あなたは伊東さん?


今日は12月14日ということで、有名な赤穂浪士の討ち入りの日です。毎年このころになるとああ、今年ももう終わりだな、と思うのですが、確かにあと10日もすればクリスマスだし、それが終わるともうお正月は間近……ということで、何かとせわしない気分になるのは私だけではないでしょう。

今年の年末年始は初めて伊豆で過ごす予定です。例年だと実家のある山口に帰省するのですが、つい先日父の七回忌法要で帰ったばかりなので、今回は見送ることにしました。

なので、来年早々にはお天気さえよければ富士山も見えるはずで、富士山をみながらお正月を迎えられるというのは、何やらとても縁起が良いかんじがします。

今日は、討ち入りの日ということでこの四十七士の話でも書こうかとも思ったのですが、過去にあまたの人がとりあげてきており、あまりにも陳腐な気がするのであまりそそられません。なので、この赤穂浪士による仇討とおなじく日本三大かたき討ちといわれ、伊豆にも関係の深い「曾我兄弟の仇討ち」について触れてみたいと思います。

三大かたきうちのほかのもうひとつは、「伊賀越えの仇討ち」というのですが、こちらは岡山のお話です。江戸時代のその昔、岡山藩の藩主が男色家で、その小姓を寵愛していました。

ところが、これに横恋慕した家臣がその小姓に求愛したところ拒まれたため、家臣は小姓を殺害。藩主は怒り狂いますが、すぐに病没してしまい、その死の直前に小姓を殺した家臣をせいばいするように周囲に遺言。

そのうちのひとりで、殺された小姓の兄だった男は長い年月をかけて兄を殺した家臣をつけねらい、剣術の達人の助けを得てついにこれを実現する……というお話です。かたき討ちの話ではあるのですが、何分、事が男色に発している点がいまひとつ赤穂浪士によるかたき討ちと比べると人気がないのはそのせいでしょう。

曽我兄弟のかたき討ちも、よくよく調べてみると、討たれたほうが必ずしも悪いというわけではなく、しかもこのケースの場合は親戚同士のバトルであり、言ってみれば近親者同市の仲間割れというのが本質のようで、「伊賀越えの仇討ち」よりはましですが、これも後世ではあまり人気がないのはそのためのようです。

なので、正直言ってこれについても書くことはあまり気乗りしません。がしかし、伊豆の歴史上でもちょうど時代の変化のはざまで起こった事件であり、これに関わったのは日本の歴史変化に関わった重要人物ばかりでもあり、これをみていくことでこの時代の様相がよくわかります。歴史的にみてもこういう事件もそうそう多くはないので、やはり一度はまとめておこうと思います。

そもそもの事の発端は、伊豆の東の豪族伊東氏の領地争いから始まりました。のちに敵討されてしまう側の当人となる「工藤佑経」は、その幼少期に家督であった父の工藤祐継が早世すると、父の遺言により義理の叔父である「伊東祐親」が後見人となりました。

伊東氏と工藤氏は実は同じ一族で、伊東氏は平安時代末期から鎌倉時代にかけて現在の伊東市一帯である、伊豆国田方郡の「伊東荘」を本拠地としていました。伊東氏はそもそも、藤原南家・藤原為憲の流れを汲む「工藤氏」の一支族であり、今では「伊東」の名前のほうが有名になっていますが工藤氏のほうがもともととの本家筋といえます。

工藤氏がいつごろから伊豆にすみついたのは定かではありませんが、おそらくは平安の初期のころのことでしょう。その祖ともいえる「工藤祐隆」は当初、伊豆国の豪族を平らげ、大見・宇佐見・伊東を総合した「久須見荘」なる広大な地域を所領としていました。

この工藤祐隆の嫡男は祐家といいましたが早世したため、後妻の連れ子であった継娘が産んだ子が嫡子に取り立てられ、久須見荘のうちのひとつ、伊東荘を与えられて「伊東氏」を名乗り、この子が伊東家初代の「伊東祐継」となりました。

一方、早世した祐家には嫡男がおり、この子には河津荘が譲られ、この子供は「河津氏」を名乗るようになりました。この「河津」の名前は今も東伊豆に「河津町」の名前で残っています。河津桜の河津でもあります。

伊東荘を継いだ祐継は病により43歳で死去し、9歳の嫡男金石(のちの工藤祐経)の後見を義弟で河津姓を名乗るようになった「河津祐親」に託しました。つまり、祐親は金石の義理の叔父にあたります。

金石の後見人になった河津祐親は河津から伊東荘に移り住み、これを契機に河津姓を捨て自らが「伊東祐親」と名乗るようになります。そしてもともとの領地の河津は嫡男祐泰に譲って「河津祐泰」と名乗らせます。

