となりのトロール

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九州地方が梅雨入りしたそうで、ここ東海地方の雨の季節入りも時間の問題のようです。

晴れた日が続くのもいいのですが、太陽光ばかり浴びていると焦げてしまうようで、落ち着きません。じっくりと構えていろいろ思索するには、これからのしっとりとした雨のシーズンのほうが良いように思います。

さて、今日は6月3日ということで、6=「ム」、3=「ミ」なので、「ムーミンの日」というのが昔あったようです。

「昔あった」ということで、今はありません。ムーミン誕生60周年の2005年に「全世界に通用する記念日を」との見解から、作者のヤンソンの誕生日である8月9日がムーミンの日となったためです。フィンランドの著作権者も了承し、この日が全世界共通で公式なムーミンの日となったため、6月3日の日本のムーミンの日は廃止されました。

「ムーミン」の作者は、トーベ・ヤンソンです。フィンランド人の女流作家で、2001年に86歳で亡くなっています。

「ムーミン・シリーズ」と呼ばれる一連の小説および弟のラルス・ヤンソンと共に描いたムーミンコミックスなどの作品で一世を風靡しました。日本でもその昔ブレイクし、おなじみのキャラクターです。

ヤンソンは、1914年、スウェーデン語系フィンランド人彫刻家の父とスウェーデン人画家の母の長女として生まれました。弟が二人おり、このうちの下のほうが、のちに共に漫画のほうのムーミンを発表することになるラルス・ヤンソンです。

芸術家一家だったため、自然に絵を覚え、15歳ではもう政治の風刺雑誌の挿絵を描いていました。ストックホルムの工芸専門学校、ヘルシンキの芸術大学、パリの美術学校などへ進み、小説としての「ムーミン」を最初に執筆したのは25歳のときです。小さな雑誌に掲載されていましたが、単行本として発表されたのは、1945年、彼女が31歳のときでした。

同じく彼女が描いたムーミンのキャラクターが雑誌に挿絵として登場したのは、その前年からです。そのキュートなキャラクターは人気を呼び、小説もさることながら、その後刊行されたコミックはフィンランド国民の心を鷲づかみにしました。

やがて、国際的にも有名になり、1966年にヤンソンは国際アンデルセン賞作家賞、1984年にはフィンランド国民文学賞を受賞しています。幼いころから絵に親しんでいたため、油絵も多数残しており、自画像も2つあります。20代の‘タバコを吸う娘’と60代の‘自画像’です。若い時から酒とタバコが好きだったそうです。

作家として世界的に有名ですが、本国フィンランドでは画家としての評価も高く、特にフレスコ画の手法を用いた国内の公共建築の壁画など多く作品を残しています。また、小説のほうも、一般向けの小説を多数残しており、フィンランドでは「トーベ・ヤンソン・コレクション」として刊行されています。

最近、日本でも「トーベ・ヤンソン短篇集」、「誠実な詐欺師」といった作品が文庫本として発刊され、再評価されているようです。

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86歳で亡くなるまで生涯結婚はしていません。が、人生のパートナーとして、アメリカ生まれのフィンランド人グラフィックアーティスト、トゥーリッキ・ピエティラという女性を選んでいます。と、いうことはつまり、同性愛者であった、ということです。3つ年上で、ヤンソンの死から8年後の2009年に92歳で亡くなっています。

ピエティラは、フィンランドのグラフィックアート界では有名な一人で、多数の芸術展に出展して高い評価を得ました。フィンランド芸術アカデミーで長年教師を務め、フィンランドの若手デザイナーの指導にあたりました。

パートナーのヤンソンの作品であるムーミンを題材にした作品も描いており、これらはフィランド南部、タンペレのタンペレ市立美術館(ムーミン谷博物館)に展示されています。このムーミン谷博物館には、彼女がデザインした数多くのムーミンフィギュアやムーミン屋敷があり、世界中からムーミンファンがここを訪れています。

実はピエティラは、ムーミン作品の中のキャラクターとしても登場しています。原題では実名に似せた、トゥーティッキーとして登場しますが、日本で製作されたアニメでは、「おしゃまさん」と邦訳されています。

ムーミンというキャラクターを通じて二人の愛は長年育まれましたが、その生活舞台のひとつはフィランド湾に浮かぶ、クルーヴハル島(Klovaharu saari)という島でした。二人は毎年のようにここで夏を過ごし、それは30年間も続きました。そしてムーミンシリーズを含むヤンソンの晩年の多くの作品もここで生み出されました。

この二人の生活は、映画化もされており、1993年の「Travel with Tove」、1998年「Haru – the island of the solitary」などがそれです。また1996年には、ピエティラが挿絵を描いたこの島でのエッセー「島暮しの記録」も出版されています。

