笑う門には…

先日の志村けんさんの死は、日本中に衝撃を与えました。

人気のあるタレントさん、ということはそれだけ影響力があるということで、お役目のある人だったのでしょう。身をもって新しい感染症の恐ろしさを教えてくれたに違いありません。ご冥福をお祈りいたします。

この志村さんが、お笑い稼業に身を投じるようになったきっかけは、お父さんだったという話をテレビの報道などで知りました。

45年ほど前に亡くなった父・憲司さんは学校の先生だったそうです。厳格な人だったらしく、家にいるときはいつも重苦しい雰囲気が流れていたといいますが、テレビのお笑い番組で漫才や落語を見ると、声を出して笑っていたそうです。

幼かった志村さんは、普段は怖いこのお父さんがこうして笑う姿を見て、お笑いの世界に憧れを抱くようになったといいます。

こうしたエピソードを聞くと、人の人生を変えてしまうほど、笑いというものは力のあるものなのだということが実感できます。

そこで、今日はこの笑いとはいったいどういうものなのか、といったことを掘り下げて考えてみようかと思います。




ネットで笑いの定義を調べてみると、笑いとは、楽しさ、嬉しさ、おかしさなどを表現する人間特有の“感情表出行動”ということのようです。

では、ヒトだけでなく他の動物も笑うのかというと、人間に近い猿の仲間には笑いがあるようです。オランウータンやチンパンジーといったヒトに近い動物は、くすぐると声をあげて笑うといいます。

もっとも、人間はひとり誰かが笑うとそれが伝染して多数が一斉に笑いますが、猿にはそうしたことはありません。またユーモアや、嘲笑、他者を笑わせる「おどけ」といった行為も見られないそうです。

人類がまだ類人猿といわれていた時代のころもまたそうだったのかわかりませんが、ユーモアを伝えるためには少なくとも言語能力が発達している必要があります。猿レベルのコミュニケーション力ではそれはかなり難しいといえるでしょう。

さらに文字を使って笑いをとるといった高度なことは人間にしかできません。猿を含めて文字を自由に使える動物は人間以外皆無です。

人間が文字を使うようになったのは、紀元前4千年前くらいのことのようですが、ここまで遡るとさすがに笑いに関する記録はありません。洞窟壁画などにも笑いを表現したものはなさそうです。

最も古い笑いに関する記録は、紀元前400年くらいのものとされています。古代ギリシアの学者、プラトンが書いた笑いに関する考察があるそうです。

またほぼ同じ時代の人、アリストテレスも笑いについて触れており、喜劇について書いたものの中でそうした持論を展開しています。どうやったら人を笑わせるか、といった研究はこの当時から既にあったようです。

では、日本はどうかというと、最も古い笑いの記録と言われているのが「古事記」であり、これは誰もが知っている、アマテラスオオミカミのお話です。

あらすじをおさらいしてみましょう。

神々の暮す高天原(たかまがはら)を統(す)べる紳、太陽神・アマテラスオオミカミは、弟のスサノオノミコトの粗暴な性格を普段から快く思っていませんでした。その日もこの弟が引き起こした乱暴狼藉に、腹を立てたアマテラスは、ついに岩の洞窟、「天岩戸(あまのいわと)」に閉じこもってしまいます。

そのため世界中が真っ暗になってしまい、困った神々たちはアマテラスオオミカミをおびき出そうと、岩戸の外で大宴会を行うことにします。

飲めや歌えの大宴会が始まりましたが、神々のうちの一人、女神アメノウズメは、着衣を脱いで全裸になり、こっけいな踊りを始めたことから、これを見た八百万の神々たちが受け、大爆笑が宴会場に沸き起こりました。

その笑い声を岩屋の中で聞いていたアマテラスオオミカミは、何が起こっているんだろう、と岩戸を少しだけ開けて様子をうかがいました。そのとき、ここぞとばかりに神々たちが岩屋の引き戸をこじ開け、アマテラスを引き出すのに成功。こうして、真っ暗になっていたこの世に再び光が戻りました。

