加速する時間

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年も押し迫ってきました。

今日は天皇誕生日ということで、この休日をクリスマスの飾りつけやら、年末年始の準備に有効に使おうという方も多いと思います。そんなせわしない年末に休日を与えてくださった天皇陛下の、なにやら徳を感じるような気さえします。

とはいえ、私はといえば、まだ年賀状の作成も終わっておらず、こんなブログを書いているくらいですから、大掃除やら年末年始の準備もままならず、少しでも行動力を伴った活動をしようかといった類の機運のかけらもありません。

そこへきて、先日の日曜日から月曜日にかけてこの別荘地内の草刈りに駆り出され、終日生い茂った樹木の伐採に奮闘してしまいました。おかげで筋肉痛になり、今ではかなり回復したものの、まだあちこち痛みにみまわれている、といった状態…

昨日の段階でもかなりあちこちの筋肉が痛かったのですが、しばらくできていなかった買い物にも出かけねば…ということもあり、タエさんと二人、山を下りてあちこちのスーパーに行ってきました。

すると……師走ということで、どこもかしこも年末年始用の食品やら大掃除の道具、飾りつけなどで店頭が埋め尽くされていて、あぁやっぱり今年も終わるんだな、と改めてしみじみと思った次第。そんな中、帰りのクルマの中で、助手席にいたタエさんがポソリ、といった言葉が妙に印象的でした。

曰く、「今年はいつの年にも増して、時間が過ぎるのが早かったような気がする……」

なるほど私も同じように感じていたことなのですが、同い年夫婦の二人はやはり同じくらいに年月が過ぎるのを早く感じとるようになっているのか、とこちらも改めてそう思ったわけです。

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そこで、少し調べてみたのですが、「ジャネーの法則」というのがあるそうで、これは主観的に記憶される年月の長さは年少者にはより長く、年長者にはより短く評価されるというものです。

19世紀のフランスの哲学者・ポール・ジャネという人が発案したものだといいますが、古今東西、昔から人は歳をとると時間の短さを感じ取るようになる、という感覚を誰しもが持っていたようです。

より物理的に言えば、これは生涯のある時期における時間の心理的長さは年齢の逆数に比例する、つまり時間の経過の感じ方は年齢に反比例する、という理論のようです。ジャネーの説明によれば、50歳の人間にとって1年の長さは人生の50分の1ほどであるのに対して、5歳の人間にとっては5分の1に相当するそうです。

よって、例えば、50歳の人間にとって1年の長さは人生の50分の1ほど、つまり1/50×365=7.3日なのに対し、5歳の人間にとっては5分の1。つまり1/50×365=73日となるわけで、この理論が正しければなるほど歳をとればとるほど、時間は短くなるわけです。

だとすると、80歳の人にとっての一年はわずか4.6日に過ぎないことになりますが、これからさらに年齢をとるにつけ、さらに時間の経過が短くなっていくことになるわけで唖然としてしまいます。

はたしてこれを喜ぶべきなのか、悲しむべきなのかですが、感覚的に人生で残っている時間が加速度的に減っていく、というのはやはり悲しい感じがします。

ただ、当然個人差はあるでしょう。「ゾウの時間、ネズミの時間」というのがあって、これは動物生理学を専門とする生物学者、本川達雄さんが唱えた説で、1992年に中公新書から同名の本が発行されています。

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人間を含めて、世の中にはいろんな大きさの生物がいますが、その大きさによって時間の経過も違うという説です。その理由として本川さんは、それぞれの生物によって心臓が1回打つのにかかる時間、呼吸するのにかかる時間、物を食べてからそれらが排泄されるまでにかかる時間、それから寿命にしても、動物によって異なることをあげています。

例えば、心臓が1回ドキンと打つ時間は、ヒトの場合はおよそ1秒ですが、ハツカネズミなどは、ものすごく速くて1分間に600回から700回であり、1回のドキンに0.1秒しかかかりません。ちなみに普通のネズミは0.2秒、ネコで0.3秒、ウマで2秒、そしてゾウだと3秒かかるそうです。

つまり、大きな動物ほど周期が長く、ゆったりしていることになり、これを体重との関係から考えてみると、体重が重くなるにつれ、だいたいその4分の1(0.25)乗に比例して時間が長くなるということが分かっているそうです。4分の1乗というのは分かりにくい数字かもしれませんが、関数電卓でルートを2回押せば答えが出ます。