どこにあるのかと、気になったので調べてみると、ヘルシンキから東に約50kmの町ポルヴォーまで行き、そこから南に下りたところにある、ペッリンゲ諸島の一番沖にある島でした。本当に小さな島で、2~300m四方しかなく、ぐるりと歩いて約8分程度の岩島です。

ヤンソンは、51歳となった1965年にはじめてピエティラとともにここを訪れ、自分達でワンルームの小屋を建てそこを別荘兼アトリエにしました。そしてムーミン作品としては8作目になる「ムーミンパパ海へ行く」はこの島で書かれました。

「ムーミン」として世に出された最初のものは1945年の「小さなトロールと大きな洪水」で、最初はそのタイトルにムーミンの名はありません。トロールとは、フィンランドほかの北欧で広く知られる伝説の妖精の名前です。その後トロールは「ムーミントロール」と書き換えられ、ムーミン・シリーズとして知られる計9作品に登場するようになります。

日本の講談社の全集として出版された邦名は以下のようになります(出版年は原作のもの)。

「小さなトロールと大きな洪水」1945
「ムーミン谷の彗星」1946(1956年改訂・1968年三訂)
「たのしいムーミン一家」1948
「ムーミンパパの思い出」1950
「ムーミン谷の夏まつり」1954
「ムーミン谷の冬」1957 国際アンデルセン賞作家賞受賞作品。
「ムーミン谷の仲間たち」1963
「ムーミンパパ海へ行く」1965
「ムーミン谷の十一月」1970

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このムーミンのアイデアは、ヤンソンが10代の頃、次弟ペル・ウーロフ・ヤンソンとの口喧嘩に負けた時に、トイレの壁に悔し紛れに描いた「SNORK」として描いたものだそうです。この「スノーク」は、のにち日本でアニメとして放映されたときにも、キャラクターとして登場しています。

本来はヤンソンが、「とても醜い生き物」として描いたもので、スウェーデン語では「指図や命令をし、いばったり、うぬぼれたりする人」という意味です。日本のアニメ版のムーミンではムーミンのガールフレンド、ノンノンの兄として描かれています。

若草色の様な薄緑色をしており、ヨーロッパの裁判官や音楽家が被るような、長髪のかつらを着用している気取り屋として登場しました。

このスノークこそが、ムーミンのルーツであるとされるキャラクターです。主人公のムーミン坊やこそが最初に描かれたのかと思っていたのですが意外です。「ムーミン」のネーミングは、ヤンソンが叔父の家へ下宿をしながら学校へ通っている時代に、夜勉強の合間に冷蔵庫から食べ物を失敬していたことがきっかけに誕生しました。

ある時、このつまみ食いを叔父から注意を受け「この裏にはムゥーミントロールというお化けがいるからつまみ食いはやめなさい、首筋に冷たい息を吹きかけてくるぞ」と言われました。そして、このムゥーミントロールとは数あるトロールの一種のようです。

元々北欧では、トロールは人間にとって気味のわるい生き物であるとされていました。民間伝承に登場するトロールは、広い意味では妖精の一種とされますが、地域や時代によって巨人だったり小人だったりさまざまなバリエーションがあります。ただ、人間によく似ていながら醜い外見を持つというイメージが共通しています。

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一般的なトロールについてのイメージは、耳や鼻が大きく巨大な体躯、かつ怪力で、深い傷を負っても体組織が再生出来、切られた腕を繋ぎ治せます。醜悪な容姿を持ち、あまり知能は高くありません。凶暴、もしくは粗暴で大雑把です。

その呼び方も、トロル、トロルド、トロールド、トラウ、トゥローと呼ばれ、いろいろです。当初は毛むくじゃらの巨人として描かれていましたが、時代を経るにつけ、やがて小さい身長の小人として描かれることも多くなりました。ヤンソンがヒントにしたのもこの小人のようです。

ただし、変身能力があるのでどんな姿でも変身できます。従って、小人である場合が多いものの、大きな森といったふうに描かれることもあり、どのような存在であるかについては様々な描写があり、一定しません。

北欧各国ともさまざまであり、デンマークでは白く長いあごひげの老人として、赤い帽子、革エプロン姿で描かれます。また、アイスランドでは一つ目の邪悪な巨人であり、3人で一つの目玉を共有し、順番に使っています。

ヤンソンの故郷、フィンランドでも色々なバージョンがあり、上述のように家に棲みついたムゥーミントロールのようなものもあれば、池にすむ邪悪なシェートロールといったものもあり、この怪物は霧が出たり嵐が来ると池から出てきて人を溺れさせると言います。

さらに、北欧よりさらに西方のグリーンランド、カナダにもこのトロール伝説は伝わっており、この地に住まう、イヌイット(エスキモー)やイハルシュミット族に伝わるトロールは邪悪な巨人であり、毛の生えてない腹を引きずりつつ、鉤爪が生え物陰に潜み、人を襲い肉を引き裂くといいます。

