決起!


つい先日、所要で湯河原へ行く機会がありました。

神奈川県最西部の町であり、そのすぐ西隣はもう静岡県の熱海市、すぐ北側には芦ノ湖という位置関係です。箱根火山の外輪山の南麓にできた平地であり、相模灘に挟まれた低地に町の中心域があります。

平地とはいいますが、厳密にいえばそのほとんどが傾斜地であり、太古にあった湯河原火山が、著しく浸食されて形成された地形の多くを町域としています。

真鶴町と接する東北域には、緩やかな山麓部があり住宅地とミカン畑が混在して広がるのんびりとした場所で、東海道線の駅もあるため東京からの来客も多い古くからの温泉町です。

鎌倉時代には、相模国土肥郷と呼ばれており、その名のとおり、土肥(どい)という豪族が支配していました。そのひとりで、鎌倉時代以前にこの土肥郷を本拠とし、相模国南西部において「中村党」と称される有力な武士団を形成していたのが、土肥実平(どひさねひら)という人物です。

この土肥実平は、伊豆の蛭ヶ小島に流されていた源頼朝の反平家の旗揚げの際につき従った一人で、のちにその功が認められて鎌倉幕府の軍奉行となり、この湯河原のすぐ裏手にある山上に城を築き、これは現在も土肥城跡、ということで現存しています。

今日のブログの冒頭の写真は、この土肥城跡のすぐ近くにある展望所から撮ったものです。展望所は「椿台」といい、湯河原から芦ノ湖へ上る「椿ライン」という県道沿いにあり、コンクリート造りの立派な展望所とトイレ、駐車場などもあります。

ここからは、うっそうと茂った樹木のため、残念ながら東側の湯河原市街や鎌倉方面の展望はありませんが、すぐ南側の伊豆半島東側と、伊豆の山々をはるか遠くまで見渡すことができ、遠くには利島や大島も見通せ、すぐ足元には熱海沖の初島なども見えます。

この地に立つと、伊豆半島というのはなるほど南北に長い半島だなということが実感でき、その昔ここを統治していたという土肥氏は、ここを拠点として伊豆方面と鎌倉方面のふた方向に睨みを利かせることができていたということがよくわかります。

そうした要衝に城を設けることを許されたということは、それなりに頼朝にも信頼された人物だったと思われます。調べてみると、頼朝の挙兵後も、日本各地で行われた平家との数々の戦いに参戦しており、壇ノ浦の戦いの後には長門国と周防国の惣追捕使(守護のこと)として長府に居城したとされています。

長府というのは、下関にもほど近い山陽側の城下町ですが、伊豆にもほど近いこんなところに私の郷里である山口との接点がある武将がいたのかと、思わずうれしくなってしまいました。

ところで、この土肥実平の主君の源頼朝の平家打倒の戦いについては、そのクライマックスシーンの壇ノ浦の戦いなどについてはある程度は知っているものの、初戦の「石橋山の戦い」という戦さについては、あまり詳しくは知りませんでした。

なので詳しく調べてみようと思い、まずその場所を調べてみようと地図検索してみたところ、この石橋山というのは、なんとこの土肥城の麓からすぐ近くだったことがわかりました。

小田原市と湯河原のちょうど中間地点ぐらいに、今も「石橋」と呼ばれている場所があり、「山」というのでかなり山奥のイメージを持っていたのですが、このあたりは古箱根火山の溶岩流が海岸線のすぐ際まで流れ込んで形成された土地であり、古くには切り立った崖のすぐ下に波が寄せるような場所だったと思われるところです。

現在はこの海岸線沿いに国道135号が走っていますが、現在もこの海側は崖状になっていて、「石橋山古戦場」とされるものは、どうやらこの国道の山側の斜面一帯だったようです。

斜面といっても比較的緩やかなものであり、こうした伊豆や神奈川県西部の山麓ではミカンやお茶が栽培されていることが多いのですが、ここにもミカン畑が広がっており、その間を網の目のように農道が走っています。

が、この当時は溶岩流が山谷を形成する合間にぼうぼうと草が生えたような不毛地帯だったに違いなく、ただ見通しはよさそうなので、騎馬を主体とする敵味方の軍隊がここで遭遇して刀槍を振り回すには都合がよかったのでしょう。

ここから1kmほど山側に分け入った場所には箱根ターンパイクが走っていますが、無論その当時にはこうした山上に近い一帯はその昔は人馬も通れない樹海に近い場所だったに違いなく、関東方面からやってきた平家の軍勢と伊豆からの頼朝らが海岸線沿いに移動してきた結果、この山と海岸線で囲まれた狭隘な地で敵対することになったと思われます。

この石橋山の戦いで頼朝らは、伊豆国の豪族である伊東祐親や相模国(現県寒川町、茅ヶ崎市、藤沢市)に勢力を持っていた大庭景親らの軍勢と戦って敗れていますが、実はこの戦いが初戦ではなく、最初の戦いは「山木館の戦い」といい、この小競り合いともいえる小戦さでは頼朝は勝利を収めています。

この戦さが行われた場所は、現在の伊豆市の韮山にある、のちの江川太郎左衛門の屋敷のすぐそばで、頼朝が幽閉されていた蛭ヶ小島にもほど近いところであり、我々が住んでいるところからもそう遠くはなく、私としてはこれもかなり意外でした。

このように、このあたりの位置関係やら頼朝を巡る彼我の人間関係については、どうもあやふやな知識しか持っておらず、ここはちょっと一度整理しておいた方がいいな、と思ったので、今日は改めてこのあたりのことを分かりやすく整理していこうと思います。

さて、ことはそもそも源氏と平氏というこの時代の武家の二大勢力の権力争いに発する、ということは誰でも知っているところでしょう。

源頼朝の父の源義朝は若かりしころ、そのころ坂東と呼ばれていた関東地方に畿内から下向し、この地の武士たちを手なづけることに成功し、坂東でもとくに南坂東の豪族達に強い影響力を有していました。

義朝は、朝廷内での皇位継承権争いに端を発して起こった保元の乱、平治の乱では、自らの勢威の及ぶこれらの坂東の豪族を引き連れ戦いましたが、結局は破れました。そして、平家と朝廷に敵対する謀反人となった義朝は都を落ち延びる道中、尾張国で家人に裏切られ謀殺されてしまいます。

このとき、源氏一族のほとんどは平家によって粛清されていますが、義朝の三男であった頼朝だけは、まだ幼かったことから平清盛の温情を受けることができ、伊豆韮山の蛭ヶ小島に流罪になったのでした。

