月夜の晩に

2015-3774

伊豆はここしばらく天候不順でしたが、今朝になってようやく晴れてきました。

今日は、「スーパームーン」だそうで、月がいつもより地球に近づくため、より大きく見えるようです。今年もっとも小さく見えた満月は、3月6日のものだったそうですが、これに比べて直径は1.14倍になり、明るさも3割ほど増すといいます。

こうした差がなぜ起こるかについては、月は地球の周りを楕円状の軌道で回っている、ということを知れば理解できます。

満月とは地球を挟んで月と太陽がちょうど真反対になったときに見える月の姿であり、楕円軌道の一番遠いときの満月は小さく、最も近い場合の満月は大きくなるわけです。

より正確にいえば、今年は28日午前10時46分に月が最も近くなり、同11時51分に満月となるようです。が、日中はお月さんは見えませんから、月が地平線の上に出る夕方以降に明るい満月が上ることになります。

が、「満月」とされるのは、月齢が13.8~15.8のときで、平均では14.8です。月齢とは月の「満ち欠け」のことで、月齢0(ゼロ)が新月で、これがやがて三日月になり、半月になっていって、満月になったあと、ここからは逆に欠けていき、ほとんど見えなくなるときが月齢29です。そしてその翌日からは再びゼロからスタートし、満ちはじめます。

暦によれば昨夜27日の月齢は14.2、今日28日の月齢は15.2で、ともにこの満月とされる月齢の範疇に入っています。

だいたい毎月2日ほどは、こうした満月になるようで、どちらを正式に満月と呼ぶかについては、議論があるようです。が、科学的には平均値の14.8に最も近い夜のほうが満月です。しかし、昨日はお盆の中日である旧暦の8月15日なので、「中秋の名月」として尊び、慣例上昨日のほうを正式の満月としているわけです。

が、観賞する分にはどちらでもいいわけであり、お天気が続いて2日続けて美しい満月が見れる、というのは幸せなことです。伊豆のように、残念ながら昨日の満月を見ることができないところは多かったわけですから……

ところで、満月というと、「狼男」を連想する人も多いでしょう。「獣人」とされる人物が、満月の夜になると、月や丸いものを見ると変身するという伝承です。人が動物の姿に変わったり、超自然的に他の動物の特徴を所有するようになることを「獣化」といい、古くから「人狼症」なる精神病がある、と信じる人々も多かったようです。

が、実際にはそんな病気があろうはずもなく、人類が動物と人間の混ざったイメージを、アニミズムの延長などで持つようになったことの名残と思われます。アニミズムとは、生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方であり、これらがギリシャ神話やローマ神話、あるいは日本神話の元になりました。

神託を告げる際に一時的に人格が変わったように見えるシャーマンもその一種とみなされることもあり、畏れられもしましたが神聖視されることもあり、原始社会においては重要な役割を果たしていることも少なくありませんでした。

また、先史時代の遺跡などの壁画には獣の特徴を持った人間が描かれることがあり、自然の力を借りようとした何らかの儀式に基づいて、こうした獣化した人間を描くにようになったと推測されています。

ヨーロッパを中心とするキリスト教圏でも、初期には土俗信仰とキリスト教が共存してその様な偶像が崇拝されていた地域がありましたが、中世以降魔女狩りと同様に、こうした獣人は反キリスト・悪魔のとる姿と位置づけられるようになりました。

その中から、「人狼」というものが現れ、これを悪魔と考えて狩ろうとする「人狼狩り」は悪魔狩りとともに盛んに行われるようになりました。ただ、人狼であるとされた人々は、実際には麦角菌に感染していたことなどが指摘されています。

麦角菌とは、麦の中に含まれる麦角アルカロイドと総称される物質によってできる菌で、様々な毒性を持ちます。食用や飼料用としてヨーロッパや北アメリカを中心に広く栽培されていた「ライ麦」にはこの菌がつくことがあり、これを食べて幻覚や精神錯乱を起こしたものであると考えられています。

また、キリスト教圏以外の地域でも動物などの精霊が憑依して獣化する獣憑き(けものつき)の伝承が世界各地に存在しており、インドや中国では虎憑き、中南米ではジャガー人間、また、日本における狐憑きなどそのバリエーションは世界中に分布します。

2015-3781

ヨーロッパでは、中世になると、キリスト教信者が絶対的な権力を持つようになり、その権威に逆らった者は、「狼人間」のレッテルを貼られ、迫害される立場に追い込まれていきました。とくにその傾向は魔女審判が盛んになった14世紀から17世紀にかけて拍車がかかり、墓荒らしや大逆罪・魔術使用をした人は「狼」とされ、重罪を受けました。

有罪とされた者は、社会及び共同体から排除され、追放刑を受けましたが、この際、当時のカトリック教会は、3回目の勧告に従わない者には罰をあたえました。これは、7年から9年間、月明かりの夜に、狼のような耳をつけて毛皮をまとい、狼のように叫びつつ野原でさまよわなければならない、という掟でした。

人間社会から森の中に追いやられた彼らは、要は世捨て人のようになっていきました。当然自律生活は送ることができなくなり、このため、たびたび人里に現れ略奪などを働くようになりました。時代が下るとこれが風習化し、夜になると狼の毛皮をまとい、家々を訪れては小銭をせびって回るような輩も現われはじめました。

1520年代から1630年代にかけてフランスだけで3万件の狼男関係とされた事件が報告され、ドイツやイギリスでも同様の事件の発生が記録されています。その後、より合理的な解釈を求めて、こうした狼人間の生理現象や精神的な問題が語られるようになりました。

つまり、彼等はいつどんなときに狼に「変身」するか、という課題です。17世紀末にジャン・ド・ニノー(Jean de Nynauld)という人物が、狼への変身を「狼狂(folie louvière)」と呼称し、一種の精神錯乱状態である、と唱えました。フランス人で、医学博士を自称していたようですが、不詳です。しかし、医学に通じてはいたようです。

知能障害や頭脳損傷などに由来する精神的な理由で月に向かって絶叫したり、4つ足で歩くなどの精神錯乱を起こすようになった、と彼はその著書の中で唱えました。そして、これが、その後映画などで知られる、狼と人間の中間的な形態をもつ人型の狼男につながっていった、とされています。

やがては、月を見て錯乱状態になる、という事実?だけが独り歩きするようになり、月だけでなく丸いものを見ても変身するという伝承も現れ、その部分だけが特に強調された映画や小説が創作されるようになりました。