大ざっぱに言えば、動物の時間は体長に比例すると考えてもいい、ということにもなるようで、いずれにせよ、体のサイズの大きい動物ほど、心周期も呼吸も筋肉の動きなどもゆっくりになっていきます。

われわれからみるとネズミはチョロチョロ、ゾウはのっしのっし、という動きになるわけであり、つまり、彼らにとっては、私たちが考えている「時間」の感覚は彼らとっての同じ「時間」ではない……

時間が体重の4分の1乗に比例するということは、体重が2倍になると時間が1.2倍長くゆっくりになる関係であり、体重が10倍になると時間は1.8倍になります。例えば、30gのハツカネズミと3tのゾウでは体重が10万倍違いますから、時間は18倍違い、ゾウはネズミに比べ時間が18倍ゆっくりだということになります。

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ビデオなどの映像を18倍ゆっくりスローモーションで再生すると、画像はほとんど動かないと言っていいくらいであり、逆に18倍の速度で早送りしますと、目にも止まらない動きです。したがって、ネズミからゾウを見たら、ただ突っ立っているだけで動かない、これは果して生き物だろうか、という風に見えているかもしれません。

逆にゾウからネズミを見たら、風のようにピューンといなくなってしまうように見えるのかもしれず、もしかしたら、ゾウなどはネズミなんて果してこの世にいるのか、気にもしていないのかもしれません。

現代のわれわれ人間社会では、時間というものを1秒とか1分、1時間、1日、1週間、1か月、1年・・・といったように、物理的、絶対的な単位を基準に考えますが、このように、自然界における時間、生物学的に見る時間は、別な概念で存在するということになります。

我々人間にもデブやらノッポ、小さい人大きい人がいるわけであり、人それぞれにも時間の経過の違いがあるのかもしれません。上の理論が正しければ、体が大きくて心臓がでかい人は時間の経過が短く感じることになります。だとすれば、歳をとってだんだんと短くなる時間は、デブになりさえすれば補正できるということなのでしょうか。

ところが、人の心拍数は、年齢が高くなるほど下がる傾向があるそうで、10代の男女の心拍数がだいたい70ぐらいなのに対し、80代の男性の心拍数は平均で61、女性は65にまで下がるそうです。

女性より男性のほうが加齢に伴う心拍数の低下が大きいようで、これからすると人は年齢を重ねるほど時間の経過を長く感じる、ということになります。しかも男性のほうが心拍数が少なく、その分より時間の流れをゆったり感じる、ということにもなるのかもしれません。

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こうなるとジャネーの法則正しいのか、ゾウの時間・ネズミの時間が正しいのか、よくわからなくなってきますが、あるいは加齢による心拍数の低下で長く感じるようになる年齢ではそれも感じることができないほど脳味噌はすでに老化しているので、相殺されてしまうのかもしれません。

しかし、歳を経た男性のほうがより時間を長く感じる、というのが本当ならば、あるいはデブになって心臓を大きくすることが時間を止めるのに有効ならば、デブで大柄の男性は普通の人に比べてより人生を有効に使えるかもしれません。年寄りを拝命するような高齢のお相撲さんなどは、さしずめその代表ということになります。うらやましい限りです。

ところで、今日のこの話を書いていて思い出したのですが、その昔、20代のころに読んだ小説に「リプレイ」というのがありました。アメリカ合衆国のSF作家、ファンタジー作家のケン・グリムウッドにより1987年にアメリカで出版されたSF小説で、記憶を持ったまま人生をやり直す男の話です。

そのストーリーはこうです。

経済的に成功していないラジオ局ディレクターで、43歳のジェフ・ウィンストンは、ある日、突然に心臓発作によって死を迎えます。しかし、次に目を覚ますと18歳の時点に遡っており、新しく人生をやり直すことになります。

彼は死ぬ前に見知っていた「未来の記憶」を存分に利用し、このやり直しの人生ではさまざまな成功を収めてその新たな人生を謳歌しますが、結局は同じ歳の同じ時刻に死を迎え、人生のやり直しを強制再開させられます。

小説では9回以上もこの「リプレイ」を繰り返しますが、その中で多くを学びつつも、やがては再び死んでいくことになる自分の人生に対して、自暴自棄と諦観に囚われます。しかし、その再生のある人生の中で同じく「リプレイ」を繰り返している女性を偶然みつけ、彼女との関わりの中で、改めて次の人生に向かい合うようになります。

しかし、最初は18歳に戻っていたものが、だんだんとリプレイを繰り返すたびにその生まれ変わり時の年齢が上がってきます。つまり、リプレイ期間が次第に短くなっていく、というわけで、最後に死ぬ年齢は43歳と決まっているわけですから、だんだんとその人生は短くなっていきます。