と、まあこれが日本で最初の「笑い」ということになっているわけですが、神様の話といいながら通俗的というか、なにか人間くささを感じる話です。

では、笑うという行為が、このように人間的である、とされる理由はなんでしょう。怒り、悲しみなどの表現はほかの動物にもあるようですが、笑うという行為を自発的に行っているのは人間だけです。

その理由のひとつとして、ヒトの笑いには「笑うもの」と「笑われるもの」という分離がある、ということが言われています。

笑うためには、何か(誰か)を対象とする、という心の働きが不可欠であり、「自と他」を明らかに分け、自が他を対象として見る「対象化」ができるのは人間だけです。そして、自分がその対象に対して、「突然の優越」を感じるときに笑いが生じるのだそうです。そうした説をイギリスの哲学者、トマス・ホッブズが唱えています。

何かおかしみのある事象を見聞きしたときに、思わず笑ってしまう、という経験は誰にでもあるものですが、そうした状況を思い浮かべてみると、確かにそれには「対象」があります。それに対して優越感というか、何か自分にはないものを見つけたような気になり、笑いが起こるような気がします。

生まれて間も無い新生児が、自然と笑顔をつくることが良く知られていますが、これを「新生児微笑」といいます。その理由については、はっきりわかっていないようですが、母親など世話をする周囲の人間の情緒に働きかけている、といわれています。つまり、こんな小さなころからでも「他」を意識して笑いかけているわけです。

この「対象化」には自分自身も含まれる、という点が特徴的で、たとえば自分自身の馬鹿さかげんを苦笑する、といった場合にも適用され、こうした感情に関わる自己表現ができるのもまた人間だけです。

一方、笑いは自然に生じるもので、考えや意志で引き起こしたりすることはできません。ただ、自然に生じるといってもある程度、心に余裕がないと出てこないものであり、緊張が高まっているときとか、何かに夢中になっているときには笑いは発生しません。

何かのことに真面目に取り組み、そのことで緊張している、という状況は、ヒトの自我がその状況の中に入り込み、その物事と「一体化」しようとしている場合であり、こうした場合には笑いの時に起きるような対象化は生じないようです。

これを逆説的に考えると、例えば非常に緊張感が高い状況が続いている中、上手に人を笑わせる人がいたりすると、それによって緊張がほどけ、余裕が出ることで自分自身を対象化することができ、これによって笑いが生じます。

こうした場合、よくよく注意してみると、そういう笑いが取れる人というのは、そのような状況からやや距離を置いて、安定した感情でその状況を客観的にみている人に限られる、ということがわかります。

つまり、笑いを得るためには、安定した感情を持ち、自己あるいは他人との間に適切な「距離」を置いているということが必須条件であり、このような心理的距離を保つという能力を持っているからこそ、人間は他の動物とは違うのだということが言えるのです。



さらにもう少し医学的な見地から笑いというものを見てみると、笑う、という行為を通じてヒトは「自律神経」の切り替えをしているらしい、ということがわかっています。

「自律神経」とは、血液などの循環や、呼吸、消化、発汗・体温調節、内分泌機能、生殖機能、および代謝といった、ほぼヒトのすべての生存機能を司っている神経系のことで、交感神経系と副交感神経系の2つの神経系で構成されています。

交換神経系は、激しい活動を行っている時に活性化しますが、一方の副交感神経系はこれとは対称的な存在であり、心身を鎮静状態に導きます。このふたつのバランスがうまく取れている状態というのが通常の状態ですが、何らかの原因によりこのバランスが著しく崩れたときには「自律神経失調症」といった病的な状況に置かれます。

情緒不安定、不安感やイライラ、ひどいときにはうつ病、パニック障害なども引き起こすことがあり、会社や学校に入りたての新人の中には、そうした失調症に悩む人もいるようです。自律神経失調症には様々な症状があり、病態は人それぞれですが、ひどくなると情緒不安定、や被害妄想、鬱状態など精神的な症状が現れることもあるので注意が必要です。