一方では、民間伝承でも月を見ると狼に変身するという話が流布されるようになりましたが、これらの伝承では、必ずしも満月の時とは限らず、新月とかクリスマスから蝋燭の祝日にかけての期間とか満月以外の日に変身するとされるものもあったようです。

1935年に、世界初の狼男を主題とした本格的な映画 Werewolf of London (ロンドンの人狼)が公開されて特殊メイクによる半人半狼の狼男が登場し、はじめて「狼男に噛まれた者は狼男になる」などの設定が与えられました。

また、続いて1941年に公開されたThe Wolf Man (狼男)は更に精巧な特殊メイクによる狼男の登場に加えて、「ロンドンの人狼」を上回る出来あがりとなり、大評判を呼びました。また、「ロンドンの人狼」にも満月の夜に変身するという話がありましたが、この映画では加えて「銀で出来たもので殺せる」いう脚色が付け足されました。

この作品により、現代における「狼男」伝説の基本要素は完成され、「狼男映画の決定版」とまで評価されました。以後、両作品の設定が狼男の一般的な特徴であるという認識のもとで、多くの類似作品が創作されることになっていきます。

2015-3632

日本でもこれらの映画はヒットしましたが、戦後、手塚治虫の描いた漫画、「バンパイヤ(習慣少年サンデー、1966~67年)」が人気を集め、テレビでも、1968~69年にフジテレビ系で実写とアニメの合成のモノクロ作品が放送されて話題になりました。ちなみに、このときの主人公役をやったのは、若き日の水谷豊さん(当時16~17歳)でした。

ちなみに、手塚さんは、このほかにも、「きりひと讃歌(1970~71年)」という、医学界における権力闘争を描いた社会派的色合いの強い作品を描いています。これは、主人公が、四国の山あいにある村で「モンモウ病」という奇病に罹り、獣に変身する、という話です。

突然恐ろしい頭痛に襲われ、獣のように生肉を食べたくなり、やがて体中が麻痺して骨の形が変わり、犬のような風貌になります。そして1ヶ月以内に呼吸麻痺で死に至る……という難病を扱った作品です。手塚さんはその後1989年に60歳で亡くなるまでの晩年、こうした社会的なテーマを扱った作品をたくさん書くようになりました。

このように、狼男といえば、現在では知らない人はいないほど有名な話になりましたが、そもそもなぜ「狼」だったのか、といえば、これは、中世のキリスト教の神学者たちが、獣人化現象は悪魔がオオカミの醜い容姿で現れたものと設定したためです。

人々に悪魔の仕業であると信じさせるためには、身近な存在のオオカミの化身としたほうが分かりやすかったのでしょう。オオカミは肉食で、シカ・イノシシ・野生のヤギなどの有蹄類、齧歯類などの小動物を狩ります。餌が少ないと人間の生活圏で家畜や残飯を食べたりするため、ヨーロッパを中心に忌み嫌われていました。

13世紀のフランスにて動物誌の著作を書いたピエール・ド・ボーヴェル(Pierre de Beauvais)という人は、「オオカミの前半身ががっしりとしているのに後半身がひ弱そうなのは、天国で天使であった悪魔が追放されて悪しき存在となった象徴」である、と書きました。

さらに「オオカミは頸を曲げることが出来ないために全身を回さないと後ろを見ることが出来ないが、これは悪魔がいかなる善行に対しても振り返ることが出来ないことを意味している」とも解説しています。

しかし、上述したように、そもそも獣人化現象は、神が人の体に宿ったことを示すものでした。獣人になる、なれるということは、神聖な血筋である、とみなされることも多く、ヨーロッパ以外の東アジアや南北アメリカにおいてはオオカミは、恐怖や禁忌の対象ではありませんでした。

モンゴル人の狼祖伝説、トルコ人の狼祖伝説(アセナ)のほか、タイ、ミャンマー、ラオス、ベトナムなどの山岳地帯に住むミャオ族(苗人)などに伝わる伝説では、いずれも「狼の血筋」を持つ人々は気高い人々とされ、彼らの民族的な誇りの源となっています。

アラスカからカナダ、合衆国にかけて多数が住んでいたインディアン民族もまた、オオカミの信奉者でした。「狼の氏族(クラン)」を称する部族が多く、トンカワ族を始め、部族名そのものが「狼」を意味するものが多数あります。

2015-3637

日本においては、狼祖伝説そのものはあまりありませんが、そもそも「オオカミ」という日本語自体が、「大神」を意味している、というのはよく言われることです。モンゴルにおけるそれと同様に神性と知性の象徴として畏敬され、埼玉県秩父市三峰にある「三峯神社」や奥多摩の「武蔵御嶽神社」でなどでは、祭神とされています。

また、アイヌではオオカミ(エゾオオカミ)を「大きな口の神(ホロケウカムイ)」「狩りをする神(オンルプシカムイ)」「ウォーと吠える神(ウォーセカムイ)」などと呼んでいました。

このように、日本では、オオカミは眷属(けんぞく)、すなわち神の使者、として敬われることも多く、オオカミのご利益としては山間部においては五穀豊穣や獣害避けであり、都市部においては火難・盗賊避けなどでした。19世紀以降には憑き物落としの霊験もある、といわれるようになりました。

こうした眷属信仰は江戸時代中期に成立したものですが、幕末には1858年(安政5年)にコレラが大流行し、コレラは外国人により持ち込まれた悪病であると考えられ、憑き物落としの霊験を求め、こうしたオオカミのような眷属信仰はさらに興隆しました。

しかし、そのため憑き物落としの呪具として狼の遺骸が用いられるようになると、猟師の中には、人目を憚りながら、狼を狩る者も出てきました。

また同時期に流行した狂犬病やジステンパーの拡大によって狼自体が危険なものとみなされるようになりました。こうした疫病の蔓延によりオオカミの捕殺・駆除が進んだ結果、日本における狼の固有種、ニホンオオカミはついに絶滅に至りました。

ニホンオオカミは1905年に奈良県東吉野村鷲家口(わしかぐち)にて捕獲された若いオスの個体を最後に目撃例がなく、絶滅したと考えられています。また北海道および樺太・千島に生息していたニホンオオカミの大型の亜種、エゾオオカミも1900年ごろまでに絶滅したと見られています。

