あいかわらずマスク不足が続いています。
このマスクの効用については、他の人からの感染を防ぐためと、自らが感染源とならないための二つがある、ということは、昨今の報道で多くの人が認識するようになったかと思います。
ただ、日本では自らが病原菌をばらまかないようにするためというよりも、自己の感染予防のためにマスクを使うという人が多いようです。冬場には、4割以上の人がマスクをするというデータがあるほどですが、これはインフルエンザなどの感染症予防のためということでしょう。
こうした習慣が一般化したのは、2002年(平成14年)の重症急性呼吸器症候群(SARS)の世界的流行によるところが大きかったといわれています。これにより予防意識が高まった結果、2009年の新型インフルエンザの流行では家庭用マスクの売り上げが急増し、このときもマスクが売り切れる騒ぎが発生しました。
これが日本人のマスク着用率が高くなったきっかけと考えられていますが、一方では、このころから感染症予防のため以外の目的でマスクをする人も増えているようです。
「マスク依存症」とまでいわれるほどに、普段からマスクをしていないと落ち着かないという人も多く、こうした人の中には対人恐怖症であるほか、醜形恐怖症であったりする場合もあります。自分の顔が醜いとかたくなに信じており、その顔を人から見られることを嫌う人で、一種の病気と考えられています。
そこまでいかなくても、「人からの視線を少し軽減できる気がする」とか、「自分がどういうふうに見られているかを意識しなくてすむ」という人がいます。そもそもマスクを着けようと思っていないのに、何らかの機会でマスクをするようになり、やがてそうした効果に甘んじてしまうもののようです。
生の自分をさらけ出したくない、という気持ちはわからないわけではありません。しかし、こうしたマスク依存の弊害として、人とのコミュニケーションがとれなくなる、といったことがあります。
人は、相手の表情を見ながら会話をしています。とくに目と口元を確認しながら話をする傾向が強く、これによって相手が喜んでいるか、怒っているか、悲しんでいるかなどの感情を推測できます。しかしマスクをしてしまうと、それが読み取れなくなり、通常のコミュニケーションがとりにくくなってしまいます。
感情が読めない、何を考えているかわからない、といったふうになりがちであり、このため、親しみやすさが減り、良好な人間関係を築きにくくなってしまいます。さらに顔面の大半を覆うマスクによって印象は薄くなり、顔を覚えてもらえない、安心してもらえない、といった問題が生じます。
試しにマスクをはずして相手と話してみるとよくわかると思います。読み取れる相手の感情の情報量がぐっと増え、言葉を交わさなくても相手が言わんとしていることがわかるはずです。
最近は「おしゃれマスク」とよばれるように、色とりどりの模様のものや、キャラクターが描かれているマスクも存在し、ファッションの一種として取り入れる人も増えているようです。しかし良好な人間関係を築くという意味においては本来、マスクはない方が良いのです。
とはいえ、コロナウイルスの蔓延が続いている昨今、このあともマスクが手放せない状況が続くことは間違いないでしょう。マスクをつけることによる日々のちょっとした不自由は、感染によってもたらされる苦しみよりもずっと楽に違いありません。
ところで、このマスクというものの定義ですが、口元などの顔の一部を覆うものという印象が強いものですが、一方では顔全体を覆ったり、頭部全体にすっぽりとかぶるものを含めてマスクと呼ぶ場合もあるようです。
マスクによってカバーする部分によってその目的が異なりますが、顔全体を隠す場合には、装着するマスクそのものに意味がある場合もあります。例えば、日本に古来からある「お面」の中には、それをかぶることによって人格を変化させ、神や精霊・動物等になりきるために使うものがあります。
代表的なものに能面があり、古くから宗教的儀式や儀礼にも用いられてきたものです。様々な種類がありますが、超自然的なものを題材とした能ではその内容にあった面をつけ、人間以外のものを演じる場合も多くなっています。一方、狂言では、登場する人物は現世の人間であるため、通常は面をつけません。
このほか、舞踏、あるいは演劇などにおいて用いられてきたマスクがあり、こちらは一般に「仮面」と呼ばれます。仮面舞踏は、紀元前4000年ごろにすでに行われていたといい、アフリカでは、祭祀のために独特の仮面をかぶって踊る姿が壁画などに描かれて残っています。
一方、顔を「隠す」という意味合いが強いマスクは、一般に「覆面」と呼ばれます。布などのやわらかい素材で顔を隠すことが多く、硬質の素材で作られることの多いお面や仮面と差別化されています。
その目的は存在や目的を隠しながら行動することであり、「覆面強盗」は布で顔を覆って犯罪行為に走り、「覆面レスラー」もマスクで頭を覆うことで素顔を隠し、相手に弱みを見せないようにします。