頼朝は流人の身のまま20年以上を過ごし、その間読経に精進していたと言われていますが、この間に、こともあろうに頼朝の監視役であった北条一族の首領、北条時政の娘政子と親しくなり、彼女と駆け落ちしてしまいます。

この駆け落ちした場所が、熱海にある伊豆大権現という神社であり、これは明治維新の神仏分離令により寺を分離して現在のように「伊豆山神社」と称するまでは、天台宗や真言宗と関わりの深い神仏習合の神社でした。また、箱根にある箱根大権現とともに、この地域における修験道者のメッカとして有名な場所でした。

このとき頼朝はこの伊豆大権現の修験者たちの協力を受けることができ、二人を捕えようとして追ってきた北条時政らの軍勢を退けています。

この北条時政は、その後、頼朝の側近となり、平家打倒のために立ち上がるようになります。その背景としては、このころ伊豆東海岸の伊東を中心に勢力を持っていた伊東祐親らの伊東一族と対立していたことがあげられます。

伊東祐親はこのころ、親平家派の武将として伊豆での権勢を誇っており、同じく平家に頭を下げる北条氏とはライバル関係にありました。伊東家もまた頼朝の監視役を平家から命じられおり、この二家がともに頼朝の監視役を仰せつかったのは、平家にはこの両者を競わせる意図があったためでしょう。

近隣の者同士を頼朝の監視役につかせることで、お互い落ち度がないかどうかを報告させあっていたのであり、また両者を競わせることで、その勢力を削ぐ目的があったと考えられます。

ちなみに頼朝はこの伊東祐親の娘とも懇ろになったことがあり、その娘、八重姫との間には一男を設けています。しかし、これを知った父の祐親が頼朝との間にできたこの子を殺してしまったために八重姫は嘆き、川に身を投げて死んでしまっています。

その菩提寺は、今も伊豆長岡にあり、真珠院という名前で親しまれています。

北条時政が頼朝を擁して平家と戦おうと思ったきっかけは無論、娘の政子が頼朝と駆け落ちしてしまったことだったでしょうが、時政としてはこれを機会に伊東祐親を駆逐し、伊豆の実権をその手に握りたいと考えたのでしょう。

頼朝の父の義朝は、かつて坂東武者たちと昵懇であり、平家の天下となったこのころでも彼等は源氏に対しては親近感を持っており、いざ事があらば、源氏の頭領にもなりうる彼の元へ駆けつける豪族も多かろうという計算が時政にはあったに違いありません。

事実、その後頼朝は緒戦では破れはしたものの、その後坂東に逃げ延び、彼らの助力を得て勢力を盛り返し、その後の平氏の打倒に結びつけることに成功しています。

頼朝はその後政子との間に一女をもうけており、北条氏と血縁関係になることでますますその関係性を強めます。頼朝の庇護者となった北条家は、その後樹立された鎌倉幕府においては逆に源氏を駆逐し、執権としてその後長年にわたって君臨するようになることは周知のとおりです。

治承4年(1180年)のこと、京都でついに頼朝挙兵の契機となる事件が勃発します。

この頃の朝廷は、新興勢力である平家に牛耳られており、そのトップであった後白河法皇はことあるごとに平家と対立していました。そんな中、後白河法皇の三男にあたる「以仁王」が、摂津源氏の源頼政とともに平家打倒の挙兵を決意。諸国の源氏、藤原氏に令旨を送り平家打倒のための蜂起を促したのです。

源頼政は平治の乱以降、平家に忠誠を尽くす数少ない源氏として逆に平家に重宝がられていましたが、このころには平家からかなりの不遇を受けるようになっており、この決起はその憤懣が爆発したことが原因だったといわれています。

このとき、伊豆への使者となったのが頼朝の叔父の源行家でした。この年の4月末、行家は、伊豆韮山の北条館を訪れ平家打倒の令旨を頼朝に手渡すと、さらに相模湾一帯の他の豪族にも同様の令旨を届けるべく旅立っていきました。

ところが、その翌月、頼政と以仁王の挙兵計画は、平家に恭順する源氏一族の一人の密告により発覚してしまいます。全国の武将を集めた上で挙兵をしようと考えていた二人は、このため準備不十分のまま挙兵を余儀なくされることとなります。

しかし、やはり準備不足が祟り、平家の追討を受けて、二人ともあいつで戦死してしまいます。

こうした京での状況は、伊豆の北条館に居住する頼朝に届けられ、またこれをきっかけに平家が坂東諸国の武士たちに命じて源氏を追討しようとしているとの情報も入ってきました。

それを裏付けるようにやがて、このころ伊豆にいた源頼政の孫の源有綱の追捕の命令が、相模の国(現神奈川県)の北部を領地とする、大庭景親に下されたとの情報も入ってきました。

このころ、それまでの伊豆国の知行国主は、源頼政でしたが、彼がクーデターで敗死したため、平清盛の義弟の平時忠がこれを継ぐこととなりました。これによって伊豆国の実権は、この時忠と親しかった伊東祐親が握ることとなり、これがまた時政と頼朝の危機感をつのらせました。

このころ、北条時政と源頼朝の側近中の側近としては、工藤茂光、土肥実平、岡崎義実、天野遠景、佐々木盛綱、加藤景廉などの面々がいました。

このうち、工藤茂光は、狩野茂光ともいい、工藤家はもともと狩野家の一族でした。狩野家というのは、修善寺の少し南側の山間地に居城を持つ豪族であり、古くから伊豆の中央部分の覇権は彼らが握っていました。現在のこの地を流れる狩野川は、無論この狩野家にその由来を発するものです。

ちなみにこの狩野家の中からは江戸時代を代表する日本画の宗家、狩野流の流派が輩出されています。このことはかなり前ですが、このブログでも書きました。

また、土肥実平は前述のとおり湯河原を拠点とする豪族であり、岡崎義実は、そのすぐ近くにある三浦半島を拠点とする三浦氏の一族でした。相模国大住郡岡崎(現平塚市岡崎・伊勢原市岡崎)を領していたため、岡崎氏を称していました。

古くからの源氏の家人で、義実は平治の乱で源義朝が敗死した後に鎌倉の義朝の館跡に菩提を弔う祠を建立しています。

また、天野遠景は、もともとは平家の家人でしたが、その拠点の天野郷が蛭ヶ小島に近かったこともあり、幽閉生活を送っていた源頼朝と狩や相撲を通じて交流を持ち、親交を深めるようになった人物です。