伊東家の初代、伊東祐継の息子の金石は、後見人の叔父が伊東姓を名乗るようになったため、元服すると伊東姓ではなく、もともとの一族の源流である工藤姓を名乗るようになり、この金石が後年仇討されてしまう「工藤祐経」となります。そして後年、後見人の伊東祐親の娘の「万劫御前(まんごうごぜん)」を妻とするようになります。

この辺、実にややこしいのですが、ともかく工藤氏、伊東氏、河津氏の三家はそれぞれが姻戚関係にある親族同士で、お互いが後見人になったり、親族同士で結婚したりして一族の結束を高めようとしていたわけです。

その後、工藤祐経は14歳で叔父の伊東祐親に伴われて上洛し、平家の家人として平重盛に仕えるようになります。後年源氏に敵対するようになる伊東一族の平家びいきはこのころから始まります。

工藤祐経を平家に仕えさせたといいつつも、実質は都へ追い払った伊東祐親は、あろうことかいつのまにかこの工藤祐経の所領を独占してしまいます。そもそも祐経の後見人になったころから工藤家の所領を狙っていたのかもしれません。

若い祐経を一族の代表として平家に仕えさせるというのは実は口実にしてその所領をわが物にしようとしたのか、たまたま平家から一族に出仕の要請があったのを利用したのかはわかりませんが、ともかく結果的には工藤家の所領を伊東家が横領するという結果に至ります。

そうしたことを何も知らないで京で平家に仕えていた祐経ですが、やがて叔父の祐親が自分の土地を押領しようとしていることに気付き、都から訴訟を起こしてこの土地を取り返そうとしますが、年長で朝廷にも馴染の多い祐親の根回しにより、その試みはことごとく失敗に終わってしまいます。

さらに祐親は祐経の嫁にやったはずの娘の万劫を取り戻し、相模国の土肥遠平へ嫁がせてしまいます。

こうして所領も妻をも奪われた祐経の怒りは頂点に達します。そして叔父の伊東祐親だけでなく、その一族も根絶やしにしたいと考えるようになり、祐親の息子の河津祐泰もろとも殺害しようと計画を練りはじめます。

そして1176年(安元2年)、ついに行動を起こし、郎党の大見小藤太と八幡三郎を刺客として放ちます。二人はちょうど親子で狩に出ていた祐親と祐泰を狙い、二人に矢を放ちましたが、この矢は伊東祐親には当たらず、河津祐泰だけに当たります。

この刺客2人は暗殺実行後すぐに伊東方の追討により殺されましたが、河津祐泰は二人によって射られた矢傷がもとで死んでしまいました。

祐泰には満江御前(こちらの姫も「まんごう」満行とも)という妻がおり、一萬丸と箱王という二人の男の子がいました。夫を失った満江はその後、この二人の子を連れて曾我祐信に再度嫁ぎ、この二人がのちの曽我兄弟、つまり「曾我祐成(すけなり)」と「曾我時致(ときむね)」になります。

曾我祐信は、相模国曾我荘(現神奈川県小田原市)の武将で、のちの源平合戦では鎌倉方につき、のちの鎌倉幕府では御家人として重用されるようになりますが、満江が再婚したころにはまだ頼朝は挙兵しておらず、相模の国の一豪族にすぎませんでした。

一萬丸と箱王丸は曾我の里ですくすくと成長します。伝説では兄弟は雁の群れに亡き父を慕いつつ、武家の子として武道に励んだと伝えられています。

その後、源頼朝が伊豆で平家打倒ののろしを上げ、治承・寿永の乱が始まります。治承・寿永の乱は1180年(治承4年)4年の頼朝挙兵に始まり、元暦2年(1185年)に平家が壇ノ浦で滅亡するまでの大規模な内乱の総称です。

最終的には、反乱勢力同士の対立がありつつも、平氏政権の崩壊により、源頼朝を中心とした主に坂東平氏から構成される関東政権(鎌倉幕府)の樹立という結果に至りますが、この乱の中で平家方についた伊東氏は没落し、祐親は源氏側に捕らえられて自害しています。

一方、工藤祐経は、早くから源氏の世が来ることを見越し、この乱の早い時期から源頼朝に従い、乱が終わったのちはその勲功が認められて御家人となり、頼朝の寵臣となりました。

こうした中、亡くなった伊東祐親の孫にあたる曾我兄弟は戦乱の中においてもたくましく成長し、兄の一萬丸は、元服して曽我の家督を継ぎ、曾我十郎祐成(すけなり)と名乗ります。一方の弟の箱王丸は、父の菩提を弔う役目が仰せつけられ、このため箱根権現社に稚児として預けらます。

そんな箱王丸の前にある日、父の仇である工藤祐経が突然現れます。文治3年(1187年)、治承・寿永の乱後に鎌倉幕府を打ち立てた源頼朝がその戦勝祝いに箱根権現に参拝した際、工藤祐経も随参していたのです。

