代執権の北条時政の館であったとされる遺構も見つかっているほか、願成就院や真珠院、守山八幡宮といった北条氏にまつわる寺社が固まって存在します。また、室町時代に鎌倉公方として下向した足利政知がここに館を構えたとされる「堀越御所」の跡地もここにあります。

江間の地はそうした場所から少し離れています。その昔は湿地帯もしくは海であって、住居を構えるには適しておらず、所領としても小さなものだったでしょう。このことから、ここは北条氏の本家ではなく分家筋にあたる豪族が治めていたと考えられます。

その名も江間家という部族だったようで、のちに鎌倉幕府の第二代執権となる武将もまた若いころは江間四郎あるいは江間小四郎と称していました。

その名も北条義時といいます。もうおわかりでしょうが、義時といえば、今年のNHKの大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」の主人公です。

のちに北条姓を名乗ることになりますが、そもそもは江間家の初代だったという説もあり、その屋敷は、江間と北条の地のちょうど境あたりにありました。現在ここは、江間公園という広場になっており、かつてここから大陸由来の陶器などが発掘されたそうです。

それでは、簡単にこの江間小四郎こと北条義時の生涯を振り返ってみましょう。

上述のとおり、義時は元は江間姓を名乗っていました。二男として生まれたためであり、跡取りではなく、北条家の分家としてこの姓を名乗るようになりました。源氏将軍が断絶したあとは父、時政の執権職を継ぎ、当時の社会の実質的な指導者となりました。

姉は源頼朝の妻である北条政子であり、父時政は頼朝の舅ということになります。頼朝は平家を壇ノ浦で滅ぼしてからは京の天皇家とは一線を画し、鎌倉に将軍をヘッドとする武家組織、幕府を開きました。

しかし、頼朝は早死にし、その異母弟の義経、範頼も生前の頼朝に疎まれて謀殺されました。さらに頼朝は政子との間に二人の男児を設けましたが、そのうちの長子である頼家もまた頼朝の将軍職を継いだのちに暗殺されています。







頼家は独裁色が強い将軍だったようで、第2代鎌倉殿となったものの、御家人たちの反感を買っていたようです。そこで彼を押さえるために作られたのが、御家人十三人による合議制です。これが今年の大河ドラマのタイトル「鎌倉殿の十三人」の由来です。

頼家の独裁を阻止するため、上がってきた訴訟などは、時政や義時を含めた宿老13人が合議によって取り計らいました。直接頼家へ取り次がせないようにすることで、平等化が図られそれまで不遇をかこっていた御家人たちも救済されるようになりました。

しかしこれによって頼家は孤立します。その後もなんとか独裁を続けようとしますが、十三人とこれをとりまとめる北条氏との対立は深まるばかりで、やがて修善寺に幽閉されたのち暗殺されてしまいます。

北条家は、頼家の代に乱れた政治を正すべく、弟の源実朝を第3代将軍に指名しました。ただ、このときまだ十二歳と若かったため、これを補佐する者として、北条時政が初代執権の地位に就きました。実質上、鎌倉幕府の実権を握る代表者です。

しかし、時政もまた独断で物事を動かそうとするタイプであり、また情に流されやすい性格でした。後妻の牧の方を溺愛したことから政治がおろそかになり、そのことで何かと一族の面々と対立するようになります。なかでも正義感の強い、息子の義時との関係がぎくしゃくするようになります。

やがては紛争を起こすことになりますが、そのきっかけは妻の牧の方の娘婿と前妻の娘婿の嫡子との間で起こった言い争いです。この前妻の娘婿は、畠山重忠といい、義時の親友でした。後妻の牧の方を擁護する時政は、重忠を謀反の罪で殺害しました。

さらに、時政は実朝を暗殺して牧の方の娘婿の平賀朝雅を将軍に擁立しようと画策します。しかし、これに義時は猛烈に反発し、姉・政子と協力してこれを未然に防ぎ、また時政を訴追してついには伊豆国への追放に成功します。

父の時政の執権職を継いで第2代執権となった義時ですが、彼もまた独裁的政治を展開して執権政治の基礎を築いていきます。ただ人望のあった彼は北条家御家人うまくまとめ、強固な武士団を組織することに成功します。

そして、彼らともに幕府創設以来の重鎮や有力武士を次々と滅ぼし、幕府の最も枢要な職を独占するようになりました。こうして義時は、時政に代わる幕府指導者としての地位を固めます。