実は、そこまでひどく崩れなくても、この二つの神経系のバランスは、しょっちゅう不安定になっています。笑いという「症状」が引き起こされた結果、そのバランスは崩れます。

笑いが起こる場は、交感神経と副交感神経のふたつのうち、副交感神経が優位な状態になることがわかっており、副交感神経が優位になるという状態とは、これすなわち安らぎや安心を感じる、といった状態です。この状態が続くとストレスが解消されます。

一方、逆に交感神経が優位になる状態というのは、神経が興奮しているときなどであり、いわゆるアドレナリンが出ている場合です。何かのスポーツに真剣に取り組んでいる場合や必死に逃げるときなどそれですが、もっと興奮する状態、例えば喧嘩などで怒りや恐怖を感じるような状態になると強いストレスが生じることになります。

それが長く続くような場合、身体中の様々な器官に刺激が与えられる結果となり、場合によっては病気にもなったりします。上の自律神経失調症もそのひとつです。

笑う行為というのはその逆で、副交感神経を優位にさせ、ストレスを解消させることで心身が安定な状態になり、リラックスできます。アドレナリンに対してアセチルコリンという物質が神経系に流れやすくなり、副交感神経を刺激して、脈拍を遅くし、血圧を下げてくれます。

さらに、笑うことによって、NK細胞(ナチュラルキラー細胞)が活性化し、これによって免疫力が増す、ということもわかっています。ナチュラルキラー細胞とは、自然に免疫力を高めてくれるリンパ球であり、リンパ球とは血液中にある免疫系の白血球の一種です。

リンパ球にはほかに、T細胞やB細胞といった病原体や病原体に感染された細胞を排除してくれるものもありますが、NK細胞は、特に腫瘍細胞やウイルス感染細胞を取り除いてくれる能力を持っています。

細胞を殺すに際し、T細胞などでは病原体からの刺激を感知し「活性化」されて初めて病原体への攻撃能力を持ちます。これに対し、NK細胞は病原体によって活性化されなくてもその能力を発揮できます。

もともとそうした能力を持っている=生まれつき(natural)であり、こうした害のある他の細胞を壊すことから、細胞傷害性細胞(killer cell)ともいわれ、合わせてナチュラルキラー細胞と呼ばれています。

ただNK細胞もその能力を発揮するためには、何等かの形で活性化されなくてなりません。その活性化の方法のひとつが、交感神経からの働きかけであり、何等かの形で交感神経と副交感神経が交互に切り替わると、そのことが脳へ刺激を与え、このとき神経ペプチドという免疫機能を活性化するホルモンが全身に分泌されます。

NK細胞には、この神経ペプチドを受け止める受容体があり、これによってNK細胞が活性化されます。こうした活性化したNK細胞は、例えばウイルスに感染した細胞のような体にとって良くない細胞を攻撃するようになります。

そして、そうした交感神経の切り替わりを促すのが笑いです。もう一度おさらいすると、笑うことによって、交感神経が刺激される、それによって神経ペプチドが分泌される、さらにこれによってNK細胞が活性化し、悪い病原体をやっつけてくれる、という手順になります。

このNK細胞は生まれながらに何十種類もセンサー群をもち、これらを組み合わせて使うことで、普通の病原体だけでなく、癌細胞なども認識し攻撃して排除できることなどがわかっています。つまり、笑うことは癌の予防にもなり、治療にも効果がある、ということになります。

大阪国際がんセンターが漫才や落語を鑑賞した患者と、鑑賞しなかった患者のそれぞれ約30人の血液を採取して分析しました。その結果、鑑賞したグループはNK細胞を活性化するタンパク質を作る能力が平均で1.3倍上昇し、NK細胞自体も増加する傾向を確認できたということです。