ちなみに天野郷とは、この修善寺からすぐ近い伊豆長岡の山すそにあり、遠景の墓もここにあります。権謀術数に優れていたといわれ、戦さよりも暗殺が得意だったという説もあり、どちらかといえばダーティなイメージのある武将です。

残る二人の佐々木盛綱、加藤景廉は、もともと伊豆の人ではありません。佐々木盛綱は近江が出身であり、源頼朝が伊豆に流されてきたときから、その側近として常に側にいた人物です。

加藤景廉のほうも、元々は伊勢国を本拠として源氏に付き従っていましたが、平治の乱で義朝が敗れると、父の加藤景員に従って伊豆国に下り、このとき工藤茂光らの協力を得て土着勢力となった人です。従って、佐々木盛綱、加藤景廉とも昔ながらの源氏の忠臣ということになります。

こうした頼朝の側近といわれた面々をみると、伊豆中部から相模の海岸沿いにその拠点を持つ勢力が多く、彼らと伊豆東部を拠点としていた伊東氏、および同じ相模でもより北側に拠点を持つ大庭景親らの勢力が結託して、この両者の争いの中から石橋山の戦いが起こったという構図がみてとれます。

一方、このころ坂東(関東)各地では平清盛の義弟の平時忠が伊豆の新知行国主就任したのにともない、平氏の家人の勢力が強くなり、かつては源頼政が伊豆の知行国主だったころに彼と親しかった豪族達が圧迫されるようになってきていました。

彼等の中には、相模国東部(現横浜付近)に本拠を持つ佐々木秀義、房総半島の安西景益、上総広常、千葉常胤、坂東北部を拠点とする豊島済元、足立達元、などがおり、彼らは後に頼朝に呼応して、こぞって平家に対抗していくようになります。

こうして、平家による伊豆や坂東支配によって閉塞感を感じていた頼朝は、京都に源家累代の家人をスパイとして侵入させ、平家の動向を探らせようとします。

「源平盛衰記」にはその報告のひとつが記載されており、そこには「佐殿(頼朝)が平家を討とうなぞ、富士山と丈比べをし、鼠が猫をとるようなものだ」と平家の一派が嘲笑したことなどが書かれており、このころ平家側はかなり源氏をみくびっていたことがわかります。

ところが、あるとき突然、頼朝と敵対していたはずの大庭景親の兄の大庭景義が、源氏側につくことを表明します。また三浦半島を拠点としていた三浦家はそれまでは中立の立場をとっていましたが、その当主、三浦義明もまた源氏への味方に賛意を示すなど、次第に頼朝側に風が吹いてきました。

こうした情勢を伝え聞いた坂東の千葉常胤、上総広常らもまた、源氏につくことを表だって公言しはじめ、頼朝らには、これら三浦氏、千葉氏、上総氏という大勢力を背景に旗揚げをする機運が生まれてきました。

こうして、治承4年(1180年)8月、頼朝はついに挙兵することを決め、まず手始めに伊豆目代(現地に下向して執務しなければならない人物の代理として派遣された代官)の山木兼隆を討つことにしました。

山木兼隆はもともと、京にあって検非違使少尉(裁判官)をしていましたが、理由はよくわかっていませんが、実父によっておとしめられて罪を得、伊豆国山木郷に流されてきていました。

この山木郷とは前述のとおり、のちの江戸時代に活躍する江川太郎左衛門の居宅のあった韮山にある農村地帯です。

もともとは流人だったわけですが、このころ伊豆の知行国主となった平時忠とは京都時代に面識があり、懇意にしてもらっていた経緯があり、伊豆へ来てからも目代にしてもらったため、その後急速に伊豆で勢力を振るうようになっていました。

平家方がひいきにしていた目代であるがゆえに、源頼政による旧知行国主系の工藤氏や北条氏にとっては、平家の権勢を借りて幅を利かす山木兼隆は仇同然であり、このため頼朝の挙兵の際に最初に血祭りにあげる相手としては格好の人物でした。

挙兵を前に、頼朝は前述の、工藤茂光、土肥実平、岡崎義実、天野遠景、加藤景廉といった側近を一人ずつ私室に呼んで密談を行っており、このときそれぞれの面々に「未だ口外せざるといえども、ひとえに汝を頼むによって話す」と言ったと伝えられており、このため彼らは自分だけが特に頼りにされていると喜び奮起したといいます。

こうして、頼朝が平家打倒の旗印をかかげる、治承4年(1180年)8月17日(新暦9月8日)がやってきました。彼等は、三島に集結し、ここで相模国東部(現横浜付近)に居住する佐々木盛綱を待ってから南下して山木館のある韮山をめざそうと考えていました。

ところが、その挙兵の前日になっても、佐々木定綱とその兄弟たちが伊豆に到着せず、頼朝は、すわ佐々木一族に計画を漏らしたがやはり寝返ったかと、悔いたといいます。が、挙兵当日に彼らが到着すると、涙を流してねぎらったといいます。

実は、この日は大雨であり、伊豆に馳せ参じるにあたって佐々木盛綱らは酒匂川の洪水などによってこれを超えることができなかっただけだったのですが、こうした事実からも、のちに弟の義経を謀殺することになる、疑い深い頼朝の根暗な性格がみてとれます。

また、このころ頼朝の家のある下女が山木兼隆の下男と恋仲であり、この日もその男が頼朝の三島の野営所に逢引きに来ていました。

このため彼をそのまま山木邸に返すと、多くの武者の集まっていると注進される恐れがあるため、頼朝は用心のために彼を生け捕らせた、といった細かい話も残っています。こうしたエピソードもまた頼朝という人物の非常に細やかというか、神経質な性格をうかがわせるものです。

佐々木兄弟たちの遅参は、実は朝駈けによる山木邸の襲撃を考えていた頼朝らの計画をくるわせることになり、結局頼朝は明朝を待たず、その日の深夜に山木館を襲撃しています。

その襲撃にあたっては、「山木と雌雄を決して生涯の吉凶を図らん」と決意を述べたと伝えられており、その直後に韮山へ向かっての進撃が開始されました。

このとき時政は「今宵は三島神社の祭礼であるがゆえに牛鍬大路は人が満ちて、襲撃を気取られる恐れがあるから、間道の蛭島通を通ってはどうか」と進言しましたが、頼朝は「余も最初はそう思ったが、挙兵の草創であり、間道は用いるべきではない。また、蛭島通では騎馬が難渋する。大道を通るべし」と命じたといいます。

牛鍬大路(うしぐわおおじ)というのは、三島方面から国道136号線を通って伊豆の国市に入り、駿豆線の原木(ばらき)という駅の手前付近の場所であり、現在の国道136号よりもやや東側にあった街道のようです。