箱王丸は父の仇を目の前に刃を向けて復讐しようしますが、仇を討つどころか逆に祐経に諭されてしまいます。そして、その仇の祐経から「赤木柄の短刀」を授けられたといいます。

この「諭された」というのが何を調べてもよくわからないのですが、仇敵に短刀を贈られたというのも不思議な話です。

工藤祐経という人物がどういう人物だったのかがそのカギを握っていると思われますが、想像するに伊東祐親ほどえげつないオヤジではなかったと思われます。

伊東祐親という人は、このブログの「八重姫」の項でも書きましたが、頼朝の若き頃にその三女の八重姫との間にできた子供を殺しています。平家にとっては罪人だった頼朝と一族の間に子供ができたことを知られたら平家からお咎めがある、というのがその理由だったようですが、背後関係はともあれ褒められた行為ではありません。

これに対して工藤祐経は、京では平家にあって徳のある人物として知られた平重盛に重用されており、こうしたいたという事実からも、かなり人あしらいには慣れた人物だったようです。

歌舞音曲に通じており、こうした才能が平家に気に入られた理由でもありますが、若き日に都に仕えた経験と能力は、源氏が天下をとったあとにも生かされ、鎌倉幕府において頼朝にも重用されました。

父の仇と狙う曽我兄弟とは血はつながってはいないものの同じ一族どうしであり、もとはといえば曽我兄弟の祖父の伊東祐親が祐経の所領と妻を奪ったことにことを発した一件でもあります。そのことを祐経は箱王丸にとつとつと説明し、無益な争いはやめよう、その仲直りの印にこれをやろう、といって短刀を手渡したのかもしれません。

が、どこかその説得には空々しいものがあったのでしょう。なぜなら祐経が箱王丸に手渡した短刀は、その後工藤祐経自らの命を奪うことになるからです。

祐経に諭されてその場では父の仇を討てなかった箱王丸ですが、このときは思いとどまったものの、やはりその怨念は深かったらしく、父の喪に服して過ごす一生に見切りをつけ、箱根を逃げ出してしまいます。

そして、縁者にあたる北条時政を頼ります。北条時政はいうまでもなく、北条政子のお父さんで、頼朝の義父にあたる人物ですが、この時政の前妻は伊東祐親の娘だったためです。

このあたりのことはよくよく考えてみるとヘンな話です。北条氏は源氏に組みしており、箱王丸の父や祖父はそもそもが平家に組する一族で、それゆえに祖父の祐親は源氏に殺されています。父の仇を討つためとはいえ、その源氏の一派である北条氏を頼らざるを得なかったわけですから、胸中はかなり複雑だったはずです。

それほど父の仇を討ちたかったということなのかもしれませんが、このことは時政らの北条氏がのちに頼朝の息子たちを暗殺して鎌倉幕府の実権を握ったことと関係があるように思います。北条氏はこのころから既に源氏を見限っていたのかもしれず、箱王丸を利用してその側近であった工藤祐経らを排除しようとしていたのかもしれません。

ともあれ、箱王丸はこの時政に烏帽子親となってもらって元服し、曾我五郎時致(ときむね)と名乗るようになります。こうして、時政は時致だけでなく、兄の祐成とともに曾我兄弟の最大の後援者となりました。そして、その庇護のもと父の仇討ちが果たせる日を虎視眈々と待ち続けました。

建久4年(1193年)5月、鎌倉幕府を樹立した源頼朝は、富士の裾野で盛大な巻狩を開催しました。巻狩(まきがり)とは、鹿や猪などが生息する狩場を多人数で四方から取り囲み、囲いを縮めながら獲物を追いつめて射止める大規模な狩猟であり、この当時の流行りの遊興でもありましたが、神事祭礼や軍事訓練も兼ねていました。

工藤祐経は、治承・寿永の乱では武将としてたいした功績をあげたわけではありませんが、都で平家に仕えた経験と能力が買われて頼朝に重用され、1192年(建久3年)に頼朝が朝廷から征夷大将軍就任の辞令をもらった際にも、勅使に引き出物の馬を渡すという名誉な役を担っています。

この巻狩には工藤祐経も参加していましたが、曽我兄弟はこの巻狩りの最後の夜を狙っていました。深夜祐経の寝所に押し入った二人は、酒に酔って遊女と寝ていた祐経を叩き起こし、父の命を奪ったことに対する罪の口上を祐経に突き付けたあと、時致が箱王丸であったころに祐経自身からもらった「赤木柄の短刀」で見事に祐経にとどめをさしました。

このとき、二人はこれに引き続いて、頼朝の宿所を襲おうとしたといい、そのみちすがら祐経が仲介して鎌倉幕府の御家人となっていた備前国吉備津神社の神官なども殺害してます。

