今年は桜が早く、伊豆ではもう満開になりつつあります。
桜もさることながら、このころの候を表す言葉として、「雷乃発声」というのがあります。
これは「かみなりすなわちこえをはっす」と読み、 遠くで雷の音がして、稲光が初めて光るという意味です。
これとは別に「始雷」という短いのもあって、こちらも稲光が始めて光る季節がやってきたことを示しています。
俳句においても「春雷」は春の季語であり、正岡子規も次の句を詠んでいます。
下町は雨になりけり春の雷(らい)
こうした音と光を伴う雷の放電現象を「雷電」といいます。雷電の「雷(らい)」は雷鳴であり、これに付随して起こる光は稲妻であり、雷電の「電」です。
古来、この雷電の名を付した地名や人名は多々あり、雷電海岸といえば北海道の積丹半島にある海岸です。埼玉県の鴻巣市にも雷電という地名があります。なぜこうした名前が付くのか不思議ですが、昔は雷除けのために「雷電神社」という社があちこちに建てられていたので、そうした名残かもしれません。
江戸時代の力士にも雷電爲右エ門という人がいました。松江藩お抱えの力士で、そのネーミングは出雲が相撲発祥の地とされることから来ています。古事記の国譲り神話に、稲佐浜で力比べをした二人の神様の話があり、これは建御名方神(たけみなかたのかみ)と建御雷神(たけみかづちのかみ)です。
雷電の四股名は、このタケミカヅチノカミにちなんだ「雷」を使うことを藩から許されたからにほかなりません。それほど強い力士で、生涯の通算勝率.962は驚異的です。大相撲史上未曾有の最強力士とされており、体格は197cm、169kgもあったといわれ、この当時としては破格の巨漢でした。
このほかに、菅原道真を主人公にした能楽にも雷電というのがあります。こちらは、冤罪で大宰府に左遷され死にいたった道真が雷となって内裏に行き、恨みをはらそうと荒れ狂う、というストーリーです。現在、日本各地にある多くの天満宮は、そのほとんどが雷神になった菅原道真を祀っているものです。
乗り物に雷電を冠したものもあり、航空機では、日本海軍が局地戦闘機として運用した「雷電」があります。零戦の後継機として開発されたものですが、初飛行後の不具合解消に手間取り、実用化が遅れたため、戦争中の生産数は少数でした。
磐吉
船舶でも幕末期、江戸幕府が所有していた軍艦に同名のものがあります。明治6年(1873年)に開拓使が購入し、「雷電(丸)」と名を改め、その後明治10年(1877年)、明治海軍の軍艦にもなりました。
この船は明治21年(1888年)に廃艦となりましたが、さらに高知県に無償で払い下げされて捕鯨船となりました。あげくは愛知の汽船会社に買い取られて商船となり、明治30年(1897年)、大阪の木津川造船所で解体されています。
これほど数奇な運命をたどった船も珍しいかもしれません。もともとは、蟠竜丸(ばんりゅうまる)という名前で、イギリスから日本に贈られたものです。幕末の安政5年(1858年)7月、日英修好通商条約に調印するために来日した英国使節により、ヴィクトリア女王の名において将軍に寄贈されました。
バランスのとれた美しいスクリュープロペラ船で、小型の快速遊覧船として建造されましたが、構造が頑丈だったため、幕府はこの船を砲艦として使うべく幕府海軍の艦隊に組み入れました。箱館戦争に投入された当時のイラストが残っています。
箱館戦争における蟠竜丸
とはいえ、本来は王室のレジャーボート(ロイヤル・ヨット)です。内装は目を見張るほど絢爛豪華で、階段・手すりには彫刻が施され、壁一面を埋める鏡も設置されていました。幕府役人が鏡と気づかずぶつかった、といった記録があります。
幕艦として導入されて以降はあちこちで軍務につきました。箱館戦争の際、砲台からの砲撃でこうした美しい内装もかなり破壊され、その後も、十分な手入れができず、戦闘が終わる頃には、内装の塗装や意匠は痛み、美観は大きく損なわれました。
しかし、外観はいたってきれいだったといいます。他の艦船が稚拙な操艦によってしばしば座礁や他船などとの接触で損壊する中、蟠竜丸にはそうした著しい損傷はありませんでした。
このころこの船の艦長だったのが「松岡磐吉」という人で、これはこの人の優れた操船技術のおかげだったと言われています。
箱館戦争に先立つ宮古湾海戦にこの蟠竜丸が参加した際も、激しい暴風雨によって幕府艦隊は離散するなどのトラブルに見舞われました。しかし、このときも松岡艦長の操船は見事で、本船には傷一つなかったといいます。
「艦長松岡磐吉は操船の名手で、ロープ1本損なわれることなく」と、乗っていた同僚の幕臣、林董(ただす・のちに外務大臣)が書き残しています。乗船していた海軍・陸軍合わせて130名あまりの戦闘員も、そのおかげで無事に箱館に帰還できました。
この戦闘は、現在の岩手県宮古市沖の宮古湾で発生したものです。海上戦力で新政府軍に対して劣勢に立たされていた旧幕府軍が、新政府軍の主力艦である「甲鉄艦」への斬り込みによってこれを奪取する、という作戦を立てました。
作戦の要は、いわゆる接舷攻撃で、蟠竜のほか、回天、高雄の合わせて3隻の幕府軍艦が投入されました。しかし暴風雨によってそれぞれの艦が分離してしまい、これによって勢力をそがれたほか、ガトリング銃などの強力武器を備える敵の新鋭艦、甲鉄の猛反撃に遭ったため、作戦は失敗に終わりました。
3隻の幕府海軍のうち、機関故障を起こしていた高雄は新政府軍の甲鉄と春日によって捕捉され、艦長・古川節蔵以下95名の乗組員は上陸し、船を焼いたのちに盛岡藩に投降しています。また回天も、作戦失敗後に箱館まで退却しましたが、暴風雨によって3本のマストが2本になるなどの被害を受けました。
蟠竜だけは無傷でしたが、箱館への帰路、やはり甲鉄からの追撃を受けました。蟠竜の排水量370トン、出力60馬力に対し、甲鉄は1800トン、出力1200馬力というこの当時最大の軍艦であり、機関力の差で逃げ切れないと観念した松岡は観念し、一艦で接舷攻撃を挑もうと戦闘準備をしました。
この時、松岡は顔を洗い、新しいシャツに着替え、「今日は死ぬつもりだからしゃれています」と冗談を言いながら悠々と戦闘準備の命令を出したといいます。肝が据わった人物のようでありながら、ちょっとしたユーモアのセンスもうかがえます。
写真も残っています。幕軍の制服と思われる洋服を着て椅子に座っており、ちょび髭をはやしたその顔は精悍で、なかなかの美男子です。ちょんまげは落としてザンギリになったその頭はセンターで分け、きちっと整髪料でまとめていて律儀な性格が見て取れます。
眼光はするどく、でありながら何か悟ったように見つめているその先にあるのはなんでしょう。わずか30歳で散るまでの、この英才の人生のほとんどは海で過ごしたものでした。
松岡 磐吉(ばんきち)、は、幕臣、松岡正平の三男として天保12年(1841年)に伊豆・韮山に生まれました。
父の松岡正平は、天保3年より韮山代官の江川太郎左衛門(英龍)の筆頭手代を務めており、松岡家は代々この江川家に仕える家臣でした。
この江川太郎左衛門については、その昔、このブログでも詳しくその伝記を書いたことがあります。(韮山代官)
太郎左衛門は通称で、号は坦庵(たんあん)といい、地元では「たんなんさん」と呼ばれています。また、死後は諱の英龍で呼ばれることが多くなりました。
洋学、とりわけ近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱き、反射炉を築き、日本に西洋砲術を普及させたことで知られる人物です。地方の一代官にすぎませんでしたが、この当時、最新の軍事知識を有する西洋兵学者として幕府からも絶大な信頼を得ており、1853年の黒船来航後は、江戸湾一帯の台場築造の責任者として駆り出されています。
その後も、幕府に海防の建言を行い、勘定吟味役まで異例の昇進を重ね、幕閣入を果たしました。残念ながら勘定奉行任命を目前に病死したため、他の幕末の偉人ほど有名ではありません。しかし、地元伊豆では立志伝中の人であり、かの福澤諭吉もまた自身の自伝で英龍をとりあげ、「英雄」と高く評価しています。