一方、スウェーデン、ノルウェーのあるスカンジナビア半島一帯では、小人の妖精とされることが多く、トロールは、丘陵地、長塚、土墳などの下に共同体を作って暮らしています。騒音を嫌い鐘や教会からは離れて暮らしているといい、気に入った人間には富と幸運をもたらし、気に入らないものには不運と破壊をもたらします。

また女子供をさらい財宝を盗むことも多く、このため彼等の住処は財宝でいっぱいで夜になると光り輝くと言われます。金属工芸にも秀で、薬草や魔法を使った治療技術も持っています。日の光に当たると石に変わるため、夕暮れ時から明け方までしか姿を見せません。

おそらく、スタジオジブリのアニメ作品、「借りぐらしのアリエッティ(2010)」はこのスカンジナビアのトロールをヒントにして製作されたものと思われます。小人の少女が両親とともに、人間に見られてはいけないという掟の下、郊外にある古い屋敷の床下で人間の生活品を「借り」ながら密かに慎ましく暮らす、という設定はよく似ています。

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ヤンソンが独自に創作した、架空のいきもの、ムーミントロールたちもまた、他の北欧の国々のトロールのように荒々しいものではなく、どちらかとえいばこのスカンジナビア半島版の妖精トロールに近いイメージです。

が、舞台はノルウェーやスウェーデンではなく、ヤンソンの母国のフィンランドのどこかにあるとされます。そして、原作コミックやその後日本で作られたアニメ版に登場する妖精たちは、そこにあるムーミン谷(Mumindalen)に住んでいるとされます。

この谷には、東に「おさびし山」がそびえ、その麓から川が流れています。その川にはムーミンパパの作った橋がかかっていて、その橋の先にムーミン屋敷があります。ムーミン屋敷の北側には、ライラックの茂みがあり、西は海に面しており、桟橋の先には水浴び小屋があり……といった、アニメでもおなじみの情景です。

そしてこの小さな村でムーミンとその両親、スノーク兄妹とミイ、スニフ、スナフキンといった友人たちが毎回騒動を引き起こします。

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一方の原作本の小説のほうですが、こちらも子供向けの作品の体裁をとってはいるものの、その初期の作品群は必ずしも子供向けではありません。第二次大戦の戦中・戦後に執筆されたこれらの初期ものは、洪水や彗星の襲来など自然災害が繰り返し描かれます。

第一作である「大きな洪水と小さなトロール」でムーミンはたちは人間と同じ世界で共存しているものの、人間には察知されない「小さな隣人・トロール」として描かれており、当初は人間のほうが主役だったようです。しかし、巻を進めるにつれてだんだんと、物語の中心に描かれるようになりました。

一方、漫画(コミックス)のほうは、ヤンソン自身の作画に、スウェーデン語で彼女が書いたセリフを、語学が堪能な末弟のラルス・ヤンソンが英語に翻訳し、1953年からロンドンのイブニング・ニュースに連載が開始されてから世界的に知られるようになりました。

小説のほうの第4作目の「ムーミンパパの思い出(1950)」が出されたころから企画が始まったようです。

当初ラルスは、作品のアイディアだけを姉に提供するだけだったようですが、1960年に入ってからは自身が直接絵も描くようになりました。その後完全にコミックの仕事はラルスの担当となり、1975年までに合計73のコミックが発売されました。また、1冊だけですが、ヤンソンの次弟ペル・ウーロフ・ヤンソンとの共作の絵本も出版されています。

上述のとおり、小説のほうのムーミンは、当初は脇役でしたが、その後擬人化の度合いはさらに強まり、小人サイズの新聞を読んだり、小人サイズの切手を集めたりといった描写が現れるようになります。

こうした流れはラルスのコミックスにおいても更に顕著になり、主人公の人間らが訪れたリゾートホテルの宿泊客も映画スターや貴族になったトロールであったり、従業員もすべてトロールといった具合に変化していきました。やがては主人公もトロールに代わり、彼等が暮らす架空世界が物語の主体となっていきます。

この小説はフィンランド国内で爆発的なヒットを飛ばし、またコミックのほうもイギリスで新聞連載されて大成功がもたらされます。小説5作目の「ムーミン谷の夏まつり(1954)のころまでには世界中で空前の「ムーミンブーム」が巻き起こりましたが、このフィーバーぶりに作者の姉弟はほとほと疲れ果ててしまいます。

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ちょうどこのころ書かれたのが第6作の「ムーミン谷の冬」であり、これを契機として、その後のムーミン作品の中身は、より内観的な、おとぎ話の体裁をとった純文学といった趣にかわっていきました。

ちなみに、この「ムーミン谷の冬」の冒頭のシーンは次のように始まります。

ムーミン一家では11月から4月までの長い冬、冬眠をすることが先祖からの慣わしであった。しかしある年、なぜかムーミントロールだけが眠りから覚めてしまう。ムーミントロールにとって初めての冬は、たくさんの不思議で溢れていた……