また、目的を知られないための行動にも「覆面」という言葉を使う場合があり、「覆面調査」などがその代表例です。
ミステリーショッピングともいわれ、通常の調査では知ることのできない情報を入手するために行われるものです。一般には消費者動向を調べるため、調査員がその身分を隠し、一般人に扮してサービスを受けた結果を、依頼者にフィードバックします。
一種の潜入調査であり、一般消費者に交じって行われる調査です。誰が調査官であるのか、あるいは調査が行われていること自体が謎(ミステリー)であることから、ミステリーショッピングと呼ばれます。これによりサービスの品質をより消費者に近い立場で知ることができます。
1940年代にアメリカの企業が始めたといわれており、当初は従業員へアンケートを行ってその様子を録音したり、働く姿をビデオで録画してチェックしていたりしていました。しかし、録音機やカメラを意識するために本音が出なかったりすることも多いことから、こうした覆面調査を行うようになりました。
現在では、顧客を装って調査対象となる店などを訪問し、バレないようにスタッフや社員のサービスを観察し、また施設の状態をチェックする、といった形が一般的です。
「ミシュランガイド」や「ロンリープラネット」がこうした覆面調査を行っていることは有名であり、一般客を装った覆面調査員が、飲食店やホテルへ直接訪問し、そこで得た体験を基に作成された満足度の格付けをガイドブックとして公表しています。
ファーストフード店などでも同様の調査が行われており、ほかにも一般の小売店や飲食店、アミューズメント施設、医療施設など、接客サービスが中心となる業態において、覆面調査は広く普及しています。2012年には、民間資格として「覆面調査士」という資格制度も創設されたほどです。
一般社団法人・覆面調査士認定機構が認定するもので、その活動場所としては、コンビニエンスストア、飲食店、宿泊施設、服飾店、薬局、銀行など多岐にわたります。少し古いデーになりますが、2011年の調査では月間6万店舗以上がこうした調査士による覆面調査を受けており、2006年の調査結果との比較ではその需要は171%も伸びています。
一方、最近はでは「ネット調査」というものもあり、これはウェブサイト経由で一般消費者を対象にアンケート調査を行うというものです。質問要件に対して一定基準を満たした回答者に謝礼を行うというものであって、比較的少ない費用で済み、覆面調査士よりもお手軽ということで、利用する店舗も増えているようです。
さらに、覆面調査といえば、おなじみの「覆面パトカー」があります。高速道路などで交通違反をした車両を見つけると、赤色灯を露出させサイレンを鳴らして追跡し、検挙するあれです。お世話になった人もいるのではないでしょうか。
こうした交通違反を取り締まる覆面パトカーは、正式には「交通取締用四輪車」、といい、このほか政府閣僚や来邦した各国要人を警護に使うためのものを「警護車」、犯罪捜査の用に供するものを「捜査車両」といい、この3種を総称して覆面パトカーと呼ぶことが多いようです。
覆面パトに使われる車両は、警護車両としては高級車やスポーツセダンが採用される場合が多く、防弾ガラス仕様も存在します。捜査車両としてはセダン以外にもミニバンやSUVといった乗用車が使われ、その他の一般車も使用されます。私服の刑事警察官が乗務するものであり、警察車両と気取られないため、車種は多岐にわたります。
一方、交通取締用四輪車の場合はほとんどがセダンであり、それ以外の車種は少ないようです。また通常のパトカーに比べて需要台数は少なく、このためカタログモデルとして覆面パトカーの設定があるのはトヨタのクラウンのみだそうです。いわば特殊車両であるため、開発コストが高くつき、他社が尻込みするためのようです。
とはいえ、クラウンだけではなく、スバル・レガシィや日産・スカイライン、同じくトヨタ のマークXも使われています。地方では日産・セドリックが使われていることもあるようです。なので、覆面パトといえばクラウン、という思い込みはやめたほうがよさそうです。
こうした覆面パトカーは、カモフラージュが目的であるため、いかに普通の車両に見せるかが肝要です。このため覆面パトに乗務する警察官は必ずしも警察の制服を着ているとは限らず、「私服警察官」として、一般人と同じ服装でパトロールしている場合もあるようです。
パトカー自体もそれとわからないような工夫がされており、セダンが多いのはそのためです。セダンは他の車と比べても目立ちにくいためであり、色も白、黒、シルバーと地味な色が選ばれることが多いようです。
こうした目立たない覆面パトカーをそれと見破る一つの方法としては、「赤色警光灯」が車内天井部に格納さており、それを発見することです。窓ガラス越しにこうした格納された黒い箱状の部分が見えればそれとわかります。