一方このころ、第3代将軍、鎌倉殿となっていた実朝は、鶴岡八幡宮で、「父の仇」として彼を狙う、頼家の子で僧侶の公暁(くぎょう)に暗殺されてしまいます。しかし、唯一残った源氏の正統である公暁自身もその直後に討ち取られてしまいました。



こうして源家は直系の一族全員が死に絶えてしまい、将軍職を継ぐものがいなくなってしまいました。このため、執権北条家は、頼朝の遠い縁戚である摂関家の藤原頼経を4代将軍として迎え入れることにします。

もっとも、頼経は当時生後1年余の幼児であり、直ちに征夷大将軍に任じられる状況にはありませんでした。このため、政子が尼将軍として頼経の後見となり、空白となっていた鎌倉殿の地位を代行します。また、義時が執権としてこれを補佐して実務面を補うことで実権を握るようになりました。

こうして北条家執権による支配体制はさらに強化されましたが、一歩下がって国家レベルでみるとその体制も盤石とはいえませんでした。西には朝廷という大きな権力団体があり、次第に彼らとの争いが激しくなってきたからです。

とくにこの頃の朝廷の実質上のトップ、後鳥羽上皇とは激しく争うところとなり、朝廷と鎌倉幕府はどんどんと対立を深めていきました。先の将軍後継者問題を巡っては最終的に藤原頼経が選ばれたわけですが、そこに至るまでにはやはり激しいい攻防がありました。

第3代将軍である実朝が暗殺されたころ、幕府は子のない実朝の後継者として後鳥羽上皇の親王(子供)を将軍として東下させることを朝廷に要請しました。しかし、後鳥羽上皇はこれを拒否しました。

自分の息子が将軍になるのですから本来喜ぶべきところですが、幕府の言いなりになっていては朝廷が実権を握れないと考えたからです。反発する後鳥羽上皇は部下を鎌倉に送り、自分の所有する荘園の地頭の撤廃などを条件とするならこれを認める、と返事をしました。

元々後鳥羽上皇は鎌倉幕府から財政的な支援を受けていたわけではありません。その主要な財源は畿内各所にある膨大な荘園群でした。

ところが、これらの荘園の多くに幕府の地頭が置かれるようになったため荘園領主である後鳥羽上皇の収入は激減しました。将軍職を誰に継がせるか、といった後継者問題における対立もさることながら、これが後鳥羽上皇は反幕府色を強めていった主な要因といえます。

地頭の撤廃は幕府の根幹をも揺るがす大問題です。義時はそんなことは許可できない、としてこの朝廷から要請を断固拒否しました。と同時に、これ以上朝廷と寄り添っていくことはできないと判断し、以後、身内から将軍を出そうと決めました。頼朝の遠戚である藤原頼経を新将軍に据えたのはそのためです。

こうして将軍職の後継として天皇家の血を入れるという、朝廷と幕府が和睦するための唯一の機会を失った両者は、その後対立関係をさらに深めていきます。と同時に日本は幕府と朝廷という対立する二つの勢力による二元政治の状態になっていきました。

後鳥羽上皇は、自らが天皇であった時代に長子の土御門にその座を譲って院政を敷き、実質的な朝廷の最高権力者になった人です。以後、一貫して鎌倉幕府に対して強硬な路線を採ってきましたが、土御門天皇が穏和な性格であったため退位を迫り、第三皇子である順徳を天皇に据えるなどしてさらに体制を固めました。

一方、対する鎌倉幕府は、新たな将軍が決まったとはいえ、それまでに相次いた将軍の死によって多分に混乱していました。朝廷との闘いのための体制づくりはまだまだ十分なものとはいえず、東国を中心とした諸国に守護、地頭を設置したものの内紛は絶えず、また箱根以西の西国の支配も充分ではありません。

対する朝廷は畿内を中心として強い軍事力を持っていました。後鳥羽上皇は武芸にも通じており、それまでの北面武士に加えて西面武士を設置し、軍事力の強化を図ってきました。後鳥羽上皇はまた多芸多才な人であり、新古今和歌集を自ら撰するなど文化面でも優れた才能を発揮した人で、そのためもあって西国の武士たちの尊敬を集めていました。

このため、もし朝廷との戦端が開かれたとしたら、多くの武士が朝廷に味方すると考えられ、幕府側が勝利する目途はまったく立っていないという状態でした。京都朝廷・天皇の権威は未だ大きく、幕府にとって容易ならぬ事態といえ、政権を引き継いだ義時は生涯最大の難局に直面する事になります。