このエゾオオカミは、大きさはシェパードほどで、褐色の毛色だったとされています。アイヌの人々とは共存していましたが、明治以降、入植者により毛皮や肉目的で獲物のエゾシカが取りつくされ、入植者のつれてきた牛馬などの家畜を襲ったために害獣とされました。

このため、懸賞金まで懸けられ、徹底的な駆除により数が激減した上、ニホンオオカミと同じく、ジステンパーなどの飼い犬から移された病気の影響で絶滅に至ったとされます。

こうして、日本ではオオカミはいなくなりましたが、現在のアニメや漫画、絵本では、オオカミはしばしば登場し、時には人気者です。我々の世代には懐かしい、アニメ「狼少年ケン」は、オオカミに育てられた少年が主人公ですし、最近では、「もののけ姫」に登場する山犬の神様は、オオカミ一族の出だとされます。

また、同じくアニメ映画としては、「おおかみこどもの雨と雪」「あらしのよるに」がヒットしたことなども記憶に新しいところであり、オオカミが登場する童話としても、「三匹の子豚」、グリム童話の「狼と七匹の子山羊」、「赤ずきん」は著名作品です。

さらには、日本だけでなく、世界中で愛されているペット、「イヌ」の祖先はオオカミとする説が一般的です。長い人間の歴史の中で、オオカミを家畜化(=馴化)し、人間の好む性質を持つ個体を人為的選択することで、イヌという動物が成立したと考えられています。

その昔は、遺伝子工学などの研究はあまり進んでおらず、かつてはイヌは、オオカミと、ディンゴやジャッカル、コヨーテなどの交雑種であるとする説もあり、またイヌの祖先として、すでに絶滅したパリア犬や、オーストラリアに現生するディンゴのような「野生犬」の存在を仮定する説などがありました。

しかし、2000年代までの分子系統学・動物行動学など生物学緒分野の発展は、オオカミ以外のイヌ属動物の遺伝子の関与は小さく、イヌの祖先はオオカミであるという説はほぼ定説になっているようです。

2015-2338

ところで、イヌとよく対比される、ネコは、生物学的な大分類においては、イヌと同じ「食肉目」に分類されており、この食肉目は、俗称「ネコ目」と呼ばれています。

エッ?イヌとネコは同じ仲間!?ということなのですが、「ネコ目」というのは、一般名称であって、「真獣類のうちで、肉を裂くためのハサミ状の頬歯である裂肉歯(れつにくし)を1対もつもの(およびその子孫)」のグループと定義されています。

真獣類とは、ヒトを含む哺乳類全般の生物のことです。また裂肉歯は、多くの肉食哺乳類において見られる肉や骨をはさみのように剪断する歯のことです。

哺乳類ということは、海の生物も含まれます。このネコ目には、海生のグループもあって、これはいわゆる鰭脚類(ききゃくるい)と呼ばれるものであり、アザラシやラッコ、アシカやオットセイといった類です。ただ、今日ではその食性もあって彼等の裂肉歯は失われています。

いずれにせよ、ネコ目に属するほとんどすべての動物が肉食であり、イヌとネコが同じ種類というのは本当です。ただし、哺乳類とか魚類とかいったかなり上位の大々分類において同じ、といっているだけであり、ご存知のとおり、ネコとイヌは全く性質の違うものです。

生物学的にみれば、ネコ目の下には、ネコ亜目、イヌ亜目がそれぞれあって、ネコ目の二代双璧をなしています。これに海生生物のグループの鰭脚類が加わりますが、海のものなので、より違って見えます。

しかしこれら三者の先祖は同じです。鰭脚類には足がないように見えますが、四肢が鰭(ひれ)状に変化しているだけです。従って彼等も海で生活する前は、イヌやネコのような四足がありました。

これら四足のネコ目の祖先は、ミアキスと呼ばれる種類の哺乳動物です。約6,500万前~4,800万年前に生息した小型捕食者で、ここから、イヌやネコの陸生のグループおよび、アシカなどの海生のグループが分化しました。

陸生のグループが、イヌとネコに別れたのは、だいたい4000年前位のようで、イヌの場合、3800万年前のヘスペロキオンを経て、約1500万年前には北米にトマークスが出現し、これが、10属35種あるイヌ科の直接の祖先であると考えられています。

この10属の中にオオカミなどの他のイヌ科動物が含まれており、これらとイヌ属、すなわち現在我々がペットとして飼っているイヌの先祖の分岐が始まったのは、だいたい700万年前であると見積もられているようです。

が、分岐した、といってもある日突然イヌとオオカミに別れた、というわけではなく、お互いその類似性を保ちながら、一方は野生に生きる生物として、またもう片方は人間に寄りそう動物として徐々に進化・変形し、現在に至った、ということです。なので、700万年という数字はあくまで生物学上の分類の目安にすぎません。

おそらくは獰猛なオオカミが人間の食べ物を狙って次第にその近くに生息域を移すようになっていったのち、人間のほうがこれを手なづけ、性格のやさしいものを選んで交配させる、といったことを繰り返し、長い間に現在のイヌようなパートナーとして相応しい種にしていったのでしょう。

2015-2439

イヌは最も古くに家畜化された動物ともいわれています。1万2千年ほど前の狩猟採集民の遺体が、イヌとともにイスラエルで発見されています。20世紀末ごろから急速に発達した、近年の分子系統学的研究では1万5000年ほど前にオオカミから完全分離したと推定されています。

この人間と暮らし始めた最も古い動物であるイヌは、その後ヒトの民族文化や表現の中に登場することが多くなっていきました。古代メソポタミアや古代ギリシアでは彫刻や壷に飼いイヌが描かれており、古代エジプトでは犬は死を司る存在とされ(アヌビス神)、飼い犬が死ぬと埋葬されていました。

メソポタミア文明は紀元3500年以上前の文明、古代エジプト文明も紀元3000年以上前の文明ですから、イヌがパートナーとして人間と苦楽をともにしてきた歴史は、5000~5600年、あるいはそれ以上ということになります。

一方のネコのほうも、ネコ目の陸生グループから4000万年前位に分化し、18属37種ができました。が、こちらはさら大型ネコと小型ネコに分かれ、大型ネコにはよく知られる猛獣のライオン、トラ、ヒョウ、ジャガー、チーターなどが含まれます。小型ネコにはオオヤマネコ、ピューマ、ボブキャットなどがいます。

