妖しい光の候

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7月になり、伊豆では、あちこちに出ていたホタルもほとんど見られなくなりました。

しかし、東北地方などではまだまだこれからが見ごろ、というところも多いようで、7月下旬までは楽しめるようです。長野県では、志賀高原など高地では10月から11月になっても見られるといいます。

この本州以南の各地でみられるホタルですが、一般には「ゲンジボタル」を指すことが多いようです。

オスは川の上空を飛び回りながら、メスは川辺の草の上などに止まって発光します。発光のパターンは西日本と東日本で違い、西日本のほうが発光のテンポが速いそうです。西日本の蛍は「2秒に1回」、 東日本の蛍は「4秒に1回」発光します。

このテンポの違いは、本州中央部、中部地方から関東地方にかけての地域を縦断するフォッサマグナが境となっているそうです。が、現段階では、このような発光周期の差がなぜ生じたかはっきりしていないといいます。東と西を分けるこの大地溝帯が、生物の生育にどんな影響を与えているというのでしょうか。

「ゲンジ」は言うまでもなく「源氏」から来ています。とくに、平家打倒の夢破れ、無念の最期を遂げた「源頼政」の思いが夜空に高く飛び舞う蛍にたとえられたといいます。

頼政は、平清盛から信頼され、晩年には武士としては破格の従三位に昇り、公卿に列しました。しかし、平家の専横に不満が高まる中で、後白河天皇の皇子である以仁王と結んで挙兵を計画し、諸国の源氏に平家打倒を呼びかけました。。

ところが、その計画が露見し、準備不足のまま挙兵を余儀なくされます。そして、そのまま平家の追討を受け、宇治平等院の戦いに敗れ自害しました。

以後、敗れた源頼政が亡霊になり蛍となって平家と戦うという話が広まり、「源氏蛍」として生まれ変わったとして全国に喧伝され、全てのホタルの代表であるかのように言われるようになりました。

が、実際にはホタルには遥かに多様な種があります。国内では約40種が知られており、熱帯に区分される南西諸島により多くの種がありますが、本土が主な分布域です。

この中に、ヘイケボタルというのもいます。こちらはとくに由来となった武将などがいるわけではありません。その命名は、ゲンジボタルより小型であるため弱い印象があるためでしょうか。源氏に駆逐され、滅亡した平家になぞらえたものと思われます。

とはいえ、生物的には、かなり逞しい存在です。環境の悪化に弱いゲンジボタルに比べ、汚れた水域にも生息することができます。時には干上がる水田のような環境でも生息できるのは、鰓呼吸だけではなく空気呼吸を併用しているからです。成虫の出現期間は長く、5月から6月には終わってしまうゲンジボタルに比べて9月頃まで発光が見られます。生存期間が長いということは、それだけ強い生物だということです。

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ゲンジボタルにせよ、ヘイケボタルにせよ、これら発光するホタルの成虫は、ほぼ全種が腹部の後方の一定の体節に発光器を持ちます。ホタルの発光物質はルシフェリンと呼ばれ、ルシフェラーゼという酵素とアデノシン三リン酸(ATP)がはたらくことで発光します。

ルシフェラーゼとはホタルなどの生物発光において、発光物質が光を放つ化学反応を触媒する作用を持つ酵素です。発光酵素 とも呼ばれます。一方、ATPは、生物の体の中でエネルギーの放出・貯蔵などの重要な役目を果たしている物質です。

ホタルの発光はこの二つの物質の化学反応によるもので、ルシフェリン – ルシフェラーゼ反応と呼ばれます。化学的エネルギーを光エネルギーに変換する化学反応の過程で、光が発生するもので、生物発光は英語ではバイオルミネセンス(Bioluminescence)と言います。

ホタルに限らず、こうした生物の発光は電気などによる光源と比較すると効率が非常に高く、熱をほとんど出しません。このため「冷光」、“冷たい発光”とも言われます。

省エネで知られる、LED 照明は消費電力効率が飛躍的に向上し、70% 以上もあり、このため省エネルギーのみならず、発熱も抑えられています。明るくても比較的熱くない、熱効率の良い照明器具としてもてはやされていますが、それでも生物発光より多くの熱を出します。

これに対してホタルの光は、放射する光の20%以下しか熱放射を起こしません。エネルギー変換効率が非常に高いため、発する熱は極めて小さく、それでいて光への変換も可能としていることは注目に値します。どんなに光っても、ホタルが熱くならないのは、この高効率な生体機能のためです。

明るさの点では、電気を利用するLEDランプなどに比べれば遥かに劣りますが、暗黒条件下でのこうした発光は、微弱な光であっても、生きるための手段としては必要十分な明るさをもたらします。

ホタルが発光する能力を獲得したのは「敵をおどかすため」という説や「食べるとまずいことを警告する警戒色である」という説があります。幼虫は、親以上に捕食者に食べられやすいため、卵の段階からもう既に発光が始まります。

一方、成虫の発光は、おもに交尾の相手を探すための交信に発光を用いられており、明らかに種族保存のための行為です。光を放つリズムやその際の飛び方などに種ごとの特徴があるのは、雌に気に入られるために、発光方法そのものに工夫が凝らされてきた結果といわれています。

ホタルだけでなく、こうした生物発光を行う生物が光るのは、夜に限られることが多く、このことから、こうした生物は「概日リズム(circadian rhythm)」を持っている、とされます。約24時間周期で変動する生理現象で、動物、植物、菌類、藻類などほとんどの生物に存在しており、一般的に体内時計とも言います。

もっとも体内時計といっても、メカニカルな時計とは異なり、生物の体内で形成されるものですから、正確とはいえず、光や温度、食事など外界からの刺激によって微妙に修正されるのが常です。光や温度は天候に左右され、かなり誤差が出ますから、このあたり、人間の「腹時計」のほうがむしろ正確かもしれません。

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このように自らの体を光らせる能力を持っているのは、無論、ホタルだけではありません。ホタルはその成虫が交尾のために光るのに対し、ホタル以外の生物の発光は、餌を呼び寄せるために使われることが多いようです。チョウチンアンコウなどの深海魚は、獲物を誘うルアーとしてこれを使います。魚の頭部に背鰭から変形し、釣竿よろしく伸びた突起の先が発光し、これを揺らすことで、小魚や甲殻類を攻撃範囲内に引きつけます。

また、水深1,000mより深い海に生息する深海魚、ダルマザメは、体全体が発光しますが、下腹部の一部のみを暗いままに残してあり、大型の捕食魚に対し、小さな魚の影に見せかけているといいます。それらが「小さな魚」を捕食しようと近寄ってきたとき、ダルマザメに体の一部分を食べられるといいます。

