3月中ばから中国へ来ています。
この1月以降、ブログへ書き込みができなかったのは、その準備のために忙殺されていたためです。ここへきてようやく落ち着いてきたので、これから中国通信、ということで折につけ、このブログも更新していこうと思います。
今、私がいるところは、大連というところです。最終目的地は、さらに北の黒竜江省にある佳木斯(ジャムス)という町なのですが、ここに滞在しているのはそこへ入るための隔離期間を過ごすためです。
現在、中国では再び全国的にコロナの猛威が振るおうとしており、政府当局は外国人の入国を極端に制限しています。私たちも本来ならば、入国はできないのですが、今回の仕事が中国政府の息のかかった事業ということで、許されてここにいるわけです。
大連に来るのは初めてです。なのであちこち見て回りたいところなのですが、なにぶんホテルに缶詰めになっているため、市内を歩き回るわけにもいきません。これまでのわずかな見聞は、空港からホテルまでのバスの中からのものだけです。
約30分ほどのショートトリップでしたが、それでもこの町の雰囲気をなんとなく掴むことができました。
3年ほど前にも中国へ来たことがあり、そのときの滞在地も佳木斯でした。この町についてはかなり詳しくあちこちを見ることができました。
それとこの大連を比べると、街路や行きかう人の様子についてはかなり違うなという印象を受けます。
いろいろあるのですが、ひとつには道行く人々の立ち姿がごくごく自然だということ。佳木斯の人々もそれなりに清潔感があったのですが、全体的にちょっとちぐはぐだな、という印象をよく受けたものです。
着ているもののせいでしょうか。どこかその身なりに統一感がなく、とくに若者や若年層を中心に派手な服装をしている人も多かったように思います。佳木斯の町は継ぎ足しで開発された経緯があって雑然とした街並みを持っており、人々もそれに合わせているような感じさえします。
では大連はどうかというと、みんなごく自然の立ち振る舞いをしており、何と言いうか落ち着いた感じがあります。この町の歴史の長いことと関係があるのでしょうか。少なくともどぎついファッションや派手な衣装はまったく見られませんでした。
もし夜の大連を出歩くことができたならまた印象も違ってくるのかもしれませんが、少なくとも昼間のこの町を見る限りでは、ごく普通の人々があたりまえの生活を背伸びせずに送っているな、という感じを受けました。
無論、短い時間の間の私の先入観が入った穿った観察です。町の様子によってその見え方が違う、という一例と捉えていただければよろしいかと思います。
そう、つまりは町の雰囲気が全然違うのです。大連は、中国において日本が最も早くから統治していた町です。空港を出たとたん、町の雰囲気がなんとなく日本に似ているなと感じたのはおそらくそのためで、ホテルに至るまでのおよそ15kmの道のりの間ずっとそういう感じを受けていました。
宿に入ったあと地図を調べてみると、町の北にある大連周水子国際空港から、今私がいるホテルまでのルートは、ほぼ町の中心街を通っており、この町の代表的な街並みだということがわかりました。また、現在私がいる場所は、大連駅から西へ5kmの場所であり、町の中心のようです。
何分、隔離されているのでこれ以上の町の雰囲気を伝えることができないのが残念ですが、幸い、私の部屋は見通しがよく、下の写真はホテルから北東の大連の町を見渡したものです。
高層住宅街が多いなとお気づきでしょうが、これはここだけでなく、大連郊外でも同じです。飛行機で空港に降り立つ前に見た際も、郊外の丘や谷にびっしりとアパートや高層住宅が立ち並んでいました。
なるほど、日本の十倍以上の人口を持つ国の大都市はこれほどのものか、と至極感心したものです。3年前に中国に来たときは、北京空港に降り立ったのですが、北京の町もここと同じようなもので、やはり高層住宅街が立ち並んでいました。
ただ、大連が北京と違うのは、ここが港湾都市だということです。