これは我々がよく知る日本版アニメのムーミンのストーリーそのものです。が、それ以前のものはムーミン一家の日常などのどちらかといえば狭い世界のことばかりが描かれていたようです。

その後、これら原作本の日本語版が出版されるようになったのは、1969年のことです。まず、コミック版としてフィンランドで出版された全73作品から数編を選び、講談社から「ムーミンまんがシリーズ」として出されました。

さらに、フジテレビ系列で、「カルピスまんが劇場」の第2作目として、同年10月から1970年12月まで全26話のアニメーションも造られました。

1972年1月から12月までは、同じフジテレビ系列で「新ムーミン」の全52話が製作・放送されました。こちらのアニメーション制作は手塚治虫率いる、虫プロダクションでした。この作品は本放送終了後も1989年頃まで、1969年版とともに再放送されました。

私が中学校から高校ぐらいにかけてよくみていたのは主にこのアニメ版第二作です。見た目にはいかにも幼い作画であり、幼児の見るものとしてバカにしていました。が、何回か見るにつけ、その内容の深さに引き込まれ、その後も再放送ながらも同じ内容のものを好んで見たのを記憶しています。

さらに時代を経て1990年にも、「楽しいムーミン一家」が、また、1991年にも「楽しいムーミン一家 冒険日記」がテレビ東京系列にて放送されました。こちらは私は見ていませんが、それなりに人気は高かったようで、19%内外の高視聴率を記録しています。このほか、1992年には、「楽しいムーミン一家 ムーミン谷の彗星」という劇場版も製作されました。

また、今年の2月には、トーベ・ヤンソン生誕100周年を記念し、初めて母国フィンランドで製作された長編アニメーション作品、「ムーミン南の海で楽しいバカンス」も公開されました。日本語吹き替えは、1990年テレビ東京で放送された「楽しいムーミン一家」でムーミンの声を担当した高山みなみさんでした。

これをきっかけに我々と同じ50代から上の年齢の方を中心とした往年のファンの間で静かなブームが沸き起こっているといい、アニメのムーミンの再来を願う人は多いようです。
2000年から2001年に筑摩書房から「ムーミンコミックス」として刊行されたものなども売れ行きは上々とのことで、もしかしたらどこかの放送局が再び製作するかもしれません。

こうした「妖精モノ」としては、古くは「日本昔話」などが放映され、この中には一寸法師に代表される妖精キャラがたくさんでてきました。このほか、おんぶおばけ(1973)、アイヌ神話のコロポックルを題材にした「冒険コロボックル(1973)」、「ニルスのふしぎな旅(1980)」なども製作されており、ジブリの「となりのトトロ(1988)」などもそうです。

また、「竹取物語」のかぐや姫も竹から生まれた妖精と取ることもでき、2013年に公開され高畑勲監督のアニメ作品、「かぐや姫の物語」は、第56回ブルーリボン賞などをはじめてとして数々の賞を受賞しました。

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しかし、最近のガキ、いや子供さん達は、「妖怪モノ」のほうがお好きなようで、爆発的な人気の「妖怪ウォッチ」はその最たるものです。妖怪と妖精は似て非なるものではありますが、北欧的な感覚では同じものであり、こうした怪異キャラはどこの国でも子供には人気があります。

ただし、日本では1990年代以降、ヒーロー物や冒険ものがやたらに多くなり、70年代や80年代に広い世代で受け入れられた、ムーミンのようなほのぼのとした妖精モノは最近ではほとんどみなくなりました。日本の子供のアニメに対する嗜好はかなり変わってきており、テレビ局側もこれに合わせているのでしょう。

しかし、一方では、「小さいおじさん」という都市伝説ともおぼしき妖精がもてはやされたりもしています。その名の通り、中年男性風の姿の小人がいるという伝説です。5~6年ぐらい前から話題となり始めたようで、「目撃談」によれば、窓に貼りついていたとか、浴室にいた、あるいは道端で空き缶を運んでいた、公園の木の上にいた、などさまざまです。

ウェブサイトでも「小さいおじさん」に関する掲示板や投稿コーナーが設置されるなど大人気であり、ミュージシャンやグラビアアイドルなど、芸能人の中にも目撃したと語る人もいて、その信憑性がとかく話題になっています。

東京都の中央に位置する神社である杉並区の大宮八幡宮を「小さいおじさん」のすみかとする噂もあり、この場所を取材した番組が放映された直後には例年の倍以上の参拝者が殺到したそうです。