自身の影で大型の獲物をおびき寄せる、珍しいタイプの海洋生物で、自分の体長に匹敵する15~30cmのイカを丸ごと食べることもあり、さらに自分よりはるかに大きなイルカやイルカの一種であるゴンドウなどすら襲うといいます。

プランクトンのなかには、鞭毛を光らせるものもあります。鞭毛とは、毛状の細胞小器官で、本来は、遊泳に必要な推進力を生み出す事が主な役目です。「渦鞭毛藻類」という単細胞藻類は、2本あるこの鞭毛を発光させます。水流により捕食者(多くは自分より大きなプランクトン)を感知したとき発光します。

これにより、自分より数十倍も大きい捕食者を引きつけ、天敵である捕食者どうしが共食いするように仕向け、その間に自分は逃げおおせる、というわけです。

同様にある種のイカでは、発光する化学物質や、発光バクテリアを含む液を、普通のイカの墨のように吐き出すことで、敵を撃退します。発光する煙幕によって、捕食者を混乱させ。その混乱に乗じて安全に逃げおおせます。

このほか海中では、ミジンコによく似た「貝虫」などが発光生物として知られています。長距離の伝達にはフェロモンを使用しますが、短距離においては発光によってお相手を惹きつけているといわれています。

生物発光を、人間と同じように照明に使うものもいます。海棲生物のほとんどの発光色は青か緑ですが、深海魚の「ワニトカゲギス」などは、赤い光を放ちます。赤色光は海水中で速やかに吸収され深海にはまったく届かないため、ほとんどの深海生物の眼は赤色を認識する能力をもちません。

これに対してワニトカゲギスは赤色光を放出するとともに、自身で赤い光を認識することもできます。このため、獲物や他の捕食者に気づかれることなく周囲を探索することが可能になります。

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このように生物発光はそれを用いる生物それぞれの事情で用いられ、その多くは科学的にメカニズムが証明されています。

同様に、その昔は妖怪や物の怪の仕業ではないか、といわれていたものが、近年になって、ほぼ原因が特定され、科学的にほぼ証明された自然現象である、といわれるようになったものもあります。

そのひとつに、「不知火」があります。

九州に伝わる「怪火」の一種で、夏の日の風の弱い新月の夜などに見られると言い、代表的な発生場所は八代海や有明海などの九州沿岸です。海岸から数キロメートルの沖に、始めは一つか二つ、「親火(おやび)」と呼ばれる火が出現し、それが左右に分かれて数が増えていき、最終的には数百から数千もの火が横並びに並ぶといいます。

その距離は4〜8キロメートルにも及ぶこともあり、また引潮が最大となる午前3時から前後2時間ほどが最も不知火の見える時間帯とされます。

水面近くからは見えず、海面から10メートルほどの高さの場所から確認しやすいといい、また不知火に決して近づくことはできず、近づくと火が遠ざかって行くとされます。こうしたことから、かつては龍神の灯火といわれ、付近の漁村では不知火の見える日に漁に出ることを禁じていました。

古くは、「日本書紀」「肥前国風土記」「肥後国風土記」などに、景行天皇が九州南部の先住民を征伐するために熊本を訪れた際、不知火を目印にして船を進めたという記述があります。

江戸時代までは妖怪の仕業ではないかと言われていましたが、大正時代に入ると、不知火を科学的に解明しようという動きが始まり、その結果、蜃気楼の一種でないか、といわれるようになりました。

昭和時代に入ってからの研究では、不知火の時期には一年の内で海水の温度が最も上昇すること、干潮で水位が6メートルも下降して干潟が出来ることや急激な放射冷却、といった条件が重なり、これに干潟の魚を獲りに出港した船の灯りが屈折して生じる、と詳しく解説されました。こうした現象はとくに八代海のような遠浅の地形でしか起こらないことなども確認されました。

戦争中の1943年、広島高等工業学校、通称「広島高工」の教授、宮西道可は、「不知火の研究」という論文を発表しています。

これによれば、不知火の光源は漁火であり、旧暦八朔(旧暦の8月1日、 新暦では8月25~9月23頃)の未明に広大なる干潟が現れ、冷風と干潟の温風が渦巻きを作り、異常屈折現象を起こし、そのため漁火は燃える火のようになり、それが明滅離合して漁火が目の錯覚も手伝い、怪火に見える、としました。

また、戦後になって熊本大学教育学部の山下太利は、「不知火は気温の異なる大小の空気塊の複雑な分布の中を通り抜けてくる光が、屈折を繰り返し生ずる光学的現象である、と発表しました。そして、「その光源は民家等の灯りや漁火などであり、条件が揃えば、他の場所・他の日でも同様な現象が起こりうる。逃げ水、蜃気楼、かげろうも同種の現象である。」と論じました。

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このように近代になって蜃気楼の一種と認識されるようになった不知火ですが、無論、幻ではなく、現在でも見ることができるようです。干満の差がある海岸で起こる現象とされ、これまで目撃情報の多かった八代海やこれよりも北にある有明海以外でも類似の現象を見ることができるといいます。

旧暦8月1日前後(新暦では8月下旬)の風の弱い新月の夜に発生しやすいとされます。とはいえ必ず見ることができる現象ではなく、見ることができたら運が良い、といった頻度のようです。現在では干潟が埋め立てられたうえ、電灯の灯りで夜の闇が照らされるようになり、さらに海水が汚染されたことなどで、見ることが難しくなったようです。

熊本県宇城の不知火町では、旧暦の8月1日(昨年は9月12日)に「海の火まつり」毎年のように開催されています。地元・竜燈太鼓の演奏、松明行列、総おどり、海上花火大会とともに「不知火」観望会なども開催されますから、運がよければ花火と不知火の両方を楽しむことができるかもしれません。

一方、日本ではこの不知火以外に、やはり何等かの物理化学現象ではないか、といわれているものの、いまだに原因が特定されていないものもあります、

そのひとつが狐火(きつねび)です。

沖縄県以外の日本全域に伝わる怪火で、ヒトボス、火点し(ひともし)、燐火(りんか)とも呼ばれます。

火の気のないところに、提灯または松明のような怪火が一列になって現れ、ついたり消えたり、一度消えた火が別の場所に現れたりするもので、正体を突き止めに行っても必ず途中で消えてしまうといいます。現れる時期は春から秋にかけてで、特に蒸し暑い夏、どんよりとして天気の変わり目に現れやすいようです。

十個から数百個も行列をなして現れ、その数も次第に増えたかと思えば突然消え、また数が増えたりもするともいい、長野県では提灯のような火が一度にたくさん並んで点滅するのが目撃されたこともあるそうです。