また蛭島通(ひるがしまどおり)というのは、頼朝が幽閉されていた蛭ヶ小島付近を通っていた間道であり、牛鍬大路よりもさらに山側を通っていた人通りの少ない道でした。幼少時から20年来この地に住んでいた頼朝にとっては勝手知ったる地元であったわけです。

こうして深夜の子の刻、つまり午前零時ごろに山木館に一行は山木館に到着しました。この戦闘は、佐々木兄弟の一人である、佐々木経高が館に放った矢によって始まり、「吾妻鏡」ではこれを「源家が平家を征する最前の一箭なり」と記しています。

すぐに山木館の郎従が応戦して矢戦になりましたが、佐々木軍はやがて矢を捨てて太刀を取って突入。両者太刀を取っての組み合いになりましたが、ついには、有力武将の堤信遠などを討ち取ります。堤信遠は山木兼隆の後見役でもあり、このころ田方郡に勢力を築きつつあり、北条・佐々木軍にとっては競合関係にある最も手ごわい豪族でもありました。

やがて時政らの本隊もまた、山木館の前に到着すると矢を放ちはじめました。前述のとおり、この夜にはちょうど三島神社の祭礼があり、このため兼隆の郎従の多くが参詣に出払っており、現在の沼津市内にある「黄瀬川の宿」などに集まって酒宴を行っていたと伝えられています。

しかし、館に残っていた少数の兵は意外にも激しく抵抗。信遠を討った佐々木兄弟も加わり、激戦となりますが、容易に勝敗は決しませんでした。

このとき、頼朝は山木館の方角を遠望する北方に陣を構え、火の手が上がるのを待っていましたが、なかなか狼煙はあがりません。焦燥した頼朝は警護に残っていた側近の佐々木盛綱のほか、加藤景廉、堀親家といった武将たちを山木館へ向かわせます。

特に加藤景廉には長刀を与え、これで兼隆の首を取り持参せよと命じました。景廉、盛綱は山木館に乗り込み、遂に兼隆を討ち取り、館に火が放たれると、明々と夜空にその炎が上がります。

燃え続ける山木館を背後にしながら襲撃隊は払暁までには三島に帰還し、頼朝は野営地で持ち帰った兼隆主従の首を検分したといいます。

その翌日の19日、頼朝は山木兼隆の親戚である史大夫知親という人物が伊豆国で行っていた非法を停止させる命令の旨が記された勅令を発しており、「吾妻鏡」はこれを頼朝による「関東御施政の始まりである」と特記しています。

こうして、平家の目代である山木兼隆は倒されましたが、なお頼朝の兵力のみで伊豆一国を掌握するにはほど遠く、とくに伊豆の東側一帯を牛耳る伊東氏は源氏の再興の前に立ちはだかる大きな障害であり、彼らの撃破は最重要課題でした。

頼朝は相模国三浦半島に本拠を置き大きな勢力を有する三浦一族を頼みとし、彼らの参入とともに伊東領を攻略しようと考えていましたが、この山木館の襲撃のあとも、三浦一族は遠路のためか、なかなか参着してきませんでした。

8月20日、頼朝はわずかな兵で伊豆を出て、土肥実平の所領の相模国土肥郷(前述の湯河原町)まで進出。ここから反転して伊東へ向かう予定でした。

ところが、ちょうどこのころ、平家方の相模北方に領地を持つ大庭景親が俣野景久、渋谷重国、海老名季員、熊谷直実といった武将らが3000余騎もの軍勢を率いて、湯河原に陣取る頼朝の迎撃に出向いてきました。

これに対して、頼朝はわずか300騎をもって石橋山に陣を構え、かつて京で旗揚げをした以仁王からもたらされていた令旨を御旗に高く掲げさせました。これが8月23日のことです。

このとき、石橋山の起伏の激しい地形にある谷ひとつ隔てて景親の軍も布陣。ところがここになって、懸念されていた伊豆国の伊東祐親が約300騎を率いて、頼朝が陣取る石橋山の陣地の後山まで進出して頼朝の背後を塞ぐ陣形をとりました。

この日は大雨でした。このため、増援に来る予定の三浦軍は、先日の山木館の襲撃の際に佐々木盛綱兄弟らが酒匂川の増水によって足止めされたのと同様、頼朝軍への合流がすぐにはできませんでした。

しかし、その前日に三浦一族は頼朝と合流すべく既に進発しており、その途中、相模湾沿いにあった大庭景親の党類の館に火を放つなどして、既に戦闘を始めていました。これを石橋山から遠望していた景親は三浦勢が到着して頼朝に合流する前に雌雄を決すべしとし、頼朝勢に夜戦を仕掛けることにしました。

こうして、闇夜の暴風雨の中を大庭軍は谷一つ隔てた頼朝の陣に襲いかかります。

「平家物語」によると、このとき合戦に先立って、北条時政と大庭景親が名乗りあい「言葉戦い」をしたとされています。

景親は自らが後三年の役で奮戦した鎌倉景政の子孫であると名乗り、これに時政がかつて源義家に従った景正の子孫ならば、なぜ頼朝公に弓を引くと言い返し、これに対して景親は「昔の主でも今は敵である。平家の御恩は山よりも高く、海よりも深い」と応じたといいます。

頼朝軍は力戦しますが、3000という多勢に対してその十分の一の劣勢ではかなわず、たちまち岡崎義実の子の佐奈田与一義忠らが討ち死にして大敗しました。しかしこのとき、佐奈田与一(真田余一)はかなりの奮戦をしたと伝えられており、今もこの石橋山の地にはこのとき与一を祀るために創建された佐奈田霊社が残されています。

大庭軍は勢いに乗って頼朝を追撃しましたが、このとき頼朝に心を寄せる大庭軍の飯田家義という武将の手引きによって頼朝らは辛くも土肥の裏山にある椙山(のちの土肥城が築かれる山。現城山)に逃げ込むことができました。

この飯田家義は、もともとは大庭景親と仲が悪く、所領争いの末、鎌倉郡飯田郷(現横浜市泉区)という小領を治めていましたが、このとき頼朝を救出したことが評価され、のちの鎌倉幕府では重用されました。

のちの富士川の戦いでは源氏軍として武勲をあげ、またこのときの石橋山での頼朝の救援の件により頼朝の信任厚く、論功行賞において平氏側だった者では家義だけが飯田郷を安堵され、地頭に任ぜられました。