こうした目撃談を見る限りは、悪い連中ではなさそうで、話を聞くと「ほっこり」させられるようなものばかりです。

自宅のポットを小さいおじさんとおばさんの2人が引っ張っていたとか、浴室で泣いていると、小さいおじさんに励まされたが、怖いのでシャワーで流した、鏡餅の上のミカンを小脇に抱えて走り去った、アロマキャンドルの炎で暖をとっていた、全身を使ってスマートフォンを操作していた、着ていたジャージに「村田」と書いてあった、などなどです。

が、悪戯好きも中にはいるようで、捨てたはずのごみが布団の周りに散乱していた、小さいおじさんの群れに髪をドレッドヘアーにされた、部屋に置いてあったイチゴを食べられた、というのもあります。

が、どこまで信じていいやらわからないような話ではあり、「ちいさいおじさん存在説」の否定者も多いようです。肉体および精神的な疲労などを原因とする幻覚、何らかの薬の副作用、単に虫を見間違えたのではないか、といった指摘もあるようです。目撃談の多くが就寝中または夜中であることなどもこれら否定説を後押ししています。

が、私自身は幽霊や宇宙人は実在すると信じており、この広い宇宙の中に説明できないような存在をはなから否定するつもりはありません。森羅万象には何等かの生命が宿っていると考えており、それらの存在の上に我々が生きています。なのでそれらが時に姿を現し、妖精や妖怪、はたまた河童やの姿をして表出したとしても何ら不思議はありません。

さてあなたはいかがでしょう。すぐ側にいるかもしれないトロールや小さいオッサンの存在を信じられる感受性をお持ちでしょうか。

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笑い三年泣き四月

2015-06545月になりました。

ウソです。

ということでエープリルフールです。これでひとつウソをついたので、もう今日は嘘をつくのはやめようと思います。

これもウソです。

というわけで、我々は意識しているしていないに関わらず、たいして罪悪感もなく、むしろ面白がってよくウソをつきます。

基本的に、嘘は悪いこと、とされますが、嘘の中には許容されるものも多いようです。しかし、どのような嘘が許容されるかは、時と場合によるでしょう。「嘘も方便」ということわざもあり、人を救ったり、処世術のためならばよかろうというのが一般的です。

また、人を喜ばせるためのウソも良しということで、イギリスやアメリカなどでは、他人を喜ばせるための嘘は「white lie」といい、これは「良い嘘」というほどの意味です。

さらに、人とのコミュニケーションの中で、嘘はこれを円滑にする効果がある場合もあります。例えば夫婦や恋人との会話の中で、「私を気づかって、朝音をたてないように出っていってくれたでしょう」、「いや、そんなことないよ、ドアが痛まないように静かに閉めていっただけさ」といった具合です。

これはもちろんウソなわけですが、ウソをつかれた女性が男性をうっとうしいと思うかといえばそうではなく、奥ゆかしくて男気のある、そしてユーモアのある男性だと思い、より好きになったりするわけです。

が、実際にはパチンコに出掛けるのをとがめられるのが嫌で、そっと出かけていったのにすぎなかったりもします。

このほかにも、大多数の人は、ある程度の言い訳や責任転嫁などの嘘は無意識的、日常的に行っています。なので、一応、この程度のウソならば精神医学的に言えば「正常」の範囲内です。

が、その範囲を超えて、あえて積極的にウソをつき、相手を笑わせるというのは、ジョークの範疇に入ってきます。聞き手や読み手を笑わせたり、ユーモアを感じさせる小咄などのことであり、日本語では冗句と当て字されることもあります。

「悪ふざけ」と違うのは、これはある程度悪意を持って相手にしかけるものであり、道徳的に問題視されることも多いわけで、相手に好意をもって言うジョークとはおのずから性質が違います。

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ジョークにもいろいろあって、ユーモア、駄洒落、風刺などさまざまですが、その結果得られるのはやはり「笑い」です。

人を笑わせる、といことは楽しいもので、ジョークを仕掛けられた相手も楽しくなります。

では、なぜ楽しくなるのか。これは、笑いによって自律神経に刺激が与えられるからだ、と説明されているようです。自律神経は、交感神経系と副交感神経系の2つの神経系で構成されていて、交感神経というのは、「闘争と逃走の神経(Fight and Flight)」などとも呼ばれるように、激しい活動を行っている時に活性化します。

一方、副交感神経は、安静時に重要となる消化管の機能を司ったり、心拍数を減少させ、血圧を下げて皮膚と胃腸への血液を戻したり、といった役割があり、安らぎ・安心を感じた状態のときに優位で、副交感神経が優位な状態が続くとストレスが解消されます。

笑いによってこれら二つからなる自律神経に刺激が与えられると、交感神経と副交感神経のバランスの状態が代り、副交感神経が優位の状態になります。この結果、より安心できる、安らぎを感じる、といった状態になり、これが「楽しい」と感じられるわけです。