火のなす行列の長さは一里(約4キロメートル)あるいは約500~600メートル)にもわたるといい、火の色は赤またはオレンジ色が多いとも、青みを帯びた火だともいいます。

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東京北区 王子の王子稲荷は、稲荷神の頭領として知られると同時に狐火の名所とされます。かつて王子周辺が一面の田園地帯であった頃、路傍に一本の大きなエノキの木がありました。毎年大晦日の夜になると関八州(関東全域)のキツネたちがこの木の下に集まり、正装を整えると、官位を求めて王子稲荷へ参殿したといいます。

その際に見られる狐火の行列は壮観で、近在の農民はその数を数えて翌年の豊凶を占ったと伝えられています。このことから榎の木は「装束榎」(しょうぞくえのき)と呼ばれ、よく知られるところとなり、歌川広重の「名所江戸百景」の題材にもなりました。

この木は明治時代に枯死しましたが、「装束稲荷神社」と呼ばれる小さな社が、旧王子二丁目電停(現在の「ほりぶん」前の交差点)の近傍に残っており、一帯は以前には榎町と呼ばれてもいました。地元では地域おこしの一環として、1993年より毎年大晦日の晩に、「王子狐の行列」と呼ばれるイベントを催しています

正岡子規は「狐火のちろつく晩や野辺送(のべおくり)」とうたっており、野辺送りは野焼きのことで、冬の季語です。これにより、この王子狐の行列の時期は冬とされることが推定されるわけですが、他の狐火は一般的には夏の暑い時期や秋に出没する例が多いようです。

その原因ですが、古くは元禄時代の本草書「本朝食鑑」に、キツネが地中の朽ちた木を取って火を作るという記述があります。また同書には、キツネが人間の頭蓋骨やウマの骨で光を作るという記述もあり、読本作者・高井蘭山による明和時代の「訓蒙天地弁」、江戸後期の随筆家・三好想山による「想山著聞奇集」にも同じく、キツネがウマの骨を咥えて火を灯すとの記述があります。

さらに長野県の奇談集「信州百物語」によれば、ある者が狐火に近づくと、人骨を咥えているキツネがおり、キツネが去った後には人骨が青く光っていたとあります。

これらの歴史的記述をもととに、哲学館(現:東洋大学)を設立した井上円了は、1916年(大正5年)、骨の中に含まれるリンの発光を狐火と結び付ける説を提唱しました。

土中に埋まった動物の骨や死骸は、バクテリアによって分解され、土壌の有機成分となる際にリン化合物を発生させることが知られています。リンは発火点が60度とかなり低温であり、空気中で室温でも徐々に酸化されて自然発火し、熱および青白い光を発します。

このため、土の中に大量の骨があれば、確かに狐火に見えるかもしれません。しかし伝承上の狐火はキロメートル単位の距離を経ても見えるといわれており、それほど多くの骨が広範囲に散らばっているとは考えにくく、またリンの弱々しい光が、はたして「火」のように見えるかはなはだ疑問です。

井上円了は、哲学者として著名な人物でしたが、迷信を打破する立場から妖怪を研究し、近代的な妖怪研究の創始者としても知られています。当時の科学では解明できない妖怪を「真怪」、自然現象によって実際に発生する妖怪を「仮怪」、誤認や恐怖感など心理的要因によって生まれてくる妖怪を「誤怪」、人が人為的に引き起こした妖怪を「偽怪」と分類しました。

晩年には、妖怪研究は人類の科学の発展に寄与するものという考えを持つに至り、数々の研究成果から、「お化け博士」「妖怪博士」などと呼ばれました。しかし、上のとおり、リンの光を狐火の原因とするなど少々こじつけがましい研究成果も多かったようで、発表した研究の中には科学的な根拠に乏しいものもあったようです。

このほか、1931年(昭和6年)には、生物学者の神田左京が、狐火の正体は、朽木に付着している菌糸、キノコの根が光を発しているのではないか、という内容の論文を発表しています。たしかに、日本には、関東以西の太平洋側地域に「ヤコウタケ」という光るキノコがあり、ほかにも「ツキヨタケ」といった発光キノコがあります。

しかし、こちらもかなり大量になければ狐火には見えないはずであり、また、林間にうっそうとした繁みの中で発光したものが、遠くから見えるはずはなく、こちらも説としてはかなり厳しいものがあります。

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ちなみに、この神田左京という人は、1874年(明治7年)に長崎県で生まれています。東京で英語教師をしていましたが33歳で渡米、生物学を勉強し博士号を取得して41歳で帰国。ここまで輝かしい経歴ですが、以後は「権威が嫌い」という理由で定職にも就かずホタルの研究に没頭したことで知られています。「わたしはホタルと心中する」と妻帯もしませんでしたが、業績は海外にまでとどろき、英国学会からは「ぜひ会員に」、皇室からさえ「進講を」と誘われるほどでした。

彼を理解する少数の篤志家による援助のみで暮らしを立て、赤貧洗うがごとき生活でしたが、ホタル研究に邁進した結果、「源氏ボタルの発光間隔は日本の東と西では違っている」ことを発見する、という業績をあげました。1935年(昭和10年)に自費出版した「ホタル」を出しますが、その後まもなくの1939年、65歳で没しています。

まさに「ホタルと心中」したかのような人生ですが、あちらの世では光輝いているでしょうか。

人間がともした火を狐火と見間違ったとする説もあります。先日、このブログでも紹介した「虫送り」という行事は、戦前まではさかんに行われており、これは、稲を病虫害から守るために、田植えが終わった季節に松明をともして田んぼの畦道を歩きまわる というものでした。

稲作地方の風物詩であり、遠くの町から見れば狐の嫁入りそっくりに映ったはずであり、こうしたことから、1977年には、日本民俗学会会員で「怪火研究家」の角田義氏が、狐火の正体は虫送りなど人の手による灯火の行列が、光の異常屈折によって現れる現象だと説明しました。山間部から平野部にかけての扇状地などでは、光の異常屈折が起こりやすく、虫送りの松明の火が狐火に見えたのだ、という説はなるほど納得がいくものではあります。

戦後の近年では虫送りの行事はかなり減っており、と同時に狐火もあまり見られなくなっているようなので、時期的にもあっているような気がします。

しかし、ほかにも天然の石油の発火ではないか、とする説もあり、結論が出たわけではあありません。球電現象などをその正体とする説もあって、現在なお正体不明の部分が多いようです。