生物の形から、その先祖を分析する「形態学的分析」を主とする伝統的な生物学的知見では、昔からその先祖は「リビアヤマネコ」ではないか、とされてきました。

この説に対しては色々な反論があったようですが、イヌの先祖がオオカミであることが確認されたのと同様、20世紀後半から急速に発展した分子系統学によって、現在ではネコもその先祖がこのリビアヤマネコである、とする従来説が正しいとされるようになりました。

人間にとってもっとも身近な種であるイエネコが人間に飼われ始めたのは、イヌよりもさらに古く、約10000年前からとされています。初めて人に飼われたネコから現在のイエネコに直接血統が連続しているかは不明確ですが、最古の飼育例は、キプロス島の約9,500年前の遺跡から見出されるそうです。

人との付き合いはイヌ以上に長いことになりますが、ただ、愛玩用家畜として扱われるようになった時期は、イヌよりも遅いようです。これは家畜化の経緯の相違によります。

イヌは狩猟採集民に猟犬や番犬として必要とされ、早くから人の社会に組み込まれましたが、ネコは、農耕の開始に伴い鼠害(ネズミの害)が深刻にならない限り有用性がありませんでした。

むしろ狩猟者としては競合相手ですらありました。その競合的捕食動物が人のパートナーとなり得たのは、穀物という「一定期間の保管を要する財産」を人類が保有するようになり、この食害を受けやすい財産の番人としてのネコの役割が登場したことによります。

また、伝染病を媒介する鼠を駆除することは、結果的に疫病の予防にもなりました。さらに、記録媒体として紙など食害されやすい材料が現れると、これを守ることも期待されました。

農耕が開始され集落が出現した時期の中東周辺で、山野でネズミやノウサギを追っていたネコがネズミが数多く集まる穀物の貯蔵場所に現れ、これを便利だからと、人が棲みつくのを許容したのが始まりと考えられています。

この最初に現れたネコこそが、リビアヤマネコです。その生息地とヒトの農耕文化圏が重なった地域で、こうしたことが頻繁に起こるようになり、リビアヤマネコをご先祖さまとするイエネコは増えていきました。

ネコにすれば住処と食べ物が両方手に入ったわけです。一方、人間にとっては、穀物には手を出さず、それを食害する害獣、害虫のみを捕食することから、双方の利益が一致。穀物を守るネコは益獣として大切にされるようになり、やがて家畜化に繋がっていきました。

2015-2445

これに対してイヌはネコのように生活の上でのパートナーとして出発したのではなく、紀元前当初は神様として、神聖なものとされていました。が、時代が下がると、ユダヤ教では犬の地位が下り、ブタとともに不浄の動物とされることもありました。

イスラム教でも邪悪な生き物とされるようになったため、現在においてもイスラム圏では牧羊犬以外にイヌが飼われることは少ないようです。

しかし、欧米諸国では人間にとってなくてはならない労働力であり、狩猟、番犬、犬ぞり、等として様々に利用されました。また、現在では一部の国(中国を含む)以外ではあり得ませんが、食糧が豊富でなかった時代には、祭りでの生贄やご馳走としても使われました。

欧米諸国では、古代から狩猟の盛んな文化圏のため、猟犬としての犬との共存に長い歴史があります。今日では特に英国と米国、ドイツなどに愛犬家が多いようです。現在でも世界中で多くの犬が家族同然に人々に飼われているのは、こうした欧米の強国の文化を引き継いだ国のほうが多いためです。

中世ヨーロッパの時代より、宗教的迷信により、魔女の手先(使い魔)として忌み嫌われ虐待・虐殺されたネコに対し、犬は邪悪なものから人々を守るとされ、総じて待遇は良かった、という歴史を持ちます。

また、ヨーロッパ人に「発見」される前のアメリカ大陸でも、犬は唯一とも言える家畜であり、非常に重要な存在でした。白人によって弾圧されたインディアン諸部族の中で、シャイアン族の徹底抗戦を選んだ者たちは、ドッグ・ソルジャー(犬の戦士団)という組織を作り、白人たちと戦いました。

さらに、アジアにおいても、古代中国などでは境界を守るための生贄など、呪術や儀式にも利用されていました。中央アジアの遊牧民の間では、家畜の見張りや誘導を行うのに欠かせない犬は、大切にされました。

日本でも古くから軍用犬として使われてきた歴史があります。江戸時代に将軍綱吉が出した、生類憐みの令以降は、とくに保護される傾向が強くなり、明治に入ってからは西洋の文物ももたらされ洋犬を飼う習慣が流行したために、柴犬などの和犬に加えて爆発的に種類が増えました。現在においては、5世帯に1世帯がイヌを飼っているといわれています。

ただ、イヌは愛玩動物として飼育されている数が多い分、近年では人間による虐待、虐殺により、命を落とすものや、捨て犬として不法に遺棄されるもの、あるいは飼い主やその家族の身勝手無責任な理由によって保健所に送られるものも少なくありません。

日本では、例年、実に数多くのイヌや、イヌだけでなく多数のネコたちもが、全国の保健所施設で殺処分されています。その数は、イヌだけで毎年9万頭近くにのぼるといい、子供のころには可愛かったのに、大人になるとうるさく鳴くから、といった理由で邪魔にする、というケースなどが後を絶ちません。

飼い主に最後まで責任を持って飼育させる、という教育や、動物愛護に関する啓蒙活動が足りないのではないか、と欧米からは指摘されているようです。

イギリスでは、「子供が生まれたら犬を飼いなさい。子供が赤ん坊の時、子供の良き守り手となるでしょう。子供が幼年期の時、子供の良き遊び相手となるでしょう。子供が少年期の時、子供の良き理解者となるでしょう。そして子供が青年になった時、自らの死をもって子供に命の尊さを教えるでしょう。」という諺があるそうです。

イヌを飼っているご家庭では、今宵の満月みながら、そのイヌの先祖である、オオカミに思いをはせるとともに、多くの愛情を与えてくれている、そのワンちゃんに感謝してみてはいかがでしょうか。

ただし、かわいいからといって、けっして月に向かって遠吠えをさせないように。ご近所迷惑ですから……

2015-3735

恐竜のいた日

2015-5318

9年前の2006年8月7日、兵庫県丹波市、山南町を流れる篠山川の河床において、白亜紀の恐竜のほぼ全身の化石が発見されました。

後に「丹波竜」と命名されるこの恐竜は、ティタノサウルス(Titanosaurus)類に属し、これは中生代白亜紀前期に生息していた「竜脚類恐竜」です。草食性で四足歩行の恐竜です。首と尾が長く、全長が1m程度のものから約40mの大型のものまでいました。しかし、体のわりには頭が小さいことが特徴です。