一方、怒りや恐怖を感じたときなどの異常な事態の時には交感神経が優位になります。したがってその状態が長く続くとストレスの原因になります。

また、笑うことで全身の内臓や筋肉を活性化させたり、エンドルフィンという神経伝達物質が血液中に大量に分泌されるそうです。

これはモルヒネ同様の作用を示す物質ということで、多幸感をもたらすと考えられており、そのため「脳内麻薬」とまで呼ばれます。麻薬、といわれるとついつい中毒になるのでは、と考えてしまいますが、確かに「笑い上戸」のことばもあるように、笑いにはそうしたところがあります。

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とはいえ、薬害のある本物の麻薬とは異なり、一般的には医学的にみても笑いは体に良いものだとされているようです。従って人々の笑いを誘うような巧妙なジョークは、社会的にも認められやすく、それゆえに、エイプリルフールが認められているのであり、このほかにも喜劇や、落語、漫才、コントといったものが職業として成立するわけです。

彼等にしてみれば年から年中がエイプリルフールのようなものであり、いかに多数の笑いを取るか、ということが命題です。日本では、1980年代に前半に「漫才ブーム」が起こり、多数のお笑い芸人さんが生まれました。

この漫才ブームに火をつけたテレビ番組は「花王名人劇場」(関西テレビ)・「THE MANZAI」(フジテレビ)などだといわれており、その後「お笑いスター誕生!!」といったお笑い界のホープを探し出す番組などが増え、さらにはお笑い界のチャンピオンを決める、「M-1グランプリ」といった番組が次々とできて、人気を博しました。

この1980年代初頭のブームを第一次お笑いブームとするならば、その後、第二、第三のブームが続いており、現在はその4番目か5番目かのブームとされるようです。

こうした数々のブームの中からは、その後バラエティなどでも活躍する大物タレントが多数輩出され、さらにお笑い界は、演劇界とも結びついて、俳優女優として活躍する芸人も多数でるようになりました。

映画監督としても有名になったビートたけしさんや、とんねるず、タモリ、明石家さんま、片岡鶴太郎、山田邦子などなどと枚挙のいとまがありませんが、彼らに憧れて、お笑いの世界に入る若者も後を絶たず、大学を卒業してまっしぐらに吉本興業の門をたたく人もいるようです。

漫才ブームが後世に残した影響は計り知れないといえ、まさにお笑い恐るべしです。私自身は、あまりお笑い番組は見ないほうなのですが、お付き合いでごくたまに見ることもあり、そうした場合はやはり笑ってしまい、楽しい気分になれます。

が、夢中になってそうした番組ばかり見たくなるか、といえばそうでもなく、ましてや自分で漫談やコントをやってみようとは思いません。

強いて言えば落語なら少しやってみたいかな、という気もしますが、何にせよ、人から笑いを取るというのは、なかなか容易なことではなく、一朝一夕にその技術は実に付きません。

「笑い三年泣き三月」というのは、義太夫節の稽古で、笑い方のほうが泣き方よりずっと難しい、とされたことから生まれたことわざですが、芸事の世界では、笑わせるのも泣かせるのと同じくらい難しいようです。

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こうした漫才や落語は、玄人の域に達したものは社会的にも「芸術」とみなされるほど高尚なものでもあります。先日亡くなった三代目桂米朝さんは、1996年(平成8年)に落語界から2人目の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され、さらに2009年(平成21年)には演芸界初の文化勲章を受章しています。

また、漫才も古くは「萬歳」と呼ばれた古典芸能であり、加賀、越前、三河、尾張などに伝わる各萬歳は、国の指定重要無形民俗文化財に指定されているものです。

こうした笑いの「源流」を辿ってみると、一番古いのは、「古事記」に記されている、アマテラスオオミカミの岩戸隠れのエピソードが、日本で最古の笑いだといわれます。

太陽の神アマテラスオオミカミが、弟スサノオノミコトの乱暴狼藉に腹を立て、岩の洞窟である天岩戸(あまのいわと)に閉じこもってしまい、そのため世界が真っ暗になり災いが起こりました。

そこで神々はアマテラスオオミカミをおびき出す為に岩戸の外で大宴会を行い、女神アメノウズメは着衣を脱いで全裸でこっけいな踊りを披露したところ、これを見て八百万の神々が一斉に大笑いした、という例のはなしです。

その笑い声が気になったアマテラスオオミカミが、岩戸を少しだけ開けて様子をうかがった所、神々の連携プレーで外に連れ出され、再び世界に光が戻った、めでたしめでたし、というわけです。この神々を笑わせた芸能の女神アメノウズメは日本最古の踊り子と言え、また最古の芸能人ということもいえます。

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このように、古代社会においては「芸能」というものは、神や支配者を楽しませるもの、奉納するものとしての要素があったわけで、「竹取物語」、「今昔物語」などにも、こうした、おかしみのある話が多数納められています。