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この球電(ball lightning)現象ですが、空中を発光体が浮遊する自然現象、あるいはその発光体とされるものです。目撃例の多くは、赤から黄色の暖色系の光を放つものが多いとされていますが、白色や青色、色の変化するものなどもあるとのことです。また、中には灰色や黒色の光が吸収されていると思われ、金属光沢のような色や、黒色のものもあります。

2014年の7月30日、中国南部の湖南省の養豚場で「球電」の爆発が発生、女性が負傷し170匹以上の豚が死ぬという事故がおこりました。怪我をした農夫の妻は、「それは大きな火の玉のように見え、突然爆発し、二股に分かれていった」と証言しています。10分ほど目が眩んで何も見えなくなったといい、彼女の左目は黒くなり足は出血していたそうです。

この養豚場の事件に先立つ2年前の2012年7月にも、中国中北部、海抜 1,600mにある蘭州で球電現象が目撃されています。西北師範大学の研究者は、この青海高原という場所で、分光器を設置して雷を観測していたところ、偶然にもカメラで球電現象を撮影することに成功しています。

一般的には、雷放電が激しく起きているとき発生することが多いといわれ、多くの場合には豪雨の際に現れます。大きさは10~30cmくらいのものが多く、中には1mを超えるものも存在します。数秒から数分間地表付近を動きまわって消失するといいますが、移動中の金属体を追いかける、送電線などの細い金属を蒸発させる、などの現象も確認されているといいます。

一説によれば、一つの球電が爆発した際に放出されるエネルギーは10キロ分のダイナマイトに相当し、焦げ跡や硫黄臭・オゾン臭を残すことが多いといいます。

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すさまじいエネルギーであり、この球電によって、死亡事故も起きています。

1753年7月、ロシアに在住していたドイツ人物理学者のゲオルグ・ウィルヘルム・リッヒマンはサンクトペテルブルグで針がねを用いた電気の誘導実験を行っている最中、突如発生した球電と接触し、感電死したと言われています。

彼は、自分の業績を後世に伝えるため銅像を作ろうと、たまたま彫刻師を自宅に招いていました。その直前に、あるシンポジウムに参加していた折には、外で雷鳴が轟いていたといいますが、それを退出して、自宅に彫刻家を招き、実験を行っていたようです。そのとき、突然球電が現れ、彼の額を貫きました。靴はズタズタとなり、服の部分は焦げていたといい、球電が貫通した彼の額には赤い点が残っていたといいます。

同席した彫刻家によれば、「小さな砲弾が炸裂したようだった」といい、入ってきた球電の威力は部屋のドア・フレームを叩き破り、ヒンジごと吹き飛ばすほどだったといいます。

リッヒマンはは、ロシア帝国サンクトペテルブルク科学アカデミーの会員であり、電気学、大気電気学、熱量測定などの先駆的な研究に取り組んだことで知られています。電気の専門家であった彼が、よりによって電気実験の最中に球電現象で死ぬことになるとは皮肉なことです。

1987年には、日本でも目撃されており、しかも撮影された写真が残っています。長野県黒姫で日本の学生が偶然屋外で撮影したとされる写真で、球電を収めた数少ない貴重な写真として世界的に知られています。

このほか、2004年の夏頃、福岡県久留米市上空で青系列の球電が目撃されており、当時同地で雷雨による大規模停電が発生していたといいます。

球電は非常にまれな現象で、正体については諸説ありますが、どうやら雷に伴うことが多いらしいとうこと以外発生条件がつかめていません。

自然発生したプラズマのかたまりという説が有力ですが、科学者たちの多くは、「球電」と呼ばれている目撃例のすべてが同じ原理で説明できる現象ではなく、同じような見え方をするさまざまな現象が「球電」という言葉でひとくくりにされている、と考えているようです。従って、前述の狐火もまた、球電現象のひとつなのかもしれません。

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さて、長くなってきたのでそろそろやめようと思いますが、最後に、科学的にはまったく証明されていないものの、実際に起こったとされる不思議な現象をひとつだけ。

青森県の下北半島の突端に、尻屋埼灯台という灯台があります。「日本の灯台の父」と称されるイギリスの土木技師、リチャード・ヘンリー・ブラントンによって設計され、1876年(明治9年)に完成した白亜の灯台で、二重のレンガ壁による複層構造の美しい灯台です。

現在も運用されており、日本の灯台50選に選ばれています。周辺には寒立馬(かんだちめ)と呼ばれる馬が放牧されており、一帯は美しい景勝地となっています。

この灯台、第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)に米軍からの射撃を受け、このとき、村尾常人という標識技手が殉職しました(享年42歳)。灯台は8月10日までの間に計14回も襲撃されましたが、ブラントンによって設計された堅牢な躯体は残りました。しかし、運用不能になり、この日から灯台の灯りは消えました。

ところが、翌1946年(昭和21年)、攻撃を受け破壊しつくされたはずの灯台が突如として光を放つようになり、その目撃が相次ぎました。

5月に灯台職員らが目撃したのが最初で、航行する漁船からも幾度か目撃情報が寄せられたため、当時の台長代理がこれを「灯台の怪火について」という異例の公文書にして横浜の灯台局に報告する騒ぎになりました。

同年8月に霧信号舎(霧や吹雪などで視界が悪いときに船舶に対し音で信号所の概位・方向を知らせる)の屋上に仮の灯りを点灯すると同時にこの現象は消えたといい、以来、人々は米軍の攻撃時に殉職した村尾標識技手の霊がおこした仕業なのではないかと噂しました。

その後修復され、銃撃の跡が今でも残る33メートルの塔は、いまも完成当時の優美な姿を保っていますが、今はもう、ここに村尾標識技手の幽霊が出る、という噂はないようです。

比叡山、高野山と並ぶ日本3大霊場のひとつ、イタコの口寄せで知られる恐山(おそれざん)はここからすぐのところにあります。死者あるいは祖霊と生きている者との交感の際の仲介者として良く知られるイタコですが、ここで呼び寄せをしたら、あるいは村尾技師に会えるかもしれません。

自分が勤務した灯台において、死後も、何故あかりを灯し続けたかったのか、その気持ちをぜひとも聞いてみたいものです。

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七夕の候

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7月になりました。

今年ももう半分が終わった、という事実に唖然とした気分になっているのは私だけでしょうか。

7月といえば、最初にやってくる行事が七夕です。

日本では古来、旧暦7月7日に行われ、15日のお盆の前に入る前の前盆行事として扱われてきましたが、明治6年(1873年)の改暦後は、月遅れの8月7日頃が旧暦の七夕となりました。

このため、今でも七夕は8月というところもあるようですが、実際には、7月に七夕を行うというところのほうが多いようです。その気分は、やっぱ、「七」のつく行事は7月にやらなけりゃ、ということでしょうか。