緊急時にはルーフ中央部分が開き、中にあった小型の赤色警光灯が車の上部にせり上がって来るというものです。ただ、最近は窓ガラスをスモークガラスにしている車両も多く、なかなかそれであるとはわかりにくいかもしれません。
このほか、警察無線用のアンテナに着目するという手があります。古くはラジオアンテナを模したものやパーソナル無線用のアンテナ・自動車電話用アンテナを模したタイプが使用されており、一目でそれとわかりました。とはいえ、最近ではこちらも、フィルムアンテナなどに変わり、すぐにはわからないようになっているようです。
こうした工夫?によって検挙率が高くなっているのかどうかはわかりませんが、最近の覆面パトカーは認識が難しくなっているのは確かなようです。そもそも違反をしなければお世話になることはないわけですが、追い越しなどでうっかりとスピードが出ていた、なんてことはよくあるもの。くれぐれもお気をつけください。
このほか、覆面といえば、「覆面オーケストラ」というのもあります。レコードやCDなどの録音媒体に通常の正式名称が記載されておらず、実体が隠されているオーケストラのことで、ここでの覆面は、身分・経歴情報を隠す「匿名」を意味します。
過去から現在に至るまで数多くの覆面オーケストラがありますが、「コロンビア交響楽団」というのが有名です。アメリカの、コロンビア・レコード社とその関連会社によって組織された「録音専用」のオーケストラで、ブルーノ・ワルターが晩年に指揮したものをステレオ録音で残したことなどで知られています。
ブルーノ・ワルターは、ドイツ出身のピアニスト・作曲家・指揮者で、戦前や戦後間もなくの日本では、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、アルトゥーロ・トスカニーニと合わせて「三大巨匠」と呼ばれ、20世紀を代表する偉大な指揮者の1人とされる人物です。
このオーケストラの実体は、ハリウッドの映画スタジオの奏者たちによって組織されていた「グレンデール交響楽団」の変名であるという説や、「ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団」のメンバーを主体にしつつ、それにハリウッドの映画スタジオに所属する奏者などを加えたという説があります。
いずれにせよ、実際にそうした楽団が存在していたことは間違いないものの、どこの楽団が母体のであるかは公表されておらず、レコードの表紙には「コロンビア交響楽団」とだけしか書かれていません。
なぜこうした覆面オーケストラが必要かといえば、そもそもが臨時編成のオーケストラであるためです。録音だけの目的でさまざまな演奏家を集めて結成したオーケストラです。その名称での活動は録音のみであり、終了したら解散します。また当然ですが、演奏会などの一般活動は行いません。
音楽会社との契約の関係で正式名称が公表できないために変名を使用している場合などもあります。このように、その実態については公表したくてもできない、あるいは必要がない、といった楽団を覆面オーケストラと呼びます。
日本でも例があります。二ノ宮知子さんの漫画「のだめカンタービレ」が映画化されたとき、CDも製作され、その際、「千秋真一指揮R☆Sオーケストラ」というオーケストラが結成されました。
「ブラームス:交響曲第1番ハ短調+ドヴォルザーク:交響曲第8番ト長調第1楽章」などが収録されている本格的なものでしたが、指揮者の「千秋真一」は原作漫画の主人公そのものの架空人物であり、また「R☆Sオーケストラ」も漫画内に登場する同名のオーケストラでした。
オーケストラの実体は公表されておらず、どこのどういった楽団が演奏しているのかも明かされていません。これとは別途、テレビドラマ版などの楽曲を演奏するために、「のだめオーケストラ」が結成されており、こちらも東京都交響楽団の団員を核とし、オーディションで集められたメンバーを加えた臨時編成オーケストラ、と発表されています。
しかし、「R☆Sオーケストラ」との関係性は明らかにされておらず、その正体は現在に至るまで「覆面オーケストラ」のままです。こうしたオーケストラは、その存在に違法性があるわけではありませんが、時として、実は超有名な楽団が演奏をしていた、なんてこともあるわけで、話題性の面からマスコミなどで取り上げられることが多いようです。
覆面オーケストラのように「匿名」が目的という意味では、「覆面作家」というジャンルもあります。
素性やプロフィールを明らかにしていない作家のことで、プロフィールには謎の部分が多く、基本的に本名や顔写真は公開されません。また、ペンネームではなく本名で活動している場合であっても、それ以外のプロフィールは公開されないことが多くなっています。
基本的には「物書き」、つまり文学作品や小説、雑誌などのコンテンツを書く人のほか、漫画家、作詞・作曲家などに覆面作家がいます。覆面作家を自称する場合も自称しない場合もあり、すでに著名になっている人物が他の名義で覆面作家になる場合もあれば、当初から素性などを全く明らかにしない覆面作家もいます。