その後、これらは物真似や軽業・曲芸、奇術、幻術、人形まわし、踊りなど、娯楽的要素の濃い芸能として発達していきましたが、それらの中から出てきたものが、能や歌舞伎、人形浄瑠璃(文楽)といったものです。

江戸時代までには、武士の世界で、面白い話を主人などにする「御伽衆」なる職業が成立し、こうした話芸に秀でた人々がまとめた講釈話が庶民に広がり、講談や落語の源流となったと言われています。

滑稽な話を集めた「笑話集」的なものも多数発刊されるようになり、「醒睡笑(せいすいしょう)」「昨日は今日の物語」「浮世風呂」などがヒットしましたが、後世で最も有名なのは十返舎一九の「東海道中膝栗毛」などでしょう。

「エレキテル」で有名な平賀源内も、「笑府」というお笑い本の抄訳「刪笑府」を出版しているぐらいで、そのほかいわゆる「小咄(こばなし)」といわれるようなショートショートコントの原案も、元はこうした和漢の笑話本の翻案に由来しているものが多いとされています。

また、江戸時代初期にはじまって盛んになった「滑稽噺」は、上方では「軽口噺」とも呼ばれ、特に「落ち」が特徴的だったので江戸中期には「落し噺」と呼ばれるようになりました。明治に入って「おとしばなし」を「落語」と書くようになり、明治中期以降はこれを「らくご」と呼ぶようになりました。

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このように、日本における「笑い」は、芸能と結びついて独特の文化の源流となってきましたが、世界的にみると、こうした笑いを「芸術」にまで昇華させたものというのはほとんど例をみません。

「喜劇」はあるいは日本の「狂言」に近いものかもしれませんが、各国でこれを独自の文化としたものは少なく、フランスやイギリスで「スケッチ・コメディー」と呼ばれる笑いを題材にした寸劇が流行した時期があったぐらいです。

演劇のジャンルのひとつであり、19世紀の中ごろからイギリスで発達した文化ですが、そもそも本劇の合間に、酒を飲んだ観客が囃し立て劇場内を盛り上げるためのようなものだったようです。

ところが、その後酒を販売することを禁止する「劇場法」というものが制定されたため劇場では演じることができなくなり、ミュージックホールのような大衆酒場も兼ねたところで、演じられるようになりました。

が、師匠が弟子をとってその技術を伝承していくような類のものではないようであり、ましてや国が認定して賞を与えるようなものではなく、どちらかといえば大道人芸に近いものだったようです。

このほか、「笑劇」というのがあり、これも「道化芝居」ともいわれるもので、観客を楽しませることを目的とした、演劇または喜劇の1形態ではあります。が、これはヴォードヴィルと並んで最も低級なものとされています。

ヴォードヴィル(vaudeville)は、日本語ではボードビルともいい、これは、17世紀末にパリの大市に出現した演劇形式です。その後アメリカにも伝わり、舞台での踊り、歌、手品、漫才などのショー・ビジネスを指すことばとなりましたが、本場フランスと区別するために、「アメリカン・ヴォードビル」と呼ばれるようになりました。

イギリスでは、これがミュージック・ホールで演じられ、上述のように「笑劇」と称されました。イギリス英語では“farce(ファース)”がこれに該当します。

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このヴォードヴィルやファースは、実はその後の映画界において重要な役割を持つようになりました。

発明王として有名な、トーマス・エジソンは動画撮影機「キネトグラフ」を発明した、といわれていますが、これは実は部下のウィリアム・ディックソンの発明です。

しかし、自らはこの映画のプロデューサーとして活躍し、1893年には、自分の研究所の敷地内にアメリカ初の映画スタジオ「ブラック・マリア」を設立し、キネトスコープ用の白黒フィルムを制作しはじめました。そして1901年にはマンハッタンに、1907年にはブロンクスに新しい映画スタジオを開き、約1200本のフィルムを制作しています。

ヴォードヴィルやファースの演芸場は、もともとはこうした映画を観客に見せるための前座でしたが、エジソンは、自らが製作した映画の題材のいくつかにヴォードヴィルの見せ物を取り上げています。

その後、映画はエジソン以外の企業家によっても造られるようになり、その中でもヴォードヴィルは、映画の主題として扱われるようになりました。そして、初期サイレント映画の中でもとくにもてはやされるようになっていきます。

このサイレント映画は、映画の歴史の中で重要な位置を占めており、その理由はチャーリー・チャップリンやバスター・キートン、ローレル&ハーディ、マルクス兄弟、ジミー・デュランテといった、その後の映画界を代表する役者たちを登場させたからです。

こうした1910年代から20年代のサイレント・コメディの有名なスターたちは、ヴォードヴィルやミュージック・ホールに出演したのちに映画産業に入りました。

観客を笑わせること及び観客の笑いを引き出すことを主目的としたこうした喜劇映画の中でも、特に体を張ったコメディ映画のことスラップスティック・サイレント・コメディといい、日本では「ドタバタ喜劇」と訳されるこれらの映画は、次々に大ヒットしました。