かくして、梅雨の真っ最中だというのに、毎年のように七夕は行われます。

笹の葉に願いを書いた短冊を垂らす、という風習は幼小学機関を中心に全国に根付いており、梅雨の間の風物詩ということで、それはそれで、風情はあります。

それにしてもなぜ「たなばた」というのか、ですが、これは古来からあった行事、「棚機津女(たなばたつめ)」に由来する、という説が有力です。

七夕の時期は稲の開花期にあたり、時期的に水害や病害が心配な頃でもあります。そこで、稲の収穫が無事に済むことを祈り、お盆を何事もなく迎えられるようにという願いを込めて、「棚機女」が始まりました。

8世紀初頭の歴史書、「古事記」には早、その記述があるそうで、ここには、乙女が水神を迎えるために、清らかな水辺に張り出した棚の上の機屋(はたや)で棚機(たなばた)と呼ばれる機織り機を使って“神衣(かむみそ)”と呼ばれる美しい衣を織ると書かれているそうです。一種の禊(みそぎ)の行事だったのでしょう。

一方、別の説もあります。日本では、古来、お盆の時に先祖や精霊を迎えるために「盆棚」という棚をしつらえます。そのための棚づくりのためには、一般的には、二~三段の本格的な祭壇を作るか、大中小の机を用意します。そしてその上に真菰(まこも)のゴザを敷いて仏壇から位牌と三具足を取り出して飾り、お供え物を置く棚とします。

お盆には、いろいろなお供えものをこの棚の上に載せますが、「幡(はた)」もそのひとつです。布などを材料として高く掲げて目印や装飾とした道具のことで、お寺に行くと、仏様の両端に掲げられているきらびやかな幡を見かけたことがある人も多いでしょう。仏や菩薩を荘厳・供養するために用いられ、また幡を立てることで福徳を得て長寿や極楽往生につながるとされるものです。

七夕は、この「棚」と「幡」から来ているといわれ、ふたつを組み合わせれば「棚幡」となります。7月7日の夕方から実施される行事なので、「七夕」と書き、これを「たなばた」と呼ばせるようになったというのがもうひとつの説です。

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現在の七夕では、短冊に願い事を書き葉竹に飾ることが一般的に行われていますが、この短冊こそが、お盆の際に使う幡に相当すると考えられます。「たなばたさま」の楽曲にある「五色の短冊」の五色は、五行説にあてはめた五色で、緑・紅・黄・白・黒をいい、五色である仏具の幡から来ています。

このお盆の際に使われる幡を笹に飾るようになったのは江戸時代のことです。夏越の大祓に設置される「茅の輪」の両脇の笹竹に因んだものといわれています。切ってきた笹に短冊をつけ、前の日の7月6日に飾り、翌7日未明に川や海に流すことが、その後現代にいたるまで一般的な風習として定着しました。

ただ、現在の「七夕まつり」は、商店街などのイベントとしての商用目的で行われることのほうが多くなってきています。昼間に華麗な七夕飾りを通りに並べ、観光客や買い物客を呼び込む装置として利用されており、上記のような風習や神事などをあまり重視していないことが多いようです。

むしろ、学校や幼稚園で子供たちが、それぞれの思いを短冊に書き、願いとして叶えてくれるよう天に祈る姿のほうが、ずっと古来からの七夕行事の形に近いように思えます。

ところで、笹の葉と短冊の組み合わせとは別に、なぜ七夕の夜には織姫と彦星がランデブーする、ということになったのでしょうか。

こちらは、中国に古くから伝わる「織女と牽牛の伝説」に基づいており、これが日本に伝わったことによります。紀元前3世紀ころの漢の時代の書物には既に、みなさんもよく知るこの話が描かれており、7~10世紀の唐の時代には、乞巧奠(きこうでん)という行事として定着しました。

7月7日の夜、織女に対して手芸上達を願う祭であり、これが輸入され、既に日本にあった上の「棚機女」の行事と融合したものと思われます。日本の棚機女の行事も乙女が機を織って神に捧げるという点で酷似しており、おそらくは中国から伝わった風習がやや形を変えたものでしょう。

日本に伝わった乞巧奠の行事は、その後、宮中や貴族の家を中心に広まりました。宮中では、清涼殿の東の庭に敷いたむしろの上に机を4脚並べて果物などを供え、ヒサギの葉1枚に金銀の針をそれぞれ7本刺して、五色の糸をより合わせたものを、その針の孔に通しました。

一晩中香をたき灯明を捧げ、詩歌管弦の遊びをする祭りであり、天皇やその側近たちは庭の倚子に出御して牽牛と織女が合うことを祈るとともに、裁縫・染織などの技芸上達が願ったといいます。

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「平家物語」によれば、貴族の邸では願い事をカジの葉に書き、短冊の代わりにしたといいます。カジノキ(梶の木)というのはあまりピンとこないかもしれませんが、山野ではよく見る木です。その葉っぱは、5葉に分かれており、割と広い面積を持つのでなるほど文字は書けたかもしれません。

神道では神聖な樹木のひとつであり、諏訪神社などの神紋や日本の家紋である梶紋の紋様としても描かれており、樹皮はコウゾと同様に製紙用の繊維原料とされました。

室町時代頃になると、紙が普及し始めたため、天皇をはじめ臣下はカジノ木に歌を書いた紙を結びつけるとともに、硯・墨・筆を飾りました。また、歌・鞠・碁・花・貝覆(かいおおい)・楊弓(ようきゅう)・香の七遊の遊びが行われたそうです。

貝覆とは、ハマグリの貝殻を左右に離し、貝殻の片方を座に並べ、他方の貝殻 と一対にして合せ取る遊びで、トランプの神経衰弱のようなものです。また、楊弓とは、ヤナギで作られた小弓のことで、弓を用いて的を当てる遊戯です。

さらに時代が下り、江戸時代になると、天皇が芋の葉の露でカジノキの葉に和歌を七首書き、カジノキの皮とそうめんでくくって屋根に投げ上げるのがならわしとなりました。

この時代、幕府は、七夕を五節供(ごせっく)の一つに定め、正式な行事としました。五節供とは、季節ごとの食物を神に供えて,節日を祝う儀式です。年に10回ほどもある五節会(ごせちえ)が朝廷の儀式であるのに対し、五節供は、公家以下庶民の行事であり、1月7日の人日(じんじつ)、3月3日の上巳(じょうし)、5月5日の端午(たんご)、7月7日の七夕(しちせき)、9月9日の重陽 (ちょうよう) の5回です。