江川家手代の松岡正平もまたこの英君に忠実に仕えました。磐吉を含めて四人の子を設けましたが、長男は「来吉」といい、その後幕府の歩兵差図役頭取改方に、次男の「弘吉」は軍艦頭となり、初代回天の艦長を務めています。
三男の磐吉も、その後兄と同じ軍艦頭となり、戊辰戦争では蟠龍の艦長を務めるところとなります。ちなみに、軍艦頭というのは、軍艦12隻よりなる1艦隊を指揮する提督として位置付けられた官職で、のちの帝国海軍・中将に相当します。
戊辰戦争で磐吉は、兄の弘吉や榎本武揚と共に北海道へ渡りましたが、兄弟4人のうちこの真ん中の二人だけが、旧幕方として最後まで新政府軍と戦いました。
四男春造もまた、軍艦役見習三等を経て、幕府海軍の士官になっていますが、この当時まだ若かったせいか歴史には登場してきません。この春造と、来吉、弘吉の3人いずれもが養子に行き、三男である磐吉が松岡家の跡取りになりました。これすなわち兄弟の中でも一番秀でている、と父の正平が判断したからでしょう。
兄弘吉は天保5年(1834年)生まれですから、磐吉より7つ年上になります。磐吉が家を継いだため、松岡家と同じく江川家手代の柴家に養子に行きました。柴弘吉と名乗り、のちに柴誠一と改名、さらに貞邦と何度も名を変えています。
一方、江川家の跡取りとして残された磐吉の江川家での役柄は、「鉄砲方」でした。鉄砲御用人、鉄砲御側衆ともいい、鉄砲の研究、整備および修理を行うのが役目です。若年寄配下で、役料は200~300俵程度ですから、それほど高給取りではないものの要職といえます。
韮山代官として国防を担う江川家において鉄砲は重要な武器であり、物騒なこの時代にあって、砲術の教授、鉄砲の製作、保存、修理といった仕事は、なくてはならないものでした。ほかにも猪や狼の打ち払い、火付や盗賊の逮捕といった職務もあり、多忙な日々を送っていたようです。
家長の江川英龍はまた、武芸以外でも優れた才能を持った人物として知られています。学問を儒学の大家として知られる佐藤一斎に学び、書は幕末の三筆といわれた市川米庵に、詩は江戸の四詩家と称せられ大窪詩仏、そして絵は大国士豊や谷文晁に学ぶ、といった具合であり、この当時最高の教育を受けています。
さらに、剣術は、神道無念流の岡田十松から免許皆伝を受け、所属する撃剣館では四天王の一人に数えられています。同じ撃剣館の同門で、後に同じ韮山代官所の手代として雇われることになる斎藤弥九郎は、学問の上でも英龍の弟子であり、彼から蘭学、砲術などを学ぶとともに尊王攘夷思想の薫陶を受けました。
斎藤弥九郎は、その後自らが開いた「練兵館」において、長州藩や水戸藩などの門下生たちに、英龍から手ほどきを受けた尊王攘夷思想を植え付けました。長州藩の桂小五郎はその影響をもっとも受けた一人で、その後師匠の斎藤を飛び越して江川英龍に直接願い出、弟子にしてもらっています。
桂は、江川から小銃術・西洋砲術などを学びましたが、それだけでは飽き足らず、このころ江川が手掛けていた台場築造に興味を持ちました。江川の付き人となって台場築造工事をつぶさに視察しており、これによって砲台築造術を習得しています。
お台場はこの当時一般人が立ち入ることを許されなかった最重要軍事施設であり、これを見たことは、その後の長州藩による江戸攻撃の際の重要情報になったと考えられます。
長崎海軍伝習所
弘吉と磐吉の松岡兄弟はその後、伊豆韮山の代官所を離れ、長崎の海軍伝習所に学ぶことになります。この当時の手附・手代一覧表からその名が忽然と消えており、おそらくはこれも英龍の指図かと思われます。
この二人は、幼いころから英龍の小姓として教育を受け、英龍の小姓をつとめながら、蘭学・砲術を学んできました。時代が大きく変わろうとする時期、英龍は、この才気あふれる兄弟をそれほど買っていたということでしょう。
ちなみに江川は1801年生まれ、磐吉は1841年生まれですから、40ほども齢が離れています。兄の弘吉とでも33歳離れており、二人にすれば雲の上の存在、といったところだったでしょう。
その江川の命令により、二人は安政3年(1856年)、長崎の海軍伝習所に派遣され海軍術を学ぶことになりました。兄弘吉22歳、磐吉15歳のときのことです。
長崎海軍伝習所とは、安政2年(1855年)に江戸幕府が海軍士官養成のため長崎西役所(現在の長崎県庁)に設立した教育機関です。幕臣や雄藩藩士から選抜し、オランダ軍人を教師に航海術を学ばせました。
軍艦の操縦だけでなく、造船や医学、語学(蘭学)などの教育も行われており、日本人が初めてこうした幅広い学問を学んだという意味においては現在の大学にも通じるものがあります。
中でも、ポンペ・ファン・メーデルフォールトによる医学伝習は、物理学・化学を基礎として講義を進める本格的なものであり、日本の近代医学の始まりであった、と評価されています。
このように伝習所で幅広い分野の西洋科学を学び、卒業した生徒たちの多くはその後幕府海軍や各藩の海軍、明治維新後の日本海軍でも活躍しました。明治新政府の中枢を担うものも多く、海軍伝習所はその後の日本を形成する上での重要な教育施設であったことは間違いありません。
船乗りの養成にあたっては、当初、練習艦としてオランダから寄贈された「観光丸」が使われました。オランダ国王ウィレム3世から13代将軍徳川家定へ贈呈され、日本の最初の蒸気船となったもので、木造外輪の3檣スクーナーです。
観光とは、中国の古文にある「観国之光(国の光を観る)」からとったものであり、現在の我々が普段よく使う「観光」は、こここら来ています。
この時、日本側はその返礼として、狩野雅信や狩野永悳といった当代一流の御用絵師たちが描いた金屏風10双をオランダ政府に贈っており、その大半が今もライデン国立民族学博物館に残っていいます。
伝習所ではさらに、「咸臨丸」「朝陽丸」も供用されました。こちらはオランダに建造を依頼した新型艦であり、このうち観光丸に次ぐ2番館と位置付けられた咸臨丸は洋式のスクリューを装備する軍艦としては初のものでした。のちに初めて日本人の手によって太平洋を渡った船として歴史にその名を刻むことになります。
さらに、イギリスからも練習船が購入されました。元商用線だった帆船「鵬翔丸」がそれで、このほか「長崎形」と呼ばれる小型帆船も、日本人の手で建造されました。造船実習を兼ねて建造されたもので、完成艦は航海練習船として使われました。とはいえ有事の際には武装して軍艦として使用できるよう大砲の設置場所が用意されるなど本格的なものでした。
この伝習所における当面の目標は、最新型である咸臨丸と朝陽丸を練習船として世界に通用する日本人船員を養成することでした。このため、安政2年(1855年)に第1期生として、幕臣を中心とした伝習生37名が入校しました。この中には総監の永井尚志や勝海舟が含まれています。
翌安政3年(1856年)にも、第2期生として12名が入所しましたが、松岡兄弟はこのとき伝習所入りしました。さらに第3期生が企画され、近代的な海軍兵学校においては若年の段階から士官養成をすべきとの方針から、若手26名が入校しました。この中にはのちの海軍中将、赤松則良などが含まれています。
弘吉・磐吉兄弟が入所した第2期生の総監は「幕末の四舟」の1人に名を連ねることもある、幕臣・木村喜毅(木村芥舟)でした。教授はオランダの海軍軍人、カッテンディーケです。のちにオランダ海軍大臣となり、一時は外務大臣も兼任することになるこの人物は、実習生たちに精力的に航海術・砲術・測量術などを教えました。
この2期生はほとんどが幕臣で、歴史に名の残るほどの人物としては、伊沢謹吾(頭取)、榎本武揚、肥田浜五郎、伴鉄太郎、松岡磐吉、岡田井は蔵、勝海舟などがいます。このうち勝海舟だけが第1期から継続して学ぶ伝習生でした。