どの程度笑いが癌に効くか、といった具体的なことはまだよくわかっていないようですが、少なくとも笑うことが癌にとって悪いことではないばかりか、良い影響を与えるということだけは確かなようです。

また、別の研究では、笑いは糖尿病にも効く可能性があると言います。京都医療センター臨床研究センターが行った実験では、笑いに代表されるようなポジティブな心理的因子が糖尿病やメタボリックシンドロームを改善する、といった効果が確認されています。

笑いは脂肪を燃焼してインシュリンの働きを助けるそうで、これによって糖尿病の改善が期待できるということです。

また、昨年(2019年)、山形大学医学部は滅多に笑わない人はよく笑う人に比べて死亡率が2倍にのぼる、という研究結果を発表しており、この中で脳卒中などの心血管疾患の発症率がとくに高いことなども明らかにしています。

さらに別の研究では、笑うことで頬の筋肉が働き、動くことによってストレスが解消され、これによって鎮痛作用のあるタンパク質の分泌が促されることなどがわかっています。ストレスが下がることでさらに血圧が下がり、心臓を活性化させ、運動した状態と似た症状を及ぼします。これが血液中の酸素を増やし、さらに心臓によい影響を与えるといいます。

このように、笑いは、癌や糖尿病、脳卒中、心臓病といったいわば現代病の代表的なもののほとんどに効果がある、といったことが医学的にも証明されつつあります。

こうした結果を受け、「ポジティブな心理要因や笑う習慣」を取り入れた治療法の提唱を目指す研究者たちも増えてきているということです。

将来的には患者さんをわざと笑わせることで現代病を治療する、といった最新の病院施設もできるかもしれません。病院なのに毎日が笑いにあふれているとうのは素晴らしいことです。ぜひ実現してほしいものです。




ところで、この「笑い」にはいろいろな種類があります。例えばつくり笑いや愛想笑い、苦笑い、泣き笑いなどがあり、ほかにも失笑や冷笑、照れ笑いや愛想笑といったものがあります。

これを英語で表現すると大きく二つに分けられます。可笑しさによって笑う「laugh」と、嬉しさによって微笑む「smile」のふたつがそれです。

両者は同じように見えるものの、よく考えてみれば違うものであることがわかります。“laugh”のほうの笑いは、多くの場合声や音が加わりますが、“smile”のほうの微笑みは声をたてずに、ニコリと笑うだけです。

それぞれの英語表現をみるとさらに理解が進みます。例えば“Smile gently”は、「穏やかに微笑む」であって、歯をむき出しにせず、上品な口元で女性が笑う姿が想像できます。また“Have a bitter smile”は「苦笑する」であり、思わず苦笑いをする時に使います。

さらに、本当は楽しくないのにその場を取り繕って笑うのは、“Force a smile”であり、これは「作り笑いをする」です。ほかに“Smile reminiscently”というのがあり、これは「思い出し笑いをする」であり、“Have a fearless smile”は「不敵な笑みを浮かべる」であって、smileを使った微笑み表現はすべて声や音を伴わないことがわかります。

これに対して、「声を出して笑う」laughでは、例えば“Burst into laughter”というのがあり、これは「吹き出す」という意味です。Burstは「爆発する」という意味で、いきなり、ぷっと吹き出す、といったときに使います。

また、“Laugh scornfully”は「鼻で笑う」で、“scornfully”は「軽蔑して」という意味の副詞になります。「相手を見下し、ふんと笑う」という時の表現です。“Laugh to oneself”は周囲に気づかれないように声を潜めて笑うことであり、つまり「忍び笑い」です。直訳すれば「自分自身に笑う」であり、「必死に笑いをこらえている」状態です。

さらに“Cause an explosive laughter” は大爆笑が起こった、というときに使い、“Laugh boisterously”といえば、「ゲタゲタ笑う」、あるいは「高笑いする」といった場合に使います。水戸黄門が「カッカッカッ」と笑うのもこれですが、日本語の高笑いとは少し表現が違うような気がします。