ちなみに、宮中で行われる五節会は、上の5つに加え、正月7日の白馬節会、16日の踏歌節会ほかが加えられたものであり、一般人にはほとんどなじみのないものでした。

なお、9月9日の重陽は現在ではあまり節供として認識されていません。陽の数である奇数の極である9が2つ重なることから重陽と呼ばれ、庶民にとってはたいへんめでたい日でした。その昔は菊の花を飾ったり酒を飲んだりして祝ったようです。

7月7日の七夕では、大奥では、四隅に葉竹を立て注連縄(しめなわ)を張った台を縁側に置き、中にスイカ、ウリ、菓子などを供えました。奥女中が歌を色紙に書き、葉竹に結びつけ、翌朝供物とともに品川の海に流すのが七月七日の行事となりました。

この行事が民間にも伝わり、上述のとおり「茅の輪」の笹竹に因んだ行事として定着したのでしょう。切ってきた笹に短冊つけて飾り、海だけでなく川に流すという風習は、大奥のそれから発展したもののようです。

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このように、初めは宮中の行事であり、裁縫・染織などの上達を願うものだった「「棚機」は、やがてこれに詩歌の上達の願いが加わり、江戸時代になると民間行事から取り入れられた要素が加わりました。とくに習字の上達を願うことが流行り、その後は手習い事一般の願掛け行事として一般庶民にも広がっていきました。

江戸や大坂では、前日の六日から笹竹売りが「竹や、竹や」と売り歩き、各家では五色の短冊に願い事を喜いて笹竹に結びつけ、軒や縁側に立てました。

この竹飾りは、翌日には海や川に流されるのがならわしでしたが、現在では環境汚染につながるということであまり行われていません。私が子供のころには、七夕の翌日になると近くの川や海の岸には短冊がついたたくさんの竹笹が流れ着いていたものですが。

本来、七夕にまつわる神事は、「夜明けの晩」(7月7日午前1時頃)に行うことが常であり、祭は7月6日の夜から7月7日の早朝の間に行われます。午前1時頃には天頂付近に主要な星が上り、天の川、牽牛星、織女星の三つが最も見頃になる時間帯でもあります。

しかし、現在の新暦の7月7日は梅雨の最中なので雨の日が多く、旧暦のころのように天の川を見ことができる、ということはまずありません。ただ、統計では、旧暦7月7日においても、晴れる確率は約53%(東京)であり、晴れる確率が特別に高いというわけではなかったようです。

もっとも、旧暦では毎年必ず上弦の月となることから、月が地平線に沈む時間が早く、月明かりの影響をあまり受けません。一方、新暦7月7日は、晴れる確率は約26%(東京)と低く、そのうえ月齢が一定しないために、晴れていても月明かりの影響によって天の川が見えない年があります。

月齢は0が新月、7.5が上弦の月、14が満月、22.5が下弦の月であり、上弦や下弦の前後では天の川が見える時間は限られ、満月前後ではほとんど見えなくなります。ちなみに、今年の7月7日の月齢は13だそうで、ほぼ満月に近いため、天の川が見える地域はごくごくわずかになるでしょう。

この天の川を挟んで輝く二つの星が、織姫星と彦星です。織姫星(織女星)として知られていること座の1等星ベガは天帝の娘で、機織の上手な働き者の娘でした。一方夏彦星(彦星、牽牛星)は、わし座のアルタイルです。夏彦もまた働き者であり、天帝は二人の結婚を認めました。

めでたく夫婦となりましたが夫婦生活が楽しく、織姫は機を織らなくなり、夏彦は牛を追わなくなりました。このため天帝は怒り、二人を天の川を隔てて引き離しますが、お慈悲で年に1度、7月7日だけは会うことをゆるし、天の川にどこからかやってきたカササギが橋を架けてくれ会うことができました。

カササギ(鵲)が架けたことから鵲橋(しゃくはし、かささぎばし)ともいい、この橋は織姫と彦星が出会うためにできることから、鵲橋とは男女が良縁で結ばれる事を意味します。

また星どうしの逢引であることから、七夕には星あい(星合い、星合)という別名があります。しかし7月7日に雨が降ると天の川の水かさが増し、織姫は渡ることができず夏彦も彼女に会うことができません。

かくして、新暦になってからの星合は、梅雨の間であることからほとんど実現しせず、悲しんだ二人の涙はまた天の川に流れ込み、さらに水嵩が増して二人は永遠に会えないままなのでした…

この七夕に降る雨を「催涙雨(さいるいう)」または「洒涙雨(さいるいう)」といい、織姫と彦星が流す涙だと伝えられています。ちなみに七月六日に降る雨は「洗車雨」と呼ばれ、織姫に会うため彦星が自らの牛車を洗っている水だとされています。

なので、世のシングルの男性諸君。7月6日に降った雨で愛車を洗車すれば、翌日の7日には素敵な織姫に遭遇するかもしれません。もっとも翌日も雨だったら、会えない可能性は高いと思われますが…

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ところで、天の川に橋をかけたというカササギという鳥は、いったいどんな鳥でしょうか。調べてみると、世界的には北アメリカ西部、欧州全域、中央アジア、アラビア半島南西部、極東、オホーツク海北部沿岸など、広くに生息するようです。

日本では北海道、新潟県、長野県、福岡県、佐賀県、長崎県、熊本で「繁殖」が記録されています。一方、目撃だけの確認例としては、秋田県、山形県、神奈川県、福井県、兵庫県、鳥取県、島根県、宮崎県、鹿児島の各県などがあるようです。

カラスの仲間で、人里の大きな樹の樹上に球状の巣を作り繁殖します。ただハシブトガラスのように群れを作らず、主に番い(ツガイ)、もしくは巣立ち前の雛と少数単位で暮らします。また、ハシブトガラスよりも一回り小さく、黒地に白い羽を持ちます。

標高100m 以上の山地には生息せず人里を住みかとしています。鳥のくせに森林が覆う山地が苦手で、逆にこうした場所は分布障壁となっているようです。

全国的にみられるというわけでもないようで、しかも九州や中国地方に分布が偏っており、このため、見たことがある、という人は少ないのではないでしょうか。私も実はまだ見たことがありません。あるいは見たことはあってもカササギとして認識していなかったからかもしれませんが。

古代の日本には、もともとカササギは生息しなかったと考えられ、「魏志倭人伝」も「日本にはカササギがいない」と記述していいます。しかし、七夕の架け橋を作る伝説の鳥として、カササギの存在は日本中に知られることとなりました。

「カサ」は、朝鮮の古名「カシ」が転じた説や鵲の朝鮮の方言とする説などがあります。「サギ」は、肩羽と腹部が白いところがサギに似ていることから「鷺(サギ)」の意とする説や「鵲」の音「サク」が転じた説などがあります。