伊沢謹吾と榎本武揚はともに江戸の出身で、この2期では井沢が頭取を勤め、榎本がこれを補佐するなどの中心的な役割を担いました。二人は親友だったと言われています。肥田浜五郎は磐吉と同じく韮山代官所で江川英龍の教えを受けて育った人物で、伊東玄朴に蘭学を学び、ここでは主に機関学を修めました。
伴鉄太郎は江戸生まれの下級武士の子で、御徒を務める伴家の養子に入り、かつては箱館奉行支配調役並に任ぜられたことのある人物です。この期では33歳で最年長だった勝海舟の二つ下の31歳であり、このころわずか15歳だった磐吉や19歳だった岡田井蔵よりも一回り以上年長でした。
伴はのちに小笠原開拓で磐吉と行動をともに従事しており、維新後の最終的な役職は水路局長副官です。岡田井蔵のほうは、横須賀造船所製図掛機械部主任、機械課工場長を務めました。
このほか佐賀藩主・鍋島直正の推薦で、20歳で入所した中牟田倉之助と通訳の中村六三郎がいます。中牟田はその後日清戦争などを経て海軍中将となり、中村は三菱商船学校(後の東京商船学校)初代校長になるなど、日本の海事史にその名を残しました。
磐吉は、こうした維新後にもその名を遺すエリートたちに囲まれ、この伝習所で一年ほど学びました。短い期間ではあったものの、弱冠15歳で最年少、若い彼がこの間に吸収した知識量は膨大なものであり、また身につけた技量は図抜けていました。
その後、1857年(安政4年)に江戸築地にあった講武所のなかに「軍艦教授所」ができると、磐吉を含む多くの伝習生がそちらに移動しました。総監の永井尚志をはじめとする多数の幕府伝習生もまた築地に教員として移動し、そのため長崎海軍伝習生は45名程に減りました。
のちに「軍艦操練所」と改称したこの施設が設けられたのは、江戸から遠い長崎で伝習所を維持する財政負担があまりにも大きかったためといわれています。その後、幕府の海軍士官養成は、この築地の軍艦操練所に一本化されることになりました。
安政6年(1859年)には、長崎海軍伝習所は完全に閉鎖されるところとなり、オランダ人教官は本国へと引き上げますが、ここではオランダ軍事顧問団が教官を務めたのに対し、軍艦操練所では基本的に日本人教官による教育が行われました。
操練所の教授陣は長崎海軍伝習所の卒業生が中心で、小野友五郎や荒井郁之助、肥田浜五郎、佐々倉桐太郎、勝海舟などがこれを勤めました。ジョン万次郎も、ここの教授を務めた時期があります。土佐出身の漁師で、漂流してアメリカに渡り、高い教育を受けて帰国したこの人物は幕末の志士たちに大きな影響を与えました。
これらの教官の多くは、のちに政府や軍の重要機関に努め、その後の時代の担い手になった人物ばかりです。例えば小野友五郎は文部省で洋式数学の普及に努めるなど日本の教育レベルの向上に貢献しました。また荒井郁之助は初代中央気象台長、肥田浜五郎は海軍艦艇の機関総監、佐々倉桐太郎は兵学権頭となり、海軍軍人の育成に努めました。
勝海舟もまた、維新の立役者としてその後外務大丞、兵部大丞、参議兼海軍卿、元老院議官、枢密顧問官などを歴任しました。しかし、明治政府への仕官に気が進まず、これらの役職は辞退したり、短期間務めただけで辞職するといった具合で、52歳で元老院議官を最後に中央政府へ出仕していません。
晩年は、政府から資金援助を受けて歴史書などを書いていましたが、明治後、歴史の面に出ることはなく77歳でその生涯を終えました。
長崎から築地へと移った磐吉もまたわずか16歳でここの教授方を務めようになりました。後年、小笠原諸島の測量任務などに就いているところを見ると、操船のほかに測量学などを中心に教えていたのではないかと思われます
軍艦操練所はさらに軍艦所と改称され、1866年(慶応2年)には教育だけでなく幕府海軍の行政機関としての機能も追加されて、最終的に「海軍所」という名称になりました。
佐賀藩も1858年(安政5年)に、「海軍所」を設立しています。現佐賀市川副町に設けられたこの施設は、長崎伝習所と同様に西洋船運用のための教育・訓練機関でしたが、蒸気船等の船の修理・造船施設もありました。築地の海軍所も教育機関でしたが、佐賀海軍所を真似て、船舶の修理・造船機能を持たせようという意図があったと思われます。
この築地の海軍所は、1864年(元治元年)に付近で発生した火災が延焼して施設の大半を失っています。その3年後の1867年(慶応3年)にも再度の火災に遭って焼失しており、築地から最終的には徳川将軍家の別邸、浜御殿へと移転しました。
これは現在の浜離宮恩賜庭園であり、浜松町近くにあるこの公園は、明治以後皇室の離宮であったものが戦後下賜され、都立公園として開放されたものです。ここにあった海軍所はその後さらに呉市の呉鎮守府に近接した江田島町(現在の江田島市)に移転し1888年(明治21年)、海軍兵学校と名を変えて、第二次世界大戦終戦まで存続しました。
ちなみに佐賀藩の海軍所の正式名称は、三重津海軍所といい、実用的な国産初の蒸気船である「凌風丸」を製造したことで知られ、その遺構は2013年に国の史跡に指定を受け、2015年には「明治日本の産業革命遺産 」として世界文化遺産に登録されています。
練兵館
この築地操練所時代、磐吉は忙しい合間を縫って、斎藤弥九郎が創立した練兵館で剣術を学んでいたと思われます。
この練兵館設立の資金援助をした人物こそが、主君の江川英龍です。このころ、練兵館の道場主・斎藤弥九郎は、江川から軍事防衛の最新知識も吸収するようになっており、剣術師範以外にも教育者として門弟の前に立つようになっていました。
この斎藤弥九郎は、越中国射水郡仏生寺村(現・富山県氷見市仏生寺)の農民、組合頭・斎藤新助の長男として生まれました。
12歳のとき、越中の高岡に奉公に出され、油屋や薬屋の丁稚となりましたが、店主と反りが合わなかったのか、ここを辞めて帰郷。それならと、江戸へ出ることにし、文化12年(1812年)、親から一分銀を渡されて村を出ました。
一部銀は現在価値にすると2~3万円といったところであり、これでは江戸へ着く前にすっからかんになってしまいます。このため、途中、旅人の荷担ぎなどをして駄賃を稼ぎ、野宿をしながら、なんとか江戸にたどり着いています。
江戸では、郷里の者の世話で、四千五百石取りの旗本、能勢祐之丞の小者となって住み込みで働き始めますが、昼間の仕事でへとへとになる中、夜は書物を読んでその後に備えたといいます。これに感心した主人の能勢が、学資を出して勉強をさせてくれるようになりました。
儒学を古賀精里に、兵学を平山行蔵に、文学を赤井厳三に、砲術を高島秋帆に、馬術を品川吾作にと言った具合で、さらに剣術では神道無念流・撃剣館主の岡田吉利に師事しました。
岡田吉利は、武蔵国埼玉郡砂山村の元農民でしたが、15歳で地元の剣客、松村源六郎に師事して頭角を現し、その後剣を極めることになる人物です。
その後江戸に移り、麹町の兵法家で神道無念流の剣客、戸賀崎暉芳に入門すると、22歳で印可され、さらに武者修行で剣名を上げました。30歳で師の道場を継ぎますが、門弟が増えすぎ、神田に移って開いたのが撃剣館でした。
斎藤は、この撃剣館で修業を重ね、20代で師範代に昇進し、岡田の死後は、その子の岡田利貞を後見しました。29歳で独立して江戸九段坂下俎橋近くに神道無念流・練兵館を創立。鏡新明智流の士学館、北辰一刀流の玄武館と並び、後には幕末江戸三大道場と呼ばれるようになりました。
練兵館は、のちに現在の靖国神社境内にあたる九段坂上に移転しましたが、幕末期にはさらに同神社敷地の南西部に移っており、ここに百畳敷きの道場と三十畳敷きの寄宿所を設けました。黒船来航以来の尚武の気風もあって、隆盛を誇りましたが、その人気のひとつは剣術の稽古によって心身を鍛えるだけでなく、これに練兵(軍事訓練)を加えたことでした。
ペリーの来航以来、こうした実践的な軍事知識の吸収を多くの江戸在住の武士が望んでいました。また練兵館では、武術や軍学だけでなく儒学などの国学も教えており、これはその分野での造詣が深い斎藤自らが教えました。