彫刻や絵画の世界にも覆面作家もいるようですが、そもそもペンネームで活動していて氏素性がわからない作家が多く、話題にはあがることは少ないようです。文字や音楽による作品ほど大量に出回ることがないため普遍性がなく、匿名作家として名を売る意味やメリットがあまりない、といった理由もあるようです。
ただ、最近、全世界でその名を知られるようになった、バンクシーは別格です。街中の壁などに反資本主義や反権力など政治色が強いグラフィティを残すこの作家は「芸術テロリスト」とも呼ばれ、芸術家というよりはむしろ政治活動家のようです。
こうした作家が素性を隠して覆面作家として活動する理由はさまざまあるようです。ひとつには、著名人・既存作家と明らかにしないことで作品に先入観を持たれないようにしたいということがあり、ほかには匿名作家とすることで他とは違うんだという印象を与え、独自性を高めたいということがあります。
また、ときには、普段自分が創作しているものとは少し毛色の異なった異質の分野の作品を発表したい、という場合があります。こうした場合、別の作家名で公開することで別人が描いたものと思わせ、実は同じ人物であることを発表して驚かせる、といったことができます。この人はこんなにも多才な人なんだというインパクトを与えることができるわけです。
覆面作家として活動する理由としては、ほかに実務的な面も考えられます。クライアントとの契約の都合上、本来のプロフィールが公表できない、といった場合がそれで、例えば作家が塀の中に入っており、氏素性を明かすとその作品の入手経路が問題になる、といった場合などです。
また、その作家が副業としてその創作活動を行っている場合には、勤務している会社・機関から圧力がかかる可能性がある、といったことや、勤務先が副業を禁止しており、作家活動が知られると解雇される恐れがある、といった場合があります。
このほか、素性を明らかにして自らのプライバシーや名誉を荒らされたくない、という場合があります。収入をあてにされる可能性があるので、その活動を家族や親族に内緒にしている、といった場合もあります。
さらに、描いている作品が、性描写を含む成人向け作品であったり、反社会的な作品であったりする場合には、自分の家族だけでなく、知人にもその正体を知られたくない、といった作家が多いようです。
とくに反体制側の人間として作品を世に出したいという場合には、政府から迫害され、最悪は拘束されることもあるわけです。このため名前だけでなく、性別・国籍・民族などの出自・身元までも装い、執筆することもあります。文筆活動が自由に認められていない中国にはこうした匿名作家が多いようです。
もっとも、一般的な覆面作家も基本的には本名を伏せペンネームを使用することが多いものです。その顔・素性・経歴なども明らかにしないことも普通であり、世間から見たその人物像はまったく謎に包まれています。
このため、覆面作家の作品がベストセラーになったり主要な文学賞を受賞したりすると、一般大衆の興味を惹きつけ、大きな社会的関心事となります。話題性の高い作品であればあるほど、マスコミは視聴率や発行部数の向上を目当てに騒ぎ立てます。
こうした場合、興味本位にその覆面作家の顔や人物像、個人情報などの秘密を曝露させようとする動きが加速します。とくに、その匿名作家が有名人らしい、といったことがわかったときには、「報道・表現の自由」といわんばかりに、行き過ぎた調査が行われます。
時には、マスコミにスクープを売り込むことを生業としているパパラッチや私立探偵までもが投入されて覆面作家の素性を暴こうとします。ここまでエスカレートしてくると、当該作家のプライバシーの保護の問題もさることながら、その後の執筆活動の可否も絡んできてさらに複雑な問題に発展することもあります。
匿名でやっている仕事を副業でやっている場合は、その人が勤めている会社に迷惑がかかることとなります。またそれをメインの仕事としている場合でもその素性を広く知られると出版業界内での活動に支障を来たす、といったことにもなりかねず、こうなると商売上がったり下がったりです。
一方、こうした匿名作家の中には、書籍や記事、脚本、作詞作曲などを有名人に代わって「代作」することを生業とする著作家もいます。「ゴーストライター(ghostwriter)」と呼ばれ、変名を使い正体を明かさないまま作品を公表する覆面作家とはまた区別されます。
その正体が明かされる場合、こちらも大きな社会問題になることがあります。一般に、ゴーストが勝手に名乗りを挙げることは、出版業界のモラル上の大きなタブーとされているためです。
秘密裡に代作をすることを条件に作品を作っているのであり、そうした作家自体が実在していることそのものがタブーなのであって、それが明らかになった場合には代作を依頼した本人のキャリアにも傷がつくことになります。ゴーストライターはあくまで影武者を貫き通す、というのがこの業界のモラルであるわけです。