さらに、その後の1200年(正治2年)には、執権の北条義時の命を受け、かって石橋山の戦いでともに頼朝を救った仲である梶原景時(後述)を倒し、駿河国大岡(沼津市)の地頭職を得ています。晩年を過ごした飯田郷には、現在、富士塚城址公園が作られ、ここには当時彼が築いた城の空堀の跡などが残されています。

こうして飯田家義の助けによって、からくも大庭軍から逃れた頼朝一行でしたが、翌24日も大庭軍は追撃の手を緩めなかったため、逃げ回る頼朝軍の残党と彼らの間では山中で激しい戦闘が行われました。

頼朝も自らが弓矢をもって自ら戦ったといわれ、蛭ヶ小島に在住のころに鍛えたその弓術の能力はいかんなく発揮され、百発百中の武芸を味方に見せたといいます。

大庭軍によってちりぢりになった頼朝軍の武士たちはおいおい頼朝の元に集まってきたため、頼朝は彼等を集めて軍議を行いました。このとき、土肥実平は、人数が多くてはとても逃れられない、ここは自分の領地であり、頼朝一人ならば命をかけて隠し通すので、皆はここで別れて雪辱の機会を期そう、と進言します。

この意見に反論する者はなく、皆これに従うことに同意して涙を流しつつも別れましたが、このとき北条時政と二男の義時は甲斐国へ向かいました。また、嫡男の宗時は別路を向かいましたが、彼は途中で伊東祐親の軍勢に囲まれて討ち死にしています。

大庭軍は山中をくまなく頼朝勢の残党を捜索しましたが、このとき大庭軍に所属していたのが、前述の梶原景時であり、頼朝が潜伏する洞窟の前を通過したとき、ひとり、その居場所を察知しました。

ところが、このとき咄嗟に梶原景時は部下に対して、ここに人跡はなく、向こうの山が怪しいとウソを言ってこの場所と通過するように命じ、このため大庭景親らも頼朝を発見することがありませんでした。

このとき、頼朝の命を救った梶原景時の顔を頼朝主従は覚えていたといい、このことが縁でその後、景時もまた頼朝から重用されることになりました。

が、前述のとおり、のちには鎌倉幕府の内紛から北条義時によって幕府から追放され、景時は一族とともに京都へ上る道中で東海道の駿河国清見関(静岡市清水区)近くで飯田家義らに発見されて襲撃を受け、このとき連れていた子らと一族郎党が討たれ、一族は滅亡しました。

この土肥の椙山で頼朝が潜んでいた洞窟は、「しとどの窟」と呼ばれ、現在もこのエピソードにまつわる伝説の地として保存されています。冒頭で述べた椿ラインの展望台のすぐ近くにあります。

この石橋山の戦いの際、頼朝と合流すべく所領の三浦半島を出てきていた三浦義澄とその一族である和田義盛らの軍勢500騎は、酒匂川(このころ丸子川と呼ばれていた)の辺りまで来ていましたが、先述のとおり、豪雨の増水のために渡河できずにいました。

そうしたところ、やがて頼朝軍の敗北がもたらされたため、やむなく引き返すことを決め、三浦半島に帰ろうとしていました。

その帰路のこと、三浦一族の軍勢は、鎌倉の由比ヶ浜で、はるばる坂東北部からここまで進軍してきていた畠山重忠の軍勢と遭遇し、戦闘が始まりました。

この戦は、「由比ヶ浜の戦い」といいますが、この三浦一族と畠山重忠の一族は、同じ東国武士でもあり、見知った仲で縁戚も多く、一時は和平が成りかかりました。

ところが、三浦半島から遅れてやって来て事情を知らない和田義盛の弟の和田義茂が、まさに和平調停が成り立たとうとしていたときに、畠山勢に討ちかかってしまい、これに怒った畠山勢が応戦。義茂を死なすなと三浦勢も攻めかかって再び合戦となってしまいました。

これによって、双方に少なからぬ討ち死にしたものが出ましたが、お互い知ったモノ同志ということでやがては再び停戦となり、このときは双方が兵を退いた形で戦が終わりました。

しかし、その後畠山重忠は、河越重頼、江戸重長といった部下たちの注進により思い返し、これらの諸将を連れて三浦半島に押し寄せることを決めます。

26日、押し寄せる畠山軍に対して三浦一族は本拠の衣笠城で防戦しましたが、先の合戦で疲労していたこともあってどうしても軍を支えることができず、城を捨てて船で海上へ逃れることにしました。

このとき、一族の長で89歳になっていた三浦義明は「源氏累代の家人として、その再興に立ち会うことができた。これ程の喜びはない。武衛(頼朝)のために我が老命を奉げて子孫の勲功を募らん。皆は彼の生死を確かめよ」と言って、ひとり城に残り、討ち死にしたといいます。

このころ、頼朝、土肥実平一行は、大庭郡の魔の手からようやくのがれ、芦ノ湖まで逃げ延びて、ここの箱根大権現社の別当にかくまわれました。この箱根権現は伊豆権現とも交流があり、頼朝を匿う十分な理由があったようです。

やがてここでほとぼりがさめるまで潜伏した一行は、その後箱根山を下りて真鶴半島へ逃れ、ここから船を仕立てて、半島の先端にある真鶴岬から出航。別の場所に逃げていた時政らも引き返してここから船を仕立て、海上に逃げていた三浦一族と合流しました。

こうして小さな船団を組んだ頼朝一行は、相模湾を横断し、その東にある安房国(現千葉県)を目指して落ち延びていきました。

9月、安房において頼朝は再び挙兵し、このとき、安西氏、千葉氏、上総氏などの房総の諸侯に迎えられて房総半島を進軍し、西進してこの当時武蔵国と呼ばれていた東京へ入りました。

武蔵国では、ここの平氏方目代に圧迫されていた、千葉氏、上総氏などの東国武士が平氏方豪族を打ち破りながら、あれよあれよというまに続々と参集してくるようになり、1か月もたたないうちに、頼朝軍はて数万騎の大軍に膨れ上がります。

その後も武蔵国の諸豪族を味方にし続け、10月6日に頼朝は鎌倉に入ります。こうしてその後およそ150年もの長きの間繁栄しつづけた鎌倉時代が幕をあげました。

その後、武田信義らの甲斐源氏らとも同盟し、二週間後の10月20日に勃発した「富士川の戦い」においては、京から派遣された平維盛の軍勢を撃破し、この後、佐竹氏、新田氏などの頼朝に従わない豪族達との対立を制し、頼朝は坂東での覇権を徐々に確立していくことになります。

石橋山の戦いで頼朝を破った大庭景親と伊東祐親はその後、京からやってきた平家方に合流しようとしましたが失敗し、景親は降参しますが許されずに斬られ、祐親は捕えられ自害しました。

こうして伊豆もまたその後長きに渡って鎌倉幕府の直接的ともいえる統治を受けるようになり、とくにその後の執権の北条氏を輩出した土地柄として、鎌倉府とは切っても切れない縁を築いていくことになりました。

その統治は、やがて足利家による室町幕府にバトンタッチされ、さらにはその後の北条早雲による堀越公方の追放に端を発する戦国時代の幕開へと続いていきますが、それらのことについてはまた別の機会に書いてみたいと思います。

伊豆山神社より

あなたは伊東さん?