師匠である江川もまた、公務の間を縫って彼らに教鞭を振るうこともあったようで、その中で幕府の危機を弟子たちに伝え続け、彼らもまたその貴重な情報を素直に受け止め続けました。その結果、門下から数多くの明治維新の志士を輩出しました。
このころの斎藤と江川の関係は、江川が練兵館のスポンサー役を果たしつつ、斎藤を自分の公務の用人格として形式的に召し抱えるというものでした。このため、江川が伊豆国韮山の代官となると、斎藤はその江戸詰書役として仕えたり、品川沖に台場の築造が計画されると、江川の手代としてその実地測量や現場監督を行う、といったふうにその期待に応えました。
江川英龍は、長崎海軍伝習所が開設された安政2年(1855年)の正月に54歳で亡くなっていますが、斎藤は、その後継で英龍の三男の江川英敏からも同様の助力を要請されており、引き続きそうした役割を担っています。
討幕運動が激しくなる中、斎藤は彰義隊から首領になってくれるよう頼まれるなど、何かと時世の前面に押し出されようとしていましたが、その度にこれを拒絶しています。維新後は政府に出仕し会計官権判事や造幣寮(のちの造幣局)の権允(中等職員)などを勤めましたが、動乱の空気まだ冷めやらぬ中、明治4年(1871年)に74歳で亡くなっています。
斎藤の死後、東京招魂社(現靖国神社)創建により練兵館は立ち退かざるを得なくなり、新宿の牛込見附内に移転しましたが、文明開化の影響で剣術は廃れ、のちに閉館したようです。現在栃木県の小山市にその志を継ぐ同名の剣道場がありますが、神道無念流ではなく現代剣道を稽古しています。
主君である江川とその影響下にある斎藤が主導するこの練兵館で剣や学問を習い始めた磐吉ですが、ここでもその才能を発揮して多くを吸収し、剣術では見事に神道無念流皆伝を得ています。
神道無念流の特徴は、「力の剣法」と言われ、竹刀稽古では「略打(軽く打つこと)」を許さず、したたかに「真を打つ」渾身の一撃を一本とした点にありました。そのため、他流派よりも防具を牛革などで頑丈にしていたといいます。
幕末の江戸三大道場は道場主の名から「位は桃井、技は千葉、力は斎藤」と評されており、他流派と比べて、「力」を重んじる剣であったことがうかがえます。昭和初期に行われた天覧試合の記録映像が残っており、優勝した同流派の選手たちが、竹刀を頭上に大きく振り上げて力強い打突を繰り出していることが確認できます。
上述のとおり、練兵間では剣以外の教育にも熱心であり、塾生が遵守すべき日課を定めた「塾中懸令」には、毎朝、五つ時(午前8時ごろ)まで素読を行うことが定められていました。午後の出稽古の無い時は手習、学問、兵学、砲術をも心掛け、怠惰に日常を過ごさないよう訓辞されていました。
塾頭を務めた渡辺昇(のちの元老院議員・子爵、会計検査院長)もまた、後年、剣術のみならず空いた時間に学問も修めたことなどを述懐しており、土木工事や時事など「武術の外に教へられた処が多かつた」と語っています。
咸臨丸
磐吉もまた練兵館で剣を学びつつ、そうした一般教養を学び、片や軍艦操練所では操船や造船技術に関する知識を深めていきました。この間、とくに海洋測量の技術研鑽に励んだようで、操練所を卒業したのちの安政6年(1859年)には日本初の沿海測量を実施して海図を作成しています。
その翌年の1860年(安政7年(改元され万延元年))には、咸臨丸の測量方士官として渡米を果たしました。「万延元年遣米使節派遣」と呼ばれるこの外遊は、1854年の開国以来、初の外国公式訪問であり、勝海舟ほかの軍艦操練所教授方・教授方手伝らが幹部として参加しました。
咸臨丸にはまた、前年の台風のため横浜沖で座礁、破棄された測量船、フェニモア・クーパー号の艦長で、海軍大尉ジョン・ブルックが事実上の船長として乗船していました。派遣に抜擢されたメンバーのほとんどが外洋での操船経験がなかったためです。おそらく磐吉は、この航海で、彼から操船技術だけでなく測量についても多くを学んだと考えられます。
この咸臨丸でサンフランシスコに到着した遣米使節派遣団の一行は、その後ワシントン、フィラデルフィア、ニューヨークを訪問し、北大西洋を横断してヨーロッパへ渡り、さらにアフリカ喜望峰を回って英領領香港を経由、年内中に日本に帰ってきました。
一方、咸臨丸は序盤のサンフランシスコまでの船旅を担っただけで帰国しましたが、往復83日間・合計10,775海里 (19,955 km)の大航海を成功させたことは高く評価されました。しかし往路の操船はほとんどがアメリカ人乗員によるものであったという点が過小評価され、航海・運用の技量不足などの問題点が見過ごされる結果となりました。
それでも、磐吉をはじめとして長崎海軍伝習所時代からのベテランにとって、この外洋航海を経験したことは大きな自信になったことは間違いありません。
帰国後の1862年(文久元年)、幕府は外国奉行水野忠徳、小笠原島開拓御用小花作助らに命じ、アメリカから帰還したばかりのこの咸臨丸のメンバーの一部を率いて小笠原に赴き、測量を行うことを命じています。無論、その中には22歳になっていた磐吉も含まれていました。
この派遣は、ジョン万次郎が小笠原諸島の領有・捕鯨基地化を幕府に提案したことから実現したもので、表向きは測量ではあるものの、このころ列強により所有されかかっていた小笠原諸島を彼らから奪還することが目的でした。
このときの艦長は小野友五郎で、磐吉よりふた回り上の46歳。笠間藩(現・茨城県笠間市)出身で、江戸幕府天文方出仕となり、勤務の傍ら、磐吉の主君である江川英龍から砲術や軍学・オランダ語を学びました。
海軍伝習所には1期生で入所しており、咸臨丸でも同船していましたから当然、磐吉とも親しい間柄でした。同じく咸臨丸で渡米したジョン・ブルック大尉は小野の測量術の練達ぶりに感心したといいます。小野は維新後数学者となり、財務官僚としても活躍しています。
これに先立つ36年前の1827年(文政10年)6月、 イギリス軍艦ブロッサム号が父島に来航。このとき艦長のフレデリック・ウィリアム・ビーチーは新島発見と思い違いし、父島をピール島(Peel island)、二見湾をポートロイド(Port Lloyd)、母島をベイリー島(Bailey island)と命名し、領有宣言を行いました。
ただし、この領有宣言はイギリス政府から正式に承認されず、このためその後しばらくの間、イギリスが積極的にここへ進出してくることはありませんでした。
その後26年を経た1853年(嘉永6年)には、アメリカ東インド艦隊司令官ペリーが日本へ行く途中、琉球を経て父島二見港に寄港し、石炭補給所用の敷地を購入しました。
このとき、ペリーは3条13項から成る「ピール島植民地規約」を勝手に制定し、自治政府設置を促した結果、ピール島植民政府が設立され、マサチューセッツ州ブラッドフォード生まれのナサニエル・セイヴァリーを首長に指名しました。
また、その4年後の1857年(安政4年)には、英国籍のジェームス・モットレーという人物の一家が母島(沖村)に居住を始めました。
このように、小笠原諸島の領有に諸外国が動き出したことに危機感を覚えた幕府は、水野忠徳らに小笠原に赴き、測量を行うことを命じたわけです。
小笠原諸島へは東京から直線で500kmほどもあります。咸臨丸の速力は最大で6ノット(約11km/h)ほどでしたから、帆走も併用したとしても、辿りつくまでにはおそらくは1ヵ月ほどはかかったでしょう。
航海の苦労はありましたが、こうして小野艦長以下による小笠原諸島の測量が行われるところとなりました。そしてこの測量はその後同諸島の日本領有の大きな手がかりとなります。
その後、幕府は小笠原諸島に居住する住民に対し、ここは日本領土であること、先住者を保護することを呼びかけ、同意を得ました。咸臨丸による小笠原訪問の翌年の1863年(文久2年)には、駐日本の各国代表に小笠原諸島の領有権を通告し、さらに同年9月には、八丈島から38名の入植が開始されました。