また、烏(カラス)に似て尾が長くて背が黒いことから「カラス・サギ」の略とする説もあります。鳴声が「カチカチ(勝ち勝ち)」と聞こえることから縁起が良いとされ、別名にカチガラスともいいます。現代中国語では「喜鵲」と呼ぶそうです。

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現在日本に生息するカササギは、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、肥前国の佐賀藩主鍋島直茂、筑後国(現福岡県)の柳川藩主立花宗茂など九州の大名らが朝鮮半島から日本に持ち帰り繁殖したものだとされる説があります。その一方で、冬に朝鮮半島から渡ってくるミヤマガラスの大群にカササギが混じっていることがあるという観察結果から、渡ってきたカササギが局地的に定着したという意見もあります。

江戸時代には「朝鮮がらす」「高麗がらす」「とうがらす」の別称があり、江戸時代の生息範囲は柳河藩(現:福岡県柳川市)と佐嘉藩(佐賀藩、現在の佐賀県、長崎県の一部)の周辺の非常に狭い地域に限られていたといいます。

また、佐嘉藩では狩猟禁止令により保護されていました。生息域が極めて狭く珍しい鳥であることから1923年(大正12年)3月7日、その生息地を定めて、カササギ生息地一帯の市町村は国の天然記念物に指定されていました。そして、佐賀県は、県民からの一般公募を行い、1965年(昭和40年)にカササギを正式に県鳥としました。

ところが、1960年代以降、カササギは電柱への営巣特性を獲得し、都市化のせいもあって分布障壁となっていた山地の森林が減少したことなどから、1970年代以降急速に生息域が拡大しました。上述のように九州以外の地域に急速に広まっていき、1980年代には、北海道の室蘭市や苫小牧市周辺でも観察され繁殖するようになりました。

九州では特に、電柱に巣を作る個体が増加しており、電柱への営巣は時として停電を招くこともあります。そのため、九州電力などでは、電柱上の変圧器付近に黄色い風杯型風車を取り付けるなどして、カササギなどの鳥に巣を作られないよう対策を講じています。

電柱巣は、ネコなどの地上の捕食者を完全に阻止出来るため、カササギにとっては都合がよく、巣立ちする雛の数が増えるという効果がありました。しかし人間様にとっては彼らと同居することはむしろ弊害となることも多く、街の中心部からの追い出しが図られる事態になっているところもあるようです。

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カササギは鳥類のなかでも大きな脳を持っており、非常に頭のいいことで知られています。哺乳類以外では初めて、ミラーテストをクリアしました。ミラーテストとは「自己鏡映像認知」ともいい、動物が鏡を見たとき「写っているのは自分」と認識できるかを確認するためのテストです。

ヒトは鏡を見たとき、そこに写っているのが自分自身であると認識することができます。鏡映認知とも呼ばれる能力ですが、これには比較的高度な認知能力が必要と考えられています。3歳前後までの小さな子供はこの能力を持ちませんし、大人でも脳の病気や障害で認知能力が低下すると、鏡の像が自分だと認識できなくなることがあります。

ヒト以外の動物でも自己鏡映像認知できるものがいるかどうかを確認する方法ですが、実はこれを判定するのは簡単ではありません。動物は言葉を話せませんから、テストの方法を工夫しなければならないのです。

そこで動物が自己鏡映像認知できるかどうかのテストとして、1970年ごろに考案されたがミラーテスト(またはマークテスト)です。これは、その動物に気づかれないよう、動物自身には見えづらい場所に「マーク」などを描く、というものです。

続いて鏡を見せて、そのマークが自分についていることを前提とした行動をとるかどうかを見ます。動物が鏡に映る像を自分だと認識できているなら、その動物は鏡像のほうのマークではなく、直接は見えない、自分自身につけられたマークを気にするでしょう。

こうしたマークテストを行ってみた結果、チンパンジーなどヒトに近い大型類人猿や、霊長類以外でもいくつかの動物については報告があり、大型類人猿のほかではイルカやシャチ、そしてゾウがテストをパスするということが分かっています。いずれも比較的知能が高いことに加えて、群れを作って社会的な行動様式をとる動物です。

カササギにもこのテストが試されました。首に赤や黄色のシールを貼ったところ、鏡に映った自分を見てシールに気づき足や嘴を使って剥がそうとしましたが、羽の色に紛れてしまう黒のシールを貼ったときはこのような反応は見られませんでした。哺乳類以外でこれを確認できたのはこれが始めてとのことでした。

自己認識能力には大脳新皮質が関わっているとされていますが、鳥類は大脳新皮質をもっていません。ただカササギは大きな脳を持っており、哺乳類とは異なる進化で高い認識能力を得た可能性があるということです。

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カササギは、もともとカラス科に分類されており、カラスの仲間です。カラスはご存知の通り頭の良い鳥であり、硬くて自分の嘴では砕けない食べ物を道路の上に置き、自動車にひかせて殻を割るという行動が各地で確認されているほか、公園の水道の蛇口をひねって水を飲む、簡単な道具を使ったり、巣作りに工業製品の廃物を利用する、といった行動が観察されています。

カラスはまた、自分を直接攻撃する人などの顔で認識し人に直接危害を加えたり、そのような人物を仲間に伝達し集団で攻撃することもあるそうで、認識、伝達を的確に行える高度な知能を持ちます。

カササギも、老人や子供は警戒しない一方で、若い男性など危害を与えようとするものには警戒して近寄らないという観察結果が出ており、ミラーテストに合格したことといい、非常に頭のいい鳥であることがうかがえます。人の顔を覚えていて、呼んだら飛んで来たり、眼が開く前の雛から育てるとよく懐くそうです。

また、カササギは嘘をつけるといいます。

それぞれ別の種の鳥達が群がって作った集団には、見張りの役割を果たすカササギの種があるといい、タカのような捕食者が現れると、大きな鳴き声で警報を鳴らします。

ところが、タカなどがいない場合でも警報を送る場合が観察されており、これはカササギ流したウソの情報です。これを聞いた他の鳥達が大急ぎで身を隠す間に、カササギ自身はのんびりと飛び回り、目に付く虫を食べてしまうといい、ある研究によればカササギの発した警報のうち、約15%ほどはこうした偽りの信号であったといいます。

カササギの食性をみてみると、基本的には、動物質を好み、主として昆虫などの無脊椎動物を食べますが、他に腐肉なども食べます。また、熟した木の実やフルーツ、穀類など、なんでも食べる雑食性です。昆虫としては、ケラやハサミムシ、コオロギなど地面に生息する虫を捕食しているようですが、秋にはイナゴなどの害虫を食べることから、益鳥とされます。