なお、日本語では笑い声をそのまま音にして「あはは」や「イヒヒ」のような擬音語(オノマトペ)で表現しますが、英語では日本語に比べるとオノマトペを使う場合があまり多くありません。

とはいえ、オノマトペが全くないわけではなく、「hee-hee」、「thhee」、「tee-hee」といった表現は「イヒヒ」という笑い声をそのまま音写した表現です。アニメや漫画の英語字幕で比較的多く目にします。

このように、英語の“laugh”に相当するものは、どれも声や音が加わる笑いであり、これを伴わない”smile”とわりと明確に区別できることがわかります。

しかし、いずれの場合もポジティブな笑いとネガティブな場合が含まれている点は同じであり、また、自然な笑顔と不自然な笑顔があります。

微笑み“smile”を例にとれば、心に嬉しさがあって自然に出ているものと、そうではなく、内心嬉しいとは感じていないのに意識的に表情筋を動かして作っている笑顔があります。また”laugh”の中にも、心から笑う場合もある一方で、「鼻で笑う」のようにネガティブな感情を表情に出したものがあります。

言語学を研究している学者の中には、人と人のコミュニケーションの研究や、あるいは嘘の研究を通して、こうした違いがどのように発現するのか調べている人がいます。それによれば、例えば自然な笑顔は、眼もとまわりの表情筋が中心になって動きます。眼もとまわりがゆるんでほほえみ、わずかに「たれ目」ぎみになる状態です。

これに対して、意図的・作為的に作られた笑顔というのは、口もとあたりの表情筋肉が主に動いていて、眼元の表情筋がほとんど動きません。口の端だけが引っ張られてつりあげられたような笑顔であり、こうした場合のほとんどは、心に喜びがあってでた笑顔ではなく、意図的あるいは作為的に作っている笑顔です。

このことから、相手が心から喜んでいるか、それともそうでないかを見分けたかったら、口元はできるだけ見ないようにして、眼元をよく観察すればよい、ということがわかります。

その場合、眼元もわらっていて、なおかつ口元も笑っていれば、ほぼ問題はありません。しかし、目が笑っておらず、口の端だけが吊り上がっているようなら、無理に笑顔をつくろうとしていると推測できます。

「引きつった笑い」という表現がありますが、これもそのひとつで、一見笑っているように見えても、本心ではむしろ不快に思っている場合がほとんどです。相手をうまく操作して商売をうまくすすめようとしていたり、だまそうとしている場合には、よくみるとこうした引きつり笑いになっていることがあります。

もっとも、このように意識的に作られた微笑みというのは、通常のビジネスの場でもよく見られます。町の商店で従業員がお客に接する時などでも、とりあえず少なくとも敵意は持っていないということを示すために、笑顔を作ってみせる、といったことはよくあるものです。初めて会った人へ挨拶するときなどでも、特に感情が無くても笑えます。

この場合、心を込めて挨拶しようとしている人の目元は笑っています。必ずしも作り笑いが悪意のあるものとばかりもいえないわけであり、そこには儀式として笑いを使うことでコミュニケーションを円滑にしたいという意図があります。

このほか、どうしても微笑む必要がない場合でも、作為的に笑みを浮かべることによって、気分を高揚させる、といったこともあるでしょう。

人は笑顔を作ると、その時の筋肉の状態が、感覚受容器から脳にフィードバックされます。例えば顔の皮膚には、痛覚、温覚、冷覚以外に、圧覚(押された感覚)や触覚(触れた感覚)の感覚受容器があり、笑って皮膚がひきつると、こうした受容器への情報が脳に伝えられ、そうした情報が「嬉しさの内部モデル」として記憶されます。

笑っている表情を作っている時は、その情報が脳に伝わり、それが嬉しい時であると判断するため、こうした過去に構築された嬉しさの内部モデルが働き、結果として、脳内で「嬉しい」と感じる反応が起こります。こうしたとき、本心はそうでないとしても、今私は嬉しいのだ、という気持ちが沸き起こってきます。