この小笠原派遣で、磐吉は塚本恒輔とともに母島の測量地図作成を担当しています。塚本は長崎伝習所時代の同僚で、身分が低いため当初第1期生の矢田堀景蔵の内侍若党として員外聴講生として受講し、その後実力を認められ伝習生に抜擢された人物です。維新後は初代中央気象台長の荒井郁之助を補助し日本の気象観測をリードするようになりました。
ちなみに、塚本が仕えたこの荒井郁之助は、軍艦操練所で教授方を勤めた幕臣で、のちに榎本らが箱館に立国する蝦夷共和国では海軍奉行となり、宮古湾海戦および箱館湾海戦では総司令官として奮闘することになる人物です。維新後は許されて、札幌農学校の前身の開拓使仮学校校長を勤め、上述のとおり中央気象台の初代台長にもなりました。
もしその後も生きていれば、磐吉もまたこの荒井や塚本のように新しい時代を担う人物となっていたことでしょう。明治海軍を担う重要官僚としての道を歩み続けていたに違いありません。しかし、時代の変化はそれを許さず、過酷な運命へと彼を導いていきます。
戊辰戦争
ちょうどこのころ、同じ長崎海軍伝習所で共に学び、その後命運をともにすることになる榎本武揚は、ヨーロッパに渡り、デンマークやフランス、イギリスを旅行、造船所や機械工場、鉱山などを視察しています。
榎本は、伊能忠敬の元弟子であった幕臣・榎本武規の次男として生まれました。近所に住んでいた田辺石庵という儒学者に学んだのち、15歳で昌平坂学問所に入学。2年後に修了しましたが、修了時の成績は最低の「丙」であったといいます。
18歳のとき、箱館奉行・堀利煕の従者として蝦夷地箱館(現・函館市)に赴き、蝦夷地・樺太巡視に随行。翌年昌平坂学問所に再入学しますが、すぐにまた退学しています。ぶらぶらしているころに長崎海軍伝習所が開設されることを聞き込み、聴講生となった後、磐吉らとともに第2期生として入学しました。
22歳で海軍伝習所を修了し、築地の軍艦操練所では磐吉とともに教授となりますが、この頃、ジョン万次郎の私塾で英語を学んでいます。25歳のとき、幕命でアメリカに留学を命じられましたが、南北戦争の拡大によりアメリカ側から断わられたため、留学先もオランダへ変更となりました。
幕府はこの年(1862年(文久2年))にオランダに蒸気軍艦1隻を発注しており、榎本の任務は、それが完成するまでの間、その建造過程を記録するとともに、ヨーロッパの情勢を視察する、というものでした。
1866年(慶応2年)にその船、開陽丸が竣工したため、榎本はこの船に乗り、オランダ・フリシンゲン港を出港して、1867年(慶応3年)3月、横浜港に帰着しました。
5月に幕府に召し出され、100俵15人扶持、軍艦役・開陽丸乗組頭取(艦長)に任ぜられると、7月には軍艦頭並となり、布衣(ほい・幕府叙位者に許される礼服)の着用を許されました。9月、さらに軍艦頭となり、和泉守を名乗ります。
この2年前の1864年(元治元年)には幕府による第一次長州征討が実施に移されており、2年後の1866年(慶応2年)には第二次長州征討が行われました。この二次征伐では結果的に幕府軍は大敗を喫し、その後の時代の流れは反幕に大きく傾いていきます。
小笠原に磐吉と共に派遣された小野友五郎はこのころ、この長州征伐に係る幕府陸軍動員にあたり、動員・補給計画に携わっていました。磐吉もまた、幕府幹部としてそうした役割の一部を担っていたと思われます。
第二次長州征伐において幕府は、周防国大島(現・山口県大島郡)から海路長州藩内に侵攻しており、おそらくその攻防戦にも磐吉は関わっていたのではないでしょうか。小笠原派遣から3年を経て25歳という血気盛んな年齢になっており、打倒長州に燃えていたに違いありません。
しかし、そうした気分を覆すかのように、同年7月20日には大坂城において将軍・家茂が弱冠21歳の若さで客死します。その5か月後の12月5日には、一橋慶喜が将軍職に就任しますが、この優柔不断な将軍の登場によってさらに時代は混とんとしていきます。
翌年(1867年)の10月、その慶喜が決断した大政奉還の実現によって、旧幕府と反体制派の対立はいったん治まるかと思われましたが、薩摩藩らは政変を起こし、朝廷を制圧して慶喜を排除した上で新政府樹立を宣言しました。
のちに王政復古と呼ばれるこのクーデター以後、旧幕府と新政府の対立はいよいよ深まっていきました。慶喜は、会津・桑名藩兵とともに京都に向け進軍し、薩摩藩兵らとの武力衝突に至ります。
1868年1月26日(慶応4年1月2日)夕方、幕府の軍艦2隻が、兵庫沖に停泊していた薩摩藩の軍艦を砲撃、これをもって事実上、戊辰戦争が開始されました。
旧幕府勢力と、薩摩・長州などの新政府勢力が戦ったこの戦争は、やがて江戸に伝播し、北陸・東北を経て最終的には箱館(函館)で終焉を迎えることになります。
この兵庫沖での幕艦の砲撃に対して、薩摩藩は幕府に猛烈に抗議しました。このとき榎本は、薩摩藩邸焼き討ち以来、薩摩藩と幕府は既に戦争状態にあり、あたりまえのことだと突っぱね、2日後の1月4日には、更に兵庫港から出港していた薩摩藩の春日丸ほかを追撃しました。
阿波沖海戦と後年呼ばれるこの戦いは、日本史上初の蒸気機関を装備した近代軍艦による海戦でした。開陽丸は薩摩藩軍艦・春日丸、同藩運送船・翔凰丸を追走し、敵艦に計25発の砲撃を加え、応戦した春日丸は計18発の砲撃を開陽丸に向けて放ちました。しかしどちらも大きな損害には至らず、またこの海戦による死傷者は双方皆無でした。
一方、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍は大敗北を喫します。これを受けて、榎本は軍艦奉行・矢田堀景蔵ともに1月7日に大坂城へ入城しました。しかし徳川慶喜は既に前日の夜に大坂城を脱出しており、7日早暁、榎本不在のまま開陽丸に座乗して8日夜までには江戸へ引き揚げてしまっていました。
榎本はやむなく大坂城に残された銃器や刀剣などを運び出し、城内にあった18万両を勘定奉行並・小野友五郎とともに順動丸と翔鶴丸に積み込みました。さらに自分自身は新撰組や旧幕府軍の負傷兵らとともに富士山丸に乗り、大阪湾を出発して江戸に到着しました。
このとき、榎本は大阪から逃げ帰った慶喜の弱腰に腹をたてていました。慶喜はその榎本に登城を命じ、そこで彼を海軍副総裁に任じることを告げます。思いもかけない抜擢でしたが、このとき榎本はその大役に謝する間もなく、慶喜に対して徹底抗戦を主張しました。
しかし、恭順姿勢の慶喜はこれを採り上げず、海軍総裁の矢田堀も慶喜の意向に従ったため、榎本も新政府軍との不戦をしぶしぶ了承。旧幕府艦隊を温存することを承諾しました。
後年、「江戸っ子の代表的人物」と評されたように、榎本は執着心に乏しく、正直で義理堅い人間であったといわれています。このときも、主君の慶喜に真顔で戦はやめてくれ、大事な船を守ってくれと頼まれて嫌とは言えなかったに違いありません。
慶喜に対しては、死ぬまで終始一貫礼を尽くしたことが知られています。維新後、徳川慶喜が公爵となったとき、旧幕臣が集まり祝宴を開きましたが、その際、慶喜一家とともに榎本も加わって写真を撮ろうということになりました。このとき、榎本は主君と一緒の写真など失礼なことはできないと固辞したといいます。
蝦夷へ
こうして、榎本はおとなしくなったかに見えました。しかしその3か月後、新政府軍は江戸開城に伴い降伏条件の一つとして、旧幕府艦隊の引渡を要求してきました。これに対して恭順派として旧幕府の全権を委任されていた陸軍総裁の勝海舟は、これを了承します。
この決定に榎本は再び猛烈に反発します。艦隊を預かれといったり、今度は手放せといったり一貫性のないこの幕府の対応に怒りを周囲にぶちまけ、ついには悪天候を口実に、艦隊8隻で品川沖から安房国館山に脱走してしまいました。
このとき、恭順派である総裁の矢田堀には榎本からお声はかからず、置いてけぼりをくらいました。矢田堀はこれを機会にその後ほとんど歴史の表舞台に出ることはなく、維新後も工部省、左院などを転々としました。海軍に関係する職にも就きましたが、軽いものばかりで不遇の思いを募らせ、晩年は酒と碁でその鬱屈を紛らしていたと伝わっています。