その名はギリシア神話の巨神、「ティーターン」に由来します。但し、竜脚類としては大型ではないそうです。

発見されたのは胴体後部の椎骨及び肋骨の部分骨格のみであり、詳しい形態は判明していません。近縁の属からの推定では、おそらくは体長12~19メートル程で四肢は短く、背中に皮骨からなる装甲を持っていたと推定されています。

のちに、兵庫県立「人と自然の博物館」は、この恐竜が新属新種と認められたと発表。学名はティタノサウルス類の「タンバティタニス・アミキティアエ」となりました。これは発見地の丹波と、ギリシア神話の巨人ティタニス、発見者2人の「友情」を意味するラテン語のアミキティアエを組み合わせたものです。

「丹波竜」の名もこの男性2人によってつけられました。当初、二人は他の例などを参考に地元の名を冠した「上滝竜(発見された字が上滝)」あるいは「山南竜」なども考えたそうです。が、丹波市民のみならず丹波地方全域まで含んだ多くの人々にも親しんでもらえるのではないかと思い直し、語呂のよさを考慮して最終的に「丹波竜」にしたといいます。

当初は個人での「丹波竜」の商標登録も考えたそうです。しかし、金儲けとの誤解を招いては不本意と考え、丹波市による申請として特許庁に、「丹波竜」の商標登録を出願したそうです。エライ!

丹波市は、1996年より人口が減少し、過疎化と高齢化が進む町であり、現在約72,000人の人口の65歳以上の高齢化率は2015年には3割を超える見通しです。この降って湧いたような恐竜発見のニュースは、この町に突然、恐竜ブームを巻き起こしましたが、この二人の勇断の結果、町おこしにもつながっていきました。

その後「恐竜ラーメン」「恐竜うどん」「化石巻(巻きずし)」「恐竜たまごっ茶」など恐竜にちなんだ商品が続々登場するようになり、周辺の土産物店や食堂のメニューなどにもその名が並びました。また、「丹波竜」の商標登録を済ませた丹波市は、「恐竜を活かしたまちづくり課」を発足。2007年5月1日からは「恐竜化石保護条例」を施行しました。

さらに、山南住民センター内 1階に、「丹波竜化石工房」を2007年12月に開設。これは、丹波竜のクリーニング作業を見学できる施設で、丹波竜の資料なども多数展示されています。第1次発掘調査で産出された化石のレプリカや、篠山層群より産出した恐竜化石を含む泥岩、生痕化石のほか、丹波竜の解説パネルなども展示されています。

恐竜といえば、福井県、というイメージが先行しますが、このように他の地方でも大発見がありさえすれば、町おこしにつながる、という好例として広く知られるようになりました。過疎化が進む地域で、こうした恐竜が出そうな地層があるところでは、そこをせっせせっせと掘ってみるというのも一つの手かもしれません。

それにしても、この恐竜というヤツですが、実物を見たことがあるわけでもないので、どうもピンとこず、なかなか想像もできません。大型の脊椎動物の一種である、ということぐらいしか知らず、それが大昔にこの地上を闊歩していた、といわれても、そんなオオトカゲが本当に動けるのか?と懐疑的になります。

ちょうど今週から「ジュラシック・ワールド」なる映画が封切りになっているようですが、こうしたCG・SFXを駆使した映像をみれば、より身近に感じられるかもしれません。が、いずれにせよ、本物をみないことには埒はあきません。映画のように残されたDNAが発見され、恐竜が再生される時代がくることを期待したいものです。

中生代三畳紀に現れ、中生代を通じて繁栄した、とされますが、中生代三畳紀っていったいいつよ、と調べてみると、だいたい2億年から2億500万年前のころのようです。サルを含む我々霊長類の進化の歴史は約8500万年前まで遡ることができるとされていることから、それよりさらにはるかに昔であり、これまた想像の域を超えています。

多様な形態と習性のものがおり、現在の陸上動物としては最大のゾウをはるかにしのぐ大型のものもありましたが、約6600万年前の白亜紀と新生代との境に多くが絶滅したとされます。絶滅の主要因に関する仮説には、大別して以下があります。

短時間で滅んだとする激変説(隕石衝突説・すい星遭遇説など)
長時間かかったとする漸減説(温度低下説・海退説・火山活動説など)

過去には、裸子植物から被子植物への植物相の変化により、草食恐竜の食物が無くなったという説のほか、伝染病説、原始的な哺乳類による恐竜の卵乱獲説など諸説がありましたが、これらは現在では否定されています。

というのも、これらの諸説では地球全体の恐竜すべてが絶滅した理由とするにはその影響度が限定すぎるからです。同様に長時間漸減説の海退説・火山活動説なども影響が及ぶ地域が限定され、温度低下説も地球全体を覆うほどの氷河期があったとは考えにくいとされます。

さらに短時間激変説における彗星衝突説では、主たる成分が氷である彗星衝突では地球に与えるインパクトが小さいと考えられ、恐竜絶滅を説明するには無理があります。

2015-5354

従って現在では、残る巨大隕石の衝突による絶滅が確実視されています。1980年、アメリカ・カリフォルニア大学の地質学者、ウォルター・アルバレスとその父で物理学者のルイス・アルバレスは、世界的に分布が見られる白亜紀と新生代との境にできたと推定される粘土層に含まれるイリジウムの濃度が他の地層の数十倍であることをつきとめました。

これは約6600万年前に恐竜が絶滅したとされる時期と一致し、その境界はその後、白亜紀と新生代の英語表記の頭文字を取って、通称「K-T境界層」と呼ばれるようになりました。

アルバレス親子は、イリジウムが地球の地殻にはほとんど存在しないことから、これが隕石の衝突によってもたらされたものであると考え、恐竜大量絶滅の原因を隕石の衝突に求めました。

この説が登場すると、その後こうした衝突跡を探す研究者が増えました。1990年代初頭にアリゾナ大学の大学院生であったアラン・ラッセル・ヒルデブランド(現・カルガリー大学准教授)がハイチの山地で、K-T層に含まれ惑星衝突時の巨大津波で運ばれたと推定できる岩石を発見します。

これらの岩石は特にカリブ沿岸に集中しており、ヒルデブランドと彼の教官のボイントンはこの調査研究成果を出版しました。が、彼等はカリブ海でその肝心のクレーターを発見することはできませんでした。