リプレイを繰り返していくたびに少なくなっていく残りの人生の中で、ついに彼は、究極の絶対死、つまり「リプレイの終了」がやがて訪れることを知ります。果てしない人生を持ちながらも、やがては絶対死を迎えることを知った彼は、最後にある行動をとりますが、それは…

という話なのですが、このクライマックスはまだ読んだことがない人のためにとっておくとして、この話は実に寓意に富んでいて面白い話です。

多くの人がこの話を読んで自分の人生に重ねて考え込んでしまうのではないでしょうか。もしある年齢で死ぬとして、それまでに何ができるか、あるいは同じ人生を繰り返すとすれば何をするか、は誰しもが考えることですが、このSF小説も読んだあなたもそうした志向を持つことでしょう。

2015-62681988年度の世界幻想文学大賞を受賞したほどの名作で、その後、いわゆる「ループもの」と呼ばれる主としてSF小説でポピュラーになった分野の先駆けともなりました。この本は日本でもベストセラーになり、また海外では数々の映画やドラマの原作にもなりました。

残念ながら原作をそのまま忠実に扱った映画は作成されていませんが、「ゴーストバスターズ」シリーズの脚本家として知られるハロルド・ライミスが、メガホンをとって製作してヒットしたコメディ映画「恋はデジャ・ブ(1993年)」の原題はこの作品ではないか、といわれているようです。

作者のグリムウッドは、ハーバード大学出のインテリで、大学では心理学を学び、リプレイの主人公と同じように、ロサンゼルスのラジオ局で編集者として勤務する傍ら小説を執筆していました。

「リプレイ」で成功を収めてからは専業作家になりましたが、本作の発表から16年後の2003年、わずか58歳で心臓発作により亡くなっています。死の直前まで「リプレイの続編に取り組んでいたそうですが、残念ながら我々はそれを二度と読むことはできません。

晩年、「ディープ・ブルー(1995年)」というイルカの物語を出版しています。イルカの知性への愛着、イルカとの出会い、イルカ同士のコミュニケーションについての研究などから生まれた作品で、イルカの知能を解明しようと奮闘する海洋生物学者を描いたものでした。

グリムウッドはマグロ漁の実態を取材するため、サンタバーバラのマグロ漁船に正体を隠して船員として乗り組んでいたそうです。それほどの熱の入れようでこの作品に取り組んでいたわけですが、残念ながらこの意欲作が遺作となりました。

が、「リプレイ」はいまだに版を重ねているようです。新潮文庫でも版を重ねているのではないでしょうか。2005年には「本の雑誌が選ぶ30年間のベスト30」第5位にも入っています。中古本もたくさん出回っているようなので、このブログを見て面白そうだ、と思った方はぜひブックオフで探してみてください。

私と同じように、まだ年賀状を書いていない人、忘年会やら大掃除で忙しい人も、正月になって一息つくころに読んでみるといいでしょう。年のはじめにこれからの人生を考えるうえでもよい刺激になるかもしれません。

このようなループものの文学作品では、たびたびループが一巡することで物語冒頭の場面の意味が大きく変わったり、ねじれた因果関係が明らかになったりします。また、劇中劇と本編の内容が入れ替わるような入れ子構造が描かれたりする、あるいは循環や繰り返しが扱われたりすることから、よく「メビウスの輪」にもたとえられます。

帯状の長方形の片方の端を180°ひねり、他方の端に貼り合わせた形状の図形ですが、ご存じの方も多いでしょう。

人生の時間もこのメビウスの輪と同じように、だんだんと短くなっていきつつも、最後にはどこかでまた反転し、また元に戻って新たな人生を始めるようになっているのかもしれません。

輪廻転生というものはあるいはそういうものなのかな……などと考え始めたりしているところですが、先日来の疲れもあって、考えがまとまらないので、これについてはまた別の機会に書いてみたいと思います。

そうこうしているうちに、どんどんと時間が過ぎていき、その分持ち時間がまた減っていっているようです。年末までにあとどのくらい時間の短縮は加速しているでしょうか。また人生の反転までの時間はあとどのくらいあるのでしょうか。

いっそのこと、若いみなさんの時間を少し、分けていただけないでしょうか。

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人類 or 神?