こうして榎本をリーダーとして館山に向かった旧幕府艦隊でしたが、その後勝海舟の説得により4月17日にいったん品川沖へ戻り、4隻(富士山丸・朝陽丸・翔鶴丸・観光丸)を新政府軍に引渡しました。しかし、このとき開陽等の主力艦を引き渡すことはなく、旧幕府艦隊の主力艦温存に成功しました。
その後も榎本は、新政府に恭順しようとしていた館山藩の陣屋を海上から砲撃したほか、脱走兵を東北地方へ船で輸送するなど旧幕府側勢力を支援しました。また奥羽越列藩同盟の密使と会うとともに、列藩同盟の参謀を務めていた板倉勝静・小笠原長行と連絡を取り合うなど反新政府勢力の結束に努めました。
明治元年(1868年)8月20日、榎本武揚らはついに品川を脱出し、抗戦派の旧幕臣とともに開陽丸、回天丸、蟠竜丸、千代田形、神速丸、美賀保丸、咸臨丸、長鯨丸の8艦からなる艦隊を率いて蝦夷をめざし北上、奥羽越列藩同盟の支援に向かいましたが、この時、27歳の磐吉が艦長として任されたのが蟠竜丸でした。
この艦隊には、元若年寄・永井尚志、陸軍奉行並・松平太郎、彰義隊や遊撃隊の生き残り、そして、フランス軍事顧問団の一員だったジュール・ブリュネとアンドレ・カズヌーヴなど、総勢2,000余名が乗船していました。江戸脱出に際し、榎本は「檄文」と「徳川家臣大挙告文」という趣意書を勝海舟に託しています。
ところがその海路、房総沖で暴風雨に襲われ艦隊は離散し、主力艦のひとつだった咸臨丸は下田港に漂着してしまいます。このとき、磐吉が操船する蟠竜がこれを曳航して清水へ入港しますが、その修理に時間がかかると目されたため、蟠竜丸だけが先に出航しました。
残された咸臨丸は、そのすぐあと追いついてきた新政府軍艦隊の襲撃を受け、この戦いで乗組員の多くは戦死または捕虜となりました。船はその後新政府の用船となり、維新後の明治4年9月、北海道への移民を載せて小樽へ向け出航しますが、その途中、木古内町泉沢沖で暴風雨に遭難し、破船、沈没しました。
房総沖ではまた、美賀保丸もマスト2本も折れて航行不能状態となり、銚子の犬吠埼近く黒生海岸へと漂着し、座礁の末に沈没しました。周辺漁民の救助を受けたものの乗船者13人が水死。生存者のうち約150人ほどが上総の山間を経て江戸へ向かいましたが、新政府方の追撃を受けて大部分は投降、その一部が処刑されました。
こうして、2隻の艦船を失った榎本艦隊ですが、その後磐吉の操船する蟠竜丸も追いつき、バラバラながらも8月下旬頃までには順次仙台に到着しました。9月に入り、榎本は仙台城で伊達慶邦に謁見。翌日以降、仙台藩の軍議に参加しますが、その頃には奥羽越列藩同盟は崩壊しており、9月12日には仙台藩も降伏を決定しました。
これを知った榎本は登城し、仙台藩の執政・大條孫三郎と遠藤文七郎に面会し、翻意させようとしますが果たせず、やもなく再び出港準備を始めました。このとき、幕府が仙台藩に貸与していた太江丸、鳳凰丸を艦隊に加えており、この新編成の艦隊に仙台藩を脱藩した兵など約3,000名を収容し、次の補給地、石巻へと向かいました。
この石巻への移動中、榎本艦隊は、さらに千秋丸という船を気仙沼で拿捕しました。この船は幕府が仙台藩に貸与していたものでしたが、無頼の徒に奪われ海賊行為を行っており、これを追い詰めて奪還したものです。艦齢20年ほどのボロ船でしたが、新政府との戦いが予想される中、一隻でも戦力が増すことは歓迎すべきことでした。
その後、一行は宮古湾で補給の後、さらに蝦夷地を目指します。そして10月20日には箱館の北、内浦湾に到着。湾に面する鷲ノ木(現在の森町)に上陸しました。その後二手に分かれて箱館へと進撃、各地で新政府軍を撃破して五稜郭を占領、11月1日には郭内に入城しました。
一行はさらに各地で松前藩の駐屯地を攻撃しますが、旗艦・開陽丸を江差攻略に投入した際、座礁により喪失してしまいます。タバ風と呼ばれる土地特有の風浪に押されて座礁したもので、江差沖の海底は岩盤が固く、錨が引っ掛かりにくいことが災いしました。
回天丸と神速丸がその救助に向かいましたが、その神速丸も座礁・沈没する二次遭難に見舞われ、榎本や土方が見守る中、開陽丸は完全に沈没し、海に姿を消しました。その後何度か試みられましたが、ついに本体が浮上することはなく、永遠に海底に沈んだままとなりました。
こうした不運によって旗艦を失った榎本ですが、12月15日には蝦夷地平定を宣言し、士官以上の選挙により総裁となりました。
この間、榎本はイギリスとフランスに新政府との仲介を頼み、新政府宛に旧幕臣の救済とロシアの侵略に備えるため蝦夷地を開拓したいという内容の嘆願書を出しています。しかし、新政府はその受理を拒絶しました。
このころ、それまでは局外中立を宣言していたアメリカが新政府支持を表明。これによって、幕府が買い付けたていたものの、引渡未了だった装甲艦・甲鉄の新政府への引き渡しが実現します。これは、戊辰戦争の勃発に伴い譲渡が中断していたものです、
翌1869年(明治2年)1月に新政府に引き渡されたこの船の「甲鉄」という呼称は、命名以前の無名艦であった頃の通称です。その後明治海軍の正式軍艦となってからは「東艦(あずまかん)」と呼ばれるようになりました。
本艦はアメリカ南部連合の注文により、同盟国だったフランスで建造されたものでした。しかし、その納入をアメリカ北部合衆国が妨害したため、納入先が宙に浮きました。あちこちの国に転売されたあげく、南北戦争が終結したため、再びアメリカが買い戻していました。
それを旧幕府が購入しようとしていたわけですが、奥羽越列藩同盟が崩壊し、明治政府が新たなる政府であることをアメリカが認めたため、新政府が購入することになりました。
まだまだ財政が厳しかった明治政府は躊躇したようですが、榎本らの脱走艦隊がまだ健在である以上、その脅威の排除のためには不可欠と判断し、購入に踏み切ったものです。
この艦は、甲鉄の名のとおり、全面を鋼鉄製の装甲で覆われており、南北戦争中に使用したあらゆる種類の艦砲に対して貫通されない防御力が要求された結果、それをすべてクリアーして完成したものです。複雑な曲線の船体に装甲板を満遍なく貼り付つけたこの船をみると、フランスという国のこの当時の建艦技術の高さが窺えます。
これだけの装甲を施しながら、最高速力は10.8ノットと、沈没した旧幕府軍の旗艦、開陽丸の10.0ノットを上回っています。もっとも最新のイージス艦の最大速力は30ノット以上といわれますから、それに比べればはるかに遅いといえますが、この当時は世界最高の機関能力を持っていました。
しかも本艦は、艦首に口径27.9cmものアームストロング砲が取り付けられており、また船体中央部には口径12.7cmのライフル砲2基を据えるなど、軍備でも世界的な水準のものを備えていました。
甲鉄艦(東艦)
こうしたモンスターのような艦船とまともに戦って勝てるわけはありません。このため、旧幕府軍はこの状況を打破すべく、宮古湾に停泊中のこの甲鉄を奇襲し、移乗攻撃で奪取する作戦を立てました。
これは、斬り込みのための陸兵を乗せた回天、蟠竜、高雄の3艦が外国旗を掲げて宮古湾に突入するというものでした。攻撃開始と同時に日章旗に改めて甲鉄に接舷、陸兵が斬り込んで舵と機関を占拠する、という作戦で、いわば騙し討ちです。しかし、奇計を用いることは正当である、とこの当時の万国公法でも認められていました。
敵艦に乗り込みこれを奪い取るという近代以降では世界でも数少ない戦闘事例です。宮古港海戦とも呼ばれるこの作戦は、1868年(明治元年)3月21日の未明の回天・蟠竜・高雄の出港から始まりました。
その結果は、冒頭で記述した通りであり、高雄と春日は失われ、回天だけが箱館へ逃げ帰るというさんざんなものとなりました。この戦いでは、回天艦長の甲賀源吾が戦死し、総司令官として乗船していた荒井郁之助が自ら舵を握って、追ってくる新政府軍艦隊を振り切りました。