無理に作った笑いであっても、脳内で嬉しい気分を示す反応がおきるわけであり、その笑いには人の心を豊かにする効果があるのです。



一方、悲しいはずなのに、自然に笑みが出てくる、という特殊なものもあるようです。本来なら悲しむべき状況であるにもかかわらず、微笑むという習慣は、日本独特のもので、2010年に日本とオランダの大学で行われた共同実験においても、そうした笑いが確認されました。

もともと日本人は文化的に本当の感情を出さない傾向があり、否定的感情も笑顔で取りつくろうことが多いことが、上の研究でもわかっています。悲しんでいるのか喜んでいるのか顔を見ただけではわかりにくいため、日本人は、相手の感情を読み取る際には、「顔」ではなく、「声」の方を重視する傾向にある、といったこともいわれているようです。

こうした日本人の不自然な微笑に関しては、小泉八雲こと、ラフカディオ・ハーンもその著書「日本瞥見記」の中でそのことを述べています。「日本人の微笑」というエッセイの中で、「愛する人が亡くなった重大な時にこそ、みだりに表情を表すことを控え、むしろ笑みを浮かべることを美徳としている」と書いています。

「美徳」としながらも、外国人であるハーン自身も不可解に思ったようで、そのこともこの中に記しています。ハーンは日本以外に韓国も旅をしており、その際、葬式に遭遇する機会がありました。このとき肉親のほとんどが大声をあげて泣いていたと記しており、「泣き女」というこの国独特の感情表現と、日本の静かな微笑みとのギャップに驚いたたようです。

新渡戸稲造もまた、この日本人独特の微笑について、自著「武士道」の中で触れています。ある外国人女性の視点から書かれたもので、悲しい時に笑う日本人のこの不気味な笑いついての驚きが記されています。

新渡戸はさらに、こうした悲しい時の微笑は、男女にかかわりなくあるとし、これは相手を気遣わせないための配慮であり、他人を心配させないための表情であろう、と結論づけています。

狭い島国の中で暮らす単一民族ならではの気遣いの発展形、ということだろうと思いますが、他国の人には真似できない、いや理解できない日本人独特の笑いといえます。

欧米人の皮肉やジョークが、必ずしも日本人に受けないのもそうしたことと関係があるかもしれません。こうしたひねったジョークは、どこか知性を感じさせるようなものも多いものですが、真面目にとると笑えないようなブラックジョークも多く、日本人にとっては、何か居心地の悪い気分になってしまうものも少なくありません。

ジョークなのか皮肉なのかわからないこうした笑いよりも、馬鹿馬鹿しくてわかりやすい、“安心して笑える”直球のお笑いのほうが日本人は好みです。日本のお笑いといえば、二人一組のコンビがする“漫才”があり、こちらはいかにも日本独自のお笑いセンスといえます。

ボケとツッコミというそれぞれの役割を決め、チームプレーで行うこうしたお笑いは、ワンマンショーが主流の欧米ではあまり見られるものではありません。ときに「はたき」も加わって馬鹿馬鹿しくくだらない方向に展開するこうしたお笑いを外国人は「クレージー」といい、珍しがります。

自分以外の誰かを加えた形でお笑いを完成させるという発想は、欧米ではほとんどないように思います。いかにも集団主義社会の日本らしいお笑いであり、上のような悲しいときにも笑うのと同じような独特の文化です。

こうした漫才を注意深くみてみましょう。すると、同じジョークであっても、欧米人のそれが単独で成立するのに対し、漫才のそれは相手の反応を伺いながらのジョークを飛ばしあっているのがわかります。また、そのやり取りはお互いの信頼関係のもとに成立していることもわかるはずです。

ボケとツッコミに代表されるように、信頼できる相手との会話のなかで生まれるものであるから面白いのであって、相手の反応や聞いてくれる人ありきのお笑いといえます。相手との関係性や人間性を把握し、その場の雰囲気や自分の役割をよく理解して発しているジョークであって、もしそれらが曖昧でわかりにくいとき、観客は安心して笑えません。