しかし、ごくたまにゴーストライターがゴースト以外の作品で成功する、といったケースもあり、その実在が表に出ることがあります。ゴーストも作家である以上、その才能を認められることはうれしいに違いありませんが、問題となるのは、こうしたとき、代作してヒットした過去の作品を自分が作ったと公表してしまうことです。
当然代作を依頼した「著者」の面目は丸つぶれとなり、ときには代作者のほうが有名になって、元の著者の名声は地に落ちる、といったことになります。依頼者は追及をされない限り、代作であることを黙っている人がほとんどであり、あくまで自分で書いたかのように振る舞っていますから、そのダメージは相当大きなものになります。
2014年、耳の聞こえない作曲家として売り出していた佐村河内守氏が、実際は自分で作曲していないこと、また言われるほどの聴覚障害がないことを、彼のゴーストライターである新垣隆氏が告発する、という事件がありました。
通常は表に出ないゴーストライターが公になったことで大きな注目を集め、この結果、既に出版されていたCDや本は出荷停止されるところとなりました。しかし、当の新垣氏はその後、実名で作曲家として売り出して成功をおさめ、数々のバラエティーに出るほどの人気者になりました。
この事件があったころ、新垣氏は桐朋学園大学音楽学部の作曲専攻非常勤講師を務めており、問題発覚後、本人の申し出により一旦退職が決まっていました。ところが、慰留を求める学生からの多数の署名が集まったことにより、退職は白紙化されたといいます。
学生やその保護者が行ったツイートには「優しくまっすぐで物腰柔らかな方」「現代音楽の面白さを体験を通して教えて下さいました」といった好意的なコメントが多く、こうした支援の声が彼のその後の人生を変えました。
一方、佐村河内氏は、その後障害者とはいえないレベルであることなども暴露され、同氏の全国ツアーを企画していた音楽会社からは、ツアー中止による損害賠償を求められました。その裁判は敗訴に終わり、また真実を知った多くのファン達の信も失いました。現在も音楽活動は続けているようですが、最近マスコミには全く登場しなくなりました。
こうした音楽業界では、かねてよりでゴーストライターの存在が噂されていました。とくにテレビ番組の主題歌やコマーシャルソングの製作をめぐってそうしたことが多かったようです。しかしこのような発覚例は稀で、その存在は長らく秘匿され、表に出ることはめったにありませんでした。
一方、出版業界においても、著名人とされる人の名で出版されている本のうちのかなりの割合がゴーストを使っていると言われています。文筆を主業としないタレントや俳優、政治家やスポーツ選手、経営者、学者の多くがゴーストライターを使っていると噂されてきましたが、かつてそれが広く公然化されるということはありませんでした。
それを明らかにしたのが、KKベストセラーズの創業者・岩瀬順三氏です。1982年11月17日にNHK教育テレビで放送された「NHK教養セミナー「に出演した岩瀬氏は、当時ベストセラー第2位だった江本孟紀の「プロ野球を10倍楽しく見る方法」をそれであると暴露しました。
「プロ野球を10倍楽しく見る方法」はプロ野球の暴露本の草分けとしてベストセラーになった作品で、この当時220万部という記録的な売れ行きとなっていました。その後あらゆる分野で「〇〇を〇倍楽しく見る方法」といった書籍が出版されるようになったほどの草分け本であり、その暴露は世間に衝撃を与えました。
ただ、暴露といっても、既にその情報を得ていたアナウンサーが、「原稿をまとめたのは、実は出版社だという話ですが」と振ったのに対し、岩瀬氏はその一般的な正当性を述べたにすぎず、それほど過激でもないインタビュー番組でした。
岩瀬氏は「なまじ本人が書いて拙い文章の本をつくるより、言わんとすることを正確に、より読みやすく面白く書いてもらったほうがいい」と述べ、「江本孟紀の書いた本を売っているのではなく、“江本の本”を出しているのだと判断してもらいたい」とも発言して、ゴーストライターを軽く擁護するにとどめました。
しかしこの発言を世間はそうとは捉えませんでした。出版業界を代表してゴーストライターを肯定する発言だと考え、ゴーストライター必要論を強調したものと受け止めました。結果としてかねてよりあった批判を助長する形となり、ゴーストライターで儲ける出版業界もまた批判を浴びるようになりました。
ただ、この「事件」は、その後のゴーストライターブームを作るきっかけにもなりました。それまでは、著者が書いたものをそのまま本にするというのが一般的でしたが、その後はとくにビジネス書や実用書の分野でゴーストライターの起用が当然のようになり、それまでのように大きな批判を浴びなくなったのです。