作戦は失敗に終わりましたが、このとき砲術士官として春日に乗船していた東郷平八郎は、「意外こそ起死回生の秘訣である」として、この回天による奇襲を評価し、そのことを後年まで忘れず、日本海海戦での采配にも生かしたと言われています。
箱館戦争
こうして旧幕府軍艦隊が徐々にその戦力を失う中、新政府軍は、着々と箱館政権が設立した蝦夷共和国に忍び寄ってきました。やがて青森に戦力を築き、旧幕府軍の不意を突いて4月9日、江差の北、乙部に上陸します。
このとき新政府軍は、甲鉄艦を旗艦として、朝陽丸、春日丸、陽春丸、延年丸、丁卯丸の6隻の軍艦を擁し、艦砲射撃で陸上の旧幕府軍要塞を破壊しつつ、陸上部隊の上陸を支援しました。
これに対して、箱館政権の艦隊は、失われた開陽の代わりに回天丸を旗艦とし、これに蟠竜丸、千代田形丸を加えた3隻の編成でこれに対するしかありませんでした。それまでの松前藩との交戦や新政府艦隊との海戦で多くの艦船を失っていたからです。
しかも4月30日には、千代田形丸が新政府側に拿捕され、箱館政権の軍艦は回天丸と蟠竜丸だけとなりました。両艦とも数多くの命中弾を受けながらよく戦いましたが、5月7日に回天丸の機関部が損傷。弁天台場付近で意図的に座礁させ、海上砲台として利用されるようになりました。
一方、陸では5月11日に箱館総攻撃が行われ、その結果、脱走軍の最大の砦であった松前の弁天岬台場がほとんど壊滅状態となり、その救援に向かった土方歳三が銃弾に撃たれて戦死しました。
この箱館総攻撃では海上戦も行なわれ、磐吉が操船する蟠竜丸が最後の一艦として早朝から縦横に運転して敵方を射撃しました。磐吉は双眼鏡を手に着弾を確認しては砲撃を指示し、圧倒的な兵力差にもかかわらず、新政府軍艦・朝陽丸の火薬庫に着弾させて轟沈させました。これは日本史史上初の軍艦の轟沈記録といわれています。
このとき、朝陽丸の艦長をしていたのが、かつて長崎海軍伝習所で磐吉と同期生だった佐賀藩の中牟田倉之助でした。朝陽丸は、先の松前攻撃でも陸上攻撃のために170発の砲弾を放って松前城の櫓に命中させ、さらにこの箱館総攻撃でも回天の40斤砲に砲弾を命中させるなど、連日活躍を見せていました。
しかし、磐吉の操る蟠竜丸の最後の奮闘によりその最後を迎えることとなります。蟠竜丸の放つたった一発の砲弾が火薬庫に当たって大爆発を起こし、同船は轟沈しました。
中牟田は重傷を負いながらも一命を取り留めましたが、副長夏秋又之助はじめ乗組員の80名が戦死して海中に投げ出され、救助された乗組員のうち、さらに6名が死亡しました。
のちにこの時の勲功によって中牟田は海軍中佐に任じられ、さらに海軍大佐となったあと、海軍兵学寮校長となり、草創時の明治海軍兵学校教育にあたりました。この時期の生徒が、のちの海軍大臣で総理大臣も務めた山本権兵衛です。ほかに海軍大将となった上村彦之丞などを輩出しました。
中牟田はさらに明治10年の西南戦争でも勲功があったため海軍中将に昇進。後、海軍大学校長や枢密顧問官も務めましたが大正5年(1916年)に享年80で死去しています。
この朝陽丸が爆沈したとき、旧幕府軍の陸兵が生き残って海上にあった搭乗員を陸地から狙撃しようとしましたが、磐吉はこれを一喝して止めさせています。
たとえ敵であっても無防備の者を殺めるという行為は許さない、という彼なりの美学が感ぜられますが、これはかつて師であった江川や斎藤から教えられた儒学の基本理念である、仁(人を愛し、他者を思いやる)の体現であったでしょう。
このころ「浮砲台」となっていた回天は、一艦のみで奮戦するこの磐吉の蟠竜丸を、すぐ近くにある弁天台場と共に援護していました。しかしやがて箱館市中に新政府軍が進入すると、背後からの砲撃も受けたため、総司令官、荒井郁之助を筆頭とする乗組員は全員が回天を脱出。一本木(現在の箱館駅近く)へ上陸してその後五稜郭へ撤収しました。
無人となった回天は、その日のうちに新政府軍の手で放火されて消失。煙突、外輪、後部の船体だけが無残な姿で残りましたが、当時の箱館では、「千代田分捕られ蟠龍居ぢやる、鬼の回天骨ばかり」という唄が流行ったと伝えられています。
唯一生き残った蟠竜も、その後新政府艦隊から集中砲火をあびることになります。弾薬が尽きるまで応戦しましたが、いよいよとなると磐吉は退船を決意し、乗組員ともども弁天台場近くに上陸、敵中を突破して弁天台場へ撤退しました。
この弁天台場とは、外国船襲来に備えて旧幕府が箱館湾沖に建設したもので、周囲390間余(約710m)、不等辺六角形で、上から見ると将棋の駒のような形をしていました。高さ37尺(約11.2m)の石垣をもつ土塁2,350尺(約780m)で囲まれており、砲眼15門(60斤砲2、24斤砲13門)を装備する本格的な要塞です。
この台場の近くに、長い間世話になった蟠竜丸を座礁させた磐吉は、「またのちに(新政府が)使うこともあるだろうから」と自焼を禁じました。
同日、新政府軍の手でやはりこの蟠竜丸も放火されましたが、火災は帆柱を炎上させるのみで船体には殆ど引火せず、そのうち帆柱が折れ、バランスを崩して横転したことが幸いし、その後、鎮火しました。
維新後、イギリス人により船体が引き揚げられ、上海で修理されましたが、この際、帆柱の数が3本から2本に変わり、甲板上に大きな船室が作られるなど船体上部がほぼ新造された結果、姿は大きく変わって往年の優美さは失われました。冒頭で述べたとおり、その後さまざまな用務を得ましたが、明治30年(1897年)に大阪で解体されました。
弁天台場に立てこもった旧蟠竜丸の乗組員は、既にここで戦っていた新選組とともに小銃等で応戦して奮闘を続けましたが、箱館市内が新政府軍によって占領されたため、やがて孤立。14日までには、弾薬・飲料水・糧食も尽き、本陣五稜郭に先立ち、ついに15日に新政府軍に降伏しました。
一方の五稜郭では、これに先立つ12日以降、箱館港内にいた新政府軍の旗艦、甲鉄からの艦砲射撃を受けていました。このうち、奉行所に命中した一発の砲弾により、洋学者で歩兵頭だった古屋佐久左衛門が負傷、のちに死亡しています。
さらに新政府軍は各所に陣地を築いて大砲を並べ、五稜郭を砲撃したため、旧幕府軍は夜も屋内で寝られず、石垣や堤を盾にしてそこに畳を敷いて休息を取ったといいます。
その後15日に弁天台場が降伏すると、16日には、箱館防衛の拠点、千代ヶ岱陣屋(ちよがだいじんや)も陥落しました。これは本陣の四周に外濠を巡らしたもので、およそ140m四方、高さ約3.6mの土塁と幅約16mの濠がありました。ここでは、築地軍艦操練所で教授も務めた中島三郎助が陣屋隊長として守備していました。
この前日、中島らは新政府軍からの降伏勧告を受けますがこれを拒否。このため、この日の未明、午前3時頃から新政府軍が攻撃をかけました。
北・西・南の三方向から突然銃撃が行われ、不意を突かれた陣屋内の旧幕府軍兵士たちは、組織だった防御ができず、多くが逃走したため、1時間足らずで陣屋は陥落しました。このとき、中島三郎助と長男の恒太郎・次男の英次郎、浦賀与力時代の部下・柴田伸助だけが残って奮闘したものの、やがて力尽きて戦死しました。
こうして、旧幕府艦隊は壊滅し、また各所の砲台や拠点が全滅したのを受け、同日の夕刻、榎本は、新政府軍に軍使を遣わし、翌朝7時までの休戦を願い出ました。政府側はそれを了承しましたが、このとき五稜郭に対する総攻撃開始の日時を通告したといわれています。
休戦の間、榎本ら旧幕府軍首脳側は合議の上、降伏して五稜郭を開城することを決定しました。この夜、榎本は敗戦の責任と、降伏する兵士の助命嘆願の為に自刃しようとしたといわれていますが、たまたま近くを通りかかった旧京都見廻役の幕臣、大塚霍之丞に制止され、思い留まりました。
ちなみに、この大塚は明治になってからは官僚となり、後に榎本武揚が北海道小樽の所有地管理のため設立した北辰社の支配人を務めています。