大連は、日露戦争後の1905年(明治38年)、ポーツマス条約の締結によって、日本の租借地になりました。このとき、中国語の古地名「大連湾」からとった「大連」を都市名として採用しましたが、これはそれまでのロシア名のダルニーと発音が似たものを採用したともいわれています。
これはロシア語で 「遠い」を意味しています。この当時のロシアの首都はサンクトペテルブルクです。彼らからすれば、この間にあるシベリアを遥かに超えて、気の遠くなるほど遠く離れたこの町をそう表現したのでしょう。
大連湾は、中国東北部にあります。緯度は北朝鮮の平壌とほぼ同じで、Ω型の大連湾を囲むように背後にあるのが遼東半島です。そしてその西端付近にあるのが大連です。平壌から西へわずか350kmほどという位置関係です。
この地域は、戦前の日本にとっては朝鮮半島と同様に裏庭のような存在でした。直線的には福岡~青森間よりも近く、快速船でならば2日ほどもあればたどり着けます。今回我々が利用した航空機では、わずか2時間半で到着しました
その南側には黄海が広がっており、これは広義には東シナ海の一部です。黄海の北西側には、遼東半島と山東半島があって、この二つの半島に囲まれる形でさらに西側に膠州湾があります。
大連は、遼東半島南東の海岸線沿いに発展した町です。陸域では、北、西、南の三方を山で囲まれていて、湾の入口には大小3つの島があり天然の防波堤になっています。かつ深い水深を有する天然の良港です。
1月から3月のはじめごろまでは一部の浅い場所が結氷しますが、基本的に不凍港です。
真冬でも凍結しない港はこの緯度では貴重であり、日清戦争後、三国干渉でこの地を清から租借したロシアは、巨額の資金を投入して鉄道を建設し、港の整備を行いました。
三国干渉というのは、日清戦争後に締結された下関条約により日本が勝ち得た遼東半島の領有を独仏露の三国がクレームを入れて阻止したものです。
この三国は中国大陸への進出への強い野望を持っていましたが、お互いにけん制しあって遠慮をしていました。そこへ戦争に勝った日本が出てきて、目のまえにあった人参をかっさろうとしたわけです。当然強い反発を感じ、強引にこれを妨害する行動を起こしました。そしてそれに成功します。
その見返りとして、ロシアは清国から満洲北部の鉄道敷設権を得ることを許されました。
その中でロシアは、軟弱地盤のために建設困難なアムール川沿いの路線ではなく、バイカル湖東のチタから満洲北部を横断しウラジオストクに至る最短路線の鉄道の敷設を特に優先することにしました。
そして、1896年(明治29年)に「中国東方鉄道株式会社」という鉄道会社を設立しました。清国側の名称は「大清東省鉄路」であり、通称として「東清鉄道」と呼ばれました。表向きは露清合弁の鉄道でしたが、ロシアの発言権が強く、清国は経営に直接関与できませんでした。
翌年にはルートが選定され、中国人労働者(苦力)が大量に投入されて工事が進められた結果、シベリア鉄道と直結する東西路線が完成します。と同時にその東端から満州全土に支線を敷設し、ほぼ満州全土をカバーする鉄道網が完成しました。
この満州内に敷き終わった鉄道、東清鉄道は、日露戦争後、日本がその所有権を得、名前を「南満州鉄道」と変えて運営を始めました。いわゆる、「満鉄」です。
続いてロシアは、三国干渉で租借権を得た大連の開発に着手しました。ロシアが統治していた時代の大連は、鉄道の建設が終わったばかりで港は整備中、町の整備も港を中心に一部の建築物ができた程度で、人口は4万人ほどでした。
日露戦争で日本が勝利してここを接収してのちは、日本政府がさらにここに手を加えました。大連を中国大陸における拠点とすべく、ここを貿易都市として発展させようとしたのです。
このため、遼東半島全体に関東都督府という行政機関を敷き、また南満州鉄道に鉄道だけでなく市街地のインフラの整備も行わせるとともに、港湾施設の拡張にも力を入れました。