最近では、メディアに頻繁に出演しているような有名人の自伝などがゴーストライターのものであるとわかっても、それを追認するような雰囲気すらあります。歌手では五木ひろしや松本伊代、スポーツ選手では王貞治や金田正一、俳優の長門裕之、といった有名どころがゴーストを使っていたようです。
こうした有名人のゴーストライターのほとんどは、作家やジャーナリスト・評論家・フリーライター・新聞記者・雑誌記者などの、物書きのプロフェッショナルです。一方では、高い知名度を持つ作家で、かつてゴーストを務めていた経験があったり、逆に自身がゴーストを使っていたりする場合もあるとされます。
また、ジャーナリストの肩書があっても、自分ではまったく書かない人もおり、いずれにせよ、知名度のある人物が表の顏となり、実際の作業はこうした裏方であるゴーストライターに任せる、という形です。役割分担をそれぞれ定めたいわば分業体制による作品づくりといえなくもありません。
こうしたゴーストライターが重宝されるのは、著名人といえども文章を書くことを生業としていない者がゼロから原稿を書き上げるのは現実的には難しいためです。また、また書いたとしても、そのままでは読みづらく読者が理解しにくい文章になりがちだからです。
このため、ゴーストライターは文章を書き慣れない人をサポートし、文章の質や量の向上に寄与している、一種の「職人」であるという見方もできます。
現在、約9割のビジネス書は、ゴーストライターが書いているという説もあり、なぜビジネス書かといえば、発売後の売れ行きが見込みやすく、出版の企画そのものも立てやすいからです。
また著名人の名を借りて著者とすればより売りやすくなります。文章力よりも著者の知名度によって売れ行きが大きく左右され、その著書のファンが多ければ多いほど本は売れます。
かつて一世を風靡した田中角栄の「日本列島改造論」や小沢一郎の「日本改造計画」は、ベストセラーにもなりましたが、これを代筆したのはとりまきの官僚や秘書などです。こうしたビジネス書はいったん火が付くと爆発的に売れる傾向にあり、また小さなヒットでも継続的に売れればそれなりに出版社は儲かります。
こうした書籍を頻繁に出版するためには、有名作家に直接の執筆を頼むよりも、その名を借りてゴーストライターに書かせたほうが効率的でありかつ、原稿依頼料も安く済みます。出版社も企業である以上、手堅く儲けるためにはそのほうが楽というわけです。
このように、とくにビジネス書や実用書ではゴーストライターの起用が当然となっているといわれている出版業界ですが、近年は小説などの「文学」ともいえるような分野においてもゴーストライターを使うのが普通のようになってきている、といいます。
とはいえ、それが明らかになることはビジネス書ほど多くはなく、そうした数少ないもののひとつとしては、元・ライブドア経営者の堀江貴文による小説、「拝金(2010)」と「成金(2011)」などがあります。
この本の表紙イラストを描いた漫画家の佐藤秀峰氏が、自らのブログで、「実際には堀江さんは文章を書いていません。代筆者がいるとのこと」と暴露したことでゴーストライター利用が発覚しました。
ビジネス書でこそ普通になっていますが、こうした小説におけるゴーストライターの起用は、音楽業界と同じく出版業界でも未だグレーゾーンにあります。
堀江氏はほかにも多数の著書を出版しており、以前からあれだけ多忙なのに、本当に自分で書いているの?という声もちらほら出ていたようです。普段自著とするビジネス書でのゴーストライター起用も隠さない堀江氏も、このときばかりは口を閉ざしてコメントを拒んだといいます。
これに先立つ40年前の1973年に出版された糸山英太郎議員の自伝「太陽への挑戦(双葉社)」もまたこうしたゴーストライターの存在が暴露されたものでした。直木賞候補になったこともある作家の豊田行二が翌年に同様の内容の本を小説として発表し、「オール読物(文藝春秋)」に発表した上で、自分が代筆をやった、と暴露しました。
この本は一年半で50万部を売り上げるベストセラーになっており、この暴露によって出版元であった双葉社の評判はガタ落ちとなりました。この発表によって批判にさらされることになった同社の幹部は怒りまくったと伝えられています。
もともと出版業界では、有名人やタレントの名を借りさえすれば本が売れる、という風潮がありましたが、それは隠してあくまで本人が書いたもの、ということを前提に売り出しを行っていました。当然、こうしたゴーストライターの存在を表に出すことはありませんでしたし、世間もそうした存在を知りませんでした。
しかし、この事件をきっかけに、その実態がだんだんと明らかになり、ゴーストライターを使った出版業界のなりふり構わぬマーケティング手法に疑問が呈されるようになっていきました。
上の堀江氏のゴーストライター疑惑もそうした中から発覚したものですが、その後もこうした暴露が続いた結果、最近では有名人の本が出版されるたびに、あれも実はそうではないか、と誰もが思うようになってきました。