ボケとツッコミというお互いの立場を理解した中でコンビがジョークを発し、観客もまたそのシチュエーションが明快であるからこそ笑えるのであって、演じる側と観客との間にも信頼関係が成り立っているからこそ成立する笑いといえます。

これに対して欧米のジョークは、一方的に発せられたジョークの中身だけを判断して笑うか笑わないかを決めます。日本人が欧米のジョークを苦手とするのは、そこに受け手となる要素が薄く、はたして「笑っていいのかわからない状況」という微妙な空気に直面し、笑うかどうかを躊躇するわけです。

また、欧米人の場合は、そのジョークが面白くなかった場合には、即ブーイングやヤジを飛ばします。これに対して、日本人はたとえ面白くないジョークでも、相手のためを思って「笑ってあげる」ことが多いようです。

これもまた、「相手」を意識してのことであり、笑ってあげなければならないという自分の役割を見出し、「ここでは笑っておくべきだ」と判断します。同じ「お笑い」の一員だという当事者意識が強いため、無意識にこうした”笑っています”アピールをしてしまうのだと考えられます。

もうひとつこうした日本人の特質をよく表しているのが、「手をたたきながら笑う」という行為です。日本人はその笑いが気に入るとよく手をたたきながら大笑いしますが、欧米人はそうしたことはあまりやりません。良い芸だとわかると笑いながら拍手する、ということはありますが、大げさに笑いながら手をたたいたりはしません。

欧米人は、このように手を叩きながら笑う日本人を見て、「まるで必死に”笑っています”アピールをしている」と感じるようです。その通りであって、そのお笑いが気に入った、ということを、こうして笑いと拍手を同時に発することによって相手に伝えているわけですが、欧米人はこれを「わざとらしい」と感じるようです。

これとよく似た表現方法に、「相槌を打つ」とうのがあります。日本人は相手の話を聞きながらよく相槌をうちますが、これは「あなたの話は面白いですよ」というメッセージを伝えているのであって、お笑いで手をたたいて笑うのと同じといえます。

このように、笑いひとつをとっても、日本と欧米ではその受け止めようが違うことがわかります。笑いが体に良い、ということは万国共通ですが、それぞれの国の笑いは異なり、それがその国独特の文化を形成しているのです。

人の動作にはこのほか泣く、怒る、といったものもありますが、そうしたものも含めて、比較分析すると、それぞれの文化の違いがより明確になってくるかもしれません。そうしたアプローチをまたいつかしてみたいと思います。

京都太秦の広隆寺に国宝として納められている「弥勒菩薩半跏思惟像」というのがあります。

古代飛鳥時代の仏像で、顔の感情表現を極力抑えながら、口元だけは微笑みの形を伴っているのが特徴で、これは生命感と幸福感を演出するためのものと言われています。

「アルカイック・スマイル(Archaic Smile)」と呼ばれ、古代ギリシア語のarche(古い)から派生した語で、古代ギリシアのアルカイック美術の彫像に見られる表情であることからこう名付けられました。

ギリシアだけではなく、広くエーゲ海周辺でこうした古い彫像が見つかっており、不自然な微笑であるものの、どこかぬくもりを感じます。広隆寺の弥勒菩薩像も同じであり、右手の指先を軽く右頰にふれ、思索するその顔に浮かぶ深い微笑みは、世界中の人々を魅了してやみません。

弥勒は、ゴータマ・ブッダ(仏様)の次にブッダとなることが約束された菩薩(修行者)であって、ゴータマの入滅後56億7千万年後の未来にこの世界に現われて悟りを開き、多くの人々を救済するとされています。

仏様が亡くなってからまだ3000年も経っていませんが、流行り病で失われようとしているあまたの命があるこの現在、できれば時間を早めてこの世に現れ、その微笑みによって多くの人を救って頂きたいものです。