翌17日朝、総裁・榎本武揚、副総裁・松平太郎ら旧幕府軍幹部は、箱館市街、亀田に設けられた会見場に出頭、新政府軍の陸軍参謀・黒田清隆、海軍参謀・増田虎之助らと会見し、幹部の服罪と引き換えに兵士たちの寛典を嘆願しました。
このとき黒田は、幹部のみに責任を負わせると、榎本を始めとする有能な人材の助命が困難になると考え、これを認めなかったといいます。しかし結局榎本らは無条件降伏に同意。幹部らの処罰は宙に浮いたまま、降伏の手順書の提出だけが要求されてこの会談は終了しました。
その後、榎本は降伏の誓書を亀田八幡宮に奉納して一旦五稜郭へ戻り、夜には降伏の実行箇条書を作成、側近に新政府軍に提出させました。
翌18日早朝、榎本ら幹部は改めて亀田の新政府屯所へ出頭し、昼には五稜郭開城が実現しました。このとき、城内にいた約1,000名が投降し、その日のうちに武装解除も完了しました。ここに箱館戦争及び戊辰戦争は終結しました。
戦後
降伏した旧幕府軍の将兵は、一旦箱館の寺院等に収容された後、弘前藩ほかに預けられ、ほとんどが翌年に釈放されました。一方、幹部については榎本武揚をはじめ、松平太郎、大鳥圭介、荒井郁之助、永井尚志、相馬主計、そして松岡磐吉の7名が拘束されました。
彼らは熊本藩兵の護衛の下、5月21日に箱館を出発し、東京は兵部省軍務局の糾問司(きゅうもんし)に護送されました。そして同所内にある牢獄に一般の罪人とともに入れられ、それぞれが牢名主となりました。
この糾問司は、もとは江戸幕府の評定所だったもので、江戸城外の辰ノ口にありました。現在の東京駅の目の前にある丸の内永楽ビルディングが建てられている場所がその跡地です。旧幕時代には幕政の重要事項や大名・旗本の訴訟、複数の奉行の管轄にまたがる問題の裁判が行なわれていました。
糺問司はその後、1872年(明治5年)に陸海軍にそれぞれ設置された「軍事裁判所」に移行され、1882年(明治15年)には「軍法会議」の制度ができたため、廃止されています。
旧箱館政府の元幹部7人の処罰にあたっては、新政府内でも異論があり、木戸孝允ら長州閥の面々が厳罰を求めた一方、主に旧幕府家臣からは減刑の声もあがり、赦免嘆願書を出す者もいました。
特に榎本の才能を高く評価していた黒田清隆、福沢諭吉らは、その助命を強く主張しましたが、大きな動きがないまま拘禁が続き、榎本を含む7人は、未決のままその後2年を辰ノ口の牢で過ごしました。
榎本はこの獄中、洋書などの差し入れを受け読書に勤しみ、執筆や牢内の少年に漢学や洋学を教えていたといい、磐吉もまた英語を学ぶなどして過ごしていたといいます。
しかし、磐吉はその後熱病を発症し、牢屋内の床に臥せるようになりました。熱病といっても腸チフスや肺炎、敗血症、発疹チフスなどいろいろ考えられますが、罪人であるため医者が呼ばれることもなく、原因不明のまま、明治4年(1871年)7月5日5時、死亡しました。
享年30歳。真夏であったため、その遺体は敷地内に仮埋葬され、のちに東京谷中にあった松岡家の菩提寺、一乗寺に埋葬されました。
翌1872年(明治5年)1月、他のメンバー、榎本武揚ら幹部は全員が赦免され、このとき磐吉にも「死後赦免」の沙汰が下されました。あと6ヵ月ほど持ちこたえることができれば、生きたままの赦免を迎えるところでしたが、運命はそれを許しませんでした。
磐吉が獄にいる間、その赦免嘆願書を出した、旧斗南藩士、武田信愛は、その嘆願書に松岡の人となりを書き、「気骨本幹ありてよく衆を御す」と評しています。冒頭の写真からも見てわかるように、気骨にあふれ周囲に慕われたであろうその人物像が、この文章からもうかがわれます。
その磐吉の兄、弘吉はこの3年後の1874年(明治7年)、柴性のまま亡くなっています。
彼もまた榎本や磐吉とともに蝦夷共和国設立に参加しましたが、五稜郭陥落後、他の将兵とともに解放されました。明治以後は許され、明治海軍に出仕したと思われます。
榎本武揚は、釈放後、黒田が次官を務めていた開拓使に雇われ、ナンバー4にあたる四等出仕に任官、北海道鉱山検査巡回を命じられました。ここで北海道の資源調査を行った結果、その功績が認められ、のちには駐露特命全権公使として樺太千島交換条約を締結する重役を果たしました。
これを皮切りに出世街道を突き進み、外務大輔、海軍卿、駐清特命全権公使を務め、内閣制度開始後は、逓信大臣・文部大臣・外務大臣・農商務大臣などを歴任し、子爵となりました。しかし、第2次伊藤内閣で農商務大臣に就任した際は、足尾鉱毒事件での対応をめぐって被害農民の反発を招き、大臣を引責辞任しています。
以後、政府要職に就くことはありませんでしたが、晩年にはかつて設立した蝦夷共和国の夢を再現すべく海外殖民への関心を抱き、1897年(明治30年)には36名の植民団のメキシコ派遣を実現させました。
しかし、目指していたコーヒー菜園の開発が思うように進まない中、資金繰りに行き詰まり、マラリアも発生して逃亡者が発続出するなどしたため、わずか3ヶ月でこの殖民地は崩壊しました。
1905年(明治38年)には、海軍中将を退役し、その3年後の 10月26日、腎臓病で死去。享年73でした。その葬儀は海軍葬で行われています。
榎本は、実務的大臣を何度も歴任し「明治最良の官僚」と評され、明治天皇からも信頼を得ましたが、その一方で、幕臣ながら薩長の政府に仕えた「帰化族の親玉」といった批判や、藩閥政治の中で名ばかりの「伴食大臣」という批判も受けました。伴食とは主客のお伴をして御馳走を受けることで、恩赦というおこぼれのおかげで出世できたという批判です。
しかし、辰ノ口の牢への投獄中、重罪人であるにも関わらず、当時の政府を批判する「ないない節」という戯れ歌を作っていたといい、晩年に至るまでもどこか新政府には殉じない気分をもっていたようです。
批判を受けながらも、反論もせずに重職の数々を担い続けたのは、それは、かつて共に戦い死んでいった同志が受けるべきだった職務と考えていた可能性があります。彼らに報いるつもりで、重責を受け続けたと考えることもできるでしょう。晩年、自腹を切って手掛けたメキシコ植民事業も、そうした贖罪のひとつであったのかもしれません。
弘吉、磐吉の二人が師事した江川英龍の息子、英敏は、その後家督を継いで第37代江川家当主となり、生前に父が進めていた農兵育成・反射炉の完成・爆裂砲弾の開発などを次々と推し進めました。しかし、家督を継いでから7年後の1862年(文久2年)に24歳で夭折しました。
継嗣がなく、末弟の江川英武が養子として跡を継ぎましたが、英武は、明治19年(1886年)、町村立伊豆学校の校長に就任。学校では生徒に英語教育を施すとともに柔道教育にも力を入れました。
“講道館四天王”の1人に数えられた富田常次郎を講師として伊豆学校に招聘しており、この富田は、青年期より講道館創始者の嘉納治五郎と寝食を共にした人物です。後に米国で指導を行うなど柔道の国際的普及にも尽力し、その多大な功績から“講道館柔道殿堂”にも選ばれています。
江川や富田によってその礎が築かれたこの伊豆学校は、その後、静岡県立韮山高等学校となりましたが、現在でもその「学祖」を江川英龍としています。その校訓は学祖江川坦庵の座右の銘である「忍」であり、現在も毎年、松岡兄弟のような優秀な人材を輩出し続けています。
同校は地元では「韮高」と呼ばれていますが、一方では「龍城」という名前がしばしば用いられるそうです。この韮山高校のすぐそばには、かつて北条早雲が拠点としていた韮山城跡があり、こちらがその由来です。その本丸があったとされる場所からは、すばらしい富士の眺めを堪能することができます。
磐吉や弘吉が学んだと思われる、かつての韮山代官所、江川邸は、この龍城のすぐそばに位置します。これを読んで興味を持たれた方は、一度ここを訪れてみてはいかがでしょうか。きっとこのころ吹いていたであろう、心地よい風を感じることができるに違いありません。
重要文化財 江川家住宅(江川邸)静岡県伊豆の国市韮山1番地