父のかたき討ちだけが目的であったはずなのに、頼朝まで襲撃しようとしたことについては、歴史の専門家の間でも??とされてきたようですが、祖父の祐親は源氏のために自害させられており、一族の昔年の恨みをはらそうした、と考えられなくもありません。

しかし、上述のように兄弟の後援者であった北条時政が黒幕となり、二人に頼朝を亡き者にさせようとしたと考えればその動機はよりポジティブなものになるはずです。しかし確固たる根拠があるわけではありません。

二人は騒ぎを聞きつけて集まってきた武士たちによって取り囲まれ、兄弟はここで10人斬りともいわれる働きをしますが、ついに兄祐成が源氏でも屈指といわれた武将の仁田忠常に討たれ、弟の時致も取り押さえられてしまいます。

騒動の後、時致は頼朝のもとに引っ立てられ、詮議を受けます。時致は頼朝の面前でも臆することなく、仇討ちに至った心底を述べたといい、その堂々とした態度をみた頼朝の側近たちの中からは、見事父のかたき討ちを遂げ、あっぱれだという意見も多く出ました。

このため、頼朝も一度はその助命を考えましたが、祐経の子で当時10才だった犬房丸が泣いて訴えたため、頼朝はついに時致の処刑を命じ、時致は梟首されました。

この祐経の子、犬房丸は、その後鎌倉幕府に仕えるようになり、姓を工藤から伊東へと変えて「伊東祐時」と名乗るようになりました。

68才で没するまで幕府御用人としてそつない一生を終えましたが、この人物の子孫はその後全国に広まり、工藤祐経の子孫が日向国へ下向して戦国大名の「日向伊東氏」となり、江戸時代にはその子孫が「飫肥(おび)藩」の藩主となりました。

また曽我兄弟の祖父の伊東祐親の子孫は、尾張国岩倉(現愛知県岩倉市)に移り住み、「備中伊東氏」を称するようになり、こちらの子孫は江戸時代の備中岡田藩主となりました。

伊豆に残った伊東氏の一族はこれ以後、あまりふるわなくなったようですが、その名は今も「伊東市」として残っており、伊豆の歴史を考えるとき、この曽我兄弟と工藤祐経などのかつての伊東一族の存在はなくてはならないものになっています。

ちなみに、曽我兄弟によって寝所を襲われた頼朝ですが、この事件の直後、しばらく行方不明になり、この間鎌倉では頼朝の消息を確認することができなかったといいます。

このとき、頼朝の安否を心配する妻政子に対して、巻狩に参加せず鎌倉に残っていた頼朝の弟の源範頼は、政子に「範頼が控えておりますのでご安心ください」という見舞いの言葉を書き送ったそうです。

ところが、この手紙をたまたま見てしまった頼朝は、この「範頼が控えている」という部分に難癖をつけ、自分を亡き者にして跡を乗っ取ろうと考えているに違いないと言い放ち、謀反の疑いありとして範頼を捕らえ、伊豆修善寺に幽閉し、のちに自害させています。

その後、頼朝の嫡男の頼家は第二代鎌倉幕府将軍になっていますが、北条氏らの陰謀によりこちらも伊豆に幽閉され、のちに暗殺。さらにその子の実朝も殺されています。こうして源氏の血はここで途切れることとなり、その後は北条氏による執権政治によって鎌倉幕府は永続していきます。

こうしたすべてのことが、この曽我兄弟のかたき討ちがあったことがまるで契機のようにそれ以降につぎつぎと起こっており、これが、私がこの項の冒頭で、この事件が伊豆の歴史だけでなく、その後の日本全体の歴史にも大きくかかわってくる事件であったと述べた理由です。

伊豆においては伊東氏や工藤氏は没落し、変わって北条氏が台頭するようになり、この北条氏は源氏の嫡流を駆逐して、その後の歴史を大きく変えてしまいました。

ちなみに日向に渡った伊東氏の一族には、後年、大友宗麟、大村純忠、有馬晴信らが送り出した有名な「天正遣欧少年使節」の主席正使としてローマに赴き、教皇に拝謁した伊東マンショがいます。この伊東マンショについてはまた機会あらば書いてみたいと思います。

また、日清戦争時に初代連合艦隊司令長官を務め、中国との「黄海海戦」を勝利に導いた元帥で海軍大将の「伊東祐亨」は、日向伊東氏の嫡流だそうです。

かつて伊豆を席巻した武将、伊東一族の血流は今も脈々と日本中のあちこちで息づいているはずです。もし「伊東」と名乗る方にあったら、ぜひ「ご先祖は?」と聞いてみてください。案外と伊豆、日向または岩倉出身の方かもしれません。