この話に興味を持ったアメリカのヒューストン・クロニクルの記者カルロス・ビヤーズはヒルデブランドに連絡をとり、以前、グレン・ペンフィールドという研究者がユカタン半島で発見したというクレーターこそが、このK-T層を形成したときに出来た小惑星の衝突跡ではないかと思う、と話しました。

ペンフィールドは、ユカタン半島付近にある、メキシコ国営石油で油田発見のための地磁気の調査を行う技術者でした。1978年のこと、彼はユカタン半島付近のある地点で、磁気データがひとつの点を中心として綺麗な弧を描いていることに気付きます。

そこで、さらにその地域の重力分布データを調べ、地図上に落としていったところ、チクシュルーブという村を中心として重力分布が同心円状に描けることがわかりました。そして熟考を重ねた結果、これは宇宙から飛来した隕石によるクレーター跡ではないかと結論づけました。

さっそくこのことを発表しましたが、しかしこのときはこの研究成果は、大きな関心事になることはありませんでした。ヒルブランドから連絡があったのは、それにもめげず彼が調査を続けようとしていた矢先であり、彼等2人は早速連絡を取り合って共同で研究を進めることに同意しました。

そして油田から採取されたボーリングサンプルを再調査したところ、クレーターの形成年代がK-T境界と一致すること、周囲の岩に含まれる成分が隕石衝突によってしか作られない天然ガラスであるテクタイトという物質と一致することが判明し、「K-T境界で落下した巨大隕石によるクレーター」であると確認しました。

こうして、1991年、巨大隕石による衝突クレーターと見なされる「ユカタン半島北部に存在する直径約170kmの円形の磁気異常と重力異常構造」という論文が彼等によって発表され、世界中がこの発表に驚きました。

確認されたクレーターは現在のメキシコユカタン半島の北西端チクシュルーブにあったため、「チチュルブ・クレーター」と命名されました。直径は当初170kmとされていましたが、その後の調査で約200kmに及ぶことがわかり、深さは15~25kmであると見積もられました。

このクレーターの直径についてはその後1995年に直径約300kmという説も発表されましたが、現地での地震探査の結果、現時点では「直径200km」が妥当とされています。また、隕石落下地点は当時石灰岩層を有する浅海域だったと推定され、隕石落下により高さ300mに達する巨大な津波が北アメリカ大陸の沿岸に押し寄せたと推定されました。

そして、それまでは、イリジウムの起源を隕石説とは反対に地球内部に求め、火山活動が恐竜の大量絶滅の原因であるとする「火山説」も複数の研究者により唱えられていましたが、このチチュルブ・クレーターの発見により、これを形成した隕石の衝突が恐竜の大量絶滅を引き起こしたとする説のほうが有力であるとされるようになりました。

2015-5372

この説では、地球規模の大火災で生態系が破壊され、衝突後に生じた塵埃が大気中に舞い、日光を遮断することで起きた急速な寒冷化が絶滅の原因であると主張されました。

宇宙から落下してくる隕石は、大気圏で表面温度が1万度近くまで熱せられます。高速の隕石は高度11000mより下の対流圏を1秒以下で通り過ぎるので、非常に大きな衝撃波を伴います。地上に衝突した直径10kmの隕石は地殻に数十kmもぐりこみながら運動エネルギーを解放して爆発します。

チクシュルーブ・クレーターを形成した小惑星の大きさは直径10~15km、衝突速度は約20km/s(時速72000km)、衝突エネルギーは、TNT換算3×109メガトンと計算されましたが、この量は冷戦時代にアメリカとソ連が持っていた核弾頭すべての爆発エネルギー104メガトンの1万倍以上に相当します。また、広島型原子爆弾の約10億倍とも言われます。

隕石爆発のエネルギーで衝突地点周辺の石灰岩を含む地殻が蒸発や飛散によって消失し、深さ40km、半径70~80kmのおわん型のクレーター(トランジェントクレーター)ができました。このときクレーター部分とその周辺の海水も同時に蒸発・飛散して無くなりました。

爆発の衝撃による爆風が北アメリカ大陸を襲い、マグニチュード11以上の大地震が起こりました。トランジェントクレーターの底には衝突の熱により溶解したものの、蒸発・飛散せずに残った岩石が溜まっており、やがて再凝結していきます。そして大きく開いたクレーター中心部は地下深部の高温の岩石が凸状に盛り上がってきて中央部が高くなります。

中心部の盛り上がりに対応して地下の岩盤の周辺部は低下し、地表ではトランジェントクレーターのおわん型の壁が崩落して外側に広がっていきます。これらの地殻変動によってトランジェントクレーター周辺の地殻は波うち同心円状の構造が形成され(トランジェントクレーターの形状は消えてしまう)、更に大きなクレーター構造となって残ります。

衝突時の半径が70~80kmだったのに対し、最終的にはこれが200kmにまで広がったのはこのためです。さらに、浅海に空いたこの巨大なクレーターに向かって海水が押し寄せるため、周辺海域では巨大な引き波が起こりました。

勢いよく押し寄せる海水はクレーターが一杯になっても止まらず、巨大な海水の盛り上がりを作った後、押し波となって逆に外側へ向かって流れ出し全世界へ広がりました。衝突地点に近い北アメリカ沿岸では300mの高さの津波となって押し寄せたと想定されます。

2015-5387

さらに地面に衝突して爆発した隕石は全量が飛散し、衝突地点の岩石も衝撃のエネルギーで蒸発・溶解・粉砕されました。トランジェントクレーターでは、隕石質量の約2倍に相当する岩石が蒸発(ガス化)し、隕石質量の約15倍の融解した岩石と、隕石質量の約300倍に達する粉砕された岩石が飛び散ります。

蒸発した岩石には石灰岩(CaCO3)や石膏(CaSO4)が含まれており、これが大気中で分解して大量の二酸化炭素(CO2)と二酸化硫黄(SO2)が発生したと考えられます。融解した岩石は空中で冷えて凝固し微細なガラス状のマイクロテクタイトになります。

衝突地点から吹き上がった高温の噴出物は、クレーター周辺に落下して森林に火事を起こさせ、大量の煤を発生させます。衝突地点から放出された大量の塵や大規模火災による煤は空中に舞い上がり、太陽光が地上へ到達するのを妨げました。