そして彼らはヴォードヴィルの伝統をトーキーの時代になっても続けていきましたが、その後あまりにも映画という産業がビックになったため、ヴォードヴィルそのものに出演する役者はいなくなり、結果的には映画がその形態を衰滅させる、という皮肉な結果になりました。

このように、欧米における「笑い」を題材とする産業の発達は、日本とは全くといっていいほど違う発展を遂げてきたわけです。

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この映画は今や日本にも浸透し、数々の喜劇映画なども作られていますが、同じ大衆演芸の笑いを源流とする能や歌舞伎と違って、どこか軽薄な感じがするのは、その歴史が浅いからでしょう。

スケッチ・コメディーの発祥から160年ほど、またエジソンらのキネトグラフの発明からは120年ほどしか経っておらず、日本の能や狂言の起源といわれる、散楽や猿学は既に平安時代からあるといわれています。だとすると、1000年以上のお笑いの歴史があることになります。

ヨーロッパでも昔は古代の日本のような原始的な大衆芸能があり、その中で扱われたお笑いがあったはずなのですが、それが日本のように芸能として育まれなかったのは、やはり多数の国が隣接し、戦争と併合・分離を繰り返すことで、ひとつの文化として育てることができなかった、ということが挙げられるでしょう。

一方、中国やインドといったアジア諸国も、ヨーロッパほどではないにせよ、やはり隣国と接する機会が多く、ヨーロッパと同じく独自の芸能文化が育まれにくかったでしょう。もっとも中国には京劇といった伝統芸能があるようですが、これも発祥はせいぜい18世紀のころのようです。

日本は島国であり、一つの文化が他国の文化と交わることもなく独自化し、またその中で枝分かれして成長し熟成する時間が長かっただけ、その内容が濃くなったということは当然といえるでしょう。

しかし、現在のように欧米はもとより、仲の悪い中国や韓国との関係もそれなりに保っている中で、従来のような独自文化がそのまま維持されるとは限らず、時間を経て変わっていく可能性は大です。

例えば、歌舞伎にすれば、「スーパー歌舞伎」に代表されるように、より現代人には馴染みやすく、また外国人にも楽しめるようなものに変わってきており、変化することで進化する、ということを実践しているように思われます。

落語や漫才もしかりであり、最近は英訳されたものがあちらの人には結構受けたりするだけでなく、欧米人で落語家をめざす人なども出てきているようで、いまや伝統的な日本のお笑いもグローバル化しつつある時代といえるようです。

世界中が日本の文化で笑う、という時代もくるかもしれず、そうだとすると我々の責任は重大です。世界を笑いのるつぼの中に落とし込むことは、平和にもつながるからです。

冒頭で、笑いは医学的にみて色々なメリットがあることを書きましたが、このほかにも笑いには免疫系の「NK細胞」の活性を高めるなどの健康増進作用があると言われており、日本のお笑いは医学にも貢献しそうです。

このNK細胞というのは、癌を抑える効果があるとされる細胞で、「ナチュラルキラー細胞」とも呼ばれ、ガンの予防と治療の効果があるとされるものです。

上でも笑うと自律神経のうちの副交換神経が交感神経が活発になりと書きましたが、この二つの神経の頻繁な切り替えが起こると、その脳への刺激により、免疫機能を活性化するホルモンが全身に分泌されます。

このホルモンのことを、「神経ペプチド」といいますが、NK細胞はこの神経ペプチドを受け取ることによって活性化されるのです。

つまり、笑いは癌をやっつけてくれる、というわけで、癌撲滅のためのひとつの手段にもなりうる可能性を秘めているわけです。このほか、笑いは糖尿病の治療にも有効との研究もあるようです。

さすれば、全国にある癌の研究センターなどでも「お笑い研究室」なるものを作って研究をスタートさせればいいのでは、と私などは思うのですが、今のところその動きはなさそうです。

今日4月1日にそうした研究所ができた、とするウソが出回れば面白いのに、と思ったりもするのですが、どこかの新聞社かテレビ局がこのブログを読まないでしょうか。

そんなかんなで、もう4月です。一年の4分の1が過ぎたことに唖然としている人も多いと思いますが、私も同じです。

今年の初めに計画立てたことを現実にしようと思えば、まだまだ頑張らなくてはならず、とても笑ってばかりはいられません。

が、そんな中でもスマイル、スマイル、と毎日を過ごしましょう。笑う門には福来るといいます。しかし、「笑い三年泣き三月」のことわざにもあるように、実は笑うというものは意外にも難しいものです。

福を呼び寄せるためにも、今年はぜひいつでもどこでも笑える技術を身に着けることにしましょう。

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