今日は12月14日ということで、有名な赤穂浪士の討ち入りの日です。毎年このころになるとああ、今年ももう終わりだな、と思うのですが、確かにあと10日もすればクリスマスだし、それが終わるともうお正月は間近……ということで、何かとせわしない気分になるのは私だけではないでしょう。

今年の年末年始は初めて伊豆で過ごす予定です。例年だと実家のある山口に帰省するのですが、つい先日父の七回忌法要で帰ったばかりなので、今回は見送ることにしました。

なので、来年早々にはお天気さえよければ富士山も見えるはずで、富士山をみながらお正月を迎えられるというのは、何やらとても縁起が良いかんじがします。

今日は、討ち入りの日ということでこの四十七士の話でも書こうかとも思ったのですが、過去にあまたの人がとりあげてきており、あまりにも陳腐な気がするのであまりそそられません。なので、この赤穂浪士による仇討とおなじく日本三大かたき討ちといわれ、伊豆にも関係の深い「曾我兄弟の仇討ち」について触れてみたいと思います。

三大かたきうちのほかのもうひとつは、「伊賀越えの仇討ち」というのですが、こちらは岡山のお話です。江戸時代のその昔、岡山藩の藩主が男色家で、その小姓を寵愛していました。

ところが、これに横恋慕した家臣がその小姓に求愛したところ拒まれたため、家臣は小姓を殺害。藩主は怒り狂いますが、すぐに病没してしまい、その死の直前に小姓を殺した家臣をせいばいするように周囲に遺言。

そのうちのひとりで、殺された小姓の兄だった男は長い年月をかけて兄を殺した家臣をつけねらい、剣術の達人の助けを得てついにこれを実現する……というお話です。かたき討ちの話ではあるのですが、何分、事が男色に発している点がいまひとつ赤穂浪士によるかたき討ちと比べると人気がないのはそのせいでしょう。

曽我兄弟のかたき討ちも、よくよく調べてみると、討たれたほうが必ずしも悪いというわけではなく、しかもこのケースの場合は親戚同士のバトルであり、言ってみれば近親者同市の仲間割れというのが本質のようで、「伊賀越えの仇討ち」よりはましですが、これも後世ではあまり人気がないのはそのためのようです。

なので、正直言ってこれについても書くことはあまり気乗りしません。がしかし、伊豆の歴史上でもちょうど時代の変化のはざまで起こった事件であり、これに関わったのは日本の歴史変化に関わった重要人物ばかりでもあり、これをみていくことでこの時代の様相がよくわかります。歴史的にみてもこういう事件もそうそう多くはないので、やはり一度はまとめておこうと思います。

そもそもの事の発端は、伊豆の東の豪族伊東氏の領地争いから始まりました。のちに敵討されてしまう側の当人となる「工藤佑経」は、その幼少期に家督であった父の工藤祐継が早世すると、父の遺言により義理の叔父である「伊東祐親」が後見人となりました。

伊東氏と工藤氏は実は同じ一族で、伊東氏は平安時代末期から鎌倉時代にかけて現在の伊東市一帯である、伊豆国田方郡の「伊東荘」を本拠地としていました。伊東氏はそもそも、藤原南家・藤原為憲の流れを汲む「工藤氏」の一支族であり、今では「伊東」の名前のほうが有名になっていますが工藤氏のほうがもともととの本家筋といえます。

工藤氏がいつごろから伊豆にすみついたのは定かではありませんが、おそらくは平安の初期のころのことでしょう。その祖ともいえる「工藤祐隆」は当初、伊豆国の豪族を平らげ、大見・宇佐見・伊東を総合した「久須見荘」なる広大な地域を所領としていました。

この工藤祐隆の嫡男は祐家といいましたが早世したため、後妻の連れ子であった継娘が産んだ子が嫡子に取り立てられ、久須見荘のうちのひとつ、伊東荘を与えられて「伊東氏」を名乗り、この子が伊東家初代の「伊東祐継」となりました。

一方、早世した祐家には嫡男がおり、この子には河津荘が譲られ、この子供は「河津氏」を名乗るようになりました。この「河津」の名前は今も東伊豆に「河津町」の名前で残っています。河津桜の河津でもあります。

伊東荘を継いだ祐継は病により43歳で死去し、9歳の嫡男金石(のちの工藤祐経)の後見を義弟で河津姓を名乗るようになった「河津祐親」に託しました。つまり、祐親は金石の義理の叔父にあたります。

金石の後見人になった河津祐親は河津から伊東荘に移り住み、これを契機に河津姓を捨て自らが「伊東祐親」と名乗るようになります。そしてもともとの領地の河津は嫡男祐泰に譲って「河津祐泰」と名乗らせます。

伊東家の初代、伊東祐継の息子の金石は、後見人の叔父が伊東姓を名乗るようになったため、元服すると伊東姓ではなく、もともとの一族の源流である工藤姓を名乗るようになり、この金石が後年仇討されてしまう「工藤祐経」となります。そして後年、後見人の伊東祐親の娘の「万劫御前(まんごうごぜん)」を妻とするようになります。

この辺、実にややこしいのですが、ともかく工藤氏、伊東氏、河津氏の三家はそれぞれが姻戚関係にある親族同士で、お互いが後見人になったり、親族同士で結婚したりして一族の結束を高めようとしていたわけです。

その後、工藤祐経は14歳で叔父の伊東祐親に伴われて上洛し、平家の家人として平重盛に仕えるようになります。後年源氏に敵対するようになる伊東一族の平家びいきはこのころから始まります。

工藤祐経を平家に仕えさせたといいつつも、実質は都へ追い払った伊東祐親は、あろうことかいつのまにかこの工藤祐経の所領を独占してしまいます。そもそも祐経の後見人になったころから工藤家の所領を狙っていたのかもしれません。