それを逆手にとり、ゴーストライターの手によるものをわざわざ明かして手記を出すタレントまで登場するようになり、今やゴーストライター全盛の時代といっても過言ではありません。
出版社側が著者の作業のほとんどを行った場合においても、これは「編集者と著者の共同作業」だ、開き直るといったことすら増えています。
編集者がテーマを設定して、企画力を発揮し、編集者が徹底的に注文を付けて著者に書かせるという「創作出版」という形がある一方で、ゴーストライターのような他人の手を借りてこれを完成させるという形はむしろ普通だ、と主張する編集者は多いようです。
例えば、ノンフィクション作品や推理小説では取材や事実確認といった、いわば下調べ作業はデータマンの手に任せることがあります。「著者」であるライターはアンカーマンとして作品を書くだけといったケースも多くなっており、この場合のデータマンを彼らはゴーストライターではない、と主張します。
確かに一理はあるのですが、作家を自称する以上、取材からすべての素材を自分で集めるのが普通のスタイルであり、それを人に集めさせて、エッセンスだけを横取りするのが果たして許されるのか、と批判されてもおかしくはありません。
漫画の分野でも、漫画原作者は表には名前を出さずにストーリーだけを手掛け、作品自体は力のあるアシスタントや名もない別の漫画家に描かせるというケースがあります。キャラクター設定や物語の概要のみならず、ストーリー制作の実権まで雑誌スタッフや編集者が握る場合もあり、彼らが実質的な原作者である場合さえあります。
そういう場合であっても、編集者が原作者としてクレジットされることは少なく、その多くはゴーストライターと同様の形態になります。
音楽業界も同じで、名前や顔の売れているタレントや若手アーティストに作詞や作曲をさせるケースがあり、プロデューサーやディレクター、アレンジャーなどの専門家が「手直し」や「修正」をする場合があります。それらが多岐にわたり大幅になることも多々あるといい、結果として修正にかかわった人間がゴーストライター化してしまうことがあります。
ポピュラー音楽界では、鼻歌や主旋律程度しか作曲できない「シンガーソングライター」も多いといい、楽譜も読めないのに、単にルックスや奇抜さだけで世間受けしているアーティストはそこら中にいるといいます。
ある音大の学生によると、「作曲科専攻の学生が、担当教師の代わりに作曲することは珍しくない」といい、普通に恩師のゴーストライターをやり、1曲あたり5000円ほどのアルバイト料をもらっていた、といった証言もあるようです。
中には短期間ではぜったい一人で完成できなさそうな大曲もあり、こうしたものは同じ学科の学生が総出でゴーストすることもあるといいます。「実際の作曲者が無名の場合、世に知れた音楽家の名前で曲が売られることはよくある」との証言もあります。
バッハやモーツァルトのような大作曲家ですら、本人が作曲したことの確証が取れない“偽作疑惑”の曲が多く存在するといいます。
こういうふうになると、もう個人による代作や盗作といったレベルではなく、なにやら組織犯罪のような様相を示してきます。
1990年代前半、数々の犯罪によって当時の日本の社会へ大きな衝撃を与えた、オウム真理教の教祖、麻原彰晃は、自作と称する交響曲や管弦楽曲を多数制作し、教団の専属オーケストラ(キーレーン交響楽団と称していた)を自ら指揮して発表しました。
実際には麻原にはこれらの曲を書く能力まったくなく、彰晃マーチはじめオウム真理教の音楽を数多く製作した鎌田紳一郎ほかの専門的に音楽教育を受けた信者達が共同で制作したと言われています。
一方、アメリカの出版業界では、スポーツ選手や企業人など素人の文章を出版する際に、ライターやジャーナリストとの「共著」として発表されることが多いようです。この場合の共著者とは、クレジットされた(名前が明示された)ゴーストライターであり、文章執筆のすべてを公的に請け負っていて、著作者と対等な関係にあります。
たとえば、2006年に出版された「スリー・カップス・オブ・ティー」は、登山家から慈善活動家に転身したグレッグ・モーテンソンの自伝として売り出されました。
この本は、発売後220週もの間、「ニューヨーク・タイムス」紙のノンフィクション部門ランキングに載り続けたベストセラーであり、世界39カ国で翻訳、販売され、総計400万部以上を売り上げ、続編もベストセラーとなりました。
グレッグ・モーテンソン著とされるこの2冊の共著者はデビッド・オリバー・レーリンというジャーナリストでしたが、彼はこれを執筆するにあたってモーテンソンの協力が得られなかったため、想像によって彼の自伝のエピソードを大きく補いました。