隕石衝突で大気中に巻き上げられた塵や煤は、比較的大きなサイズのものは対流圏(高度約11000mまで)まで上昇し数か月後には地上に落下しますが、1000分の1mm以下の小さなサイズのものはその上の成層圏や中間圏まで上昇し、そこに数年から10年間とどまりました。

これらは太陽光線に対して不透明であり、隕石落下の直後には地上に届く太陽光の量を通常の100万分の一以下に減少させます。この極端な暗闇は対流圏に大量に噴き上げられた煤や塵が地上に落下するまで数か月続きましたが、その期間気温が著しく低下し、光不足で植物は光合成ができなくなりました。

北アメリカのK-T境界に相当する地層のハスやスイレンの化石から、隕石は6月頃に落下したこと(ジューン・インパクト)、落下直後には植物が凍結したことが分かりました。また、K-T境界前後の地層の花粉分析の結果、その花粉中に、ユリの花粉が多量に発見されており、これからも衝突時期はやはりユリの花の咲く6月だったと推定されています。

なお、K-T境界直後の海洋においても植物プランクトンの光合成が一時停止したことが判明しています。

一方、大気中に放出された二酸化硫黄は空中で酸化し硫酸となって酸性雨として地表に落下したり、一部は硫酸エアロゾルとなって空中にとどまりました。さらに高温の隕石や飛散物質が空気中の窒素を酸化させて窒素酸化物を生成し酸性雨を更に悪化させたことも想定されています。

先に述べた煤や塵と同様に、硫酸エアロゾルも地表に届く太陽光線を減少させる物質であり、これらの微粒子の影響による寒冷化は約10年間続いたと推定されます。これらの隕石衝突による地上の暗黒化・寒冷化を「衝突の冬」と呼びます。

しかし、その後寒冷化の影響がなくなった後、蒸発した石灰岩から放出された大量の二酸化炭素によって温暖化が進み、これは数十万年続いたのでは、ともいわれています。

2015-5418

以上のように巨大隕石の衝突は衝突地点での破滅的な状況のみならず、数ヶ月から数ヶ年におよぶ地球全体における光合成の停止や低温、さらにその後10年も続いた環境の激変を生起させた結果、多くの生物種が滅びる原因となりました。

K-T境界以前の中生代は大型爬虫類の全盛時代でした。特に恐竜は三畳紀末から白亜紀の最後にかけて、主要な生物として地上に君臨しました。また、翼竜は三畳紀末に空中に進出し白亜紀前期終盤まで繁栄しました。彼等陸上を闊歩し、空を飛ぶ恐竜はこの隕石の衝突による環境変化による影響を最も強く受けたといえます。

一方の海中では三畳紀以来の魚竜はK-T境界事件の前には既に絶滅していましたが、首長竜や大型の海トカゲ(モササウルス類)などは白亜紀の最終段階まで生存していました。しかし、それもK-T境界を境にして消滅し、こうして海陸を問わず、これらの大型爬虫類の全てが絶滅しました。

生き残ったのは、爬虫類の系統では比較的小型のカメ、ヘビ、トカゲ及びワニなどに限られました。恐竜直系の子孫である鳥類も古鳥類がことごとく絶滅しましたが、現生鳥類につながる真鳥類が絶滅を免れています。海中ではアンモナイト類をはじめとする海生生物の約16%の科と47%の属が姿を消しました。

こうして地球上からほとんどの大型生物がいなくなった後、それらの生物が占めていたニッチは小型の哺乳類と鳥類によって置き換わり、現在の生態系が形成されました。植物については、海洋のプランクトンや植物類にも多数の絶滅種が出ました。たとえば、北アメリカの植物種の79%が絶滅しました。

一方では、K-T境界直後には、シダ類が異常に繁茂しました。シダ類は現在においても噴火による溶岩や火山灰によってすべての植物が消滅した荒地に最初に繁茂することが確認されています。このため、K-T境界後に広がった荒地をもこうしたシダ類が覆ったと想定されており、シダ類によるこうした顕著な植生変化は「シダスパイク」と呼ばれます。

シダは浅海でも生育が可能ですが、K-T境界後のプランクトンがいなくなった海中で堆積した複数の地層からも大量のシダの化石が見つかっています。

このことは広範囲にわたる地上の植生の荒廃と海洋の絶滅が同時に生起したことを意味すします。しかし、シダ類の優占した期間は短く、最終的にK-T境界以前のレベルの多様性まで回復したのは約150万年後でした。

ただ、我々の先祖である哺乳類は生き延びました。哺乳類が隕石衝突を生き延びた理由については、確かなことはわかっていないものの、以下のような要因がその小さな身体が大災害を生き延びる上で有利に働いたというのが多くの研究者たち共通の認識です。

哺乳類は身体が小さいので、地下の穴に隠れることができたこと
哺乳類の食べ物がそれほど特殊化していなかったこと
哺乳類の繁殖のサイクルは早いため、環境の変化に素早く適応できたこと
哺乳類は胎盤を進化させていたため、弱い存在である子供を生存させることができたこと

2015-5526

その哺乳類の一員である我々がこうした絶滅した恐竜のことを知るようになったのは、人類の歴史からみてもごくごく最近のことといえるでしょう。学術的な記録としては1677年、イギリス、オックスフォード大学のアシュモリアン博物館における、ロバート・プロット(Robert Plot)という学者による大腿骨の膝関節部分の記載が最初といわれています。

これはオックスフォード州中期ジュラ紀の地層より発掘されたもので、メガロサウルスという体長7~10mの恐竜のものと推測されます。「推測される」というのは、プロットは詳細なスケッチを残してはいるものの、標本は現存していないためです。

ただ、この時代にはまだ恐竜としては認識されておらず、プロット自身も自分が発見した化石をゾウのような大型の動物の骨と考えていたようです。

さらに時代が進み、1815年頃にはイギリスのウィリアム・バックランドという別の学者が新たな化石を入手しました。バックランドもまた、この化石がどのような動物に属するのか判断できませんでしたが、1818年にはフランスの博物学者・ジョルジュ・キュヴィエがバックランドの元を訪れ、この化石が大型の爬虫類のものであると指摘しました。

これに基づきバックランドは研究を進め、1824年には科学雑誌上で論文を発表し、断片的な下顎、いくつかの脊椎骨や腸骨、後肢の一部の化石を記載。これを「メガロサウルス」と命名しました。

1822年にはロンドン地質協会でギデオン・マンテルが、「植物食性と思われる動物の歯の化石」について発表を行いました。この化石については、同協会に所属していたバックランドや比較解剖学の大家であるジョルジュ・キュヴィエらは、メガロサウルスより小型のサイの歯かあるいは魚のものだろう、と評価しました。