朝廷と幕府の緊張は次第に高まり、ついに後鳥羽上皇は義時を討つ意志を固めました。時の天皇、順徳天皇も討幕に積極的であったために巷では討幕の流説が流れ、朝廷と幕府の対決は不可避の情勢となっていきました。



こうした中、幕府内では、朝廷に先制攻撃を仕掛けるか、それとも箱根あたりで敵の軍勢が来るのを待って持久戦に持ち込むかについての合議が持たれました。しかし、なかなか結論は出ず、時間ばかりが過ぎていきました。

このころ、幕府には大江広元という古老がいました。はじめは朝廷に仕える下級貴族でしたが、鎌倉に下って源頼朝の側近となり、鎌倉幕府や公文所の別当を務め、幕府創設に貢献しました。源家が滅亡し北条執権が幕府の主体となってのちも、政子や義時と協調して幕政に参与しており、このころ積極的侵攻を唱えていた政子に同調していました。

広元は朝廷との一戦には慎重な御家人たちを鼓舞し、待っていてはダメだ、いっそ京へ駆けのぼろうと主張します。迷っていた義時も朝廷の内情に詳しい大江がそういうならとこれに賛成し、こうしてようやく上洛が決定されました。

かくして幕府と朝廷の戦端が開かれました。承久の乱と呼ばれるこの戦乱では、後鳥羽上皇はまず、義時追討の宣旨を全国に発布し、諸国の守護人・地頭たちに、上皇の元に馳せ参じるよう命を出しました。鎌倉幕府のおひざ元の関東の守護達にも密使が出されました。

これに義時は即座に反応します。その詔を持った密使たちを、先手を打って次々と暗殺していったのです。こうして内部からの造反を防いだ義時は軍をまとめ、嫡男・泰時を総大将として、東海道、東山道、北陸道と3派に分けて軍勢を京都へ送り出しました。

総勢19万にまで膨れ上がった軍勢は各地で連戦連勝を続け、最終的には木曽川、宇治川における京都防衛線を突破して京都を制圧します。義時追討の宣旨発布からわずか一ヶ月後のことであり、幕府軍の完勝でした。

この勝利により、畿内において幕府に敵対する朝廷勢力は駆逐されました。首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流されました。鎌倉においても、かつて京方についていた旧将軍独裁時代の勢力が一掃されました。

こうして義時の主導する鎌倉政権は、公家政権に対して絶対的支配の地位を持つようになり、朝幕関係は完全に逆転しました。と同時に執権義時の幕府内での最高権力者たる地位も確定しました。京と鎌倉を制した義時の執権政治は、全国的政権としての新たな段階に進む事になります。

しかし、そのわずか2年後に義時は62歳で急死します。死因は脚気といわれていますが、あまりにも急な死であったことから様々な憶測を呼びました。

偉大な幕府指導者として御家人から崇められてきた人物だけに暗殺によるものではなく、後妻の伊賀の方のやきもちで毒殺されたとか、些細なことで恨みを持った近習の小侍に刺し殺されたといった風聞が飛び交いました。



しかし義時の死後も、北条家の執権体制は順調に続いていきました。朝廷から摂家将軍を推戴して迎えるという習慣がその後定着し、将軍の地位は単に形式的なものになりました。政務決裁は事実上のトップである執権がこれを行い、その補佐として合議機関である評定衆を置くなどの集団指導体制が確立されました。

ただ、形式的であっても御家人の主君は将軍であり、北条氏は御家人の第一人者に過ぎません。将軍家とは公称できない立場上、うっぷんを抱え続けた北条家は、以後、自らを得宗(とくそう)家と呼ぶようになりました。

「得宗」とは、実質上の初代執権ともいえる義時の別称、戒名、追号など色々な説がありますが、いずれにせよ将軍に相当する尊称としてこう呼ばせるようになったもののようです。のちの戦国時代に天皇にはなれない豊臣秀吉が自らを摂政関白と称するようになったのと似ているかもしれません。

実際、北条一門の惣領に過ぎないこの得宗家に将軍家さながらにすべての権力が集中していくところとなり、やがて得宗家こそが北条一門の最上位に位置づけられるようになります。そして幕府の公的地位である執権よりもさらに上、と目されるようにもなっていきました。