この本がベストセラーになると、モーテンソンの慈善事業には多額の寄付金が集まるようになりましたが、のちにこのうち7〜23億円が行方不明になっていることが判明します。また執筆内容に虚偽のエピソードが含まれていることが明らかになり、これ対して大きな批判が巻き起こりました。
著者であるモーテンソンは、この非難に対して、今後は慈善活動にいっそう力をいれることで償う、として謝罪しましたが、共著者であるレーリンは批判キャンペーンが展開された翌年の2012年に49歳で自殺してしまいました。罪悪感やライターとしての将来への悲観からであったと推測されています。
同じアメリカでは、1990年にもゴースト事件が起こっています。男性二人組のダンス・ユニット「ミリ・ヴァニリ」はデビューから4曲の大ヒットを放ち、グラミー賞を受賞するなどの人気を博しました。しかし、実際には歌っておらず「ゴーストシンガー」に歌わせて曲を発表していたことが発覚し、グラミー賞は剥奪され、レコードも廃盤となりました。
騒動の後、本家のミリ・ヴァニリは事実上芸能界から追放されましたが、実際に歌っていた「影武者」たちはリアル・ミリ・ヴァニリ(本物のミリ・ヴァニリ)としてデビューし、ヨーロッパなどで一定の成功を収めました。
元祖ミリ・ヴァニリの、ロブ・ピラトゥスとファブリス・モーヴァンの二人はその後、ロブ&ファブとして再デビューを果たします。しかし、こちらは売れるはずもなく、ピラトゥスはドラッグやアルコールに溺れた挙げ句に強盗事件を起こし、カリフォルニアの刑務所に3か月間服役したあげく、1998年にアルコールと処方薬の過剰摂取でこの世を去りました。
2008年、中国でも同様のゴースト問題が発覚しました。北京オリンピック開会式で歌手を務め、その愛くるしい笑顔から「微笑みの天使」と呼ばれた9歳の歌手、林妙可(りん みょうか)が、実際には歌っておらず、口パクだったことが後日明らかになりました。
歌っていたのは楊沛宜(やんぺいい)という別の女の子で、この事件によって逆に売れっ子になりました。疑惑が発覚した翌年にはファーストアルバムをリリースするともに、香港で開催された創立60周年を記念する文化ショーに出演し、人気歌手ジャッキー・チョン(ジャッキーチェンではない)と共演するなどの人気者になりました。
片や林のほうは、それまでトヨタ自動車や松下電器など約40社のCMに出演するほどの売れようでしたが、この事件以後、インターネットなどで激しいバッシングを受けるようになりました。やがて私生活を暴露されるに至ったため、両親が芸能生活から遠ざけるところとなり、現在までもほとんど活躍の場がないようです。
この北京オリンピックが開催されてから12年。その開催国からやってきたウィルスで日本や世界中が大変なことになっています。
一方では、中国にあれほど多数いた感染者が今は減りつつあるといい、連日中国政府から発表されているこうした情報を全世界の人々が疑いの目で見ています。まさか、こうした情報までゴーストライターが書いているとは思えませんが、この国の隠ぺい体質を考えると、そうした疑惑もあながち嘘ではないと思えてきます。
そうした偽情報の発信を百歩譲って許すとしても、初動体制の不備によってこれほど世界中を巻き込む大惨事を引き起こすことになったことを、中国政府は少しは反省してほしいものです。
昨年亡くなった、堺屋太一さんは、 そのプロレス趣味が高じて「プロレス式最強の経営 “好き”と“気迫”が組織を変える」という本を執筆したそうです。ただその出版にあたっては、自分の名義ではなく「週刊プロレス」編集長を著者として出版したといい、印税も受け取らなかったそうです。
同じゴーストライターであっても、こうしたエピソードを知ると、何かおおらかさのようなものを感じます。趣味だからとはいえ、人の代わりにそれをやってあげて何ら見返りを期待しない、というのはなかなかできることではありません。出来上がった本はきっと生き生きとした内容のものなのでしょう。
一方、悪意をもって世間を欺き、自分だけが得しているような作家のものは読みたくもありません。ゴーストライターに頼むことで、簡単に自己の名声を高め、多くの収入を得ることができると考えている有名人がいるとしたら、そうした悪に与する一人ではないでしょうか。書くということはそれほど大変なことです。猛省してもらいたいものです。
えっ?このブログもそうではないかって? いえいえ、これは正真正銘、わたしが自分で書いているものです。しかも無償での行為であり、誰に非難される筋合いのあるものではございません。
広告を出しているじゃないかって? えーまあ少し…。しかし微々たる収入にしかなりませんし、ブログサーバの維持費には遠く及びません。
老い先短いことでもあり、その日々をほんの少し賑わせるための小遣いということでお認め下さい。
いつか大作家として認められるような日がくれば(永遠に来ないと思いますが)、そのときその収入は、かならずや感染症予防のために使わせていただきます。
それではみなさま、外出にあたっては今日もマスクをお忘れになりませんように。