若い祐経を一族の代表として平家に仕えさせるというのは実は口実にしてその所領をわが物にしようとしたのか、たまたま平家から一族に出仕の要請があったのを利用したのかはわかりませんが、ともかく結果的には工藤家の所領を伊東家が横領するという結果に至ります。

そうしたことを何も知らないで京で平家に仕えていた祐経ですが、やがて叔父の祐親が自分の土地を押領しようとしていることに気付き、都から訴訟を起こしてこの土地を取り返そうとしますが、年長で朝廷にも馴染の多い祐親の根回しにより、その試みはことごとく失敗に終わってしまいます。

さらに祐親は祐経の嫁にやったはずの娘の万劫を取り戻し、相模国の土肥遠平へ嫁がせてしまいます。

こうして所領も妻をも奪われた祐経の怒りは頂点に達します。そして叔父の伊東祐親だけでなく、その一族も根絶やしにしたいと考えるようになり、祐親の息子の河津祐泰もろとも殺害しようと計画を練りはじめます。

そして1176年(安元2年)、ついに行動を起こし、郎党の大見小藤太と八幡三郎を刺客として放ちます。二人はちょうど親子で狩に出ていた祐親と祐泰を狙い、二人に矢を放ちましたが、この矢は伊東祐親には当たらず、河津祐泰だけに当たります。

この刺客2人は暗殺実行後すぐに伊東方の追討により殺されましたが、河津祐泰は二人によって射られた矢傷がもとで死んでしまいました。

祐泰には満江御前(こちらの姫も「まんごう」満行とも)という妻がおり、一萬丸と箱王という二人の男の子がいました。夫を失った満江はその後、この二人の子を連れて曾我祐信に再度嫁ぎ、この二人がのちの曽我兄弟、つまり「曾我祐成(すけなり)」と「曾我時致(ときむね)」になります。

曾我祐信は、相模国曾我荘(現神奈川県小田原市)の武将で、のちの源平合戦では鎌倉方につき、のちの鎌倉幕府では御家人として重用されるようになりますが、満江が再婚したころにはまだ頼朝は挙兵しておらず、相模の国の一豪族にすぎませんでした。

一萬丸と箱王丸は曾我の里ですくすくと成長します。伝説では兄弟は雁の群れに亡き父を慕いつつ、武家の子として武道に励んだと伝えられています。

その後、源頼朝が伊豆で平家打倒ののろしを上げ、治承・寿永の乱が始まります。治承・寿永の乱は1180年(治承4年)4年の頼朝挙兵に始まり、元暦2年(1185年)に平家が壇ノ浦で滅亡するまでの大規模な内乱の総称です。

最終的には、反乱勢力同士の対立がありつつも、平氏政権の崩壊により、源頼朝を中心とした主に坂東平氏から構成される関東政権(鎌倉幕府)の樹立という結果に至りますが、この乱の中で平家方についた伊東氏は没落し、祐親は源氏側に捕らえられて自害しています。

一方、工藤祐経は、早くから源氏の世が来ることを見越し、この乱の早い時期から源頼朝に従い、乱が終わったのちはその勲功が認められて御家人となり、頼朝の寵臣となりました。

こうした中、亡くなった伊東祐親の孫にあたる曾我兄弟は戦乱の中においてもたくましく成長し、兄の一萬丸は、元服して曽我の家督を継ぎ、曾我十郎祐成(すけなり)と名乗ります。一方の弟の箱王丸は、父の菩提を弔う役目が仰せつけられ、このため箱根権現社に稚児として預けらます。

そんな箱王丸の前にある日、父の仇である工藤祐経が突然現れます。文治3年(1187年)、治承・寿永の乱後に鎌倉幕府を打ち立てた源頼朝がその戦勝祝いに箱根権現に参拝した際、工藤祐経も随参していたのです。

箱王丸は父の仇を目の前に刃を向けて復讐しようしますが、仇を討つどころか逆に祐経に諭されてしまいます。そして、その仇の祐経から「赤木柄の短刀」を授けられたといいます。

この「諭された」というのが何を調べてもよくわからないのですが、仇敵に短刀を贈られたというのも不思議な話です。

工藤祐経という人物がどういう人物だったのかがそのカギを握っていると思われますが、想像するに伊東祐親ほどえげつないオヤジではなかったと思われます。

伊東祐親という人は、このブログの「八重姫」の項でも書きましたが、頼朝の若き頃にその三女の八重姫との間にできた子供を殺しています。平家にとっては罪人だった頼朝と一族の間に子供ができたことを知られたら平家からお咎めがある、というのがその理由だったようですが、背後関係はともあれ褒められた行為ではありません。

これに対して工藤祐経は、京では平家にあって徳のある人物として知られた平重盛に重用されており、こうしたいたという事実からも、かなり人あしらいには慣れた人物だったようです。

歌舞音曲に通じており、こうした才能が平家に気に入られた理由でもありますが、若き日に都に仕えた経験と能力は、源氏が天下をとったあとにも生かされ、鎌倉幕府において頼朝にも重用されました。

父の仇と狙う曽我兄弟とは血はつながってはいないものの同じ一族どうしであり、もとはといえば曽我兄弟の祖父の伊東祐親が祐経の所領と妻を奪ったことにことを発した一件でもあります。そのことを祐経は箱王丸にとつとつと説明し、無益な争いはやめよう、その仲直りの印にこれをやろう、といって短刀を手渡したのかもしれません。

が、どこかその説得には空々しいものがあったのでしょう。なぜなら祐経が箱王丸に手渡した短刀は、その後工藤祐経自らの命を奪うことになるからです。

祐経に諭されてその場では父の仇を討てなかった箱王丸ですが、このときは思いとどまったものの、やはりその怨念は深かったらしく、父の喪に服して過ごす一生に見切りをつけ、箱根を逃げ出してしまいます。

そして、縁者にあたる北条時政を頼ります。北条時政はいうまでもなく、北条政子のお父さんで、頼朝の義父にあたる人物ですが、この時政の前妻は伊東祐親の娘だったためです。

このあたりのことはよくよく考えてみるとヘンな話です。北条氏は源氏に組みしており、箱王丸の父や祖父はそもそもが平家に組する一族で、それゆえに祖父の祐親は源氏に殺されています。父の仇を討つためとはいえ、その源氏の一派である北条氏を頼らざるを得なかったわけですから、胸中はかなり複雑だったはずです。

それほど父の仇を討ちたかったということなのかもしれませんが、このことは時政らの北条氏がのちに頼朝の息子たちを暗殺して鎌倉幕府の実権を握ったことと関係があるように思います。北条氏はこのころから既に源氏を見限っていたのかもしれず、箱王丸を利用してその側近であった工藤祐経らを排除しようとしていたのかもしれません。