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今日は、9月の9日。

ノストラダムスの終末の予言の日は、1999年9月9日とされていました。

ミシェル・ノストラダムス(Michal Nostradamus)は、1503年12月14日にフランス・プロヴァンスで生まれ、1566年7月2日に、62歳で亡くなった、ルネサンス期フランスの医師、占星術師、詩人です。また薬膳料理研究の著作も著しており、料理人、というか現在の薬剤師のようなこともしていたようです。

彼の「終末予言」は、著作である「ミシェル・ノストラダムス師の予言集」に収められていたものです。この予言は、「四行詩」の形で綴られていました。四行のみで作られた詩で、漢詩や日本の七言絶句のようなものです。

ところが、こうした言葉を集約した詩にはよくありがちなことで、その内容はいかにも抽象的かつ難解であったため、後世様々に解釈され、その「的中例」が信じられて広まりました。併せて、ノストラダムス自身の生涯にも多くの伝説が積み重ねられてゆき、結果として、信奉者たちにより「大予言者ノストラダムス」が祭り上げられることとなりました。

同時に、この予言は様々な論争を引き起こしてきましたが、日本におけるブームは、1973年に祥伝社から発行された五島勉の著書から起きました。

「フランスの医師・占星術師ノストラダムスが著した「予言集」について、彼の伝記や逸話を交えて解釈する」という体裁をとっていましたが、1999年7の月に人類が滅亡するという解釈を掲載したことにより、公害問題などで将来に対する不安を抱えていた当時の日本でベストセラーとなり、版に版を重ねた上に、都合10シリーズも関連本が出されました。

大ベストセラーになったこの本は、1980年代以降の新興宗教に少なからぬ影響を与えました。この時期の新興宗教には、自分たちの教祖様こそが、上記の世界を救う「別のもの」であると主張する教団が現れ、これらの影響がその後のオウム真理教による地下鉄サリン事件発生の遠因になったと指摘する人もいます。

また、キリスト教やユダヤ教の終末論とはかけ離れた終末思想を生み出し、深刻に受け止めた若い世代の読者が、世界や日本の未来のみならず自己の未来をも暗澹たるものと考えてしまい、刹那的な行動に走ったり、将来設計を怠るなどの問題も起きたといわれます。

しかし、26年後の1999年には結局何も起こりませんでした。大予言熱は冷め、巷ではあれはいったいなんだったんだ、というムードが漂いましたが、16年を経た現在でも、いやいやノスタルダムスの大予言はまだまだある、として2○×○年にさらに次の滅亡が起こる、などと言いふらし、柳の下の二番目のどじょうを狙う輩が跡を絶ちません。

そもそも、このノストラダムスという人物がどういう人だったか、ですが、もともとは平凡なユダヤ系フランス人の家系の商家に生まれ、自身も商売人だったようです。1503年に生を受けたのち、アヴィニョン大学で教養科目学んだあと、代々の商家を継ぐ予定でした。

しかし、学問に対するモチベーションが高かったのか、その後モンペリエ大学で医学を学ぶとともに薬剤師の資格を得ました。このとき博士号をとったという話もあるようですが、裏付ける資料はありません。卒業後も医師、というよりは薬剤師としての活動が多かったようです。

しかし、南仏でのペスト流行時には、積極的に治療にあたり、伝説では、この時に鼠がペストを媒介することを見抜き、鼠退治を命じたといいます。また、伝統的な治療である瀉血(人体の血液を外部に排出させる治療法)を否定し、かわりに酒や熱湯で住居や通りを清め、更にはキリスト教では忌避されていた火葬すらも指示したとされます。

後年それまでの経験などを踏まえて「化粧品とジャム論」などを著しました。これは、二部構成の小論集であり、第一論文は顔を麗々しく、一層美しいものにするための美顔料や香料の作り方が綴られ、第二論文では、蜂蜜、砂糖、濃縮ワインなどをたっぷり使ったジャムの作り方などの手ほどきを示すものでした。

「プロヴァンス州サロン・ド・クローに住む医学博士ミシェル・ド・ノートルダム師が新たに編纂し、公刊されたもの」と序文に記されており、人々は「医学博士」というこの紹介を信じました。このため、現在ではハウトゥー物と言われてもおかしくないようなこの本も、薬学本として喧伝されて人気を博し、16世紀の間に10回以上版を重ねたといいます。

47歳になった1550年頃からは、占星術師としての著述活動も始め、上の予言集などを著し、当時大いにもてはやされました。王妃カトリーヌ・ド・メディシスら王族や有力者の中にも彼の予言を評価する者たちが現れ、1564年には、国王シャルル9世から「常任侍医兼顧問」に任命されました。が、その2年後、病気により62歳で没しました。