やがて得宗家の総領は将軍をサポートする執権職を遂行するだけでなく、御内人と呼ばれる直属の親衛隊まで持つようにもなりました。

公文所という文書管理のみならず指揮・命令・政務・財政・徴収・訴訟などを行う実務機関を持ち、さらに諸国の守護職、朝廷を監視する六波羅探題も設置し、幕府の要職の過半を占めるなどの強大な権力を持つようになりました。これはかつて平清盛率いる平家一族が行った時代の治世とよく似ています。

では、本来その得宗家の初代とされるべきだった時政は、その後どうなったのでしょうか。

時政は、畠山重忠謀殺や将軍実朝の暗殺未遂といった事件で晩節を汚したためか、子孫からも疎まれています。得宗家初代を義時として祭祀から外されるなどの仕打ちを受けており、まるで存在しなかったように扱われました。東国の一豪族に過ぎなかった北条氏を一代で鎌倉幕府の権力者に押し上げたにもかかわらず、です。

伊豆へ追放されたのちは、義時の死よりも9年早い建保3年(1215年)に腫物のために死去しています。意外に長生きで、享年77でした。

一方、早世した父・義時を継いで第3代得宗家当主になった泰時は、父以上に人格的に優れ、武家や公家の双方からの厚い人望を集めました。

のちには北条家の中興の祖としてあがめられるなど、当時の鎌倉武士の質実剛健な理想を体現化した人物として知られるようになります。「御成敗式目」を制定したのも泰時であり、これは日本における最初の武家法典とされるものです。



北条得宗家の執権政治はその後もさらに充実したものとして発展し、その後第14代執権・北条高時の代まで100余年続きました。しかし最後は、御家人筆頭の足利尊氏らの反乱によって終焉を迎えます。

後醍醐天皇の命により立ち上がった反乱軍が鎌倉に押し寄せ、東勝寺で行われた決戦では北条一族のほとんどが討死、また直後に自害して北条氏はほぼ滅亡しました。

「ほぼ」と書いたのはその後、北条家による執権の世襲は16代の守時のときまで続いたためです。ただ、第15代の貞顕(さだあき)が執権の座に就いたのはわずか10日間にすぎず、また16代の守時も1ヶ月足らずの在職にすぎませんでした。

最後の執権守時は鎌倉中心部で反幕府軍と激戦を繰り広げ、一昼夜の間に65合も斬りあったとされます。しかし、衆寡敵せず、最後は深沢という場所で自刃しました。これは現在の東海道線大船駅に近いところです。享年38。

以後、後醍醐天皇による建武の新政が施かれ、鎌倉時代から続いていた公武の政治体制・法制度が刷新されて人材の淘汰が図られるようになります。しかし、かつては協力者だった足利尊氏が再び反乱を起こして政権は崩壊、尊氏らによる室町幕府が成立します。

やがてその室町幕府も倒されることになるわけで、かくして時代は繰り返される、ということになります。平家の勃興と滅亡、鎌倉幕府の隆盛と消滅、そして室町幕府の終焉と戦国時代の到来というのは、現在に至るまでそれぞれワンセットで語られることの多い歴史物語です。

ただ、北条得宗家はこれで消滅したわけではありませんでした。最後の執権であった守時には妹がおり、これは登子という名でした。この人は足利尊氏の正室として迎えられ、鎌倉幕府滅亡後も生き残りました。従って、尊氏との間に産まれた足利義詮および基氏以降の代々の足利将軍家の家人には北条家の血が流れている、ということになります。

その後も足利の血は耐えることなく、江戸時代まで続きました。赤穂浪士の討ち入りで有名になった吉良氏はこの足利氏の直系です。

北条家を幕府のトップにまで押し上げた功労者、義時の墓は、現在の伊豆の国市北条にあります。その名も北條寺という寺の境内にあり、地元では白い曼殊沙華がたくさん咲くお寺さんとして知られています。

義時の墓は息子の泰時が建てたものと伝えられています。妻とされる阿波局の墓も義時の隣にありますが、この人物についてはよくわかっていません。大河ドラマのほうでもまだ誰が演じるかは発表されていないようです。

すぐ近くを流れる狩野川を挟んで対岸の守山の願成就院には時政の墓もあります。すぐ傍の狩野川の土手沿い、こちらには赤い曼殊沙華が咲き乱れてきれいです。

遠方にいてこのブログを読んでいる方は、大河ドラマがクライマックスを迎えるであろう秋ごろにここを訪れてみてはいかがでしょうか。紅白の曼殊沙華の両方を愛でることができる土地柄というのは他にそれほど多くありませんから。