ともあれ、箱王丸はこの時政に烏帽子親となってもらって元服し、曾我五郎時致(ときむね)と名乗るようになります。こうして、時政は時致だけでなく、兄の祐成とともに曾我兄弟の最大の後援者となりました。そして、その庇護のもと父の仇討ちが果たせる日を虎視眈々と待ち続けました。

建久4年(1193年)5月、鎌倉幕府を樹立した源頼朝は、富士の裾野で盛大な巻狩を開催しました。巻狩(まきがり)とは、鹿や猪などが生息する狩場を多人数で四方から取り囲み、囲いを縮めながら獲物を追いつめて射止める大規模な狩猟であり、この当時の流行りの遊興でもありましたが、神事祭礼や軍事訓練も兼ねていました。

工藤祐経は、治承・寿永の乱では武将としてたいした功績をあげたわけではありませんが、都で平家に仕えた経験と能力が買われて頼朝に重用され、1192年(建久3年)に頼朝が朝廷から征夷大将軍就任の辞令をもらった際にも、勅使に引き出物の馬を渡すという名誉な役を担っています。

この巻狩には工藤祐経も参加していましたが、曽我兄弟はこの巻狩りの最後の夜を狙っていました。深夜祐経の寝所に押し入った二人は、酒に酔って遊女と寝ていた祐経を叩き起こし、父の命を奪ったことに対する罪の口上を祐経に突き付けたあと、時致が箱王丸であったころに祐経自身からもらった「赤木柄の短刀」で見事に祐経にとどめをさしました。

このとき、二人はこれに引き続いて、頼朝の宿所を襲おうとしたといい、そのみちすがら祐経が仲介して鎌倉幕府の御家人となっていた備前国吉備津神社の神官なども殺害してます。

父のかたき討ちだけが目的であったはずなのに、頼朝まで襲撃しようとしたことについては、歴史の専門家の間でも??とされてきたようですが、祖父の祐親は源氏のために自害させられており、一族の昔年の恨みをはらそうした、と考えられなくもありません。

しかし、上述のように兄弟の後援者であった北条時政が黒幕となり、二人に頼朝を亡き者にさせようとしたと考えればその動機はよりポジティブなものになるはずです。しかし確固たる根拠があるわけではありません。

二人は騒ぎを聞きつけて集まってきた武士たちによって取り囲まれ、兄弟はここで10人斬りともいわれる働きをしますが、ついに兄祐成が源氏でも屈指といわれた武将の仁田忠常に討たれ、弟の時致も取り押さえられてしまいます。

騒動の後、時致は頼朝のもとに引っ立てられ、詮議を受けます。時致は頼朝の面前でも臆することなく、仇討ちに至った心底を述べたといい、その堂々とした態度をみた頼朝の側近たちの中からは、見事父のかたき討ちを遂げ、あっぱれだという意見も多く出ました。

このため、頼朝も一度はその助命を考えましたが、祐経の子で当時10才だった犬房丸が泣いて訴えたため、頼朝はついに時致の処刑を命じ、時致は梟首されました。

この祐経の子、犬房丸は、その後鎌倉幕府に仕えるようになり、姓を工藤から伊東へと変えて「伊東祐時」と名乗るようになりました。

68才で没するまで幕府御用人としてそつない一生を終えましたが、この人物の子孫はその後全国に広まり、工藤祐経の子孫が日向国へ下向して戦国大名の「日向伊東氏」となり、江戸時代にはその子孫が「飫肥(おび)藩」の藩主となりました。

また曽我兄弟の祖父の伊東祐親の子孫は、尾張国岩倉(現愛知県岩倉市)に移り住み、「備中伊東氏」を称するようになり、こちらの子孫は江戸時代の備中岡田藩主となりました。

伊豆に残った伊東氏の一族はこれ以後、あまりふるわなくなったようですが、その名は今も「伊東市」として残っており、伊豆の歴史を考えるとき、この曽我兄弟と工藤祐経などのかつての伊東一族の存在はなくてはならないものになっています。

ちなみに、曽我兄弟によって寝所を襲われた頼朝ですが、この事件の直後、しばらく行方不明になり、この間鎌倉では頼朝の消息を確認することができなかったといいます。

このとき、頼朝の安否を心配する妻政子に対して、巻狩に参加せず鎌倉に残っていた頼朝の弟の源範頼は、政子に「範頼が控えておりますのでご安心ください」という見舞いの言葉を書き送ったそうです。

ところが、この手紙をたまたま見てしまった頼朝は、この「範頼が控えている」という部分に難癖をつけ、自分を亡き者にして跡を乗っ取ろうと考えているに違いないと言い放ち、謀反の疑いありとして範頼を捕らえ、伊豆修善寺に幽閉し、のちに自害させています。

その後、頼朝の嫡男の頼家は第二代鎌倉幕府将軍になっていますが、北条氏らの陰謀によりこちらも伊豆に幽閉され、のちに暗殺。さらにその子の実朝も殺されています。こうして源氏の血はここで途切れることとなり、その後は北条氏による執権政治によって鎌倉幕府は永続していきます。

こうしたすべてのことが、この曽我兄弟のかたき討ちがあったことがまるで契機のようにそれ以降につぎつぎと起こっており、これが、私がこの項の冒頭で、この事件が伊豆の歴史だけでなく、その後の日本全体の歴史にも大きくかかわってくる事件であったと述べた理由です。

伊豆においては伊東氏や工藤氏は没落し、変わって北条氏が台頭するようになり、この北条氏は源氏の嫡流を駆逐して、その後の歴史を大きく変えてしまいました。

ちなみに日向に渡った伊東氏の一族には、後年、大友宗麟、大村純忠、有馬晴信らが送り出した有名な「天正遣欧少年使節」の主席正使としてローマに赴き、教皇に拝謁した伊東マンショがいます。この伊東マンショについてはまた機会あらば書いてみたいと思います。

また、日清戦争時に初代連合艦隊司令長官を務め、中国との「黄海海戦」を勝利に導いた元帥で海軍大将の「伊東祐亨」は、日向伊東氏の嫡流だそうです。

かつて伊豆を席巻した武将、伊東一族の血流は今も脈々と日本中のあちこちで息づいているはずです。もし「伊東」と名乗る方にあったら、ぜひ「ご先祖は?」と聞いてみてください。案外と伊豆、日向または岩倉出身の方かもしれません。