くだんの「予言集」ですが、実は出版されたものは一冊ではなく、かなりの多数に及び、出版場所も、リヨン、マルセイユ、パリなど6都市に及びます。ただ、生前に刊行されていた予言集のメインタイトルは、いずれも「ミシェル・ノストラダムス師の予言集」であり、どうやら一番古いものは、1555年にリヨンで出版されたもののようです。

現存しているものは、3セクションからなり、最初のセクションは、百詩篇第7巻42番まで、2番目のセクションは、第10巻100番までで、第3セクションは補遺ほかです。

これ以後に発刊されたものは、更に内容が多岐にわたっており、これをノスタルダムスが実際に著作したのか、各出版社が勝手に補間したものかどうかはわかっていません。初版本とされるものすら、本当にノスタルダムスが著述したかどうかはわかっておらず、つまり、多くの「予言集」そのものが、捏造された可能性もあります。

いわゆる、ブームのようなものであり、このとき、その信奉者によって「伝説」になる部分がかなり脚色されたと考えられ、どこまでが本当にノスタルダムスの予言だったのかは、はっきりとはわからない、というのが実情のようです。

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その後、「ノストラダムスの大予言」に対する学術的な検証は長らくほとんど行われてきませんでしたが、現在では、こうした伝説を極力排除した彼の生涯を洗い出そうとする動きが出てきています。

彼が予言観や未来観を形成する上で強い影響を受けたと考えられる文献なども発掘されてきているといい、彼が一体何を言いたかったのか、実態は何者だったのか、などの真実が、徐々に明らかになっているといいます。

それらによれば、ノスタルダムスという人は、呪術者・占星術師といったダークサイドの面もある一方で、科学者として政治家として宮廷へ大きな影響を与える人物としての側面もあった、ということがだんだんとわかってきているようです。

さらに、そうした知見を踏まえた上で、ルネサンス期の一人の人文主義者としてのノストラダムス像の形成や、さらに、彼の著書の内容の「文学的」な面での再評価などが、少しずつ行われつつあるようです。

彼が創作した四行詩を、芸術的に評価しようという動きがあり、けっして予言などではなく、文芸ではなかったか、というわけで、そうした史実も知らずに、やたらに終末だ、この世の終わりだ、と騒ぎ立てるのはそろそろやめにすべきかと思います。

しかしながら、人類は昔から、ノスタルダムスの大予言のように、歴史には終わりがあり、それが歴史そのものの目的でもあるという考え方をしたがるようです。この考え方は実は世界中にあり、これらを総称して「終末論」といいます。

社会が政治的、経済的に不安定で人々が困窮に苦しむような時代に、その困窮の原因や帰趨を、神や絶対者の審判や未来での救済に求めようとするのは、どこの文化でも宗教一般に見られ、ユダヤ教からキリスト教、イスラム教、ゾロアスター教といった一神教においてのみならず、仏教などの宗教などにおいても同様の考え方があります。

しかし、この「終末」という基準を、個々人の死の意味ではなく、社会全体にとっての最後のとき、また民全体に対する最後の審判、あるいは「選ばれし者」のみが選別救済されるとき、と定義するならば、数多くある終末論は本質的には同一のものです。

ただ、歴史には終わりがあり、それが歴史そのものの目的でもあるという考え方であり、この「歴史」とは、地球上に住まう、我々人類ありきの定義です。ところが、宇宙というものは地球だけで成り立っているものではなく、未だ確認すらされていませんが、仮に宇宙人がいるとすれば、彼等にとっても歴史があり、また終末論があるはずです。

従って、未知の生命体も含めて宇宙全体の終焉を論じるのが、本来の終末論であるべきであり、そうした意味では過去に延々と論じられてきた地球だけの終末論は、派生的、部分的な論議にすぎません。

宇宙に関する十分な知見がなかったころは、人々は、こうした狭い範囲の終末論の中でだけ、踊らされていた、といっても過言ではないでしょう。

近代のように科学が発達した時代においては、人類は宇宙に飛び出して多くの知見を得、それがさらに宇宙物理学が発展させており、その中でこの世の終わりとはすなわち、「宇宙の終焉」である、と認識されるようになっています。

宇宙はビッグバンから始まったという仮説は、多くの科学者により合意を獲得しています。ところが、本当に宇宙に終焉があるのか、といえばこれについての議論は喧々諤々です。