またロシアがその基盤を作った町づくりを踏襲し、西洋風の建築物が立ち並ぶ街路の形成しました。さらに市電を建設し、1920年代には現在の大連駅とその駅前一帯が整備され、中心市街がほぼ現在の形になりました。
その街並みは当時の日本のそれをまねており、これが最初にこの町に来た時に私日本と似ている、という感じたゆえんでしょう。
その後大連はさらに発展を遂げ、1940年代の大連の人口は60万人を超え、日本政府が目指したとおり、アジア有数の貿易港となりました。この当時の日本人居住者は約20万人で、日本人は支配層と見られていました。
その後日本は戦争に負け、大連は再びロシアが占拠するところとなりましたが、1951年に返還され、この年に遼東半島先端にある旅順市を合併して、旅大と改称しました。しかし、1981年に元の大連に名前を戻して現在に至っています。1990年代の改革開放経済のもと、中国東北部の中でも特に目覚しい経済的発展を遂げており、日本との交流もさかんです。
現在の大連の人口は約600万人ほどで、その中でも日本人の常駐人口は5000人ほどといわれています。日系企業も多く見られ、日本語を話せる中国人の方も多いというのが大連の特徴です。
こうしてこれを書いているホテルの部屋のテレビでも、NHK(NHKプレミアム)が放映されており、町へ繰り出せば、日本食にありつくのも難しくないとのことです。残念ながら私にそれはできませんが、毎日三食部屋に運ばれてくる食事には日本食も多く、昨夜はなんと鰻丼(!)が出ました。
話は戻りますが、かつての遼東半島への干渉からもわかるように、ロシアはその領土獲得に関してきわめて貪欲な民族です。ヨーロッパでもっとも文明開化が遅れた国でありながら、最も侵略的な国のひとつであり、長年、東欧を中心とした近隣諸国の領土を脅かし、実際それを自国領土に取り込んできました。
その矛先はさらに東へとむけられ、シベリア、モンゴル、満州北方へと進み、ついにその東端はオホーツク海に達しました。
これを辿って南下をすればそこは清国、朝鮮であり、その先には日本があります。三国干渉におけるその強引ともいえる主張を見ただけでも、その侵略的な意図は明らかでした。かくして、この当時、朝鮮半島の権益を巡る日清戦争に勝利した日本にとって、最大の仮想敵国はロシアになりました。
こうしてみると、現在のロシアとウクライナの関係がややこれに似ているような気がしないでもありません。無論、地理的な要素も異なりますし、ウクライナと日本ではロシアとのそれまでの歴史的関係がまるで違うわけで、一概に比較の対象にはなりえません。
しかし、武力を背景にした他国への侵略という一点においては、120年前に起こった日露の戦いと様相が似ている気がします。かつての両者の戦いも、そもそもはロシアが一方的に中国の国土の領有に執着し、これに日本が危機感を覚えたことに始まりました。
実は、ウクライナはロシアのルーツともいえる国であり、その成り立ちはロシアそのものといっても過言ではありません。ですから他国を侵略しているというよりは、日本の戊辰戦争のような同胞同士の内戦に近いものといえると思います。
その中において、ウクライナは善戦している、という報がしばしば入ってきます。ロシアの軍事力は強大で形勢が逆転するということはあり得ませんが、もしかしたら軍事的には敗れても、国際世論の支持を得て、政治的にはウクライナが勝利するのかもしれません。
戊辰戦争では圧倒的な戦力を誇った幕府軍が明治政府軍に敗れました。同じようなどんでん返しが起こるのではないか、そんな期待も少し持ちながらこの戦争の行方を見ていこうと思っています。
私の中国の旅はまだまだ続きます。今の予定では夏ごろまでこの地にとどまる予定です。しかしはたしてそれまでにこの戦争は終わるでしょうか。
このブログの続きも、次、いつになるかわかりません。が、折につけ、またこうした思い付きを書いてみたいと思います。
日本ではそろそろ桜が咲く季節ですね。今年はそれが見れないのが残念です。