しかし後年の精査により、彼らもこれが大型の爬虫類のものであると認め、1825年、マンテルはこの歯の持ち主の恐竜を「イグアノドン」と命名しました。そして1842年には、イギリスの生物学者でキュヴィエの後継者と目されていた、リチャード・オーウェンにより、はじめて”Dinosauria”(恐竜)の名称が用いられました。

オーウェンは、メガロサウルス、イグアノドン、ヒラエオサウルスを内包する、地上を闊歩するグループとしてこの恐竜の名を命名したのでしたが、その後1861年には、ドイツのゾルンホーフェンという場所で、Archaeopteryx(始祖鳥)の化石が初めて発見されました。

始祖鳥は、それまで鳥に特有とされていた羽毛を持ちながら、発達した歯や手指、長い尾を持つなど、爬虫類のような特徴を多く保持しており、このことから、1868年には、イギリスの生物学者、トマス・ハクスリーが、鳥の祖先は恐竜である、と指摘しました。

この主張は論争を呼び、その後も長く論議が続きましたが、1926年になって、デンマーク人の画家、ゲルハルト・ハイルマンにより、鳥はより恐竜ではなく、より祖先的な「主竜類」より分岐したとの主張が出されました。

ハイルマンは学者ではありませんでしたが、動物、とりわけ鳥類の細密な描写で定評があり、その描写力はかつて医学生だったときに学んだ解剖学的な見地から得られたものでした。この説は一時、よく受け入れられましたが、1969年にアメリカの古生物学者・ジョン・オストロムの主張によって再び鳥の先祖は恐竜だとする意見が増えてきました。

オストロムは、小型の獣脚類である「デイノニクス」を研究した結果、それまでの「大型でのろまな変温動物」という恐竜のイメージを、恒温性で活動的な動物へと大きく覆し、この結果、小型動物である鳥もまたその先祖は恐竜であるとの理論を展開しました。

その後、アメリカの古脊椎動物学者かつ系統学者である、ジャック・ゴーティエによる分岐学的手法の発達や、新たな祖先的鳥類やマニラプトラ類(恐竜に極めて近いとされる翼竜)をはじめとする化石の発見が相次ぎ、現時点では鳥の先祖は恐竜である、という説が大勢を占めています。

ただし、鳥類の前肢は翼ですが、恐竜から鳥の系統に近づくにつれ、五本指のうち第4・5指が退縮する、つまり第1・2・3指が残る傾向があるのに対し、現在の鳥の指は位置関係上、第2・3・4指であることが発生学的に観察されており、本当に鳥の先祖は恐竜なのか、という論争は今も続いています。

2015-5363

なお、オストロムとその弟子ロバート・バッカーらによる、小型の恐竜は変温動物であったとする一連の研究は、ひとつの「パラダイムシフト」と目され、これらの研究成果の発表はのちに「恐竜ルネッサンス」とも呼ばれるようになりました。そしてこれ以降の1970年代には、恐竜の行動や生態、進化や系統に関する多種多様な研究が増えていきました。

2000年〜2003年、アメリカ・モンタナ州の約6800万年前の地層で見つかった恐竜化石から、ティラノサウルス・レックスの化石化していない軟組織が世界で初めて発見されました。

ほかにもカモノハシ竜のミイラ化石とされる「ダコタ(2000年に米・ノースダコタ州で発見)」など、軟組織が含まれているのではないかと考えられる化石が複数発見されるようになりました。

また、かつて恐竜はワニのような皮膚をもっていたという説も開陳されるようになり、実際に鱗が保存された化石も発見されています。近年ではとくに鳥類と恐竜との類縁関係が注目されるようになってきており、羽毛をもった化石も発見されたことから、ある種の鳥類のような色鮮やかな羽毛をもつ恐竜もいた可能性も取沙汰されています。

ただし、図鑑等で見られる恐竜の皮膚や羽毛の色模様等は全て現生爬虫類または鳥類から想像されたもので、実際の皮膚がどんな色だったかは、ほとんど不明です。皮膚自体が残った、ミイラ状態の化石も発掘されていますが、質感はともかく色や模様は化石として残らないからです。

また、これまで別属と考えられていた恐竜が、成長段階や雌雄の差なのではないかとする別の観点からの研究も相次いでおり、1970年代以降に起きた「恐竜ルネッサンス」は、現在もまだ継続しているようです。

しかし、恐竜が隕石の衝突によって絶滅したということはほぼ確実視されています。この事実を知ったアメリカの天文学者カール・セーガンは、「隕石衝突の爆発によって舞い上がった塵が地表の暗黒化と寒冷化を起こすのであれば、核戦争による核爆発でも同様のことが起こるのではないか」と言う点に着目して研究を開始しました。

いわゆる「核の冬理論」です。この理論は世界的な反響を呼び、国際学術連合環境科学委員会の主導で1985年から2年間、30カ国300人の科学者を動員して検討が行われました。

その検討結果では、冷戦下でアメリカやソ連が保有していた核弾頭全部(TNT換算104メガトン相当)が爆発した場合、爆発で舞い上がった塵や大規模火災で生成された煤の影響で地上に到達する太陽光の著しい減少と厳しい寒冷化が起こるとされました。

地上に届く太陽光は爆発の20日後で正常時の20%以下、60日経っても正常時の60%。
北半球中緯度地方の夏至の気温は平均で10-20℃低下。局所的には35℃ほど低下して、オゾン層は壊滅的に破壊されます。

現在、世界の核兵器は、実際に配備されているもののほか予備などを含む「軍用保有核」が約1万100発、退役して解体待ちのものを入れると、総数約1万6400発という推定であり、これだけの核兵器があれば、地球は何度でも死ぬことができます。

宇宙からの脅威はなくても、自らの過ちにより恐竜に続いて人類が絶滅する可能性は無限大ともいえ、そうした恐ろしい現実が訪れる日がくるようなことは、是が非でも避けたいところです。

昨日の広島の原爆の日に続き、明後日、9日には長崎原爆の日が訪れます。これら2都市と多くの命を核によって失い、唯一の被爆国となった日本に住む我々は、先頭に立って世界に核兵器廃絶を訴え続けていくべきでしょう。

原発再起動も絶対に反対です。これを推進する政権が一日も早く退陣することを祈ります。

2015-5379