その終焉は、宇宙の質量、エネルギー、宇宙の平均密度、宇宙の膨張率といった物理的性質に依存しているとされ、さまざまな科学理論により、さまざまな終焉が描かれており、存続期間も有限、無限の両方が提示されています。仮に無限、というのがその答えであったとすれば、そもそも宇宙の終焉などというものはない、ということになります。

が、現時点において、これは結論が出るような議論ではなく、いずれこの宇宙全体に存在する物質のうちの9割以上を占めるといわれるダークマターや、ブラックホールといわれるような未知の天体の正体などがはっきりとわかるときまで結論は持ち越されるでしょう。我々が生きている間は解き明かされない疑問なのかもしれません。

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一方、地球だけの議論に立ち返り、我々地球人の未来だけに限定すれば、科学が発達した現代における終末論はもっと別のビジョンがいろいろ存在しうるようです。

人類のその未来においては、人類の技術開発の歴史から推測され得る、しかも、正確かつ信頼できる未来モデルの「限界点」を見出すことができる、とされ、これが現代で言うところの真の終末論だ、とする学者も多いようです。

そのひとつを「技術的特異点」といいます。技術的特異点では、「強い人工知能」や人間の知能増幅が可能となったとき出現する、とされます。

未来研究家、これを「フューチャリスト」といいますが、彼等の研究によれば、特異点の後では科学技術の進歩を支配するのは人類ではなく強い人工知能や人類を超越した存在であり、従ってこれまでの人類の傾向に基づいた人類技術の進歩予測は通用しなくなるといいます。

この概念は、アメリカの数学者ヴァーナー・ヴィンジと同国の発明家で実業家でフューチャリストのレイ・カーツワイルにより初めて提示されました。

「これまでの進歩予測は通用しなくなる」、というのはどういうことかというと、彼らは、まず、ある方法によって、人類の科学技術の進展は、生物学的限界を超えて加速すると予言しています。その方法とは、「意識を解放する」ことであり、意識解放を実現する方法としては、人間の脳を直接コンピュータネットワークに接続することが考えられます。

たとえば、現在我々が日常行っているように、手元にあるパソコンを巨大なサーバや中央コンピュータに接続するのと同じように、我々の脳を巨大なネットワークにつなげます。つまり、人の脳の処理能力を、そのネットワークに委ねることが、意識解放につながる、という考え方です。

これによって、個々の計算能力が高まる、といったこともありますが、多くの人々のデータがネットワークで共有されることから、膨大な知識を共有することができるようになります。現在でも既にインターネットによって多くの知識が共有されていますが、「意識解放」のレベルはそれを遥かに超えるようです。

しかし、その一方では、その基本能力は現在の人類に比べて非常に優れたものになるため、現代の感覚ではもはや人間とは呼べないようなものになる可能性があります。

こうした手法によって、人間の身体と認知能力を進化させ、人間の状況を前例の無い形で向上させようという思想のことを、「トランスヒューマニズム」といいます。そして仮にこのような新しい人類ができあがったとすれば、それは人類の新しい進化系です。そして、その新しい人類のことを「ポストヒューマン」と呼びます。

ポストヒューマンとは、言い換えればAI(人工知能)でもあり、その「新しい人類」が形成する文化は、我々現生人類には理解できないものへと加速度的に変貌していく可能性があります。そして、それが実現する時代こそが、「技術的特異点」であり、科学上におけるひとつの到達点、終末である、というわけです。

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こうした特異点を肯定的に捉えその実現のために活動しようと考えている人は、この世界中にゴマンといます。AI研究者は無論のこと、脳科学者もそうであり、また殺人ロボットを開発して戦争に使おうとする軍事関係者もまたしかりです。

技術的特異点の概念を提唱したヴィンジは、こうして形成された超人間的な知能が、彼らを作成した人間よりも速く自らの精神を強化することができるであろうとしています。

「人より偉大な知能が進歩を先導する時、その進行はもっとずっと急速になるだろう」と彼は言い、自己を改良することができるほど優れた知性が形成されるまでの時間は意外に短く、かつ短時間に大幅な技術の進歩を生み出すだろう、と予測しています。

しかし、その一方で、特異点は危険で好ましくなくあってはならないと考える人々もおり、実際に特異点を発生させる方法や、特異点の影響、人類を危険な方向へ導くような特異点をどう避けるかなどが議論されています。

例えば、オーストラリアのAI研究者、フーゴ・デ・ガリスは、AIが人類を排除しようとした場合、人類はそれを止めるだけの力を持たないかもしれないといます。また、このほかよく言われる危険性は、分子ナノテクノロジーや遺伝子工学に関するものであり、これらの脅威は特異点支持者と批判者の両方にとって重要な問題でもあります。