英語では、カササギ、オナガ、サンジャク、ヘキサンなどをまとめて magpie(マグパイ)と呼び、伝統的に「おしゃべり好きのキャラクター」という表象を与えられています。

また、何でも口に入れることから。ラテン語ではpicaといい、これは「異食症」を意味します。

異食症とは、栄養価の無いものを無性に食べたくなる人の病気で、食する対象は土・紙・粘土・毛・氷・木炭・チョークなどが挙げられます。小児と大人の妊婦に多いようですが、まさか鳥であるカササギが異食症のわけはありません。単に食いしん坊なだけなのか、いろんなものを食べても丈夫な胃を持っているのかよくわかりませんが、ともかなんでも口に入れてしまうようです。

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ちなみに、人間の異食症には、氷を異常な量食べてしまう氷食症や、土を食べてしまう土食症、体毛をむしりとって食べたりする食毛症などがあります。精神的ストレスと関連が深いようですが、土食症については、必ずしも病気とはいえないようです。土壌を摂食する文化は世界各地に分布しており、消化作用の促進、滋養強壮、解毒などの効果があるとされています。

妊娠した女性が土壁をかじったり、地面の土を食んだ事例は日本でも古くから知られており、亜鉛や鉄分が不足して味覚異常になった際に発症しやすい行動であることが科学的に明らかになっています。タンザニアのペンバ島では、若い女性が土を食べ始めることは妊娠の兆候として喜ばれるそうです。ただ、普段土を食さない人が上記のような症状に陥る場合は土食症と呼ばれます。

鳥類や哺乳類にも、土壌を食するものがあり、おそらくはカササギも食べていると思われます。ほかにも、オウム、ウシ、ネズミ、ゾウなどは、習性として土を摂食することが知られており、その機能としてミネラル補給説や、土壌の物理組成による毒物吸着説、胃腸障害の改善、アシドーシス改善作用説などがあります(アシドーシスとは、血液が酸性になることで、これによりさまざまな体調不良が起こります。人間にもある症状です)。

また、カササギは、昔から金属など光るものを集める習性がある、とされてきました。ヨーロッパでは「泥棒」の暗喩に用いられることすらあります。イギリスでは「不幸」や「死」「悪魔」を現すとされ、光る物を好んで集める「宝石泥棒」として欧米では何かと嫌われ者の役を演じることが多いようです。

カササギの「盗癖」とされているこの習性は、イタリアの作曲家ジョアキーノ・ロッシーニのオペラにも登場します。このオペラ「泥棒かささぎ」では銀食器を盗んだ真犯人という扱いになっています。

ところが、最近の研究では、このカササギの泥棒癖の習性は間違いであることがわかっています。あるイギリスの大学の研究チームが、キャンパス内のさまざまな場所に光る物体や光沢のない物体を並べ、野生および飼育されたカササギの反応を観察しました。

使用した物体は金属のねじやアルミホイルで作った指輪、そして細かく切ったアルミホイルなどで、半分はつや消し塗料で青く塗り、残りは光沢のある状態のままで配置ました。これら物体の間には餌となる多くの木の実が置かれましたが、カササギは光る物に引き寄せられるどころか、見慣れない物を嫌い、警戒する傾向を示しました。

光る物であれ光沢のない物であれ、木の実の近くに置かれている物体に対しては常に警戒する様子を見せた、といい、これから「カササギは宝石泥棒」は俗説であり、誤りである、ということが確認されました。

カササギにとっては長年の汚名を返上できたわけで、おおいに喜んでいる…かどうかはわかりませんが、ヨーロッパではこうした研究をきっかけとしてそのイメージが変わっていくかもしれません。

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その子育ては10月下旬頃から始まります。このころから営巣地を探しはじめ、3月中旬頃までには、電柱以外では、カキノキ、エノキ、クスノキ、ポプラなどの樹高8m以上の樹木に、木の枝や藁などを用いて直径60cm~1m程度の球状の巣を作ります。

産卵は、営巣後すぐに行なわれ、楕円形の薄い緑色をした卵を6〜7個産みます。雌が抱卵し、最終卵産卵後17~18日で孵化します。各卵は日を置いて逐次孵化するため、雛の成長度には差が生じ、遅れて孵化した雛鳥の多くは死亡するといいます。

夫婦で子育てに励み、孵化後約4週間で1〜4羽が巣立ちし、巣も放棄されます。巣立ち後の若鳥の生存率は30%程度で12月頃まで集団でねぐらにつきますが、その後ツガイを形成して分散し、個別の縄張りを持つようになります。

子育てを終えたツガイは、再び翌年の子育てに励みます。そしてこの夫婦の関係は一生続くといいます。

「オシドリ夫婦」と言われ、仲のいい夫婦の例えに良く使われるオシドリは、実は冬ごとに毎年パートナーを替えるそうです。その抱卵もメスのみが行い、育雛も夫婦で協力することはないそうで、とんでもない偽装夫婦です。

これに対して、カササギの夫婦は本当に仲がいいそうです。秋になり、庭木に柿が実る頃にはツガイで飛来し、仲良く柿を食べる姿がよくみかけられるといいます。一方では、秋になると巣立った若夫婦と古い夫婦が縄張りをめぐって騒ぎが起こり、激しく鳴き合といいます。が、これもどこかお愛嬌で、その姿もユーモラスで、カササギの生息の多い佐賀では今や風物詩となっているといいます。

さて、我々夫婦も先日の20日に9年目の結婚記念日を迎えました。これから10年目に突入していくわけですが、カササギの夫婦と同じく仲の良いツガイとして暮らしていきたいと考えています。

先日お亡くなりになった小林麻央さんと旦那さんの市川海老蔵さんも仲の良いご夫婦だったようです。芸能人であるだけに何かとセンセーショナルに取り上げられたこの話題ですが、本当につらいのはご本人と息子さんたちでしょう。同じ経験をしている私にとっては、心の内がよくわかります。

がしかし、心の痛みは長い年月うちに変わっていきます。どう変わっていくかについては、うまく書き表せませんが、ひとつはっきりと言えるのはその痛みが限りなく薄まるころには自らの一生も終わる、ということでしょうか。

せめて、たとえ夢の中でも、天の川を渡ってのお二人の星合が実現することを祈りたいと思います。一年に一度だけでなく、毎日でも会わせてあげたいと思いますが、それでは雨の降る日がなくなってしまいます。

残る梅雨の日々、しばし雨音も楽しみながら、晴れた夏の夜空に流れる美しい天の川を渡り、楽しそうに出会う二人の姿を皆さんも想像してあげてください。

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