これはどういうことかといえば、分子ナノテクノロジーとは、人間の器官の機能をコンピュータなどで読みとり、再設計したりするものですが、この他にも、遺伝子工学、精神薬理学、延命技術、ブレイン・マシン・インターフェース、進化した情報管理ツール、向知性薬、ウェアラブル・コンピューティングなどがあり、これらを包含する技術を指します。

多くの特異点論反対者はこれらのナノテクノロジーが、人に取って代わってしまう危険性を指摘しています。「ナノ」のことばが示すように、非常に微細な異分子が、人類が知らない間に、人体に侵入して人に成り代わってしまう、というわけで、いわばこれは、ウィルスが人の体に侵入し、本来の自然細胞に成り代わってしまうのと同じです。

このため、反対論者の多くは、人工知能の研究をナノテクノロジーよりも先行させるべきだと主張しています。人工知能の開発によって、ナノテクノロジーの暴走を抑止することができる可能性も高く、特異点に到達以前に、安全で制御可能なものとすることができる、というわけです。

分子レベルのナノテクノロジーの発達は、劇的に寿命を延ばす技術に発展する可能性があり、人体冷凍保存も含めてより進歩した未来の知能増進医療に進化する可能性があります。さらに増進した知能から得られる技術として不死や人体改造を受けられる可能性も出てきます。

が、暴走をして人類を滅ぼしてしまう可能性もあるわけでもあり、諸刃の剣の側面を持ちます。それだけに、その暴走を防止する上でも、人工知能の開発のほうを優先すべきだとする科学者達の考え方は理解できます。

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こうしたことから、特異点到達のための研究に積極的な組織は、おしなべて人工知能研究を優先する傾向にあるようです。

例えば、特異点研究の先鋒といわれる、カリフォルニア州のバークレーにある、Machine Intelligence Research Institute (MIRI、特異点研究所)は、2005年に出版した “Why Artificial Intelligence?” の中で、同様に人工知能研究をナノテクノロジー研究よりも優先すべきである、と書いています。

人工知能によって、人類を超える知性を創造する方法は、基本的には、人間の脳の知能増幅と人工知能の2つに分類されます。

しかし、その手法は様々であり、ナノテクノロジー以外にも、バイオテクノロジー、向知性薬(向精神薬の一種)、AIアシスタント、脳とコンピュータを直結するインターフェイス(ブレイン・マシン・インタフェース)、精神転送などがあります。

また、ニューヨーク在住の科学史家、ジョージ・ダイソンは、自著 Darwin Among the Machines の中で、十分に複雑なコンピュータネットワークが群知能を作り出すかもしれず、AI研究者達は、改良された計算資源により、将来的に知性を持つのに十分な大きさのニューラルネットワークを作成することを可能にするかもしれないという考えを示しました。

誰よ、という感じなのですが、ダイソンは、学術機関、企業、および技術の会議で広く講演するアメリカでは有名な作家です。コンピューティングの歴史に詳しく、アルゴリズムと知能の開発、通信システム、果ては宇宙探査、海洋開発に及ぶまで広い範囲の著述があります。

が、この創造物は、人類が進化したものではなく、あくまでコンピュータそのものの進化形であって、人類そのものの躍進とはいえませんから、ひとまず脇へ置いておきましょう。

こうした一連の特異点到達のための人工知能研究の中でも、とくに最先端を行っている、とよく言われるのが「精神転送」です。人工知能を作る別の手段として提案されているもので、新たな知性をプログラミングによって創造するのではなく、既存の人間の知性をデジタル化してコピーすることを意味します。

コピーをとる、ということはすなわちまったく同じものである、ということであり、つまりは人間の精神そのものです。従ってコンピュータの世界で実現するものだとしても、上記のような進化したコンピュータネットワークとは異なります。

人間の知性のコピー……それが果たして実現可能かどうか、これも気になりますが、この命題もひとまず脇に置いておきましょう。

技術的に可能かどうかは、将来に渡っての研究がどう進むかによっても違ってきますが、既に非常に単純な生物、例えばバクテリアのような単純なものの「志向性(知能ではなく)」のようなもののコピーは可能といわれており、人間の知性も将来に渡ってコピーできる時代が来るかもしれません。

ただ、精神転送の実現によって生まれた超人間的知性の中には、人類の生存や繁栄と共存できない目的をもつものもあるかもしれません。例えば、知性の発達とともに人間にはない感覚、感情、感性が生まれる可能性があります。

精神転送は、こうした「副産物」を生み出す可能性もあるわけですが、人工知能の信奉者たちは、特異点が潜在的に極めて危険であることを認めた上で、人間に対して好意的なAIを設計することでそのリスクを排除できる、と考えているようです。

アイザック・アシモフのロボット工学三原則は、人工知能搭載ロボットが人間を傷つけることを抑止しようという意図によるものでした(ただし、アシモフの小説では、この法則の抜け穴を扱うことが多いようですが)。同様にリスク排除のための、何らかの原則機構が新しい知性の中に埋め込まれるようになるのかもしれません。

こうした精神転送などによって実現した人工知能によるポストヒューマンは、「その基本能力は現在の人類に比べて非常に優れていて、現代の感覚ではもはや人間とは呼べない」ものと定義されます。ただ、現時点においては、まだ仮説上の「未来の種」にすぎません。

一方、ポストヒューマンは、過激な人間強化と自然な人類の進化の組合せによって「生み出される」と説明されることもありますが、この場合、このポストヒューマンと他の仮説上の人間ではない「新たな種」とは明らかに違います。例えば機械の塊である、いわゆるロボットであり、単に人間を「模した」にすぎないアンドロイドなどです。

その最大の相違点は、ポストヒューマン自身は、どんなに形を変えてもそもそも人間であり、新しく創造されたロボットやアンドロイドは人ではない、ということが、「厳然たる事実という仮定」です(へんな言い方ですが)。

その形態としては、人間と人工知能の共生、意識のアップロード、サイボーグなどいろいろ考えられますが、ある程度人の片りんを残していることが大前提です。

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と、いいながら、その一方では、ポストヒューマンは、現在の人間の尺度を遥かに超えた存在となる可能性もあることから、現在で言うところの、「神」のような存在になるとする考え方もあります。

ただしこれは、一部のサイエンス・フィクションにあるように、人間の能力のレベルが格段に上がる、といった単純な話ではなく、ポストヒューマンの知性や技術があまりにも高度で洗練されているため、将来的には、一般の人間が見てもその存在の意味すら理解できないだろうということです。

それはどんな形をしているかもわかりません。炎のようなものかもしれず、幽霊のようなものかもしれません。あるいは巨大な山のような形態をしているかもしれず、はたまた目に見えないものかもしれません。とどのつまりは、同じく目に見えない、実体のない、神様のようなものなのかも。

人工知能の技術を重ねに重ねて、ついに出来上がった新たなポストヒューマンは、実は神だった、というのは皮肉なことです。人類が進化したあげくに、神になる???などということが果たして実現するのでしょうか。もしかしたら本当に実現する話なのかもしれませんが、それならいったい神とは何なのかわからなくなってしまいます。

アメリカ合衆国の実験心理学者、認知心理学者で、ハーバード大学で心理学教授をつとめており、大衆向け科学書を数多く執筆している、スティーブン・ピンカーは、テセウスの船のパラドックスの例をあげて、こうしたポストヒューマンというものの存在に疑問を呈しました。

これは、ある物体(テセウスの船)の部品のひとつひとつを新しいモノに置き換えていき、最後に全ての構成要素(部品)が置き換えられたとき、それは最初の船と基本的に同じである(同一性=アイデンティティ)と言えるかどうか、という命題です。

そして、同様に、ピンカーによって提唱された仮説は以下のようなものです。

外科手術であなたのニューロンの1つを同等の入出力機能を持つマイクロチップと置き換えたとします。あなたは以前とまったく変わらないでしょう。そしてもう1つ、さらにもう1つと置換を続けていけば、あなたの脳はどんどんシリコンの塊りになっていきます。

各マイクロチップが正確にニューロンの機能を模倣するので、あなたの行動や記憶は以前と全く変わりません。はたして違いに気づくでしょうか? 死んでいるように感じるでしょうか? あなたのものではない意識が入り込んだように感じるでしょうか?

実はそうした技術は既に完成していて、あなたの周りに、もし「神がかった」人物がいるとしたら、その人は案外とこうして誕生した「神」なのかもしれません。あるいは、我々自身も既にもう、知らず知らずしてポストヒューマンとして暮らしていたりして。

どうでしょう。どうも最近頭が固くなっている、と感じているあなた。もしかしたら、置き換えられたシリコンの頭脳が劣化しつつあるのかもしれません。一度病院に行って検査をしてもらってください。

もっともその病院がどこにあるのかを探すのが大変でしょうが……

2015-7